気がつけば夜は明けて
アンナとセオドア、結婚式の翌日のお話です。
鳥の鳴き声がする。カーテンを通して入り込む日の光はまだ弱くて、朝も早い時間だろうと分かった。
アンナは、温かい寝床の中で軽く寝返りを打ってからもう一度目を閉じようとした。今日は休みだ。今日だけではなくて、これから数日は休みが続く。
そう、心の中で思ったところで、微睡みはいっぺんに吹き飛んだ。なんで今日から休みが続くのか。それは寝返った先に見えた景色が答え。そこには同じ寝台でぐっすりと眠っているセオドアがいる。昨日結婚式を挙げたばかりのアンナの夫。つまり今日から数日は新婚の休暇だ。幸せいっぱいの日々、のはずなのにアンナの背中には嫌な汗がじわりとにじんだ。
「どうしよう。朝まで……寝ちゃった……」
昨夜、アンナと入れ替わりに湯を使って来ると部屋を離れたセオドアを見送った後の記憶がなかった。
教会での結婚式はときめきよりも緊張が勝っていた。幸福を感じることができたのは、誓いの言葉を言い終わってからのこと。もちろん、そこで押し寄せた足元がふわふわしてくるような幸福感は例えようもないものだったけれど、一番に思い出すのは心の芯が痺れるような緊張だ。
式の後に、家族や友人が開いてくれたパーティーは久々に会えた小さな家族との再会の喜びや、花嫁としてその場の主役となる高揚、皆からの祝福と喜びが重なって、柄にもなく興奮して過ごした。思い返せば、ちょっとはしゃぎ過ぎたかもしれないと恥ずかしいけれど、結婚式の日取りが決まって以来続いていた緊張から解放された反動も手伝ったのだろうと思う。その後、夕方からはヴァルター家に場所を移して家族水入らずで夕食を囲んだ。結婚してしまえば毎日ローズ家にいるのだからとか、会場が広い方がいいとか、いろいろと理由をつけたアルフレドの圧力にセオドアが折れて、結婚後最初の晩餐はヴァルター家に、ローズ家、ヴァルター家、両方の家族が集まることになっていたから。教会から駆けつけてくれた小さな子どもたちも、その晩はヴァルター家に泊まることになっていたので、アンナの家族はヴェスト村からやってこられなかったウィルを除いて全員そろっての晩餐となった。誰も彼も幸せそうで、穏やかながら笑顔の絶えない時間だった。アンナはしみじみと失われることのなかった家族と新しい家族に囲まれる喜びに浸った。
自分が疲れていることに気がついたのは、ヴァルター家を後にして新居へ向かう馬車の中だった。セオドアとアンナは結婚を機にローズ家のすぐ近くに小さな家を借りた。距離から言っても、行き先の場所柄から言っても馬車で行くのは大げさだったが、新婚の花嫁が馬に二人乗りするのはいかがかと周囲が止めて馬車で向かっていたのだ。セオドアと二人でゆれる馬車の中、がくりと首が揺れてアンナは自分が眠っていたことに気がついた。
「あっ……」
思わず涎が垂れていなかったかと口元を覆いつつ、ちらりと向かいのセオドアを見ると祝いの酒が回って頬が赤らんだ顔のまま、優し気に微笑んでいた。
「疲れただろう」
「えーと、あの、そうみたいです。ずっとすごく楽しくて……気がつかなかったけど」
「もうすぐだが、家に着くまで休んでいるといい」
確かに疲れている。でも、やっと二人きりになれたのだから何か話したいと考えてみても、頭は空回りするばかりで言葉は出てこなかった。そんなアンナの様子を眺めているセオドアの目が優しく細まり、そのままふっと完全にまぶたが落ちる。数秒もするとまた目を開くものの、こちらも相当眠たそうである。そういえばセオドアはパーティーの間も、晩餐の間も、やたらと酒を勧められていた。彼は飲めないわけではないが、度を超すと寝てしまう性質だということはアンナも既に知っていた。
「ふふっ」
思わず笑いがこぼれると、その声にまた目を開けたセオドアが照れたように笑う。
「アンナが寝入ってくれないと、俺も休めないから、頼む」
そう言ってもらって、今度は素直に返事ができた。
「はい」
そのまま微笑んで見つめ合い、どちらともなくまぶたが落ちた。
馬に乗ればあっという間の距離。結局どれ程眠れたのか分からないけれど、「着いたぞ」というセオドアの声でアンナは目を開けた。中途半端に眠ったせいか、瞼が重くて仕方がない。セオドアの手を借りてのろのろと馬車を下りると足が地面に着くやいなや抱き上げられた。横抱きにされて、何か言う前に小さな門から玄関扉を通り過ぎ、寝室の寝台におろされた。門から寝室までセオドアの脚なら二十歩足らずでついてしまう、つましい家だとはいえ一言も発せられなかったのは眠気と気恥ずかしさの波状攻撃のせいだろう。
寝台におろされてから、御者を務めてくれたチェットにお礼を言えなかったと文句を言ってみたが、セオドアは「次に顔をみたときで十分だ」とあっさりしたものだ。
