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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第388話 帰ってきたネドは、北入り江の話より先に飯を探した


【本文】

ネドの舟が戻ってきたのは、日が海へ近づき始めたころだった。

ティムが最初に気づいた。

古い杭の下へ板をもう一枚差し込んでいた手を止め、港口へ顎を上げる。

「来た。たぶんあれ。……あ、ネドいる」

俺も顔を上げた。

小舟の前で、革帽子が揺れている。

朝より少し姿勢が悪い。

舟が岸へ着くと、若い船員が先に縄を投げた。ネドは後ろから空籠を一つ持ち上げようとして、船員に肩を押さえられる。

「先に降りろ。岸で受けろ。舟の上で欲張るな」

「今日それ二回目に言われた」

「二回言われる動きしたんだろ」

ネドは言い返さず、空籠を置いて岸へ移った。

足が地面へ着いた瞬間、少しだけ膝を曲げる。

ティムがそこを見逃さなかった。

「どうだった?」

ネドが顔を上げる。

「何が」

「海。吐いた?」

「最初に聞くのそれかよ」

「大事だろ。俺は一回吐いてるから、比較したい」

「吐いてない」

ティムの口が横へ曲がった。

「……ちょっと気持ち悪くも?」

「なった。でも吐いてない」

「そこまで聞けば引き分けに近いな」

「何と戦ってるんだ、お前」

ネドは笑ったあと、急に鼻を動かした。

港の屋根下から、焼いた魚の匂いが流れてきていた。

「悪い。北入り江の話する前に、飯って余ってる?」

ハナがちょうど鍋を抱えて出てきた。

「働いて戻ってきたならあるよ。でも手を洗って。網触った手で椀持たない」

「はい」

返事が妙に素直だった。

ティムが俺の袖を引く。

「二日かけて隠しクエスト探しに来て、北入り江まで行って、最初の報告が飯だぞ」

「腹減ってるんだろ」

「夢がないなあ」

「お前も朝飯の前に杭見に行ってただろ」

「それは夢がある」

違いが分からない。

ネドが手を洗っている間、舟の空籠は岸へ下ろされた。

数は俺が数える前にマルクが確認し、若い船員と短く話をつけている。

俺たちはそこへ口を出さなかった。

飯を受け取ったネドは、港の端へ座った。

最初の二口くらいは本当に話さなかった。

ティムが我慢できず、隣へしゃがむ。

「で?」

「食わせろよ」

「食いながらでいい」

ネドは魚を飲み込んで、俺を見る。

「こいつ、いつもこんな感じ?」

「だいたい」

「レンまでそっち行くなよ」

ティムは不満そうに座り直した。

ネドは椀を両手で持ったまま、少し考えた。

「北入り江は、俺が思ってたより普通だった」

ティムの眉が動く。

「普通って?」

「舟が着いて、網下ろして、俺は空籠運んで。途中で縄が絡んで、ほどくの手伝って。魚干してる人がいて、飯の鍋があって、犬が一匹寝てた」

「犬?」

「そこ拾う?」

「犬いたんだ」

「いた。俺には吠えた。船員には吠えなかった」

ティムが少し笑う。

それからネドは椀へ目を落とした。

「奥まで歩いてない。舟の近くだけ。だから、北入り江がどのくらい広いとか、人が何人いるとかは分からない」

その言い方は昨日よりだいぶ慎重だった。

自分で見た範囲を、自分で切っている。

俺は聞く。

「何か、掲示板に書いてあったのと同じものはあった?」

「隠し依頼っぽいのは何も」

ネドが即答してから、少し止まる。

「いや、何もって言うのも違うな。仕事はある。網持てって言われたし、空籠も運んだ。『これ終わったら次』は普通に出てくる。でも、誰か一人に話しかけたら北の全部が開く、みたいなのは俺がいた間はなかった」

