第334話 霜はついていた。でも、荷車は帰れなかった
【本文】
朝、荷車の車輪は白かった。
西倉の壁際に並べた二台。
鉄の輪にも、荷台の角にも、薄い霜がついている。
俺はそれを見て、ちょっとだけ期待した。
「固まった?」
隣でティムが先に言った。
「たぶん」
「お前まで“たぶん”かよ」
「まだ道見てないし」
言いながら、俺は車輪の外側へ手を伸ばした。
触る前に、後ろからマルクの声が飛ぶ。
「車輪に霜ついてるからって、北の道まで固まったことにするなよ」
手が止まった。
ティムが笑う。
「言われると思った」
「なら先に言えよ」
「言ったら面白くない」
朝から腹が立つ。
港の板は冷たい。
でも昨日ほどではない。
息は白いけれど、鼻の奥が痛くなるほどじゃない。
ハナが倉の戸を開けながら、俺たちを見る。
「豆汁、先に飲む?」
ティムが即答した。
「飲む」
「道は?」
俺が聞く。
「汁より先に道食べるの?」
「食べない」
「じゃあ汁」
負けた。
二杯目はないと言われたので、ちゃんと一杯で止める。
昨日ティムが口を焼きかけたやつだ。
今日はふうふうしてから飲んでいる。
俺は言わない。
言うと絶対「学習した」とか言う。
港が明るくなっても、北から車輪音は来なかった。
一度、小舟が出る。
魚籠が戻る。
ボルが濡れた綱を干す。
ハナが空の塩袋を数える。
俺とティムは昨日の荷車の横を三回くらい通った。
通るたびに、つい見る。
三回目でティムが言った。
「見ても動かないぞ」
「知ってる」
「四回目行く?」
「行かない」
その直後、北坂から人が一人下りてきた。
荷車じゃない。
馬でもない。
歩きだ。
泥の跳ねた裾。
肩に小さい工具袋を掛けている。
ヨルだった。
ティムが先に手を上げる。
「一人?」
ヨルは返事の代わりに、自分の靴を見せた。
泥が踵の少し上までついている。
「見れば分かるだろ」
「一人なのは分かる。荷車は?」
「今日は無理」
俺の中で、さっきの期待がすぐ消えた。
ヨルは西倉の壁際まで来ると、一台目と二台目を順番に見る。
すぐ乗ろうとはしない。
まず輪止め。
次に車軸の下。
そのあと荷台の下へ手を入れて、小さな油壺を引っぱり出した。
「それ取りに来たの?」
俺が聞く。
「それと工具。ガルが昨日置いたまま帰った」
「荷車は?」
「置いとけって。朝、上から二人で見たけど、昨日より柔らかい」
ティムが首を傾げる。
「昨日より寒そうなのに?」
ヨルは工具袋の口を締めながら肩をすくめた。
「夜中に雲あったらしい。俺、寝てたから知らん」
「知らんのか」
「寝てる時まで道見てない」
普通だった。
ガルが朝に道を見た。
ヨルも一緒に見た。
荷車は出さないと決めた。
それだけ。
「どのくらい柔らかい?」
俺が聞くと、ヨルは少し考える。
数字にしようとして、やめた顔だ。
「昨日、二台目が沈んだとこあるだろ」
「うん」
「あそこより手前で、歩いた踵がもう濡れる。荷車乗せる気にならんってガルが」
「空荷でも?」
「空でも車輪は車輪だろ」
言われて、俺は荷車を見る。
荷はない。
でも木の車体そのものは軽くない。
昨日ここまで運んできた時よりずっと軽いはずなのに、それでも出さない。
ティムが荷台の縁を叩きそうになって、途中で手を止めた。
昨日から人の物へ勝手に触るなと言われ続けている。
ちゃんと止まった。
ヨルがそれを見た。
「何」
「いや。触らないんだなと思って」
「最近、ちゃんとしてる」
俺が言う。
ティムがこっちを見る。
「お前まで言う?」
ヨルは笑いながら車軸の端を覗いた。
「一晩くらいならこのままでいい。雨降るなら覆い欲しいけど」
「降る?」
「知らん」
また知らない。
でも、その方が普通だ。
空を見ただけで明日の天気まで分かる人ばかりじゃない。
マルクが来る。
