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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第376話 手のひらが痛い日に、海の仕事は来なかった


【本文】


朝、目が覚めて最初に思ったのは、二つ目の岬のことじゃなかった。


手が痛い。


布団の中で指を曲げると、昨日、縄が通った場所だけ薄く熱を持っている。


皮がむけたわけじゃない。血も出ていない。ただ、握るたびに「昨日使った」と手のひらが主張してくる。


隣でティムが寝返りを打った。


「……海、揺れてる」


「ここ陸だぞ」


「じゃあ俺が揺れてる」


目を閉じたまま言う。


昨日、港が見えてから吐いた男の朝としては、ずいぶん説得力があった。


港へ出ると、ガルの舟はいなかった。


二つ目の岬へ向かう舟も、俺たちを待っている船員もいない。


当たり前だった。


昨日の半日仕事は、昨日で終わっている。


マルクが俺の手を一度見て、木箱を顎で示した。


「今日は細い縄触るな。割れ板、五枚だけ裏へ」


「手、見ただけで分かるの?」


ティムが聞く。


「昨日帰ってきた時から赤かった」


「俺のは?」


「お前は顔が青かった」


ティムが黙った。


俺は笑いながら板を持った。


海へ出た次の日にやったのは、壊れかけの木箱から外した板を裏の棚へ運ぶ仕事だった。


五枚。


終わると、今度は空の塩袋を叩いて畳んだ。


昼前には、煙小屋の前で魚籠を洗った。


昨日より世界が狭くなった感じはしなかった。


むしろ、海へ出ても戻ればこういう仕事が残っている方が、妙に安心した。


ティムは魚籠へ水をかけながら、三回目くらいで言った。


「今日、舟の仕事ないの?」


ハナが洗った布を竿へ掛ける。


「昨日乗ったから今日もあると思ってた?」


「ちょっと」


「港は連続ログインでも景品くれないよ」


「ログインって何だよ」


「知らない。レンが前に変な言い方してた」


俺は聞こえないふりをした。


昼を過ぎても、舟仕事は来なかった。


代わりに、南から豆の袋が四つ来て、北から空樽が二つ来た。


豆袋は倉へ。


空樽は水場の横へ。


空樽の片方は底が少し鳴ったので、俺が覗こうとしたら、マルクに「空なら覗いても空だ」と言われた。


ティムは笑いすぎて、自分の魚籠へ水をかけた。


「冷たっ」


「お前、今日も濡れるんだな」


「海じゃないから負けじゃない」


何との勝負なのか、まだ続いているらしい。


夕方近くになって、風が少し落ちた。


港口へ、小さな帆舟が一艘入ってきた。


昨日の舟ではない。


船縁が低く、前の方へ丸い水樽を横に寝かせている。後ろには、乾いた浮きを束ねたものが四つ。網の補修布らしい巻物も一本あった。


船頭は四十くらいの女だった。


髪を後ろで短く結び、舟を寄せる間も口を閉じたまま周りを見ている。


岸へ綱を投げたのは若い男だった。


マルクが受け取る。


「荷だけか?」


女船頭が舟の中を指した。


「明日の朝、岬裏の平棚まで。水一樽、替え浮き四束、補修布一巻。帰りは濡れ網二束」


ティムの手が止まった。


俺も止まりそうになって、魚籠を置いてから振り返った。


女船頭は続ける。


「二人ほしい。半日じゃ足りないかもしれない。潮が合わなきゃ出ない」


マルクは俺たちを見なかった。


「ここで人は売ってない」


「知ってる。空いてる奴に聞く」


女船頭が港を見回す。


俺たち以外にも若いのはいる。荷を積んでいる男が二人、縄を編んでいる娘が一人。


特別に俺たちを探して来たわけじゃない。


それが分かっただけで、胸の奥が余計に騒いだ。


ティムが小声で言う。


「岬裏って」


「たぶん、二つ目の向こう」


「たぶん?」


「本人に聞けよ」


「レンが聞いて」


昨日あれだけ舟に強いと言っていた男が、今日は急に慎重だった。


俺は女船頭へ近づいた。


「岬裏の平棚って、二つ目の岬を回る?」


女船頭が俺を見る。


「鴎泊からなら回る。お前、昨日ガルの舟にいたな」


「見てたんですか」


「帰りに吐いてた方が目立ってた」


後ろでティムが固まった。


「何で広がってるんだよ」


「港だからだろ」


女船頭は少しだけ笑った。


「乗るなら朝、明るくなってから。潮見て決める。駄目なら解散。日当は出た時間分。荷を落としたら濡れ網を積んで戻る。観光はなし」


最後だけ、昨日と似た言い方だった。


俺は手のひらを開いた。


まだ赤い。


「手、これでも大丈夫?」


女船頭は一度だけ見た。


「握れないならやめとけ。握れるなら、手袋代わりの布はある。痛いのと使えないのは別だ」