「俺らがここでやってるのと同じじゃん」

ティムが言う。

「たぶん、そう」

ネドは魚の骨を皿の端へ寄せた。

「あと、一個だけ気になったのはある」

ティムがすぐ身を乗り出した。

俺は逆に、少し待った。

ネドはその差を見て笑う。

「お前ら、分かりやすいな」

「いいから何?」

「入り江の奥に坂がある。俺は上ってない。その坂から、荷籠つけた馬が一頭下りてきた」

ティムの顔が変わる。

「どこから?」

「知らない」

「聞かなかったの?」

「その時、俺は網の端押さえてた。馬の方へ走ったら怒られるだろ」

ティムは口を開きかけ、閉じた。

昨日の自分なら、たぶん同じ質問をしていた。

ネドが続ける。

「荷籠には布袋が二つ。中身は見てない。馬を引いてた人も、舟の人と二言三言話して、そのまま別の小屋の方へ行った。俺が見たのはそこまで」

「奥に道があるのは確か?」

俺が聞く。

「坂はあった。馬が下りてきた。そこまでは見た。どこまで続いてるかは知らない」

それで十分だった。

北入り江の先に陸の動きがある。

でも、道の長さも、行き先も、誰が使っているかも分からない。

ティムは明らかに続きを聞きたそうだったが、ネドの椀が空になったのを見て先に立った。

「明日、また北行く?」

「行かない。俺、南へ戻る」

「え」

「掲示板に書き直す。少なくとも、浅い湾が港とか、杭が隠し依頼とか、そのままにしとくのは嫌だ」

ティムが少し安心した顔をした。

「靴の話も」

「それは俺の書き込みじゃない」

「一緒に否定して」

「事実だったんだろ」

「事実だけど、広げなくていい事実もある」

ネドは声を出して笑った。

俺も笑いながら、少しだけ北を見た。

ネドが見た坂。

そこから下りてきた馬。

気になる。

かなり気になる。

でも、それだけで明日、北入り江へ行く理由にはならない。

「レン」

マルクの声が飛ぶ。

振り向くと、濡れた縄束を指している。

「それ、日が落ちる前に広げろ。固まる」

「今やる」

ティムが立ち上がる。

「ネドの話、もう終わり?」

ネドは空の椀を差し出した。

「俺が見た分はな。あとは犬に聞け」

「犬の話だけ妙に気になるんだよな」

俺たちは縄束の方へ歩いた。

北入り江の奥に坂がある。

今日は、それだけ増えた。

増えたのは道じゃない。

俺たちが知らないものの数だった。


第389話 南の地図には、まだ行ってない港が二つ増えていた

【本文】

翌朝、ネドは南へ出た。

俺たちは見送りもしなかった。

正確には、見送る暇がなかった。

朝から小魚の箱が四つ来て、そのうち一つの底が湿っていた。中身を移し、箱を伏せ、漏れている場所を探しているうちに、ネドは革帽子を振って南道へ消えた。

ティムは濡れた箱を持ったまま言った。

「掲示板、今日中に直るかな」

「二日かけて来たって言ってただろ。今日中は無理じゃない?」

「あ、そうか。情報も歩くんだな」

「人が運んでるならな」

「じゃあ靴の話、あと二日は生きるのか」

そこだけ計算が早かった。

昼前、今度は南から女のプレイヤーが一人来た。

背負っているのは剣でも弓でもなく、細長い筒と、角の擦れた革鞄だった。

港へ入ると、まず周りを見た。

舟ではない。

建物の角、屋根の向き、岸の形、港口。

立ち止まるたびに、何かを指で数えている。

ティムが俺の横で小声になる。

「また掲示板の人かな」

「今度は何探してるんだろ」

女は俺たちへ近づく前に、マルクへ声を掛けた。

「ここ、鴎泊で合ってる?」

「そう呼ぶ奴はいる」

マルクが答える。

女は一瞬だけ眉を上げ、鞄から折り畳んだ紙を出した。

「この場所で合ってるなら、北入り江へ行く舟ってどっちから出る?」

マルクは紙を見ずに港口を指した。

「行く舟がある日に、あそこから」

「毎日じゃない?」

「毎日って誰が言った」

女が紙を見る。

俺とティムも、つられて覗いた。

そこで二人とも黙った。

紙には、俺たちが知っている名前がいくつか書いてあった。

鴎泊。

北入り江。

浅い湾。

岬裏の平棚。

問題は、その横に付いている印だった。

北入り江には大きめの港印。

浅い湾にも、小さい港印。

岬裏の平棚には、四角い囲みと「中継」の二文字。

鴎泊から北へ一本の線が伸び、途中で二つ目の岬らしい出っ張りを回って、浅い湾までつながっている。

ティムが紙へ顔を近づけた。

「え、浅い湾って港になったの?」

「なってない」

俺とマルクの声が重なった。

女が紙から顔を上げる。

「やっぱり?」

ティムが指を動かす。

