第340話 帰ってきたのは荷車じゃなく、泥だらけの馬だった
【本文】
赤い浮き木を屋根の下へ立て掛けた日の夕方、北坂から蹄の音がした。
車輪の音はしない。
俺は魚箱を洗っていた手を止めた。
隣でティムも顔を上げる。
「一頭?」
坂の上から現れたのは、朝に荷車を引いて出た馬だった。
その背にガルが乗っている。
正確には、乗っているというより、疲れない速さで戻ってきた、という感じだった。
ガルの靴は泥だらけで、馬の脚も膝の下まで色が違う。
でも、荷車はいない。
ティムが濡れた手のまま岸から二歩出た。
「置いてきた?」
ガルは馬を止め、まず手綱を短くした。
それから答える。
「着いた。塩場まで」
胸の奥が少しだけ軽くなった。
朝、坂の上で音が消えてから、無事に着いたかどうかは分からなかった。
追いかけもしなかった。
だから、今やっと結果が戻ってきた。
「じゃあ、通れたんだ」
俺が言うと、ガルは馬から降りながら首を横へ振った。
「またそれか。通れたのは、今日の一台だ」
「あ」
ティムが笑う。
「レン、二回目」
「分かってるよ。今のは言い方」
「顔が一回目だった」
ガルは俺たちを放って、馬の前脚を一本ずつ見る。
蹄の縁に詰まった泥を小さい木べらで落とした。
「浅泥は朝より悪くなった。空だったから抜けた。荷があったら戻ってる。二台目は今日は出さない」
「明日は?」
ティムが聞く。
ガルは馬の蹄を持ったまま、顔だけ上げた。
「今夜が冷えたら考える。冷えなきゃ置く」
「ずっと?」
「置けるなら置く。荷車は歩いて帰りたがらん」
ティムが真顔で荷車の方を見る。
「喋る車輪の次は、歩きたくない荷車か」
「お前、そこだけ拾うな」
ガルがやっと笑った。
ハナが倉の横から出てきた。
手には布巾と、半分だけ皮をむいた小さな根菜を持っている。
「着いたの?」
「一台だけな」
ガルの答えを聞くと、ハナは馬の脚を見た。
「先に水いる?」
「こいつに。俺はあとでいい」
「人より馬?」
「人は自分で言える」
「さっきからかなり言ってるけど」
ハナはそう言いながら、桶の方へ向かった。
俺はガルの馬を見た。
汗はもうほとんど引いている。
毛の先に細かい白い粉がついているところがあった。
「塩?」
指を伸ばしかけて、止める。
ガルがこっちを見た。
「何だ」
「いや。白いの」
「汗が乾いたんだろ。塩場の粉もあるかもしれん。舐めるなよ」
「舐めないよ」
後ろでティムが吹き出した。
「何でレンだけ先に言われるんだろうな」
「お前は言わなくても舐めそうだから、逆に止める気なくす」
「ひどくない?」
ハナが桶を置きながら言った。
「二人ともやめて。馬が一番まともに見えてくる」
馬は何も知らない顔で水を飲んだ。
ガルは西倉脇に残った一台を見に行く。
俺とティムも少し後ろからついていった。
朝に動かさなかった方。
右の輪が少し低い音をした荷車だ。
ガルは輪を蹴らなかった。
手で押して、板との隙間を見て、軸の根元へ指を当てる。
「朝より悪い?」
俺が聞く。
「変わらん。置いてあるからな」
「じゃあ、明日道が良ければこれ?」
「道が良くて、馬が出せて、俺が来ればな」
ティムが指を一本ずつ折る。
「三つ?」
「もっとある」
「言わなくていい。増えそう」
ガルは鼻で笑った。
荷車の下に、乾いた海藻の欠片が一枚入り込んでいた。
ティムが足で掻き出そうとして、逆に奥へ押し込む。
「あ」
俺が見る。
ティムが止まる。
「今の見た?」
「見た」
「忘れて」
「無理」
ガルは荷車の下を覗きもしなかった。
「それ、明日の出発条件に入れなくていいからな」
「入れないよ!」
「でも取れ」
結局ティムはしゃがんで、指先を汚しながら海藻を拾った。
その間にマルクが来た。
「一台は向こうか」
「ああ。塩場の柵内へ入れた。今日はもう動かさん。明日もこっちの一台は、朝見てからだ」
「分かった。置き賃は?」
ガルが一瞬黙る。
俺もティムも黙った。
そこは俺たちの話じゃない。
「二晩目から払う。昨日の分は荷下ろしの手伝いで相殺って話だったろ」
「ああ。なら今日までだな」
マルクはそれだけ確認して、魚箱の方へ戻った。