「今日は置くんだな」
「うん。ガルから。道が戻るまで動かすなって」
「分かった。場所はこのままでいい。こっちで使わない」
「助かる」
それで話は終わった。
誰も、どうにか返そうとは言わない。
板を敷こうとも。
縄で引こうとも。
別の道を探そうとも。
荷車は動かない。
だから置く。
俺は少しだけ物足りなかった。
たぶん顔に出た。
ティムが横から覗き込む。
「行きたかった?」
「何が」
「昨日の道。もう一回」
「……ちょっと」
「俺も」
ヨルが聞いていたらしい。
「お前ら、泥好きなの?」
「違う」
俺とティムがそろった。
ヨルは工具袋を肩に掛け直す。
「じゃあ今日は普通に働け。俺もこれ持って戻る」
「歩いて?」
ティムが聞く。
ヨルは北坂を見上げた。
少し嫌そうな顔をした。
「……そのつもりだった」
言い方が引っかかった。
その時、港口の外から小舟の櫂が水を叩く音がした。
一回。
二回。
ボルが顔を上げる。
俺たちも海を見る。
知らない小舟じゃないらしい。
ボルが片手を上げた。
「北の入り江か!」
舟から声が返る。
「貝三籠! 油一壺買う!」
ヨルが北坂から海へ顔を向けた。
それから、工具袋を少し持ち上げる。
「歩かなくて済むかもしれん」
ティムが俺を見る。
俺も見返した。
荷車は動かない。
でも、人まで同じ道を使う必要はないらしい。
第335話 荷車が動かない朝に、人だけ海へ戻る話になった
【本文】
北の入り江から来た小舟は、貝を三籠積んでいた。
大きくない。
昨日の二台の荷車どころか、塩袋を十も積んだら喫水が目に見えて下がりそうな舟だ。
船頭は一人。
日に焼けた男で、頭に赤茶けた布を巻いている。
舟を岸へ寄せるなり、ボルへ言った。
「一籠先に下ろせ。底のやつ生きてるか怪しい」
挨拶より先だった。
ボルも気にしない。
「誰んとこだ」
「魚干し場のサナ婆さん。二籠は市場」
「じゃあ混ぜるなよ」
「混ぜたら俺が怒られる」
二人で勝手に仕事が進む。
俺とティムは空いている籠をどけた。
ハナが魚干し場へ声をかけに走る。
ヨルだけ、少し離れたところで小舟を見ていた。
船頭が気づく。
「あれ、ヨルじゃないか」
「そう」
「何してんだ」
「荷車置いてきた」
船頭は一瞬、鴎泊の西倉を見る。
二台並んでいるのを見つけて、納得した。
「道駄目か」
「朝から駄目」
「じゃあ帰り乗るか?」
あまりにも普通に言った。
俺が先に反応しそうになって、止める。
ティムは止まらない。
「北まで行くの?」
船頭がティムを見る。
「北ってどこだ」
「塩場」
「塩場の下までは行かん。石浜まで。そこから上がれ」
ヨルが顔をしかめた。
「あそこ、濡れるだろ」
「歩いて泥まみれになるよりましだ」
「荷物ある」
ヨルが工具袋を見せる。
「それくらいなら乗る。油壺割るなよ」
話が決まった。
俺は思わず聞く。
「石浜から塩場まで、歩けるの?」
船頭は貝籠の縄をほどきながら答えた。
「人ならな。荷車は無理だぞ」
「道ある?」
「道ってほどじゃない。上がる踏み跡」
ティムが口を挟む。
「馬は?」
「乗せない」
「荷車は?」
船頭が手を止めた。
ティムを見る。
それから舟を見る。
もう一度ティムを見る。
「お前、これに荷車二台載ると思ってる?」
ティムも舟を見る。
「……一台なら?」
「沈む前にお前を下ろす」
ボルが吹き出した。
俺も笑った。
ティムは納得していない顔だ。
「聞いただけじゃん」
「聞くのはただだからな」
船頭はそう言って、貝籠を一つ持ち上げた。
俺とヨルで反対側を持つ。
籠の底から海水が垂れる。
貝の匂いが強い。
ティムが鼻をしかめた。
「昨日の魚より臭い」
「本人の前で言うな」
俺が言う。
船頭は気にしない。
「死んだ貝よりはましだ」
「死んだらもっと?」
「もっと」
「じゃあ今いい匂い」
