第14話 大ピンチ
何とか言葉にしたいのに、言葉になんない。
全然予想をしていなかった航ちゃんの登場に、あまりに驚きすぎて、頭が真っ白になってしまっていた。
口をパクパク動かしていた私を思いっきり睨み付けていた航ちゃんは、ふーっと深い溜息をつき、私の腕を引っ張った。
「あっ、あの、あの、航ちゃん!?」
エレベーターまでずるずると引き摺られつつも、慌てて声を張り上げると、航ちゃんは私をちらりとも見ずにそのエレベーターのボタンを押した。
どうしよ、怒ってるっぽい。でも、何で怒ってるのか、さっぱり分かんない。
遅いって言ってたから、もしかしてずっと私が出てくるのを待っててくれていたのかも。そんでもって、余りにも待たせすぎてしまったから、ご立腹なのかも。
でも、だって。
私、待っていてなんて言ってないのに。それに、確かに時間が掛かったかもしれないけど、専務様命令の面談だもの。私からさっさと腰を上げることなんて出来るわけがない。
こんなことで怒られるなんて、理不尽過ぎる!
さすがにこれは文句の一つも言っておいたほうがいいだろうと思った私は、勇気を振り絞って航ちゃんを見上げた。
「あのね、航ちゃん?」
お腹に力と気合を入れて、そう言ったら。
「あ?」
……私の中の、ありとあらゆる力が抜けていくのが分かった。
航ちゃんのまとうオーラと口調と目つき、全てが怖すぎる。
「……何でもないです」
「……何を言われた」
「へ?」
「あいつに、何を言われた」
あいつっていうのが専務様だというのが分かったのは、エレベーターが到着してから。
二人でそれに乗り込み、航ちゃんが三階のボタンを押すのを眺めながら、必死で私は考えた。
まだ、航ちゃんは怒ってる。何に怒ってるのか定かじゃないけど、怒ってる。
今この時点で、専務様主催の昼食会にお招きされたことを言うべきじゃない。恐怖の大魔王様が、私に鉄槌を下すこと必至だ。
『てめえ、俺の言うことが何で聞けねえんだ、このバカ!』
そう怒鳴られ、その後にもきっと延々と説教の嵐が続くだろう。
きっとヘコんで立ち直れないくらい怒鳴られる。
想像だけで、背中に冷たいものが伝うのが分かった。
恐ろしい。恐ろしすぎる。それだけは避けたい。
今はまだ、言うのはやめておこう。もう少し様子を伺って、航ちゃんの機嫌がもう少し良くなったら……
「優香、何度も同じことを言わんじゃねえ。あいつに、何を言われた」
くっ、繰り返された!! しかも声、メチャクチャ低いし!!
もはや隣に立つ魔王様を伺うことすら出来ず、私は俯いたまま、小さく消えていくような声で呟いた。
「えっ、ええと……私が高校生のときに、見たことがあるって……」
「……」
「沢渡専務が大学生のとき、航ちゃんちに遊びに行って、その時にちらっと私を見たって」
「……」
「私のこと、航ちゃんに色々聞こうと思ったけど、教えてくんなかったって」
「……」
「あと、航ちゃんの大学生のときの話とか、そんなこと、聞いた」
「……」
航ちゃんの低く地を這うような声ってメチャクチャ怖いけど、でもこの無言も超怖い!!
私はビクビクしながら航ちゃんを見上げたら、彼はまっすぐエレベーターの扉を見つめながらも怒り絶頂、ここに極めり!! って顔で、私は思わず悲鳴を上げそうになった。
ど、どうして!! 私の今の言葉のどこが航ちゃんの逆鱗に触れるワードが入ってたの!?
全然分からずに、パニックになりそうになった私を、ぐるんと振り返り見た航ちゃん。
吊り上った目で見据えられ、チビりそうになる私に、航ちゃんが唇を開こうとしたとき。
チーンと音が鳴り、扉が開いた。
そこで航ちゃんは低く舌打ちをし、私が慌てて『開』のボタンを押すと、航ちゃんは忌々しげに私に目をやりながらもエレベーターを出た。
この営業フロアに来れば、他の人がいっぱいいる。そうすれば、航ちゃんは『別人航ちゃん』に変身するから、私に対しても柔らかい態度で接してくれるはず。
取りあえずは、危機は逃れた?
心の中でほっとしていると、広いフロアで仕事をしていた男の人が、にこやかに私たちの方にやってきた。
「お疲れ様。専務との面談、どうだった?」
あ、さっき私に、『初仕事だなー、頑張れよ』って言ってくれた人だ。
優しそうな人だけど、どうもやっぱり恥ずかしくて、私は何となく航ちゃんの後ろに隠れ気味になりながらも、ぺこりと頭を下げた。
そんな私を見て、その人は可笑しそうに笑ってる。
「あれあれ、何だか北里の妹みたいだな」
いっ、妹!! 嫌だ、こんな怖いお兄ちゃんなんていらない!!
私が顔を引き攣らせていると、航ちゃんは私をちらりと見下ろし、そして一瞬だけ皮肉めいた笑みを浮かべた。
顔を営業の男の人に戻したときには、別人航ちゃんの柔らかい笑みに変わってる。
「はは、こいつ、本当に手が掛かるんだ」
「またまた、そんなこと言って。あ、優香ちゃん、俺、矢島。よろしくな」
「ど、どうも……」
「これから大変だと思うけど、頑張って。それじゃ北里、俺外回り行ってくるわ」
矢島さんっていう人は、気さくに航ちゃんに手を挙げ、エレベーターのほうに向かってしまった。
ぼんやりとそれを見送っていると、私の肩に重みが掛かった。見上げると、航ちゃんがすっと目を細めて私を見据え、何かを言い出しそうだった。
しまった、今この場で二人きり。航ちゃんの声が聞こえそうな範囲に人がいない。
お説教タイムになりそうだ。危険! 私、ピンチ!!