「ちょっと待ってろ。寝ててもいいから」
そう言い残してセオドアは寝室を出ていった。まだ眠気に負けているアンナが体を起こすよりも前にセオドアの背中は見えなくなり、アンナはぽすんと寝台に戻った。
「ドレス、着替えないと……ああ、でも、ねむい……」
花嫁衣裳はヴァルター家を出る前に一人で脱ぎ着できるような簡単な造りのものに着替えさせられている。この二着目のドレスについてアンナは何も聞かされておらず、事前に話した時は普段着に着替えてから新居に向かうことになっていた。それなのに真白い、柔らかい生地のドレスがでてきて驚いた。誰が準備してくれたのかさえ教えてもらえなかった。
ほどなく戻ってきたセオドアはコップと水差しを持っていて、アンナの傍らに腰かけて水を差し出してくれた。
「起きられるか?」
「はい、ありがとうございます」
なんとか身を起こし、コップを受け取ると手の空いたセオドアに肩を抱かれて彼に寄りかかるように引き寄せられる。いつの間にか慣れた距離感ではあるが、寝台の上では落ち着かない。気を逸らすようにコップに口をつけると、冷たい水が喉を通るたびに頭が少しずつはっきりしてきた。なんとか飲み干して体を起こそうとすると肩を抱いている手に邪魔された。
「あの」
「うん?」
「あの、私、着替えないと……」
「うん?」
「え? いや、だから、このドレスのまま寝ちゃうと皺になっちゃうから寝る前にですね、着替えておきたいんですけど」
「うん」
抱き寄せられた場所からはセオドアの顔がよく見えない。アンナは何とか体をねじってセオドアを見上げようとするが、今度はセオドアがあらぬ方を向いて顔が見えない。
「セオドアさん、セオドアさん」
「うん」
「私、できればお湯も使いたいんですけど、準備しないと」
「あー、うん。湯か、うん」
「いいですか?」
問いかけると、軽いため息とともに肩を抱いていた手が離された。
「湯なら用意されていた。ミモザが来てくれていたんだろう。少し冷めているかもしれないが体を流すくらいなら問題なさそうだった」
「まあ」
なんて有難い。ミモザはローズ家の女中であり、チェスターの婚約者でもある。暗くなる前に帰らなければならないと晩餐を途中で抜けていたことを思い出す。普段なら引き留めるであろうチェスターがそのまま見送ったのは、きっとこのことを知っていたからだ。そう思って見返せば、部屋は適度に温められていて、開け放したドアの向こうの台所に差し入れらしき食べ物がある。何から何まで、先回りして整えてくれたのだろう。アンナは未来の義妹の心遣いに感謝した。その思いやりを無にしないためにはお湯が冷めきる前に使ってしまわなければ。秋の夜は冷える。
「セオドアさんは、お湯、使いますか?」
問いかけに答えながら、セオドアはアンナの背中を押した。
「先に使ってくるといい。少しは目が覚めるだろう」
アンナは少し躊躇ったが、湯がより温かいうちに使ってほしいと言われて従うことにした。身体の頑丈さではどう考えてもセオドアの方が上で、風邪をひかないようにという思いやりを思えば断れない。
「では、ちょっと失礼します。セオドアさん、眠かったら寝ていてくださいね」
「もし寝てたら起こしてくれ」
言いながら横たわってしまうセオドアに笑顔で答えて、戸棚に向かう。泊まるのこそ今夜が初めてだが、何日もかけて通い、生活に必要なものは全て準備が終わっている。アンナは一番取り出しやすいところにあったヴァルター家の女中たちからのプレゼントの包みをそっと取り出して部屋を出た。
確かにお湯を使うと目が覚める。アンナはなるべく急いで支度をして寝室に戻った。女中たちからのプレゼントの夜着は彼女にとって刺激の強いものだったのでセオドアの反応が心配だったのだが、予想通りというか、期待外れにというか、セオドアは眠っていてちょっとほっとした。それでもやはり気恥ずかしくてガウンを羽織ってから、約束通り彼を起こした。そして、眠い目をこすって起き出したセオドアが自分もちょっとお湯を浴びてくるというのを見送った。
そこまでは、しっかり記憶がある。
そこまでしか、記憶がない。そして、現在、朝である。
セオドアを待っている間に寝てしまったのは間違いない。布団をめくってみればガウンを着こんだまま寝ていたようだ。
(どうしよう……)
アンナとて、新婚初夜というものは理解している。というか、遠い世界に飛ばされていた間の記憶がある分だけ、この世界の女性よりも詳しい。二人で添い寝できただけでやりきったと言い張ることができないのは分かっているし、何も知らないふりをすることなどできない。
「セオドアさん……」
心底困って、一番頼りになる夫に声をかけてしまった。この場合、一番顔を合わせづらい相手でもあるけれど、避け続けることはできない。
