第346話 網糸の返事は、セラじゃない人の口から来た
【本文】
石浜から戻った翌朝、俺の上着はまだ少し油臭かった。
ハナが肩に挟んでくれた布は役に立った。
役に立ったけれど、全部は防げなかった。
食堂の裏で上着を干していると、ティムが自分の袖を鼻へ近づけて顔をしかめた。
「これ、もう俺たちが網なんじゃない?」
「網はそんなに喋らないだろ」
「じゃあ俺だけ違う」
朝から何の確認をしているんだ。
石浜のことは気になっていた。
昨日渡した網糸二束が、本当に北入り江の網小屋へ届いたのか。
セラの舟はあのあとどこへ着いたのか。
聞こうと思えば、たぶん聞きたいことはいくらでもあった。
でもセラは来ていない。
網直しの爺さんも、朝から古い浮き玉の紐をほどいているだけだった。
俺とティムは魚箱を三つ洗って、二つ目の底に貼りついた鱗を木べらで削っていた。
「昨日の舟、今日も来るかな」
ティムが鱗を一枚飛ばしながら言う。
「知らない」
「見たい?」
「見たい」
「俺も」
そこは二人とも早い。
ただ、見たいだけでは仕事にならない。
三つ目の箱へ手を伸ばした時、北坂から男が一人下りてきた。
背負い籠に、薄く干した魚が何枚か立っている。
知らない顔だった。
男は港を見回しても俺たちには寄らず、まっすぐ網直しの爺さんのところへ行った。
「おい。昨日の黒糸、届いたぞ」
爺さんの手が止まった。
俺の手も止まった。
ティムの手はもっと分かりやすく止まった。
木べらが魚箱の縁から落ちた。
「細い方もか」
爺さんが聞く。
「二束とも。細いのは棚から下ろしてた。太いのは奥へ置いた。俺はそれだけ見た」
「誰が受け取った」
男は背負い籠を下ろしながら、名前を一つ言った。
昨日セラが言っていた網糸の宛先と同じだった。
爺さんはそれで終わったらしい。
「ならいい」
ティムが俺を見る。
俺もティムを見る。
俺たちの方だけ、終わっていない顔をしていた。
男が気づく。
「何だ」
ティムが先に口を開いた。
「北入り江から来た?」
「北の方からは来た」
「網小屋って、浜から近い?」
男は少し考えた。
「どの浜」
「石浜」
「歩けば近い」
「どのくらい?」
「歩けば着くくらい」
ティムが困った顔で俺を見る。
俺は笑いそうになった。
昨日のセラと同じ種類の答えだ。
「網小屋、人どれくらいいるの?」
今度は俺が聞いた。
男は籠から干し魚を一枚取り出し、曲がりを確かめながら首を傾ける。
「いる時はいる。舟出てたらいない」
「……人数じゃなくて?」
「人数数えに行ってない」
そりゃそうだ。
男は俺たちのために北入り江を調べているわけじゃない。
ハナが店先から声をかけた。
「その魚、売るならこっち見せて」
男はすぐそちらへ向いた。
俺たちへの説明は終わった。
生活の方が早い。
干し魚は六枚。
うち二枚は端が欠けていて、ハナがそこを指で押して値段を下げようとする。
男は『味は欠けてない』と言い返す。
ティムが小声で俺へ言った。
「強い」
「どっちが」
「両方」
俺もそう思う。
そのやり取りの途中で、男が腰袋を探った。
細長い木の道具が一本出てくる。
先が二股になっていて、糸が薄く巻かれていた。
「ああ、これも」
男は網直しの爺さんへ投げる。
爺さんが片手で受け取った。
「忘れてたのか」
「向こうが忘れてた」
「お前も持って帰るの忘れてただろ」
「同じだ」
「違う」
ティムがすぐ近づく。
「何それ?」
爺さんが道具を持ち上げる。
「網針」
「昨日の糸で使う?」
「使う時もある」
「これで網作れる?」
爺さんの目が細くなる。
「お前が今持ったら、たぶん糸を絡ませる」
ティムが手を引いた。
俺は形だけ見る。
木は使い込まれて丸くなっている。
先に新しい傷が一つある。
でも、それが何の意味かは分からない。
「借り物?」