ティムも自分の掌を見た。


それから俺を見る。


「俺、今日は吐いてない」


「今日は舟乗ってないからな」


「条件としては一個クリアしてる」


「してない」


明日の仕事は、まだ決まっていない。


潮が合わなければ出ない。


他の誰かが先に受ければ、俺たちは行かないかもしれない。


それでも、二つ目の岬の向こう側が、初めて場所ではなく仕事の行き先として口に出た。


その日の夜、俺は手のひらへ薄い布を巻いて寝た。


岬の形より、水樽がどれくらい重いかを考えながら。


第377話 二つ目の岬を越える仕事は、水樽ひとつ分だった

【本文】


翌朝、女船頭は俺たちより先に港へいた。


名前はセイラと言った。


舟の横へしゃがみ、濡らした指を風へ向けている。


ティムが俺の耳元で言う。


「指で潮分かるの?」


「風じゃない?」


「聞く?」


「仕事始まる前に黙って待とう」


「昨日より慎重だな」


「昨日のお前を見たから」


ティムが何か言い返しかけたところで、セイラが立った。


「出る。二人、来るなら今」


昨日、縄を編んでいた娘は別の荷仕事へ行くらしい。


荷積みの男二人も姿がない。


結果として空いていたのが俺たちだった。


それだけだった。


舟へ運ぶのは、水樽一つ、替え浮き四束、補修布一巻。


水樽は空じゃなかった。


二人で持ち上げた瞬間、ティムが顔をしかめる。


「重い。聞いてない」


セイラが船縁の中から言った。


「水ってだいたい重いぞ」


「樽の形が軽そうだった」


「形で水が軽くなったら毎日丸くする」


俺は笑う余裕がなかった。


樽の胴を抱え、足元を確認しながら舟へ下ろす。


昨日の縄仕事とは違う。


今日は、まず荷を壊さず運ぶところから始まった。


セイラの舟には、若い男が一人だけ乗っていた。


名はロウ。


無口というより、口を開く前に手が動く人だった。


樽を前へ固定し、浮き束を左右へ分け、補修布を高い位置へ差し込む。


ティムが「そこ濡れない?」と聞くと、ロウは布を一度押してから答えた。


「濡れる。沈むよりまし」


ティムは少し考えて頷いた。


舟が岸を離れる。


昨日より胃が落ち着いていた。


一度経験したからかもしれないし、波が小さいだけかもしれない。


ティムは最初から低く座っている。


「今日は強がらないの?」


俺が聞く。


「昨日ので学習した」


「昨日も煙小屋で同じこと言ってたぞ」


「学習にも種類がある」


船頭のセイラが前を向いたまま言う。


「喋れるなら桶見とけ。底に水たまったら掻け」


二人で同時に黙った。


石浜を過ぎる。


北入り江の方向も通る。


でも舟は寄らない。


今日は荷の行き先が別にある。


俺は昨日見た海岸線の重なりを探した。


二つ目の岬は、最初は見えなかった。


しばらくして、灰色の先端が前方の斜面から少しずつ分かれてくる。


「あれだ」


ティムが先に気づいた。


ロウが横目だけ向ける。


「まだ遠い」


「昨日はあそこで戻った」


「今日は回る」


短い言葉だった。


それだけで心臓が速くなった。


けれど、セイラは岬ではなく海面を見ている。


舟が近づくほど、波の向きが少し変わった。


正面から来ていた揺れが、途中から右斜めへ押す。


水樽を縛った縄がきしむ。


セイラが言った。


「二人とも樽側へ寄るな。ロウ、前の結び見る」


ロウがすぐ動く。


俺は座った位置から足を引き、樽から距離を取った。


ティムも同じようにする。


「岬回るだけでこんな変わるの?」


ティムが聞いた。


セイラは帆を少し落としながら答える。


「今日はこれくらい。昨日の雨の後だから外がまだ押してる。毎回同じと思うな」


説明はそこで終わった。


毎回同じじゃない。


海の仕事では、それが一番大きいルールなのかもしれない。


ゲームなら同じ地形に同じ補正が付くと思いたくなる。


ここでは昨日の雨まで混ざってくる。


岬が近づいた。


陸から見た時より黒い。


海側の根元に、白く砕ける波が一本続いている。


舟はそこへ近づかず、少し外へ膨らんだ。


「もっと岸寄りじゃないの?」


ティムが言う。


ロウが初めて少し長く答えた。


「近道は岸沿い。でも今日のこの舟と荷なら外。樽転がしたくない」


ティムが樽を見る。


「水一個で道変わるんだ」


「水一個じゃない。重さが前にあるから」


俺も樽を見た。


昨日は人手。


今日は水樽。


目的地だけじゃなく、何を積んでいるかで通り方が変わる。


それが少し面白かった。


岬の先端が真横へ来る。


ティムが黙る。


俺も黙った。


昨日は、ここまで来なかった。


