第二話 暴食の権能④
放課後の誰もいない廊下。
周囲に誰もいないことを確認した帝野空は、空間の歪みへと入る。さっきまで夕日が差し込んでいた廊下の窓の外は、全て薄暗く、陰湿な空気が漂っていた。
複写世界のいつもの光景を横目に、空き教室の扉を開けると、そこに広がっていたのは教室ではない。ピンクと白に染まった部屋だった。
子供くらいのサイズのクマのぬいぐるみに、フリルのついたカバーの椅子。天蓋付きの大きなベッドが鎮座していて、まるでお姫様が住んでいるような部屋だ。
床を覆うピンクのカーペットの上には、中学生のように見える少女が白と黒のドレスを着飾っていた。
一見、お嬢様のような上品さを感じさせるが、足をバタバタさせて寝転がる姿は幼く見える。
学生服の帝野に気づくと、少女が満面の笑みで歩み寄る。まるで大好きな姉を迎えに行く妹のような可愛らしさがあった。
「ただいま戻りました。ネム様」
「おかえり、空ちゃん」
服装も相まって、二人が並び立つと、まるでお嬢様と執事のように見えた。
「今日は何をしていたのですか?」
「千影ちゃんを覗いてたよ」
ネムが持っていたピンクの手鏡を見せる。そこには、廃工場にいる優人と千影が映っていた。
大きな影から伸びた黒い蛇に執拗に狙われる優人は、黒い右手で防ぎ続けていた。だが、あまりの多さに対応しきれず、細い体に絡みつかれる。
「やっぱり、閉じ込めるのは可哀想じゃないかな?」
「そんなことありません。あの怪物を操っている可能性がある以上、閉じ込めるのが正解です。実際、彼らを閉じ込めてから襲撃はないですし」
「そうだけど……」
心配そうに手鏡を覗くネムの姿に、帝野は目を細める。
この部屋からほとんど出られないネムが、外の世界と唯一繋がるのがこの手鏡だ。そのため、手鏡を眺めていることは多いので、鏡に映る人物に感情移入するところがある。
ネムの純粋さは素敵なところではあるが、反面人を疑うことがない。だからこそ、必要以上に人と関わらないようにしているのだが。
「安心してください。私がいる以上、ネム様には傷一つつくことはありません」
「……うん。ありがとう、空ちゃん」
一礼した後、帝野は踵を返す。
放課後になった直後に来たため、明日の提出物にはまだ手をつけていない。ネムとの時間を削るのは心が痛むが、流石に机を用意してもらうわけにはいかなかった。
「もう帰っちゃうの?」
振り返ると、ネムが寂しそうに上目遣いで見る。
胸を引き裂かれるような思いはあるが、テストも控えている以上、疎かにするわけにはいかなかった。
「申し訳ありません。課題が残っているので、終わればすぐに戻ります」
「本当に?」
「はい。ネム様には嘘をつきません」
「……分かった。待ってるね」
帝野が部屋の外に出るまで、ネムはずっと手を振り続けていた。その健気さに心が打たれた帝野は、一刻も早く宿題を終わらせることを誓う。
複写世界の廊下に戻ると、空間の歪みへと向かいながら、先ほどの優人たちを思い出す。
結界に閉じ込めて一週間。優人たちは一向に出る気配はない。
いくら空の結界が強固でも、千影がいればすぐに出られるだろうとは思っていたが、どういうわけか二人で戦いあっている。
気絶した優人が目覚めるたびに千影と戦っているので、まるで出る気がないように見えた。だが、犯人だと疑われているのに大人しく結界に閉じ込められているとは思えない。何か、裏があるに違いない。
それまではきちんと見極めなければ。決意した帝野が、空間の歪みを出ると、
ーー目の前には、巨大な腕を振り上げた悪魔がいた。
悪魔の獰猛な目と視線があった直後、鋭い爪が叩きつけられる。だが、帝野の体を覆う透明な膜にあっけなく弾かれた。
