11
ヒナの言葉の意味は、すぐに分かった。
「魔王様ともあろう方が、友人を得たいがためにそのような魔方陣に頼るなど……。嘆かわしい」
「…………」
呆れ果てたようなアドラの視線から逃れるように、ゼストは目を逸らした。
アドラの反応は予想しておくべきだったものだ。というより、予想できたからこそ今まで話していなかったというのに。どうやら自分でも知らずに、ヒナのことで少し混乱していたらしい。ゼストは咳払いをすると、押し黙ったアドラに言った。
「それよりもアドラ、よくヒナが人間だと気がついたな」
「前回この部屋に入った時に人間の臭いがしましたから。変化の魔法でそれも誤魔化していたようですが、逆に今は臭いがなさすぎます。次からは多少の臭いもつけておくと良いですよ」
「む……」
アドラは意外と鼻が良いらしい。確かに、以前あった人間の臭いが突然しなくなり、その代わりに臭いのない誰かがいれば、疑って当然だろうか。
「え? 私、臭いんですか?」
ヒナが見当違いの勘違いをして、ゼストだけでなくアドラも苦笑した。
「臭いといっても、悪臭といったものではありません。種族特有の臭いがあるというだけです。それすらも私のように鼻が敏感でなければ分からないものですよ」
「へえ……。そんな臭いがあるんですね」
ヒナが自分の体に鼻を寄せる。普通の人間では分からない微かな臭いなのだが。それ以前にヒナは変化をしたままなので人間の臭いすらも今はない。
首を傾げているヒナを微笑ましく見守っていると、アドラが咳払いをした。アドラの方へと視線を戻す。真剣な表情でこちらを見つめていた。
「報告があります」
その言葉に、ゼストは眉をひそめた。今日はすでに会議を終えている。必要なことはすでにその時に聞いていたはずだ。ということは、その会議の後に入った情報であり、そしてゼストの部屋を訪ねて報告をするほどに重要な案件、ということだろうか。
「何があった?」
ゼストが聞くと、アドラの視線がヒナへと向く。情報の漏洩でも気にしているのだろうか。
「構わん。話せ」
「…………。畏まりました」
アドラは納得がいっていないようだったが、すぐに頭を下げて、そうしてまた口を開いた。
「勇者が現れたそうです」
「……っ!」
ゼストは息を呑み、目を見開いた。現在の勇者は、本人は明言していないものの戦いを先延ばしにしている傾向があった。旅の途中で魔族と戦うことはあっても、何かと理由をつけて戦場そのものは避けて移動していた。本人の意図か無意識なのかは分からないが、それ故にまだ現れるのは当分先だと思っていたのだが。
何か、心境の変化でもあったのだろうか。ふとヒナを見ると、ヒナがそっと目を逸らした。
「ヒナ」
ゼストが声をかけ、ヒナは愛想笑いを浮かべてゼストへと視線を戻してくる。
「勇者と面識があるのか?」
「えっと……。実は、この世界に来たのは二度目と言いますか、二人目といいますか……」
「なるほど、一人目は勇者か」
「はい……」
つまり勇者の行動の変化はヒナに出会った影響なのだろう。異世界に帰ってしまった友人がまた気軽に遊びに来れるように戦争を終わらせようとしている、といったところだろうか。無茶が過ぎるかとも思うが、気持ちは分からないでもない。
「勇者め、大人しくしていればいいものを……」
アドラが吐き捨てるように言う。それを聞いたヒナは、沈痛な面持ちで顔を伏せた。やはり、友人が悪し様に言われるのは辛いのだろう。
「アドラ」
ゼストが窘めるように名を呼ぶと、アドラは顔をしかめた。
「ですが、ゼスト様。こちらは少しでも戦渦が広がらないようにとしているのに、勇者の行動一つで台無しになってしまいます」
「え?」
ヒナが、今度は不思議そうな表情で顔を上げた。ゼストとアドラが同時にヒナを見る。ヒナはびくりと体を震わせて、視線を彷徨わせた。
「ヒナ。聞きたいことがあるなら遠慮なく聞くといい」
ゼストが優しく声をかけると、ヒナは小さく頷いて口を開いた。
「戦渦が広がらないようにしているって、どういうことですか?」