舟が一度大きく沈み、次の波で持ち上がる。


灰色の岩壁が横へ流れていく。


その向こう側が、少しずつ開いた。


最初に見えたのは、村でも大きな港でもなかった。


海面だった。


さっきまで見えなかった水が、岬の向こうへ広がっている。


色が少し暗い。


波は外より細かい。


遠くに、低い陸がもう一枚ある。


ティムが息を吐いた。


「向こう、普通に続いてる」


セイラが笑う。


「岬の向こうで世界が終わってたら困る」


「いや、分かってるけど」


ティムは言い直した。


「見えない時は、もっと何かある感じしたんだよ」


「あるぞ」


セイラが前を指した。


「荷下ろす場所がな」


海岸の影に、平たい岩棚が見えた。


木の柱が二本。


低く張られた縄。


その向こうに、人が三人動いている。


家は見えない。


煙もない。


舟は速度を落とした。


俺は岬の向こうを見たかった。


もっと北も見たかった。


でもロウが前から声を飛ばす。


「水樽、降ろす準備。着いたら先に樽。浮きは後」


景色を見る時間は、また仕事に取られた。


二つ目の岬を越えた瞬間に最初にしたのは、冒険じゃなかった。


水樽をどう降ろすかの確認だった。


第378話 岬の向こうには、村じゃなく働く場所があった

【本文】


岩棚は、近づくほど小さかった。


舟を二艘並べたら、端の方は人が横向きになりそうな幅しかない。


木の柱も桟橋ではなく、綱を掛けるために打っただけらしい。


セイラが舟を寄せると、棚の上にいた男が一本目の綱を受けた。


「遅かったな」


「潮待った」


「待って正解。朝、外押してたぞ」


「見た」


二人の会話はそれだけだった。


俺とティムは水樽へ向く。


ロウが結びを外し、セイラが先に岸へ上がる。


「樽から。転がすな。ここ落としたら拾えん」


ティムが岩棚の外を見た。


すぐ海だ。


「その説明、持つ前に聞けてよかった」


「今聞いたから落とすな」


二人で樽を抱えた。


昨日より手のひらが痛む。


でも握れないほどじゃない。


舟と岩棚の高さが少し違うので、俺が先に持ち上げ、ティムが下から押す。


一歩。


もう一歩。


棚の内側へ置いた時、二人とも同時に息を吐いた。


「水、重すぎ」


ティムが言う。


棚の男が樽の蓋を確認しながら笑った。


「飲む時は軽いぞ」


「一口ずつならな」


俺が言うと、ティムが指を立てた。


「そうやって運べばよくない?」


セイラが浮き束を持ち上げながら言った。


「昼までかかって半分海にこぼすな」


却下された。


替え浮き四束と補修布も降ろす。


棚には網が二枚広げられていた。


一本はまだ濡れている。


もう一本は端の方だけ乾き始めている。


三人のうち、一人は年配の女だった。網目へ指を入れ、切れたところへ短い糸を通している。


もう一人の若い男は古い浮きを外していた。


誰も俺たちへ「ここはこういう場所だ」と説明しない。


説明する暇がないのかもしれない。


ティムは一度周りを見回して、それから年配の女へ聞いた。


「ここ、住んでるんですか?」


女は手を止めずに答える。


「住んでたら水樽を舟で持ってこないよ」


「あ、そっか」


「朝来て、仕事して、帰る。泊まる奴もたまにいるけど、私は嫌」


「何で?」


「夜、風うるさいから」


それ以上は続かなかった。


でも十分だった。


村じゃない。


港でもない。


網を直したり、浮きを替えたりするための場所らしい。


誰がいつから使っているのかは分からない。


正式な名前があるのかも分からない。


セイラはさっきから「平棚」としか呼んでいない。


ロウが俺へ濡れ網の端を渡した。


「帰り二束。畳むの手伝え」


「どっちから?」


「乾いてない方。砂落としてから」


俺は言われた場所へ移る。


ティムも隣へ来た。


網は昨日より重かった。


魚が入っていないのに、海水だけで持ち上げにくい。


二人で端を合わせる。


ティムが一度折り目を間違え、年配の女に「それだと舟で広がる」と言われて戻した。


「網って全部同じ畳み方じゃないんですか」


「同じなら楽なんだけどね」


女は笑う。


「これは端に浮きが残ってる。そっちは鉛が重い。混ぜると帰りに嫌になる」


ティムは網を見比べた。


「帰ってからじゃなくて、帰る途中で嫌になる?」


「舟で崩れたらね」


「じゃあちゃんとやる」


急に真面目になった。


俺も手元を見る。


昨日は引くことだけで精一杯だった。


今日は畳むだけなのに、別の難しさがある。


一回海へ出たからといって、海仕事が一個の技能になるわけじゃない。


やることが細かく違う。


