第七話 神凪優人の権能③
そこは真っ暗な闇だった。光はなく、黒く塗りつぶされている世界。時間の間隔も分からなくなるような、深い闇の中に浮かぶ一人の女性。
長い黒髪を腰まで伸ばしたライダースーツの女性。千影が、脱力したまま闇を流れていた。
頭が割れるような痛みは消えていて、何をするわけでもなく、暗闇をずっと眺めている。
ここがどこかは分からないが、一番新しい記憶が悪魔に取り込まれた時だったので、暴食の権能によって喰われたものが行き着く胃袋のような空間なのだろうと思っていた。
喰べることはあっても喰われたことはないため、最初は新鮮味があったが、数分も経てば、面白くも何にもない。何も変わらない暗闇を漂うだけだった。
「とりあえずは、あいつを助けられたな」
両手を後ろに組み、最後に見た優人の顔を思い出す。やっと良隆のように誰かを助けられたことが、一番嬉しかった。
ずっと良隆のようになりたかった。自身を犠牲にして、誰かを助けるような人間に。
だけど、千影にはできなかった。当たり前だ。どんなに親しい他人でも、自分の方が大事に決まっている。
それでも、そんな風になりたいと思う気持ちは止められない。自分を育ててくれた親のような存在なのだから、憧れて当然だ。
けれど、千影は良隆のようには振る舞えなかった。感情に任せて力を振るうことしかできず、他人にも弱みを見せられない。
良隆から魔王を継承しても、それは同じだった。誰かのために自分を犠牲にすることができなかった。それは間違っていないと分かっていても、気持ちが納得できない。元々の生まれ持ったものが違うからなのだと、千影は諦めていた。
だが、良隆のように最後は行動できて、自分を犠牲にすることができて、千影は解放された気分だった。このまま死んでも悔いはない。
いや、一つだけあった。優人のことだ。
まだ出会ってからは短いが、本当に良隆の息子かと思うほど、全く似ていなかった。
自分の言いたいことは我慢するし、相手のことばかり考える。それどころか、周りに気を配りすぎて、自分ばかりが損をする。それでも不満に思わないのだから、頭がおかしい奴だと思った。
基本的には豪快で我慢が嫌いな良隆とは全然違う。
けれど、他人のために自分を犠牲にするところは、親子だなと思った。そんな優人を見ているのが危なっかしくて、ついつい口や手を出したくなる。世話のかかる弟のような感じがして、両親にまともに育てられた千影は、これが家族なのかと思った。
だから、魔王を継承させるまでは見ていたかった。自分が良隆にしてもらったように、優人を最後まで見届けたかった。もう叶わない願いではあるが。
いつまでそうしていたのかは分からないが、千影は闇の中で体を起こす。勢い余って回転しそうになりながらも、なんとかバランスを整える。
魔力を帯びた影を、更に暗闇に伸ばしていく。
千影が完全に肉塊に取り込まれていないのは、魔力が膨大なだけではない。自分の権能で、胃袋に吸収されるのを防いでいたからだ。
二日酔いの状態では、まともに黒蛇をコントロールできず、ただ喰われるだけだった。喰われただけでは、優人が死ぬまでの時間稼ぎにしかならず、自分を喰らってしまった智久の人格が現れるかもしれなかった。
そうなる前に、千影はわざと喰われたのだ。内側から喰らい尽くすために。
以前は完全に喰らったと思っていたが、一部とはいえ生き残っていたのだ。確実に殺すには、この方法しかないかもしれないと、決めていたのだ。
まさか、優人に二日酔いにされるとは思わなかったが。
「さて、そろそろやりますか」
暗闇の中、千影の言葉は誰にも届かない。
以前は一人でいることが普通だったのに、優人と出会ってからは孤独ではなくなったので、少し寂しい気持ちはある。
それも一瞬のことだ。