「そのままの意味だ。戦闘が起こってもできるだけ小規模となるようにしている」
そう言ったところで、ヒナが目を丸くしているのを見て、ゼストは思わず苦笑した。
「意外か?」
「その……。はい。侵略者みたいなイメージがありました……」
「侵略者か。まあ戦争が始まった時はそうだったかもしれんな。もっとも、どちらが侵略者かすら今となっては分からないが」
人族と魔族の戦争はずっと昔から続いていることだ。何がきっかけかはすでに分からなくなっている。今となっては、お互いに相手が憎いからと続けているようなものだ。
「止められないんですか?」
ヒナが聞いて、ゼストは肩をすくめてみせた。
「憎しみで続いている戦争だ。今更、止めることはできない。我らも、そして奴らも、誰も納得はしないだろう」
ゼストがこの大陸を支配する魔王といっても、限界がある。ゼストが止めようとも、戦争はどうあっても続くだろう。人族側に協力者がいれば一時的な休戦はできるかもしれないが、間違い無く先走る者が出てくるだろう。そうなれば、今よりもひどい戦争になる。
今はまだ、各地で小さな争いが続くだけだ。それを維持した方がまだ被害は少ないだろう。
そう、思っていたのだが。
「勇者が現れれば、否応なしに戦局が変わる。間違い無く魔族が押されることになるだろう。そうなれば俺も黙っていることはできない」
最悪の可能性としては。
「全面戦争になるかもしれんな」
ゼストが重々しくつぶやくと、ヒナは沈痛な面持ちで俯いた。
「アイリさんとゼストさんが、殺し合いをするんですね……」
アイリという名前に聞き覚えはないが、おそらくはそれが勇者の名前なのだろう。そうなるだろうとゼストが頷くと、唇を引き結び、ゼストを見つめてきた。何かを懇願するような目だ。何を思っているかは、分かる。ゼストとしても、戦争など終わらせてしまいたいのだから。
だがそれでも。
「アドラ。兵の準備を急げ。今回は俺も出る」
「畏まりました」
ゼストの言葉に、アドラは恭しく頭を下げた。
「ヒナ。お前は自分の世界に帰れ。そして二度とこちら側には来るな。ここはお前のいるべき世界ではない。……良い夢は見れただろう?」
薄く微笑みそう言うと、ヒナは辛そうに顔を歪めながらも頷いた。どうやらもう反対はしないらしい。ヒナも分かってはいるのだろう、止めたいからといって止められるものではないということを。
ではな、とゼストが部屋を出ようとすると、ヒナがゼストの服の袖を掴んだ。怪訝そうに眉をひそめるゼストへと、ヒナが言う。
「あの……。もう、一日だけ。今晩だけ。まだいさせてください」
その一日に何の意味があるのだろうか。別れを先延ばしにしても辛くなるだけだ。引き離すためにヒナの両肩に手を置いて、しかしヒナの顔を見て、何もできなくなった。
今にも泣き出しそうな、そんな表情。
「アドラ」
「一日程度なら問題ないかと」
苦笑まじりのアドラの返答。苦労をかけていると自覚はあるが、今回も無理を言わせてもらうことにする。
「では明朝だ」
「畏まりました」
もう一度、アドラは頭を下げて退室した。
アドラが持ってきた夕食を二人で食べ終え、ゼストとヒナはのんびりとした時間を過ごしていた。特に何をするわけでもなく、他愛ない雑談を続けている。ほとんどがヒナの世界、家族の話だ。
見たこともない世界の話。ゼストの興味は尽きない。だが、何故か、ヒナの説明は拙いにもかかわらず、ゼストは説明される物事を明確に理解できてしまっていた。
ヒナの世界に存在するありとあらゆるもの。説明されるまで知識がなかったはずなのに、説明された瞬間からそれがどういったもので、どういった形かを理解してしまう。いや、思い出す、といった感覚に近い。
まるで、かつて自分はその世界にいたかのようだ。
「あり得ない……」
ゼストのその呟きが聞こえたのか、ヒナが首を傾げた。
「どうかしました?」
「ん? ああ、いや。何でも無い。そろそろ休むぞ。俺もいつ休めるか分からなくなる。今のうちに休んでおきたい」
