第352話 北入り江へ行く理由は、大きな壺だった 【本文】
北入り江が見えた翌朝、俺は北を見なかった。
正確には、見ないようにした。
西倉の前で塩袋を二つ数えて、割れた木箱の板を脇へ寄せて、それから井戸の方を見る。
北坂は視界の端に入る。
だから入らない方を向いた。
「何してんの」
ティムが後ろから来た。
「仕事」
「今、北見ないようにしてた?」
「してない」
「してた顔だった」
どういう顔だ。
ティムは昨日まだ油臭いと言っていた袖へ鼻を寄せた。
「消えた」
「よかったな」
「ちょっと寂しい」
「何でだよ」
朝からどうでもいい話をしている間にも、港は普通に動いていた。
魚を下ろす小舟。
空籠を返す男。
井戸の水を二桶だけ買っていく女。
俺たちが北入り江を見たことなんて、誰も知らないみたいに。
それでよかった。
昨日の煙が気になっても、今日の仕事とは別だ。
午前の半ば、港へ荷車が一台入ってきた。
北からじゃない。
南の道からだった。
荷台には布を巻いた大きなものが一つ載っている。
樽より背が低い。
でも横に広い。
御者が布を外すと、赤茶色の大きな壺が出てきた。
口は俺の両手より広く、腹のところは抱えても腕が回りきらない。
ティムがすぐ寄った。
「何これ」
「壺だろ」
「それは見れば分かる」
御者が笑った。
「塩水漬けに使う保存壺。北の方から頼まれてたやつだ」
俺の首が勝手に動きそうになった。
『北』だけでは北入り江とは限らない。
そう思ったところで、倉から出てきたマルクが荷札を見た。
「北入り江の分か」
ティムの顔が、ものすごく分かりやすく俺へ向いた。
俺は見ない。
見たら負けな気がした。
「昼まで置く?」
マルクが聞く。
御者は荷台の端へ腰を掛けたまま首を振った。
「受け取りが来るって聞いてる。俺はここまで」
壺は西倉の壁際へ下ろされた。
四人で下ろした。
見た目より重い。
中身は空なのに、底の厚みだけで腕へ来る。
ティムが壺の口へ手を掛けようとして、マルクに手首を叩かれた。
「そこ持つな」
「まだ持ってない」
「持つ顔してた」
今朝の俺と同じことを言われている。
俺が笑うと、ティムが睨んだ。
「笑うな。お前も北見る顔してたからな」
「それと壺は違うだろ」
「顔で分かる仲間」
仲間にされたくない。
受け取りが来たのは、昼飯前だった。
昨日、風切りの平石で浮きを受け取った女だった。
頭に同じ布。
今日は空籠じゃなく、肩へ太い布紐を二本掛けている。
女は壺を見るなり、口の縁ではなく腹を一周した。
傷を探しているらしい。
「これで合ってる」
マルクが荷札を渡す。
女は目を通して、壺の底も覗いた。
ティムが横から聞いた。
「一人で持ってくの?」
女が顔を上げた。
「持てたら、今ごろ肩幅が倍ある」
ティムが自分の肩幅を見る。
「俺でも倍は嫌だな」
「お前はまず指治せ」
昨日の蟹の指を言っているのかと思った。
でも女は知らないはずだ。
ティムも一瞬止まり、それから自分の包帯を見た。
「何で知ってるの」
「見えてるから」
そういうことだった。
女は持ってきた布紐を壺の腹へ回した。
一本を底近く。
もう一本を上側。
持ち手を二人分作る。
「本当は向こうからもう一人来る予定だったんだけど、朝の舟が一艘戻らなくてね。漁に出たままじゃないよ。岬向こうへ回しただけ」
最後の一言を先に足したのは、俺たちの顔が変わったからかもしれない。
マルクが女へ聞く。
「今日中に要る?」
「今日割らずに着けばいい。明日でも漬け物は逃げないけど、壺をここへ置く方が邪魔でしょ」
マルクは壺と俺たちを順番に見た。
「午前の仕事は終わってる。二人使う?」
女は俺とティムを見る。
俺は返事を急がなかった。
急がなかったつもりだった。
ティムは急いだ。
