第394話 北から戻った舟は、返事より先に魚箱を下ろした
【本文】
翌日の昼前、俺とティムは港の端で塩樽の蓋を洗っていた。
洗う、と言っても、きれいな仕事ではない。
蓋の溝に乾いた塩と魚の脂がこびりついていて、水を掛けるだけでは落ちない。
木片でこすって、また水を掛けて、最後に布で拭く。
ティムは三枚目で飽きた。
「これ、乾いたやつをまた濡らしてるだけじゃない?」
「汚れ落としてるんだろ」
「見た目ほぼ同じだけど」
「じゃあマルクに聞いてこいよ。洗わなくていいですか、って」
ティムは黙って木片を動かした。
俺も動かした。
港口から舟が入ってきたのは、その時だった。
昨日、油瓶二つと鉄金具一束を積んで北へ出た舟だ。
ティムの手が止まる。
今度は俺より先に立たなかった。
代わりに、座ったまま首だけ伸ばした。
「帰ってきた」
「見れば分かる」
「昨日の荷、どうなったかな」
「聞くなら降ろし終わってからな」
「分かってるよ」
分かっている顔ではなかった。
舟が岸へ寄る。
若い船員は俺たちを見ても何も言わず、まず濡れた網を一束下ろした。
次に空の魚箱を二つ。
細い籠を一つ。
船底に溜まった水を桶で汲み出してから、ようやく綱を岸の杭へ回す。
ティムが立ち上がりかけたところで、マルクの声が飛んだ。
「そこ塞ぐな。箱先」
「まだ何もしてない」
「する顔してた」
ティムが俺を見る。
「顔で怒られた」
「普段の積み重ねじゃない?」
「レンまでそっち側?」
俺は笑いながら空箱を受け取った。
昨日北へ行った荷のことは気になる。
でも、帰ってきた舟には帰ってきた舟の順番がある。
網を屋根下へ。
空箱を洗い場の脇へ。
籠の中の小魚を板の上へ移す。
若い船員が最後に、舟の前から小さな布包みを持ち上げた。
手のひら二つ分くらい。
濡れないよう油布で一度巻き、その上から古い布で縛ってある。
「昨日の南の男、今日来るか?」
船員がマルクへ聞いた。
マルクは荷札を見てから首を傾げた。
「来るとは言ってない」
「じゃあ置いとく。向こうから返し」
ティムの首がまた伸びる。
「返し?」
船員は包みを俺たちへ渡さず、屋根下の板棚へ置いた。
「昨日の油と金具は届いた。渡す相手もいた。二つとも受け取った。これはそいつから、昨日の荷主へ」
「油、割れてなかった?」
ティムが聞く。
若い船員は少し考えた。
「見た時は割れてない。渡した後に使ったかは知らん」
「金具は?」
「束のまま渡した。中身まで数えてない」
そこを分けて答えるのが、この船員らしかった。
届いた。
受け取った。
でも、その先は見ていない。
それだけ言って、今度は自分の濡れた上着を脱ぎ始めた。
俺は思わず聞く。
「中、何ですか」
「壊れた金具。馬具のやつらしい。俺は開けてない」
ティムが俺を見る。
「馬具」
「聞こえた」
「北入り江の奥で、ネドが馬見たって――」
「同じ馬とは限らないだろ」
俺が先に言うと、船員も濡れた袖を絞りながら鼻で笑った。
「馬なんて一頭しかいないのか、北は」
「そういう意味じゃないって」
ティムは言い返したが、少しだけ声が小さくなった。
俺も包みを見た。
見たところで何も分からない。
布の角が少し黒く汚れているだけだ。
昨日、北へ出たのは俺たちじゃなかった。
荷物だけだった。
今日は、その返事だけが戻ってきた。
地図に線を一本増やせるような話じゃない。
次から必ず届くと約束できる話でもない。
坂の先が分かるわけでもない。
北入り江が急に大きな港になるわけでもない。
それでも、向こうで誰かが油と金具を受け取って、別の壊れた物をこちらへ返した。
ティムが包みから目を離さないまま言った。
「これ、クエストなら次の段階って感じしない?」
「昨日、日当も表示もなかっただろ」
「感じの話」
「感じなら、まあ」
俺も少しだけそう思った。
でも、その包みは俺たちの物じゃない。
勝手に開けることも、持っていくこともできない。
マルクが棚の位置を指で示す。
「荷主来るまでそこ。動かすなら俺に言え。濡らすな」
