第370話 ヒサギの注文は、魚より小さかった
【本文】
縄は、その日のうちに乾いた。
少なくとも表面は。
ティムが「もういいだろ」と束ねようとして、マルクにほどかされていたから、中まで乾いたかどうかは俺には分からない。
「見た目乾いてるじゃん」
「お前の右靴下も見た目は乾いてたな」
マルクが言うと、ティムは黙った。
あれは昨日、履いて十分もしないうちに冷たいと言って脱いでいた。
俺は笑いながら縄を裏返した。
二日後。
青い布を荷台の横へ結んだ荷車が、また南道から入ってきた。
前に魚を買っていった男だ。
今日は生魚を積む籠ではなく、空いた木箱を六つ積んでいる。
男は馬を止めるなり、煙小屋の方を見た。
「四、残ってるか」
マルクが倉口から顔だけ出す。
「魚なら逃げてない。お前が来ないから少し軽くなったけどな」
「煙にしたら軽くなるだろ」
「分かってるなら聞くな」
二人とも、前より会話が短い。
たぶん一度仕事をした相手だからだ。
俺とティムは煙小屋へ呼ばれた。
扉を開けた瞬間、前と同じ匂いが服へ張りついてくる。
魚と煙と塩。
ティムは入る前から口を閉じていた。
「今日はむせないの?」
俺が聞くと、鼻だけで息をしながら答えた。
「学習した」
小屋の女が奥から言った。
「鼻も煙吸うよ」
ティムがむせた。
学習は短かった。
四籠分の燻した魚は、生の時よりずっと薄くなっていた。
同じ籠を使っているのに、持ち上げた時の重さも違う。
俺とティムで一籠ずつ運び、青布の荷車の木箱へ移す。
買い手の男は魚を一本手に取り、身の締まりを指で確かめてから頷いた。
「これなら持つ」
ハナが腕を組む。
「前より塩、少し強いよ」
「南へ戻るならその方がいい」
「じゃあ次も同じとは限らないからね。魚が違えば変えるよ」
「分かってる」
そのやり取りを聞きながら、俺は木箱へ魚を並べた。
同じ物を毎回同じように作る話じゃない。
魚の大きさも、天気も、持っていく距離も違う。
ゲームの生産職なら、レシピに数字が出そうなところだ。
ここには出ない。
「そうだ」
買い手の男が急に言った。
手にしていた燻し魚を箱へ戻し、俺たちの方ではなくマルクを見る。
「前の荷に入ってた、黒い細いやつ」
俺とティムが同時に顔を上げた。
「ヒサギ?」
ティムの方が早かった。
男が指を向ける。
「それ。名前それか」
「売れた?」
俺が聞くと、男は少し笑った。
「一匹だけな。街道沿いの飯屋が煮て出したら、客がもう一回食いたいって言ったらしい」
船頭が言っていた。
焼けば普通。
煮ると骨が面倒。
俺はそこを思い出した。
「骨、面倒じゃなかったんですか」
「飯屋の親父に聞け。俺は食ってない」
それもそうだった。
男は木箱の蓋を合わせながら続ける。
「次に混じってたら、六本まで分けといてくれ。六より多いと要らん」
ティムが首を傾げた。
「七本目から急にまずくなる?」
「売れ残る」
「味じゃなかった」
「俺の話はだいたい味じゃなく金だよ」
男は真顔だった。
俺は笑った。
六本まで。
それ以上はいらない。
珍しい魚を全部欲しい、じゃない。
欲しい人が一軒いて、その人が使える量が六本くらい。
ずいぶん小さい話だった。
でも、その小ささが妙に本物っぽかった。
ティムが俺の肘をつつく。
「レン。これ、儲かるやつ?」
「たぶん六本までは」
「じゃあ六本捕ればいい」
「誰が?」
「向こうの人」
「冷たい流れが寄る日しか混じらないって言ってたろ」
「じゃあ寄った日に六本」
「網に六本だけ入るように頼むの?」
ティムは一瞬考えた。
「……魚に?」
「うん」
「聞いてくれそう?」
「お前ならいける」
「雑に押しつけたな」
ハナが後ろで笑っている。
買い手の男は俺たちを無視して、マルクに言った。
「次に来た舟で混じってたら言っといて。別に獲りに行かせなくていい。入った分だけでいい」
「預かって買う気はないぞ」
