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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第358話 太い針を借りても、縫うのは俺たちじゃなかった


【本文】


「あるよ。ただし、ここで使って返して」


マルクは倉の奥から、指の長さほどある太い針を一本持ってきた。


針というより、小さな鉄の棒に穴を開けたみたいだった。先は丸くはない。でも、普段ハナが布を繕う針よりずっと鈍そうに見える。


北入り江の若い船員は受け取る前に、自分の親指で先を軽く触った。


「これで十分。糸はある」


「折るなよ」


「折ったら?」


「同じのを返せ」


若い船員が笑った。


「それがないから借りてんだけど」


マルクも笑わなかったし、怒りもしなかった。


「じゃあ折るな」


話が最初へ戻った。


ティムが俺の横で小声になる。


「貸す条件、雑じゃない?」


「分かりやすいだろ」


「折れた時に困る条件だよ」


「だから折らないんじゃない」


若い船員は針を持って舟へ戻った。


俺たちもついていきかけて、マルクに背中から言われる。


「お前ら、何しに行く」


ティムが止まった。


「見る」


「仕事は?」


「……ない」


「邪魔しないなら勝手に見ろ」


追い払われるほどでもなかったらしい。


北入り江の小舟では、船頭が帆の端を膝の上へ載せていた。昨日、岸へ落ちた細長い当て布も横にある。


ほつれているのは帆全部じゃない。


下側の端から腕一本分くらい。縫い目の糸が何か所か切れて、布が二枚に開きかけている。


若い船員は針の穴へ太い糸を通そうとして、一度外した。


もう一度。


また外す。


ティムが口を開きかける。


俺は先に肘で止めた。


「何」


「何でもない」


絶対、俺なら一回で通せるとか言う顔だった。


三回目で糸が通った。


若い船員は何事もなかったみたいに、帆と当て布を重ねる。


船頭が反対側を押さえた。


「そこ、もう少し上」


「上げた」


「上げすぎ」


「先に言えよ」


「見れば分かるだろ」


「見てるから言ってる」


二人とも手を止めない。


喧嘩しているようにも聞こえるけど、たぶんいつもの会話なんだろう。


若い船員は針を帆布へ押し込んだ。布が厚いせいで、すぐには抜けない。柄のない針の頭を木片で押し、反対から先が出ると指で引く。


一針。


二針。


速くない。


俺はもっと、舟の人なら何でも手早く直すものだと思っていた。


でも若い船員は四針目で糸を引きすぎた。


当て布が片側へ寄る。


「あ」


船頭が言った。


「戻せ」


「分かってる」


「今のは見れば分かるな」


「黙って持ってろ」


ティムが吹き出した。


若い船員がこっちを見る。


「笑うなら持つ?」


「持つ」


返事だけは速かった。


ティムは舟の外から帆の端を持たされた。


「引っ張る?」


「まだ。そこにいるだけ」


「いるだけ?」


「動くとずれる」


ティムは本当に立っているだけになった。


俺は笑った。


「大仕事だな」


「お前も笑うな。腕かゆい」


「掻けよ」


「動くなって言われた」


若い船員が針を抜きながら言う。


「左手ならいいよ」


「先に言って」


今度は船頭が笑った。


結局、俺は何もしなかった。


途中で飛ばされた糸の端を一度拾っただけだ。


それでも近くで見ていると、帆を縫うというのが思っていたより力仕事なのは分かった。針を通すより、布をずらさず重ねておく方が面倒そうだった。


分かっただけだ。


俺が次にできるわけじゃない。


若い船員は最後の糸を二回回して結び、余った分を小刀で切った。


船頭が縫った場所を両手で引く。


「まあ、今日なら持つ」


「今日だけ?」


