第18話 戸惑い
専務様は、怒り狂う航ちゃんを無視し、そのまま私の部屋に居座った。
マジで!? 会社であれだけ緊張したのに、家に帰ってまで専務様がいたら、心臓がいくつあっても持たない。
私は段々顔が強張り、身体もついでにカチコチにさせてたら、隣の航ちゃんが深く長い溜息をついた。
「沢渡、悪いが本当に本気で帰ってくんねえかな」
「なんで? あ、そうか、優香ちゃんが緊張しちゃうからか。ねえ、優香ちゃん。さっきも言ったけど、今の俺は専務なんかじゃないからね。航介の友達なだけだから」
そんなことを言われても、脳内が切り替えられるわけもなく。そして私は専務様に返事をすることを許されないから、俯いたままどうしよう、どうしようと心の中で呟いていたら。
座ったまま、専務様がずるずると私の傍に近寄り、そして突然私の手をぎゅっと握った。
「ひっ……!」
「ほらほら、こっち見て? あれ、優香ちゃん、お風呂入ったんだ。まだ髪濡れてる。そのままだと風邪引いちゃうよ?」
胡散臭い笑みの専務様は、そう言いながら私の髪にまで手を伸ばしてきたもんだから、私は目を全開に見開き、口を開けて悲鳴を出す準備を完了していたら。
私の身体が、ぐっと引かれて。私は背中越しに包まれる腕の中にいた。
「沢渡、てめえ……いい加減にしとけよ。どういうつもりだ、ああ?」
低い魔王様モードの航ちゃんの声が、頭上から聞こえてくる。
すんごい怒ってる。ハンパないほど怒ってる。
私はさっきまでの驚きを全て引っ込めて、航ちゃんのオーラにただただ怯えて身体を震わせてしまった。
そんな私を抱きしめた航ちゃんに、専務様は可笑しそうに笑うばかり。
……凄いな、この航ちゃんに対しての専務様のこの余裕。さすがだ……。
妙に感心した私を挟んで、またしても意味不明の会話が繰り広げられる。
「どういうつもりって、これくらいのこと、きっと普通にされるよ? 今日一日で色々な噂を聞かされたしね。きっと積極的に来る連中増えるよ?」
「……んだと?」
「それくらい見越して連れてきたんじゃないの? 甘いなあ、航介」
専務様はくすくす笑って、目線を航ちゃんから私に下ろし、にんまりと笑みを浮かべたまま、顔を寄せてくる。
引き攣った私の目の前で、専務様は、
「可愛い。優香ちゃん、モテるでしょ?」
なんてとんでもないことを言い出した。
「め、滅相も無い!!」
思わず私は叫ぶように答え、そしてはっとして航ちゃんを見上げた。
しまった、専務様に思わず返事をしてしまった。
航ちゃんはギュギューッと眉を寄せ、不機嫌極まりない顔のまま、私を抱いた手に更に力を入れるので、少しばかり呼吸困難になりそうになる。
でも、だけど、それよりも。
専務様、何を仰っちゃってくれるんだか。さっぱり意味分からない。てか、お世辞にもほどがある。
モテる!? あり得ない。全然そんなの、あり得ない。
私の人生、今まで男っ気なんてゼロだったもの。私としても、そんなに夢中になって好きになった人だっていないし。
というか、男の人って何だか怖いから……それはきっと、航ちゃんのせいだ。
航ちゃんのお陰で、私の男性観がおかしくなったんだ。
そうだ。私の今まで極寒な青春時代は、全て航ちゃんのせいなんだ。
思わず唇をかみ締めて、私を背後から抱いたままの航ちゃんを見上げると、私の視線に気付いた航ちゃんは「んだよ」って顔で私を見下ろすので、思わず視線を逸らしてしまった。
そして私の頭上から降り注がれる、低い舌打ち交じりの、それでいて、どこか小バカにしたような声。
「こいつがモテるだと? それは面白い冗談だ」
航ちゃんはそんな酷いことを言い、専務様を軽く押して私から引き離してくれると、やっと私を腕から解放した。
専務様は笑ったまま私と航ちゃんを見やり、
「冗談じゃないよー。だから気をつけてね。男は皆、狼なんだよ、優香ちゃん」
そうにんまりと笑った専務様はふいに立ち上がり、私と航ちゃんを見下ろして手を上げた。
「さてさて、それじゃ後は若いお二人に任せて、俺は退散するとするかね」
若いお二人って……専務様、航ちゃんと同じ年なのに。てか、私ともそんなに年が変わらないのに。
ぽかんとしている私と、不機嫌極まりない航ちゃんの前から颯爽と消えた専務様。
一体彼は、何しにうちへと来たんだろう……?
