第19話 打算
専務様がうちに来た時に言ってた言葉。
ずっと意味が分からなかったけど、次の日、その次の日と、日にちが経つにつれ、私も周りが見えるようになってきて、そしてようやく気付いた。
男性社員が、やたらと私に近づいてくる。
しかも、航ちゃんがいない隙を狙っているような気がする。
航ちゃんは、男性社員が私に質問をしてくると、私に答えさせない。にっこりと柔らかな笑みを浮かべ、私の代わりに全部その質問に答えてしまう。
「北里がいると、優香ちゃんと喋れないからなあ。嫌なのかな、他の男と優香ちゃんが喋るの」
そう笑うのは、矢島さん。
私は他の人はまだ苦手だけど、矢島さんとは何となく肩の力を抜いて話せるようになってきた。
気さくな矢島さんの雰囲気が、緊張しがちの私をほぐしてくれていたのかもしれない。
私がこの会社に入れてもらって、一週間が過ぎようとしていた日だった。
航ちゃんは今、お客さんのところに出ている。営業だもの、私にずっと掛かりきりになる訳にはいかない。
だけど、ちゃんとテキストを用意しておいて、
「俺が戻るまでに、これを終えていなかったら、どうなるか分かってんだろうな」
なんて脅し文句を言い、私を十分ビビらせてくれた。
最初のうちは集中して頑張っていたけど、でも少し疲れてきて、ラウンジで一息入れようと缶コーヒーを飲んでいた。
そんな時に、一足早く戻ってきた矢島さんが私に気付き、隣に座ってささやかなお喋りを始めた時のことだった。
矢島さんの言葉に、私は缶コーヒーを両手で包み込みながら、苦笑を浮かべた。
「航ちゃん……じゃなくて、北里さんは私が妙なことを言うのを心配しているんだと思います」
そう答えると、矢島さんは目をぱちくりさせて私を見下ろした。
その視線に恥ずかしくなりながら、私はしどろもどろに応えた。
「え、ええと、私ってトンチンカンなことをよく口走っちゃったりするんです。だから、それで北里さんにも迷惑掛けちゃうと思うし、だから……」
「優香ちゃんって、面白いね」
突然私の言葉を遮り、矢島さんはそう笑った。
びっくりしている私に、矢島さんはくすくすと笑いながら、私を覗き込んだ。
「なるほど、これじゃ北里も心配だよね」
「え?」
「そっかそっか、うんうん」
矢島さんは一人納得したように頷いていたけど、ふいに表情を改めて私をもう一度見下ろした。
「ねえ、優香ちゃん」
「はい?」
「今、お付き合いしている人とかいるの?」
突然のその言葉に、私は息が詰まるかと思うほど、驚いた。
そして実際、大きく咳き込んでしまい、矢島さんは慌てて私の背中を撫でてくれた。
「げっ、げほ、げほっ、……ご、ごめんなさい、大丈夫です……」
「ごめん、急にヘンなこと言って。驚いたよな、ごめんね」
矢島さんは申し訳ないって顔で、私の背中をまだ撫で続け、そして私の咳が止まるのを待ってくれて、そして。
「あのさ、優香ちゃん」
「は、はい?」
「俺と付き合ってくんない?」
―――頭の中が、真っ白になった。
何を言われたのか、分かんない。
矢島さんが、にこにこと何かを言葉にしてるけど、それの全てが頭に入んない。
茫然自失って、こういうことなんだって、はっきりと分かった。
突然のその言葉に、私は嬉しいなんて気持ちがちっとも湧かなくて、むしろ何でだろう。
この優しそうな矢島さんが、とても怖くなった。
そんな言葉を、簡単に口にする矢島さんが、とても怖かった。
私のこと、何も知らないくせに。
私がドン臭くて、気持ちをうまく伝えるのがヘタで、拒否するってことも苦手で。
困り果てると、すぐに泣いちゃう私の性格、何一つ知らないくせに。
なのに、簡単に「付き合って」って言う矢島さんが、信じられなかった。
「……優香ちゃん?」
心配そうに私を覗き込む矢島さんに気付き、私ははっとして顔を上げ、慌てて首を振った。
「ごめんなさい、何でもないです、すみません……」
「そう、良かった。返事は今すぐでなくてもいいんだ。考えておいて」
矢島さんは私の肩をぽんと叩き、立ち上がって微笑んだ。
考えておいてって……何を?
そう思った私だけど、手を振る矢島さんに頭を下げ、まだぼーっとしている頭を何とかすっきりしようと、残っているコーヒーを一気に飲んだ。
でも、……どうしよう。
すっきりするどころか、突然の思いがけない出来事に、むしろ段々気持ち悪くなってきた。
ダメだ。このままだと、最悪の顔を航ちゃんに見せることになる。
吐いてしまおう。そしたら、今よりもきっとマシになる。
口元に手を当て、トイレに駆け込み、胃にあるものを全て吐いた。
私って昔からこう。
緊張したり、予想外の出来事があると、心と身体が追いつかなくて、すぐに気持ち悪くなっちゃう。
やだな、こんな私の性格。大嫌い。
本当に、私……大嫌い。
浮かんだ涙を拭い、口をゆすいでトイレから出ると、さっき私がいたラウンジから、小さな男の人の話し声が聞こえた。
矢島さん……?