「使うなら行ける」
女が俺を見る。
「もう一人は?」
「……行けます」
ティムがにやっとした。
腹が立つ。
マルクが先に釘を刺した。
「北入り江まで運んで壺を渡す。それで終わり。帰りの仕事があれば別に受ける。勝手に歩き回るな」
「俺まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
今日はそればっかりだ。
ハナが昼飯を包んで持たせてくれた。
固いパンと、豆を潰して塩を混ぜたもの。
「壺落としたら昼飯抜き?」
ティムが聞く。
「落としてなくても、その言い方するなら抜きにするよ」
ティムは包みをすぐ懐へ入れた。
女が笑いながら、壺の紐をもう一度締める。
「名前、聞いてなかったね」
「レンです」
「ティム」
女は自分を指した。
「ナエ」
昨日まで名前のなかった受取人に、ようやく名前がついた。
それだけで北入り江が少し近くなった気がした。
気がしただけだ。
壺はまだ鴎泊にある。
俺たちはまだ一歩も北入り江へ下りていない。
ナエが壺の片側へしゃがむ。
「じゃあ先に教えとく。近い道は使わないよ」
ティムが眉を上げた。
「近いのに?」
「これ割ったら、近かったって言っても誰も褒めないから」
俺は壺の腹へ回された布紐を握った。
北入り江へ行く理由は、昨日見えた煙を確かめるためじゃなかった。
荷札のついた、大きな壺だった。
第353話 壺を割らない道は、近道じゃなかった
【本文】
大きな壺は、持ち上げるより歩き出す方が難しかった。
「せーの、で上げるよ」
ナエが言う。
俺とティムは壺の左右へ入った。
布紐を肩へ掛ける。
「せーの」
上がる。
壺の底が地面から離れた。
そこでティムが一歩出た。
俺はまだ出ていない。
壺が斜めになった。
「待って待って」
ナエの声で二人とも止まる。
「歩くのは、そのあと」
「分かってた」
ティムが言った。
「体が先に行った」
「それを分かってないって言うんだよ」
俺が言うと、ティムは壺越しに俺を睨んだ。
「レンも引っ張ったから傾いたんだけど」
「俺は支えた」
「二人とも喋らない」
ナエに切られた。
二回目は持ち上げてから、二人で同時に一歩出た。
重い。
でも荷箱みたいに重さが肩へ真っ直ぐ来ない。
壺の腹が歩くたびに少し遅れて揺れる。
揺れたのを戻そうとすると、反対側へ行く。
鴎泊を出る前から面倒だった。
ティムが前を向いたまま言う。
「これ、中に水入ってたら無理じゃない?」
「今それ考える?」
「空でよかったって話」
ナエが横を歩きながら答えた。
「水入ってたら舟で運ぶ。こんなの担いで山越えたら、着く前に人の方が割れる」
壺じゃなくて人が割れるらしい。
北坂を上がる。
昨日の風切りの平石へ行った道と途中までは同じだった。
石浜への分岐も通った。
俺は一度だけそちらを見た。
ナエは曲がらない。
昨日の平石へ続く上の道にも入らなかった。
その手前で、草の間へ細い横道がある。
「ここ?」
ティムが聞く。
「違う。壺がない時はね」
「今日は?」
「もう一つ上」
近い道を使わないという意味が少し分かった。
一人なら通れる細い道が、壺には細すぎる。
もう少し上まで回って、岩の少ない斜面へ出る。
距離は増える。
その代わり、足元が急にましになった。
俺は思わず言った。
「こっちの方が歩きやすい」
ナエは前を見たまま答える。
「壺にはね」
「人には?」
「遠い」
ティムが息を吐いた。
「全部それだな。荷物で道変わる」
「当たり前でしょ」
当たり前なんだけど、俺は好きだった。
同じ北へ行くのに、持っている物で道が変わる。
荷車なら通れない。
人だけなら石浜へ下りられる。
壺なら遠回りする。
地図に一本線を引けば終わる話じゃない。
そう考えていたら、壺が右へ揺れた。