ゲームなら『漁師Lv1』でまとめたくなるところを、ここは全然まとめてくれない。


濡れ網二束を舟へ積むころには、手のひらの赤い筋がまた濃くなっていた。


ティムも同じらしく、指を開いたり閉じたりしている。


セイラがそれを見た。


「痛いなら帰りは無理して持つな。港で明日使えなくなる方が困る」


ティムが少し悔しそうに言う。


「持てる」


「持てると、持ち続けられるは違う」


「今日それ多いな」


「海はだいたいそういう話だ」


出発前、俺は岩棚の端から北を見た。


岬の向こう側は、思っていたより広かった。


海岸はすぐ先でまた曲がっている。


そのさらに向こうに、低い陸が霞んでいる。


海面には小さな帆が二つ見えた。


近いのか遠いのか、俺には分からない。


ティムも横へ来た。


「あれ、三つ目の岬?」


年配の女が後ろから笑った。


「何を三つ目に数えるかで変わるよ」


ティムが振り返る。


「岬って数え方あるんですか?」


「歩く人と舟の人で違うし、どこから数え始めたかでも違う。うちの親父なんか、あれを五つ目って言ってた」


「増えた」


「だから地図に書くなら勝手に決めるな」


俺は何も持っていない腰へ手をやった。


地図は持ってきていない。


それでよかった気がした。


見えたものをすぐ一本の線にすると、たぶん間違う。


セイラが舟から呼ぶ。


「帰るぞ。見物は帰りの波が待ってくれない」


俺とティムは舟へ戻った。


平棚を離れる時、さっきの若い男がセイラへ声を飛ばした。


「明日、北の浅い湾まで回るなら、空魚箱六つ要るぞ!」


セイラは帆を上げながら返す。


「行くかは朝決める! 箱だけ鴎泊へ回しとけ!」


俺とティムは顔を見合わせた。


セイラはこっちを見ない。


明日行くとは言っていない。


俺たちを乗せるとも言っていない。


ただ、岬の向こうにも次の仕事があるらしい。


帰りに二つ目の岬を回る時、ティムは吐かなかった。


代わりに、ずっと遠くの帆を見ようとしてロウに二回怒られた。


「足元」


「見てる」


「見てない」


「半分見てる」


「半分じゃ足りん」


俺は笑った。


岬を越えたことより、その会話の方が少し嬉しかった。


一度行った場所は、もう『向こう側』だけじゃない。


水樽を運ぶ場所で、濡れ網を畳む場所で、誰かが明日の魚箱を気にしている場所になった。


でも、その先はまだ全然分からない。


それでいい。


分からないまま、仕事だけが先に続いている。


第379話 魚箱六つが来ても、朝の舟は出なかった

【本文】


鴎泊へ戻った時、濡れ網二束は俺たちより先に岸へ上がった。




ロウが一本目を肩へ掛け、セイラが二本目の端を持つ。


俺とティムは舟の中で、足元に残った水を桶で掻き出した。




昨日より手が痛い。




帰りは無理して持つな、と言われた意味がよく分かった。


握れる。


でも、握り続けると指の付け根がじわじわ熱くなる。




「レン、そっちもういい」




ロウが岸から言った。




「まだ少し残ってる」




「そのくらいなら乾く。全部取ろうとして舟に穴開けるな」




「桶で穴開けるほど叩いてないぞ」




ティムが横から口を挟む。




ロウは舟底を見て、それからティムを見る。




「お前ならやりそう」




「俺、昨日から信用減ってない?」




「吐いた分だけな」




「それ関係ある?」




セイラが綱を柱へ掛けながら、こっちを見ずに言った。




「ある。海の上で『大丈夫』を三回言う奴は二回くらい怪しい」




ティムは何か言い返そうとして、やめた。


たぶん、自分で思い当たる数を数えている。




濡れ網を倉の外側へ置き、日当を受け取った。


昨日のガルの舟と同じ額ではなかった。時間が少し長かった分だけ違う。




マルクは銅貨を俺たちの掌へ置きながら、赤い筋を見た。




「明日も海へ出るなら、今夜は手を洗って乾かせ。塩ついたまま寝るな」




「明日、出るんですか?」




ティムがすぐ聞く。




マルクは顔を上げた。




「俺が海に聞いて決めるのか?」




「いや、セイラが北の浅い湾って」




「ならセイラに聞け。俺は寝る」




話はそれで終わった。




翌朝。




港へ出ると、空魚箱が六つ、本当に来ていた。




東の屋根下に二段で積まれている。


昨日の平棚で聞いた数と同じだ。




ティムが箱の前に立って、妙に嬉しそうに数えた。




「一、二、三、四、五、六。来たな」




「箱はな」




「六つ全部来たってことは、行くんじゃない?」




「箱が来たことしか分からない」