「ん……」
「ごめんなさい」
相手の覚醒を待たずに謝ると、セオドアはぼんやりとアンナを見つめた。それから朝日の差し込む窓に目をやり、またアンナに視線が戻って来る。
「朝か」
掠れた声でこぼれた言葉に寝ころんだままアンナは身を縮める。
「ごめんなさい、私、寝ちゃって……」
セオドアはむくりと起き上がって、寝台の脇に置いたままだった水差しから水を飲んだ。そのまま首を振って両手で顔をごしごしと擦る。アンナは亀のように首を伸ばして、その様子をうかがった。さすがの彼も、怒っているだろうか。首を垂れて大きくため息をこぼされて飛び起きる。
「ご、ご、ご、ごめんな」
「いや、違う」
言葉の途中で遮られて土下座しかけていたアンナが顔を上げるとセオドアが苦笑していた。
「寝たのは俺も一緒だ。ちょっと、いや、かなり飲み過ぎた」
「でも、先に寝たのは私だし」
「ちょっと寝顔を眺めてから起こそうと思って失敗したんだ。だからアンナは謝らないでいいから。それに疲れてたんだろう。ずっと気を張っていたし」
結婚式の前から、誓いの言葉をいうことへの緊張があった。セオドアにも分かっていただろう。それにしたって大失態だ。へにょりと気を落としているアンナの頭をぽんぽんと撫でてからセオドアは立ち上がった。
「今日からしばらく休みだ。ゆっくりすればいい。まずは何か食べよう」
「は、はい」
追いかけようとして慌てて寝台を下りたはずみでガウンが大きくはだけた。前を掻き合わせながら寝室を出ようとすると戸口辺りで立ち止まったままのセオドアに留められた。
「そっちで待ってろ。何か持っていくから」
「え、でも」
あと三歩で食卓だ。アンナが振り仰ぐとセオドアが耳まで赤くして目を逸らした。
「その恰好でウロウロしないでほしい……目の毒だから」
「あ、あ……はい」
結局、寝台の上でセオドアの持ってきてくれた果物とパンを食べた。ガウンの合わせが緩まないように何度も直しながらなのでなかなか進まない。それに気づいているはずのセオドアも居心地悪そうにするものの、何も言わない。もしや、この夜着が気に入らないのだろうか。アンナ自身は刺激が強いとは思ったとはいえ、服自体は刺繍も美しくて大人の女性向けの素敵なものだと思ったのだけれど。
(もしかして、破廉恥とか思われていたら……どうしよう)
考え過ぎて、徐々にものが喉を通らなくなってきた。アンナは涙目になりつつちらりとセオドアをうかがった。アンナには切り分けてくれた林檎を彼自身は丸かじりしている。腕に汁が垂れていて、思わず指を伸ばして拭うとセオドアがはっとアンナを見下ろした。そしてそのままぽろりと林檎を取り落とした。
「あ……」
林檎はそのまま床まで転がりおちた。
結婚式翌日の夫婦の家に、朝から訪ねてくるほど無粋なやつはいない。
セオドアはそう断言して、その日は夕刻まで寝台から下りずに過ごすことになった。次の夜までいたたまれない気持ちで過ごすよりは良かったかもしれない、と、あたりが暗くなってからようやく開かれたカーテンを眺めつつ、アンナは眠りに落ちた。
「こっちは約束を守ったのに、これはちょっと考えないとなあ」
アンナが眠ったのを確かめて、セオドアはぼそりと呟く。昨日、アンナは疲れ果てて眠ってしまった。それはいい。ただ、セオドアが寝入ってしまったのは酒を飲み過ぎたせいだ。そして飲み過ぎた原因には心当たりがある。晩餐の席で泣きながらやたらと酒を勧めてきた義父アルフレドである。娘をもらう立場としては断りにくく、まずいと思いながらも断れなかった。しかし、アルフレドは親しい付き合いのあった叔父である。飲み過ぎたセオドアがどうなるか知らないはずはない。あれは、結婚するまでは節度ある付き合いをせよと言っていたアルフレドの最後の悪あがきだ。問題なのはセオドアはアルフレドの言いつけを大変な努力をして守ったというのに、この悪あがきはセオドアとアンナの結婚が成立した後、つまり「節度ある付き合いをせよ」という言いつけを完遂した後に行われたものだということだ。初夜のお預けを食らった仕返しは覚悟してもらわないといけない。このまま結婚後まであれこれと邪魔をされたらたまらない。
結婚後、アンナの初めての里帰りは実家がすぐ傍にあるにも関わらず一か月も後のことになった。その日、彼女に付き添ったセオドアの冷たい視線を受けたアルフレドは素直に彼に謝罪した。いわく、娘が顔を見せてくれないのはやり過ぎた夫のせいだと怒り心頭に発した妻に散々責められていたらしい。以降、セオドアと義父母との関係は元通り非常に良好に落ち着き、アンナはそんなあれこれを知ることのないまま幸せな生活を営むことができた。
セオドア、不憫な男。