ティムが小声で言う。
「荷車にも宿代あるんだ」
「場所取ってるからな」
俺も西倉脇を見る。
一台分の空間。
その分、魚籠は別へ寄せる。
人が通る線も少し変わる。
ただ置いてあるだけでも、何もしていないわけじゃない。
夕方の風が少し冷たくなった。
俺は北坂を見た。
今日、あの先まで一台は戻った。
でも、残る一台が明日戻るとは決まっていない。
馬なら通れた。
空荷なら通れた。
朝なら通れた。
言葉にすると、全部似ている。
実際には、全部違う。
ティムが拾った海藻を、どこへ捨てるか迷ったまま俺へ見せる。
「これ、魚籠の方?」
「知らない。ハナに聞け」
「お前、最近すぐ“知らない”って言うな」
「分からないのに知ってる顔するよりいいだろ」
ティムは少し考えてから、頷いた。
「それはそう。でも、たまには知っててほしい」
「海藻の捨て場くらい自分で覚えろよ」
俺たちは言い合いながら倉を離れた。
北から戻ってきたのは、荷車じゃなかった。
泥だらけの馬と、今日の道が今日だけの道だったという結果だけだった。
第341話 赤い浮きは、俺たちが見ていない間に半分直っていた
【本文】
次の朝、港へ出ると、赤い浮き木が屋根の下から消えていた。
俺は一度、壁を見る。
ない。
昨日まで立て掛けてあった赤い丸太二本がない。
「ティム」
呼ぶと、魚籠の向こうから返事がした。
「何ー?」
「赤いのない」
ティムが顔を出す。
口に細い干し魚の尻尾をくわえていた。
「食ってる?」
「違う。持ってるだけ」
「口で?」
「両手ふさがってたから」
両手には空の籠を一つずつ持っている。
ハナが後ろから来て、干し魚を抜いた。
「売り物じゃないけど、そういう持ち方やめて」
「だから食ってないって」
「歯形ついてる」
「固定しただけ」
朝からどうでもいい争いをしている間に、港口から小舟が戻ってきた。
ボルと、網直しをしている年寄りが乗っている。
舟の横には赤い浮き木。
でも昨日と違って、その下から新しい縄が水へ落ちていた。
「直った?」
俺が岸まで行くと、ボルはすぐに答えなかった。
舟を寄せる。
爺さんが先に上がる。
赤浮きの縄を杭へ一度かけてから、やっとボルが言った。
「半分な」
ティムも来た。
「半分浮くの?」
「浮くか沈むかの話じゃない」
ボルは舟の底から、濡れた縄を一つ持ち上げた。
短い。
片方の端が毛羽立っている。
昨日、赤浮き側についていた切れ端と似ている。
「下の方?」
俺が聞く。
「錨石についてた方。潮が引いた時に端が浅く出たから、鉤で拾えた」
「潜ってない?」
「潜ってない」
ティムの肩が少し落ちた。
ボルが見逃さなかった。
「何でまだ残念そうなんだ」
「別に」
「海の底見たい顔してる」
「顔で分かる?」
「お前はな」
俺は濡れた縄の端を見る。
両方とも、刃物で切ったみたいに揃ってはいない。
繊維がほどけている。
一面だけ黒っぽく潰れているところもあった。
「擦れた?」
今度は断定しないように聞いた。
ボルは縄を指で曲げる。
黒いところが少し硬い。
「擦れはある。古いのもある。どっちが先かは知らん」
「石に?」
「かもしれん」
「錨石?」
「かもしれん」
ティムが俺を見る。
「二回とも“かもしれん”」
「俺じゃないだろ」
「感染した」
ボルは俺たちを無視して、昨日の赤浮き側の切れ端も持ってくる。
二つを並べる。
毛羽立ちの向き。
黒く潰れたところ。
太さ。
「ここが同じ場所?」
俺は指を近づけるだけにした。
「だいたいな。一本の縄だったなら、間が切れて二つになった」
「じゃあ原因分かった?」
ティムが聞く。
ボルは首を横へ振る。
「切れた場所が分かったのと、切れた理由が分かったのは別だ。石に擦れたのか、長く使って弱ってたのか、両方か。海の底の掛かり方見てない」
「見る?」
ティムが聞くのが早い。
「今日は見ない」
「今日も?」
「今日も」
爺さんが横で笑った。
「こいつ、海の底に何置いてきたんだ」
「好奇心」
俺が言う。
ティムがこっちを見る。
「レンもだろ」
「俺は今、縄見てる」
「言い方変えただけじゃん」
ボルは新しい縄を引いた。
新品ではない。
