第10話 初出勤-1
七時に迎えに来るって言ってた。
絶対待たせる訳にはいかない。
だから二時間も前に起きて、ブラウスにアイロン掛けて、シャワー浴びて髪の毛セットして、化粧をして。
準備万端で、お隣の航ちゃんのお迎えを待った。
きっちり時間通りに私を迎えに来た航ちゃんは、いつものように、颯爽とスーツを身にまとい、今日は深緑のドット柄のネクタイを締めていた。
そして、航ちゃん太鼓判のリクルートスーツを着て、パンプスを履いた私を上から下まで眺め、小さく頷くとくるりと私に背中を向けた。
「行くぞ」
「う、うん」
駐車場まで歩きながら、緊張感を隠せない私を時折振り返った航ちゃんは、
「顔、引き攣ってんぞ」
そう意地悪っぽく唇の端を上げて笑う。
頬を膨らませた私を乗せて、航ちゃんの車が走り出した。
「ねえ、航ちゃん」
「あ?」
「航ちゃんって、車通勤だったんだっけ」
今まで全然気にしたこと無かったけど、航ちゃんが車を運転するのって休みの日だけのようなイメージがあったから、何となくそう聞くと、しばらくの沈黙の後、「いや」って返事が返ってきた。
「今までは電車通勤だった。けど、今日から車通勤にした」
「……そうなの?」
「帰り」
「え?」
「お前が残業することは、ほとんど無えと思う。俺がもし、かなり遅くなりそうだったら、連絡する」
「……うん……?」
首をかしげていると、航ちゃんは赤信号で停車している間に、スーツのポケットに手を突っ込み、握りこぶしを私に差し出した。
手のひらをそれに添えると、航ちゃんの手が開かれて、ぽとりと冷たいものが私の手に落ちてきた。
指先で摘んだそれは、どうも車の鍵のようだった。
「航ちゃん、これ……」
「連絡がない日は、車ん中で待ってろ」
「うん……?」
戸惑う私に、航ちゃんは正面に眼を向けながら続けて言った。
「もし、俺が仕事遅くてお前を送ってやれなくても、他の連中に送らせんなよ」
「う、うん……」
そんなこと、ある訳無いと思うけど。頷いた私を、航ちゃんはちらりと横目で見てるんだけど、それが睨んでいるみたいで何だか妙に怖い。
きっと他の営業さんとかに迷惑を掛けるなって意味だと思い、私はビクビクしつつも、そんな可能性ゼロなことを言い出す航ちゃんがよく分かんなかった。
「何かあったら、すぐに電話寄越せ」
「うん……」
「お前もスマホの電源、ちゃんと入れとけよ。マナーモードにしといても、定期的にメールとLINEと着信履歴チェックしとけ。分かったな」
「う、うん」
航ちゃんの様子がいつもと違って、妙な緊迫感を感じた私は、ただうんうんと頷くことしかできなかった。
航ちゃんが、何を考えているのかよく分かんない。
何を本当は言いたいのかも、よく分かんない。
ただ、昨日まで電車通勤だったのが、私がお世話になることで、車通勤に変えさせてしまった。
航ちゃんに迷惑を掛けていることだけは確か。
何をするのか全然分かってないけど、でも、お仕事をさせて貰う事が出来るのは、誰でもない航ちゃんのお陰。
その足を引っ張る訳には行かない。これ以上迷惑を掛けるわけには行かない。
だから、出来る限り航ちゃんの言うことは聞いて置かなくちゃなんない。
航ちゃんに言われたことを頭の中で反芻しながら、私は駐車場に車を停めて、サイドブレーキを上げた航ちゃんを見上げて言った。
「ありがとね、航ちゃん」
送ってくれたことじゃなく。
私を気にかけてくれて、たくさんのことに、ありがとう。
そういう意味で言ったんだけど、航ちゃんは眉毛を軽く上げて私を見下ろし、そしてフッと短く笑みを零した。
「頑張れよ」
そう言って伸ばした手が、私の頭をぽんぽんと撫でる。
オフィスのお仕事、あまり慣れてないけど。
きっと失敗ばっかりで、航ちゃんに迷惑掛けちゃうかもしんないけど。
でも、一生懸命頑張ろう。
心で密かに決意をし、私は大きく頷いた。
航ちゃんの会社……インテリア総合商社沢渡株式会社は、5階建ての自社ビルを持っていた。