「……神凪は、まだ結界の中にいるはず」
現実の学校では戦えないと判断した帝野が、悪魔から視線を外さないまま、複写世界へと戻る。
ネムの手鏡で見たので、まだ結界の中にいるのは間違いない。ということは、優人の言う通り、別の犯人がいたということだろう。
冷静に考えている間に、空間の歪みを通って悪魔が現れる。
帝野を認識した瞬間、一気に距離を縮めつつ、突っ込んできた勢いで爪を振り下ろす。
もちろん帝野の体は結界で覆われているので、衝撃すら通さない。だが、周囲にはその余波が広がり、教室に面した窓が粉々に飛び散った。
悪魔が攻撃するたびに結界を貼り直していると、空間の歪みから何体もの悪魔が現れる。
「……厄介な」
放課後とはいえ、未だ部活をしている生徒たちも多い。教師も職員室に残っているだろう。そんな彼らがこちらの世界に迷い込まないとも限らない。
今は帝野を狙っているようだが、悪魔の狙いがいつ生徒たちに向くか分からない。
空間の歪みに認識阻害の結界を展開した後、帝野は襲いかかってくる悪魔の群れを忌々しく睨みつけた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
もう何度見ている光景だろうと思いながら、体を起こす。複写世界の薄暗い廃工場には、優人一人だけだった。
打ち身と擦り傷の痛みに耐えながら、スマホで時間を確認する。夕方だと認識すると、お腹が素直に空腹を訴えてくる。
結界に閉じ込められてから、一週間が経っていた。その間、何度も千影と戦い、その度に気絶させらている。
結界で隔離された世界でもスマホが通じるので、既に学校へは連絡して休んでいる。守や結弦にも体調不良と伝えていて、心配のメールが度々来る。
『早く回復して、ラノベ返してよ』という結弦のメッセージを見て、早く帰らなければと焦ってくる。
「お、目が覚めたか」
視線を向けると、空間の歪みを通った千影が、持っていたビニール袋を地面に放り投げる。
砂の上に落ちたビニール袋から飛び出たおにぎりが、歪な形になって優人の足元に転がる。
「腹減っただろ? おにぎり買ってきた」
「また僕の財布からですか?」
「仕方ないだろ。私にはお金がないんだから」
「その通りですけど、せめて確認取ってから買ってくださいよ」
砂を手で払い、包装を開けて中身にかぶりつく。ボソボソとした食感はあまり美味しくはないが、今はどんなものでもお腹に入れたい。
空腹に急かされるように、二つ、三つと一気に飲み込む。
「権能の影響でこんなにお腹が空くなんて、本当に不便ですね」
冷えた明太子パスタをかきこむと、千影がふんと鼻を鳴らす。
「そんなことねえぞ。ご飯を食べることで魔力を蓄えることもできるからな」
「……本当に人間離れしてますね」
優人の呟きが、廃工場の天井へと消えていった。
権能と呼ばれる超常の力を与えられてから、優人の体質は変わっていた。
昼はおにぎり一つで十分だったのに、今ではおにぎり三つに加え、パスタを食べ終えていた。今は、サラダの容器を開けている。
暴食の権能の影響で、優人は大食いへと変貌しつつあった。食べ過ぎで吐くのではないかと心配だったが、数時間後にはお腹が空いている。
手持ちのお金が少ないこともあり、一食でも我慢しようとしたが、あまりの空腹に耐えられなかった。特に、千影と戦った後には食べることを抑えられそうにない。
ビニール袋に全てのゴミを入れた後、優人の体を支配していた食欲が消え失せた。だが、数時間後には再び襲いかかるだろう。
「本当にお腹が空かないんですね。千影さんは」