「レン」
ナエの声。
俺はすぐ足を止めた。
ティムが半歩遅れて止まる。
壺の底が俺の膝へ当たった。
痛い。
「何?」
「考え事して歩幅ずれた」
「何考えてたの」
「道」
ティムが吹き出した。
「道考えて、道歩くの失敗した」
言い返せない。
ナエも笑っている。
「壺持ってる時は壺考えて」
「はい」
しばらく俺は本当に壺だけ見た。
布紐の食い込み。
ティムの靴の位置。
壺と自分の膝の間。
前の石。
これだけで結構忙しい。
風切りの平石より高いところへ出ると、風が強くなった。
昨日、汗が一気に冷えた場所だ。
今日は壺を持っているから、止まる方が怖い。
ナエが俺たちより先に風下へ回った。
「ここだけ寄せるよ。離さないで」
説明してから、壺の腹へ手を添える。
三人で風を受ける。
ティムの髪が全部横へ流れた。
「壺より俺が飛びそう」
「飛ぶなら壺置いてからにして」
「順番そこなんだ」
斜面を越えると、急に風が弱くなった。
木が増える。
海も見えない。
昨日は平石の先から一瞬だけ水が見えた。
今日は北入り江へ向かっているはずなのに、進むほど海が消えた。
「方向合ってる?」
ティムが聞いた。
ナエが振り返る。
「不安?」
「海がない」
「海は逃げないよ」
「昨日の赤い浮きは逃げた」
「それは浮き」
俺は笑ってしまった。
道は下り始めた。
土が少し湿っている。
石の段差が増える。
ナエが先に降り、俺たちへ止まる場所を指で示す。
「そこ。次、左足。壺を先に下げない」
一段。
もう一段。
ティムが小さく息を吐く。
「これ、帰りは楽?」
「空手ならね」
「最高」
「帰り荷がなければ」
「今それ言う?」
さっきと同じことを返されている。
途中、一度だけ壺を下ろした。
地面へ直接置かず、ナエが持ってきた丸めた布の上へ置く。
俺は肩を回す。
布紐の跡が熱い。
ティムはパンを出しかけて、ナエに見られた。
「食べるなら壺から離れて。パン屑入ったら私が怒られる」
「空なのに?」
「空だから最初に入るものを選べるの」
ティムは妙に納得して、三歩離れた。
俺も昼飯を少しだけ食べた。
風が来ない場所だから、昨日より暖かい。
その時だった。
下の方から音がした。
木を叩くような、乾いた音。
一回。
少し間があって、二回。
それから人の声。
言葉までは聞こえない。
ティムがパンを持ったまま顔を上げる。
「近い?」
ナエは水を飲みながら頷いた。
「もう下」
「北入り江?」
「そう」
俺は木の間を見る。
まだ水は見えない。
屋根も、舟も、煙も見えない。
なのに、人がいる音は昨日よりずっと近い。
昨日は煙から始まった。
今日は音だった。
休憩を終えて壺を持ち上げる。
下り道を十数歩。
木の間の光が急に明るくなった。
潮の匂いも戻ってきた。
ナエが先で言う。
「そこ曲がったら、足元見て。海見るのは止まってから」
ティムが俺を見る。
今度は二人とも何も言わなかった。
先に壺だった。
第354話 北入り江は、港じゃなく生活の途中だった
【本文】
最後の曲がりを抜けても、俺は海を見なかった。
壺の底と、自分の足だけを見る。
平たい石を一枚越える。
ナエが「そこ」と言う。
俺とティムは同時に止まった。
「下ろすよ。ゆっくり」
膝を曲げる。
布の上へ壺の底が乗った。
手を離す。
割れていない。
そこでやっと顔を上げた。
北入り江は、昨日見たよりずっと小さく感じた。
近づいたから大きく見えると思っていたのに、逆だった。
見えている水面は岩に囲まれている。
外海はほとんど見えない。
黒い岩の間に細い水が入り、その奥へ舟が二つ――いや、一つは舟かもしれないし、ひっくり返した何かかもしれない。
数えようとしてやめた。
昨日と同じ失敗をしそうだった。
見えるものが全部じゃない。