「急に褒めるな」
何の会話なんだ。
三籠を下ろす間に、ヨルは自分の工具袋と油壺を舟の前へ置いた。
勝手には積まない。
船頭が場所を指してから置く。
「油は横にすんな。漏れたら貝より臭い」
「さっき貝いい匂いって」
ティムが言う。
「お前が言ったんだろ」
船頭が返す。
ティムが少し考える。
「そうだった」
ハナが戻ってきた。
「サナ婆さん来るって。あと市場の人も今こっち」
船頭が頷く。
「その間に油買う」
「何の油?」
「灯り。舟のじゃない」
俺が少し身を乗り出した。
また何か船の道具かと思った。
違った。
船頭本人の家で使う灯り油らしい。
世界はそんなことの方が多い。
ハナがヨルを見る。
「帰るの?」
「石浜まで乗せてもらう」
「荷車は?」
「置いとく」
「二泊目になるかもよ」
「道次第」
「雨降ったら?」
ヨルが一瞬黙る。
さっき同じことを聞かれて、知らないと言っていた。
「……ガルに言う」
「今言わないの?」
「今ガルここにいないだろ」
「そうだった」
ハナはそれ以上言わず、貝籠から垂れた水を箒で流し始めた。
俺は小舟を見る。
北の入り江から来た。
鴎泊へ貝を持ってきた。
帰りはヨルを石浜まで乗せる。
最初から人を運ぶために来たわけじゃない。
定期便でもない。
荷車の代わりでもない。
ただ、帰る方向が同じだった。
「こういうの、よくある?」
俺が船頭へ聞いた。
「何が」
「帰りに人乗せるの」
船頭は油壺の代金を数えながら、少しだけ首を傾げた。
「知ってるやつなら。舟空いてて、海が悪くなけりゃ」
「海が悪い時は?」
「乗せない」
「道が悪い時は海?」
そこで船頭が俺を見る。
少し面倒くさそうな顔だ。
「陸がぬかるんでるから海が楽、って決めるなよ。北風出たら、歩いた方が早い日もある」
「毎回違う?」
「毎回っていうか、違うから見るんだろ」
昨日、ガルにも似たことを言われた気がした。
でも相手は道じゃない。
海だ。
ティムが俺の横で小声になる。
「顔」
「何」
「今、道と海つなげた顔してる」
「つなげてない」
「三本くらい線引いた」
前にマルクに言われたやつを、そのまま使ってきた。
腹が立つ。
でも、たぶん顔には出ていた。
荷車は今日も動かない。
ヨルだけは海から帰れる。
同じ北へ行くのに。
必要なものが違う。
俺が考えている間に、船頭は油を買い終えた。
「昼前には出るぞ。潮落ちると石浜が面倒だ」
ヨルが返事をする。
「分かった」
今度は時間まで海側の都合で決まった。
俺はちょっと笑った。
ティムが気づく。
「何」
「いや」
面白い。
たぶん、それだけだった。
第336話 北へ行く道は、土の上だけじゃなかった
【本文】
ヨルが小舟へ乗る前に、一つだけ荷物が増えた。
人じゃない。
空の籠が二つ。
市場の人が持ってきた。
「これ、北の入り江のトウルんとこへ返せる?」
船頭は籠を見る。
すぐ頷かない。
底を見る。
縄を見る。
片方を持ち上げる。
「誰の札?」
市場の人が籠の縁を指した。
小さい木札が結んである。
「トウル。昨日の魚の」
船頭は札を裏返す。
「これなら持つ。もう一個は?」
「同じ」
「じゃあ二つ」
それだけで決まった。
俺は少し意外だった。
マルクが横にいるのに、何も言わない。
小声で聞く。
「港通さなくていいの?」
「市場の人と船頭が、持主分かった上で直接返すんだろ」
「港の荷じゃない?」
「違う」
短い。
でも分かる。
何でも港の仕事になるわけじゃない。
ティムが空籠を一つ持つ。
「軽い」
船頭が言う。
「空だからな」
「これならいっぱい載る?」
「だからって積むなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
今日は顔で言われる日らしい。
俺も二つ目を持って舟へ運ぶ。