千影は湧き上がる殺意に身を任せようとして、暗闇に広がる黒い蛇が、自分以外の『遺物』を感知したことに気づく。
見上げると、暗闇を泳ぐように移動する黒髪の少年がいた。
目立たない容姿で、すぐにでも忘れそうなほどだ。顔立ちは幼く、今にも折れそうなほどに体の線が細い。そのせいか、どことなく頼りない印象が強い。
間違いない。助けたはずの少年、神凪優人だった。
「何で、お前が……」
まさか智久に喰われたのかと思ったが、そんなわけがないとすぐに思い直す。
魔王の魔力を喰らうと、普通は体が耐えきれずに霧散する。それでも、この肉体が耐えられているのは、千影が完全に消化されてはいないからだ。だからこそ、魔王になれる存在はごく少数。
だとしたら、自分から喰われたのだろうか。それなら、納得がいく。千影を助け出すためなら、自ら喰われるぐらいやるだろうと確信する。
怖い感情を必死に抑えようとして、表情を強張らせる優人が千影に少しずつ近づく。
「た、助けにきました」
「この……バカヤロウが!」
千影の恫喝に、優人は怯えたようにビクッと反応する。
「何のために、私が喰われたと思ってるんだ! お前が来たら、私が喰われた意味がないだろうが!」
「で、でも……」
「言い訳するな! どうすんだよ、助けに来ても帰れないだろうが!」
二日酔いとは違った意味で、千影は頭が痛くなる。
ここまでのお人好しとは流石に思わなかった。自分よりも他人を優先するような奴だとは思っていたが、無謀な行動はしないと思っていた。
あまり使わない頭を使って、必死に考える。どうやって、優人を智久の体から脱出させるのかを。
だが、考えることに慣れておらず、すぐに集中できなくなり、長い黒髪を乱雑にかきむしる。
「ああ、もう! 本当に手のかかる奴だな、お前は」
「そ、それは、千影さんの方ですよ!」
初めて優人に言い返されて、千影は目を丸くする。
「ぼ、僕の勝手な行動のせいでこんな目にあったのに、庇って助けようなんて、千影さんらしくないですよ」
「そんなこと言ってる場合じゃなかっただろうが! あの時、私が行かなかったら、お前は喰われてたんだぞ!」
「そうですけど、千影さんが死ぬことはなかったじゃないですか!」
千影に押されつつも、優人は視線を逸らさない。
「死んでねえわ。あれは、そういう作戦なんだよ。内側からあいつを喰らえば、お前は助かるんだから」
「ダメです! 一人が犠牲になるなんて、絶対に間違ってます!」
「お前が言うな! お前が!」
千影が叫ぶと、優人も負けじと言い返す。お互いが一歩も引かないまま、子供のように口喧嘩をしていた。
しばらくして、お互いに息を切らしながら、睨み合う。
「というか、こんな言い合いをしてる場合じゃないんです」
思い出したように優人が言うと、千影に手を差し出す。
「ここから脱出しましょう。一緒に」
「こんなところに、出口なんてあるわけがないだろ」
出る方法はあるかもしれないが、こんな暗闇の中から見つけ出すのは絶対に不可能だ。
「それは大丈夫です。これを使って脱出するので」
優人が背中を向けると、細い魔力の糸がつながっていた。
今にも切れそうな糸は、暗闇の奥へと続いている。糸の先を見ようにも、真っ暗で何も見えない。
「喰べられる前に、渡の糸をつけてきました。帝野さんの結界もすり抜けるので、黒い肉塊でも切れないはずです」
「これをたどって、出口に出るってか?」
「はい。僕は帝野さんの結界を何重にも重ねてもらって、完全に喰べられるのを防いでるので、安全に帰れます」
優人をよく見てみると、体の輪郭を透明な膜が覆っている。どうりで、この暗闇の中でも気づけたわけだ。
あまりの行動力に、千影は大きなため息をつく。
千影に犠牲になるなと言いながら、一歩間違えれば無駄死にするかもしれない作戦に呆れるしかなかった。