「はい」
ティムが素直に返事をした直後、洗い場から水の跳ねる音がした。
さっき立ち上がった拍子に、ティムの足が桶へ当たったらしい。
半分残っていた水が塩樽の蓋三枚へ流れた。
ティムが固まる。
俺は蓋を見る。
さっきまで拭き終わっていた三枚だった。
「……また洗えるな」
俺が言うと、ティムはものすごく嫌そうな顔をした。
北から返事が来ても、俺たちの仕事は増えた。
ただし、こっちは完全に自分たちのせいだった。
第395話 油を届けたら、壊れた馬具が帰ってきた
【本文】
南道の男が来たのは、その日の夕方だった。
昨日の荷車とは違う。
今日は馬だけで、鞍の横に空の袋を二つ下げている。
港へ入ってきたところで、男は俺たちを見つけた。
「舟、戻ったか?」
ティムがすぐ棚を見る。
「戻った。あと、返しも来てる」
「返し?」
男は馬から降りる途中で片足を鐙に引っかけた。
転ぶほどではなかったが、着地したあと何もなかった顔をした。
ティムが小さな声で俺へ言う。
「今の見た?」
「見てないことにしとけ」
「聞こえてるぞ」
男が言った。
普通に聞こえていた。
マルクが棚から布包みを持ってくる。
荷札と男の顔を一度見比べてから渡した。
「北から。昨日の受け取り先からだと」
「届け物は?」
「着いた。本人いたってよ」
男はそこでやっと肩を下ろした。
荷が届いたかどうか、気にしていなかったわけではないらしい。
包みの紐を解く。
中から出てきたのは、黒ずんだ鉄の金具だった。
輪になった部分が途中で割れている。
短い革帯も一緒についていた。
革は固くなり、端の穴が伸びている。
ティムが覗き込む。
「これが馬具?」
男は金具を指で持ち上げた。
「ああ。胸帯か腹帯の留めだな。馬に荷を載せる時に使うやつ。形はよくある」
親指で割れ目を押す。
動かない。
次に革の穴へ指を入れ、伸びた縁を見た。
「これ、金具だけ替えても革の方が先に切れそうだな」
「じゃあ革もいる?」
ティムが聞く。
「向こうが欲しいって言ってるのは金具二つだ。勝手に増やすと、今度は値段でもめる」
男はそう言って、革帯を包みへ戻した。
必要そうに見える物と、頼まれた物は同じじゃないらしい。
「北入り江の奥の馬の?」
ティムが聞いた。
男は一度だけティムを見た。
それから金具を見る。
「知らん」
「でも、向こうから来たんだよね」
「北入り江の受け取り先からな。だからって、ネドが見た馬の金具とは限らんだろ。馬具なんて坂の上だけで使うもんじゃない」
昨日、俺が言ったのとほとんど同じだった。
ティムが不満そうに俺を見る。
「二回言われた」
「二回聞いたからな」
「確認しただけ」
男は革帯の裏を見ながら続けた。
「それに、これ一個じゃ馬が何頭いるかも分からん。荷駄か、荷車か、予備かもしれん。分かるのは、同じくらいの留めを二つ欲しいってことだけだ」
「二つ?」
男は包みの底から細い木片を出した。
表に炭で短く書かれている。
『同じくらい 二』
きれいな字ではない。
最後の二だけやけに大きかった。
ティムが笑う。
「注文増えてる」
男はため息をついた。
「油届けただけなんだがな」
「断るの?」
「急ぎじゃないって話なら、南へ戻ったついでに見る。似たのがなけりゃ次だ。俺が作るわけじゃない」
そこが妙に普通だった。
北から壊れた金具が来た。
南へ持っていけば直るか、同じ物が見つかるかもしれない。
でも、それだけで新しい仕事が正式に始まるわけじゃない。
誰かがついでに見る。
なければ待つ。
舟がなければさらに待つ。
男は割れた金具を包み直し、自分の袋へ入れた。
その時、連れてきた馬が首を伸ばし、包みの端から出ていた革を噛もうとした。
「おい」
男が慌てて引く。
馬は何も悪くない顔で鼻を鳴らした。
ティムが笑いをこらえきれない。
「馬具、馬に食われそうだった」
「革だからだ。お前も腹減ってりゃ何でも食うだろ」
「俺は革は食わないよ」
「昨日、干し魚の骨まで噛んでただろ」
「それと一緒にしないで」