小舟の中は思ったより狭い。
櫂。
水桶。
綱。
ヨルの工具袋。
油壺。
空籠二つ。
そこへ人が二人。
船頭とヨル。
余白はある。
でも、荷車を想像する余地はない。
ティムも同じことを考えたらしい。
「やっぱ荷車は無理だな」
「まだ言ってたのか」
ヨルが笑う。
「お前乗る場所なくなるぞ」
「俺乗らないし」
「なら荷車だけ送る?」
「沈むって言われた」
「学習したな」
俺とヨルが同時に言った。
ティムが二人を見る。
「今日それ多くない?」
多い。
船頭は笑わず、舟の前を一度押した。
まだ底が砂へ当たっている。
「レン、そっち一回持ち上げろ。ティムは押すな、横へ回れ」
言われた通りに動く。
昨日の樽みたいに、勝手に足を出さない。
舟の縁を持つ。
重い。
空の小舟に見えるのに、水から上げる方向は違う力がいる。
「せーの」
ティムが言いかける。
船頭がすぐ言う。
「言うな。今は俺が押す」
ティムが口を閉じた。
昨日の水樽と同じで、号令する人が決まっていた方がいいらしい。
でも、それを“舟の共通ルール”だとは思わない。
この船頭がそうしているだけかもしれない。
舟底が砂を擦る。
次の波が来た。
船頭が押す。
俺は前を少し持ち上げる。
ティムは横から綱を持って、流れないようにする。
一回で浮いた。
「もういい」
俺は手を離す。
足元へ波が来る。
靴の先が濡れた。
「冷たっ」
ティムが笑う。
「人のこと笑ってる場合?」
見ると、ティムの左足も濡れていた。
「俺は最初から濡れると思ってた」
「じゃあ避けろよ」
「それは無理だった」
ヨルが舟の中から言う。
「お前ら、本当に毎日こんな感じなの?」
「今日は静か」
ハナが岸から答えた。
ヨルが本気で嫌そうな顔をした。
舟は岸から少し離れた。
船頭が櫂を入れる。
「石浜までなら昼前。そこから塩場は歩け。濡れてる石踏むなよ」
「分かってる」
「前も滑っただろ」
「一回だけ」
「一回で十分だ」
ヨルは言い返さなかった。
たぶん本当に滑ったことがある。
ティムが岸から声を飛ばす。
「ヨル! 次、荷車取り来る時は?」
ヨルが振り向く。
「道固まったら!」
「海から来ないの?」
ヨルは一瞬、意味が分からない顔をした。
それから西倉の二台を見る。
「荷車どうすんだよ!」
ティムが笑う。
船頭まで少し笑った。
俺も笑った。
そりゃそうだ。
人だけ帰れても、荷車は残る。
空籠二つなら舟へ載る。
工具袋も載る。
人一人も載る。
でも荷車二台は載らない。
同じ“北へ運ぶ”でも、何を運ぶかで道が変わる。
舟が港口へ向かう。
俺は外石のあたりまで見送った。
追いかけない。
どこを通るか見に行かない。
石浜がどこかも、今すぐ確かめない。
ティムが隣へ来た。
靴の先をぶらぶらさせている。
濡れた水を飛ばしているらしい。
俺の方にも飛んだ。
「やめろ」
「乾かしてる」
「俺にかけるな」
「風向き」
嘘だ。
俺は一歩離れる。
港口の外で、小舟が少し向きを変えた。
北へ。
道路とはまったく違う場所を進んでいく。
「海の方が早いのかな」
ティムが言った。
「今日は、かも」
「明日は?」
「知らない」
「最近それ多いな」
「分からないもの多いから」
ティムは少し黙った。
珍しい。
それから、海を見たまま言う。
「でもさ。荷車駄目でも、人は帰れたな」
「うん」
「籠も二つ」
「うん」
「塩袋は?」
俺は答えそうになった。
何袋なら載る。
どこまでなら行ける。
風は。
潮は。
石浜は。
聞きたいことが一気に浮かぶ。
でも、目の前に塩袋はない。
船頭ももう遠い。
「今日は載せてない」
そう答えた。
ティムがこっちを見る。
「それだけ?」
「それだけ」
「ちゃんとしてる」
「うるさい」
俺たちは港の仕事へ戻った。
西倉の壁際には、北塩場の荷車が二台残っている。
