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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第364話 南道へ行く理由は、修理した右輪を後ろから見ることだった


【本文】

翌朝、俺が西倉の前へ出た時には、昨日の荷車にもう馬がつながれていた。

御者は右輪の前へしゃがみ、指の背で外板を二度叩いた。

乾いた音はしない。

代わりに馬が鼻を鳴らした。

「急かすな。お前のせいで泊まったんじゃない」

御者が馬に言う。

馬はたぶん聞いていない。

ティムは聞いていた。

「馬に言い訳してる」

「お前より話が早い」

「それはひどい」

御者の顔には昨日より余裕があった。

ダンはまだ来ていない。来る約束もしていないらしい。昨日、空で往復して音が消えたところまでがダンの仕事で、その先を走るかどうかは御者が決める。

マルクは荷車の横を通りながら、右輪を一度だけ見た。

「出るのか」

「出る。昼までに南へ戻りたい」

「荷は?」

「空。帰り荷は向こうで拾う」

そこで御者が俺とティムを見た。

「悪いけど、三つ目の曲がりまで歩けるか?」

ティムの顔が先に動いた。

俺は一拍遅れて聞く。

「何する?」

「右輪を見る。後ろから。俺は前にいるから、自分の輪がどこまで落ちるか分かりにくい」

「押す?」

ティムが聞いた。

「押さなくていい。音がしたら言ってくれ。板が浮いたらもっと早く言ってくれ」

昨日までなら、たぶん俺たちの方から『見に行きたい』と言っていた。

今日は向こうから仕事になった。

マルクは俺たちと荷車を交互に見た。

「昼の荷が入る前には戻れ」

「いいの?」

ティムが聞く。

「お前ら二人がいなくても朝の荷下ろしは終わる。帰ってきたら板束運べ」

「結局あるじゃん」

「仕事だからな」

ハナが倉の奥から出てきて、包んだ黒パンを二つ俺へ押しつけた。

「道で食べるなら半分ずつにしな。ティムに一個渡すと、歩きながら全部なくなる」

「俺そこまで――」

ティムが言い終わる前に、ハナはもう倉へ戻っていた。

俺は黒パンを自分の袋へ二つとも入れた。

「信用ないな」

「昨日、豆菓子一袋なくしたの誰だよ」

「食べ物はなくしたって言わない」

荷車が動き出す。

港の石から土の道へ変わるところで、俺は右輪の後ろへ少し離れて歩いた。

昨日直した場所が、一周ごとに上へ来て、下へ消える。

音はしない。

最初の坂でも何もない。

それでも俺は、一周するたびに昨日ダンが炭で印を付けた辺りを目で追った。炭はかなり薄くなっている。外板の継ぎ目そのものは、歩きながらだとほとんど見分けがつかない。

「今の、修理したとこ?」

ティムが横から聞く。

「たぶん」

「たぶんかよ」

「お前は分かる?」

ティムは一周待った。二周待ってから、首を傾げた。

「昨日は分かった」

「止まってたからだろ」

走っている物を見るのは、止まった物を見るのと違う。昨日一日そばで見ていたからって、急に車輪が読めるようになったわけじゃない。

一つ目の曲がりも、二つ目の曲がりも、俺が想像していたより普通だった。