「俺がいる時だけでいい」
「じゃあ注文ってほどでもないな」
「だから六本なんだろ」
よく分からない理屈だったが、二人の間では通じたらしい。
青布の荷車は、煙小屋の四籠分を積んで南へ戻る準備を始めた。
馬が水を飲んでいる横で、ティムはまだ六本のことを考えていた。
「六本なら、袋一つで持てる?」
「魚を袋に入れるなよ」
「じゃあ籠」
「売る前に潰す気か」
「難しいな、六本」
数が少ないから簡単とは限らないらしい。
その時、港口で帆が一枚落ちた。
北側から入ってきた小舟が、風を逃がしながら桟橋へ寄ってくる。
俺は何となく見た。
船縁の中に魚籠が三つ。
その一つの隙間から、青黒い細い背が見えた。
一本。
その横に、もう一本。
ティムも気づいた。
「レン」
「見えてる」
買い手の男は、まだ馬の横にいた。
注文は六本。
魚は、たぶん二本以上。
世界は時々、話を聞いていたみたいな順番で物を持ってくる。
でもたぶん、ただ同じ港へ来ただけだ。
第371話 三匹だけ分けたら、同じ魚の値段が変わった
【本文】
小舟の魚籠に入っていたヒサギは、三匹だった。
一本目を見つけたのは俺。
二本目を見つけたのはティム。
三本目は、船員が籠を返した時に下から出てきた。
「いたじゃん」
ティムが嬉しそうに言う。
若い船員は何が嬉しいのか分からない顔をした。
「そりゃ入る時は入るだろ」
前の船員とは別人だった。
同じ北側から来たらしいが、顔も舟も違う。
買い手の男が近づいてきて、籠の中を見る。
「その黒いの、三つだけ別にできるか」
船員が男を見る。
「何で」
「買う」
「他も買え」
「他は今日は要らん」
「じゃあ面倒だな」
即答だった。
ティムが小さな声で俺に言う。
「売れるなら喜ぶんじゃないの?」
「三匹探して抜く手間があるんじゃない?」
「三匹だよ」
「お前、十一籠の中から三匹探す?」
ティムは籠を見た。
魚はまだ跳ねるものもいて、銀色の背が重なっている。
「……先に言われたら嫌」
「だろ」
若い船員は買い手に顎を向けた。
「分けるなら、その分少し足してくれ。こっちは混ぜて売るつもりで来てる」
買い手の男はすぐに返事をしない。
三匹を見る。
普通の魚を見る。
それから荷台を見る。
「三なら少しだけだぞ」
「少しでいい」
話はそれで終わった。
値段そのものは俺には分からなかった。
マルクも口を挟まない。
港へ置く場所と荷役の話ならマルクが出る。
魚をいくらで買うかは、当人同士の話らしい。
船員が籠を一つ低い台へ移す。
「触るなよ」
言われる前に手を出しかけたティムが止まった。
「まだ何もしてない」
「顔がしてた」
「顔で怒られた」
俺は笑いながら、別の籠を運ぶ方へ回った。
ヒサギ三匹を抜く作業は、思っていたより早かった。
でも簡単ではなかった。
似た大きさの魚を片手で避けながら、青黒い背を探す。
掴んだと思ったら別の魚が滑る。
一匹目はすぐ出た。
二匹目は底の方にいた。
三匹目は尾が別の魚のえらに入り込んでいて、船員が舌打ちしながら外した。
ティムは少し離れたところで、ずっと首を伸ばしている。
「見えてる?」
俺が聞く。
「半分」
「何でそんなに見たいんだよ」
「次、俺でもできるか確認してる」
船員が聞いていた。
「次もやらんでいい」
ティムは素直に一歩下がった。
三匹は小さい浅籠へ移された。
それだけで、さっきまで同じ籠にいた魚と扱いが変わった。
買い手が身を見る。
船員が数える。
マルクが「魚水落とすな」と台の位置だけ直す。
ハナは横を通りながら、浅籠の中を一度見た。
「昨日のより少し小さいね」
買い手の男が言う。
「六本って言ったけど、この大きさなら八でも使えるかもしれん」
マルクがすぐ横から言った。
「昨日六って言った口で今日八って言うな」
「俺が使うんじゃない」
「じゃあ飯屋に聞いてから増やせ」
買い手は少し考えて、結局三匹だけ買った。
