第一話 少年と暴食の魔王②
マンションの階段を駆け上がると、いつものように突き当たりの『305』のドアを開ける。
「ごめん、遅くなって」
脱いだ靴を揃えながら、優人は人の気配のない部屋を進む。
誰の返事も返ってこないことに焦りつつ、薄暗い廊下を歩くと『結弦の部屋』と書かれたネームプレートの前で止まる。
「結弦、入るね」
声をかけてから、ドアを開ける。瞬間、猫を思わせる不機嫌そうな両目に射抜かれた。
「遅い」
「ごめん。ちょっと、提出物の係をやってて」
「どうせ、誰かに押し付けられたんでしょ」
伸び切ったジャージの袖をいじりながら、結弦が呟く。カーペットの上で丸くなる姿は、小さな猫を想像させた。
どうして女子は鋭いんだろうと思いつつ、優人は困ったような笑みを浮かべる。
「そもそも、断ればいいのよ。何でもかんでも引き受けるから、そんな目に遭うのよ」
「でも、僕のせいで友達が怒られるのは流石に嫌だよ。それに、断るのもなんだか悪いし」
「そういうのは優しさって言わないの。ただ、嫌われたくないから我慢してるだけ」
普段とは違う言い方に、またネットサーフィンで学んだろうと思いながら、優人は静かにドアを閉める。
床に鎮座するアニメキャラのぬいぐるみを避けて、空いているスペースに腰を下ろす。
「そういえば、この間借りたラノベ、面白かったよ」
「当たり前でしょ。私が勧めたんだから」
自信満々に小さな胸を張る結弦を見て、優人は話題を逸らせたことに密かに安堵する。
「うん。特に、ヒロインと協力した主人公が、超能力で敵を倒すシーンはカッコよかったね」
「あの作品の良さは、それだけじゃないの。なんと言っても、ヒロインが最高なのよ! 見た目のクールさもドンピシャに好みなんだけど、不器用ながらも主人公をサポートし続けるところが、めっちゃ可愛くてーー」
大好きな彼氏について話すように、結弦が熱に浮かされた顔で語り続ける。
優人のことなどお構いなしで、どういう反応をしたらいいか困り、つい周囲を見渡す。
ピンクや水色の髪色をしたアニメキャラのアクリルスタンドや肌の露出の多い女の子のフィギュアが、部屋の至る所に配置されていた。
勉強机しかない部屋で過ごしている優人には、目に痛いくらいカラフルだ。
使っていないであろう勉強机には、漫画やライトノベルが積み重ねられていて、今にも雪崩が起きそうだ。
壁際の本棚には、ぎっしりと本が詰められており、二段目の一部だけが歯抜けのようになっていた。多分、そこから出して机に置いてあるのだろう。
「ーーちょっと、ちゃんと聞いてるの⁉︎」
結弦の拗ねたような声で、優人の意識が戻される。まだ幼さを残した顔には、不満げな色が浮かび上がっていた。
「あ、うん。聞いてたよ」
「じゃあ、さっき何て言ってた?」
「えっと……ヒロインの可愛さは最高だよねって」
「私の話を聞き流すなんて、いい度胸ね」
「そういうわけじゃなくて、その……ちょっとぼーっとしてただけで」
再び怒りそうな気配に、優人はひたすらに頭を下げる。
「まあいいわ。私が言ってたのは、最近の神隠しのこと」
予想外の言葉に、優人は怪訝な顔をする。
「知らないの? 獣のような声を聞こえた後に隣にいた人が消えたてり、コンビニに出かけたまま帰ってこなくなったりしてるって。SNSとかでよく見るけど」
「ごめん。全然知らない」
「……あんた、友達いるの? 心配になるんだけど」
「いるよ。……一応」
力強く断言できない自分に、少し情けなくなる。
「まあ、いいわ。とりあえず、そのことを調べて欲しいの。もし、本当だったらすごいじゃない」
「そんな、ラノベじゃないんだから……」
猫のような目を輝かせていた結弦が、キッと優人を睨む。
「そんなの分かんないでしょ。この世には解明されていないことはあるんだから」
「そうかもしれないけど、なんで僕なの?」
「だって、私は学校に行ってないんだから、調べようがないでしょ」
