第二話 暴食の権能①
いつの間にか家に帰っていた優人が目を覚ますと、玄関の床で倒れていた。
「……そういえば、すぐに寝たんだっけ」
気だるげに体を起こすと、骨が軋む音が体内に響く。ドアの向こうから差し込む日光から顔を逸らし、スマホを確認する。既に授業が始まっている時間だった。
特に皆勤賞を狙っていたわけではないが、今までは無遅刻無欠席だったので、少しだけ残念になる。
後で学校に連絡しようと思い、優人はリビングへと向かう。
晩御飯を食べずに眠ってしまったので、優人は今すぐにでも何か食べたかった。
長年使い込んで凹みや傷がついた冷蔵庫を開けると、昨日買ったコンビニのパンを取り出す。
透明な袋を強引に破り、出てきた菓子パンにかじりつきながら、スマホを触る。結弦から『ちゃんと買った?』とメッセージが来ていた。
千影と名乗る女性と分かれた後にメッセージに気づいたが、帰ってから返信しようと思い、ついつい忘れていた。今すぐ返信しないと、後が怖い。
そんな優人の心を見透かすように、スマホに着信が来る。危うく落としそうになったスマホには『結弦』と表示されていて、慌てて電話に出る。
「はい。もしもし」
『昨日、連絡なかったけど』
いきなりの低い声に、優人はパンを袋に戻して、テーブルに置く。
長年の付き合いだから分かる。噴火寸前の結弦の声だ。ここできちんと説得できなければ、確実に怒らせる。
「ご、ごめん。昨日、返信しようと思ってたけど、疲れて眠っちゃってて」
『寝てたんだ? 私の返信を無視して』
今にも怒鳴りそうな気配に、優人は冷や汗が止まらなくなる。
『そういえば、この時間に電話に出るなんて珍しいわね』
「今さっき起きたばかりでして……」
『優人が寝坊するなんて、珍しいわね』
「昨日は学校で体育用具の片付けとか頼まれたから、結構疲れてたのかも」
『ふーん、そう』
自分でも苦しい言い訳だとは思うが、貫き通すしかない。
ラノベを買った帰りに悪魔に襲われて、謎の美人に助けられちゃって……しかも、体が消えそうになったんだけど、黒い剣を刺されて助かったんだよね。
事実ではあるのだが、言ったところで正気を疑われる。いや、結弦なら信用してくれそうな気もするが。
『それで、ラノベは買えたのよね』
「うん。買った買った」
『……それならいいわ』
なんとか納得してくれたようで、優人は気づかれないように安堵の息を吐く。
『今日出かける時にでも、ポストに入れといて。私、寝るから』
「え? 今から?」
『そう。朝までアニメを一気見してたから』
気の抜けた欠伸がスマホ越しに聞こえて、優人は改めて日常に戻ってきたことを実感する。
「分かった。今日は昼から学校に行くから、その時に入れるよ」
『お願い……あ、今度、ファミレスでアニメコラボがあるみたいだから、行ってきて』
「それって、高かった気がするんだけど」
以前にも頼まれて行ったことがあるが、普段外食しない優人にとっては驚くほど値段が高かった。
祖母が残したお金があるのでそれほど困っているわけではないが、できるならば節約したい。
『まさか、断ろうと思ってないわよね。私の連絡を無視しといて」
「……いえ。もちろん行かせてもらいます」
『それじゃあ、お願いね』
無慈悲に電話が切られて、優人は苦笑する。
結弦のわがままには驚かされてばかりだが、今回だけは仕方ない。無視したのは事実だし。
だが、結弦が朝までアニメを見ているなんて、珍しい。守に言われて、学校と同じ時間に起きるように言われているはずなのに。
もしかしたら、朝までアニメを見ていたのは、優人からの返信がなくて心配で寝られなかったかもしれない。
「まさか、ね」
「ーーここがお前の家か」
突然千影の声が聞こえて、反射的に振り返る。昨日と同じ真っ黒なライダースーツを身に纏う千影が、玄関を物珍しそうに見渡していた。
スマホで電話していたとはいえ、入ってきたことに全く気がつかなかった。
「どうして……」
驚きのあまり言葉が途切れた優人を、千影は不思議そうに見つめる。
「何が?」
「よく、ここに僕の家が分かりましたね」
「お前は私の配下になったからな。どこにいるかくらいは分かるんだよ」
「そ、そうなんですね」
千影の説明は意味不明だったが、とりあえず頷いておく。そんな優人を気にせず、靴のまま玄関を上がった千影がそのままリビングへと入る。
「ちょ、ちょっと、靴は脱いでくださいよ」
「気にすんなって。汚さねえから」
慌てて洗面所からタオルを取ってくるが、黒い革のブーツで歩く千影の足元には、一つの汚れもない。
呆然としている優人を押しのけるように、リビングの半分である畳の部屋を覗く。
「なんていうんだ。こう、古き良き家って感じがするな。ここ」
「……何しにきたんですか?」
「とりあえず、様子を見に来ただけだから、そんな怯えんなって」
興味津々にリビングを見渡す千影を見つめながら、優人は混乱していた。
さっきからまるで足音がしない。裸足でもない限り、そんなことはあり得るのだろうか。しかも、ブーツで歩き回っているのに、床には全く傷がない。
「すいません。少し、いいですか?」
キッチンのフライパンを降っていた千影が振り返る。
「そろそろ昨日のことを教えて欲しいんです」
「いいぜ。何でも教えてやるよ」
千影がリビングの椅子を足で動かすと、勢いよく座る。
行儀が悪いなと思いながら、優人はテーブルのパンを端によけて、冷蔵庫を開ける。
「桜間さん」
「千影でいい」
「じゃあ、千影さんは何か食べ物はいりますか? 簡単なものなら出しますけど」
「私は魔力の塊だから、何食べても意味ないんだよ」