俺が聞く。
「前に向こうへ貸した。返ってきただけだ」
爺さんは網針を道具箱へ放り込んだ。
音は軽かった。
秘密の道具でも、珍しい品でもない。
ただ、貸した物が別の場所で使われ、別の人の手で戻ってきた。
昨日俺たちが運んだ網糸も、同じように俺たちの見えないところへ入っていった。
男はハナとの値段の話を終え、干し魚四枚だけを置いていった。
残り二枚は高いと言われて持ち帰るらしい。
ティムが男の背中を見送る。
「セラじゃなくても、網糸のこと分かる人いるんだな」
「そりゃいるだろ」
「分かってたけど、見ると違う」
俺も同じだった。
北入り江は、セラ一人の向こう側じゃない。
でも、何人いるのかはまだ知らない。
網小屋がどこにあるのかも知らない。
分かったのは、昨日の二束が届いたこと。
借りた網針が戻ってきたこと。
それだけだ。
俺は三つ目の魚箱へ戻った。
底の鱗は、さっきより乾いて剥がしにくくなっていた。
ティムが木べらを拾う。
「先にこれ終わらせよ」
「落としたのお前だからな」
「網糸の返事来たから」
「木べら落とす理由にはならない」
港では、知らない場所の返事が来ても、魚箱は勝手にきれいにならなかった。
第347話 二台目の荷車は、俺たちが起きる前に出ていた
【本文】
その夜は、窓の隙間の音で一度目が覚めた。
風が細く鳴っていた。
寒い。
布団の中で肩を縮めて、そのままもう一度寝た。
次に起きた時には、外が薄く白かった。
雪じゃない。
屋根と板の端に霜がついている。
俺は顔を洗ってから西倉へ向かった。
途中でティムが焼いた薄いパンを一枚くわえて追いついてくる。
「今日、道固いかな」
「見ないと分からない」
「言うようになったなあ」
「誰のせいだよ」
「海?」
「お前」
西倉の角を曲がった。
俺たちは二人とも止まった。
荷車がない。
昨日まで壁脇にあった、北塩場の二台目。
空いた場所に、霜の切れた四角い跡だけが残っている。
ティムがパンを口から外した。
「……ない」
「ないな」
「盗まれた?」
「誰が塩場の空荷車盗むんだよ」
「車輪だけ欲しい人とか」
「朝から発想が悪い」
俺たちは跡へ近づいた。
車輪の痕が倉前から北坂へ続いている。
新しい。
霜を割っている。
そこへマルクが縄束を肩に掛けて歩いてきた。
俺たちの顔を見る。
「荷車なら出たぞ」
ティムがすぐ振り向いた。
「いつ?」
「暗いうち」
「起こしてよ」
「何で」
「見たかった」
「返す側は、お前に見せるために来てない」
ティムが黙った。
俺も少し黙った。
正しい。
正しいけれど、見たかった。
「誰が来たの?」
俺が聞く。
「塩場の女御者。名前は聞いてない。馬一頭。坂下で土踏んで、行けるって自分で決めた。荷車の輪も見て、そのまま出た」
「ガルじゃないんだ」
「ガルが全部やるわけじゃない」
また一つ、当たり前のことを見せられる。
北塩場はガル一人で動いているわけじゃない。
北入り江がセラ一人で動いていないのと同じだ。
ティムは北坂へ伸びた轍をしゃがんで見る。
「ここ、昨日より浅くない?」
俺も横へしゃがむ。
倉前の土は固い。
車輪の跡は薄い。
少し先の日陰だけ、茶色い泥が縁に寄っている。
「ここだけ見ても途中分からないだろ」
俺が言う。
ティムが鼻を鳴らす。
「言おうと思ってた」
「絶対嘘」
マルクが俺たちの後ろで言った。
「見るのはいいが、踏むな。今ついた跡消すぞ」
二人とも足を引いた。
荷車がなくなった場所は、思ったより広かった。
昨日までは車輪が二つあるだけで狭く感じたのに、空くと魚籠が四つ置ける。
マルクは本当に四つ置いた。
「そこ使うの?」
ティムが聞く。
「空いてるからな」
「塩場の場所じゃなかった?」
「荷車置いてる間だけだ」
場所にも持ち主みたいなものがあると思っていたけれど、仕事が終わればすぐ別の仕事に戻る。