「平棚も中継所じゃない。俺らが杭を置くのに一回使っただけ。……あれ、でも網とか直してたから、作業場所ではある」

「正式な名前も知らない」

俺が足す。

女は少しも慌てなかった。

むしろ、鞄から細い炭筆を出した。

「どこから違う?」

「ちょっと待って」

俺は紙をもう一度見た。

違う、と言えるところ。

分からないだけのところ。

そこを一緒にすると、昨日の掲示板と同じになる。

女はサキと名乗った。

南側で、自分用の道順を書き写したり、人と交換したりしているらしい。

売り物にしているわけではない。

ただ、知らない土地へ行く時、文字だけの書き込みより紙にしておいた方が迷いにくいから続けているという。

「元は三枚」

サキが地図の端を指した。

「北へ行った人の手書き一枚、掲示板のまとめ一枚、誰かがそれを写した一枚。場所が合わないところは重ねて、だいたいこの辺って置いた」

ティムが感心した顔になる。

「すごいじゃん」

「合ってればね」

サキは浅い湾の港印を炭筆で塗りつぶした。

「ここ、何がある?」

俺は一度だけ行った時の景色を思い出す。

広い浅瀬。

杭。

低い網。

壁の少ない作業小屋。

働いている人。

「俺が見た時は、浅瀬に杭と網があって、作業してる人がいた。小屋もあった。でも、港って呼べる場所かは分からない。舟は入ったけど、潮で入口の通り方が変わった」

「住んでる人は?」

「分からない」

「何艘くらい使う?」

「分からない」

「名前は本当に浅い湾?」

俺は止まった。

ティムも止まる。

サキが俺たちを交互に見る。

「違う?」

「俺らがそう呼んでるだけかもしれない」

俺が答える。

「現地で名前聞いてない」

ティムが頭を抱えた。

「待って。じゃあ俺、普通に地名だと思ってた」

「俺も今ちょっと思った」

「レンまで?」

「話す時便利だったから」

サキは笑わなかった。

代わりに「浅い湾」の横へ小さく印を付け、その下へ何か書いた。

俺が覗く。

『呼称未確認』

ティムが読む。

「地図にそんなの書くんだ」

「知らないなら白でもいいんだけど、もう名前が流れてるなら、知らないって書いた方がマシ」

「空白、嫌じゃない?」

「間違った線よりは」

サキは淡々としていた。

次に平棚の「中継」を一本線で消す。

「ここは?」

「網とか浮きを直してた。俺らは水樽と補修布を運んだことがある。杭を置いて、別の舟へ回したこともある。でも、いつも荷を置く場所かは知らない」

「人は住んでる?」

「分からない」

ティムが横から付け足す。

「若い人が一人いた。あと、俺ら行った時は他にも作業してる人いたけど、数えてない」

サキは「中継」を消し、代わりに『作業場所を確認/常時利用不明』と書いた。

文字が細かい。

「そこまで書くと、地図じゃなくてメモじゃない?」

ティムが言う。

「今はメモでいい。線が固まってから地図にする」

サキは次に、鴎泊から北入り江まで引かれた一本線を指した。

「これは?」

俺は答えに困った。

舟で行ったことはある。

でも、毎回同じ線を通ったかなんて分からない。

風も、潮も、荷も違う。

「舟で行ける。俺は行った。でも、この線どおりかは分からない」

「出発時刻は?」

「ない」

マルクが後ろから言った。

いつから聞いていたのか分からない。

「定期便もない。行く荷があって、舟があって、人が決めて出る。それを一本線で毎日使える道みたいに書かれると困る」

サキは少しだけ口を尖らせた。

「線なしだと、行けないようにも見える」

「それは地図書く人の悩みだろ」

マルクは木箱を持ったまま去っていった。

サキはその背中を見てから、地図へ戻る。

線を全部消さなかった。

途中を何か所か切り、横へ小さく書く。

『航行実績あり/経路・時刻固定せず』

ティムが唸った。

「急に難しい地図になった」

「簡単にすると嘘になるから」

その言い方で、俺は少し好きになった。

サキは最後に、北入り江より上を見る。

そこはほとんど白かった。

小さな線が一本だけ途中まであり、その先は何もない。

俺は昨日、ネドが言った坂と馬を思い出した。

でも、口には出さなかった。

馬が坂を下りてきた。

それだけで、その線が正しいとは言えない。

サキは紙を畳みながら言った。

「南で広がってるの、たぶんこの一個前の写し。直したのが戻るまで、しばらく変な地図が歩くね」

ティムが深いため息をつく。

「靴の話と一緒だ」

「靴は地図に載らないだろ」

「今の流れなら油断できない」

俺は笑った。

その時は、本当に冗談だと思っていた。