あっけらかんと言う結弦になんて言えばいいのか分からず、優人の視線が泳ぐ。
その時、部屋の片隅にあるゴミ箱に、教科書が詰め込まれていることに気づく。胸の中に黒いモヤみたいに、嫌な気持ちが広がっていく。
「それとも、私の頼みは断るの? お友達の頼みは引き受けるのに」
「いや、そんなことは」
「じゃあ、もちろんやってくれるわよね?」
「……はい」
年下の幼馴染に言い負かされて、優人は頷くことしかできなかった。
もう用が済んだとばかりに、猫のようにしなやかに体を伸ばす結弦は、机の上の小説を手に取り、読み始める。
明日からクラスメイトにどうやって話せばいいのか、悩む。
万が一、本当だった場合、優人だって被害に会う可能性があるのだ。結弦には誤魔化して忘れてもらおうと密かに考える。
「そういえば、私が頼んだやつ、買ってきてくれた?」
本から顔を上げずに尋ねる結弦に、優人の動きが止まる。そういえば、昨日、ラノベを買ってきてほしいと頼まれていたような……。
今日、結弦の家に行く途中で買おうと思っていたのだが、渡に提出物を頼まれたことで、すっかり忘れていた。
「もしかして、忘れてたの?」
「そんなことないよ。結弦の家に行ってから、買いに行こうと思ってて」
咄嗟に誤魔化すと、結弦がバタンと本を閉じる。
「それじゃあ、私も行こうかな。久しぶりに外の空気も吸ってみたいし」
「ダメダメ。絶対にダメ!」
慌ててドアを塞ぐが、長いジャージのズボンのすそを引きずった結弦がにじり寄る。
「今日はなんか調子良いから、行けるって」
「いや、でも……」
「大丈夫。無理だったら、すぐに帰るから」
押しのけるように迫る従姉妹を止めきれず、仕方なくドアを開ける。軽やかな足取りで出ていく結弦の背中を、優人は心配そうに見つめる。
薄暗い廊下を突き進み、玄関で靴を履いた後、結弦が深呼吸する。その横顔は緊張しているように見えて、優人は心の中で願う。どうか、外に出れるようにと。
落ち着いた様子の結弦は、夕陽が差し込むドアに手を伸ばそうとして、見えない何かに阻まれるように止まる。
病的なほどに白い顔は青ざめ、呼吸は荒くなるのを見て、慌てて優人が駆け寄る。
「ラノベは後で買ってくるから、今日はやめておこう?」
目の焦点が合わないまま頷く結弦を、ゆっくりと玄関に座らせる。いつもなら文句の一つが飛んでくるが、その余裕もないらしい。
ドアの向こうが暗くなり始めた頃、呼吸が落ち着いた結弦へと視線を合わせる。
「ごめんね。ラノベを買うの忘れて」
「やっぱり、忘れてたじゃん」
「今日買いに行こうとは思ってたんだ。ただ、その……」
優人の言葉の続きを察したようで、結弦が弱々しく口角を上げる。
「さっきも言ったけど、優人は我慢しすぎ。断ったって、相手も気にしないって」
「でも、傷つくかもしれないだろ。そうなるくらいなら、自分が我慢したほうが楽だから」
お願いや頼み事を断れないのは、大抵のことは許せるからというのもあるが、一番は他人を傷つけたくないからだ。
自分の意図せぬ発言で傷つけてしまったり、良かれと思ってしたことが相手にとっては最悪なこともある。だからこそ、自分が我慢した方がマシなのだ。
それを優しさと言われることもあるけれど、優人にとっては違う。ただ傷つけたくないだけの臆病から来る行動だからだ。うっかり相手を傷つけて、自分が傷ついてしまわないように。
「……それって、私が引きこもったから?」
伺うように見つめる結弦の目が潤んでいるように見えて、優人は激しく首を振る。
「そんなことない! ……ただ、僕がビビりなだけで」
何も言わない結弦を見ていられなくなり、優人が視線を逸らす。
「とりあえず、部屋に戻ろうか」
「ん」
優人は立ち上がると、結弦が上目遣いで両手を差し出す。どうやら、引っ張ってほしいらしい。