昼前、風が少し弱くなった。
霜はとっくに消えている。
俺たちは魚籠へ細い網をかけて乾かしていた。
ティムが一つ裏返したところで、北坂から鈴の音がした。
小さい荷馬が一頭下りてくる。
背に塩袋を二つ。
引いているのは、見たことのある塩売りの男だった。
何度か鴎泊へ来ている。
名前までは知らない。
マルクが手を上げる。
「道どうだった」
男は荷馬を止めずに答えた。
「朝は固かった。今はもう嫌だな」
「空荷車、上がったか」
「上がった。俺が出る時、塩場の柵の中に入ってた」
ティムが俺の腕を軽く叩いた。
確認できた。
二台目も北塩場へ着いた。
でも男は続ける。
「あの女、途中で一回止めてたぞ。日陰の泥が残ってた。明日同じかは知らん」
マルクが頷く。
「分かった」
それだけだった。
成功の報告会はない。
通れた理由を全員で分析もしない。
男は塩袋を食堂裏へ運び始める。
ティムが小声で言った。
「終わったな」
「何が」
「荷車」
俺は西倉脇を見る。
魚籠が四つ並んでいる。
確かに、二台とももういない。
何日も置かれて、朝の道を見て、一台ずつ戻っていった。
俺たちが押した日もあった。
何もしなかった日もあった。
最後の一台は、俺たちが寝ている間に出た。
「ちょっと悔しい?」
ティムが聞く。
「何が」
「見てないところで終わったの」
少し考える。
「ちょっと」
「だよな」
「でも、そっちの方が普通なんだろうな」
俺がいないと進まない世界より、たぶん面白い。
そう言いかけて、やめた。
言葉にすると急に格好つけてる感じがする。
代わりに魚籠を持ち上げる。
「これ、次どこ」
「東の壁」
ティムも反対側を持った。
「じゃあ運ぶか」
荷車が消えた場所には、もう別の仕事が入っていた。
第348話 破れた網には、知らない黒縄が一本だけ残っていた
【本文】
荷車が二台とも北へ戻った日の午後、空いた西倉脇に大きな網が広がった。
朝まで荷車があった場所だ。
今度は濡れた網が半分、乾いた石の上を占領している。
運んできたのは北側から回ってきた低い小舟だった。
セラの舟かどうかは分からない。
昨日石浜へ来た舟とも違う。
船頭が二人。
片方は網の端を肩に掛けたまま、港へ上がってくるなり網直しの爺さんを呼んだ。
「見てくれ。二か所やられた」
爺さんは昼飯の途中だった。
口の中のものを飲み込んでから立つ。
「昨日の糸の網か」
「違う。これは前から使ってる方」
昨日届けた網糸二束とは別件だった。
それだけで、少し安心した自分がいる。
俺たちは何も作っていないのに。
「二人、手ぇ空いてるか」
爺さんが俺とティムを見る。
ちょうど空箱を積み終えたところだった。
ティムが頷く。
「何する?」
「広げる。踏むな。引っ張りすぎるな。分からなかったら止まれ」
「最後のだけ最近よく言われる」
「言われるだけのことしてるんだろ」
反論できない。
網は見た目より重かった。
水を含んでいる。
魚の匂いと海草の匂いが混ざって、手にぬるい感触が残る。
俺とティムが端を持ち、爺さんと船頭が反対を開く。
途中で小さな蟹が一匹落ちた。
ティムがすぐしゃがむ。
「生きてる」
「網先」
爺さんが言う。
「いや、これ踏むだろ」
ティムは蟹をつまもうとして、指を挟まれた。
「痛っ」
俺は笑った。
「助けた相手にやられてる」
「こいつ恩ない」
船頭の一人が足先で小さな桶を寄せた。
「海へ戻すならそこ入れろ。指は自分で守れ」
ティムは蟹を桶へ落とし、赤くなった指を振った。
網を全部広げる。
破れは二か所。
一つは拳二つ分くらい。
もう一つは、それより長い。
網目が切れているだけじゃなく、何本かが引き伸ばされて細くなっていた。
爺さんがしゃがむ。
「引っ掛けたな」
船頭が頷く。