「あ、はい……。そうですよね。分かりました」
ヒナが寂しそうにしながらも、薄く微笑んだ。ヒナも分かっているのだろう。明日からは、こうしてゆっくりと過ごすことなどできない。むしろ、ヒナは帰らせなければならない。そして、二度とここには来ないように言い含めなければ。
「ゼストさん?」
ヒナの声に我に返ったゼストは、薄く苦笑を浮かべ何でも無いと首を振った。
「ベッドは使うといい。俺は……」
「いえ、今日は大丈夫です。アドラさんからたくさん毛布をもらいました」
ゼストのベッドの側に、アドラが運び込んだ毛布が積まれていた。どれもが手触りの良い高級品だ。ヒナはその毛布の山に走り寄ると、何枚かを取り出して床に敷いた。
「むふう」
妙な声を上げながら、ヒナは毛布の上に転がる。客人を床で寝させるのはどうかと思うのだが、ヒナが幸せそうなので問題はないとするべきか。ゼストは笑いを堪えながら、自身もベッドに横になった。
「毛布なのにふかふか。すごい」
ヒナが毛布の上を転がりながらそうつぶやく。どうやらアドラが持ち込んだ毛布を気に入ったらしい。
「気に入ったのなら、帰る時に何枚か持って行くといい。土産にはなるだろう」
「へ? いいんですか? 遠慮無くもらっていきますよ?」
「ああ。遠慮なくもらっていけ」
わーい、とヒナが嬉しそうな声を上げる。喜んでもらえたのなら何よりだ。
「おやすみなさい、ゼストさん」
「ああ。おやすみ、ヒナ」
ヒナの声に、ゼストは柔らかく微笑みながら返事をした。
翌朝。まだ日も昇っていない時間に目を覚ましたゼストは、ヒナを起こすとすぐに帰り支度をさせた。もっとも、ヒナが持って帰るものは少ない。こちらに来た時の荷物に、いくつかのものが増えただけだ。一番大きなもので毛布なのだが、結局ヒナは一枚だけ持ち帰ることにしたようだった。
「それじゃあ、帰りますね」
「ああ。気をつけて帰るといい」
「あはは。気をつけても、帰るのは一瞬ですけど」
そう言えばそうだったな、ゼストが頷くと、ヒナはおかしそうに笑った。
「ゼストさん、あの……」
ヒナが言い辛そうに口ごもりながら、目線をゼストへと向けてくる。やはりヒナにとっては、ゼストと勇者が戦うというのは嫌なものなのだろう。だがこればかりは、避けることができない問題だ。
しかし、それを正直に言う必要もないだろう。
「心配するな。手は考えてある」
ゼストがそう言ってヒナの頭を撫でると、ヒナは驚いたように目を瞠った。安堵の吐息をつき、笑顔を浮かべた。
「やっぱりすごいです! それじゃあ、ゼストさんにお任せします!」
「ああ」
言葉少なにゼストが頷くと、ヒナはわずかに目を細めた。しかしすぐにまた笑顔に戻り、魔方陣へと向き直る。魔方陣にそっと手を触れて、
「ゼストさん、ありがとうございました! また来ます!」
そう言って、直後に目映い光が部屋を包み、その光が消える頃にはヒナの姿はどこに見えなくなっていた。
ゼスト以外には誰もおらず、静かな部屋。今まででは当たり前の静けさだったというのに、何故か急にとても寂しく感じられてしまった。どうやら、思っていた以上に自分は楽しんでいたらしい。
「また来ます、か。もう来るなと言っているだろうに」
やれやれと小さく首を振り、ため息をつく。残された魔方陣の紙を手に取り、そこで動きを止めた。置いていくべきなのだろうが、誰かがこれを開いてしまう可能性もある。
例えば、ゼストが戦死して、ここの整理をした時に、など。
他の魔族では殺してしまうかもしれない。仕方がないとゼストは魔方陣の紙を折りたたみ、手に持ったまま部屋を後にした。
少しだけ、後ろ髪を引かれる思いをしながら。
『二人目 魔王ゼスト』終了。
次回は『幕間 陽奈 相談と我が儘』です。
……また書きためたら投稿再開します。
・・・・・
『二人目 魔王ゼスト』の登場人物まとめ簡易版。
・陽奈 主人公らしき人、ちょっとだけ体力がついたような気がしないでもない。
・ゼスト 魔王、意外と面倒見が良い人、実は寂しがり。