ティムが聞いた。


船頭は帆を見たまま答える。


「帰ったらもう一回やる。今ここで全部ほどく方が嫌だ」


直った、ではなく、今日使えるところまで戻したらしい。


若い船員が太い針を布で拭いた。


「返してくる」


「俺持ってく?」


ティムが手を出す。


「何で」


「さっき帆持ったから」


「関係ないだろ」


船員は自分でマルクのところへ返しに行った。


ティムが手を引っ込める。


「ちょっとくらい信用してくれてもいいのに」


「昨日、網束触ろうとしたからじゃない」


「触ってない」


「顔で分かる」


「それもう禁止にしない?」


俺たちが言い合っている間に、船頭は帆を上げて風を受けさせた。


一度、ばたっと大きく鳴る。


縫った端は開かなかった。


でも船頭はすぐ帆を下ろした。


ティムが首を傾げる。


「出ないの?」


船頭は港の外を見た。


朝より白波が増えている。


「縫い目はよくても、風がよくない」


帆は直った。


舟はまだ出なかった。


第359話 帆が直ったあと、乗る人が一人増えた

【本文】


帆が直ってから一刻ほど経っても、北入り江の小舟は鴎泊にいた。


船頭は二回、港口まで歩いて海を見た。


二回とも戻ってきた。


三回目は見に行かなかった。


舟の横へ座って、干していた網の端を指でほどき始めた。


ティムが遠くからそれを見ている。


「暇そう」


「お前が言うなよ」


俺たちは西倉の前で空籠を重ねていた。


仕事はある。


ただ、北へ出る舟の方が気になるだけだ。


ティムは空籠を三つ重ね、四つ目を斜めに入れて崩した。


乾いた音がした。


マルクが倉の中から顔だけ出す。


「壊した?」


「崩しただけ」


「なら積み直せ」


「見てないのに分かるの?」


「音で分かる」


ティムは少し悔しそうだった。


俺が四つ目を拾おうとした時、港の入口から年配の女が一人入ってきた。


背中に小さな籠。


片手には布包み。


歩き慣れた人みたいにまっすぐ岸へ行き、北入り江の舟を見つけると声を上げた。


「まだいた!」


船頭が網から顔を上げる。


「いるよ。見れば分かる」


「朝いなかったじゃない」


「朝は沖にいた」


「じゃあ、いたのと同じでしょ」


「どっちだよ」


女は船頭の返事を待たず、舟の横へ籠を下ろした。


中には小さな玉ねぎみたいな根菜がいくつかと、布で包んだ細長い物が入っている。


「帰る?」


女が聞く。


「風が落ちたら」


「今日中?」


「それは風に聞いて」


女は空を見た。


「風、答えないよ」


「だから俺も答えられない」


そのやり取りが、もう何度か繰り返されているように聞こえた。


ティムが空籠を抱えたまま俺へ寄る。


「知り合い?」


「たぶん」


「乗るのかな」


「たぶん」


「聞かない?」


「仕事戻れ」


俺が言った瞬間、女の方がこっちを見た。


「そっちの二人」


二人とも止まる。


「北入り江まで歩いたって子?」


俺は一瞬、誰のことか分からなかった。


ティムは自分を指す。


「俺ら?」


「壺運んだんでしょ」


「何で知ってるの」


女は籠の中の根菜を一つ持ち上げ、傷を見ながら答えた。


「ナエが言ってた。壺は割れなかったって」


そこまではよかった。


女は次にティムの手を見た。


包帯はもう薄くなっている。


「あと、蟹には負けたって」


ティムが固まった。


俺は耐えられなかった。


「広がってる」


「笑うな!」


「北入り江中に広がるかもって言っただろ」


「言ったの俺だけど、予言したかったわけじゃない!」


女は何がおかしいのか分からない顔で船頭を見る。


船頭も肩をすくめた。


「蟹に勝つ話より負ける話の方が早いんだよ」


「そんな仕組みある?」


ティムが本気で嫌そうだった。


女は北入り江の人らしい。