道幅が少し狭くなったり、外側に枯れ草が増えたりするだけだ。

途中、一度だけ後ろから荷籠を背負った男が来た。御者は荷車を道脇へ寄せず、そのまま歩調を落として先に行かせた。人一人なら困らない。荷車同士だと困る幅があるらしい。

俺が振り返って男の背中を見ると、ティムも同じ方を見ていた。

「荷車じゃなかった」

「見れば分かる」

「来る時って、音違うな」

確かに荷車の鈴と、人の足音と、馬だけの蹄は違った。でも今それを覚えたところで技能にはならない。俺は右輪へ視線を戻した。

ティムは途中で三回くらい『今の右じゃない?』と言った。

三回とも、ただの小石だった。

「音を探しすぎ」

俺が言う。

「昨日鳴ってたんだから、今日も鳴るかもしれないだろ」

「鳴らない方がいいだろ」

「分かってるけど。聞く仕事って、鳴らないと暇なんだよ」

御者が前から笑った。

「暇なら馬の尻でも見とけ」

「そっちはもっと変化ない」

馬がちょうど尻尾を振った。

ティムが避ける。

「変化あった」

二つ目の曲がりを過ぎた辺りから、道の右端が湿ってきた。

昨日の霜が残っているわけではない。

黒っぽい泥が細く続いている。

御者の歩き方が少し変わった。

馬を道の中央寄りへ寄せる。

「もうすぐ?」

俺が聞くと、御者は振り向かずに手を上げた。

「次」

その先で道が右へ曲がった。

見えたのは、崩れた道じゃなかった。

通れない道でもない。

ただ右端だけが、長い間何度も踏まれたみたいに、少し低く沈んでいた。

ティムが俺の横で小さく言った。

「……これか」

昨日から頭の中で大きくなっていた『三つ目の曲がり』は、見た瞬間には拍子抜けするくらい普通だった。

だから余計に、ここを毎日通る車輪の方が気になった。

第365話 三つ目の曲がりは、思ったより普通で、右だけ嫌だった

【本文】

御者は曲がりの手前で荷車を止めた。

「後ろ、見ててくれ」

俺とティムは右輪から少し離れる。

道の中央は固い。

左側も、荷車一台なら普通に通れそうだった。

問題は曲がりの外側だった。

右端の土が帯みたいに沈んでいる。

深さは場所で違う。

同じ一本の溝というより、車輪が何度も近いところへ落ちて、柔らかい場所だけつながったようにも見える。泥の表面には新しい筋と乾きかけた筋が重なっていた。どれが昨日のものかまでは分からない。

浅いところなら靴底が隠れる程度。

一番深そうなところは、その倍くらいありそうに見えた。

でも測っていない。

俺が近づこうとすると、ティムが先に足を入れた。

「待てって」

言った時には遅かった。

ぐちっ。

右足が沈んだ。

ティムの顔も沈んだ。

「冷た」

「何で足で測るんだよ」

「測ってない。思ったより柔らかかっただけ」

「それを足で確認したんだろ」

御者が笑いながら馬を進める。

「そこより手前。昨日落ちたのはもう少し先だ」

ティムは濡れた靴を気にしながら、今度は道の外へ出た。

荷車がゆっくり曲がる。

今日は向こうから何も来ていない。

御者は曲がりへ入る前に一度だけ手綱を引き、馬具の鈴を少し大きく鳴らした。誰かへ合図したというより、自分でも向こう側の音を聞いているようだった。返ってくる車輪音はない。