海には、ヨルを乗せた小舟が遠ざかっていく。
北へ行く道は、一つじゃなかった。
ただ、今日使えた道が明日も使えるとは限らない。
俺は濡れた靴のまま、空籠を一つ持ち上げた。
次に北から来るのが車輪音か、櫂の音かは、まだ分からなかった。
第337話 荷車は一台だけ鴎泊を出て、代わりに赤い浮き木が逃げた
【本文】
翌朝、北から来たのは馬一頭だった。
荷車は二台ある。
俺は西倉脇でその数を見て、次に馬を見た。
ティムも同じ順番で見たらしい。
「一頭だけってことは、今日は一台?」
坂を上がってきたガルは、手綱を短く持ち直した。馬の鼻から白い息が二つ出る。
「一台だけ戻す。二台まとめて試して、また途中で置く方が面倒だ。塩場の前は固かったが、浅泥のところは朝のうちだけかもしれん」
「道、通れるんだ」
俺が言うと、ガルはすぐには頷かなかった。
靴の裏を石へこすり、泥の塊を落とす。
「一台なら試す。通れると決めたんじゃない。昼が暖かくなるから、嫌なところがあったらそこで戻る」
ティムが二台の荷車を見比べる。
「じゃあ、どっち?」
「車輪のましな方」
「名前で選ばないんだ」
ガルが真顔でティムを見た。
「お前、荷車に名前つけてるのか?」
「知らない」
「なら聞くな」
ガルは二台の車輪を順番に軽く蹴った。
乱暴に見えるけれど、蹴ったあとに輪の縁へ指を当て、板との隙間も見ている。
一台目。
乾いた、短い音。
二台目。
少しだけ低い。
違いは分かる。
意味は分からない。
俺が耳を澄ませていたら、ティムが横から顔を覗き込んできた。
「分かった?」
「音が違うのは」
「何が違う?」
「そこは分からない」
「よかった」
「何が」
「急に荷車の達人になったら腹立つ」
ガルは俺たちの会話を聞き流し、もう一度一台目の輪を押した。
「こっちだ。音だけじゃない。右の輪がこっちの方が締まってる。もう一台は、置いてる間に木が少し戻った」
ティムが俺を見る。
「今、音で当てた顔してた」
「してない」
「半分してた」
「半分の顔って何だよ」
この前の足みたいな言い方をする。
荷車を倉脇から出すには、残す方を少しだけ壁側へずらす必要があった。
俺とティムが後ろへ回る。
「せーの、いる?」
ティムが聞く。
「昨日、水樽の人に“せー”で動くなって言われたばっかりだろ」
「荷車は船長いないじゃん」
前からマルクが言った。
「俺がいる。押せって言ったら押せ」
「船長より怖い」
「聞こえてるぞ」
俺は笑いながら荷台へ手を当てた。
マルクの合図で少しだけ動かす。
車輪が半回転。
「そこまで」
ティムはまだ押す姿勢のまま止まった。
「もうちょい行けそうだけど」
「行けるのと、行く必要があるのは別だ」
「最近そればっかりだな」
「最近お前らが余計に動かすからだ」
返せなかった。
戻す一台を前へ出す。
空荷なのに、荷台の隅から塩の白い粉がまだ落ちた。
ティムが袖で払って、今度は自分の服を白くする。
「増えた」
「何が」
「塩」
通りかかったハナが、ティムの袖を見た。
「舐めないでよ」
「舐めないって。何で毎回そこ疑うの」
「今、ちょっと見たから」
「見ただけ」
ハナが俺を見る。
「レンみたいなこと言い始めたね」
「俺、悪い例になってる?」
「だいぶ前から」
朝から扱いが軽い。
馬をつなぐ。
ガルはすぐ出さなかった。
一度だけ車体を前へ出し、止め、少し戻す。
軋み。
車輪。
手綱棒。
馬の足元。
それぞれ別の場所を見て、やっと北坂へ向けた。
「手伝いはここまででいい?」
俺が聞く。
「ああ。空なら俺と馬で足りる。途中で嫌なら戻ってくる」
ティムが首を傾ける。
「嫌なの、ガル?」
「道だ」
「道が嫌って言う?」
「車輪が言う」
「喋るんだ」
ガルは馬の横へ立ったまま、ちらりとティムを見る。
「お前より分かりやすい」