「引いた時だけ急に重くなった。止めたら抜けた」
「岩か」
「分からん。底取る場所じゃなかった」
ティムがすぐ反応する。
「じゃあ何?」
船頭がティムを見る。
「分からんから持ってきた」
俺は口を閉じた。
さっき聞こうとしたことを先に言われた気がする。
爺さんが長い方の裂け目を指でたどる。
途中で手が止まった。
網目の間に、黒いものが絡んでいる。
海草じゃない。
縄だ。
短い。
俺の手のひらから肘までないくらい。
濡れて黒く見えるだけかと思ったけれど、表面に黒い樹脂みたいなものが染みている。
爺さんが無理に引かず、網目を二つ外してから取り出した。
「お前らのか」
船頭二人が同時に首を振る。
「違う」
「うちの舟にもこの太さはない」
ティムが近づく。
「昔の網?」
「網糸じゃないな」
爺さんは黒縄を指の間で曲げる。
硬い。
完全には固まっていない。
「舟の綱?」
俺が聞く。
「かもしれん。何か括ってた縄かもしれん。切れ端だけじゃ分からん」
「古い?」
「新しくは見えん」
「どのくらい古い?」
爺さんが俺を見る。
「そこまで知りたきゃ縄に聞け」
ティムが笑った。
「レン、最近物に聞けって言われすぎ」
「俺が聞いてるわけじゃない」
「今聞いただろ」
話がずれる。
爺さんは縄を鼻へ近づけるでもなく、舐めるでもなく、ただ表面を布で押した。
黒いものは少し布へつく。
「樹脂か、油混じりか。これも今は分からん」
船頭が裂けた網を見ている。
「これが引っ掛かって切れた?」
「逆かもしれん。網が何かへ掛かって、その時この縄も拾っただけかもしれん」
「じゃあ原因じゃない?」
ティムが聞く。
爺さんは肩を上げた。
「分からんものを原因にすると、次から全部そいつのせいになる」
俺は黒縄を見る。
ただの切れ端。
でも、俺たちの物じゃない。
船頭たちの物でもない。
どこから来たかは分からない。
「どこで引っ掛けたの?」
俺が聞く。
船頭は港の北側を顎で示した。
「入り江の外。岬を出て、まだ沖へ出る前」
「石浜の近く?」
「近いって言えば近い。舟で見たら別だ」
また、距離の答えが曖昧だ。
「見に行く?」
ティムが言った。
俺も同じことを考えていた。
爺さんが黒縄を持ったまま俺たちを見る。
「誰が」
「……俺たち?」
ティムが少し弱くなる。
「何の仕事で」
今度は俺が黙った。
船頭が笑う。
「網直す仕事なら、今ここにあるぞ」
そうだった。
海の底を見に行く仕事はない。
破れた網を広げる仕事はある。
爺さんが裂け目の周りを指で分けた。
「細い糸持ってこい。昨日届いたやつじゃない。こっちの箱の古い方」
ティムが一歩動いて止まる。
「どの箱?」
「青い蓋」
「青、二つある」
爺さんが顔を上げる。
「右」
ティムが右を見る。
俺も見る。
二人の右が違った。
「爺さんから見て右!」
船頭が笑い出した。
俺は青い蓋の箱を一つ持ち上げる。
違った。
「それ針だ」
爺さんが言う。
「こっちか」
結局ティムがもう一つを持ってきた。
格好がつかない。
修理そのものは爺さんがやる。
俺たちは網をずらし、濡れた部分を持ち上げ、必要なところだけ張る。
黒縄の正体は、その間ずっと分からないままだった。
夕方、爺さんは切れ端を捨てなかった。
小さな木札へ炭で『北の網』とだけ書き、道具棚の脇へぶら下げる。
「取っとくの?」
ティムが聞く。
「持ち主分かるかもしれん。分からなきゃ、そのうち捨てる」
「調べない?」
「誰が金払う」
現実的だった。
船頭たちは直した網を畳み、暗くなる前に小舟へ戻していく。
黒縄だけが港に残った。
俺は一度だけそれを見る。
北入り江へ行く仕事は、まだない。
海の底を探す仕事もない。
それでも、俺たちが見に行かなくても、知らないものが一つだけ向こうから来た。
ティムが俺の肩を軽く押す。