六本の注文のうち三本。
残り三本。
そういうことらしい。
「次に混じったら、また三匹くらい?」
ティムが聞く。
船員は魚籠の蓋を戻しながら首を振った。
「知らん。網に聞け」
「魚じゃなくて?」
「網だな」
昨日の俺より少し現実的だった。
若い船員は、別の籠を持ち上げる時に続けた。
「ただ、今朝は外が冷たかった。あっちへ寄ってるなら、明日も混じるかもな」
買い手がすぐ反応する。
「じゃあ明日も持ってこい」
「魚に言え」
今度はティムが吹き出した。
俺も笑った。
たった三匹だった。
でも港の空気が少し変わった気がした。
昨日までは、ヒサギは混ざってきたら一緒に売る魚だった。
今は、見つけたら別にしてもいい魚になった。
値段が変わったというより、見る人が増えた。
ゲームなら、価格表の数字が一つ動いたように見えるのかもしれない。
でも実際は、買い手が一人増えて、船員が少し面倒を引き受けただけだ。
その二つが揃わなければ、何も変わらない。
買い手の男は三匹を小籠ごと荷車へ積んだ。
ティムが見送る。
「残り三」
「数えるなよ」
「注文なんだから数えるだろ」
「お前の注文じゃない」
「でも気になる」
分かる。
俺も気になっていた。
三匹が南へ消えていく。
二つ目の岬の手前か向こうで網に入り、名前も知らなかった魚が、今度は南の街道沿いの飯屋へ行く。
俺たちは、その間で籠を持っただけだ。
それでも、道が一本増えたような感じがした。
地図にはまだ何も書けない。
舟も定期ではない。
次に魚が来るかも分からない。
なのに人の都合だけが、先に線を引き始めている。
「レン」
ティムが俺を見る。
「これ、明日十二匹来たらどうなる?」
「何で十二?」
「六の二倍」
「買い手が困るんじゃない?」
「じゃあ十一」
「数を減らしても同じだろ」
ティムは真剣に考えていた。
俺は笑った。
その時は、本当に翌日十二匹来るなんて思っていなかった。
第372話 高く売れる魚は、十二匹来たら高くなかった
【本文】
翌朝、ヒサギは十二匹来た。
ティムは魚籠を見て、しばらく何も言わなかった。
俺も言わなかった。
先に言った方が負けな気がした。
「……俺のせい?」
結局、ティムが先に言った。
「魚に頼んだ?」
「頼んでない」
「じゃあ違う」
「よかった」
何がよかったのかは分からない。
昨日とは別の小舟だった。
船頭は年配で、肩の広い男が二人乗っている。
魚籠は五つ。
そのうち一つだけ、ヒサギがきれいに分けて入れてあった。
十二匹。
昨日の三匹みたいに、普通の魚の下から探す必要はない。
船頭が籠を下ろしながら言う。
「これ、高く買う奴がいるって聞いたぞ」
マルクが受け口を押さえながら答える。
「いる時はな」
船頭の手が止まった。
「いないのか」
「まだ来てない」
青い布の荷車は見えない。
昨日、買い手が「明日も持ってこい」と言った。
でも、明日また来るとは言っていない。
そこが抜けていた。
船頭はヒサギの籠を見る。
「十二分けたんだぞ」
「俺に言われても知らん」
「昨日、三つ高く売れたんだろ」
「売れた。昨日は」
短いやり取りなのに、昨日よりずっと冷たかった。
魚のせいではない。
たぶん時間のせいだ。
ティムが俺の袖を引く。
「昨日、残り三って言ってたよな」
「言ってたね」
「じゃあ三は買ってもらえる?」
「本人が来れば」
「九余る」
計算は早い。
そういう時だけ。
ハナが魚籠の横へしゃがみ、一本の腹を軽く押す。
「今朝のならまだいいよ。でも昨日みたいに一日待つなら、分けた意味なくなるね」
船頭が顔をしかめた。
「混ぜて売ってもいいか」
「魚なんだからいいでしょ」
「いや、値の話だ」
ハナは肩をすくめた。
「それは買う人に聞いて」
誰も代わりに値段を決めてくれない。
船頭たちは、まず港の小さな店へ二匹持っていった。
一匹は買われた。