ティムが本気で少し傷ついた顔をした。
俺は笑った。
荷車は北坂を上がっていった。
俺たちは追わない。
坂の上で一度だけ車輪の音が止まった。
ガルの低い声がした気もする。
でも、ここからでは言葉までは分からない。
少しして、また車輪が鳴る。
そのまま見えなくなった。
塩場まで着いたかは、まだ知らない。
鴎泊から出たのは一台。
西倉脇には、もう一台が残った。
マルクは空いた場所へ魚籠を二つ置く。
世界は、空いた場所をすぐ別の仕事に使う。
昼前まで、残った荷車にも北の道にも動きはなかった。
俺とティムは魚籠を洗い、濡れた板へ砂を撒き、昨日使った空籠の札を外した。
ティムが札の紐を指へ巻きつけて遊び、そのまま結び目を作って抜けなくなる。
「取って」
「自分でやれよ」
「爪入らない。ほら、ここ」
指ごと差し出してくる。
俺が笑っていると、ハナが木べらを一本置いた。
「また道具に負ける?」
「今日は紐だから別競技」
「競技にするな」
何の話をしているんだ。
その時、港口からボルの声が飛んだ。
「赤浮き、流れてる!」
俺たちは同時に顔を上げた。
湾口の外。
波の上に、赤いものが一度見えた。
消える。
また出る。
「どれ?」
ティムが目を細める。
ボルは岸の端へ走りながら指を伸ばした。
「外石の北! いつもの赤いの!」
赤く塗った丸太を二本、短く縛った浮き目印。
前から港口の外にあった。
俺も見てはいたけれど、名前を聞いたのは今が初めてだった。
「何のやつ?」
俺が聞くと、ボルは小舟の綱を解きながら答えた。
「外の浅岩へ寄りすぎないように見るやつだ。でかい船のためじゃない。ここの小舟が夜とか波ある時に見る」
立派な標識じゃない。
鐘もない。
文字もない。
ただ、いつもそこに赤いものが浮いている。
知っている人が、それを見る。
「切れた?」
俺が聞く。
ボルは首を振る。
「ここからじゃ分からん。流れてるのだけ分かる」
マルクも外を見る。
風は強くない。
でも潮は湾の外へ向いているらしい。
赤浮きは、さっきより少し北寄りへ動いていた。
「取れるうちに取るぞ」
ボルが小舟を一隻引き寄せる。
それから俺とティムを順番に見る。
「二人、手ぇ空いてるか」
ティムが俺より先に頷いた。
「空いてる」
マルクが言った。
「今の魚籠、洗い終わってからだ」
ティムの顔が止まる。
「今流れてるんだけど」
「あと一籠だ」
ボルが笑った。
「浮き木より籠が強いな」
俺たちは残り一籠を、たぶん今日一番速く洗った。
雑にはしなかった。
……たぶん。
小舟へ乗る時、マルクが俺たちの背中へ言った。
「取るのは浮き木。北を見に行く仕事じゃないぞ」
ティムが振り返る。
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
今度は俺も笑えなかった。
たぶん、俺の顔も同じだった。
小舟が岸を離れる。
残った荷車一台は、西倉の脇に置いたまま。
北へ行く車輪の話が一つ動いた日に、俺たちは別の理由で海へ出た。
第338話 舟の上では、立っただけで仕事を増やした
【本文】
小舟へ乗って最初に思ったのは、狭い、だった。
三人乗れる。
乗れるけれど、三人が好きに動けるわけじゃない。
ボルが後ろ。
俺が真ん中。
ティムが前。
赤浮きを引っ掛けるための長い鉤棒は、俺たちの膝の上に寝かせてある。
ボルが櫂を水へ入れた。
「立つなよ。あと、急に左右入れ替わるな。舟の中では“ちょっとだけ”が一番面倒だ」
ティムがすぐ振り返る。
「まだ何もしてないのに」
「する顔してるから先に言ってる」
「俺だけ?」
「二人とも」
俺まで見られた。
何もしていないのに信用が低い。
岸を離れる。
板の上で見る海と、舟の中の海は違った。
近い。
水面が膝のすぐ外にある。
小さな波でも舟底を下から叩く。