「見すぎ」
「見てただけ」
「それ、俺が言うと怒られるやつ」
「俺も怒られてるだろ」
二人で道具箱を片づける。
西倉脇では、朝まで荷車があった場所に、今は直した網が乾いていた。
第349話 黒縄は、三人目が見ても名前を持たなかった
【本文】
翌朝、黒縄はまだ道具棚の脇にぶら下がっていた。
昨日と同じ木札。
『北の網』。
それ以上は増えていない。
俺が朝飯の豆を噛みながら見ていると、ティムが隣で包帯を巻き直していた。
昨日、蟹に挟まれた指だ。
「まだ痛いの?」
「押すと痛い。けど、押さないと治ったか分かんないだろ」
「痛いならまだ治ってないだろ。朝から自分で悪化させるなよ」
ティムは納得していない顔で、もう一度だけ指先を押した。
「……やっぱ痛い」
「確認できてよかったな。次は押さずに確認する方法を考えろ」
食堂の方からハナが笑った。
「朝から何の実験してるの」
「治癒確認」
「豆食べてからにしな」
ティムは包帯を結び直し、ようやく匙を持った。
黒縄は誰にも見られないまま、午前の途中までそこにあった。
見に来た人がいたのは、網の持ち主でも、昨日の船頭でもなかった。
港へ小さな油壺を二つ下ろしに来た年配の男だった。
顔は見たことがある気がする。
名前は知らない。
網直しの爺さんとは知り合いらしく、油壺を置くなり道具棚の前で立ち止まった。
「何だ、それ。新しい縄にしちゃ、ずいぶん汚れてるな」
爺さんが顔も上げずに答える。
「北の網から出た。網糸じゃないところまでは昨日分かった」
男は勝手に触らなかった。
爺さんが木札ごと外して渡す。
俺は少し離れたところで魚籠の底を洗っていた。
ティムは俺より露骨だった。
手は魚籠にあるのに、顔だけ完全にそっちを向いている。
男は黒縄を曲げ、切れた端を親指で広げた。
外側の黒い膜の中から、濡れた薄茶色の繊維が少し見える。
「中まで黒くないんだな。外だけ?」
ティムが言うと、男が一度こちらを見る。
「外へ何か塗ってあるだけだ。油か樹脂か、その辺までは切れ端だけじゃ決められん」
早かった。
ティムの質問より返事の方が早い。
男は指先についた黒いものを布へこすった。
「油混じりの何かだろ。樹脂かもしれん。舟でも網具でも、濡らしたくないところには似たようなことする」
俺は魚籠を置いて、少しだけ近づいた。
「じゃあ、黒い縄そのものは珍しくない?」
「黒いことも、このくらいの太さもな。舟の小物でも籠でも使う」
俺は切れ端を見ながら、もう一つ聞いた。
「編み方で持ち主とか分からない?」
男が俺を見る。
今度は少し長かった。
「お前、どこか一個見れば答えが一個になると思ってるだろ。そんな便利な縄なら俺も欲しい」
言われて、口が止まる。
ティムが笑う。
「最近それ多いな、レン」
「お前も聞いてるだろ」
「俺は最初から雑に聞いてる」
自慢することじゃない。
男は縄をもう一度曲げた。
「舟の小物を括る。籠を沈める。石を結ぶ。岸で何か縛る。濡れる場所なら、いくらでも使い道はある。これだけじゃ持ち主なんか分からん」
爺さんが聞いた。
「お前んとこでは使ってないか」
「似たのはある。これは知らん」
それで終わった。
男は黒縄を返し、油壺の勘定の話へ移った。
値段の話になった途端、さっきまで縄を見ていた顔が消える。
爺さんも同じだった。
「先月より高いぞ」
「風悪くて回ってこないんだよ」
「壺まで小さくなってる」
「壺は前と同じだ」
「俺の目が悪いって言うのか」
「縄の持ち主より壺の大きさの方が分かるんだな」
二人とも少し笑った。
ティムが俺の肩へ寄る。
「三人目」
「何が」
「黒縄見た人」
「爺さんと船頭入れたらもっといるだろ」
「じゃあ何人目でもいい。誰も分からん」
俺は棚へ戻された黒縄を見る。
分からないことが増えたわけじゃない。