もう一匹は「昨日食べたから今日はいい」と断られた。
ティムが戻ってきた船員へ聞く。
「昨日食べたら今日いらないの?」
男はヒサギを籠へ戻しながら言った。
「お前、昨日パン食ったら今日パン食わないのか」
「食う」
「じゃあそいつに聞け」
「聞いたら怒られそう」
「ならやめとけ」
会話はそこで終わった。
二匹目は、港の食堂が普通の魚と同じ値なら使うと言った。
船頭は少し悩んで、売った。
高く売れる魚だったはずなのに、二匹目は普通の値だった。
残り十。
俺はヒサギの籠を見た。
昨日、三匹を分けた時は確かに値段が少し上がった。
今日は十二匹分けたら、買い手がいない。
魚は同じ。
場所も、たぶん同じ辺りだ。
違うのは、数と人と時刻だった。
ゲームなら相場の波で片づけられる。
でも目の前にあるのは、波じゃなくて魚だった。
放っておくと悪くなる魚が十匹。
「結局、普通の籠へ戻すか」
船頭が言った。
肩の広い船員が、少し嫌そうな顔をする。
「朝、分けたんだけどな」
「じゃあ持って帰るか?」
「それはもっと嫌だ」
二人でしばらく睨み合って、結局笑った。
「次から、買う奴がいる日に言え」
船員がマルクへ言う。
「俺が北まで叫ぶのか」
「何か札でも置け」
「誰が持ってく」
「舟」
「その舟が来るか分からん」
「じゃあ人乗せろ」
話が雑になってきた。
ティムがそこで、ほんの少しだけ前へ出た。
「人なら――」
俺は腕を掴んだ。
「まだ最後まで聞け」
肩の広い船員がティムを見る。
「乗るなら魚選ぶだけじゃ済まんぞ。網引く時は引く。濡れる。吐いても置いてくぞ」
ティムの口が開いたまま止まる。
「吐く前提?」
「初めてならな」
「俺、強いかもしれない」
「何が」
「舟」
「乗ったことあるのか」
「港で見た」
「弱そうだな」
俺は吹き出した。
ティムが抗議する。
「まだ乗ってないのに決めるなよ」
「お前も強いって決めただろ」
それはそうだった。
船員は笑いながら、ヒサギを普通の魚籠へ戻し始めた。
全部ではない。
三匹だけ、浅籠へ残す。
「昨日の買い手が来たら、これだけ売れ。来なきゃ昼までに混ぜていい」
マルクが確認する。
「預かりじゃなく、置き売りか」
「昼まで。売れなきゃ俺らが戻る前に誰か食え」
「勝手に食わせるな」
「じゃあ売れ」
話はそのくらいだった。
残り七匹は普通の籠へ戻った。
高い魚が安くなったわけじゃない。
高く買う人が、今いないだけだった。
それなのに、昨日から今日の間に一つだけ変わったものがある。
船の上でヒサギを分ける手間が、誰かの仕事として見えるようになった。
ティムはまだ船員の言葉を気にしていた。
「網、引くんだって」
「そりゃ舟に乗るならな」
「魚選ぶだけじゃ駄目?」
「お前が金払う側なら頼めるんじゃない?」
「払うの?」
「遊びに行くなら」
ティムは真顔で考えた。
俺も少し考えた。
二つ目の岬へ行く方法は、前より一つだけ具体的になった。
舟に乗る。
ただし、見物人の席はない。
行くなら、何かする。
何をするかは、まだ決まっていない。
その日の昼まで、青い布の荷車は来なかった。
浅籠の三匹は、結局普通の魚へ戻された。
注文は残ったのかもしれない。
消えたのかもしれない。
俺たちには分からない。
午後、マルクに言われた仕事は、舟でも北でもなかった。
「薪束、裏へ二十。雨来る前に屋根下」
ティムが空を見た。
「晴れてるけど」
「だから今やる」
俺たちは薪束を持った。
二つ目の岬は、今日も見えない。
でも今度は、そこへ行くなら何を求められるかが少しだけ見えた。
見たいだけでは乗れない。
働くなら、もしかしたら乗れる。
その違いは、魚十二匹より重かった。
第373話 雨の翌朝、舟は二人分の手を探していた
【本文】
薪束を十八まで運んだところで、最初の雨粒が落ちた。
十九束目を抱えたティムが空を見上げる。
「晴れてたじゃん」
「朝はな」
