第七話 神凪優人の権能④
真っ黒な球体の表面が生き物のように蠢いている。
自分が操る悪魔を思い出し、視線を逸らしたくなる。だが、優人が戻ってくるまではそういうわけにもいかなかった。
複写世界の校庭で立っていた渡は、指先の糸を黒い球体へと伸ばしていた。
この糸の先には優人がいるはずなのだが、黒い球体に呑み込まれてから既に一時間近く経過している。
優人にお願いされた時は智久への仕返しができると思って了承したが、この黒い球体を前にして、すぐに後悔した。
一見、無機質なものに見える黒い肉塊ではあるが、よく見てみると、まるで呼吸するように表面が少しずつ動いている。生々しい質感が気持ち悪いが、何よりいつ襲いかかるか分からないので、すごく怖い。
危険な場合は糸を切って逃げてもいいと言われたことに、今更ながら安堵する。正直、今すぐにでも帰りたい。
「おい、神凪はまだなのか?」
渡を監視している帝野が、黒い球体をじっと見つめている。いつもの無表情で、何を考えているのか分からない。
「反応はないな」
「……やはり、任せるべきではなかったか」
「けど、魔王様を連れて来れるのは優人しかいないんだろ?」
苦々しく呟く帝野に、渡は黒い球体から目線を離さず、尋ねる。
「そうだが、あまりにも遅すぎるだろ。消化されたんじゃないのか」
「だとしたら、糸が切れるだろう……って、言ってるそばから優人だ」
黒い肉塊へと続く糸が揺れ動く。優人と約束した引っ張ってほしい時の合図だ。
慎重に糸を手繰り寄せると、黒い肉塊から優人と長い黒髪の女性が現れる。多分、後ろの女性が暴食の魔王なのだろう。今まで見たことがないほどの美人で、思わず目を奪われる。
「ありがとう、渡くん」
慌てて駆け寄る優人に声をかけられて、渡はハッと視線を戻す。
「お、おう。気にすんな。それより、あの人が魔王様なのか?」
「そっか。会うのは初めてだよね」
美しい女性が、水浴びをした犬のように頭を振る。腰まで届くような長い黒髪が一瞬乱れるが、すぐに流れるように元に戻る。
帝野が頭を下げた後、女性に話しかける。
「お前、めっちゃ羨ましいな。あんな美人の下僕にされてるなんて」
「下僕じゃなくて、配下だけどね」
苦笑する優人の視線を受け流し、渡が女性の全身を舐めるように見る。
ピッタリと体のラインに合わせたライダースーツが豊かな胸に押し上げられて、強調されていた。思わずじっと見ていると、女性に気付かれて睨みつけられる。
瞬間、猛獣を前にしたように全身に鳥肌が立った。
「やめといたほうがいいよ。本気で殺されちゃうから」
優人の忠告に、渡は言い返す余裕がない。
女性の視線が帝野に移り、脅威が去ったことで、渡は止めていた息を吐く。
「大丈夫? 渡くん」
「……もう帰るわ。俺の役目は終わりだろうし」
この場には一秒でもいたくない渡が空間の歪みへ向かおうとした時、黒い球体にヒビが走る。
ヒビが全身に広がった直後、卵が割れるように、中から茶髪の男性が生み出された。
「だ、誰だよ、あれ」
「僕の叔父だよ。君に権能を渡した人」
渡が思い出そうとするが、モヤにかかったように思い出せない。たしかに、あんな見た目だったような気がするくらいだ。
「これからあの人を倒すのか?」
「ううん。倒さないよ」
優人が見つめる視線の先で、男性が驚いたように顔を上げる。周囲を見渡した後、優人と視線が合い、立ち上がった。
「魔力を全部喰らうだけだよ」
❇︎ ❇︎ ❇︎
左手を黒く染めた守が構えたのを見て、優人はチラリと帝野と千影に視線をやる。二人が頷き返した後、優人は渡が空間の歪みへと入っていくのを横目に見る。
たしかに、何かあればすぐに逃げてとは言ったが、ここまで素早いとは思わなかった。流石、元野球部だと感心する。
「優人くんと俺はよく似ている」
左手から悪魔を生み出しながら、守が呟く。
「俺を殺していれば誰も傷付かないと分かっていても、殺すことはできなかった。殺せば、結弦が悲しむから」
「ないとは言わないけど、僕が殺したくないんだ。守さんにはすごくお世話になったから」
優人が答えると、守が困ったように笑う。その笑い方は以前の守と同じで、まだ説得できる余地があるんじゃないかと思わされる。
「もうやめませんか? こんなことをしても、結弦は喜びませんよ」
「だろうな。だが、記憶を消せば俺のしたことなど忘れる」
結弦を幸せにしたいはずなのに、その発言が矛盾していることに気がついていないのだろう。