でも昨日切れたものより色が揃っている。
魚網に使う太い綱よりは細い。
「全部替えるの?」
「上だけ。下はまだ使えるところ残ってる。今日拾えた端にこれ繋いで、浮きまで替えた」
「結んだ?」
俺が言うと、ボルが少し嫌な顔をした。
「お前、昨日自分でほどける結び作っただろ」
「見るだけ」
「見るだけなら岸で見ろ」
爺さんがまた笑う。
「若いのは見て覚える気になる。覚えた気になるのはもっと早い」
「ならないよ」
言った直後、昨日直された結び目を頭の中で思い出そうとした。
途中までしか出てこない。
ティムが俺の顔を見た。
「今、思い出してた?」
「……少し」
「ほら」
腹が立つ。
赤浮きはまだ港内につないである。
「じゃあ、もう戻すの?」
「潮が止まる頃に。今は外へ引くと面倒だ」
「俺たちも行く?」
ティムが聞く。
ボルが俺とティムを順番に見た。
「今日は来なくていい」
ティムの顔が分かりやすく落ちる。
「何で」
「二人乗せる場所あったら、替え縄もう一束積む」
「昨日は乗れた」
「昨日は回収。今日は置く。やることが違う」
そこでマルクの声が後ろから飛んだ。
「二人とも魚干し場の箱、まだ半分だぞ」
ティムが空を見た。
「世界って、仕事多すぎない?」
「お前が増やしてる」
俺は言いながら戻る。
本当は見たかった。
新しい縄をどうやって下の縄へつなぐのか。
浮きをどのくらい離すのか。
潮が止まるって、どの瞬間なのか。
でも、それを見るために俺の仕事を消すわけにもいかない。
午前の終わり頃、魚箱を運んでいたら、ティムが急に肘で俺をつついた。
「戻ってる」
湾口を見る。
赤い点があった。
外石の北。
昨日まで見慣れていた場所に、赤い浮き木がまた上下している。
俺たちが見ていない間に戻っていた。
「いつ行った?」
「知らない」
「見逃した」
「仕事してたからな」
少し悔しい。
でも、変な感じでもあった。
俺たちが見ていなくても、港は直る。
ボルたちが潮を見て、舟を出して、縄をつないで、浮きを戻した。
俺たちがいなくても進む仕事だった。
当たり前のことなのに、それがちょっと面白かった。
ハナが干し魚の籠を持って横を通る。
俺たちが海を見ているのに気づいた。
「戻ったね」
「見たかった」
ティムが言う。
ハナは足を止めずに返した。
「明日も海あるよ」
「そういう話じゃないんだけど」
「じゃあ箱運んで」
強い。
俺は赤い浮きをもう一度だけ見た。
切れた理由は、まだ全部分からない。
下の石も見ていない。
でも、赤い点は海へ戻った。
分からないままでも、直せるところから直ることはあるらしい。
第342話 赤い浮きが戻った日に、石浜を使わない舟が来た
【本文】
赤い浮きが戻ったのは朝だった。
昼過ぎ、その赤を一度見てから、湾へ入ってくる舟があった。
知らない舟だ。
大きくない。
帆は一枚。
白ではなく、何度も継いだ灰色に近い布だった。
「初めて見る」
ティムが俺の横で言う。
俺は頷く。
舟はまっすぐ港へ来なかった。
赤浮きの少し外で一度向きを変え、外石との間を見てから入ってくる。
昨日まで赤い目印がなかった場所だ。
岸へ寄る前、船頭がボルへ声を飛ばした。
「赤、戻したんだな!」
ボルは縄束をほどきながら手だけ上げた。
「今朝だ!」
それで会話が終わった。
俺は舟の方を見る。
船頭は四十くらい。
もう一人、客らしい男が乗っている。
客は膝の上に小さな背負い籠を置き、布で包んだ長い棒を抱えていた。
槍ほど長くない。
杖より太い。
ティムが小声で言う。
「何あれ」
「知らない」
「聞く?」
「仕事なら向こうから言うだろ」
ティムが俺を見る。
「最近ほんとに待つな」
「お前が先に聞きすぎるんだよ」
舟が着く。
船頭は最初に客を降ろさず、舟の鼻を杭へ寄せてから縄を投げた。
ボルが受ける。
客の男が立とうとすると、船頭が肩を押した。
「まだ。揺れてる」
「昨日の若いのはここで立ったぞ」
「そいつ昨日の若いのじゃないだろ」
「俺の方が歳は上だ」
「だから何だ」
俺とティムは顔を見合わせた。
どこでも同じような会話はあるらしい。
舟が落ち着いてから、男は降りた。