俺はそこで笑った。
男は袋の口をきつく縛り直す。
俺は、北入り江の奥に続く坂のことを思い出していた。
ネドが見た荷駄馬。
今日戻ってきた馬具。
つなげれば、何か分かった気にはなれる。
でも、今ある事実はそこまでだ。
北入り江の受け取り先で、馬具らしい金具が壊れていた。
同じくらいの物を二つ欲しがっている。
それだけ。
「レン」
ハナに呼ばれて振り向く。
「ご飯。冷めるよ」
「今行く」
ティムはまだ金具を持って帰る男を見ていた。
「二つ見つかったら、また北へ行くかな」
「金具が行くかもな」
「その時、運ぶ人足りなかったら?」
「その時だろ」
「先に空けといた方がよくない?」
「何を」
「予定」
俺はティムの顔を見た。
「港で一番当てにならないやつじゃない?」
「そこまで言う?」
「昨日から見てれば」
ティムは言い返そうとして、ちょうど馬が尻尾を振って男の袋を叩いたのでそちらを見た。
「俺らは?」
「仕事あれば」
ティムは口を開きかけた。
たぶん何か言い返すつもりだった。
でも、ハナがもう一度こちらを見たので、やめた。
「先に食べよう」
珍しく判断が早い。
俺たちは屋根下を離れた。
背中の方で馬がまた鼻を鳴らした。
今度は包みを狙っていなかった。
たぶん。
第396話 返す金具ができても、北行きの舟は待ってくれなかった
【本文】
二日後、南道の男は本当に金具を二つ持ってきた。
朝ではない。
昼を過ぎて、魚の選り分けが一段落したころだ。
俺とティムは細い魚を籠から籠へ移していた。
同じくらいの大きさに分けるだけなのに、ティムはなぜか三回に一回くらい迷う。
「これ、こっち?」
「さっきから同じ大きさだろ」
「尻尾まで入れたら長い」
「全部尻尾あるだろ」
「でもこいつ曲がってる」
「魚に聞けよ」
「最近みんな何でも本人に聞かせようとするな」
その時、南道の男が包みを振って見せた。
「昨日の返し。似たのあったぞ」
魚よりそっちが気になった。
男が板の上へ金具を並べる。
割れた古い物が一つ。
新しく持ってきた物が二つ。
ぴったり同じではない。
一つは輪が少し厚く、もう一つは留めの穴がわずかに広い。
表面の色も違う。
古い物は黒ずみ、新しい二つはまだ鉄の白さが残っていた。
男は三つを重ねて、穴の位置を指で合わせる。
「ここは近い。幅もたぶん入る。けど、革の厚みまでは向こうで見ないと分からん」
ティムも横から覗く。
「こっちの太い方が丈夫そう」
「丈夫でも入らなきゃ意味ない」
「ああ」
ティムは素直に引いた。
「同じのじゃないんだ」
ティムが言う。
「同じくらい、って注文だ」
男は木片に残っていた文字を指で叩いた。
「向こうで革に合わせるか、合わなきゃ戻す。俺にはそこまで分からん」
マルクも一度だけ見た。
「で、誰が持ってく」
男が港口を見る。
俺も見た。
昨日荷を運んだ若い船員の舟は岸にある。
でも、帆が外されていた。
船員は舟の中ではなく、少し離れた場所で細い木板を削っている。
ティムの顔が明るくなる。
「舟あるじゃん」
若い船員が顔も上げずに言った。
「今日は北行かない」
ティムの顔が戻った。
「聞こえてた?」
「港でその声量なら聞こえる」
「どこ行くの?」
「どこも。帆の縁、縫い直す」
ティムは帆を見る。
外された布の端が、ところどころ毛羽立っている。
近くには針と太い糸が置かれていた。
「金具二つだけなら乗るでしょ」
「乗る」
「じゃあ」
「舟が出ない」
「ああ」
今度は理解が早かった。
俺は少し笑った。
南道の男は金具を包み直す。
「じゃあ持って帰るか?」
マルクが聞く。
男は迷った。
南へ持ち帰っても、また次に持ってくることになる。
「濡れない場所に置けるなら、置かせてくれ。次に北へ行くやつがいて、受けるって言った時だけ渡してくれりゃいい」
マルクはすぐには頷かなかった。
「名前と相手、書けるか」
「書ける」
「いつ出るか約束しないぞ」
「それでいい」
「なくした時に港が弁償する話でもない。そこまで預かれん」
