第一話 少年と暴食の魔王③
ライトノベルを買った優人がショッピングモールを出ると、空は真っ暗に染まっていた。
手に持ったビニール袋を揺らしながら、来た道を引き返す。ショッピングモールから漏れる光が遠ざかり、深い闇に包まれた住宅街に入っていく。
無人の住宅街から優人の家はそれほど離れていないので、あと数分でたどり着く。
晩御飯をまだ食べていないので、お腹はぺこぺこだった。結弦の家でご飯を食べればよかったと脳裏によぎるが、すぐに頭を振ってかき消す。
優人の罪悪感を見抜いて、守は声をかけてくれたのだろうが、素直に甘えることはできなかった。
優人には両親はいない。母親は幼い頃に病死し、父は祖母に優人を預けてから一度も帰ってきていない。そのため、家族と言えるのは祖母だけだった。
そんな祖母も、一昨年に病気で亡くなり、残された家で一になった。そんな優人を心配してか、近所のマンションに住んでいた守に誘われて、一緒に夕食を食べる事も多かった。
何度も用意してもらっていたので、食費だけでも渡そうとしたが、一度も受け取られたことがない。
そんな状況に甘え続けることは流石に申し訳なくなって、家で食べるようになった。最初は一人で食べることに寂しさを感じたが、今では何とも思わなくなっている。
三人で食卓を囲んでいるときは楽しいのだが、家に一人で帰るときには、結弦を引きこもりにした罪悪感に押しつぶされそうになった。
その重みは、今も優人の全身にのしかかっている。
少しでも結弦を学校に行く手助けをしたいが、無理に勉強しようとは言えなかった。再び、傷つけてしまうことが怖いのだ。
結弦の部屋にあったゴミ箱を思い出す。丸められた教科書が捨てられているのを見ると、学校のことも思い出したくないのかもしれない。
そのこともあり、結弦を外へ連れ出すのには消極的だった。守も同じようで、静かに見守っている。
いつの間にか、ネガティブなことを考えていることに気づき、優人は無理やり晩御飯のことを考える。
家に帰って晩御飯を作るのは面倒なので、昨日の残りを温めよう。たしか、冷蔵庫には切った野菜とパスタの残りがあったはず。
晩御飯を食べたら、結弦に借りているラノベを早く読まないといけない。今はまだ怒っていないが、早く返せと言われるかもしれない。
少しずつ気持ちが浮上してきた優人は、早くご飯を食べようと足速に帰ろうとして、
ーー獣のような低い唸り声が、夜の住宅街に響き渡った。
何かの動物でもいたのかと思い、足を止めて周囲を見渡す。だが、動物どころか、人の姿も見当たらない。
不意に、結弦が話していた神隠しのことを思い出す。
「……まさか、ね」
気のせいだろうと思い、再び歩き出そうとして、
「ーーグォォォォ!」
獣の咆哮が再び響き渡り、目の前の空間が波のように揺れた直後。
突如現れた巨大な黒い腕に全身を掴まれ、景色が一瞬で通り過ぎた。
❇︎ ❇︎ ❇︎
勢いよく投げられ、優人の視界がぐるぐると回る。アスファルトの上を何度も転がり、やがて勢いが止まる。
胃の中の気持ち悪さを抱えたまま、優人は体を起こす。見た感じは大きな怪我はないが、鈍い痛みがあった。全身を打撲しているし、服の下には擦り傷があるかもしれない。
周囲を見渡すと、住宅街から漏れ出る光は消えていて、全く人の気配がない。どんよりと濁った空気に包まれている。
夜空には星すら輝いておらず、しんと静まり返っていた。まるで優人一人しかいないように感じて、足がすくむ。
そんな馬鹿な考えを振り払おうと、急いで家に帰ろうとして、闇の中に紛れる大きな黒い存在に気がついた。
コウモリの両翼を広げるその姿は、想像上の生物であるはずの悪魔そのものだった。
「ヒッ……」
血のように赤い両目と視線が合い、優人は腰を抜かす。
獰猛な獣の顔。尖った耳にまで届きそうな口から、鋭い牙がのぞいていた。優人など簡単に噛み砕きそうだ。
刃物のような鋭い爪が五本の指から伸び、丸太のような黒い腕を見て、さっき見た黒い腕だと気づく。
この悪魔にさっきまで掴まれていたのかと思うと、足が震えて立ち上がれない。
必死に頭の中で逃げるシミュレーションをするが、どう考えても助からない。あの巨大な腕で薙ぎ払われて、確実に死ぬ。
一瞬でも動けば死を予感させる緊張感の中、どうしてこうなったのかを考えても、答えなんて出るはずがない。
全く身動きできない優人の視界に、アスファルトに落ちたビニール袋が映る。
優人が死んだら結弦が自分を責めるかもしれない。そうなれば、今度こそ外から出られなくなる。なんとしても、この場から逃げ出して生き残らないと。
必死に頭を動かす優人は、小さな違和感に気づく。そういえば、なぜあの悪魔は何もしないのだろうか。