屋根下からマルクが手を振った。
「空に文句言う前に走れ。残り二つ」
「雨に言ってくれよ」
「雨は働かん」
俺たちは最後の二束を抱えて走った。
二十束目を積み終えた直後、本当に雨が太くなった。
港の石が一気に濃い色へ変わる。縄を干していた場所から誰かが慌てて束を回収し、魚籠には板が被せられた。
ティムは軒下へ滑り込みながら、濡れた前髪を掻き上げた。
「舟、出ないよな」
「この雨なら少なくとも今は出ないんじゃない?」
「せっかく俺、舟に強いかもしれないのに」
後ろでハナが笑った。
「まだそれ言ってるの。乗ってから強いって言いな」
「乗る前から弱いって決めるのも変だろ」
「じゃあ今は未確認」
「その言い方、レンみたいで嫌だな」
俺は薪の木屑を袖から払った。
「俺に言うなよ」
雨は昼を過ぎても止まなかった。
舟仕事どころか、外の仕事そのものが減った。
俺たちは倉の中で濡れた麻袋を広げ、底に染みた水を拭き、何に使うのか分からない短い板を長さごとに積み直した。
ティムは三回目くらいで飽きた。
「雨の日って、もっと事件起きそうなのに」
麻袋の向こうからハナが返す。
「何で雨降っただけで事件が来るの」
「物語なら来るだろ」
「ここは仕事場」
「知ってるけどさ」
ティムは板を一本持ち上げ、隣の山と見比べた。
「これ、こっち?」
「長い方」
「一指くらいしか違わない」
「一指違うから分けてる」
「細かい世界だなあ」
ぶつぶつ言いながら、ちゃんと長い方へ置いた。
夜までに雨は細くなった。
海は見えないほど荒れているわけではなかったが、港の舟はほとんど動かなかった。
俺は少し残念だった。
二つ目の岬へ行く話は、昨日より近くなった気がしていた。でも近くなったのは「仕事なら乗れるかもしれない」という条件だけで、舟そのものではない。
条件が分かったからといって、次の日に仕事が生えるわけじゃない。
そう思って寝た。
翌朝、港へ出ると、昨日より空が明るかった。
雲はまだ低い。石の継ぎ目には水が残り、魚の匂いより濡れた縄と木の匂いが強い。
ティムは昨日の右靴を焚き火の近くへ置きすぎて、つま先だけ妙に硬くしていた。
「曲がらん」
「焼いたからだろ」
「乾かしたんだよ」
「焼いたんだよ」
歩くたび、右だけ少しぎこちない。
そのティムが、港の先を見て足を止めた。
昨日の肩の広い船員がいた。
ただし今日は魚籠ではなく、左手に布を巻いている。
男はマルクと話していた。
「裂けただけだ。握れんことはない。でも朝網を上げる時に、もう一人欲しい」
マルクは布の巻かれた手を見た。
「俺に言われても人は生えん」
「港に若いの二人いるだろ」
ティムの背筋が伸びた。
俺は反射的に一歩遅くなった。
マルクがこっちを見る。
「本人に聞け。俺は貸し物みたいに人を出さん」
肩の広い船員も振り返った。
昨日より目の下が少し重い。
「半日。縄を引く。籠を持つ。水が入ったら掻く。言ったことが分からなければ聞け。分かったふりする奴はいらん」
ティムが口を開く。
「行――」
俺は肘で止めた。
「どこまで?」
船員は俺を見て、それから海の方へ顎を向けた。
「二つ目の岬の手前。網一枚だけだ。昨日の雨で位置がずれてないか見て、上げて、駄目なら置き直す」
胸の奥が一度だけ強く鳴った。
でも、先に聞くことがある。
「戻るのは?」
「昼過ぎ。海が悪くなったらもっと早い。悪くなりすぎたら出ない」
「日当は?」
ティムが俺を見る。
たぶん、その質問を俺がすると思っていなかった。
男は少し笑った。
「港の半日荷役と同じ。飯はこっちで出す。吐いた分は引かん」
「吐く前提やめてくれない?」
ティムが真顔で言った。
「昨日、強いかもしれんって言ったのはお前だろ」
覚えられていた。
マルクが俺たちを見る。
「行くなら、帰ってから濡れ物を倉へ持ち込むな。外で落としてから入れ」
許可でも命令でもない。