男は少し考えてから、包みを持ち直した。
「じゃあ俺の責任で置く。次に来た時まだあれば俺がまた持つ」
「それなら棚の右端。魚油の布と混ぜるな」
話はそこで終わった。
定期便の受付もない。
預かり証もない。
次の出航日も決まらない。
ただ、北へ返したい金具が二つ、屋根下の棚へ置かれた。
マルクは棚の板へ炭で小さく印をつけた。
名前ではない。
南道の男が自分で描いた、曲がった三本線だ。
「これ、何の印?」
ティムが聞く。
男が答える。
「俺の荷袋にも同じのつけてる。字が薄れても分かる」
「かっこよくはないね」
「分かればいい」
マルクが言う。
「港の印じゃないからな。お前の印だ」
「分かってる」
誰の荷かを分けるための一手間。
それ以上ではない。
ティムが小声で言う。
「ちょっと荷物増えるたびに、港のルール増えてない?」
「増えたっていうか、その場で決めてるだけじゃない?」
サキが近くにいたら地図へ何か書いたかもしれない。
でも今日は姿がない。
地図がなくても、仕事は進む。
進まない時もある。
男が馬へ戻る前に、昨日の若い船員へ声を掛けた。
「次、北行くのいつだ?」
「知らん」
「明日?」
「明日の海に聞け」
俺とティムは同時に顔を上げた。
船員は何も面白いことを言ったつもりがないらしい。
木板を削り続けている。
ティムが俺へ囁く。
「海に言え、増えてない?」
「流行らせるなよ」
「俺じゃないよ」
南道の男まで笑っていた。
その時、港の外から木が擦れる嫌な音がした。
ぎ、ぎ、と間を空けて二回。
次に、馬の短い鳴き声。
みんながそちらを見る。
南道から、小さな荷車が一台入ってきた。
片方の車輪に縄が何重にも巻かれている。
荷台はほとんど空だ。
御者は港へ着くなり馬を止め、車輪を見下ろした。
「ここ、車輪見られる人いるか」
マルクがため息をついた。
「何した」
「三つ目の曲がりじゃない。もっと手前。石踏んだ」
その一言で、俺は少しだけ安心した。
何でも前の出来事につながるわけじゃない。
ティムはもう魚籠を置いていた。
「見に行っていい?」
「まずその魚を戻せ」
ハナの声が、ちょうど後ろから飛んできた。
ティムは魚を持ったまま止まった。
俺も止まった。
北へ返す金具は棚に残った。
北行きの舟は今日は出ない。
代わりに、南から片輪を縄で縛った荷車が来た。
世界は、こっちの順番を聞いてくれない。
だから面白い。
第397話 縄をほどいたら、車輪は思ったより壊れていた
【本文】
ティムが魚を籠へ戻すまで、荷車の方では誰も縄をほどかなかった。
俺たちが近づいた時には、御者が馬の轡を外し、マルクが車輪の前後へ木切れを噛ませていた。
片輪には、太い縄が何重にも巻いてある。
遠目には、輪っかがばらけないよう縛ってあるだけに見えた。
近くで見ると、その縄の下から細い木屑が何本も出ていた。
ティムがしゃがみ込む。
「これ、外したら崩れたりしない?」
御者が困った顔で見る。
「それが分からんから、ここまで外さなかった」
「なるほど。じゃあ外してみないと分からない」
「お前が外すなよ」
マルクの声が飛んだ。
ティムの手が、縄の少し手前で止まる。
「まだ触ってない」
「触る顔してた」
「顔で止められた」
俺が笑うと、ティムはこっちを睨んだ。
少しして、港の裏から白髪の男が来た。
舟の板や樽の輪を直しているところは何度か見たことがある。
荷車の前へ来ても、すぐ縄には触らなかった。
まず馬を荷車から完全に外させる。
次に荷台の下へ太い角材を差し、マルクと御者へ位置を変えさせた。
俺とティムには石を二つ運ばせた。
「ここ。車輪が落ちても足を入れるな」
男はそれだけ言って、ようやく縄を見た。
ティムが俺へ小声で言う。
「思ったより大げさ」
「外れたら大げさじゃ済まないんじゃない?」
白髪の男が聞こえたらしい。
「分かってるなら口より手ぇ出せ。そっちの石、もう半歩こっち」
ティムが無言で石をずらした。
縄を一周ずつ緩めていく。
最後の二巻きが外れたところで、木の輪の一部が少しだけ外へ開いた。