だから御者は中央を使った。

右輪は沈んだ帯へ入らない。

昨日直した外板が回る。

継ぎ目が回る。

ティムは口を閉じたまま右輪を追っていた。普段なら何か言うのに、こういう時だけ妙に真面目になる。三周目を過ぎてから小さく息を吐いた。

「鳴らないな」

「鳴らない」

「……それでいいんだけど、何か負けた感じする」

「何と戦ってるんだよ」

乾いた音はしない。

荷車はそのまま曲がりを抜けた。

俺は少し安心した。

同時に、昨日の話とは条件が違うと思った。

今日は避けられた。

向こうから荷車が来たら、同じ位置を通れるとは限らない。

御者もそれが分かっているらしい。

曲がりを抜けた少し先で止まり、馬を休ませた。

「昨日はここで向こうから二台来た。先に一台やり過ごして、二台目で右落とした」

「待てなかったの?」

ティムが靴を振りながら聞く。

「待てる場所なら待った。曲がりの中で顔合わせたら、どっちか下がる方が面倒なんだよ」

説明しながら、御者は道の脇へ落ちていた細枝を拾って溝へ差した。

水が少し動いた。

俺はそこで初めて気づいた。

泥の底に水が溜まっているだけじゃない。

山側から、細い水が道を横切ってきていた。

「これ、ずっと出てる?」

俺が聞く。

御者は枝を抜いた。

「知らん。昨日は急いでたから見てない」

「雨、降ってないよな」

ティムが空を見る。

「ここ二日はな」

その時、曲がりの向こうから鈴が鳴った。

御者がすぐ馬の手綱を短くする。

俺たちも道の外へ下がった。

南から来たのは荷車ではなく、荷籠を左右に下げた一頭の馬だった。

後ろを歩く男が、こっちの荷車を見て手を上げる。

「先、抜けた?」

「中央なら」

御者が返す。

男は溝を見た。

それから、ティムの濡れた右足を見た。

「入ったのか」

ティムは少しだけ胸を張った。

「確認した」

「馬でも避けるぞ」

胸が戻った。

男は荷籠馬を中央へ寄せて通した。

馬の蹄は溝へ入らない。

すれ違いざま、男が山側を指す。

「上の水切り、また詰まってるんじゃないか。去年もあそこ流れた」

御者が眉を寄せる。

「水切り?」

「草の奥。俺も今は見ん。荷がある」

それだけ言って、男は鴎泊の方へ歩いていった。

ティムがすぐ山側を見る。

俺も見た。

枯れ草。

低い土の盛り。

その間から細い水だけが出ている。

「見る?」

ティムが言う。

俺は御者を見る。

御者は馬を見る。

それから空を見た。

「俺は帰る。輪は今のところ鳴ってない。二人はどうする」

仕事は、ここまでだった。

俺は山側へ目を戻す。

見たい。

でも、見るだけならまた昨日と同じだ。

「戻る」

俺が言うと、ティムが露骨に嫌そうな顔をした。

「水切りあるのに?」

「あるかもしれない、だろ」

「今の人、あるって」

「去年も、って言った」

御者が笑った。

「喧嘩するなら港でやれ。俺は行くぞ」

荷車は南へ進んだ。

俺とティムはそこで別れる。

直した右輪は、最後まで鳴らなかった。

三つ目の曲がりは通れた。

でも、右端の泥へ水が入っている。

それが今日増えたのか、前からなのか。

道の上から見ただけでは分からなかった。

第366話 溝を触ったのは、道を直す人じゃなく、そこを通りたい人たちだった

【本文】

鴎泊へ戻る途中、ティムは四回振り返った。

四回目で俺が言う。

「もう見えないぞ」

「水切りは見えてない」

「最初から見えてない」

「だから気になるんだろ」

それはそうだった。

港へ戻ると、朝すれ違った荷籠馬が先に着いていた。

男は荷を下ろしている最中だった。

籠の中身は干した豆と、小さな木箱が二つ。

ティムが男の横へ行く。

「水切りってどこ?」

俺は止める前に、マルクに襟を引かれた。

「お前ら、先に板束」

忘れていた。

昼までに戻ったら運べと言われていた。

俺たちは西倉の脇へ積まれた板束を六束、屋根下へ移した。

三束目でティムが言う。

「今聞かないと帰るぞ、あの人」