ただ、今朝は南側の親戚のところから歩いてきたという。


鴎泊へ来た目的は油布を受け取ること。


帰りに北入り江の舟がいれば乗る。


いなければ石浜側まで歩いて、条件がよければ別の舟を探すつもりだったらしい。


「決まった舟じゃないの?」


ティムが聞く。


女は首を振った。


「乗せてもらえる舟があれば乗る。なければ歩く」


「お金は?」


「乗るなら払うよ。今日はこれ」


女は布包みを少し開いた。


中に細長い干し肉が三本見えた。


船頭がすぐ言う。


「二本でいい」


「一本」


「じゃあ歩け」


「二本なら向こうで籠も下ろして」


「籠は自分で持て」


「じゃあ一本半」


「どうやって半分にするんだよ」


ティムが俺の腕をつつく。


「こういうのも運賃?」


「俺に聞くな」


マルクが聞こえていて、倉から出てきた。


「その舟の話だ。鴎泊の決まりじゃない」


一言だけ挟んで、また倉へ戻る。


なるほどと思った。


舟が人を乗せる。


金じゃなく肉で払うこともある。


でも、それがこの港の仕組みというわけじゃない。


目の前の二人が今日そう決めているだけだ。


最後は干し肉二本で決まった。


女は舟へ荷物を置いた。でも、すぐには乗らなかった。


岸へ戻ってきて、俺たちの空籠を見ている。


「それ、まだ積むの?」


「あと六つ」


ティムが答える。


「じゃあ手伝う。出るまで暇」


「乗る人が?」


「暇な人が」


女は勝手に空籠を一つ持った。


ティムが慌てる。


「それ、一番下にするやつ」


「先に言いな」


「今言った」


「持つ前に」


今度はティムが仕事を教える側になっていた。


俺は笑いながら一番下の籠を指す。


北へ帰る人が、出港を待つ間だけ鴎泊の空籠を積む。


たぶん、誰も記録しない。


でも世界は、こういう余計な手で少しずつ動いているんだと思った。


第360話 北へ帰る舟は、決まった時刻に出なかった

【本文】


北入り江の舟が出たのは、夕方より少し前だった。


「少し前」というのは、誰かが時刻を決めていたわけじゃない。


船頭が港口を見に行き、戻ってきて、干していた網を畳んだ。


それを見た若い船員が帆を出した。


それを見た年配の女が、さっきまで手伝っていた空籠から手を離した。


誰も「出るぞ」と言う前に、三人とも帰る準備を始めていた。


ティムだけが一拍遅れて気づいた。


「行く?」


船頭が答える。


「行けそうだからな」


「何時に着く?」


「着いた時」


「それ便利だなあ、その答え」


「海で時計持って立ってろ。波が合わせてくれるか見てやる」


ティムは黙った。


俺は笑った。


昨日までなら、俺も「どれくらい掛かる」と聞いていたと思う。


今も知りたい。


でも、風が弱い日と強い日で時間が変わるなら、数字一つを聞いても地図にはならない。


若い船員が昨日縫った帆端をもう一度指で引いた。


縫い目は残っている。


「針、ちゃんと返した?」


船頭が聞く。


「返した」


「本当に?」


「マルクに聞けよ」


倉の方からマルクの声が飛んだ。


「返ってる」


若い船員が得意そうに顎を上げる。


「信用ないなあ」


ティムが小声で言った。


「仲間だ」


船員に聞こえた。


「一緒にすんな」


ティムはまた傷ついた顔をした。


年配の女は干し肉二本を船頭へ渡し、自分の籠を舟の中央へ置いた。


布包みの油布は濡れないよう、その上へ載せる。


「それ、籠の下じゃないんだ」


ティムが聞く。


女はすぐ答えた。


「根菜は濡れても食べられる。油布は売り物」


「なるほど」


「でも籠がひっくり返ったら怒る」


「どっちも大事じゃん」


「大事の順番があるの」


それを聞いて、俺は壺を運んだ時の道を思い出した。


人なら細道。


壺なら遠回り。