第390話 地図の線一本で、舟は定期便にならなかった

【本文】

冗談じゃなかったのは、靴の話ではなかった。

翌日の昼前、南道から荷車が一台入ってきた。

荷台に大きな荷はない。

油を入れたらしい小さな陶器瓶が二つ。布で包まれた鉄の金具が一束。それだけだった。

荷車を引いてきた男は港へ着くなり、馬へ水をやるより先にマルクへ聞いた。

「北入り江行き、次は何時だ?」

マルクの手が止まった。

俺も止まった。

ティムはもっと分かりやすく止まった。

少し離れた屋根下では、昨日のサキが紙を広げていた。朝から港口の幅や建物の位置を自分で見直している。

男はマルクの顔を見て、聞き方を変えた。

「今日ないなら明日でもいい。北へ戻る便。これを頼まれてる」

荷台の二瓶を指す。

マルクが聞く。

「誰に?」

「北入り江にいる親戚。こっちへ来た奴から頼まれた。南の地図じゃ、鴎泊から北入り江まで舟線が出てたぞ」

サキが紙から顔を上げた。

ティムが俺を見る。

俺は何も言わなかった。

マルクは男の荷より先に、言葉を切った。

「便はない」

「でも舟は行くんだろ?」

「行く舟はある。決まった時刻で人と荷を運ぶ便はない」

男は少しだけ苛立った顔になった。

「同じじゃないのか」

「同じなら、お前が次は何時だって聞いた時に答えられる」

それで男は黙った。

喧嘩になったわけではない。

ただ、頭の中で予定を組み直している顔だった。

サキが紙を持って近づく。

「見た地図、こんな感じ?」

男は紙を見る。

「もっと簡単だった。鴎泊から北へ線一本。途中に浅い湾、北入り江。舟の印が三つくらい」

サキが目を閉じた。

「それ、たぶん私の元にしたやつと同じ系統だ」

「お前が書いたのか?」

「違う。私も写した側。でも、今直してる」

男は少し呆れた顔をした。

「地図って、そんな途中で変わるのか」

ティムが口を挟む。

「道の方も途中で変わる。浅い湾なんて帰る時、来た時と同じとこ通れなかったし」

「お前、詳しいのか?」

ティムの背筋が少し伸びた。

「一回行った」

「一回か」

背筋が元へ戻る。

俺は笑いそうになって、横を向いた。

男は荷台の瓶を見た。

「じゃあ、これ今日送れるかどうかも分からない?」

「今のところ分からない」

マルクが答える。

「北へ行く舟が来て、荷を積めて、持ち主が受けると言えば動く。俺が今ここで着く日を約束はしない」

「置いていくのは?」

「誰の荷か、どこへ渡すか、戻す時はどうするか、それ決めてから。置くだけ置いて『あとはよろしく』は受けない」

男は面倒そうな顔をしたが、怒らなかった。

たぶん、面倒なのは分かる。

俺だって前なら、瓶二つくらい置けばいいと思ったかもしれない。

でも、物が残るということは、誰かが覚えて、間違えずに渡して、駄目なら返さないといけない。

地図の線一本より、そっちの方がずっと重い。

そこへ、港口から声がした。

「その油、北入り江?」

昨日ネドを乗せた若い船員だった。

今日は一人で岸へ上がってくる。

男がすぐ振り向く。

「行くのか?」

船員は答える前に荷を見る。

瓶二つ。

金具一束。

それから空の舟を見る。

「今日は行かない。網の縁が切れてる。直して、風が今のままなら明日の朝は戻るつもり」

男の顔が明るくなりかける。

船員はすぐ手を出して止めた。

「つもり。朝見て駄目なら出ない」

「荷は?」

「瓶は縛れる。金具もそのくらいなら。誰に渡す?」

男は親戚の名前を言った。

船員は知っているらしく、少し考えてから頷いた。

「本人がいなければ、隣の干し場の婆さんに預ける。それでいいなら持つ」

「いい。代金は?」

そこから先は二人の話になった。

俺たちは黙った。

サキだけが、少し離れて地図を見ている。

やがて炭筆を出し、昨日切った線の横へさらに小さな文字を書いた。

ティムが覗く。

「何て書いた?」

「『北行き舟・都度』」

「それで分かる?」

「『毎日』って書くよりは」

男が横から言う。

「時間分からないなら、地図に舟の絵つけるのやめた方がいいぞ」

サキが男を見る。

「それ、今すごく説得力ある」

「俺、今日それで来たからな」

二人とも少し笑った。

俺は地図を見た。

昨日まで一本だった北への線が、途中で切れ、注釈だらけになっている。

見た目は分かりにくくなった。

たぶん、今の方が正しい。

ティムは北入り江より上の白い部分を指した。

「ここは?」

サキが答える。

「白」

「ネド、坂見たって言ってたよな」

俺はティムを見る。

言った本人が、すぐ口を閉じた。