「昨日からそればっかり言うなよ。ちょっとくらい期待してもいいだろ」




「期待はしてる」




俺が答えると、ティムが一瞬黙った。




「……してるの?」




「してるよ」




「顔に出せよ」




「お前の分まで出てるから足りてる」




ティムが笑った。




空魚箱は軽い。


一つなら片手でも持てる。




ただし六つ重ねると、軽いくせに邪魔だった。


少し風を受けただけで上の箱がずれる。




俺とティムが屋根下から岸際へ運んでいると、セイラが来た。




ロウも一緒だ。




ティムが箱を置くより先に聞く。




「今日、浅い湾行く?」




セイラは答えず、港口を見た。




しばらく見ている。




雲。


波。


係留された舟の揺れ。


沖の色。




俺には、昨日より穏やかに見えた。




セイラはそう思わなかったらしい。




「朝は行かない」




ティムの肩が落ちた。




「何で? 昨日より静かじゃない?」




「ここはな」




セイラは港の外を顎で示す。




「岬の外がまだ残ってる。浅い湾へ入るなら、外だけ見ても駄目。向こうの水が上がる時間も合わす」




「水が上がる?」




「浅いから浅い湾なんだろ」




ティムが俺を見る。




「今の、ちょっと説明になってないよな」




「名前の説明にはなってる」




「そうじゃなくて」




ロウはもう空魚箱を二つ重ねて舟へ運んでいた。




話していても箱は勝手に乗らない。




俺たちも残りを運ぶ。




セイラは六つを積ませた後、出航の準備には入らなかった。




帆も上げない。


綱も外さない。




「昼前にもう一度見る。それで駄目なら今日は行かん。箱は置いとく」




ティムが箱を見る。




「魚入ってないのに?」




「魚入ってないから待てる」




それはそうだった。




魚なら待ってくれない。


空箱は腐らない。




予定があるから出るんじゃない。


出られる時に、必要な物を運ぶ。




昨日まで頭では分かっていたことが、箱六つを前にすると少し違って見えた。




朝の俺たちは海へ出なかった。




代わりに、塩袋を十二枚畳んだ。


割れた蓋を三枚外した。


ハナに頼まれて、乾いた小魚を入れる籠を洗った。




ティムは作業の途中で三回港口を見た。




四回目、ハナが言った。




「見た回数で波は減らないよ」




「分かってる。ただ確認してる」




「何を?」




「まだ行ってないなって」




「舟そこにあるじゃん」




「舟じゃなくて俺が」




ハナは笑い、干し布を裏返した。




昼が近づくころ、風の音が少し変わった。




俺には、それくらいしか分からない。




セイラは港口へ行き、今度は長く見た。


ロウが舟の前の綱を外して、まだ手に持ったまま待つ。




マルクも一度だけ顔を上げた。




セイラが戻ってくる。




「行く」




ティムの顔が一気に明るくなった。




でもセイラは続けた。




「ロウ。箱六つ。水二袋。帰りは魚が入れば積む。入らなきゃ箱のまま戻す」




それから港にいる若い連中を見回した。




「あと二人。夕方まで。浅い湾で箱運び。濡れても文句言わない奴」




一人は南へ出る荷車に呼ばれていた。


もう一人は倉の屋根直しへ回るらしい。




ティムが俺を見た。




今度は先に口を開かなかった。




俺がセイラへ聞く。




「俺たちでもいい?」




「昨日の手、握れるか」




俺は指を閉じた。




痛い。


でも使える。




「大丈夫」




ティムも真似して握る。




「俺も。今日はまだ吐いてない」




「それは聞いてない」




セイラが言った。




ロウが箱の向こうで少し笑った。




六つの空魚箱は、俺たちより先に舟へ乗っていた。




北へ行く理由は、今日も景色じゃなかった。


魚すらまだ入っていない箱だった。


第380話 浅い湾では、魚より先に足元を見ろと言われた

【本文】


空魚箱は、水樽より軽かった。




だから楽だと思った。




港を出て十分もしないうちに、それが間違いだと分かった。




六つの箱は三つずつ重ねて左右へ置かれている。


中身がないから、舟が傾いても重みで居座ってくれない。




横から風を受けるたび、上の箱が少しずれる。




「レン、そっち押さえて」




ティムが自分の側の箱を片手で抱えながら言った。




「俺も押さえてる」




「そっちは三つ。こっちも三つ。何で俺の方だけ動くんだよ」




ロウが箱の間を通りながら、上から縄を一本掛けた。




「お前が箱に合わせて動くから」