左には低い小屋がある。
戸口から網が半分はみ出している。
右には煙の出る屋根。
その前で誰かが魚を並べている。
奥にも道がある。
でも岩に隠れて、その先は見えない。
「港って感じじゃないな」
ティムが小声で言った。
ナエが聞いていた。
「港じゃないよ」
「じゃあ村?」
「それ、誰に聞いても答え違うと思う」
ティムが困った顔で俺を見る。
俺に聞くな。
ナエは壺へ手を掛けた。
「家が何軒かあって、舟使う人がいて、網直す場所があって。呼び方が要る時は北入り江。それで足りてる」
ナエはそこまで言うと、もう壺へ手を掛けた。
人数も、舟の数も、いつからあるかも、こちらから聞かなければ話は続かない。
本当にそれで困っていないんだと思う。
小屋の方から若い男が出てきた。
俺たちより少し上くらいに見える。
壺を見るなり、歩く速度が上がった。
「来た?」
「来た。割れてない」
ナエが答える。
男は壺の縁じゃなく腹を叩いた。
乾いた音がする。
「よかった。前の、底から染みたから」
ティムが反応した。
「割れたの?」
「割れてない。染みた」
「割れてないのに駄目になるんだ」
男がティムの包帯を見る。
「お前も切れてないけど駄目そうじゃん」
ティムが自分の指を隠した。
「これは蟹」
誰も聞いていない。
俺と男で壺を小屋の陰へ少しだけ移す。
今度は短い距離だから、ティムは布紐を外す役だった。
ナエが戸口から古い木の蓋を持ってくる。
サイズを合わせる。
少し大きい。
「削る?」
男が聞く。
「先に洗う」
「今?」
「今」
二人の会話は俺たちを案内するためじゃない。
壺が届いた後の仕事を、そのまま続けている。
ナエは桶を持って水場の方へ行った。
俺は反射でそちらを見た。
小屋の裏へ細い道が続いている。
さらに奥へ別の屋根が少し見えた。
昨日遠くから見えたのは、たぶんここだけじゃない。
でも追わない。
今日は壺を運ぶところまでだ。
「レン」
ティムが呼ぶ。
「何」
「見ていいって言われたら、どこから見る?」
「何で選ぶ前提なんだ」
「聞いただけ」
「お前は?」
ティムは少し考えて、水際を指した。
「舟」
やっぱり即答に近い。
俺は奥の道を見た。
見たいのはそっちだった。
同じ場所に来ても、気になるものが違う。
そこへ、岩陰から子どもが二人走ってきた。
俺たちを見て止まる。
片方がティムの包帯を見た。
「それ何」
ティムが胸を張る。
「蟹との戦い」
もう一人が真顔で聞く。
「勝った?」
ティムが一瞬黙った。
「……蟹は逃げた」
「負けてるじゃん」
子ども二人は笑いながら走っていった。
俺も笑った。
ティムだけ納得していない。
「捕まえる仕事じゃなかったし」
「誰に言い訳してるんだよ」
「記録の訂正」
北入り江へ初めて来た感想が、ティムの蟹敗北で少し薄まった。
そのくらいでいい気がした。
何か特別な場所に着いたというより、知らなかった生活の途中へ入った感じだった。
しばらくしてナエが戻ってきた。
壺を洗う前に、俺たちへ小さな木札を二枚渡す。
「これ、鴎泊のマルクに返して。壺の受け取り札」
俺は一枚かと思って受け取ると、二枚重なっていた。
「二枚?」
「一枚は今回。もう一枚は前に借りた魚籠の分。返すの忘れてた」
「今?」
「今思い出した」
ティムが嬉しそうに俺を見る。
「普通だ」
「何が」
「忘れ物」
確かに普通だった。
北入り江だから特別なことが起きるわけじゃない。
ナエが続ける。
「あと、帰りにこれ持てる?」
小屋の横に、平たい籠が二つあった。
蓋が縄で留めてある。
「燻した小魚。鴎泊で売る分。今日の舟は外へ回ってて、石浜へ寄らないから」
ティムが籠を持ち上げる。
壺よりずっと軽い。
「帰り荷あった」
さっきの道で言われたことを思い出したらしい。