「じゃあ急げ」

「急ぐと落とす」

「昨日から学んでるじゃん」

「何か腹立つ」

六束目を置いた時には、荷籠馬の男はまだいた。

ハナから湯の入った木椀を受け取って飲んでいる。

ティムが今度こそ聞こうとした。

でも男の方が先にマルクへ言った。

「細い鍬あるか。あと短い板、捨てるやつ二枚」

「何に使う」

「帰りに曲がりの水だけ逃がす。あのままだと馬も右へ寄せにくい」

ティムが俺を見る。

俺もティムを見る。

何も言っていないのに、たぶん同じ顔をしていた。

マルクは俺たちを見なかった。

「鍬は返せ。板は割れてるやつなら持ってけ」

「人も二人借りられる?」

今度は見た。

「こいつらでいいなら」

ティムがすぐ言う。

「いい」

「お前が決めるな」

男が笑った。

「泥に入る方はそっちでいい」

ティムが自分の濡れた靴を見る。

「もう入った」

結局、俺たちはもう一度三つ目の曲がりへ向かった。

今度は好奇心だけじゃない。

細い鍬一本。

割れた短板二枚。

荷籠馬一頭。

それと、帰り道を少し楽にしたい男一人。

曲がりへ着くと、男は道の溝を先に見なかった。

山側の枯れ草へ入った。

俺たちも続く。

五歩も入らないところで、土が浅く削れていた。

水が通った跡だ。

ただし今は、枯れ草と小枝と泥で半分埋まっている。

男は鍬の先を差し込んだ。

「たぶんこれ」

「たぶん?」

ティムが反応する。

男は振り返る。

「去年ここ通したのは俺じゃない。前に詰まった時、誰かが切った跡があるだけ」

道を直す人がいるわけではないらしい。

男は泥を二掻きした。

水が少しだけ動く。

三掻き目で、草の下から平たい石が出た。

人工物みたいに揃った石ではない。

ただ、水が流れやすいように置かれたのかもしれない。

男はそれも断定しなかった。

「昔からある石か、誰か置いたか。どっちでも水が通ればいい」

ティムが鍬へ手を出す。

男が柄を渡す前に言う。

「土だけ。石は掘るな」

「分かってる」

「今の顔、分かってない」

最近、ティムは顔で止められることが増えた。

俺は短板を持って、道側へ戻る。

溝の一番柔らかいところへ板を入れるのかと思った。

男は違った。

一本は水切りの出口へ置き、崩れた土がすぐ戻らないようにする。

もう一本は使わず脇へ置いた。

「二枚いらなかった?」

俺が聞く。

「一枚で足りた。余ったら返す」

「持ってきたのに」

ティムが言う。

「余った方がいいだろ」

それもそうだった。

十分もしないうちに、山側の細い水が道の泥へ直接落ちなくなった。

脇へ逃げて、草の下へ流れていく。

道の溝そのものは残っている。

深いところも埋めていない。

男はそこへ石を投げ込もうともしなかった。

「埋めないの?」

ティムが聞く。

「今泥の上から埋めても沈む。今日は水だけ外す」

「じゃあ直ってない?」

「通る時に少し嫌じゃなくなっただけ」

男は鍬を肩へ担いだ。

その言い方が、妙に分かりやすかった。

帰り際、南から小さな荷車が一台来た。

俺たちは道の外へ寄る。

御者は曲がりの手前で速度を落とした。

右輪を中央へ寄せる。

溝には入らない。

荷車は普通に通り過ぎた。

誰も拍手しない。

誰も『道が直った』とは言わない。

荷籠馬の男も、通り過ぎた荷車を一度見ただけだった。

「じゃ、戻るか」

鴎泊へ戻るころには、ティムの右靴は朝より重そうだった。

「靴、脱いだ方がいいんじゃない?」

俺が言う。

「港まで我慢する」

「もう港だぞ」

ティムが足元を見る。

「ほんとだ」

ハナに見つかって、すぐ脱がされた。

「何したら片足だけこんな泥になるの」

「道を直した」

ティムが答える。

俺と、荷籠馬の男が同時に言った。

「直してない」

ハナは一秒だけ黙って、それから笑った。

「じゃあ何したの」

ティムは濡れた靴下を絞りながら考える。

俺は代わりに答えた。

「水を少し横へ逃がした」

それなら嘘じゃない。

南道は開いたままだ。