優人を捕まえたのはあの悪魔であることは間違いない。だが、何の目的もなくそんなことをするわけがない。それなのに、優人を放置したまま一向に動こうとしない。
目だけを動かして、悪魔の様子を観察する。よく見てみると、落ち着きなく辺りを見渡している。まるで、何かに怯えているように。
「やっと見つけたぞ、クソ悪魔」
優人の背後から声が聞こえると同時に、悪魔が怯えたように後ずさる。
コツコツという足音が近づくのを感じて、優人は振り返りたい衝動に駆られる。
だが、あれほど強そうな悪魔が怯える相手。そんな人物を見たら、自分なんか一瞬で殺されてしまう。
やがて、固まる優人のそばを通り過ぎると、腰まで届くような黒髪の女性が立ち止まった。現実離れした美貌に一瞬見惚れてしまう。
真っ黒なライダースーツを見に纏う女性は悪魔に対して一歩も引かず、それどころか、この場を支配する圧倒的な存在感を放つ。思わず、空気が振動していると錯覚してしまう。
恐怖を振り払うように、悪魔が巨大な腕を振るう。
油断しているかのように棒立ちの女性に直撃する直前、優人は飛び出していた。勢いのまま女性と共に倒れ込むと、背中を突風が通り過ぎる。
「お前、何しやがる」
邪魔だと言いたげに、優人は突き飛ばされる。切長めの黒目から侮蔑の視線を投げられるが、謝っている暇はない。
悪魔からの追撃が来る前に、女性を背にして優人は悪魔を見上げる。だが、予想に反して、悪魔は翼をはためかせて、飛び立っていた。
逃げる悪魔の姿を見て、拍子抜けする。てっきり、鋭い爪が振り下ろされると思っていたからだ
荒れ狂う風に目を細めつつ、空を飛ぶ悪魔を視界に収める。そのまま悪魔が遠くの空へと去ろうとしてーー突然現れた黒い蛇が悪魔に噛み付く。
夜空を震わすほどの悲鳴を上げるも、何匹もの黒い蛇に噛み付かれ、悪魔は地面に叩きつけられる。
目まぐるしく変わる光景に混乱していると、背中を蹴り飛ばされる。
転がった優人が振り返ると、いつの間にか立っていた女性が苛立たしげに見下ろしていた。
殺意をこもった目で睨みつけられると、すぐに興味を失くしたように、黒い蛇が群がる悪魔に視線を飛ばす。
「全部、喰らい尽くせ」
その言葉を合図に黒い蛇の群れが悪魔を飲み込み、瞬きをしている間に跡形もなく消え去った。
役目を果たしたように地面を這う黒い蛇は、影へと戻っていく。アスファルトを覆う影はみるみると小さくなり、女性の足元へと縮んでいった。
あまりの恐ろしさに、唾を飲み込む。
「さっき、なんで私を押し倒した?」
ただ普通に聞いているだけなのに、優人は口を開けなかった。
女性の圧倒的な存在感に怯えていたのもあるが、少しでも動けば悪魔のように殺されると思ったからだ。
「おい、聞いてるのか?」
「す、すいません! あ、あなたが殺されると思って」
「私が? あの雑魚に?」
顔にかかった長い黒髪をかきあげて、女性が鼻で笑う。
何て反応すればいいか困る優人は、自分の体が透けていることに気づく。
あまりの状況におかしくなったのかと思ったが、違う。本当に、優人の体が消えそうになっているのだ。
「なんなんですか、これ⁉︎」
向こう側のアスファルトが見え始めた両手に驚いていると、女性が哀れな視線を送る。
「あの雑魚の餌として引っ張られたんだろ。気の毒にな」
女性が何かを言っているようだが、優人の耳には全く入ってこない。自分の体が透明になっていくことで、頭がいっぱいだった。
「あ、あの、どうしたら助かりますか?」
「ねえな。権能を持ってない奴は、この世界には存在できないからな」
女性の無慈悲な言葉に、優人は全身から力が抜ける。もう助からないと言われて最初に頭をよぎったのは、結弦のことだ。
このまま死んでしまったら、結弦がさらに家から出なくなるかもしれない。
「あなたは、大丈夫なんですよね。それなら、一つだけお願いがあるんです」
女性が怪訝な顔をしているが、それに答えている時間がない。いつ消えるか分からないので、了解を得ないまま、話を続ける。
「五色町三丁目のマンションにいる、白夢守という人に事情を説明してほしいんです」
「なんで、私が……」
「お願いします! 時間がないんです!」
女性とやり取りしている間にも、体は徐々に薄くなっていく。すでに体の輪郭すら失われようとしていた。
「ていうか、なんでそんなことを……」
「そうすれば、安心すると思うんです。少しの間でも」
優人からの連絡がなくなり、行方不明になれば、最後にラノベを買いに頼んだ結弦が気に病むだろう。だが、守なら事情が分かればどうにかしてくれるだろう。