ナエが笑った。
「だから言ったでしょ」
俺も一つ持つ。
燻した魚の匂いが、蓋の隙間から強く出る。
帰りは空手じゃなかった。
でも壺よりは楽だ。
水際で誰かが舟を押している。
奥の小屋では木を叩く音が続いている。
子どもはさっきの蟹の話を、もう別の誰かへしている。
俺たちは北入り江へ来た。
それでも、まだほとんど知らない。
見えたのは入口の少しだけだ。
奥にどれだけ暮らしが続いているのかも、舟が何艘あるのかも、塩場とどうつながっているのかも分からない。
帰り道の入口で、ティムが振り返った。
「次は?」
俺は籠を持ち直した。
「今日の分を鴎泊へ持って帰る」
「その次」
「知らない」
ティムは少し笑った。
「前より、その答え嫌じゃなくなった?」
俺も一度だけ後ろを見る。
煙は近くで見ると一本じゃなかった。
でも何本かは数えなかった。
「うん。ちょっとだけ」
帰りの籠が腕へ当たる。
魚の匂いが服につく。
北入り江は、地図の空白を埋める答えじゃなかった。
次に何が来るか分からない、普通の場所だった。
それが思っていたより面白かった。
第355話 燻し魚は、壺より軽いのに帰り道を長くした
【本文】
北入り江を出て最初に分かったのは、帰りの籠が軽いからといって帰り道まで楽になるわけじゃない、ということだった。
燻した小魚の平籠は、壺に比べれば笑えるくらい軽い。片手でも持てる。問題は、持てるから雑になることだった。
「これ、壺より百倍楽」
ティムが籠を腰の横でぶら下げた。
「振るなよ」
「振ってない。歩いてるだけ」
「今、蓋ずれた」
ティムが止まる。俺も止まった。
縄で留めた蓋の端が、指一本分だけ浮いている。中から燻し魚の匂いが急に濃くなった。
「ほら」
「……壺より面倒じゃん」
「壺は振らなかっただろ」
「壺は振ったら俺らも終わるから」
そこは妙に説得力があった。
俺たちは北入り江へ来た時と同じ遠回りの道を戻った。籠なら途中の細道を通れるのかもしれない。でも、俺たちはその道を使っていないし、誰にも「そっちで帰れ」と言われていない。
だったら知っている道で帰る。
見たい場所が増えたからといって、知らない分岐へ全部入る必要はない。
下りでは気づかなかった小さな石が、上りではやけに邪魔だった。籠は軽いのに、片手が塞がっているせいで腕を振れない。
ティムが一度、籠を反対の手へ持ち替えようとして止まる。
「これ、置いて替える?」
「そうした方がいいんじゃない」
「軽いから悔しい」
結局、平たい石の上へ一度置いて持ち替えた。
軽い荷物ほど、ちゃんと扱わなくても何とかなる気がしてくる。壺より怖くない分、雑になりやすい。
そういうのも仕事の違いなんだと思った。
風の当たる斜面まで上がると、ティムが急に鼻を鳴らした。
「俺、魚臭い?」
「籠が魚臭い」
「俺は?」
「近いから分からん」
「最悪の答え」
俺も自分の袖を嗅いでみた。もう同じ匂いしかしない。
途中で一度だけ休んだ。
ティムはパンの残りを食べようとして、籠から五歩離れた。北入り江でナエに言われた「パン屑入れるな」を、ちゃんと覚えていたらしい。
俺が何も言わず見ていると、ティムが口を動かしたままこっちを見る。
「何」
「いや。覚えてるなと思って」
「俺だって学ぶよ」
「蟹には負けたけど」
「それ、もう北入り江中に広まってる可能性あるからやめて」
子ども二人だけだろ、と思ったけど言わなかった。広がっていた方がちょっと面白い。
鴎泊へ入る坂の手前で、茶色い犬が一匹ついてきた。
俺たちじゃなく、籠についてきた。
ティムが嬉しそうにしゃがみかける。
「ほら、俺、動物には好かれる」
犬はティムを無視して俺の籠へ鼻を寄せた。
「魚に好かれてる」
「魚はもう燻されてるから好いてないだろ」