三つ目の曲がりも、まだ右端に溝がある。

昨日直した荷車が無事に南へ着いたかも、まだ分からない。

荷籠馬の男は鍬を返すと、余った板を脇へ置いた。

「これも返す?」

「割れてるなら薪にする」

マルクが答える。

男は頷いて、馬を連れて南道へ戻っていった。さっき水を逃がした曲がりを、また通るために。

俺がその背中を見ていると、倉の中からマルクの声が飛んだ。

「レン、ティム。空籠三つ、東の屋根下」

ティムが濡れた靴下を片手に持ち上げた。

「乾く前でもできる」

「裸足で荷運ぶな」

ハナにすぐ止められた。

三つ目の曲がりはもう見えない。

次に通る時も同じ溝があるかは分からない。

その前に、空籠三つだった。

第367話 空籠三つを置いたら、魚籠が十一個来た

【本文】


空籠三つは、思っていたより早く終わった。


東の屋根下へ重ねて、ずれないよう一番上だけ横に寝かせる。

ティムは片方の靴下をまだ干していたから、右足だけ素足に木靴だった。


「歩きにくくない?」


俺が聞くと、ティムは二歩だけ普通に歩いてみせた。

三歩目で木靴の踵が抜けた。


「今のは道が悪い」


「ここ板床だぞ」


ハナが干した布を抱えたまま笑う。


「朝から何と戦ってるの、あんた」


ティムは木靴を履き直しながら、たぶん昨日から続いている何かと戦っていた。

俺にはよく分からない。


空籠を置き終えたところで、港口から声が飛んだ。


「そっち、空いてるか!」


見ると、小舟が一艘、桟橋の外へ鼻先を向けている。

北側で何度か見た型だったが、昨日の舟とは違う。帆は畳まれていて、船縁から濡れた籠がいくつも見えた。


マルクが倉口から出てくる。


「何籠だ」


「十一。昼まで置かせてくれ。南の買い手が来る」


船頭が指を一本立て、それから両手を開いた。

十一らしい。


マルクは籠より先に東の屋根下を見た。

さっき俺たちが空籠を置いた場所だ。


「穀袋の横は駄目だ。魚水が回る。壁際を空けろ」


「昼には消える」


「昼に来ればな」


船頭が少しだけ嫌そうな顔をした。


「来るって昨日言った」


「昨日の約束が今日歩いて来るなら、俺も楽なんだけどな」


言いながら、マルクは俺とティムへ顎を振った。

説明はそれで終わりだった。


俺たちは、置いたばかりの空籠三つをまた動かした。


「今の仕事、完成してなかったな」


ティムが一つ持ち上げる。


「完成はしてた。場所が変わった」


「それ、完成って言う?」


「港では言うんじゃない?」


「適当に言っただろ」


適当に言った。


舟から上がってきた一籠目は、持った瞬間に冷たかった。

編み籠の隙間から水が落ち、腕まで潮の匂いが上がってくる。


中には銀色の小魚がぎっしり入っていた。

大きさは手のひらより少し長い程度。腹の白いもの、背の青いもの、まだ口を動かしているものもいる。


「これ、いつ獲った?」


俺が聞くと、舟の若い男が籠の反対側を持ったまま答えた。


「夜明け前。風が変わったから、いつもより早くこっちへ回った」


「早いならいいじゃん」


ティムが後ろから言う。


若い男は笑わなかった。


「買う荷車まで早く来りゃな」


その一言で、話が変わった。


魚が早く着いた。

買い手はまだ来ていない。


俺たちは二籠目を下ろした。

三籠目。

四籠目。


五籠目でティムの木靴がまた外れた。

今度は誰も突っ込まなかった。本人が無言で拾ったからだ。


八籠目を上げたところで、籠の取っ手が片方だけほどけた。


ティムが反射で持ち上げ直そうとする。


「待て」


若い船員が先に止めた。


籠は板床へ置いたまま、短い縄を底へ回す。取っ手を結び直すんじゃなく、籠ごと吊れる輪を作った。


ティムはしゃがんで手元を見る。


「そこ、結び直さないんだ」


「魚入ったまま引っ張ったら、今度は反対が抜ける」


「じゃあ先に全部抜けば」


「魚を床に並べたいならな」


ティムが黙った。

俺も黙った。