目の前の女性が伝えてくれるかどうかすら分からないが、今はそれしかできない。
優人が縋るように見つめると、女性は根負けしたように長く黒髪をかきむしる。
「……仕方ねえな」
「ありがとう、ございます」
安心できたからか、強烈な眠気に襲われる。今、目蓋を閉じたら、もう起きないだろうと予感がした。
女性を見上げることすら億劫になり、優人は地面に倒れ伏す。
「おい、名前だけ聞かせろよ」
女性の声が遠くなる。意識が途切れそうになるが、優人は最後の力を振り絞り、口を開く。
「神凪……優人、です」
そう言い残すと、優人は意識を手放した。
❇︎ ❇︎ ❇︎
「神凪……。おいおい、マジかよ」
今にも消えそうになる少年を見下ろしながら、女性は驚きが隠せなかった。こんな出来すぎた偶然に、思わず笑みをこぼす。
「そういや言ってたな。息子がいるって」
だとしても、こんなタイミングで出会うとは思わなかったが。
本当は見捨てるつもりだったが、気が変わった。あいつの息子なら、これ以上の適任はいない。
いつの間にか手にしていた黒い長剣を軽く振り回し、少年の体に切っ先を向ける。
先代から託されて生き残った意味を噛み締め、女性がニヤリと笑みを浮かべる。周囲から見れば、あまりにも獰猛な笑みを。
自分の身長と変わらない黒い長剣を、今にも消えそうな少年へと突き刺す。
「まだ死ぬんじゃねえぞ」
女性が呪文を唱えると、それに呼応するように黒い長剣を中心に禍々しい光が放たれる。徐々に大きくなる光に、女性と少年は包まれていった。
❇︎ ❇︎ ❇︎
眩い光が瞼の裏を突き刺さり、優人は反射的に強く閉じる。しばらくして、恐る恐る目蓋を開けると、誰もいない住宅街のど真ん中だった。
「ここは……」
ぼんやりとした頭で周囲を見ているうちに、さっきまでの状況が鮮明に蘇る。
確かめるように全身を触る。意識が途切れる寸前までは消えかけていた体が、今はちゃんと存在していることに安心する。
「やっと起きたか」
戸惑いながら見上げると、近くにはいなかったはずの女性が両腕を組んで立っていた。真っ黒なライダースーツに身を包んでいて、豊かな胸が両腕に乗っている。
思わず視線が吸い寄せられている自分に気付き、慌てて視線を逸らす。
「僕は死んだんじゃないんですか?」
「気が変わって、助けてやったんだよ」
「ど、どうやって?」
疑問に思う優人に、女性はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。次々と表情が変わるのを見て、見た目より幼いように見えた。
「こいつをお前にブッ刺した」
優人が瞬きをしている間に、女性の手には黒い長剣があった。
「この剣でぶっ刺せば、お前にも権能が発現して、この世界でも生きられる」
「そ、そもそも、この世界ってなんなんですか? 周りに人はいないけど、あんな悪魔は住んでるし。それに、あなたのこととか、権能やその剣についてもーー」
もうパンク寸前になった優人が、思いつくままに口に出す。いつもはブレーキをかけてくれる理性は、ぶっ壊れていて止まらない。
「ーーうるせえな」
面倒臭そうに、女性の美しい顔が苛立たしげに歪む。
「とりあえず、今から言うことだけは覚えとけ。忘れたら殺す」
優人の全身が硬直する。
さっき悪魔を食い殺した黒い蛇が脳裏をよぎり、震える優人を見下ろしながら、女性は不敵な笑みを浮かべた。
「私の名は桜間千影。暴食の魔王だ」
「暴食の……魔王?」
優人には何を言っているのか分からなかったが、これだけは分かる。彼女は、自分とは異質な存在なんだと。
「それだけ覚えたら、もう帰れ」
「帰れって言われても、どこから帰ればいいか」
周囲を見渡すが、無人の住宅街に残された優人には、帰る場所があるとは思えない。
不安になる優人をよそに、女性ーー千影は黒い長剣で宙を差し示す。
「さっきの雑魚が開けた歪みがあんだろ? そこから帰れ」
黒い切っ先を見ると、蜃気楼のように住宅街が揺れているように見える空間があった。
ちょうど一人ぐらいは通れるような歪んでいるように見えるが、とても入る勇気は出せない。足踏みしている優人を見て、千影が黒いライダースーツに包まれた足を上げる。
「いいから早く帰れ」
「うわっ」
背中を蹴られた衝撃の後、一瞬の浮遊感を感じた優人は、再び住宅街に立っていた。だが、先ほどとは違い、家から漏れ出る光がちらほらと見える。
遠くから車の音が聞こえてきて、ようやく戻ってきた安心感でその場に崩れ落ちる。
振り返ると、空間の歪みは消えていて、まるで夢の出来事のように思えてきた。
「もう、帰ろう」
電柱を支えにして立ち上がった後、優人はふらふらと家に帰っていった。