背負い籠を先に岸へ置き、長い包みを手渡してもらう。
ハナが近くを通りながら、男の濡れた裾を見る。
「北から?」
男は靴を石へこすりながら答えた。
「岬の向こう。石浜で降りるつもりだった」
俺とティムの視線が同時に動いた。
男は気づかない。
船頭が代わりに笑った。
「無理だった。横から波入ってた」
「朝はそんなに荒れてなかったけど」
俺が思わず言うと、船頭は俺を見る。
「ここはな」
短い返事だった。
それから海の北側を顎で示す。
「岬越えると当たり方変わる。石浜の前だけ白く割れてた。寄せて舟底やるほどの用じゃないから、こっちへ回った」
ティムが口を開く。
「じゃあ石浜――」
俺は肘で軽く止めた。
ティムが俺を見る。
「何」
「質問三つくらい一気に出そうだった」
「二つ」
「顔が三つ」
「顔で数えるな」
客の男が笑った。
「石浜が気になるのか?」
「ちょっと」
ティムが正直に答える。
俺も否定しなかった。
男は長い包みを肩へ乗せ直した。
「ただの浜だぞ」
「昨日初めて見たんです」
俺が言うと、男は「ああ」とだけ言った。
それ以上説明しない。
こっちも聞かなかった。
代わりにマルクが来た。
「泊まりか、通りか」
客の男が答える。
「通り。北道を少し戻る。日が落ちる前には出る」
「荷はそれだけ?」
「これと籠」
「なら倉は使わないな」
「使わん」
仕事の話は短い。
ティムは長い包みが気になるらしく、見ている。
男が気づいた。
「網の枠だ」
「あ、武器じゃないんだ」
「何で武器だと思った」
「細長いから」
「細長い物を全部武器にしたら、港は戦場になるぞ」
ボルが横から言った。
「鉤棒も槍になるな」
ティムが昨日の鉤棒を思い出したのか、少し嬉しそうな顔をする。
「強そう」
「人に向けたら海へ捨てる」
「俺を?」
「棒をだ」
「よかった」
男は笑いながら背負い籠を持ち上げた。
中から、石みたいな丸いものが二つ転がって音を立てる。
ティムが見る。
「今の何?」
男は籠の中を覗いた。
「網の重り」
「やっぱり武器じゃない」
「まだ言ってたのか」
会話が本筋から外れている。
でも、そのくらいでいい気もした。
船頭は舟に残ったまま、ボルと水の話をしている。
小さな革袋一つ分だけ足したいらしい。
井戸の家へ行くほどでもない量で、ボルが自分の水甕から分けるかどうかを話していた。
俺は赤浮きを見る。
船頭は湾へ入る前、あれを見た。
「昨日、赤いのなかったよね」
俺が聞くと、船頭はこっちを向いた。
「ああ。昼前に沖通った。ないから外石の北を広く回った」
「なくても入れる?」
「昼ならな。知ってるやつなら」
少し間を置く。
「でも、風悪い時と暗い時は嫌だ。赤がある方が楽だ」
それだけ。
船頭が海図を広げたわけでも、誰かが決めた決まりを読み上げたわけでもない。
あると、知っている人が少し楽になる。
ないと、少し遠くを回る。
赤浮きの意味が、昨日より一段だけ分かった気がした。
ティムが客の男へ聞く。
「石浜、今日使えないなら明日は?」
男は肩をすくめた。
「明日の海に聞け」
ティムが俺を見る。
「またそれ系」
「何が」
「道も海も、答え明日に回す」
男は笑った。
「毎日同じなら、こっちも仕事楽なんだけどな」
そう言って、北坂へ向かう。
俺はその背中を見た。
石浜で降りるはずだった人が、今日は鴎泊へ来た。
石浜が使えなかったからだ。
昨日は寄れる日だった。
今日は寄れない日だった。
そして、使えない時には別の場所へ回る人もいる。
地図に線を一本引くより、ずっと面倒だ。
でも、その面倒さの方が本物っぽい。
ティムが隣で言った。
「今なら石浜、誰もいないかな」
「行かないぞ」
「言ってみただけ」
「昨日の俺みたいなこと言うな」
「昨日のレンより早く諦めた」
「競うところじゃない」
船頭が水を受け取り、舟を出す準備を始める。
客はもう北坂の途中だ。
赤い浮きは湾口で上下している。
俺たちが昨日見つけた石浜は、今日は使われなかった。
それでも、そのせいで知らない舟と人が鴎泊へ来た。
場所そのものが動かなくても、条件が変われば人の流れは変わる。