智久の持っていた権能の影響力に、優人はあらためて恐れを感じた。
「俺を説得しようなんて無駄だ。結弦のためなら、俺は何でもやる」
「……」
これ以上何を言っても意味がないと悟り、優人は黙り込む。説得できればよかったのだが、やはり難しい。
言葉を交わさないまま、守が目線だけで悪魔に命令をする。
「本当にやるんだな?」
足元の影を伸ばしながら、隣に立った千影が尋ねる。
優人が静かに頷くと、襲い掛かる悪魔に向けて黒い蛇が飛び出した。
戦いが始まった直後、守が空間の歪みに一直線に向かう。
魔王である千影が存在する以上、複写世界では絶対に勝てない。だが、現実に出れば、千影に制限がかかり、実力を発揮できない。その間に、優人と一対一で戦うつもりだろう。優人としても、最初からそのつもりだ。
そのまま空間の歪みに飛び込んだ守を追って、優人も走り出す。現実に出ると、守が忌々しいと言いたげに周囲を睨んでいた。
誰もいない現実の校庭には、帝野が作った結界の牢獄が作られていた。守が左手で触れるも、電流が走り、弾かれる。
守と話していたのは、説得するだけではない。帝野の結界を展開してもらうまでの、時間稼ぎでもあったのだ。
「これで逃げられないね、守さん」
「……それは、お前も同じはずだ」
優人の方へ向き直ると、守の全身から突き刺すような威圧感が放たれる。今まで感じたことのないプレッシャーに、押し潰されそうになる。
それでも視線だけは逸らさず、まっすぐに守へと向ける。
降参する気がないと伝わったのか、守の左手が悪魔の顔になり、優人を喰らおうと襲い掛かる。
自分の黒い右手で悪魔を喰らう。と同時に、示し合わせたようにお互い走り出す。
守との距離を縮めながら、優人は思考を続ける。
千影が悪魔と戦っている間に、優人を喰らうか、人質にしようとしているのだろう。逃げてしまえば、何度でもネムを狙うことができるからだ。
今回を踏まえて徹底的に隠れられれば、二度と捕まえるチャンスはない。守を助けるためには、ここで確実に決着をつけるしかない。
目の前に迫る守に、黒い右手で殴りかかる。
勢いに任せた拳は、守の動きによってかわされ、空振りに終わった。
前のめりになった優人の横腹を、守が蹴り上げる。
衝撃が走り、グラウンドの砂の上を無様に転がる優人。だが、勢いを利用して、なんとか立ち上がる。
優人の視線が牽制となり、守は左手を止める。
全身の擦り傷に耐えながら、優人は息を切らしていた。
お互いに権能を持っていても、素人に毛が生えた程度の喧嘩だった。これでは子供どうしの殴り合いと変わらない。
当たり前だ。半月ほど前まではただの学生だったのだ。ケンカもろくにしていない優人では相手にならない。
だが、それは守も同じだ。いつ権能を得たのかは分からないが、優人のように教えてくれる相手がいない以上、戦い方など学んでいるはずがない。だからこそ、権能の使い方が同じようなパターンしかなかった。
智久の影響で攻撃的になっていても、経験までは継承していない。それに、今までは悪魔が戦っていため、直接の戦闘経験も少ない。
二人には、それほどの実力差はない。そこに、優人が勝つ可能性があった。
お互いに攻撃するタイミングを探り合いながら、視線がぶつかる。
千影がいつ来るか分からないため、あまり時間をかけられない守は、焦ったように一直線に突っ込んでくる。
カウンターのように、優人が右手で拳を放つ。
迎え撃つように、守も左手で殴りかかる。
お互いを喰らい合おうと、黒い手がぶつかり合う。
右手から伝わる衝撃に倒れそうになるも、優人は力を込めて踏ん張る。
僅か数秒のぶつかり合いが、長時間のようにも感じられる。
優人の頬に汗の玉が滴り落ちた。
だが、純粋な大人と高校生の筋力の差か、優人の手が勢いよく弾かれる。
それでも再び振り下ろそうとして
ーー優人の目前に、守の黒い左手が突きつけられる。
拳銃を向けられたかのように、優人は身動きができなかった。
「お前の負けだ」
守がそう呟くと、突然否定するように首を振る。
「だから、殺さないと言ってるだろう……黙れ。黙れ黙れ黙れ!」
守が蝕まれていく姿を見て、優人は胸を締め付けられる。一刻も早く助けないと、元の守に戻れないかもしれない。
「守さん、結弦があなたを待ってます」
優人は黒い右手を上げたまま、苦悶の表情を浮かべる守に語りかける。
「だから、もう終わらせましょう」
守の顔に、困惑と痛みの表情が入り混じる。
「優人!」