荷物が変われば道が変わる。


同じ舟の中でも、濡れていい物と駄目な物で置き場所が変わる。


ティムはたぶん同じことを考えていなかった。


女へ聞く。


「蟹の話、誰から聞いた?」


まだそこだった。


「子ども」


「どっち」


「知らないよ。二人いた」


「二人ともか……」


ティムは海を見る。


「もう消せないな」


「何を」


「記録」


「最初から記録じゃないだろ」


女が笑う。


「じゃあ次は勝てばいいじゃない」


「次がある前提なんだ」


「北入り江、蟹いるよ」


ティムの顔がちょっとだけ明るくなった。


俺は横から言った。


「蟹目当てで仕事作るなよ」


「作らない。自然に蟹の仕事が来るの待つ」


「そんな仕事あるか?」


船頭が縄を外しながら口を挟んだ。


「籠から逃げた蟹拾う仕事なら、そのうちあるんじゃないか」


「ほら」


「それ仕事って言うのか」


どうでもいい話をしている間に、舟は岸から離れた。


若い船員が竿で一度押す。


船頭が舵を取る。


年配の女はもう俺たちを見ていない。自分の籠の位置を足で直している。


帆が上がる。


昨日縫った端が風を受ける。


一度、ばたついた。


でも開かなかった。


舟は赤い浮きの内側を通り、港口で少し向きを変えた。


北へ行く。


俺とティムは見送った。


「乗りたかった?」


俺が聞く。


ティムは少し考えた。


「乗りたかった。でも、今の舟に俺らの場所なかったな」


「荷物少なかったじゃん」


「そうじゃなくて。帰る人の舟だった」


珍しく、ちゃんとしたことを言った。


俺は返事をしようとしてやめた。


確かにそうだった。


あの舟には、船頭と船員がいて、帰る女がいて、根菜と油布があって、干し肉二本の話があった。


空いているように見える場所があっても、それが俺たちの席とは限らない。


北へ行きたい気持ちは消えない。


むしろ、また少し強くなった。


でも今日、乗らなかったことも悪くないと思えた。


舟が岬の方へ小さくなった頃、背後で木が落ちる音がした。


振り返る。


西倉の前で、板束が一つ崩れていた。


ティムが俺を見る。


「今の俺じゃない」


「誰も言ってない」


「先に言っとく」


板束の横では、南道から来た荷車の御者が困った顔をしていた。


片方の車輪の外板が、少しだけ浮いている。


マルクがしゃがみ込み、指で隙間をなぞった。


「走ってきた?」


御者が首を振る。


「途中から鳴り始めた。荷を下ろすまでは持った」


マルクは車輪を一度回した。


乾いた音が、同じ場所で一回だけ鳴る。


俺は北の舟から目を戻した。


次に動いたのは、海の先じゃなかった。


港へ着いたばかりの、南から来た車輪だった。


第361話 鳴っている場所は、浮いている板と同じじゃなかった

【本文】


同じ場所で鳴るなら、そこが壊れている。


俺は、かなり素直にそう思った。


たぶんティムも同じだった。


南道から来た荷車の右輪。その外側の板が少し浮いていて、車輪を回すと一周に一度、乾いた音がする。


「ここだろ」


ティムがしゃがみ込み、浮いた板のすぐ横を指した。


マルクがその手より先に木片を差し込んだ。


荷車が勝手に動かないようにするためらしい。


「指入れるな」


「入れてない」


「入れる距離だった」


「また顔で止められた」


御者が笑う余裕はなかった。


荷はもう西倉へ下ろしてある。荷台は空だ。それでも御者は車輪の前で腕を組んだまま、何度も南の坂を見ている。


「これ、今日戻せる?」


マルクが聞く。


御者は答える前に車輪を見た。


「戻したい。馬も俺も、明日の昼には南へいたい」


「戻したい、じゃなくて戻せるか」


「分からんから困ってる」


そこはちゃんと分からないらしい。


ティムが俺へ寄って、小声で言った。


「ノマ呼ぶ?」


「樽の輪だろ」