御者が顔をしかめる。
「そんなになってたか」
白髪の男は返事をせず、車輪をゆっくり回した。
割れていたのは外側の木だけではなかった。
輪から中心へ伸びる木の一本が、根元でわずかにずれている。
折れてはいない。
けれど、隣のものと比べると明らかに位置が違った。
「石踏んだ時にやった?」
俺が聞くと、男は首を横へ振った。
「最後に石が押したのかもしれんし、その前から割れかけてたのかもしれん。今見て、昨日までを当てるな」
ティムがずれた木を覗き込む。
「じゃあ原因、石じゃないかもしれない?」
「石は踏んだ。こいつが壊れてる。それで十分だ。原因探しに道まで掘り返す気か」
「しないです」
「なら直す方を見ろ」
白髪の男は、今度は車輪の中心と、荷車を支える横木を見た。
何度か指で叩く。
車輪を少し浮かせて回す。
御者にも反対側から押さえさせる。
「軸までは曲がってなさそうだ。輪の割れと、この一本だな」
御者が息を吐いた。
「車輪ごと替えるほどじゃない?」
「同じ大きさが転がってるなら替えてもいい」
男は港の周りを一度見回した。
「ないだろ」
ない。
少なくとも、俺には同じ大きさの予備車輪なんて見えない。
ティムも見回してから言った。
「車輪って、余ってないんだな」
マルクが鼻で笑う。
「杭の時も聞いたな、それ」
「長い木と同じにしないでよ」
「置いてある物にはだいたい持ち主と使い道がある」
また同じところへ戻ってきた。
白髪の男は割れた場所を指で押し、少し考えた。
「外の割れを寄せ直す。ずれた一本も戻す。内側に当て木して、外から薄い鉄を回す。今日中に形までは戻せる」
御者の顔が明るくなる。
「じゃあ帰れるか」
「軽けりゃな」
明るくなった顔が半分戻った。
御者は荷台を見る。
ほとんど空だ。
それから、港の反対側を見た。
「あっちで魚籠四つ積む話してたんだが」
白髪の男も同じ方向を見る。
「積まない」
「一つくらい」
「俺の直し方が信用できないなら四つ積め」
「逆だろ、それ」
御者が頭を掻いた。
ティムが俺の袖を引く。
「車輪を直す話だったよな」
「そうだな」
「魚の話になった」
「荷車だからじゃない?」
車輪一つ壊れる。
直す。
それで終わりじゃなかった。
載せられる重さが変われば、運ぶはずだった物まで変わる。
御者はしばらく魚籠のある方を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「先に直してくれ。魚は魚で話す」
白髪の男はもう工具袋を開いていた。
「最初からそう言ってる」
ティムが工具を覗こうとして、今度は自分から半歩下がった。
たぶん、さっき顔で止められたのを覚えている。
俺たちは頼まれた木片と水を取りに走った。
石を踏んだ場所を見に行く話は、誰からも出なかった。
第398話 直った車輪には、魚籠四つが重すぎた
【本文】
翌朝、荷車の車輪は縄なしで立っていた。
見た目だけなら、昨日よりずっと普通だ。
割れていた場所には細い鉄板が当てられ、その下に新しい木が噛ませてある。
ずれていた一本も、隣とだいたい同じ位置へ戻っていた。
ティムは朝飯のパンを口に入れたまま、車輪の周りを一周した。
「直ってる」
白髪の男が、車輪の反対側から顔を出す。
「見れば分かることを言うな」
ティムが急いでパンを飲み込む。
「いや、昨日あれだったから。もっと縄とか残るのかと」
「縄は帰るまで積んどけ。使わないのが一番だ」
御者は荷台の端へ、昨日の太い縄を置いた。
その横に短い板と木槌も載せる。
「途中でまた開いたら?」
「止まれ。締めろ。荷を降ろせ。無理なら置いて馬だけ連れて帰れ」
「直したのに厳しいな」
「直したから走れる。新品にしたとは言ってない」
御者は何も言えなくなった。
俺は車輪を見た。
昨日は、壊れているか直っているかの二つしかないと思っていた。
実際には、その間がずいぶん広いらしい。
そこへ、港の奥から女が魚籠を四つ運んできた。