その流れの方から、次の知らないものが来ることもある。
俺は少しだけ笑った。
見に行かなくても、世界の方から続きを持ってくる日がある。
第343話 今日の石浜は使えた。それだけだった
【本文】
次の朝も、西倉の脇には北塩場の荷車が一台残っていた。
夜は冷えた。でも、ガルは来なかった。北の道が固まったのか、馬を出せるのか、向こうで誰かが見に行ったのか。こっちにはまだ何も返ってきていない。
だから俺たちも、荷車の前で待つ仕事はしなかった。
朝一番の仕事は、昨日使った濡れた綱を干す場所を空けることと、魚箱を三つ洗うことだった。
「三つって言った?」
ティムが二つ目を洗い終えたところで聞いた。
「言った」
「四つあるけど」
「一個は昨日からそこにあったやつ」
「じゃあ洗わなくていい?」
近くで干し網を返していたマルクが、こっちを見もしないで言った。
「汚れてるなら洗え」
「数を聞いた意味ないじゃん」
「お前が汚れを数に合わせるならある」
ティムは不満そうに四つ目へ水をかけた。
その時、北坂から人が下りてきた。
船からじゃない。
道からだ。
背の低い女で、肩から浅い籠を下げている。靴の先と裾だけが濡れていて、海へ落ちた感じではない。歩いたまま濡れたものが乾きかけている色だった。
女は港へ入って最初に船も魚も見なかった。
「湯、ある?」
ハナが振り返る。
「飲む方?」
「足を入れる方」
「それは桶」
「じゃあ桶」
ハナは笑って、洗い場の脇にある小さい桶を顎で示した。
女はそこまで行くと、籠を置いて靴を脱いだ。靴下みたいな薄布まで濡れていて、絞ると水が細く落ちる。
ティムが俺へ小声で言う。
「海から来た?」
「道から来ただろ」
「そういう意味じゃなくて」
女は聞こえていたらしい。
「石浜から歩いてきた」
俺とティムの手が、ほとんど同時に止まった。
女はそれを見て眉を上げた。
「何。石浜、珍しい?」
「俺たちには」
俺が答える。
「昨日、海から初めて見た」
「ああ。じゃあ、まだ平らな石しか知らないやつだ」
ティムがすぐ食いつく。
「他に何あるの?」
「坂」
「それだけ?」
「足に聞け」
女は濡れた足を桶へ入れた。
熱いわけではない。ただの井戸水に朝の湯を少し足したくらいらしいのに、顔が少し緩む。
ハナが籠を覗く。
「売り物?」
「干し貝。昨日の夜に入り江で上げたやつ。朝の舟で石浜まで。舟はそのまま岬の向こうへ行った」
北入り江。
言葉だけなら、もう何度か聞いている。
でも女は「北入り江の全体図」を説明しなかった。ハナも聞かない。
干し貝を一つ取り、匂いを嗅ぎ、指で硬さを確かめる。
「これ、全部?」
「半分は売る。半分は向こうで頼まれてる」
「じゃあ値段はあとで」
「先に何か食べさせて。朝、舟で一個食べただけ」
「何を?」
「干し貝」
「商品食べたの?」
「一個くらい減っても海は怒らない」
ティムが真顔で言った。
「それ、俺も使っていい?」
ハナが即答する。
「駄目」
女が笑った。
俺もつられて笑った。
石浜の話を聞きたい。
今朝はどのくらい波があったのか。どこへ舟をつけたのか。あの草の切れ目は道なのか。
でも女は腹が減っていて、足が濡れていた。
今はそっちの方が本人には大事だった。
魚箱を洗い終えた頃、女は豆の粥を一杯食べていた。
名前はセラ。
北入り江の近くに住んでいて、貝を干したり、舟に乗ったり、売りに歩いたりするらしい。
らしい、というのは、本人が職業みたいにまとめて言わなかったからだ。
「今朝は石浜、使えたんだ?」
俺が一つだけ聞く。
セラは匙で粥の底をこすりながら頷いた。
「使えた。舟の鼻をつけて、籠下ろして、私が降りた。昨日は知らない」
「昨日は横波で使えなかったって聞いた」
「なら使えなかったんじゃない?」
簡単に返される。
「今日は?」
ティムが続ける。
セラは匙を止め、港の外を一度見た。
「朝は使えた。帰りは知らない」
「帰るの?」
「舟が戻れば」
「戻らなかったら?」
「歩いて帰る」
「入り江まで?」
「途中まで。あとは誰か捕まえる」
ティムが俺を見る。
「強いな」
セラが眉を寄せた。
「普通だよ」
その「普通」が、俺にはまだ全然普通じゃなかった。