木の板一枚の向こうで、水がずっと動いている音がする。
俺が港を振り返ろうと身体をひねっただけで、舟が反対へ揺れた。
ティムがすぐこっちを見る。
「今、レンで揺れた」
「波だろ」
後ろからボルの声が来る。
「お前だ」
逃げ道がなくなった。
湾口までは、思っていたより早かった。
港から見れば遠く感じた外石も、舟で進むとすぐ横へ来る。
ただし、近いから安心でもない。
岩の根元で水が白く砕ける。
その少し手前だけ、水の色が暗い。
ボルは説明せず、櫂を一度深く入れた。
舟の鼻が外へ向く。
俺が岩を見続けていると、ボルが言った。
「見るのはいい。寄るなよ」
「寄せてるのボルじゃん」
ティムが言う。
「だから俺が見るんだ」
短く返される。
海の仕事は、口で勝てる感じがしない。
外石の向こうで赤いものが浮いた。
ティムが鉤棒を少し上げる。
「赤いの、あれ?」
「たぶんな」
俺も見る。
波の間に赤が出る。
消える。
次に出た時は、思っていたより北へ流れていた。
ボルが小さく舌打ちした。
「早いな」
「追いつける?」
俺が聞く。
「追いつく。取れるかは別」
また最近よく聞くやつだ。
舟の横を、小さな海草の塊が流れていく。
ティムが一度そっちを見て、すぐ赤浮きへ戻した。
「速さ、同じ?」
「知らん。浮き方違うだろ」
ボルは櫂を左右で変えた。
「今は赤い方だけ見ろ」
近づくほど形が分かる。
赤く塗った丸太二本。
中央を太い縄で縛ってある。
下へ伸びていたらしい縄は、短く切れたみたいに水面で揺れていた。
錨石ごと引きずっている感じではない。
完全に自由になっている。
「鉤、出せ」
ボルが言う。
俺とティムが同時に手を伸ばした。
棒が舟縁へ当たる。
ゴン、と嫌な音がした。
ボルが眉を寄せる。
「一人」
「俺」
ティムが取った。
俺は手を引く。
少し悔しい。
ティムは座ったまま鉤棒の先を前へ出した。
赤浮きまで、まだ遠い。
「届かない」
「まだ取るな。横につける」
ボルが舟を回す。
ティムは鉤を出したまま、身体まで前へ伸ばした。
尻が板から浮く。
舟が傾いた。
「座れ!」
ボルの声が大きくなる。
ティムが慌てて腰を落とす。
水が舟縁を一枚だけ叩いた。
俺の靴へ冷たいしぶきが入る。
「立ってない!」
「尻が板から離れたら同じだ!」
「半分だけ」
俺は吹き出した。
「また半分かよ」
「お前、足の時言っただろ」
「今は尻だ」
「そこ細かく分ける?」
ボルは櫂を止めない。
「分けなくていいから座れ。落ちたら浮きよりお前取る方が面倒だ」
ティムが黙った。
今度は舟の方を動かし、鉤が届く距離まで横へつける。
「まだ」
ボルが言う。
ティムが待つ。
赤浮きが波で一度遠ざかる。
また寄る。
「今」
鉤を伸ばす。
一回目。
中央の縄をかすって外れた。
「入ったと思った」
「思うな。掛かったら手に来る」
二回目。
縄の輪へ鉤が入る。
ティムが引いた。
赤浮きがこっちへ来るより先に、舟の方が少し寄った。
俺は反射で丸太を手で取ろうとした。
「手出すな」
ボルに止められる。
「まだ?」
「丸太と舟で指挟む。鉤で向き変えてからだ」
ティムが鉤を横へ動かす。
赤浮きが舟と平行になる。
そこでボルが短い縄を俺へ投げた。
「今。真ん中の縛りへ通せ」
今度は俺の番だった。
座ったまま手を伸ばす。
届かない。
少しだけ膝をずらす。
舟が揺れる。
後ろから低い声。
「立つなよ」
「立ってない」
言いながら、さっきのティムと同じことをしている気がした。
一度戻る。
ボルが櫂を一押しする。
舟が半歩分近づいた。
それで届く。
縄を通す。
結ぶ。
一回で締まったと思ったら、ボルが首を振った。
「それ、引いたらほどける」
「え」
「こっち寄こせ」
手元だけ直される。
俺は結び目を見ようとしたが、ボルの指が早くて半分しか分からない。