「輪は輪じゃん」


マルクが聞いていた。


「荷車の輪と樽の輪を一緒にするな。ノマに言ったらたぶん怒る」


俺は少し想像した。


たぶん本当に怒る。


マルクは坂の上へ使いを出した。


鴎泊にいつも車輪職人がいるわけではない。けれど南道から荷車が入る日は、坂上の作業場へ声を掛ければ見に来られる人がいるらしい。


「すぐ来る?」


ティムが聞く。


「来られたら」


「来られなかったら?」


「荷車がここにいる」


マルクの答えは簡単だった。


御者が溜息をつく。


「俺も?」


「お前は好きにしろ。荷車だけ勝手に坂へ出すな」


港はその間も動いていた。


板束を積み直す男。


さっき北入り江へ帰った舟の跡へ、別の小舟が一艘入る。


ハナは魚の骨を煮た鍋を火から外して、こっちへは一度も来ない。


車輪が鳴っていても、港全部が車輪を見るわけじゃない。


俺とティムだけが暇そうに見ていた。


「一回だけ回していい?」


ティムがマルクへ聞く。


「駄目」


「何で」


「見る人が来る前に状態変えるな」


ティムは口を閉じた。


俺も、実はもう一回聞きたかった。


乾いた音がどこで鳴るのか。


一周の中で本当に同じ場所なのか。


でも触らない。


少し前、樽の輪を見たノマも似たことを言っていた。


見るのと直すのは別。


今回は、見るのと回すのも少し別らしい。


車輪を見る人が来たのは、昼を少し回ってからだった。


背の低い男だった。


年はマルクより上に見える。


肩から細長い木箱を掛けている。


男は御者より先に車輪を見た。


「鳴るのは右?」


「右」


「荷は?」


「下ろした」


「いつから?」


「南の三つ目の曲がりを越えた辺りから。最初は小さかった」


男はそこで初めて荷車の下を覗いた。


ティムが俺の耳元で囁く。


「名前聞いてない」


「今いる?」


「呼ぶ時困る」


男が聞いていた。


「ダン」


ティムが一歩引いた。


「聞こえてた」


「近いからな」


ダンは車輪の外板へ指を掛けなかった。


まず浮いている位置を炭で小さく印にする。


それから御者へ言った。


「ゆっくり一周」


御者が荷車を押した。


俺たちは横から見る。


浮いた板が下へ来る。


何も鳴らない。


そこを過ぎる。


まだ鳴らない。


俺は眉を寄せた。


もう少し回ったところで、


コン。


乾いた音がした。


ティムが俺を見る。


俺もティムを見る。


さっき「ここだろ」と指した場所は、もう地面から離れていた。


ダンが止める。


「もう一回」


二周目。


浮いた板。


無音。


少し先。


コン。


同じだった。


「板じゃない?」


ティムが聞く。


ダンはしゃがんだまま答えた。


「板も浮いてる」


「じゃあ板?」


「音はそこじゃない」


「二つ悪い?」


「まだ決めない」


ティムの質問が三つ進んで、ダンは一つずつ戻した。


俺は車輪の内側を見る。


何か見つけたい。


でも、見えるのは泥と木と、使い込まれた擦れだけだ。


「音、外板より後ろだ」


俺が言う。


ダンがこっちを見る。


「それは合ってる」


少し嬉しくなる。


「じゃあ――」


「そこから先はまだ」


すぐ止められた。


ティムがにやっとする。


「半分職人」


「違う」


ダンは車輪の内側へ手を伸ばし、輪の継ぎ目を一つずつ押した。


ある場所で、ほんの少しだけ木が動いた。


俺には動いたように見えた。


たぶん。


ダンはもう一度そこを見てから立つ。


「外板だけ叩いて戻すのはやめとく。輪を外して見る」


御者の顔が沈んだ。


「今日帰れる?」


「外してから聞け」


「だよなあ」


御者は頭を掻いた。


ティムが小声で言う。


「今日、分からないって言う人多いな」