「前にも言ったが、今の私は魔力の塊だ。だから、食べる必要がない。そんなことより、もう少し休んだら修行を始めるからな」
そう告げると、千影が背中を伸ばしていた。ライダースーツがピッタリと肌にくっついているということもあり、豊かな胸が強調される。
視線が吸い込まれそうになり、優人は立ち上がって空間の歪みへと向かう。一瞬の浮遊感の後、現実の廃工場へと出る。
さっきいた複写世界と同じように見えるが、一つだけ違うことがある。この間は何も見えなかったが、ここ数日で魔力を感知できるようになった優人には、はっきりと壁が見えていた。
周囲を見渡すと、廃工場の天井までそびえている壁が四方を囲んでいた。
近づきながら、体内の魔力を右手に集中させる。肌が白い右手の手首が、じわじわと黒く染まっていく。
目の前の壁に黒い右手を伸ばす。瞬間、電流が走り、右手が弾かれる。
優人は深いため息をこぼす。目覚めるたびに何度もやってはいるが、この結界を破ることはできなかった。
ここ数日で覚えたことは、権能の使い方だけだった。
優人が手に入れた力は、触れたものを捕食して消滅させる権能だった。だが、千影の黒い蛇のように何でも捕食できるわけではなく、右手だけの狭い効果範囲。
何でも捕食できるということなので、試しに結界を破壊しようと思ったのだが、さっきのように弾かれてしまう。
優人の力がまだ低いということもあり、色々と制限がある権能だった。
「あの結界を壊すには、まだまだだな」
振り返ると、空間の歪みから千影が姿を現した。
「そんなに帰りたいのか?」
「当たり前です。テスト勉強が心配なのもありますけど、結弦や守さんが心配するので」
「……お前って、本当に他人のことばかり考えてるな」
呆れたように千影が呟くが、なぜか嬉しそうに口の端が上がっていた。
「なにか笑うようなこと言いました?」
「いや、やっぱりお前を選んで正解だったと思ってな」
心の底から嬉しそうに、千影はにこやかに笑う。その笑顔が眩しくて、思わず視線を逸らす。
「前にも言いましたけど、ただ自分が傷つきたくないから、優しくしてるだけです」
「それでもすごい。私にはできないからな」
黒いズボンが汚れることを厭わず、千影が廃工場に腰を下ろす。
「良隆もお前と同じだ。自分の身を犠牲にして他人を助けてた」
千影の笑顔は、なぜか寂しげに見える。
「もしかして、父さんはそれで死んだんですか?」
「ある権能者から私を守ってな。相打ちだった」
「どんな人だったんですか? 父さんは」
寂しそうな顔を見ていられずに、優人は尋ねる。
「あいつは、めっちゃ大雑把だった」
「千影さんが言います?」
「マジなんだって。一応女の子の私の下着と自分の下着を一緒に洗いやがったんだぞ。流石に怒ったわ」
「幼い頃にしか会っていないので、そんな人だとは知らなかったです」
「それだけじゃない。二十歳の記念に酒を飲んだ時は、ノンアルを飲んでたんだぞ。飲めないなら言えよって言ったら、恥ずかしいとか言うしよー」
口では文句を言いつつも、千影はとても嬉しそうだった。本当に大事な人だったのだと伝わってくる。
千影の話を聞きながら、顔しか覚えていない父のことが少しずつ分かってくる。だからこそ、自分に一度も会わなかったのは、何か理由があるのかもしれないと思い始めていた。それでも、祖母が亡くなる前には会って欲しかったが。
「優人も同じだろ?」
千影に呼ばれて、意識が現実に戻る。
「お前も、自分が死ぬかもしれないのに、私を庇った」
「目の前で殺されそうになっているのを見たら、誰だって飛び出しますよ」
「そんなことはない。あれは、お前だから動けたんだ」