知らない仕事を見ると、つい一手先を言いたくなる。

でも、言った一手が普通に悪手なこともある。


若い船員は縄を二回回して持ち手を作り、俺たちに渡した。


「今だけこれで運ぶ。帰ったら籠の方を直す」


俺たちはそのまま八籠目を運んだ。

結び方を覚えた気はしなかった。

少なくとも、次に同じ籠を渡されて一人でやれと言われたら困る。


十一籠を全部屋根下へ入れるころには、板床が点々と濡れていた。

マルクは籠と籠の間を少し空け、壁へ直接つけないよう指で位置を直す。


「昼までならここ。長くなるなら、置き方変えるぞ」


船頭が空を見た。


まだ朝だ。


舟の若い男は、空になった船腹を一度見てから桟橋の杭を蹴った。


「俺らは昼までいないぞ」


「買い手待たないの?」


ティムが聞く。


「潮が下がる前に外へ出る。魚渡すために舟まで置いてけない」


船頭も頷いた。


魚は鴎泊へ置く。

舟は帰る。

買い手はまだ来ていない。


三つが同じ時刻に揃う必要はないらしい。

揃わないと、誰かがその間を持つ。

今日はマルクの屋根下だった。


でも魚には、朝か昼かは関係ない。


ハナが一籠の上へ手をかざし、魚には触れずに鼻を寄せた。


「今はいい。でも日が回ったら、この屋根も暑くなるよ」


「南の荷車、何時って?」


ティムが聞く。


船頭は肩をすくめた。


「昼前。昨日はそう言った」


俺も南道の方を見た。

昨日、三つ目の曲がりまで行った道だ。


溝のせいで遅れているかもしれない。

そう考えかけて、やめた。


遅れているかどうかも分からない。

そもそも、まだ遅れていない。


「レン」


マルクに呼ばれた。


「はい」


「魚見てても荷車は生えない。床拭け」


ティムが吹き出す。


俺は濡れた板床を見た。


確かに、荷車は生えなかった。


昼前まで、あとまだ少しあった。



第368話 魚は待ってくれないし、煙小屋も広くならなかった

【本文】


昼前になっても、南の荷車は来なかった。


代わりに、魚の匂いが少し強くなった。


腐った匂いではない。

でも朝よりは明らかに魚だ。


ティムは十一籠の前を通るたびに鼻を動かしていた。


「数えてる?」


俺が聞く。


「匂いを?」


「籠」


「十一。匂いは二種類くらい」


「何で匂い数えてるんだよ」


「暇だから」


暇ではない。

俺たちは午前中だけで、縄束を二つ運び、空樽を三本転がし、井戸から水を六桶汲んだ。

その合間に魚籠の前を通っていただけだ。


それでも気になるものは気になる。


船頭の方がもっと気にしていた。

桟橋と南道を何度も見比べている。

若い船員は舟の中で濡れ布を絞っていたが、とうとう上がってきて言った。


「待つなら、少し分けるか」


船頭はすぐ返事をしなかった。

一籠の蓋を開け、魚の腹を指先で押す。

それからハナを見る。


「煙小屋、空いてる?」


ハナは洗った木椀を重ねていた手を止めた。


「四籠なら。朝の分がまだ吊ってあるから、それ以上は煙より人が詰まる」


「六は?」


「小屋の壁、押したら広がると思う?」


「思わん」


「私も」


話は四籠で終わった。


誰かが全部を救う方法を考えるわけではないらしい。

入る分だけ入れる。

残りは別にする。


船頭は次にマルクへ聞いた。


「塩、今日回せるか」


「売り物ならある。魚七籠全部に使う量は、お前が払うならな」


「全部は使わん。買い手が来る」


「来ればな」


朝と同じ言い方だった。

今度は船頭も嫌そうな顔をしなかった。


相談の結果、四籠は煙小屋へ回すことになった。

二籠は港で小分けにして売る。

残り五籠は、もう少し待つ。


船頭は決めたあとで、一度だけ顔をしかめた。


「十一で渡す話だったんだがな」


ハナは木椀を重ね直しながら言う。


「十一を腐らせて渡すよりいいでしょ」


「それはそう」


「じゃあ顔だけ損したみたいにしない」