昨日より一歩早い。

「……馬が下りてきた、までだった」

「そう」

サキもそれ以上聞かなかった。

白いところへ、線は増えなかった。

午後、荷車の男は油瓶と金具を持ったまま港を出た。

明日の朝、もう一度来ると言う。

置いてはいかなかった。

若い船員は舟を引き上げ、切れた網の縁を直し始めた。

サキは地図を畳んだ。

誰も北へ出なかった。

それでも、明日の朝に動くかもしれない荷が一つ増えた。

「レン、あの油運ぶ時、人ひとり要るかな」

ティムが網を縫っている船員を見ながら言う。

「瓶二つと金具だぞ。たぶん、それだけならいらないんじゃない?」

「じゃあ別の荷も増えれば」

「増えるかもしれないし、増えないかもしれない」

「最近そればっかりだな」

ティムは苦笑した。

俺もそう思う。

舟が出るかもしれない。

出ないかもしれない。

荷が増えるかもしれない。

俺たちに声が掛かるかもしれない。

別の誰かが乗るかもしれない。

地図には一本の線で書けることが、実際には何個もの条件でできている。

その面倒くささが、前よりずっと面白かった。

サキの地図の北側には、まだ大きな白が残っていた。

俺はそこを見ても、今日は線を足したいと思わなかった。

白いままの方が、次に本当に何かを見つけた時、ちゃんと増えたと分かる。


第391話 朝になっても、北行きの荷は岸に残った

【本文】

翌朝、南道の男は本当に戻ってきた。

昨日と同じ荷車。昨日と同じ小さな陶器瓶二つ。布で巻いた鉄金具一束。

違ったのは、馬の機嫌だった。

港へ着くなり水桶へ鼻を突っ込み、男が手綱を引いても離れない。

「お前まで待つ気か」

男が馬の首を叩く。

馬は聞いていなかった。

俺とティムは、その横で昨日から干している網を裏返していた。

朝の風は冷たく、海側から斜めに入ってくる。網を持ち上げるたび、濡れた端が勝手に横へ流れた。

ティムが港口を見る。

「出そうじゃない?」

「俺に聞くなよ」

「昨日より晴れてる」

「晴れと舟が出るかは別じゃない?」

言いながら、俺も見た。

昨日ネドを乗せた若い船員は、もう舟にいた。

切れていた網の縁は縫い終わっている。今は岸に立ち、細い縄の端を垂らして風を見ていた。

南道の男がすぐ近づく。

「直ったんだろ?」

「網はな」

船員は縄から目を離さない。

「じゃあ行ける?」

「今は出ない」

男の眉が上がった。

「昨日、風が今のままなら朝って言っただろ」

「今のままじゃない。夜に振れた」

「こんなに晴れてるのに?」

船員がやっと男を見る。

「晴れてる。横から波も入ってる。両方ほんとだ」

男は言い返しかけた。

その間に、港口の外で小舟が一艘、斜めに揺れた。

帆は小さい。入ってくる舟だから進めてはいる。でも、船首が一度だけ大きく横へ振られた。

男も見た。

「……あれくらいなら来れるんだろ」

「来るのと、荷積んで戻るのは別だ」

船員は短く答え、舟へ戻った。

喧嘩にはならなかった。

男は荷台の瓶を見てから、馬を見た。

「昨日から、これ二つ運ぶのに馬の餌の方が減ってるぞ」

馬はちょうど、水桶から顔を上げたところだった。

鼻先から水が垂れ、そのまま男の袖へ飛んだ。

「お前は気楽でいいな」

男が袖を払う。

馬は今度は干し草の方へ首を伸ばした。

マルクが横から言った。

「そこへ繋ぐなら、柱の内側。荷車の車輪に手綱巻くなよ。驚いた時に引っ張る」

「昼まで借りる」

「借りるのは柱。餌は別だ」

「分かってる」

男は財布を出しながらため息をついた。

ティムが網の向こうから顔を出す。

「地図に餌代まで書いといた方がいいかも」

男がこっちを見る。

「お前、昨日の地図のやつか」

「地図のやつではないです。靴のやつかもしれないです」

「余計分からん」

俺は網の端を引っ張った。

「ティム、そっち上げて。泥つく」

「あ」

遅かった。

網の角が地面を擦り、昨日乾きかけたところへ新しい泥がついた。

ハナが屋根下から見ていた。

「今つけたところ、自分で洗うんだよ」

ティムは網を持ったまま目を閉じた。

「北の舟出ないの、俺のせいじゃないのに仕事だけ増えた」

「今のは完全にお前のせい」

南道の男が笑った。

少し機嫌が戻ったらしい。

俺たちは泥のついた角だけを水で流した。

全部洗い直すほどではない。

ティムは自分でつけた泥を手のひらで擦りながら、何度も港口を見た。

「そんな見ても風変わらないよ」

ハナが言う。

「見てる間に変わるかもしれないじゃん」

「変わったら船の人が先に気づく」

「夢がないなあ」