昨日は使えなかった浜が、今朝は使えた。
でも、それで「石浜は使える場所」になったわけじゃない。
今朝一人が降りられた。
セラの籠一つも下ろせた。
分かったのは、それだけだ。
外を見ると、赤い浮きはいつもの位置で揺れていた。
西倉脇の荷車はまだ動いていない。
海も道も、昨日の続きは勝手に同じ形では来なかった。
第344話 二束の網糸が、午後の仕事を北へ変えた
【本文】
セラの干し貝は、昼前には半分以上なくなった。
売れた、というより、ハナが食堂用にまとめて取り、船乗りが二袋買い、残りを網直しの爺さんが「酒の横に置く」と言って持っていった。
最後の一袋を誰が買ったのか、俺は見ていない。
俺はその頃、港の端で縄束を運んでいた。
昨日赤浮きの縄を直していた爺さんが、古い網糸を太さごとに分けている。濡れていないのに、手に取ると油と海草が混じったような匂いがした。
「それ、捨てるの?」
ティムが聞く。
爺さんは顔を上げない。
「捨てるのはこっち。そっちはまだ使う」
「見分けつかない」
「なら触るな」
「ボルもそれ言う」
「海の年寄りはだいたい言う」
「自分で年寄りって言うんだ」
そこで爺さんが顔を上げた。
「お前、手ぇ空いてるなら口じゃなくこっち動かせ」
ティムは素直に縄を持った。
昼を少し過ぎた頃、セラがハナのところで小さな油壺を受け取っていた。
朝の籠は空に近い。代わりに布袋が一つ増えている。
「帰り、石浜?」
俺が聞く。
「舟が来ればね」
「何時?」
「知らない。日があそこへ行く前」
セラは港の西側を指した。
俺が空を見る。
ティムも見る。
二人とも同じ顔をしたらしい。
セラが笑った。
「時計みたいに見るな。舟の人にそう言われただけ」
また条件が曖昧だ。
でも、現場の人にはそれで足りているらしい。
その時、網直しの爺さんが油のついた手を布で拭きながら近づいてきた。
「セラ。今日、入り江へ戻る舟か」
「たぶん」
「たぶんでいい。戻るなら、これ二つ乗せられるか」
爺さんが指したのは、朝から分けていた網糸のうち、黒っぽい二束だった。
一束は俺の腕ほどの太さに巻いてある。
もう一束は少し細い。
セラがしゃがんで持ち上げる。
「重くはないね」
「向こうの網小屋に渡せば分かる」
「誰宛て?」
爺さんは名前を一つ言った。
俺は聞いたことがなかった。
セラは知っていたらしく、頷く。
「舟が石浜へ寄れたら持ってく。寄れなかったら持って帰らないよ」
「それでいい」
ティムが俺の横で、ものすごく分かりやすい顔をした。
石浜。
荷物。
午後。
全部聞こえている。
俺もたぶん似た顔をしていた。
ただ、前より先に口は出なかった。
セラが二束を見て、それから自分の空籠と油壺を見る。
「これ、浜まで運ぶ人いる?」
爺さんがこっちを見る。
ティムの口が開く。
その前にマルクが後ろから言った。
「昼の網箱片づけてからなら二人空く」
「二人?」
セラが俺たちを見る。
「そんなにいらない」
「こいつら、行きたい顔してるから一束ずつ持たせとけ」
「マルク」
俺が言う。
「仕事なら、って言ってたのはお前だろ」
返せない。
ティムは隠す気もなく笑っている。
「仕事来た」
「言い方」
「自然に来た」
「そこ強調するな」
セラが俺たちを見比べた。
「浜まで運ぶだけ。入り江までは行かないよ」
「分かってる」
俺が言う。
ティムも頷く。
「浜まで」
マルクが続ける。
「網糸は爺さんの荷。浜でセラに渡した時点までがお前らの仕事。舟が来ない、波が悪い、セラがやめるって言ったら持って戻る。勝手に舟探しに行くな」
「そこまで言う?」
ティムが笑う。
「お前らだから言う」
爺さんが黒い束を俺へ渡した。
思ったより軽い。
でも、油が染みた糸は腕からずれやすい。肩へ掛けようとすると服に黒い跡がついた。
ティムが細い方を持って、すぐ鼻をしかめる。
「臭い」
爺さんが真顔で言う。
「網糸に花の匂い欲しいのか」
「いや、そこまでは」
「なら持て」
ハナが布を二枚持ってきた。
「肩にこれ挟みな。帰ってきて服ごと洗うの嫌だから」
「俺たちのためじゃない?」
ティムが聞く。