行くなら、その後の仕事まで含めて自分でやれという顔だった。
俺はティムを見た。
ティムはもう海を見ていた。
「レン。俺、今ならまだ吐いてない」
「当たり前だろ」
「じゃあ行こう」
昨日まで、二つ目の岬へ行きたいと思っていた。
今朝は違った。
舟の方が先に、二人分の手を探していた。
第374話 見物人の席はなくても、縄を引く場所はあった
【本文】
舟へ乗る前に、俺たちは三回止められた。
一回目はハナだった。
「その上着で行く気?」
俺は自分の袖を見る。
昨日の薪屑がまだ少し付いているだけで、何が悪いのか分からない。
ハナは倉の壁から古い油布を二枚引っ張り出した。
「濡れて帰ってきて、服ごと一日乾かす方が面倒。穴あいてる方をティムね」
「何で俺が穴あき?」
「レンより先に海へ落ちそうだから」
「落ちる前提増えてない?」
二回目は船員だった。
「その袋置け」
ティムが腰の小袋を押さえる。
「何も入ってないぞ」
「なら余計いらん。縄に引っかける物は減らせ」
ティムは少し悩んでから、小袋を杭の横へ置いた。
三回目はマルクだった。
「帰りの時刻だけ決めた気になるなよ」
俺が振り返る。
「昼過ぎって聞いたけど、海次第ってことだよな」
「海で『聞いた』は約束じゃない。遅れたら遅れたで、戻ってから言え」
「分かった。遅れたら戻ってからちゃんと話す」
「それでいい。分からなくなったら、向こうの船員に聞け」
それだけだった。
舟は、岸から見ていた時よりずっと狭かった。
荷を置く場所、縄を置く場所、人が立つ場所が最初から分かれている。俺たち二人が乗っただけで、その間の余白が消えたように見えた。
昨日の肩の広い船員――名はガルと言った――が、布を巻いた左手で船縁を叩く。
「レンは前の籠の横。ティムはその縄踏むな。そこ輪になってる」
ティムが足元を見て、半歩ずれた。
「これ踏むとどうなる? 危ない場所なら先に教えてくれよ」
「網が走った時に足持ってかれる。だから今言っただろ。乗る前はそこにお前の足がなかった」
俺は笑いかけて、すぐやめた。
自分の足元にも別の縄がある。
船頭は年配の男だった。昨日、ヒサギ十二匹を持ってきた船頭とは違う。名前を聞く暇もないまま、櫂と帆の確認が進む。
もう一人の船員が水桶を押し込む。
「二人とも、酔うなら早めに言え。船縁の外へ吐け。籠の中は殺す」
ティムが胸を張る。
「俺、たぶん舟には強いと思う。まだ一回も吐いたことないし」
ガルが俺を見る。
「こいつ昨日からこれか」
「昨日からです」
「裏切るなよ、レン」
舟が岸を離れた。
最初の数十歩分くらいは、思っていたより何も起きなかった。
水の上を滑る感覚はある。でも港の内側は波が小さい。ティムは得意そうに立っていた。
「ほら、やっぱり平気だろ。立ってても全然――」
「まだ港の内側だぞ。勝つなら外へ出てからにしろ」
「もう舟には乗ってるんだから、半分くらい勝ちでいいだろ」
何に勝っているのかは分からない。
防波代わりの岩列を抜けたところで、舟が一度大きく持ち上がった。
ティムの膝が曲がる。
次の波で戻り、三つ目で右へよろけた。
ガルが肩を押す。
「立って強がるな。低くいろ」
「今のは舟が動いた」
「舟は動く物だ」
俺も笑えなかった。
胃は平気だったが、目で水平を追うと足の裏が遅れてくる。
陸では、自分が歩けば景色が動く。
海では、止まっていても全部が勝手に動く。
前に見た石浜が、海側から流れていった。
陸から歩いた時は入口が分かりにくかった場所なのに、舟からだと白っぽい石の帯が細く見える。
ティムも気づいた。
「あれ、石浜だよな」
「たぶん」
「海からの方が分かりやすいじゃん」
ガルが縄をまとめながら口を挟む。
「近づくなら逆だ。見えるのと入れるのは別」
それ以上は説明しなかった。
舟は石浜へ寄らない。
北入り江の方向も、陸から見た時のようには分からなかった。屋根も煙も見えず、海岸線の凹みがいくつも重なっている。