いつもは不機嫌な猫が急に甘えるかのような仕草に、仕方なく小さな手を掴む。指先に熱が戻ってきているのを確認して、安堵する。
力を込めれば簡単に傷つけてしまう柔らかな手を、慎重に引っ張り上げる。
勢い余って優人の胸に飛び込んだ結弦から、甘い香りが漂ってくる。ジャージの柔軟剤だと分かっているが、体が硬直してしまう。
それを見計らったかのように、不意に玄関のドアが開く。現れたのは黒縁眼鏡をかけた冴えない男性。
枝のように細く折れそうな長身で、頭スレスレを通って玄関に入る。
茶髪に染めた短髪だけが、気弱な見た目とはかけ離れていて、チグハグな印象を与える。まるで、頑張って目立とうとしている大学生のようだ。
眼鏡越しの男性の視線が、優人と結弦のつながれた手を見ていることに気づき、瞬時に距離を空ける。
「違うんです、守さん。その、結弦を立たせようとしただけで」
早口に説明する優人を見下ろしながら、守はズレたメガネを中指で直す。
「あ、そうなんだ。てっきり、結弦と付き合ってたのかと思ったのに」
「そういう冗談いいから。優人はただの従兄弟だし、幼い頃からの知り合いだから兄妹みたいなもんでしょ」
結弦の言葉に優人が激しく頷くと、守は露骨に肩を落とす。
「もったいない。優人くんなら、父親としてはオッケーなのに」
黙らせるように守を睨んだ後、結弦は逃げるように部屋へと向かう。
「これ以上お父さんの妄言を聞いてると吐き気するから、先に戻ってる」
結弦が勢いよくドアを閉める。
残された二人を拒絶するように、バタンとした音が廊下に響いた。
「守さん、すいません、結弦が乱暴なことを言って」
「大丈夫。結弦が反抗期なのは分かってるから」
全く気にしていないように笑っているが、守の目尻が悲しげに下がっている。大事な一人娘にそう言われたら、多少なりとも傷つくのだろう。
何て声をかけたらいいか迷う間に、守は廊下の壁のスイッチを押す。薄暗かった廊下が天井の光に照らされた。
「ありがとね。結弦のことを気にかけてくれて。また外に出ようとして、しんどくなったんでしょ?」
「……はい。その、一緒に買い物に行こうとして」
「やっぱりか」
守の寂しげな横顔を見て、優人の胸が締め付けられる。
「すいません。僕が余計なことをしたから」
「いやいや、そんなことないよ。結弦が無茶を言ったからだろうし」
「外に出ようとしたことじゃなくて」
一瞬、言葉に詰まった後、守の視線に耐えきれずに優人は頭を下げる。
「結弦がいじめられたことを勝手に先生に話したこと。すごく申し訳なく、思ってて」
「何を言ってるんだ。優人くんが話してくれたから、あの子を守ることができたんだ。それなのに、優人くんが悪いわけないだろ」
「でも、あれから結弦は学校に行けなくなったんです。先生にチクったと勘違いされて、クラスで避けられるようになったから……」
口を開くたびに言葉が震えて、今にも吐きそうだった。だけど、そんな弱みを見せてはいけないと、両手が痛いほど握りしめる。
「顔を上げてよ、優人くん。そんなことを言ったら、俺があの子の異変に気づけなかったからで」
「違うんです。僕の、僕のせいなんです」
お互いに何も発せない空気になり、沈黙が訪れる。
守にどう見られているのか、確認したくても、顔を上げられなかった。自分が情けなくて。
「この話は終わろう、もう過ぎたことなんだから。そうだ、久しぶりにご飯を食べないかい?」
ゆっくりと顔を上げると、守がいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。守の気遣いに申し訳なくなり、優人は首を振る。
「すいません。結弦に頼まれた本を買いに行かないといけないので」
「……そうか。でも、また今度食べようよ。ね?」
「ありがとうございます。結弦には、本を買いに行ったって伝えてください」
この場にいることが居た堪れなくなり、優人はもう一度深く頭を下げた後、部屋を飛び出した。




