第16話 恐怖の食事会
エレベーターが五階で止まり、そして扉が開くと。
そこに、腕を組んだ航ちゃんが、立っていた。否、待ち受けていた。
さっき、総務のお姉さんに向けていた微笑を欠片も浮かべず、不機嫌そのものの表情で私を見据えてる。
それを見て、私の中で、再び負の感情が沸き起こった。
何で。私にも、もう少し優しくしてくれてもいいのに。
何で他の人には優しくして、私にはこんなに冷たいの。
そんなに私のことが嫌いなら、放っておいてくれればいいのに。
思わずムッとしてしまった私がエレベーターから降りると、航ちゃんは眉を更に寄せ、歩き始めようとした私の腕を掴んだ。
「おい、どうした」
「……何が」
「何か言われたのか」
「誰に」
「総務の女」
その声が低く、私はぎくりとして顔を上げた。
目の前にいる航ちゃんの顔が怒りに満ちていて、背筋が凍るほど怖かった。思わず顔を引き攣らせた私に、航ちゃんは更に詰め寄った。
「おい、優香、言え」
今にも暴れ、怒鳴り散らさんばかりの勢いの航ちゃんに、私は慌てて首を振った。
「な、何も言われてない」
「妙なことを言われたりされたりしたんじゃねえんだな?」
「う、うん、大丈夫……」
私の答えに、深い溜息をつく航ちゃんを見上げ、心の底からビビッた。危なかった。私の態度一つで、航ちゃんが魔王降臨させるところだった。
私の態度で、どう誤解したのか分からないけど、ほっとしたような航ちゃんに、私は素直に謝った。
「ごめんなさい……」
私、酷いことを思った。
強引ではあるけれど、でも私のために職場を与えてくれたのに。
営業一位なのに、私のために大事な時間を潰してくれてるのに。
意地悪ばかりされるのは嫌だし、存在そのものが怖いけど。
でも、航ちゃんは紛れも無く、私のために動いてくれているのに。
なのに……私自身、何も自分のために動いていないというのに。
こんな情けない私のために色々考えてくれている航ちゃんのこと、私……。
猛烈に反省した私は、俯きながら、もう一度ぽつりと呟いた。
「本当に、ごめんなさい……」
きっと、意味が分からないだろう。私の一人勝手な心の暴走だから。
だけど航ちゃんは何も聞かず、ぽんぽんと私の髪を撫でてくれた。
お許しが出たのかな? ほっとして顔を上げると、そこには未だ目が据わったままの航ちゃんがいて。
……全然何も終わってないことを思い出した。
恐怖の昼食会が、これから始まるんだってこと、すっかりと頭から飛ばしてた。
航ちゃんは、私の頭に手を載せたまま、腰を落として私を真っ直ぐ見据えた。
「優香、いいか、良く聞け」
「……はい」
低い地を這う声。私はビクビク全開で、何とか航ちゃんの目を見つめているのがやっとという有様。
そんな私に告げられたのは。
「今すぐ俺の嫁になることを宣言するか、これから専務室に入った後、一言も口を利かないと約束するか、どっちか選べ」
に、二択!!!
今まさに海よりも深く反省した私に向かって、その二択!?