俺は見たかった。
でもガルが足元の桶を蹴る。
「レン、それ前へ。水入ったら掻け。ティム、その輪の外に立て」
景色を見る時間はそこで終わった。
しばらくして、船頭が帆を少し落とした。
舟の速度が変わる。
ガルともう一人の船員が、舟の右側へ移った。
ガルが海面を見ながら言う。
「網は岬の手前だ。浮きが二つ見えるまで何も触るな」
ティムが目を細める。
「岬はまだ見えないの? せっかくここまで来たのに」
「今は岬じゃなく浮きを見ろ。あれを外したら仕事にならん。見物人の席はないって言ったろ」
昨日と同じ言葉だった。
今日は意味が違った。
俺たちはもう舟に乗っている。
それでも、好きな方を見ていていいわけじゃない。
先に浮きを探す。
一つ目は、俺よりガルが先に見つけた。
二つ目は船頭だった。
ティムは三つ目の波を浮きだと思った。
「今の違う?」
「動きすぎだ」
「浮きだって動くだろ」
「場所ごと走らん」
ガルが笑う。
「その口が動くなら酔ってはないな」
ティムは言い返そうとして、急に黙った。
顔色が少し白い。
俺は見なかったことにした。
舟が最初の浮きへ寄る。
ガルの声が低くなった。
「ここから仕事だ。レン、籠の後ろ。ティム、俺の右。縄が来ても跨ぐな。踏むな。分からなきゃ止まれ」
二つ目の岬は、まだ見えなかった。
代わりに濡れた縄が、海から一本上がってきた。
第375話 二つ目の岬は、見えたのに着かなかった
【本文】
最初の縄は、思ったより重くなかった。
そう思えたのは、最初の三引きだけだった。
濡れた縄が舟の中へ増えるほど、腕が重くなる。
海水を吸った縄は冷たく、指の間へ細い砂みたいなものが残った。
ガルが左手をかばいながら右で引く。
「レン、腕だけで引くな。後ろへ下がれ。ティム、そっち詰めろ。縄を自分の足元に山にするな」
「どこへ置けばいい? 足元に置くとまた怒られるだろ」
ティムが聞く。
「俺の後ろ。いや、そこじゃない。そこは籠が来る」
「後ろって言われても後ろが三つくらいあるぞ、この舟」
「舟が狭いんだよ。だから置き場所を勝手に決めるな」
ティムは文句を言いながら動いた。
さっきまで白かった顔に少し色が戻っている。
仕事が始まると酔う暇がなくなったらしい。
俺も同じだった。
波が来るたび膝が勝手に曲がる。縄を引く手と、身体を支える足を別々に考える余裕がない。
ガルが引けば引く。
止めれば止める。
それだけで精一杯だった。
「網が見えた。次、重くなるぞ。手を離すな」
もう一人の船員が言った。
海面の下から黒っぽい網が見えた。
魚が光る。
一瞬、胸が上がった。
次に上がってきたのは海藻だった。
長い茶色の葉が網へ絡み、魚よりずっと場所を取っている。
ティムが息を切らしながら言う。
「なんか思ってたより宝っぽくないな。海藻の方が場所取ってる」
ガルが鼻で笑った。
「俺の朝飯にはならん。食う奴もいるけど、俺は嫌いだ」
「じゃあ俺の中では宝じゃないな」
「お前の宝の基準、腹なのか」
会話の間にも網は上がる。
普通の銀魚が四、五、六。
小さいのは戻す。
傷んだ一匹も戻した。
ヒサギは二匹だけ混じっていた。
ティムが気づいて、何か言いかける。
ガルの方が先だった。
「そっちじゃない。今は網外せ」
ティムは口を閉じた。
昨日なら、ヒサギ二匹で値段の話をしていたかもしれない。
海の上では、魚の種類より網を舟へ上げ切る方が先だった。
一本、網の目に木片が刺さっていた。
ガルが引き抜き、海へ投げる。
ただの白っぽい枝だった。
俺は少しだけそれを目で追った。
別に印もない。
変な縄もない。
秘密もない。
枝は浮いて、すぐ後ろへ流れた。
「レン、そっちの端が来てる。枝見てないで手を出せ」
呼ばれて視線を戻す。
網の端が来ていた。
最後の重い部分を四人で引き上げる。
舟が一度傾いた。
ティムが「うお」と声を出し、ガルに肩を押し戻された。