俺は車輪から目を離さない。


「分かる前に決める人よりいいだろ」


ダンが木箱を地面へ置いた。


浮いている板は見えている。


音も聞こえている。


でも、それだけではまだ原因にならない。


俺はそれが少し面白かった。


見えている壊れ方より、見えていない方を先に外して確かめる。


次に動くのは、荷車じゃなかった。


右の車輪そのものだった。


第362話 車輪を外したら、壊れていたのは板一枚じゃなかった

【本文】


車輪を外すところを、俺はもっと大げさに想像していた。


荷車をひっくり返すとか。


人が五人くらい集まるとか。


実際には、ダンが最初にやったのは俺たちをどかすことだった。


「そこ立つな。馬の前も空けろ」


ティムがすぐ横へ移る。


俺も動いた。


御者が馬を少し離す。


マルクは西倉から低い木台を二つ持ってきた。


俺が手を出すと、一つだけ渡された。


「これは運んでいい?」


「それは仕事」


ティムが笑う。


「確認した」


「最近、確認しないと止められるからな」


木台を荷車の下へ置く。


その先はダンと御者がやった。


長い棒を使って車体をほんの少し持ち上げ、隙間へ台を入れる。


俺たちは押さえない。


引っ張らない。


言われた場所へ物を運ぶだけだ。


ティムは三回目に暇になった。


「俺、何か持つ?」


「今は何も」


「何も持つ仕事ある?」


「黙って立つ」


「昨日もそれやった」


帆を持った時のことだ。


ダンは聞いていないふりをした。


右輪が軸から外れた時、俺は思わず一歩近づいた。


地面へ寝かせると、車輪は急に小さく見えた。


荷車についていた時は腰より高く感じたのに、寝かせるとただの大きな輪だ。


ただし重そうだった。


ティムが端へ指を掛ける。


「重――」


「持つな」


ダンの声。


ティムの手がまた止まった。


「触っただけ」


「今、持つって言った」


「言い終わってない」


「顔でも声でも分かる」


俺は笑った。


ティムは俺へ泥を蹴った。


泥は届かなかった。


その代わり、自分の靴に跳ねた。


「最悪」


「自分でやっただろ」


ダンは俺たちを放っておいて、車輪の外側を見ていた。


浮いていた外板を指で押す。


今度は荷車の重さが掛かっていないから、少し動く。


その下。


輪を作っている木の継ぎ目に、細い隙間があった。


ダンが炭の印をつける。


「ここ」


御者がしゃがむ。


「割れた?」


「割れてない」


「じゃあ戻せる?」


「穴が少し広がってる。留めてる木も潰れてる。戻すだけなら戻る。走ったらまた出るかもしれん」


御者が唇を曲げた。


「それ、一番困るやつだな」


俺は浮いた外板と、内側の継ぎ目を見比べた。


音が鳴ったのは、さっき外板が地面を通り過ぎた後だった。


「こっちが鳴ってた?」


俺が継ぎ目を指す。


ダンはすぐには頷かなかった。


「たぶんな」


「たぶん?」


「外して見たら怪しい場所は増えた。音だけで一個に決めるな」


また止められた。


でも嫌じゃなかった。


答えが増えたんじゃなくて、分からない場所が正しく増えた感じがする。


ティムは違うらしい。


「じゃあ何を直したら音消えるの」


「直してから回す」


「先に分からない?」


「分かったら今やってる」


ティムが黙る。


ダンは荷車の御者に聞いた。


「予備の留め木ある?」


「細いのなら」


「これは足りない」


「作れる?」


「ここに材があれば」


マルクが倉の壁際を見た。


「荷箱の補修材ならある。勝手に切るなよ」


ダンが立つ。


「見る」


四人で倉の脇へ移動する。


俺とティムもついていく。


「お前らは何で来る」


マルクが言う。


ティムが胸を張る。


「材を見る」


「仕事は?」


「今のところない」