呆然としばらく扉を見ていた私だけど、ふと隣でいまだ魔王様降臨中の航ちゃんに気付き、思わず頬が引き攣ってしまった。
だって怖い。
目が怖いし、まとうオーラも怖いけど。腕を組み、イライラと指先を動かしているのも怖いけど。
だけど、だけど……
何となく、航ちゃんが少し寂しそうな風に見えた。
何でだろう。イライラしているのに、どこか寂しそうに見えたので、私はそっと航ちゃんの腕に触れて、顔を覗きこんだ。
「航ちゃん、航ちゃん……」
小さく名前を囁くと、航ちゃんもまたはっとしたように私に眼を向けた。次の瞬間には、怒り狂った眼差しを僅かに抑え、口元に苦笑めいたものを浮かべて、私の頭に手を載せた。
「分かったろ、沢渡は、ああいうヤツだ」
「うん……?」
「強引で、マイペースだろ。お前、きっとすぐに飲まれる。そんで、気付いたらあいつの思い通りの行動をさせられる」
「……そっか」
「だから、なるべく近づくな。不必要に言葉を交わすな」
「うん、だけど、会社で声を掛けられたら、返事をしないわけにいかないよ」
だって相手は専務様。それを無視するわけにはいかない。
だけど航ちゃんは、今度こそはっきりと苦笑を浮かべて私の頭をぐりぐりと撫でた。
「大丈夫だ。俺が一緒にいるときくらいだろう、お前にしつこく声を掛けてくんのは」
そうなの? そうなのかな。
まだよく分からないけど、航ちゃんが言うんだったら、きっとそうなんだろう。
あんまり深く考えても仕方が無いし、私は小さく頷いて、ふと思い出してテーブルの下に手をやった。
そこに、さっき専務様が持ってきてくれたお握りが二つ乗っかってる。そのお皿ごと、航ちゃんに差し出した。
「はい、一個食べていいよ」
「あ? ……いい、お前、食え。まだ晩飯食ってないんだろ」
「うん、だけど航ちゃんだって食べてないでしょ? だから、一緒に食べよ」
航ちゃんは、強引で我侭で俺様な人だけど。私が食事を抜かされて、自分だけちゃっかりと食べちゃう人じゃない。
それ、分かってるから。昔から、そうだから。
私の顔を見て、航ちゃんはくすりと笑ってお握りの一つに手を伸ばした。
ほっとして、私ももう一つのお握りにかぶりついた。
「……やっぱ美味えな、おばさんのお握り」
まんべんなく鰹節をまぶした、お母さんのお握りが航ちゃんのお気に入りなようだ。
私は記憶の中である、お母さんのお握りっていったらこれだから、特に感慨深いものもないんだけど。
でも、そんなもんかなあと、もぐもぐ咀嚼していたら、急に航ちゃんがぷっと吹き出した。
びっくりして隣を見上げると、航ちゃんは顔を真っ赤にして肩を震わせながら、私を見下ろしている。
「やべ、思い出しちゃった」
「何を?」
「お前、覚えてる? お前が俺にお握り作ってくれた日のこと」
何を突然。でも……そんなこと、あったかな?