二つは若い男が持ち、残り二つを女が一つずつ引きずるように動かしている。
御者が「あ」と言った。
女も「あ」と言った。
嫌な「あ」だった。
「直ったって聞いたぞ」
女は魚籠を置くなり、車輪を見た。
御者が白髪の男を見る。
白髪の男は見返さない。
「走れる。けど、四つは載せない方がいいって」
「昨日は四つって話だっただろ」
「昨日は車輪が割れてなかった予定だった」
「割れてたのは昨日だろ」
「分かる前の話だよ」
二人とも間違ってはいない。
だから余計に話が長くなりそうだった。
ティムが俺へ小声で言う。
「こういう時、クエストなら数字出してほしい」
「何の数字?」
「あと何キロ載せられます、とか」
白髪の男が今度は聞こえなかったらしい。
俺は少しだけ声を落とす。
「出たら、お前ぎりぎりまで積むだろ」
ティムは一拍考えた。
「積むな」
「だから出ない方がいい」
女は四つの籠の蓋を順番に開けた。
中は塩を強めに当てた魚だった。
今日すぐ駄目になるものではない。
でも、南へ持っていけば買い手がいるらしい。
御者は荷台と車輪を交互に見る。
「一つなら?」
白髪の男がようやく顔を上げた。
「俺に決めさせるな。道も石も荷の揺れも見てない。軽く帰れって言った」
女が腕を組む。
「じゃあ四つ全部やめる」
思ったより早かった。
御者が驚く。
「いいのか」
「途中で輪が抜けて魚ごと道に置かれるよりいい。二つは煙へ戻す。残り二つは昼までに南へ行く馬がいたら頼む」
女はそう言って、一つの籠をティムへ押した。
「ほら。聞いてたなら運べ」
「俺、今ただ見てただけなんだけど」
「手は空いてるだろ」
ティムは俺を見る。
俺も一つ持たされた。
「レンまで?」
「二人いるから二つ頼んだ」
理屈が早い。
俺たちは魚籠を持って煙小屋へ向かった。
後ろからティムがぼやく。
「車輪直したの、俺たちじゃないのに」
「魚が減ったのも俺たちのせいじゃない」
「なのに運んでる」
「手が空いてたからだろ」
「港ってそういうの多くない?」
多い。
煙小屋では、ハナが入口で俺たちを見て眉を寄せた。
「その手、油ついてない?」
見る。
昨日、車輪の当て木を運んだ時の汚れが爪の間に少し残っていた。
ティムの手の甲には、もっとはっきり黒い筋がある。
「籠置いて。先に洗って」
ティムが天井を見る。
「魚、車輪、手洗い。仕事が横につながりすぎる」
「口動かす前に水使って」
ハナは容赦がない。
昼前、本当に南へ向かう荷馬が一頭来た。
荷車ではない。
背の左右へ袋を下げた馬で、荷主はまだ少し余裕があると言った。
魚籠二つは、少しの運び賃を上乗せしてそちらへ移った。
四つまとめては行かなかった。
同じ相手でもない。
同じ運び方でもない。
残った二つは煙小屋。
二つは荷馬。
荷車はほとんど空のまま。
御者はその様子を見てから、白髪の男へ金を払った。
「これなら軽いだろ」
「軽い。だから調子に乗って途中で何か拾うな」
「拾わんよ」
ティムがすぐ口を挟む。
「道にいい物落ちてても?」
御者が笑った。
「その時は馬に聞く」
ティムが俺を見る。
「今度は馬に増えた」
「お前が広げてるだろ」
車輪は直った。
でも、昨日の予定までは元に戻らなかった。
その方が、俺には少し面白かった。
第399話 南へ軽く、北へ小さく、荷物だけが先に行った
【本文】
小荷車が南へ戻ったのは、その日の午後だった。
荷台には修理用の板と縄、それから御者の袋が一つ。
魚籠は載っていない。
出る前に白髪の男がもう一度車輪を回し、鉄板の浮きと木のずれを見た。
「音が変わったら止まれ」
「どんな音だ」
「今と違う音」
御者が嫌そうな顔をする。
「それが分かれば苦労しないだろ」
「分からんなら、変だと思ったら止まれ」
「急に雑になったな」
「道の先まで一緒に行くほど金もらってない」
白髪の男はそう言って、工具袋を閉じた。
正しい。
たぶん。
ティムは馬の横で、昨日外した縄を触っていた。
「これ、また使うことあるかな」
御者が荷台から一本取って、ティムの手へ押し返す。