悪魔にも怯むほど臆病なくせに、他人を助けるためなら、躊躇なく行動する度胸があることは素晴らしいが、今は違う。
「お前、一人で帰れ」
「な、なんでですか?」
「ここを出ても、お前はあいつを殺せないだろ」
優人が何も言えずに俯く。ようやく優位に立てたことで、千影は追求を止めない。
「こいつは誰にも止められない。他の人間にまで被害が出るぞ。それでもいいのか?」
「良くはない、です」
「だったら、私がこいつを食い潰す。その場合、私も死ぬだろうが仕方ない。智久を殺せるなら本望だ」
千影の言葉に、優人は何も言い返せない。当たり前だ。この方法以外にないのだから。
「一つだけ、方法があります」
優人が自分の考えた作戦を千影に話す。
「そんな方法、上手くいくわけないだろ!」
全てを聞いた千影は、思わず怒鳴りつける。
「第一、お前が耐え切れなければ意味がない」
「絶対に耐えれます。それに、帝野さんも納得してくれたんですよ」
それでも、優人が死ぬかもしれない作戦を受け入れられず、千影はそっぽを向く。
「絶対にダメだ。私がこのままこいつを喰らった方がーー」
千影が喋っている途中で、優人が強引に手を掴む。無理やり引っ張っていきながら、糸を頼りに引き返そうとする。
「千影さんが犠牲になる必要はないんです。だから、一緒に帰りましょう」
どこまでも甘い優人の言葉が癇に障り、強引に振り払おうとする。だが、手を離すどころか、両手で必死に掴んでいた。
「全員を助けようなんて無理なんだよ! 今すぐ殺さねえと、お前の大事な奴らも殺されるんだぞ!」
「それでも助けます。絶対に」
優人の口から出たとは思えないほど、力強い言葉だった。
「もちろん、千影さんも」
「……ッ! だからーー」
「誰かが犠牲になるなんて間違ってます」
「てめえ、良隆にも同じこと言えるのかよ」
空いている片手を使って、優人の胸ぐらを掴む。二人の視線がぶつかり合う。
「何度でも言います。間違ってるって」
「テメエ!」
思わず黒い蛇を突きつけるように優人へと伸ばす。それでも優人の視線は揺らがない。
「だって、残された人が悲しいじゃないですか!」
後頭部に一撃をくらったように、千影の手が一瞬緩む。
「千影さんだって、父さんと一緒に生きたかったんじゃないんですか⁉︎」
か弱いはずの優人の言葉に、何も言い返せずに気圧される。
「お父さんが死んだと言われて、正直分からなかったけど、守や千影さんが死ぬかもしれない今になって、よく分かったんです。父さんが死んだ時の千影さんも同じような気持ちだったんじゃないかって」
「そ、そんなこと……」
思わなかったわけじゃない。千影だって、良隆には生きてほしかった。でも、あの時はそうするしかなかったんだ。
智久を殺すためには仕方がなかったと、何度も自分に言い聞かせた。
「だから、僕は全員を助ける方法を選びたいんです。誰もが傷つかない方法を」
「そんなの、無理に決まってる」
「やってみないと、分からないです。それに、千影さんが手を貸してくれれば絶対に成功します!」
頼りない優人の言葉に呆れるも、千影は縋りたくなる。
誰もが犠牲にならない方法が目の前にあれば、それに賭けたくなった。優人の言葉が、そう思わせた。
「根拠とかないだろ?」
最後の抵抗のように呟いた千影の声は細く、今にも消えそうだった。
「はい。でも、千影さんから教わったんです。やってみてから、考えてもいいんじゃないかって」
「……ったく、ロクな魔王じゃねえな」
外につながる魔力の糸へと、千影は視線を移す。
「絶対に成功させろよ」
「はい。必ず」
先導する優人が、暗闇の中を泳ぐように移動する。その後ろ姿に、良隆の姿が重なった。
「……ったく、本当に良隆にそっくりだわ」