「邪魔なら戻れ」


追い返されなかった。


補修材の束から、ダンは二本だけ抜いた。


曲げたり叩いたりはしない。


木口を見て、爪で押して、一つを戻す。


もう一つも戻す。


三本目で止まった。


「これなら削れる」


ティムがすぐ聞く。


「何が違う?」


ダンは木を持ったままティムを見る。


「今説明しても、お前が次に選べるようにはならん」


ティムが口を開く。


閉じる。


ダンが少しだけ続けた。


「割れ方と木目。今日はこれでいい」


説明を拒んだわけじゃない。


必要な分だけだった。


作業は思っていたより地味だった。


ダンが木を削る。


合わせる。


また削る。


一度入れて、抜く。


俺にはほとんど同じに見える。


ティムは途中で飽きて、馬へ水をやりに行った。


戻ってきた時、頬に黒い筋がついていた。


「何それ」


「何が」


「顔」


ティムが手で擦った。


黒い筋が広がった。


御者が笑う。


「馬具の油触った手で顔触ったな」


「先に言って」


「何で俺が、お前が顔触る前に分かるんだよ」


今日はみんなに先に言えと言っている。


ダンは木の留めを入れ直し、浮いた外板も位置を合わせた。


何度か槌の音がする。


強い音と弱い音が混じる。


俺は聞き分けようとした。


途中で諦めた。


さっき樽の輪で逆を言ったのを思い出したからだ。


ダンが顔を上げる。


「聞かないのか」


「何を?」


「音」


「聞いても分からない」


ダンは一瞬だけ笑った。


「その方が早い時もある」


夕方が近づく頃、車輪は元の形に戻った。


外から見る限り、浮いていた板もほとんど分からない。


でも、まだ荷車には付けない。


ダンは輪を立て、両手でゆっくり回した。


乾いた音はしなかった。


ティムが嬉しそうに言う。


「直った?」


「まだ」


「今、鳴らなかった」


「荷車につけてない」


ティムが天を見た。


俺は笑った。


今日だけで何度目か分からない。


見えた。


鳴らなかった。


だから終わり。


そうはならないらしい。


ダンは車輪を軸の横へ立てた。


「次、つけて空で回す」


御者が南の空を見る。


日が傾いている。


帰れるかどうかは、まだ誰も言わなかった。


第363話 直った車輪より、二台目の右輪が気になった

【本文】


右輪が荷車へ戻った時には、港の影がかなり長くなっていた。


御者はすぐ馬をつなごうとした。


ダンが止める。


「まだ乗せるな」


「帰るなら馬要るだろ」


「帰るか決める前に、空で押す」


御者は何か言い返しかけて、やめた。


今日の午後だけで「先に試す」が増えすぎたらしい。


俺とティムは荷車の後ろへ回った。


「押す?」


ティムが聞く。


ダンが俺たちを見る。


「二人とも横。押さなくていい。輪だけ見ろ」


「仕事あるじゃん」


ティムが嬉しそうに言う。


「見るだけだぞ」


「見る仕事」


そう言い換えると何でも仕事になる。


御者とダンで荷車を押した。


一歩。


二歩。


右輪が回る。


浮いていた場所が地面へ来る。


何も鳴らない。


継ぎ目が下へ来る。


何も鳴らない。


十歩。


十五歩。


俺は音を待ちすぎて、左輪の軋みまで気になってきた。


「今、左鳴った?」


ティムが言う。


「鳴った」


「左も壊れてる?」


ダンが前を向いたまま返す。


「古い荷車は音ぐらいする」


「さっき音で止めたのに」


「音がしたから止めたんじゃない。板が浮いてて、いつもと違う音が同じ場所で続いたから見た」


ティムが黙った。


俺も少し考える。


一個だけなら普通。


重なったから見る。


たぶん、そういう話だ。


三十歩ほど進んだところで、ダンが手を上げた。


荷車を止める。


右輪へしゃがみ込み、さっき直した場所へ指を当てる。