酷い。こんな時に、『嫁になれ』なんて意地悪な選択肢を言わなくてもいいじゃない。
思わずじんわりと浮かんでしまった涙を、私は必死で堪えた。そこまでしても、私は専務室に入ったら話しちゃいけないんだと悟った。
大学時代の同期だって言う二人。きっと航ちゃんは、専務様から私の耳に入れたくないようなことを言われたくないんだと思った。
だから、『余計なことは言うな』とか、『二人きりになるな』とか言うんだって思った。
そこまで言うなら、喋らない。何も聞かない。
だから私は、「口、利かない」と言った。
航ちゃんはすっと表情を消し、腰を伸ばして立ち上がった。そして、私から手を離し、
「分かった。約束を破ったときには、覚悟しとけ」
そう言い放ち、航ちゃんは専務室の扉をノックした。
「はーい、どうぞー」
中から呑気な声が聞こえてくる。
全然楽しくない、昼食会が始まった。
黒ソファの中央にあるテーブルに、三つの大きなお弁当箱が並んでいた。そしてそれぞれに、湯気の立つお茶まで用意されている。
「待ってたよ、優香ちゃんとお喋りしながらご飯食べたくてさ。航介も一緒に来るのは、まあ予想の範囲内だったけどね」
そう可笑しそうに笑う専務様に、私は「はあ」と言おうとした瞬間、隣から殺気を感じた。はっと横を見ると、航ちゃんが目を眇めて私をガン見している。
返事をすることさえ許されないっぽい私は、引き攣った笑みで応えるしかなかった。
それを見た専務様は、肩を震わせながら、全員の分のお弁当箱の蓋を開けていく。
「警戒してる、警戒してる。航介、面白すぎ。あ、優香ちゃん、あったかいうちに食べよう。はい、いただきまーす」
これは礼儀だから、仕方が無い。私はなるべく航ちゃんの視線を避けるかのように身体をずらし、「いただきます」と呟いた。
専務様は、最初のうちは何かと私に話しかけてくれたんだけど、その度に航ちゃんの魔王ビームが私に飛んでくるのに気付き、そのうち私に話しかけるのを諦めてくれた。
不機嫌そうに食事をする航ちゃんに、からかうような言葉を投げる専務様。それにぶっきら棒に答える航ちゃん。
二人のやりとりを聞き流しながら、私も食事をしていたんだけど。全然味が分かんない。どうしよう、味覚麻痺になってしまったように、味が全然しない。
ただ、義務のように箸を運んでいた私の耳に、専務様の声が流れてきた。
「……お前もいるんだし、喋ることくらいいいだろうに。航介も思ったより小さい男だねえ」
揶揄するようなその言葉が、私のことに関することだと分かった。そして航ちゃんはちらりと私を見て、小さく溜息をついた。
「沢渡は、優香のことを知らねえだろうが」
「知らないから、お喋りしたいんじゃん」
「お前は何事も強引でマイペースだろうが。こいつはすぐに引き摺られる性格だから、絶対お前に巻き込まれる」
私は航ちゃんの言葉に驚いて、思わず箸を止めてしまった。そして、ぽかんと航ちゃんを見つめてしまっていた。
だって、私を専務様と話させたくなかったのって……航ちゃんのこと、色々聞かされるのが嫌だったんじゃないの? それで不機嫌になっていたんじゃないの?
きょとんとしている私に眼を向け、航ちゃんは苦笑めいたものを口元に浮かべていた。
「自分で思いもしないことを決断させられて、こいつが傷つくのを見たくねえ」
「……航ちゃん……」
航ちゃんがそんなことを考えていただなんて。全然思いもしなかった私が、口を半開きにしたままでいると、航ちゃんはお箸を置いて、そして私の手からもお箸をもぎ取ってお弁当箱に置いて。
突然すっくと立ち上がり、そして私の腕を掴んで引っ張った。
吊られるようにして隣に立ち上がった私に、
「優香、気持ち悪くねえか」
「う、……ん?」
「あれえ、優香ちゃん、具合悪かったの?」
驚いた専務様に、航ちゃんは苦笑っぽい笑みのまま言った。
「こいつ、緊張して食事をするのダメなんだよ。悪いな、沢渡。やっぱ社食で飯食わせてくる」
航ちゃんはそのまま私を引き摺って専務室から出て行こうとするから、私は慌てて航ちゃんに縋った。
「あの、航ちゃん。一言、一言だけ!」
「あ?」
そして私は航ちゃんの返事を聞かず、専務様に振り返った。
「専務、済みませんでした。そ、それから、ご馳走様でした」
他にも色々言わなくちゃいけないことがあるのかもしれないけど、これを言うのが精一杯だった。
そんな私に、専務様はくすくすと笑って手を振ってくれた。
そして私は何度も専務様に頭を下げているというのに、航ちゃんはずるずると私を引き摺って社員食堂に入っていき、一つのテーブルを陣取ると。
「ミックスサンドと野菜サンド、どっちがいいか選べ」
他にも色々メニューあるのに。でも、お弁当食べて、お腹一杯になりつつある私でも食べれそうなのをチョイスしてくれたのかな。
航ちゃんの分かりづらい優しさに、思わずくすりと笑った私は、「野菜サンドがいい」って答えた。
さっき、専務様のご馳走してくれた豪華なお弁当は、ちっとも味がしなかったのに。
相変わらず不機嫌そうな顔でカレーを食べている航ちゃんの奢りの野菜サンドは、とてもとても美味しかった。