全部上がった時、腕の内側が熱かった。
手のひらには赤い筋が二本ついている。
技能が増えた感じはしない。
ただ、次に同じことをやるなら今日より少しマシに立てる気はした。
ガルが網を見た。
「破れなし。浮き一つ擦れてる」
船頭が答える。
「浮き、今替えるか? 擦れだけなら次でもいい」
「今日はいい。次まで持つ」
「じゃあ今日は戻す。次の時に替えを積んでくる」
判断は早かった。
俺たちが考える余地はない。
今度は網を海へ返す。
上げる時とは違う怖さがあった。
縄が舟の中から減る。輪が一つずつ走っていく。
ガルに言われた通り、俺もティムも足を外へ置いた。
ティムはさっきより静かだった。
「さっきから急に静かだけど、気持ち悪いのか?」
俺が聞くと、首を横に振る。
「違う。これ、踏んだら本当に持ってかれそう」
「さっきから言われてたろ」
「見るだけと、縄が本当に走るのは全然違うな。踏むなって意味やっと分かった」
それは俺も同じだった。
網を戻し終えると、急に仕事が薄くなった。
船頭が帆を上げ直す。
舟が少し北へ向く。
ガルは布を巻いた手を膝へ置き、俺たちを見た。
「ここまで吐かなかったなら、初めてにしちゃ悪くないな」
ティムの顔が戻る。
「だから強いって――」
そこで舟が横波を一つ受けた。
ティムは口を閉じ、船縁へ顔を向けた。
俺とガルは同時に黙った。
数秒後。
「……まだ吐いてない」
ティムが小さく言う。
ガルが腹を抱えて笑った。
その時、船頭が前を指した。
「岬、見えるぞ」
俺は反射的に顔を上げた。
最初、どれか分からなかった。
海岸線は何枚も重なっている。
近い黒い岩。
その奥に低い斜面。
さらに向こうに、海へ突き出した灰色の輪郭があった。
ガルが顎で示す。
「あれが二つ目」
思っていたより小さく見えた。
もっと、海を塞ぐ壁みたいなものを想像していた。
でも舟が上下するたび、岬の先が隠れたり出たりする。
その向こう側は見えない。
たったそれだけで、胸がまた騒いだ。
「あれが二つ目なら、このまま向こうまで行くの?」
ティムが聞いた。
船頭がすぐ答える。
「今日は行かん。網はここで終わりだ」
「せっかく見えたのに、今日は行かないの?」
「行く仕事がない。見えたからって舟の目的は変わらん」
短い答えだった。
それで全部だった。
今日の網は手前にある。
上げて、戻した。
俺たちが乗った理由は終わっている。
二つ目の岬が見えたからといって、舟の目的まで変わらない。
ティムは露骨に残念そうな顔をした。
「せっかく見えたのに、ここで戻るのかよ」
ガルが笑う。
「見えたら全部行くなら、船頭は毎日帰れんぞ」
「じゃあ次は行ける? また人手が足りない時とか」
「人手が足りなくて、仕事があって、海がよけりゃな」
「人手と仕事と海って、条件多すぎない?」
「海だぞ。条件一個で出られるなら誰も苦労しない」
帰りの舟で、ティムは本当に一度だけ吐いた。
港が見えてからだった。
「一番ださいところで来た」
本人が船縁に額を乗せたまま言う。
ガルは笑いすぎて左手を痛がった。
俺は水桶を渡した。
「強かったんじゃない?」
「港までは強かった」
「今も港見えてる」
「じゃあ港が悪い」
理屈がひどい。
それでも、帰港して最初にティムがしたのは、吐いた話を隠すことではなかった。
マルクに日当の受け取りを確認して、その次に俺の赤くなった手を見た。
「明日、痛そうだな」
「お前もだろ」
ティムが自分の掌を開く。
同じような赤い筋があった。
二つ目の岬へは着かなかった。
地図にもまだ何も増やせない。
でも、海から見た。
縄を引いて、足元を避けて、魚を上げて、その仕事が終わった場所から見えた。
昨日までの『行ってみたい場所』とは少しだけ違う。
次にあの岬へ近づくなら、たぶんまた何かをしながらになる。
俺はその方が面白いと思った。