「箱に合わせるだろ普通」




「舟に合わせろ。箱は縛る」




ティムは納得していない顔だったが、縄が掛かると本当に箱は静かになった。




「最初から縛ってくれればいいのに」




「港の中で要らなかった」




「海、細かいな」




セイラが船尾で笑った。




「昨日、網も同じこと言われてなかったか」




「海じゃなくて仕事が細かいのか」




「たぶんお前が雑なんだ」




俺が言うと、ティムは箱を押さえたまま肘で俺を小突こうとして、舟が揺れてやめた。




二つ目の岬までは、昨日と同じ海に見えた。




でも同じではなかった。




昨日より風が弱い。


波の頭も白くない。


その代わり、岬を回った先で海面の色がところどころ薄い。




平棚が見える。




昨日、水樽を下ろした岩棚だ。




今日は寄らなかった。




棚の上には二人いた。


一人がこちらへ手を上げる。




セイラも片手を上げただけで、そのまま北へ進む。




ティムが振り返った。




「寄らないんだ」




ロウが前を見たまま答える。




「今日は箱」




「昨日はあそこが目的地だったのに」




「昨日は昨日」




それ以上はなかった。




俺は昨日より北の海を見る。




海岸がまた曲がっている。


低い岩が続き、その先だけ水の色が妙に明るい。




遠くから見ると、砂が透けているようにも見えた。




セイラが帆を少し落とした。




舟の速さが変わる。




「ここから立つな。箱より先に自分落とすなよ」




ティムがすぐ座り直す。




「そんな浅いの?」




「浅い場所がある」




「どこ?」




「見える奴と見えない奴」




「それ一番嫌な答えだな」




俺も海面を見た。




濃い青。


薄い青。


緑っぽいところ。


光の反射。




どれが深くて、どれが浅いのか分からない。




ロウが前へ移り、細い棒を手に取った。




棒の先を水へ入れる。




一度。


二度。




舟はさらにゆっくり進む。




「測ってる?」




俺が聞く。




ロウは棒を上げながら頷いた。




「底」




「毎回?」




「見えにくい時は」




セイラが左へ少し舵を切る。




舟の底で、何かが擦れたような音がした。




ティムの顔が固まる。




「今、当たった?」




「砂」




セイラは速度を変えない。




「止まるほどじゃない」




「止まったら?」




「降りて押す時もある」




ティムが海を見た。




「……浅い湾って、そういう浅いなんだな」




「だから名前が先に教えてるだろ」




昨日と同じ返しだった。




でも今日は、意味が分かった。




岬を一つ越えたから遠くへ行けるんじゃない。




その先では、水の深さまで時間で変わる。




舟は細い場所を抜けた。




急に視界が広がる。




湾、と呼ばれていた場所は、思っていたより大きかった。




ただ、海らしく見える部分は少ない。




広い水面の中に、砂色の帯が何本も見える。


膝くらいまで水へ入っている人がいる。


腰まで入っている人もいる。




沖側には短い杭が何十本も並び、その間へ低い網が張られていた。




岸には小さな舟が三艘。




家らしいものは、見える範囲にはない。




代わりに、低い屋根だけの作業小屋が一つあった。


壁は半分しかない。




ティムが小さく言う。




「町じゃないな」




「見れば分かる」




「いや、もっと何かあると思ってた」




俺も同じだった。




北の浅い湾。




言葉だけ聞くと、港か集落みたいなものを勝手に想像していた。




実際にあったのは、水と杭と網と、人だった。




セイラが岸ではなく、水の中に立っている男へ声を飛ばす。




「箱六つ!」




男が振り返る。




頬が日に焼けて赤い。


腰まで濡れたまま、片手を上げた。




「六つも要らん! 今日は四つで足りる!」




ティムが箱を見る。




「六つ持ってきたのに?」




「魚が箱の数に合わせてくれるなら楽なんだけどな」




セイラが答える。




舟を浅いところへ寄せる。




完全に岸へ着けるわけではなかった。




あと数歩、水がある。




ロウが先に降りた。




水は膝より少し下。




「二人とも、箱だけ持て。足元、砂に見えるとこ全部同じじゃない」




ティムが一つ箱を抱える。




「魚より先に足元か」




頬の赤い男が笑った。




「魚は逃げても次がいる。お前が転んで箱割ったら箱は増えん」