むしろ一つ減った気がした。
黒い縄だから特別なんじゃない。
黒くすること自体は、濡れる仕事では珍しくない。
その先が分からない。
「残念?」
ティムが聞く。
「ちょっとな。でも、変なものって決まったわけじゃない」
「俺も残念。普通じゃない方が面白かった」
ティムは本気で言っている。
爺さんが聞こえていたらしい。
「残念がるな。普通の縄だったら普通に持ち主へ返せる」
「持ち主分かればね」
「分からなきゃ、そのうち捨てる」
昨日と同じ答えだった。
黒縄には、結局新しい名前がつかなかった。
ただ、外側だけ黒くて、中は普通の色をしている。
それだけが増えた。
午後、俺たちは油壺を倉へ運んだ。
片方の蓋が少し緩くて、ティムの袖に一滴だけ落ちた。
「最悪」
「昨日から油に好かれてるな」
「俺、網になった次は壺になるの?」
「喋る壺はもっと嫌だ」
黒縄より、そっちの匂いの方がしばらく気になった。
第350話 北へ行く荷物は、網でも謎でもなかった
【本文】
昼を過ぎた頃、昨日の干し魚の男がまた来た。
今度は売り物を背負っていなかった。
代わりに、空の背負い籠を二つ重ねて持っている。
ティムが先に気づく。
「昨日の人。また来た」
男も俺たちを見て、少しだけ眉を上げた。
「魚箱洗ってた二人か。名前はまだ聞いてない」
「覚え方そこなんだ」
正しい。
俺たちも聞いていない。
男はそのまま網直しの爺さんのところへ行った。
「向こう、浮きが足りん。割れたの三つ、流したの二つ」
「昨日言え」
「昨日は昨日で足りてた」
爺さんが嫌そうな顔をした。
でも断らない。
棚の下から、乾いた木の浮きを一つずつ出す。
平たい楕円が四つ。
細長いのが二つ。
どれも新品じゃない。
穴の縁が丸く削れている。
「六つ全部持ってくの?」
ティムが聞く。
男が答える。
「向こうで合うの使う。合わんのは戻す」
「どれが合うか、ここじゃ分からない?」
「網がここにない」
また当たり前の壁にぶつかる。
爺さんは浮き六つのほかに、乾いた網糸を一束出した。
昨日俺たちが運んだ新しい二束より、ずっと少ない。
補修用らしい。
男は空籠の一つへ入れようとして、浮きが横へ飛び出した。
一度向きを変える。
今度は糸束が邪魔になる。
「……入らん」
ティムが嬉しそうに言う。
「見れば分かるって言おうとしたけど、やってみたら入るかもしれないと思ったんだろ」
男が籠を睨んだまま答える。
「そういうことにしとけ」
男とティムが同じ種類のことを言っている。
俺は笑いそうになった。
爺さんが紐を一本投げる。
「外へ括れ」
男は浮き二つを籠の外へ縛る。
残り四つ。
「それでも、まだ四つ残ってるけど」
「見れば分かる。今度は俺が先に言う」
ティムが俺の腕を叩く。
「取られた、今の」
何をだ。
そこへマルクが倉から出てきた。
「何してる」
爺さんが浮きを顎で示す。
「北へ戻す。こいつの籠じゃ足りん」
男がすぐ言う。
「風切りの平石まで持ってくれりゃ、向こうから一人上げる。俺は油と塩も持ってく」
俺は『風切りの平石』を知らない。
ティムも知らない顔をした。
マルクは男へ聞く。
「石浜へ下りる分かれより先か」
「先。尾根へ上がる方」
「暗くなる前に戻れる?」
「今出りゃ余る」
マルクは俺たちを見た。
「午後の箱運び、三つ残ってる」
ティムが肩を落とす。
「じゃあ無理?」
「先にやればいいだろ」
「そっち?」
「荷物が待ってるからって、今の仕事が消えるわけじゃない」
俺たちは魚箱三つをいつもより少し速く運んだ。
速くしたせいで、二つ目を置く時にティムの指を挟みかけた。
「待って待って!」
「急ぐからだろ」
「レンも速かったじゃん」
「お前が走るからだよ」
「箱持って走ってない!」
確かに走ってはいない。
マルクに『口より手』と言われて、二人とも黙った。