犬は港の入口まで来て、別の魚箱の匂いに乗り換えた。
ティムだけが少し傷ついた顔をした。
鴎泊へ戻ったのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
西倉の前でマルクが板束を数えている。俺たちを見るより先に、魚の匂いに気づいたらしい。
「帰り荷あったのか」
「平籠二つ。あと札二枚」
俺が木札を渡す。
マルクは一枚目を見て頷き、二枚目を見たところで眉を寄せた。
「これ、前の魚籠の分だな」
「ナエが忘れてたって」
「今か」
それだけ言って、札を別々の穴へ差した。怒るほどでもないらしい。
平籠は東側の売り台へ運んだ。夕方だけ魚を並べる女が蓋を開け、最初に数ではなく匂いを嗅いだ。
「今日は強めだね」
ティムが自分の服を嗅ぐ。
女が笑った。
「魚の話」
「分かってます」
絶対、分かっていなかった。
女は魚を三尾だけ持ち上げ、腹の乾き具合を見てから蓋を戻した。
「夕方はそのまま。残ったら明日の汁物」
独り言みたいに言いながら、売り台の下から木皿を出す。
俺たちはそこまで聞いても手伝わない。売るところから先は、もう別の仕事だ。
少し前までなら、何匹売れるのか、北入り江ではどう燻すのかまで気になったかもしれない。
今も気になる。
でも、気になることと自分の仕事は同じじゃなかった。
俺たちは売り値にも、誰が何匹買うかにも関わらなかった。籠を渡して、札を返して、それで仕事は終わった。
ハナのところへ顔を出すと、俺たちを見るなり鼻の前で手を振られた。
「上着、外」
「俺ら?」
「魚」
「今日それ二回目」
ティムが不満そうに上着を脱ぐ。
俺も脱いだ。確かに燻し魚の匂いが染みている。
北入り江へ初めて行った日の終わりは、地図でも発見でもなく、二人分の魚臭い上着だった。
それで十分だった。
第356話 風が変わると、北から二艘まとめて来た
【本文】
翌日の昼前、鴎泊の空気が少し変わった。
寒くなったわけじゃない。
風の向きが変わった。
朝までは港の外へ抜けていた風が、昼近くになると斜めから入り込むようになった。岸壁に吊ってある空籠が、さっきまでと違う向きへ揺れている。
ボルが小舟の綱を一本増やしていた。
「今日、出る?」
ティムが聞く。
ボルは綱を締めたまま海を見た。
「俺は出ない」
「危ないの?」
「危ないってほどじゃない。ただ、今日は嫌だな」
答えが短すぎて、ティムが一度瞬いた。
ボルは結び目を引き、海へ顎を向けて続けた。
「外でずっと横から叩かれる。帰ってきて魚より先に俺が干物になるのは嫌なんだよ」
ティムが笑った。
その時、港口の赤い浮きの向こうに帆が見えた。
一艘。
少し遅れて、もう一艘。
二艘とも大きくはない。
先の舟は灰色っぽい一枚帆。後ろは帆の上側だけ色が薄い。
俺は数えたところでやめた。二艘いる。それ以上はいらない。
港の内側では、先に入っていた小舟が一本だけ場所を詰めた。誰かに命じられたわけじゃない。後から来る帆を見て、船頭が自分で綱を掛け直した。
岸では網を洗っていた男が桶を足元へ寄せる。
俺たちが何もしなくても、入ってくる舟のために少しずつ隙間ができていく。
誰かが港全体を仕切る前に、場所はもう少し空いていた。
先の舟が赤い浮きを外側に見ながらゆっくり入ってくる。
船頭が岸へ声を飛ばした。
「中、空いてる?」
マルクが倉の陰から出てきた。港の内側を一度見回す。
「二艘なら。奥は荷下ろし中だ。手前へ寄せて」
俺とティムにも顎を向ける。
「西の空樽、壁へ寄せろ。赤札の箱は触るな」
「了解」
ティムが先に空樽へ向かう。
俺は赤札の箱を見る。邪魔に見える位置にある。だからこそ触るなと言われたんだろう。
空樽を二つ転がして壁へ寄せる。