「俺より箱?」




「今は箱」




俺も一つ抱えた。




舟から水へ足を下ろす。




冷たい。




最初の一歩は硬かった。




二歩目。




足が少し沈んだ。




三歩目はもっと沈む。




ティムが横で「うわ」と声を出した。




「何?」




「足、取られる」




「止まるな。ゆっくり抜け」




ロウが前から言う。




ティムが片足を引くと、水の下から黒い泥がぼこっと上がった。




「靴なくなるかと思った」




「なくしたら裸足で帰れ」




セイラの声が後ろから飛ぶ。




「それだけは嫌だ」




昨日まで、海で怖いのは波だと思っていた。




今日は、波のほとんどない場所で足元に気を使っている。




空魚箱を抱えたまま、俺たちは浅い水を歩いた。




北へ来た感じは、あまりしなかった。




知らない仕事の中へ、また一歩入った感じがした。


第381話 帰ったあと、さっきの道は海から消えていた

【本文】


六つ持ってきた魚箱のうち、使ったのは四つだった。




残り二つは、作業小屋の屋根下へ置いた。




「持って帰らないの?」




ティムが聞く。




頬の赤い男が網の端を持ち上げながら答える。




「次、要る」




「次っていつ?」




「魚が取れた時」




「それ、次の日かもしれないし十日後かもしれないってこと?」




「そうだな」




ティムは少し考えた。




「予定、雑じゃない?」




男は笑った。




「魚に予定聞け」




どこかで聞いたような返しだった。




湾の仕事は、俺たちが想像していたより静かだった。




大きな網を一気に引き上げるわけじゃない。




杭の間へ張った低い網を順番に見て、掛かった魚を外す。


小さいのは水へ戻す。


傷んだものは別の籠へ。


売る魚は箱へ。




それを繰り返す。




派手じゃない。




でも、作業している人の目はずっと忙しい。




水面。


網。


足元。


魚。


空。




俺とティムに任されたのは、魚を選ぶことではなかった。




箱を運ぶ。


空いた籠を戻す。


濡れた縄を踏まない。


いっぱいになった箱へ蓋を持っていく。




前よりできることが増えた気はしなかった。




知らないことが増えた。




ティムが三つ目の箱を運んでいる途中で、突然止まった。




「動けない」




俺は前を歩いていたので振り返る。




箱を抱えたまま、ティムの右足だけが水の中へ沈んでいる。




「また?」




「今回は深い」




「箱置け」




「置く場所ない」




水の中だ。




ロウがすぐ近くまで来た。




「俺が箱持つ。足は真上に抜くな。少し前へ倒せ」




「何で?」




「吸ってるから」




「何が?」




「泥」




「泥って吸うの?」




「今、お前を」




ティムの顔が真剣になった。




俺が箱の反対側を持つ。




ロウが受け取る。




身軽になったティムが、言われた通り少し前へ体重を移した。




ぬる、と靴が抜ける。




水の下から黒い泥が上がった。




ティムは片足を持ち上げて確認する。




「ある」




「何が」




「靴」




「よかったな」




「本当に良かった」




笑おうと思ったけど、本人が本気だったのでやめた。




頬の赤い男は遠くから見ていたらしい。




「そっち歩くなって昨日も誰か沈んだぞ!」




ティムが声を張る。




「先に言って!」




「今日初めて見た!」




「じゃあ俺が二人目じゃん!」




「二人目だな!」




どうでもいい会話が、水の上を飛んでいった。




四つ目の箱が半分埋まったところで、セイラが空を見た。




次に、湾の入口を見る。




「もう積む」




頬の赤い男が網から顔を上げる。




「まだ少し取れるぞ」




「取れるのと帰れるのは別」




セイラの声は変わらない。




「これ以上待つなら次の水までいる。今日は戻る」




男は一度だけ入口を見て、すぐ頷いた。




「じゃあ四つでいい。二つ置いとけ」




交渉はそれだけだった。




俺たちは魚箱四つを舟へ運んだ。




来た時より重い。




中身があるから当たり前だ。




ただ、重さだけなら昨日の水樽より軽い箱もある。




問題は水の中を歩くことだった。




足を取られない場所を探し、箱を傾けないように進む。




ティムはさっき沈んだ場所を大きく避けた。




「そこ、そんなに避ける?」




俺が聞く。




「経験を活かしてる」