全部終えた頃には、干し魚の男が油の小壺と塩の包みを自分の籠へ入れ終えていた。
俺とティムは木の浮き二つずつを紐でまとめる。
網糸の束は俺が持つ。
軽い。
ただし浮きは歩くたびに膝へ当たる。
「これ、地味に邪魔」
ティムが言う。
「軽いんだからいいだろ」
「軽い邪魔って一番文句言いづらい」
男が先を歩きながら笑った。
「向こうで魚もらったら黙る」
「魚くれるの?」
「俺は知らん」
「今の言い方ずるくない?」
「期待したのはお前だ」
北坂を上がる。
前に石浜へ向かった時と途中までは同じだった。
俺は分岐が近づくほど、足より先に目が動く。
石浜へ下りた細い道。
あの日、海へ向かって降りたところ。
今日は男がそちらへ行かなかった。
そのまま上へ進む。
ティムが分岐で一度だけ石浜側を見る。
「今日は下じゃないんだ」
男は振り返らない。
「荷物渡すのは上」
「北入り江まで行かない?」
「行かん。向こうから来る」
ティムが俺を見る。
俺も少し残念だった。
でも、今日は北入り江を見るために来たんじゃない。
木の浮きと網糸を渡すために来た。
そう思っていたのに、尾根へ上がる道へ入ると、風の匂いが変わった。
海の匂いが一度薄くなる。
代わりに湿った草と土の匂いが強くなる。
道は石浜への分岐より細い。
荷車の轍はない。
靴の跡だけが、ところどころ固い土へ重なっている。
男が前で言った。
「浮き、膝に当たるだろ」
ティムがすぐ答える。
「めっちゃ当たる」
「帰りは楽だ」
「それだけを楽しみにする」
黒縄のことは、誰も話さなかった。
俺も聞かなかった。
北へ向かっているのに、昨日の謎とは関係がない。
木の浮きは乾いていて、縄も黒くない。
ただの補修道具だった。
なのに俺は、昨日より先へ来ていた。
謎を追ったからじゃない。
誰かの網で使う浮きを運んでいるからだった。
第351話 北入り江は、海より先に煙で見えた
【本文】
風切りの平石は、本当に平たい石だった。
名前を聞いた時、もう少し何かある場所を想像していた。
小屋とか。
目印の柱とか。
せめて積んだ石くらい。
何もない。
尾根の途中に、腰を下ろせるくらい平たい岩が一枚出ているだけだった。
「ここ? 何もないけど」
ティムが聞くと、男は籠を下ろした。
「ここで合ってる。分かりにくくても、分かるやつが来る場所だ」
強い。
俺は浮きを地面へ置いた。
軽かったはずなのに、肩へ掛けた紐の跡が残っている。
網糸の束も横へ置く。
男は自分の籠から水袋を出して一口飲んだ。
「まだ来てないな」
向こうから来る人を待つらしい。
ティムはすぐ辺りを見回した。
俺も見る。
尾根の左は木が多い。
右は低い草と岩。
海は見えない。
「北入り江って、ここからどっち?」
ティムが聞くと、男は水袋の口を閉めながら顎を右へ向けた。
「あっち。ここからは木と岩で見えん」
それだけ。
男は説明を足さない。
俺たちは平石の端へ座った。
風が抜ける。
名前の通りだ。
汗が冷えるくらい風が通る。
ティムが袖口へ鼻を寄せた。
「まだ油くさい」
「昨日こぼしたからだろ」
「この風でも消えないって強くない?」
「お前が洗ってないからだよ」
「洗った」
「水で濡らしただけだろ」
「それを洗うって言う」
男が横から言った。
「言わん」
三対一になった。
ティムは納得していない顔で袖を下ろす。
待っている間、俺は何度か右を見た。
行ってみたい。
昨日までより近い気がする。
でも『あっち』しか分からない。
平石から勝手に降りたら、荷物を受け取る人とすれ違うかもしれない。
それ以前に、仕事を置いて歩き回る理由がない。
「レン、首」
ティムが自分の首を右へ傾けてみせた。
「さっきから、ずっとそっち向いてる」
俺は正面へ戻した。
「お前も見てただろ」