「網の泥落とす仕事に夢いる?」

ティムは何も言えなくなった。

サキも朝から港にいた。

昨日の地図を広げ、一本だった北向きの線の横へ、小さな文字を足している。

男がそれに気づいて寄った。

「何書いてる」

「昨日の続き。『出航時刻なし』だけだと、今日みたいなの分からないから」

「じゃあ何て書くんだ」

サキは炭筆を止めた。

「『当日確認』」

男が鼻を鳴らす。

「地図見に来て、最後は現地で聞けって?」

「そうなる」

「役に立ってるのか、それ」

「昨日の地図よりは」

男は一度黙った。

それから、自分の荷車と、まだ岸にいる舟を見比べる。

「……それはそうだな」

サキは勝った顔をしなかった。

ただ、文字の横へ小さく線を引き、読みやすいよう書き直した。

『北行き舟・都度/当日確認』

ティムが隣から覗く。

「もっと夢のある書き方ない?」

「夢を見て昨日から瓶二つ持って往復してる人がいる」

サキが言う。

南道の男が振り返った。

「俺を例にするな」

「一番分かりやすいから」

今度は俺も笑った。

男はしばらく地図を見たあと、紙の端を指で叩いた。

「昨日これ見た時、線があるなら舟もあると思ったんだよ」

「舟はあった」

サキが言う。

「出なかったけど」

「そこが一番大事だろ」

「だから今書いてる」

男はまた何か言いかけたが、結局笑った。

自分が困った話を、その場で地図の修正に使われるのは複雑らしい。

朝の仕事が一段落しても、舟は出なかった。

男は荷を預けず、昨日と同じように自分で持ったままにした。

若い船員は昼前にもう一度見る、とだけ言った。

北へ伸びる地図の線は、紙の上では動かなかった。

海の方は、ずっと動いていた。


第392話 分からないことを書いた地図は、前より文字が増えた

【本文】

昼前になっても、風は完全には落ちなかった。

昨日より少し弱い。

でも若い船員は、まだ舟を岸から離さなかった。

南道の男はとうとう馬を屋根下へ寄せ、自分も腰を下ろした。

待つ、と決めると少し静かになるらしい。

さっきまで何度も舟を見ていたのに、今は干した豆を噛みながらサキの地図を眺めている。

「なあ」

男が言った。

「これ、南へ持って帰るなら、どっちが正しい」

差し出されたのは二枚だった。

昨日男が見てきたという簡単な写し。

鴎泊から北入り江まで一本線。途中に小さな港印。舟の絵までついている。

もう一枚はサキの紙だ。

線は途中で切れ、横に文字が多い。

『航行実績あり』

『経路・時刻固定せず』

『呼称未確認』

『作業場所確認/常時利用不明』

見た目だけなら、最初の一枚の方がずっと地図らしい。

サキは二枚を見比べた。

「使いやすいのはそっち」

簡単な方を指す。

男が頷きかける。

「正しいかは別」

「じゃあ、正しい地図って何なんだ」

「知らない」

サキはあっさり言った。

男が目を丸くする。

「そこは考えてないのか」

「考えてる。でも、全部正しい紙を作れるほど見てない。だから、今は間違ってるって分かったところを減らす」

男は二枚を見下ろした。

簡単な地図は、迷いなく北へ行けそうに見える。

サキの地図は、読むほど確認することが増える。

「面倒な方が正しいってことか」

「今はね」

頷きが止まった。

ティムが俺の横で魚箱を拭きながら笑う。

「それ、昨日からずっと言ってるやつだ」

「じゃあ、お前ならどっち持ってく」

男に聞かれ、ティムの手が止まった。

一瞬だけ簡単な方を見る。

次に、文字だらけの方を見る。

「……今なら、こっち」

サキの方だった。

俺は少し意外だった。

ティムは俺の顔を見て、すぐ眉を寄せる。

「何、その顔」

「いや、線一本の方選ぶと思った」

「俺も昨日までなら選んだよ。でも、それで来て舟なかったら、俺たぶん三回くらい文句言う」

南道の男が豆を噛んだまま頷く。

「三回じゃ済まんぞ」

「じゃあ五回」

「回数の問題じゃない」

サキが炭筆の尻で紙を叩いた。

「まだ足りないんだよね」

「何が?」

俺が聞く。

「誰が見たか」

サキは北入り江より上の白いところを指した。

「ここ。ネドが坂と馬を見たって聞いた。でも私は見てない。レンもティムも見てない」

ティムがすぐ言う。

「ネドは見た」

「だから、消すほどでもない。でも線にするほどでもない」

サキは少し考えて、余白へ小さく書いた。

『坂あり・ネド実見/行先不明』

そこから線は引かなかった。

ティムが横から炭筆を指す。

「見たやつは丸、聞いただけは三角、とかにしたら早くない?」

サキが一度だけ手を止める。