「一回沈んだだけだろ」




「一回で十分な経験もある」




珍しく正しい。




舟へ全部積み終えると、ロウが四箱を二箱ずつに分けて縛った。




残った二つの空箱は、作業小屋に置いたままだ。




ティムが名残惜しそうに湾の奥を見る。




「もう帰るのか」




セイラが綱を外す。




「帰れる時に帰る」




「次の水まで待ったら、もっと見られる?」




「仕事が増えるならな。見物なら待たん」




「やっぱりそこ厳しいな」




「舟は宿じゃない」




頬の赤い男が水の中から手を上げる。




「次来るなら、長い杭二本あったら持ってきてくれ! 一本割れてる!」




セイラは舟を押し出しながら返す。




「鴎泊に使える木があればな!」




それで決まりにはならなかった。




誰が持ってくるかも。


いつ来るかも。


そもそも木があるかも分からない。




ただ、次に必要かもしれない物が一つ増えただけだ。




舟が湾の入口へ向かう。




来た時に通った浅い場所へ近づくと、セイラが速度をさらに落とした。




ロウがまた細い棒で底を測る。




一度。




二度。




三度目で、棒がさっきより早く底へ当たった。




「浅くなってる?」




俺が聞く。




ロウが頷く。




「水、下がってる」




ティムが海面を見る。




「来た時と同じ場所だよな」




「同じ場所」




「なのに浅い?」




セイラが舵を少し右へ切る。




「海は置いといてくれん」




舟底が一度、砂を撫でた。




今度は俺にも音が分かった。




ざ、と短い。




ロウが前へ体重を移す。




セイラが帆を落とす。




「二人、動くな。箱側にも寄るな」




俺たちは黙った。




さっきまで仕事場だった湾が、少しずつ後ろへ離れる。




入口を抜けた時、ティムが息を吐いた。




「これ、遅かったら出られなかった?」




セイラは前を向いたまま答える。




「この舟なら、次の水まで待つ」




「何時間?」




「日による」




「またそれ」




「海だからな」




二つ目の岬を戻るころには、ティムはもう船酔いの話をしなかった。




魚箱がずれないか見て、足元の縄を避けて、桶に水が溜まれば掻いた。




俺も遠くを見る時間は少なかった。




鴎泊へ着いた時、四つの魚箱はすぐ別の人の手へ渡った。




どこへ売るかは、その場で俺たちの仕事じゃなかった。




日当を受け取り、濡れた足を洗う。




ティムは右靴を逆さにして泥を落とした。




「今日、吐かなかった」




「靴は沈めたけどな」




「靴は戻ってきた」




「魚箱も四つ戻ってきた」




「二つ置いてきた」




「じゃあ靴の勝ちか」




「何の勝負だよ」




言ってから、二人で笑った。




夕方。




俺は港口から北を見た。




二つ目の岬は、ここからは見えない。




浅い湾も見えない。




でも、さっきまで舟で通った場所のことを思い出した。




水がある時は道だった。




水が減れば、同じ場所が舟を止める。




地図へ線を一本引けば済む話じゃない。




俺たちが帰った後も、あの湾では網を見ている人がいる。


屋根下には空魚箱が二つ残っている。


割れた杭が一本ある。




次に行くかは分からない。




行くとしても、いつでも行けるわけじゃない。




ティムが隣へ来て、海を見た。




「なあレン。今日通った道、今も通れると思う?」




「セイラは次の水まで待つって言ってた」




「じゃあ今は無理か」




「たぶん」




ティムは少し黙った。




それから、嬉しそうに笑った。




「道が消えるの、ちょっとゲームっぽいな」




俺も笑った。




「ゲームなら時間表示が出るけどな」




「ここ、出ないもんな」




「だから見て覚えるんだろ」




言ったあとで、少し違うと思った。




覚えるだけでも足りない。




昨日の雨。


今日の風。


舟の重さ。


水の高さ。




たぶん毎回、少しずつ違う。




それでも、人はその中で魚を取って、箱を運んで、帰ってくる。




北へ行くほど、地図が埋まると思っていた。




実際は逆だった。




行ける場所が増えるほど、『いつ行けるか』『何を持つか』『誰と行くか』が増えていく。




分からないものが減るんじゃない。




種類が増えていく。




それが、妙に面白かった。


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