「あるかもしれんから積んだんだ。縁起悪いこと言うな」
「俺、使わない方がいいって話を」
「今は言うな」
ティムは素直に黙った。
荷車は、来た時よりずっと静かな音で港を出た。
ぎ、ぎ、という嫌な音はしない。
だからといって、南まで無事だと俺たちには分からない。
三つ目の曲がりより手前で踏んだという石も、見に行っていない。
あそこにまだあるのか。
誰かがどけたのか。
そもそも同じ場所を次の荷車が通るのか。
全部、分からないままだ。
俺は荷車が見えなくなるまで見ていた。
ティムが隣で言う。
「追いかけないんだな」
「何を」
「いや、石」
「お前、見たいの?」
「ちょっとは」
「俺もちょっとは」
二人で顔を見合わせた。
でも、その日の仕事は港にあった。
荷車を追う理由はない。
「じゃ、戻るか」
「そうなるよな」
ティムは少し残念そうだったが、先に歩き出した。
昼を過ぎたころ、今度は海側が動いた。
帆の縁を縫い直していた若い船員が、修理した帆を舟へ戻していた。
昨日まで地面に広げられていた布が、今日は帆柱へ上がっている。
俺とティムは魚箱の底板を洗いながら、それを何度も見た。
三回目で船員がこっちを向く。
「乗せないぞ」
ティムが手を止める。
「まだ何も言ってない」
「三回見た」
「見るくらいいいだろ」
「いいよ。乗せないけど」
ティムが俺へ顔を向ける。
「最近、顔とか回数で先に止められすぎじゃない?」
「分かりやすいんじゃない?」
「レンも見てた」
「俺は二回」
「数えてるじゃん」
船員は笑わず、舟の中へ網の束を二つ積んだ。
ほかにも細い縄と、小さな塩袋がある。
全部、もともとの自分の仕事らしい。
マルクが棚の右端を見た。
曲がった三本線の包みが、まだそこにある。
「北入り江、寄るのか」
「寄る。網返す」
「前に油受けた相手、分かるか」
「分かる」
「これ、受ける?」
マルクが包みを持ち上げる。
船員はその場で中身を開けなかった。
三本線と、結びつけてある木片の文字だけを見る。
「金具二つのやつ?」
「そう。向こうで合うか見る。合わなきゃ戻す」
「それなら乗せる」
それだけだった。
出航日を決める札もない。
順番を待つ列もない。
たまたま今日、北入り江へ行く舟があって。
たまたま相手を知っていて。
たまたま小さな包みを受ける余裕があった。
マルクは包みを船員へ渡す前に、棚につけた炭の三本線を指でこすって消した。
「ここから先はお前が持ってる荷だ。着くまでは」
船員が頷く。
「濡らさない場所に入れとく」
ティムがすぐ聞く。
「人手は?」
船員は網を押し込みながら答えた。
「足りてる」
「一人くらい増えても」
「増えたら飯も水も増える」
「俺、そんなに食わない」
俺はティムを見る。
船員も初めて手を止めた。
「昨日、魚汁おかわりしてなかったか」
「見てた?」
「港でその声量なら聞こえる」
前にも聞いた。
ティムが黙って底板洗いへ戻る。
俺は笑いをこらえながら布を絞った。
午後、北向きの小舟も港を出た。
棚にあった金具二つも一緒だ。
向こうで革に合うかは分からない。
受取人が今日いるかも分からない。
合わなければ、また戻ってくるかもしれない。
それでいい。
南へは、軽くした荷車が行った。
北へは、小さな包みが行った。
俺たちはどちらにも乗らなかった。
それでも仕事は進んだ。
「レン、そっち終わった?」
ハナが屋根下から呼ぶ。
「もうちょい」
「終わったら煙小屋。朝の二籠、位置変えるよ」
ティムが顔を上げる。
「まだ魚残ってた」
「お前が朝運んだやつだろ」
「あれ今日の話か」
「今日の話だよ」
北の舟を見ていたせいで、一日が少し長く感じたらしい。
ティムは立ち上がって、濡れた手を服で拭こうとした。
ハナが遠くから言う。
「服で拭かない」
手が止まる。
「見えてる?」
「見える」
俺は今度こそ笑った。
北へ行く荷も、南へ帰る荷車も、もう港の外だった。
俺たちは残った魚籠を持ち上げた。
次に何が動くかは、まだ分からない。