「増えたら分からなくなりそう」

「じゃあ目の絵と耳の絵」

「お前の絵、目と魚の違い分かる?」

「……文字でいいです」

引くのが早かった。

サキは笑いながら、名前だけ残した。

誰が見たかが一件分かれば、今はそれで足りる。

南道の男が覗き込む。

「人の名前まで書くのか」

「あとで違った時、誰が見た話だったか分からないよりマシ」

「じゃあ俺の名前も?」

「北入り江行きの時刻を聞いて一日待った人、って書く?」

「絶対やめろ」

男の返事が早すぎて、ティムが吹き出した。

俺も笑った。

サキは本当に書かなかった。

代わりに、簡単な線の横へもう一つだけ足す。

『荷・舟・風で変動』

ティムが読む。

「潮は?」

「北入り江まで全部同じか分からない」

「浅い湾では変わった」

「だから浅い湾の横には書く」

サキは場所ごとに書き分けた。

俺はそれを見ていて、前より地図が見づらくなったと思った。

でも、見づらいまま残してあるところが、少し面白かった。

昔の俺なら、空白を埋めたくなったかもしれない。

今も埋めたい。

ただ、埋めたいのと、埋めていいのは違う。

「レン」

ティムに呼ばれて顔を上げる。

魚箱の中に、拭き残した鱗が一枚貼りついていた。

「今、格好いいこと考えてた?」

「別に」

「絶対考えてた顔」

「鱗残ってる」

「話そらした」

ハナが後ろを通りながら箱を覗いた。

「鱗残ってるね」

ティムは黙って布を戻した。

南道の男がまた笑う。

地図の話をしていても、魚の鱗は勝手に消えない。

昼前、ハナが薄い魚汁と固いパンを持ってきた。

南道の男にも一椀渡る。

「待ってる人まで飯出るのか」

「代金は取るよ」

「そこは取るのか」

「馬の餌より安い」

男は笑って払った。

ティムがパンを汁へ浸しすぎて、半分を椀の中へ落とした。

「地図より先にパンが沈んだ」

俺が言う。

「今それ言う?」

サキは地図を丸め、汁の飛ばない場所へ置いた。

文字だらけの紙も、魚汁には弱い。

昼が近づいたころ、若い船員がもう一度港口へ出た。

今度は縄を垂らすだけじゃなく、舟の横腹を押して少し水へ出し、戻ってくる波の向きを見ている。

南道の男が立ち上がる。

「どうだ」

「昼過ぎまで待つ」

「出る?」

「まだ決めない」

男は天を見た。

「その言い方、地図より分かりにくいな」

船員は肩をすくめる。

「海の方に言え」

ティムが小声で俺へ言った。

「それ、地図に書く?」

俺はサキを見た。

サキは聞こえていたらしく、炭筆を置いた。

「書かない」

「なんで」

「海に言え、って地図にあっても困るから」

それはそうだった。


第393話 北へ行ったのは、俺たちじゃなく荷物だった

【本文】

昼を少し過ぎたころ、風が変わった。

急に止んだわけじゃない。

港口の外を走っていた白い波が、一つ、二つと減った。

若い船員は飯の途中で立ち上がった。

椀を置いたまま岸へ行き、しばらく海を見ている。

ティムが俺の肘をつつく。

「これ、来る?」

「何が」

「出るやつ」

「俺に聞くなって」

昨日から同じやり取りをしている。

船員は舟の綱を一度外し、また掛けた。

それから南道の男へ向かって顎を上げる。

「今なら出る」

男は豆の袋を落としかけた。

「本当に?」

「今なら。荷、まだ同じか?」

「増えてない。減ってもない」

「届け先も同じ?」

男は親戚の名前を言う。

昨日決めた、本人がいない場合の預け先も言い直した。

船員は二つとも聞いてから頷く。

「じゃあ持つ」

そこで初めて、油瓶二つと鉄金具一束が荷車から下りた。

昨日は港へ置かなかった荷だ。

今日も、舟が出ると決まるまでは男の手元にあった。

男は瓶の口を一本ずつ指で確かめた。

布包みの結び目も引く。

「漏れたら俺のせいになる?」

船員が瓶を受け取りながら答える。

「今漏れてたらお前。積んだ後に割ったら俺」

「分かりやすいな」

「だから今見ろ」

二人で一本目を傾ける。

布に染みはない。

二本目も同じだった。

見ているだけのティムが、なぜか一緒に頷いた。

「お前は何を確認した」

俺が聞く。

「ちゃんと確認してる雰囲気」

「一番いらないやつだな」

ティムが瓶の一つへ手を伸ばす。

「運ぶ?」

船員が先に答える。

「瓶は俺。金具だけ岸まで頼む」

「舟も?」

「舟は足りてる」

ティムの手が一瞬止まった。

「一人くらい増えても」

「増えたら重くなる」

「俺そんな重く――」

「お前の体重の話じゃない。今日は要らない」

若い船員の言い方は冷たくなかった。