右手から聞こえた千影の声を合図に、優人は守へ向かって飛び出す。
黒い左手をかいくぐり、優人は右手を守の体へと叩き込む。
それと同時に、何かの異物が侵入する気持ち悪い感覚が優人の全身を襲う。
権能を宿した手が、お互いの肉体を侵食する。
少しでも気を抜けば、優人の意識が薄れていくような恐怖。目を瞑ってしまえば二度と起きないような、忍び寄る死の予感があった。
かと思えば、全身を引き裂かれるような激痛が襲う。
突然の痛みに涙が出るが、優人は黒い右手をさらに奥へと押し込んでいく。
「踏ん張れよ、優人!」
「は、はい!」
足先が冷たくなるような感覚が来たかと思えば、すぐに心臓が脈打ち、血流に乗った熱が全身に行き渡る。
冷たさと暑さが、ジェットコースターのように何度も駆け巡る。あまりの寒暖差に、口から胃酸が出そうになる。
酸っぱい胃液が口内に広がる。
気分は最悪で、本気で死ぬんじゃないかと思えてくる。それでも、優人は黒い右手で魔力を喰らい続ける。
「優人くん、まさか……」
何かに気づいたようで、守が優人の右手を引き剥がそうとするが、片手で抑える。
守を助けるために思いついた作戦は、優人が守の魔力を全て喰らうことだった。
渡を助けた時と同じように、優人の権能を千影がコントロールすることで、智久の魔力を全て喰らい尽くす。そうすることで、守の肉体を傷つけずに助けることができる。だが、一つだけ弱点があった。
渡の時は少ない魔力だったが、智久は違う。様々な権能を喰らっているので、生半可な魔力量ではない。その間、優人が一度も守から離れないようにしなければならなかった。
それだけではない。一番の危険は魔力を喰らい続ける優人だ。
魔王でもない優人が魔力を喰らい続ければ、その肉体にかなりの負担がかかる。しかも、守も黙って喰われるわけではない。今の状況のように、優人の魔力を喰らおうとする。
お互いの体の中をものすごい勢いで魔力が流れるのだから、想像以上の激痛が走る。実際、優人は何度も意識が失いそうになった。
これまで以上に優人に負担が大きいが、後悔はない。優人を含めた、誰も失わない方法はこれしかなかったのだから。
優人が耐えている間に、状況は少しずつ変わっていく。
お互いの権能が拮抗しているように思えるが、徐々に千影たちの方がより多くの魔力を喰らい始める。
千影が優人の限界ギリギリまで暴食の権能を引き出しているのに対し、智久の意識が邪魔をする守は、それを抑えながら、魔力を喰らい続けなければならない。
二人同時に相手をしているようなものなので、意識が分散し、優人に集中できない。あとは、純粋な我慢比べだ。
「こうなったらーー」
守の黒い左手から悪魔が一体生み出される。
悪魔は優人の体を切り裂こうとして、優人の右手から伸びた黒い蛇が喰らいつく。
何度も邪魔をしようと悪魔を生み出しては、その度に黒い蛇が現れる。
やがて、悪魔の体を生み出そうとした矢先から、黒い粒子へと霧散する。魔力切れが始まった証拠だ。
「結弦を見捨てるのか?」
優人の心を挫こうと、守が言葉で揺さぶってくる。
「このまま家の中にいたままでいいのか?」
それでも右手を離さない優人に、守は話を続ける。
「あの子を外の世界に出すには、この方法しかないんだ。あの子を傷つかない世界を築くことしか……」
「違う!」
優人の叫びに、守は黙らされる。
「それは、結弦の力を信じてないのと同じなんだ! 結弦は自分の力で外に出れる」
朦朧とした意識のまま、優人は叫び続ける。
「そのために、僕たちが力を貸すんだよ。たとえ傷ついてしまっても、きっと立ち直れるから!」
倒れそうになった体が傾くも、全ての力を右手に集中させる。絶対に離さないと、無我夢中で掴み続ける。
智久の左手から徐々に黒が消えていく。元の手の色に戻った瞬間、智久の体から、黒い何かが飛び出した。
コウモリの羽を広げた小さな悪魔が、優人へと襲い掛かる。
全力を尽くして動けない優人の右手から、黒い蛇が飛び出し、一口で飲み込む。
先に膝から崩れ落ちた守を追うように、優人も地面に倒れ込む。
荒い呼吸を繰り返しながら、顔を横に向ける。
悪夢から解き放たれたように安らかに眠る守に、心の底から安心する。
空を見上げると、結界の外に見える空は雲一つなく、太陽が優人たちを優しく照らしていた。
視界に、不敵な笑みを浮かべる千影が映る。
「よく頑張ったな、優人」
返事できる余力はない優人は、口角をわずかに上げると、意識を手放した。