「魔力……ですか? ゲームのMPみたいなものなんですかね」
冷蔵庫を閉めた優人が対面に座ると、千影がどう答えればいいのか考え込む。
「まあ、そんなもんだな。私たちが使う権能のエネルギーみたいなもんだ。私の体はそのエネルギーで作られてる」
「そう、なんですね」
肉体を持たないエネルギーの体ということなのだろうか。だからこそ、足音もしないし、食べ物もいらないのか。普通なら信じられないが、昨日の出来事を見たので、信じるしかない。
改めて、目の前の存在の異質さに、優人は緊張が走る。
一見、美しい黒髪の女性がただ座っているだけに見えるが、実際は違う。優人の命を簡単に殺せる猛獣を前にしているのだ。
何より、あの悪魔をいとも簡単に殺している。ここで暴れられたら、優人では止めることなどできるわけがない。
「他には聞きたいことはねえのか?」
ただ頬杖をつく姿すら様になっていて、思わず目を惹きつけられる。だが、油断してはいけない。
怒らせないように意識しながら、慎重に口を開く。
「まずは、千影さんのことです。あなたは魔王って言っていましたが、そもそも魔王というのは何ですか?」
「魔王っていうのは、人間の体を捨てて魔力の塊になった奴のことだよ」
「はあ……」
「現実では不便だけど、複写世界では生きられるんだよな。この体だと」
「複写世界って、昨日の場所ですか?」
蜃気楼のような空間の歪みを抜けた先の、現実と似ている世界。真っ暗で人気がなく、どこか恐ろしく感じたあの世界を思い出す。
「そう。この世界と似てるけど全く違う。魔力だけで作られた世界だ」
「さっき魔力はエネルギーって言ってましたけど、なんで魔力の塊である千影さんは見えたり喋ったりできるんですか?」
「魔力は人間の想像力の影響を受ける。だから、魔力の塊である魔王は、人間だった頃の姿を保てるんだよ。複写世界も同じだ。現実の人間の想像力の影響を受けてるから、似てるんだろうよ」
長い毛先をいじりながら、千影が答える。
「それなら、複写世界はもっとファンタジーな世界になってるんじゃないんですか?」
千影の説明通りなら、人間の想像力によって生み出されたドラゴンや魔物、宇宙人がいてもおかしくないはずだ。それなのに、なぜ現実とそっくりになってるのだろうか。
優人の質問に、千影はなぜかいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「それじゃあ、お前は私と出会うまで、超能力や魔法の存在を本気で信じてたのか?」
「いや、それは……」
「だろ? ほとんどの人間は不思議な力の存在を信じちゃいねえ。だから、複写世界は現実と同じなんだよ。まあ、複写世界のどこかには、ファンタジーな場所もあるんだろうがな」
退屈そうに、千影が両腕を頭の後ろで組む。
「…………」
「なんだよ。まだ信じられねえか?」
「いえ。改めて、昨日のことを考えていたんです」
悪魔のような怪物に、千影の影から伸びた黒い蛇の群れ。そして、消えそうになった優人の体。それらが全て夢だと言われた方が、確かに納得はできる。
だが、目の前の女性が全てが現実だったと突きつけている。
「そういえば、昨日気が変わったから助けたと言ってましたけど……」
「それは、お前が先代魔王の良隆の息子だからだよ」
あまりの驚きに、思わず椅子から立ち上がる。
「な、なんで、父さんの名前が……」
「やっぱり、お前の父親だったか」
もう二度と聞くはずのないと思っていた父親の名前に、優人はテーブルの上の拳を握る。
「そ、そんなわけないじゃないですか⁉︎ 確かに父さんとは幼い頃にしか会ったことはなかったですけど、普通の人だったでしたし」
「間違いねえよ。だって、優人って名前の息子がいるって聞いてたし」
たしかに神凪という苗字はそれほど多くはないはず。それならば、本当に父親なのだろう。
「じゃ、じゃあ、父さんはどこに?」
「死んだよ」
「……そう、なんですね」
何て言えばいいか分からず、優人は俯く。
ショックを受けると思っていたが、優人の心は驚くほど静かだった。元々、長い間父親とは会っていなかったし、まともに育てられた覚えがない。
だからか、不思議と悲しくもなかった。
「もう少し話したかったが、そういうわけにもいかなくなったわ」
顔を上げると、千影の黒いライダースーツが少しずつ透け始めていた。まるで、昨日の優人と同じように。
「私の体は魔力の塊だって言ったろ? 現実だと肉体がないと長くは存在できないんだ。複写世界に人間が存在できないのと逆なんだよな」
消えそうになりながらも、千影は全く動じていない。椅子から立ち上がって呑気に体を伸ばしている。
「じゃあ、僕と同じように黒い剣? で刺せばいいんじゃないですか」
「そんな簡単な話じゃないんだが……まあ、その説明はまた今度な」
「それは全然いいので、早くどうにかしないと」
「大丈夫だって。向こうに帰ればいいだけだし」
玄関へと歩く千影を視線で追うと、いつの間にかドアの手前の空間が波のように揺らいでいた。空間の歪みと呼ばれていた現象が、優人の家の玄関で発生している。
「それじゃあな、優人。なんかあれば呼べよ」
軽く手を振った後、千影が空間の歪みへと入っていく。
その光景を見て、残された優人はじわじわと実感し始める。自分が、非現実的な世界に足を踏み入れてしまったことに。
色々と気になることはあったが、大量の情報が頭に入ってきて、パンクしそうになっていた。
「……とりあえず、学校に電話しないと」
頭の中を整理しながら、優人はスマホを取りにリビングに戻った。