「洗う私のため」
正直だ。
西倉の脇を通る。
北塩場の荷車はまだある。
朝から誰も取りに来ていない。
俺は一瞬見る。
セラも見る。
「これ、北の?」
「そう。道が悪くて置いてる」
「海の方が楽そう?」
ティムがすぐ聞く。
セラは歩きながら笑った。
「この荷車、舟に乗る?」
「乗らない」
「じゃあ比べる意味ないじゃん」
ティムが黙った。
俺は少し笑う。
北へ行く方法が二つ見えてきても、運べるものまで同じになるわけじゃない。
港を出て、北坂へ上がる。
石浜へは、昨日海から見ただけだ。
今日は歩く。
しかも、見たいからじゃない。
俺の肩には油臭い網糸が一束ある。
それだけで、同じ北側が昨日より少し違って見えた。
坂の途中でセラが振り返った。
「先に言っとくけど、浜への分かれ道、道っぽくないよ」
ティムが笑う。
「それ、レン好きそう」
「何で俺」
「道っぽくない道、好きじゃん」
否定しようとして、やめた。
たぶん好きだ。
セラは俺の顔を見てため息をつく。
「仕事は浜まで。探検はなし」
今度は三人目に言われた。
俺たちは北道を上がった。
第345話 海から見えた浜は、歩くと入口が分からなかった
【本文】
石浜への分かれ道は、本当に道っぽくなかった。
北道をしばらく歩いたところで、セラが急に止まった。
左には低い石積み。
右には枯れた草。
正面は、普通に北へ続く道。
「こっち」
セラは石積みの切れたところへ入った。
ティムがその場で止まる。
「そこ?」
「そこ」
「昨日、海から草の切れ目見えたけど、あれ?」
「知らない。海から自分の頭見たことない」
「そういう意味じゃなくて」
セラはもう先へ下りている。
俺も網糸を肩へ掛け直して続いた。
草の間には、人一人が歩けるくらいの硬い土がある。
でも轍はない。
荷車は無理だ。
ところどころ石が出ていて、雨の後なら滑りそうだった。
「道あるじゃん」
ティムが後ろから言う。
セラは振り返らない。
「歩く人がいるから草が減ってるだけ」
「それを道って言わない?」
「好きに呼べば」
この辺の人は、名前をつけることにあまり困っていない。
俺たちの方が、すぐ何かに名前をつけたがるのかもしれない。
下るにつれて、海の音が大きくなる。
見えないのに近い。
風にも塩の匂いが混じった。
網糸の油臭さと一緒になると、あまりいい匂いではない。
ティムが鼻をすすった。
「これ、帰ったら服終わってない?」
「ハナが布くれたろ」
「布の外まで来てる」
「お前、途中で肩替えたからだよ」
「右だけ臭くなるよりよくない?」
「両方臭くして解決するな」
セラが前で笑った。
「二人とも、浜着く前に魚に好かれそう」
「魚、陸まで来る?」
「来たら逃げて」
話しながら下っていたら、ティムの足が小さい根に引っ掛かった。
「うお」
網糸を抱えたまま二歩早くなる。
俺は手を出しかけたけれど、届く前に自分で止まった。
「大丈夫?」
「大丈夫。今の根、絶対昨日なかった」
「俺ら昨日ここ歩いてないだろ」
「じゃあ今日生えた」
セラが振り返る。
「根に謝れ」
何で根の味方なんだ。
坂の最後だけ、石が多くなった。
そこでセラは速度を落とす。
俺たちにも言う。
「ここから濡れてる石踏まないで。黒いのは特に」
「滑る?」
俺が聞く。
「滑る。あと、荷落とすと拾うの面倒」
先に心配されたのは俺たちより網糸だった。
木の間が開く。
海が出た。
昨日、舟から見た石浜。
同じ場所のはずなのに、海から見た時より狭く感じる。
平たい石棚。
その上に丸い石が散っている。
昨日低潮で背中を出していた手前の岩は、今日は半分ほど水に隠れていた。
波も横から強く当たっていない。
「今日は寄れそう?」
ティムが聞く。
セラは浜の端まで行かず、少し高い石の上に籠を置いた。
「今はね」
「今は」
「帰る頃は知らない」
ティムが空を見る。
昨日より、その言葉に文句を言わなくなっている。
俺は海側から見えた二本の擦れ筋を探した。
あった。
近くで見ると、溝ではない。
石の表面が少し白っぽく削れているだけだ。
何度も何かを引いた跡には見える。
でも、何回なのか、誰がやったのかは分からない。