「顔は勝手だろ」


船頭がぶつぶつ言いながら魚籠へ戻る。


約束を守ることと、同じ物を同じ数だけ渡すことは、たぶん同じじゃない。

魚が間にいると、なおさらだった。


俺とティムは四籠を運んだ。


煙小屋は港の裏手にある低い建物で、中へ入ると目が痛い。

俺は一歩目でむせた。

ティムは二歩目でむせた。


「勝った」


「何が」


「一歩」


小屋の女に背中を叩かれた。


「喋るなら外で喋りな。煙吸うために人手借りたんじゃないよ」


俺たちは黙った。


魚は頭を落として開き、塩を当てる。

そこから先は小屋の人たちの仕事だった。


俺たちは桶を運び、板を洗い、吊り棒を一本だけ持った。


ティムが魚を開く手元を見すぎて、女に肘で視界を塞がれた。


「覚えるなら金払って弟子になりな」


「見てるだけ」


「見てるだけの顔が近い」


ティムは一歩下がった。


俺も下がった。

見ていたのは俺も同じだった。


昼を少し過ぎたころ、港の二籠はほとんど売れた。

一匹ずつ買う人もいれば、半籠まとめて持っていく人もいる。


小さな店の女が三匹を手に取って、二匹分の値しか出さないと言った。

売っている船員は四匹ならその値でいいと返した。

女は「増やしてどうする」と怒り、結局三匹を少し安く持っていった。


ティムがそのやり取りを真顔で見送る。


「今、どっちが勝った?」


「知らん」


「魚?」


「魚はもう負けてるだろ」


値段は朝より少し下がったらしい。

俺には相場が分からない。


ただ、売る人の声が朝より早くなっていた。

買う人も、魚の目を見る時間が短くなっている。


時間が値段になるのは分かった。

数字を知らなくても、それくらいは見えた。


「これ、ゲームなら在庫管理だな」


俺が小さく言うと、ティムが聞き返した。


「何?」


「いや。魚は待ってくれないって話」


ティムは残った五籠を見る。


「馬なら待つのに」


「馬も腹減ったら怒るだろ」


「じゃあ誰も待たないじゃん」


その結論だけは妙に正しかった。


午後へ入る前、南道の入口にようやく鈴の音がした。


船頭が一番早く振り向いた。

俺も見る。

ティムは木靴を履き直しながら見る。


荷車が一台、ゆっくり港へ入ってきた。

荷台の横に青い布が結んである。


船頭が息を吐いた。


「来た」


買い手らしい。


でも十一籠はもうなかった。


煙小屋へ四籠。

港で二籠。

屋根下に五籠。


昨日の約束どおりに来た相手へ、昨日の数をそのまま渡せる世界でもなかった。



第369話 知らない魚は、知らない場所より先に港へ来た

【本文】


青い布の荷車から降りた男は、十一籠ないことに怒らなかった。


最初に怒ったのは、船頭の方だった。


「遅い」


「分かってる。だから走ってきた」


「馬を見たら走ってないの分かる」


「馬を走らせたら魚より先に馬が駄目になるだろ」


男はそう言って、荷台から帳面みたいな薄板を出した。

木札を何枚か紐で綴じたものだ。


船頭はまだ言いたそうだったが、馬が鼻を鳴らした。

その音で一度そっちを見て、少しだけ勢いを失った。


「……何で遅れた」


「手前で樽車を先に通した。あとは坂で荷紐が一本切れた。道は通れた」


三つ目の曲がりの話は出なかった。

俺も聞かなかった。


遅れた理由は、昨日俺たちが見た溝ではなかったらしい。

少なくとも、この荷車については。


買い手の男は残った五籠を順に見る。

魚の腹、目、えら。

一籠ごとに全部を長く見るわけではなく、手を入れて二、三匹確かめるだけだ。


「五は持つ」


「四は煙、二はここで売った」


「煙の四も買う。出来上がりは次で」


「次がいつだよ」


「来る時」


今度はマルクが笑った。


「お前ら、約束の仕方が似てきたな」


船頭と買い手が同時にマルクを見る。


「似てない」


そこだけ揃った。


荷車へ魚籠を積むことになり、俺とティムも呼ばれた。