外板は浮いていない。


継ぎ目も、見た目では動いていない。


「もう一回戻す」


帰りの三十歩。


乾いた音は出なかった。


御者の顔が少し明るくなる。


「じゃあ帰れる?」


ダンは南の坂を見る。


それから馬を見る。


「荷は空。車輪は今のところ持ってる。俺なら今日は出ない」


御者の顔がまた曇る。


「車輪じゃなく?」


「暗くなる。馬も朝から歩いてる。急いで戻る理由ある?」


御者は答えなかった。


少しして、頭を掻く。


「明日の昼までには戻りたいだけだ」


「じゃあ朝でいいだろ」


マルクが横から言った。


「荷車は壁沿いなら置ける。馬は裏の柵、餌は自分で払え」


「そこは取るのか」


「車輪直しても、馬は草食うからな」


御者が笑った。


さっきまでの困った顔が少し薄くなる。


帰るかどうかは車輪だけで決まらなかった。


帆が直っても風が悪ければ舟が出なかったのと、少し似ている。


でも俺は、そのことを口にしなかった。


何でも同じ話にすると、たぶん違うところを見落とす。


ダンは荷車を元の場所へ戻す途中で、右輪をもう一度見た。


「こっちばっかり削れてるな」


御者が振り返る。


「右?」


「外側。左より減ってる」


御者は少し考えてから、南の方を指した。


「三つ目の曲がり。最近、右だけ下へ落ちる」


ダンが眉を上げる。


「溝?」


「道の端が掘れてる。真ん中寄ると向こうから来る荷車とすれ違えん。だから右を落として通ることがある」


「毎回?」


「毎回じゃない。向こうから来た時だけ」


ダンはそれ以上、車輪を見なかった。


「それで削れたとはまだ言わんぞ」


「でも関係ある?」


ティムがすぐ聞く。


「あるかもしれん」


「ないかもしれない?」


「そう」


ティムが嫌そうな顔をした。


「その答え強すぎない?」


ダンは木箱を肩へ掛ける。


「間違った答えより便利だ」


俺は南道を見る。


三つ目の曲がり。


どのくらい先なのかも知らない。


溝がどれくらい深いのかも知らない。


今日の車輪が本当にそこで傷んだのかも分からない。


見に行きたいとは思った。


でも仕事じゃない。


俺がそう思っていた時、坂の上から鈴が鳴った。


荷車の鈴だった。


一台。


今度も南道から来る。


ティムが先に振り返った。


「また来た」


「荷車は来るだろ」


「右見よう」


「先に荷見ろよ」


「何で」


「仕事だから」


二台目の荷車は、港へ入る前に一度止まった。


坂を下りてきた御者が、先にいる荷車を見て手を上げる。


「まだいたのか」


最初の御者が返した。


「輪やった」


「どこ」


「右」


新しく来た御者が嫌な顔をした。


「曲がりの溝?」


俺とティムが同時にそっちを見た。


最初の御者も少し驚いている。


「お前も?」


「今日は落としてない。昨日は落ちた。朝より掘れてるぞ、あそこ」


二台目の荷車がゆっくり坂を下りてくる。


壊れてはいない。


音もしていない。


ただ、右輪だけ、左より高いところまで薄い泥が乾いていた。


ティムが俺の袖を引く。


「二台目」


「まだ数えるな」


「二台目は二台目だろ」


「同じ壊れ方じゃない」


「でも右」


「右だけ」


言いながら、俺も見ていた。


ダンは帰りかけていた足を止めた。


戻ってはこない。


遠くから二台目の右輪を一度見て、それだけだった。


原因が決まったわけじゃない。


道が危険だと決まったわけでもない。


でも、南道の三つ目の曲がりに、昨日より深くなった溝がある。


それを別の御者も知っていた。


今日直った車輪より。


俺はそっちの方が、少しだけ気になってしまった。


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