私は慌ててフロアを見渡し、数人の人だかりがある方を指差しながら、強引に歩き始めた。男の人たちが数人固まっている向こうに、なにやら大きな紙が貼ってある。
「あっ、あの、北里さん、あれって何ですか!?」
不自然なまでに大きな声を上げると、航ちゃんは再び舌打ちをし、そして私の声に気付いた男の人たちが振り返り、
「おお、北里! お前すげえじゃん。先月もトップだな!」
トップ?
私が首を傾げると、男の人一人が、貼り紙を指差して教えてくれた。
そこに書いてあるのは、棒グラフみたいなの。グラフの下に名前が書いてあり、一番長い棒の下には、「北里航介」って書いてある。
「これね、先月の売り上げ。ここ一年、ずっと北里がトップなんじゃないかな?」
「えええ!? 一年も、航ちゃんがトップ!?」
思わず驚いて、航ちゃんって呼んじゃった。だけど誰もそれを咎めずに、「すげえよなあ」なんて話をしてる。
私がぽかんと航ちゃんを見上げると、彼は「んだよ」って顔で私を見下ろしているけど、でも。
「凄いね!! 航ちゃん、凄い!」
「……そうかな、ありがとう」
きっと私と二人きりの時だったら、「当然の結果だ、バカ」くらい言うだろうに。本当に他の人がいる時の航ちゃんって別人。
ありがとう、だって。思わず背筋がゾクッとなってしまったけど、それを口に出来るほどの度胸がない私は、ははは、と笑って誤魔化した。
「ところで、三島さん」
航ちゃんがにっこりと笑って、私の肩に置いたままの手に力を僅かに込めた。
ぎくりとして身体を硬直させた私に、航ちゃんは不気味に柔らかい笑みを浮かべたまま言った。
「午前中は、社内を案内するから。昼休憩は社員食堂で済ませよう。午後は……」
不味い。非常に不味い。
お昼ご飯の話題になってしまった。超ヤバい。
私は航ちゃんが口にする、午後のスケジュールなんて全然頭に入らず、ただ昼休憩のことをどうやって航ちゃんに言うか、必死で考えた。
だけど、どんな言い方をしても、航ちゃんの言いつけを守らなかったことは事実だし、専務様のお招きを無視するわけにはいかない。
どうする、優香、どうやってこの絶体絶命大ピンチを切り抜ける?
……そうだ。どうせ怒られるんだったら、他の人がいる時に、白状しちゃえばいいんだ。そしたら、航ちゃん、いくら怒っても魔王様に変身しないで済むかも。
そうだ、そうすればいいんだ。
度胸を決めた私は、思い切って唇を開いた。
「あの、北里さん」
「ん?」
ん? だって!! あ? じゃなくて、ん? だって!!
こ、これならきっと、そんなに航ちゃんも怒らないで聞いてくれるかも!!
「あ、あのですね……お昼のことなんですけど……」
「……」
「せ、専務様、ではなく、沢渡専務が、今日はお昼をご馳走してくれる……」
そこまで言って、私は限界を悟った。
他の人がいるというのに。幸いなことというか、不幸なことというか。
皆グラフに目を向けて、誰もこちらを見ていない。そんな中、航ちゃんの眦がどんどん上がり、まとうオーラがドス黒く変貌していった。
「……んだと?」
低い低い声に、私はもう泣き出して、土下座して謝りたかったんだけど。
航ちゃんは私を置いて踵を返し、少し離れたところにある電話を乱暴に手に取った。
怒ってる。メチャクチャ激しく怒ってる。
一人、生まれたてのバンビのように、震える足を何とか叱咤しつつも、立ち尽くす私に背中を見せていた航ちゃんは、すぐに私の元へと戻ってきて。
それに気付いた数人の男性が振り向く中、航ちゃんはにっこりと仮面を被った笑みを浮かべた。
「三島さん、昼食は俺と一緒に専務室でとろうね」
……終わった。何が終わったのか分からないけど、でも私の中で、確実に何かが終わった気がした。
……眩暈がしそうになる私の周囲で、「専務のゴチかあ、良かったね」なんて声が聞こえるけど。
良くないんですけど。全然良くないんですけど!! 超嫌な予感が満載なんですけど!!
私、まともな精神状態で午後を迎えられるか、全然自信無いんですけど!!
心の中で悲鳴を上げる私の耳元に、航ちゃんが腰を落として囁いた。
「優香、夜、逃げんなよ」
ひぃいー!!
「二人きりで、ゆっくりと話を聞いてやる。俺からも、改めて話がある。いいな」
嫌です、良くないです!!
「覚悟しとけ」
無理ですぅー!!!
全身の血の気が引き、本気で倒れちゃうかと思うくらい絶望感でいっぱいの私の頭上で、飛び交う何だか分からない話。きっと仕事関係のことなんだろう。
それに応える航ちゃんの手は、私の肩から決して離れることなく。
それは今言われた「逃げんなよ」って意味だと分かった。
バイト初日の午前中だというのに、早くも辞めたくなってきた。……ていうか、帰りたい……。