口を開きかけて、閉じた。
セラが気づく。
「何」
「いや。昨日、海からあれ見えたから」
「ああ。舟引く時につくやつ」
「昔から?」
「知らない」
聞く前に答えが終わった。
ティムが笑う。
「先回りされた」
「顔に出てた?」
「レンは最近、質問する前の顔が長い」
それは成長なのか。
たぶん違う。
セラは空籠をひっくり返して座った。
「舟、まだだから待つ」
「どのくらい?」
ティムが聞く。
「来るまで」
「来なかったら?」
「さっき港で聞いたでしょ」
「歩いて帰る」
「覚えてるじゃん」
俺たちも荷を置く。
仕事は、舟が来れば網糸を渡す。
来なければ持って戻る。
それだけだ。
待つ間、波が石棚の端まで来ては下がる。
同じ石が、三回に一回くらい完全に隠れる。
ティムがその回数を数え始めた。
「一、二、三……ほら」
「何が」
「三回目で隠れる」
セラが干し貝を一つ口へ入れながら言った。
「次もそうなる?」
ティムが海を見る。
次の波は二回目で大きく来て、石を隠した。
「ならなかった」
「海に規則見つけた顔するの早い」
俺は笑った。
少し前の俺なら、たぶん一緒に数えていた。
今も数えたい。
でも、三回見ただけで決める気はなくなった。
セラが袋から干し貝をもう二つ出した。
一つを俺へ、一つをティムへ投げる。
「売れ残り?」
ティムが聞く。
「自分の分」
「食べていいの?」
「返せ」
「食べます」
判断が早い。
硬い。
塩辛い。
噛んでいるうちに、海の向こうで小さい影が動いた。
帆は上がっていない。
低い舟が、岬の方からこちらへ回ってくる。
セラが立った。
「来た」
俺も立つ。
ティムが網糸を持ち上げる。
「これ?」
「それ」
舟はまっすぐ石棚へ来なかった。
一度沖で止まるように向きを変え、波を二つやり過ごしてから斜めに入ってくる。
船頭は一人。
昨日の灰色い継ぎ帆の舟とは違う。
前に鴎泊へ来た北入り江の小舟とも、たぶん違う。
俺が見比べていると、セラが言った。
「舟の顔覚えるの好きなの?」
「違い分かると面白い」
「全部覚えなくていいよ」
「まだ全然覚えてない」
舟の鼻が石棚の手前へ来る。
セラが手を上げる。
船頭も上げる。
声は出さない。
波が一つ引いたところで、舟が半歩だけ近づいた。
「今、荷」
セラが言う。
俺とティムは一束ずつ運ぶ。
濡れた黒い石は避ける。
俺の方が先に着いたけれど、舟へ投げようとはしなかった。
船頭が手を伸ばす距離まで待つ。
「こっち」
言われて、渡す。
二束目はティム。
足元を見ていたせいで遅れた。
でも転ばない。
船頭は網糸を舟底へ置くと、中身を確かめるように束を一度押した。
「網小屋の?」
セラが名前を言う。
船頭は頷く。
それだけで通じた。
俺たちの仕事は終わった。
セラは空籠と油壺を舟へ渡し、自分も乗る。
昨日ヨルがやったように飛ばない。
石棚の端へ舟が寄った時、片足ずつ降ろすみたいに乗った。
ティムが小声で言う。
「飛ばないんだ」
「聞こえてるよ」
セラが舟から返す。
「滑ったら笑うでしょ」
「笑わない」
「嘘」
船頭が櫂を石から離した。
舟が少しずつ沖へ戻る。
俺は聞きたいことがいくつもあった。
北入り江はどのくらい先か。
網小屋はどこか。
この舟は普段どこへ行くのか。
でも今日は、網糸二束を浜まで運ぶ仕事だった。
そこまで終わった。
セラが舟から手を振る。
「帰り、黒い石踏むなよー」
ティムが手を上げ返す。
「分かってる!」
その直後、最初の一歩で黒っぽい石を踏みかけて止まった。
俺は笑った。
「分かってないじゃん」
「踏んでない」
「止まっただけ」
「止まれたからいいだろ」
どこかで聞いた言い方だった。
石浜を上がる。
海から見た時には分からなかった入口が、帰りにはもう分かる。
でも、北入り江へ続く道はまだ知らない。
石浜の使える時間も、正式な決まりも知らない。
荷車が帰れるかどうかも、港へ戻るまで分からないままだ。
それでいい。
名前しか知らなかった浜へ、今日は仕事で来た。
俺たちは浜を見に来たんじゃない。
荷物を届けに来た。
その違いが、前より少しだけ分かるようになっていた。