千影が優人を見つめる。魔王の黒い瞳が、心の底まで覗き込んでいるように感じた。
「胸を張れ。誰が何と言おうと、お前は優しい人間だ」
そう断言されて、優人は全身がむず痒くなる。結界がなかったら、今すぐ逃げ出しているところだ。それでも、不思議と悪い気持ちはしなかった。
「だからこそ、私はお前に権能を与えたんだからな」
「だけど、僕には……」
優人が続きを話す前に、廃工場に轟音が鳴り響く。
二人の視線の先には、土煙が立ち込めている。しばらくして姿を現したのは、数日前に見た悪魔だった。
コウモリのような翼を羽ばたかせて、地面へと降り立つ。廃工場全体が怯えるように揺れ動く。
あの時の恐怖を思い出し、優人の足が震え出した。
「あれくらいなら、今の優人でも大丈夫だろ」
「いやいや、無理ですって。あんな怪物相手に戦えるわけないですよ」
優人が首を振っている間に、悪魔が鋭い爪を振るう。だが、透明な壁に弾かれて、忌々しいものを見るように唸り声を上げる。
閉じ込める檻が、悪魔から攻撃を防ぐ壁になっていることに、優人は安堵する。
爪が届かないことに怒り狂うように、悪魔は透明な壁に腕を叩きつける。最初は無傷だった結界にも、徐々にヒビが走っていく。
「結界が破られるじゃないですか」
「お前にとってはいいことじゃねえか。結外に出れるんだし」
「でも、あの悪魔がいるんですよ。すぐに殺されます」
二人が言い合っている間に、結界全体に亀裂が広がる。壊されるのも時間の問題だ。
「大丈夫だって。権能の使い方は分かるだろ」
「だとしても、無理ですって」
悪魔が大きく振りかぶり、巨大な腕を叩きつける。瞬間、結界の壁が破壊された。
ガラスのように破片が飛び散る中、悪魔が近づいてくる。
必殺の鋭い爪が迫り、優人は咄嗟に自分を守ろうと黒い右手で防ぐ。
悪魔の腕が黒い右手に触れた一瞬で、肘の先が跡形もなく消し飛ぶ。
「だから、言っただろう。大丈夫だって」
呆然と黒い右手を見つめる優人が振り返ると、当然と言いたげに千影がニヤリと笑う。
「ほら、よそ見してる場合じゃないぞ」
優人が視線を戻すと、自分の身に何が起こったのかを理解した悪魔が、残った片腕を振り下ろす。
だが、優人の右手に触れただけで簡単に消滅した。
結界や千影の黒い蛇を弾くだけだったので、ただ黒くなる程度の認識だったが、全く違う。自分の右手が得体の知れないものに生まれ変わったような恐怖を感じた。
両腕を失った悪魔と視線が合う。さっきまでは狩る側の目だったが、今は怯え切っていた。
逃げるように悪魔が飛び立っていく。廃工場に大きく開いた穴から出ようとして、千影の足元から伸びた黒い蛇に一飲みにされた。
「そこまで、しなくても」
「何を言ってんだ。見逃したら仕返しにくるだろ?」
「そうかも、しれないですけど」
複雑な表情をする優人の目の前で、千影が黒い蛇を影に戻す。
「あの、この力って返せないんですか?」
「そんな都合よくいくわけないだろ」
「だったら、一生このまま……?」
優人はすぐに右手を元に戻す。この力はとても危険で、簡単に人の命を奪うことができる。とんでもない凶器を持たされた気分だった。
「魔力はコントロールできてるんだから、暴走することはねえよ。それより、早く帰ったほうがいいぞ」
千影が細く白い指で廃工場の空間を指差す。
つられて、優人が視線をたどると、廃工場には似合わない黒と白のドレスを身に纏ったお嬢様がバタバタと駆け寄ってくる。
上品さを感じさせる雰囲気だが、その表情は焦燥感に駆られていた。
「お願いします。助けてください!」
色素の薄い長い髪を乱すお嬢様に、優人は嫌な予感を感じていた。