五籠なら朝より軽い。

そう思った一籠目で、腕に冷たい水が落ちた。


「うわ」


ティムが笑う。


「魚に負けた」


「お前、昨日から勝ち負けしかないな」


二籠目。

三籠目。


四籠目を持ち上げた時、銀色の魚の間に一本だけ色の違う背が見えた。

青というより黒に近い。

細長く、口先が少し尖っている。


俺は足を止めた。


「これ、同じ魚?」


反対側を持っていた若い船員が籠を覗く。


「ああ、それか。違う」


「混ざった?」


「網に入ったから入れた」


説明が雑だった。


ティムが横から顔を近づける。


「何て魚?」


「ヒサギ」


初めて聞く名前だった。


「この辺でも獲れる?」


俺が聞くと、若い船員は一度海を見た。

北を見るというより、港口の先を目でなぞっただけだ。


「鴎泊の前じゃあんまり入らん。二つ目の岬の手前から向こう、冷たい流れが寄る日に混じる」


ティムの顔が動いた。

俺もたぶん同じだった。


二つ目の岬。

前に、さらに北へ向かった舟の男が口にしていた場所だ。


でも若い船員は、特別な話をした顔をしていない。

魚一匹の話をしただけだった。


「珍しい?」


ティムが聞く。


「向こうじゃ別に。ここで見ないだけ」


「向こうって、遠い?」


ティムが続けて聞いた。


若い船員は少し困った顔をした。


「何で行くかによる」


「舟」


「風は?」


「……ある」


「どっちから」


ティムが黙った。


若い船員が笑う。


「ほらな。朝出て昼前に戻る日もあるし、行って待つ日もある。距離だけ聞かれても知らん」


ティムは俺を見る。


「地図に書けない」


「お前、まだ地図持ってないだろ」


「頭の」


それなら余計に怪しい。


その返事が、俺には妙に面白かった。


珍しい物じゃない。

俺たちが行っていないだけ。


ゲームの地図だと、未踏の場所には色がついていたり、霧がかかっていたりする。

でもこの世界では、知らない場所の方から魚になって混ざってくる。


俺がヒサギを見ていると、買い手の男が横から覗いた。


「それも持ってくぞ」


「食べるんですか」


「売るんだよ」


「うまい?」


今度は船頭が答えた。


「焼けば普通。煮ると骨が面倒」


ティムが俺を見る。


「場所より先に味聞くんだ」


「大事だろ」


「北へ行きたい顔してたのに」


「行った先で食えない方が困る」


買い手が笑いながら木札へ何か刻んだ。


五籠目を積み終える。


買い手の男は煙小屋の方も見たが、出来上がりを待つとは言わなかった。

次に来た時、まだあれば受け取る。

なければその時考える。


船頭もそれでいいらしい。

朝から十一という数に振り回されたわりに、最後はずいぶん雑だった。


たぶん雑なんじゃない。

全部を先に決められないだけだ。


青い布の荷車は、馬に水を飲ませてから南へ戻るらしい。


船頭たちは空いた籠を数え始めた。

煙小屋からはまだ煙が出ている。

港で売った二籠の代金を誰がどう分けるのか、俺には分からない。


ヒサギも、もう荷車の中だ。


俺は北を見た。


二つ目の岬はここから見えない。

その向こうも見えない。


でも、そこに普通に魚を獲る人がいる。

普通に混ざる魚がいる。


ティムが隣で言った。


「仕事、ないかな」


「二つ目の岬まで?」


「魚でも何でもいい」


俺は笑った。


「それ、仕事じゃなくて目的地が先だろ」


「ばれた?」


「昨日の俺と同じだからな」


マルクの声が倉の方から飛んだ。


「二人とも、暇なら縄干し」


ティムが肩を落とす。


俺はもう一度だけ北を見た。


知らない場所へ行く仕事は、まだない。


だから今日は、縄を干す。


それでも昨日までと違って、二つ目の岬の向こうには、もう名前のある魚が一匹いた。

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