ティムがついでに足元の網束へ手を伸ばした。
「それも動かす?」
「触んな」
舟から降りる前の男に言われた。
ティムの手が空中で止まる。
「まだ触ってない」
「触る顔してた」
俺は吹き出した。
ティムが振り返る。
「今日もそれ?」
男は笑わずに網束を自分の足元へ引いた。
「これ、昨日から乾かしてる。動かすなら先に言って」
「ごめん」
ティムは素直に手を引いた。
空いているように見える場所にも、誰かの途中が置いてある。
マルクが赤札の箱を触るなと言ったのも同じだった。
港は広さより、勝手に動かせない物の方が多い。
北入り江へ壺を運んだ朝から、顔で仕事を止められてばかりだ。
先の舟が着く。
積んでいたのは空籠と、濡れた網を丸めたもの、それに人が三人。魚はほとんどない。
船頭が岸へ上がって、肩を回した。
「岬の外、ずっと横だ。しばらくここで待つ」
「北入り江から?」
ティムが聞く。
「俺らはそう」
船頭が後ろの舟を顎で示した。
「あっちは違う」
後ろの舟も赤い浮きを回り、少し間を空けて入ってきた。
今度は女が舵を持っている。舟底には小さな水樽が一つと、葦で編んだ籠が三つ。
岸へ寄るなり、女はマルクへ言った。
「水、買える?」
女は舟から降りずに聞いた。
足元の葦籠が一つ倒れかけ、つま先で戻す。
隣の北入り江の船頭が「まだ積んでるのか」と声を掛けた。
「売れなかった」
「三つ全部?」
「二つ。これは別」
何が別なのか、俺たちには分からない。二人も説明する気はなかった。
知り合い同士の会話は、途中から聞くと穴だらけだった。
「桶なら。樽ごとなら井戸番に聞く」
「三桶でいい」
女は舟を留めながら、先の船頭へ手を上げた。知り合いらしいが、同じ場所の人ではなさそうだった。
ティムが俺の横へ寄る。
「違うって、どこ」
「聞けば」
「レンが聞いてよ」
「俺ばっかり聞いてると、俺がすごい知りたがりみたいじゃん」
「そうだろ」
ティムは否定しなかった。
女の方から、こっちを見た。
「何」
聞こえていたらしい。
ティムが一瞬だけ詰まる。
「どこから来たのかなって。北入り江じゃないんだよね」
女は北の海を親指で指した。
「入り江の、もう一つ向こう」
「名前はある? 遠い?」
「あるけど、こっちじゃ言ってもたぶん分からないよ」
ティムはまだ聞きたそうにしている。
女は少し考えてから肩をすくめた。
「風が良ければ近い。悪ければ遠い」
ティムが俺を見る。
「距離の話してるのに」
「海だとそうなるんじゃない」
ボルが近くで聞いていて鼻で笑った。
「歩く距離と同じ答え欲しがるな」
それ以上、誰も地名を説明しなかった。
それで話は終わった。
俺は北を見る。
北入り江を初めて見たのが、ついこの前だった。
そこが端だと思ったことはない。
でも「もう一つ向こう」と実際に言う人が、舟ごと目の前へ来ると話が違った。
地図の端が、また少しだけ遠くなった。
ただ、その舟は今、鴎泊で風を待っている。
俺たちの次の冒険を運びに来たわけじゃない。
水を三桶買いに来ただけだった。
第357話 北入り江の向こうへ行く舟は、水を三桶だけ買って出た
【本文】
三桶の水は、思ったより早く舟へ載った。
井戸番が桶を満たし、俺とティムが一つずつ運ぶ。三つ目だけ、向こうから来た女が自分で持った。
「手伝うよ」
ティムが言う。
「二つ持てる?」
「一つずつなら」
「じゃあ今ので足りてる」
ティムは少しだけ残念そうだった。
何でも仕事に入りたがる。
俺も人のことは言えない。
舟の水樽は小さい。三桶入れてもいっぱいにはならなかった。女は蓋を閉め、指で縁をなぞってから縄を掛ける。
北入り江の舟はまだ隣で風待ちをしていた。船頭と若い男が網を広げ、濡れた部分だけ岸へ出している。
同じ北から来た二艘なのに、やっていることは違う。