それほど大きな建物じゃないけど、ちゃんと入り口に警備員さんがいて、航ちゃんは入社証をその人に見せていた。そして、私の背中に手を当てて、にっこりと別人スマイルを浮かべてる。
「彼女、今日からバイトで入った三島優香です。どうぞよろしく」
そう紹介され、私は慌てて頭を下げた。
「あの、三島です! どうぞよろしくお願いします!」
ぺこりとお辞儀をすると、早老の警備員さんは穏やかな笑みを浮かべ、ノートを私に差し出した。
「よろしくお願いしますね。入社証が出来るまで、ここに毎朝名前と所属部署を書いてね」
そう言ってペンを渡されたけど、所属部署なんて分かんない。
困って航ちゃんを見上げると、彼は一瞬眉を寄せたけど、私からペンを取り上げ、サラサラとそのノートに書き始めた。
隣で背伸びをして覗き込むと、ひねくれた性格の持ち主とは思えないような綺麗な字で、
三島優香 所属部署 未定
と書いていた。
所属部署、未定なんだ。
何だか一挙に不安感が湧き上がった私を連れて、航ちゃんはビルの中に入っていった。
まだ時間が早いせいか、無人のエントランスを抜け、エレベーターのボタンを押す。
そして、正面を向いたまま、小さな声で私に言った。
「今から一週間、とりあえずお前は営業事務として働くことになってる」
まるで私の心の中を読んだかのような突然の言葉に、私は弾かれたように航ちゃんを見上げた。
航ちゃんは、整った顔を真っ直ぐエレベーターの扉に向けたまま、淡々と続けた。
「まずは会社に慣れろ。そのための一週間だ。その間にお前が営業事務に向いてないと判断されたら、事務補佐に回す」
「……試用期間?」
「まあ、そう考えてもいい」
「営業事務に向いてるとか向いてないって、誰が判断するの?」
私の質問は、当然だと思う。だって気になる。私を査定するのは、一体誰なのか。社長様なのか、昨日電話で話をした専務様なのか。
エレベーターの扉が開き、それに先に乗り込んだ航ちゃんは、続けてエレベーターに乗った私を呆れたように見下ろした。
「俺に決まってんだろ」
「え?」
「お前のダメっぷりを評価すんの、俺以外の誰がいるんだ」
……ダメっぷり。
もう私、ダメなの決定なの?
さすがにカチンときて、航ちゃんを睨みつけたら、絶対零度の眼差しで反撃された。
その恐ろしさにさっと視線を逸らしつつ、この意地悪航ちゃんが私の仕事をチェックすることに早くも恐怖心を抱き始めつつ、ちょこっとうんざりしながら、小さく溜息をついていると。
チン、と音を立ててエレベーターが止まり、静かに扉が開いた。
エレベーターの上部を見上げると、ここが5階だと書いてある。
『開』ボタンを押していた航ちゃんが、私を少しイライラしたように見下ろしていた。
「早く降りろ」
「あ、う、うん」
慌てて降りて、航ちゃんを待つと、彼はスタスタと歩き始め、一番奥の扉をノックした。
奥から女性の声が聞こえると、航ちゃんは腰を屈めて私に小さく囁いた。
「社長に挨拶すんぞ。失礼のないようにしろよ」
しゃっ……社長様!!
心の準備とか、何も出来ていないというのに、いきなり社長様にご挨拶!?
身体をカチーンと固まらせた私の目の前の、大きな扉がゆっくりと開いた。
物凄い、半端無い緊張が高まる中、航ちゃんの信じられないような柔らかい声がした。
「失礼致します」
誰、この声の持ち主。
思わず航ちゃんを見上げると、彼は私を一瞬ぎろりと睨み、はっとして慌てて頭を下げた。
「し、失礼します!!」
「どうぞ、お入りください」
秘書っぽい女性の声に合わせて、中へと進んでいく航ちゃんの後に付いていった私だけど。
昨日まで、派遣で働いていたのに。
ショップの店員とかしてたのに。
バイトとはいえ、こんな大きな会社で、ちゃんとまともに働けるんだろうか。
しかも一週間、試用期間中ずっと航ちゃんからチェックされるなんて……私の身が持つんだろうか。
航ちゃんに怒られない自信がない。
胃が締め付けられるように痛くなり、早くも帰りたくなってきた。