必要な人数が足りているだけだ。

ティムも分かっている。

分かっている顔のまま、少し悔しそうだった。

「金具、どこ持つ?」

すぐ仕事へ戻る。

そこは偉い。

俺とティムで鉄金具の包みを持ち、岸まで運んだ。

見た目より重い。中で金属同士が一度だけ鳴った。

船員が舟の中央寄りを指す。

「そこ。瓶と当てるな」

俺たちは言われた場所へ置く。

油瓶は布と藁で包み、別に縛った。

金具は舟底で動かないよう、縄を一本回す。

南道の男がそれを見ながら言う。

「昨日の朝に来てたら、もう着いてたかもしれないのにな」

船員は縄を締めたまま返した。

「昨日出てたら、着かなかったかもしれない」

男は黙った。

少ししてから、苦笑する。

「そう言われると何も言えんな」

「言っていい。出ないけど」

二人とも笑った。

サキは少し離れて地図を持っていた。

出航すると分かったからといって、北への線を一本に戻すことはしなかった。

代わりに、余白へ小さく今日のことを書いている。

俺が近づくと紙を見せた。

『北入り江向け小口荷/当日判断で出航』

その下に、さらに小さく。

『定期ではない』

ティムが横から読む。

「そこ、でかく書いた方がよくない?」

南道の男が聞いて、振り返る。

「でかくしろ。俺みたいなのがまた来る」

サキは少し笑って、『定期ではない』の下へ線を引いた。

「これ以上でかくすると、地図より注意書きが主役になる」

「もう半分なってるだろ」

「北が分かってないからね」

その言い方に、俺は北入り江より上の白いところを見る。

『坂あり・ネド実見/行先不明』

文字は増えた。

線は増えていない。

若い船員が舟へ乗る。

今日は昨日みたいな臨時の一人を探さなかった。

もともと一緒に来ていた男が、舟尾で綱をまとめている。

その男は朝からほとんど喋っていない。

でも、荷を積む位置だけは何度も変えた。

金具を少し前へ。

水桶を後ろへ。

最後に自分が座る場所を確かめる。

ティムはそれを見ていたが、今度は「俺も乗れる」とは言わなかった。

船員に言われる前に、舟の中に空きがあることと、人を増やせることは同じじゃないと分かったらしい。

ティムがそれを見て、俺へ小声で言った。

「昨日はネド乗ったのに」

「今日は人足りてるんだろ」

「知ってる」

「じゃあ」

「知ってても悔しいものは悔しい」

俺は笑わなかった。

また少し同じだった。

舟が岸を離れる。

南道の男は馬の手綱を持ちながら、しばらく見送った。

自分は南へ戻る。荷だけが北へ行く。

昨日はそれができなかった。

今日はできた。

地図の線が変わったわけじゃない。

港が定期便を始めたわけでもない。

風が少し変わり、網が直り、荷主が戻り、舟の人が出ると決めた。

それだけで瓶二つと金具一束が動き始めた。

「レン」

マルクの声が飛ぶ。

「見送り終わったなら、南から来た縄束を屋根下へ入れろ。雨跡まだ残ってる」

ティムが空を見た。

「晴れてるよ?」

「縄は昨日濡れてる」

「今日晴れてるのに?」

「お前、さっきの荷主と同じこと言ってるぞ」

マルクが返した。

俺は吹き出した。

ティムは納得していない顔で縄束を持つ。

「最近、晴れが信用できない」

「晴れは悪くないだろ」

「じゃあ海が悪い」

「海に言え」

俺が返すと、サキが地図の向こうから声を出した。

「それは書かないよ」

さっきのやり取りを覚えていたらしい。

今度は全員が笑った。

北へ行ったのは、俺たちじゃなかった。

油瓶二つと鉄金具一束だけだ。

それでも、港に残った俺の中では、何かが少し進んだ気がした。

行けない日があって、待つ人がいて、行ける瞬間だけ荷が動く。

その間にも別の仕事がある。

俺たちが乗らなくても、北は止まらない。

ティムと縄束を持ち上げる。

重さで腕が引かれた。

「次は乗りたいな」

ティムが言う。

「仕事あればな」

「絶対それ言うと思った」

「じゃあ聞くなよ」

二人で屋根下へ運ぶ。

振り返った時、北へ出た舟はもう港口の向こうだった。

南道の男も荷車へ乗り、今度は軽くなった荷台で南へ戻っていった。

馬は朝より機嫌がよさそうに見えた。

たぶん気のせいだ。

ティムがその尻を見送りながら言う。

「あの馬、結局いちばん待たされたな」

「餌食ってたけどな」

「俺らより得してない?」

「何と比べてるんだよ」

サキの地図には、まだ白い場所がたくさん残っていた。


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