片方は待つ。
片方は出る準備をする。
ティムが女へ聞いた。
「もう行くの?」
女は港口の赤い浮きを見た。
「もう少しだけ待つ。風が一段落ちたら」
「向こうまで遠い?」
「どこを向こうって言ってる?」
ティムが詰まった。
「……入り江の、その先」
女は笑った。
「その先も長いよ」
答えになっているようで、あまり答えになっていない。
ティムはまだ聞きたそうだった。
女の方が先に言う。
「今日は二つ目の岬の手前まで。そこから先は、着いてから決める」
「着いてから?」
「風も荷も、人も変わるから」
言い終える前に、女は水樽の縄を引き直した。
説明より、そっちの方が大事らしい。
二つ目の岬がどこかは聞かなかった。見てもいない場所の名前を増やしても、今の俺には地図にならない。
俺は訊くのをやめた。
名前も距離も分からない。今日この舟がどこまで行くのかも、俺たちには関係がない。
それでも目は舟へ戻る。
葦籠の一つから、丸い貝殻が少し見えている。別の籠には細い木片。何に使うのか分からない。
ティムが小声で言う。
「行ってみたい?」
「うん」
今度はごまかさなかった。
「俺も」
「でも仕事ないぞ」
「知ってる」
ティムはそこで終わった。
前なら、じゃあ仕事を探そう、と続けたかもしれない。
今も探したい顔はしている。
ティムは岸へ座り、懐から固い豆菓子を一つ出して口へ入れた。
「仕事ないと、こういう時すごい暇だな」
「普通だろ」
「見えてるのに行けないのが暇」
「見えなくなったら?」
「もっと行きたい」
結局同じだった。
俺も豆菓子を一つもらう。硬い。歯にくっつく。
向こうの舟の女は、その間ずっと帆と風を見ていた。俺たちみたいに退屈しているようには見えなかった。
それ以上、俺たちは舟の行先を聞かなかった。
少しして、港の外の白波が減った。
ボルが岸から海を見て、手の甲を風へ向ける。
女も同じように顔を上げた。
二人は何も相談していない。
それでも女は舟へ乗った。
「今?」
ティムがボルに聞く。
「あの舟なら、行くんじゃない」
「ボルなら今、出る?」
「出ない。昼飯まだだから」
北入り江の船頭が隣で笑った。
「それ、海じゃなく腹を見て決めてないか」
「腹も海況のうちだ」
「初めて聞いたぞ、そんな海況」
ボルは返事をせず、倉の方へ歩いていった。
海に出るかどうかは、風だけで決まらないらしい。少なくともボルは。
ティムが黙った。
俺は笑った。
海の判断に、腹の都合が混ざっている。
女の舟が岸を離れる。
赤い浮きの内側で一度向きを変え、帆を少しだけ張った。
大きくは張らない。
風を受けるたび、帆の端がばたばた鳴る。
北入り江の船頭が岸から片手を上げた。女も上げ返す。
それだけだった。
舟は港口を抜けた。
俺たちは少しの間、見送った。
北入り江へ向かう時に見た岬の方向へ進み、そのまま見えにくくなる。
本当に北入り江へ寄るのか。
寄らずに先へ行くのか。
ここからは分からない。
分からないまま、帆だけが小さくなった。
「地図に線引きたい」
ティムが言った。
「どこへ」
「今の舟」
「行先知らないだろ」
「だから点線」
「点線でも知らないものは知らない」
「細かいなあ」
「前にそれで間違えただろ」
ティムは口を閉じた。
しばらくして、北入り江の舟の方から布がばさっと落ちた。
広げていた網じゃない。帆の端に当てるらしい細長い布だ。
若い男が拾い上げ、縫い目を指で広げる。
「マルク」
船頭が呼んだ。
「太い針、一本借りられる?」
マルクは倉の中を振り返る。
「帆?」
「端だけ。待ってる間に縫う」
遠くへ行く舟はもう出た。
残った舟は、まだここにいる。
次に動いたのは、地図の先じゃなく、ほつれた帆の縫い目だった。