立ち聞きするつもりなんて無かった。そんなこと、するつもりなんて全然無かった。
だけど、『優香ちゃん』という私の名を口にした時に感じたのは、揶揄するような響きで、『北里』って名を呼んだときには、忌々しげな雰囲気を感じて。
私は心臓の鼓動が周りにも聞こえちゃうんじゃないかってくらい、バクバクしながら、音を立てないように、そっとラウンジに近づいた。
何の話……?
聞かないほうがいい。絶対聞かないほうがいいに決まってる。後悔するに違いない。
だけど、足が止まらなかった。
「……お前も悪いヤツだな。あの子、すげえピュアっぽいじゃん。それすらも利用するかね」
「ばーか、そんなん関係ねえよ。北里をギャフンと言わせることが出来りゃ、それでいいんだよ。ショックで営業の成績落ちろっての。ムカつくんだよ、あいつ」
「で、どうすんの。優香ちゃん、お前に惚れたら。ああいうタイプ、めちゃくちゃ手が掛かんじゃね?」
「くっ、まともに俺が相手すると思う? やだよ、あんないかにも『処女です』みたいな女。面倒くせえ。ヤッたらポイ捨て。当然だろ」
「うわっ、悪い男―!」
……やっぱり聞かなきゃ良かった。
どうしよう、私、これからどんな顔で矢島さんに会えばいいんだろう。
私、面倒くさい女なんで、話しかけないで貰えます?
そう言えるかな。言えるように、努力しなくちゃ。
じゃなければ、航ちゃんに迷惑が掛かる。矢島さん、航ちゃんに対抗するために私を利用するつもりだったんなら、私が出来ることって言ったら―――…
ショックって大きすぎると、涙も出ないんだ。
心が完全に凍りついたように、冷え切っている。
このまま私、感情が何も無くなってしまうんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら、ラウンジから背を向け、俯いたまま数歩歩いたところで、どんと壁にぶつかった。
壁? 違う。暖かい手が、私の肩に掛かってる。
そして嗅ぎなれてしまった香りが私を包む。
顔を上げると、そこに魔王様降臨どころじゃない。阿修羅めいた形相を浮かべた航ちゃんがそこにいた。
「ひっ……! こ、こうちゃ……!」
言葉にならない私の肩をがっしりと掴んだまま、航ちゃんは眦を上げ、凄まじく恐ろしい、低く地獄の底から湧き上がるような声を上げた。
「……優香」
「はっ、はい……」
「このままデスクに戻れ」
「で、でも、こ、航ちゃんは……」
「定時まで、あと何時間ある」
突然の航ちゃんのその言葉に、私ははっとして腕時計を目にした。
「に、二時間……」
「そうか。それまでには戻る。もし俺が戻らないまま定時を過ぎたら、車で待ってろ。いいな」
そう言うや、航ちゃんは自分の鞄を私に預け、そして私の背中をぽんと押した。よたよたと数歩歩き始めた私は、やっぱりそれでも気になって、途中振り返ると。
ま、マジですか!!
背中を向けていた航ちゃんが、右肩をぐるぐる回しながら、今まさにラウンジに向かおうとしているところだった。
け……喧嘩!? 嘘でしょ、殴り合い!?
止めなくちゃと、駆け出そうと足を踏ん張った私に、航ちゃんの声が流れてくる。
「早く行け」
……止められなかった。
航ちゃんが、私を思ってしてくれる行動。私をそれだけ大事に思ってくれているから、だから……だけど。
私は生きた心地がしないまま、何も手につかないまま、顔面蒼白になりながら、定時を迎えた。
航ちゃんは、まだ戻らない。
「あれ、優香ちゃん、まだ帰らないの?」
そんな声を掛けてくれる営業の人に、私は小さく頷きながら、だけど航ちゃんの言いつけを思い出した。
車で待ってろ。そう言ってた。
のろのろと帰る準備をして、航ちゃんの車の中で待ち続けた。
喧嘩、しちゃったんだろうか。
殴り合いの喧嘩なんだろうか。航ちゃん、喧嘩強いんだろうか。もしそうでも違うんでも、凄く嫌だ。
航ちゃんが怪我をするところ、見たくない。
私のせいだ。
私がこの会社に入ったばかりに、今までうまくやっていた航ちゃんに迷惑を掛けてしまった。
私のせいだ……
ただ、後悔の念が、私を襲い続けていた。