「俺は一回だけ」
「嘘だ」
「三回くらい」
待っている時間は、思ったより短かった。
下の方から石を踏む音がした。
人が一人上がってくる。
小柄な女だった。
年はハナより上に見える。
頭に布を巻き、腰へ空の籠を一つ下げている。
男が立つ。
「六つ。糸一束」
女は息を整えながら浮きを見る。
「細長いの二つある?」
「ある」
「よかった。丸いのだけだったら二つ返すとこだった」
ティムが俺へ小声で言う。
「ここで分かるんだ」
「網ある側の人だからだろ」
昨日の男の答えがつながっただけだ。
網がここにないから、鴎泊では合うか分からない。
使う側まで来れば分かる。
女は浮きの穴を一つずつ指で確かめる。
細長い二つを先に籠へ入れ、平たい四つは紐でまとめ直した。
網糸も押し込む。
「これ、誰が持ってきた」
男が俺たちを見る。
「港の二人」
女が俺とティムへ顔を向ける。
「助かった。下まで持ってく?」
心臓が一度だけ速くなる。
ティムも口を開いた。
でも女が続けた。
「……って言いたいけど、籠一つだし入るな。ここでいい」
ティムの口が閉じた。
俺も何も言わなかった。
女は全部一人で持てる形にまとめた。
「帰るぞ。荷物は渡した」
干し魚の男が言う。
「もう帰るの?」
ティムの声に未練が出た。
男は笑って、空になった紐を指した。
「お前、何しに来たと思ってる」
正しい。
帰ろうと立ち上がった時、風向きが少し変わった。
草の間から、薄い煙の匂いが来た。
焚き火に海草を落とした時みたいな、少し湿った匂い。
俺は右を見る。
女が下りていく方向だ。
平石からは海が見えない。
でも、尾根の先に低い岩が一つ出ている。
男が先に歩き出してから、その脇を通った。
ほんの数歩。
そこで木の隙間が切れた。
青い水が見えた。
大きくない。
外海みたいに開いてもいない。
黒い岩の内側へ、水が細く入り込んでいる。
その向こうに、屋根らしい暗い線が一つ。
もう一つは岩かもしれない。
水際には舟らしい影が見えた。
一艘。
その奥にも黒い形があったけれど、舟なのか、伏せた何かなのかは分からない。
そして、煙が上がっていた。
一本。
家の煙か、魚を乾かしている火か、それも分からない。
「……あれ?」
ティムが止まる。
男も止まった。
「ああ。入り江」
それだけだった。
俺は思わず数歩先へ出そうとして、肩の紐がないことに気づいた。
荷物はもう渡した。
進む理由も、ここにはない。
女は下の道を歩いている。
呼べば追いつけるかもしれない。
でも、呼ぶ用事がない。
ティムが横で小さく言う。
「思ったより……何て言えばいいんだろ」
「知らない」
「俺も」
見えたのに、言葉が出ない。
港というほど大きくは見えない。
村なのかどうかも分からない。
俺たちが見ている範囲が全部なのかも分からない。
ただ、誰かが火を使っている。
舟らしいものがある。
さっきの女が、そこへ下りていく。
それだけで、急に地図の空白じゃなくなった。
「レン、置いてくぞ。帰るぞ」
男が先から呼ぶ。
「はい、今行く」
返事をして歩き出す。
ティムは二歩遅れて、もう一度振り返った。
俺も一度だけ振り返った。
北入り江へは、まだ行っていない。
浜にも下りていない。
何人いるのかも、舟が何艘あるのかも、塩場とつながっているのかも知らない。
でも初めて見えたのは、海より先に生活の煙だった。
帰り道、ティムが言った。
「次、仕事あるかな」
俺は少し考えた。
「あるなら行きたい」
「ないなら?」
「待つ」
「言えるようになったなあ」
「お前は?」
ティムは即答した。
「探したい」
やっぱり同じにはならない。
俺は笑った。
「勝手に作るなよ」
「作らない。見つけるだけ」
その違いが怪しい。
平石から下りる風の音が、しばらく背中についてきた。