首をかしげて思い出していると、ああ、確かにあったあった。遥か前のこと。確かあれはまだ小学生の低学年だった。
たまたま航ちゃんのご両親もうちの両親もいなくて、でも私も航ちゃんもお腹が空いちゃって。
「何かお前の家にねえのか、俺んちには何もねえ。だから買出しに行ったんだと思う」
そう言った航ちゃんに、私は慌てて扉のあちこちを開いたんだけど、こういうときに限ってお菓子の類が一切無くなっていた。
航ちゃんがお腹を空かせてイライラし始めたので、私は必死になって、食料のありかを考え、そして閃いたのが炊飯器だった。
開けると、ご飯が残ってた。
「おにぎり、作ってあげる!!」
そう意気揚々と宣言し、お母さんが作るのをまねしながら作ったお握り。
食卓で待ち受けていた航ちゃんに差し出したそれは、
「……なんで丸いんだ」
まん丸のお握りだった。
どう頑張っても三角に作れなかったお握りを、それでも口に運んだ航ちゃんは、僅かに眉をしかめて言った。
「……味がしねえ」
そして更に食べ続け、最後まで食べ終えて、私の目を真っ直ぐ見据えて低い声で、
「具がねえし、味もしねえ。どういうことだ」
「え、だって、ええと……」
料理なんてしたことないし、お握りだって初体験だった私は、一生懸命頑張って作ったのに、怒られてすんごくショックで。
じんわりと涙を浮かばせると、航ちゃんは深く溜息をつき、立ち上がった。
「まだ、メシ残ってるか」
「うん」
「塩と海苔、用意しとけ。冷蔵庫に、具になりそうなもんがあったら出しとけ」
そう言って、航ちゃんは私に素晴らしく美味しい三角お握りを作ってくれた。
「おいし、おいし!!」
大喜びの私を満足げに見て、航ちゃんも嬉しそうに笑いながらそれをぱくついてた。
「俺を誰だと思ってんだ。……優香のブサイクなお握りも、味がしなかったけど美味かった」
「味がしないのに? あはは、ヘンな航ちゃん!!」
「うっせえ。いいんだよ。さっさと食って、勉強だ。明日テストだろ。低い点数持ってきたら承知しねえぞ」
そう言って、私を急かせて、いつの間にか私の部屋で勉強会になってしまったんだった……
「うん、覚えてるよ」
お母さんのお握りを齧りながら、何となく懐かしい思いで呟くと、
「今度」
「ん?」
「今度、またお前の味のしねえお握りを食いてえな」
そう呟いた航ちゃんを、驚いて見上げた。
行儀悪く片膝を立て、すっかりとお握りを食べ終わった航ちゃんは、私の視線に気付き、意地悪な笑いを含んだ目線で返す。
「今度は多少は味がするもん、作れよ」
何でだろ。
凄く、その瞬間ドキドキした。
今の今まで、全然平気だったのに。
航ちゃんの眼差しに、超ドキドキが止まらなくなってきた。
何かヘン。すごくヘン。
どうしたんだろ、私。
前から、ずっと優しかった。
きついことを口にしながらも、ずっと私に、甘かった。
それに気付いた瞬間。
どうしていいか分かんない。
だって航ちゃんは意地悪なことばっか言うし……私のこと、嫌いなんじゃないかって思うほど、酷いことばかり……
「優香、食ったら続き始めんぞ」
「うん……」
「終わったら、メシ食いに行くぞ」
「え?」
「今日、お前のバイト初日の記念日だろ。こんな時間だからな、ファミレスになるけど、いいな?」
航ちゃんはそう言って、早速パソコンを立ち上げた。
そして私を見下ろして浮かべた笑みは、信じられないほど柔らかかった。
「今日は特別だ。デザート、好きな分だけ食え」
私、どうしよう。
こんな意地悪な人なのに。
ちょこっと、ちょこっとだけ……
ドキドキしてるの、これって、好きって意味?
いやまさか、それはあり得ないでしょう。この航ちゃんを相手に。
でも……。
後で、激しく後悔しそうなときめきを感じた私は、戸惑いの渦の中にいた。