「今の、もう一回――」
「岸でやれ。今は浮き逃がすな」
教わったというより、俺の失敗が一個消えただけだった。
それで十分らしい。
赤浮きは舟の横へつながった。
ティムが鉤棒を膝へ戻す。
「取れた」
「浮きはな」
ボルは切れた下縄を見る。
濡れた繊維が房みたいに広がっている。
「どこで切れた?」
俺が聞く。
ボルは手を出さない。
目だけ近づける。
「擦れか、古かったか。今は分からん。岸で見る」
ティムが海面を覗き込む。
「錨は?」
「海の底」
「取りに行く?」
「今日は行かない」
ティムの肩が少し落ちた。
ボルが笑う。
「何で残念そうなんだよ」
「海の底、ちょっと見たい」
「お前が見に行ったら、俺の仕事が浮き木から人間回収に変わる」
俺は声を出して笑った。
帰りは、来た時より舟が重く感じる。
赤浮きが横で水を押しているからだ。
進むたびに、短縄が張って緩む。
ボルは一度その動きを見てから、俺へ言った。
「張った時に触るなよ。指持ってかれる」
俺は膝の上へ手を戻した。
「海の仕事、触っちゃ駄目なもの多くない?」
「陸も同じだろ」
ティムが笑う。
「レンが触りたがるものが多いだけじゃない?」
否定できなかった。
ボルは来た時と同じ線へまっすぐ戻らなかった。
少し北へ膨らむ。
「そっち行くの?」
俺が聞く。
「浮きつけたまま外石の内を回ると、下縄引っ掛ける。外から戻る」
理由があった。
俺は北側を見る。
低い海岸が続いている。
黒い岩。
茶色い草。
遠くの白い泡。
その中に、一か所だけ平らに光る場所があった。
ティムも同じところを見たらしい。
「なあ、あれ――」
ボルが先に答えた。
「あれが石浜だ」
俺の手が、膝の上で止まった。
第339話 石浜は、上陸しなくても見えた
【本文】
石浜は、名前ほど分かりやすい場所じゃなかった。
遠くから見れば、黒い海岸の一部にしか見えない。
少し平ら。
少し低い。
波が引いた時だけ、濡れた石の面が長く光る。
「あそこ?」
ティムが鉤棒を抱えたまま聞いた。
「そう」
ボルは櫂を動かし続ける。
「昨日、ヨル降ろしたのも?」
「そこ」
「今も降ろせる?」
ボルがティムを見る。
「何で降りる」
「聞いただけだって。昨日使えたなら、今日も使えるのかなって」
「お前らの“聞いただけ”は信用してない」
俺も含まれていた。
反論しにくい。
舟は石浜へ向かっていない。
むしろ、少し沖を通って鴎泊へ戻る線だ。
それでも横から見ると、昨日まで言葉でしか知らなかった場所が少しずつ形になる。
桟橋はない。
杭も見えない。
小屋も見えない。
平たい岩棚が海へ出ているだけだ。
上の方に草の切れ目がある。
道なのか、人が歩いた跡なのか、ここからでは分からない。
俺がそっちを見ていたら、赤浮きの縄が膝へ触れた。
慌てて足をどける。
ボルが見ていた。
「景色見るなら、まず自分の足元見ろ」
「はい」
ティムが小声で笑う。
「石浜に負けた」
「縄に負けただけだよ」
「どっちも負けてる」
うるさい。
「昨日はどうやって降ろしたの?」
俺が聞いた。
ボルは石浜から目を外さず答える。
「舟の鼻を石へ寄せて、ヨルが飛ぶんじゃなくて降りた。荷も工具袋だけだったしな」
「飛んだら?」
ティムが聞く。
「滑る」
「昨日滑った?」
「滑らなかった」
「じゃあ大丈夫じゃん」
「昨日はな」
ボルは短く言って、石浜の手前を顎で示した。
水面の下に、薄い茶色が見える。
最初は砂かと思った。
でも形がまっすぐじゃない。
岩だ。
いくつもある。
波が引くと背中が少し出る。
また隠れる。
「今日は潮が低すぎる。あそこへ寄ると舟底擦る」
俺はさっきまでの平らな石を見直した。
着けそうに見えた。
見えただけだった。
ティムが少し身を乗り出す。
今度は尻を板から離さない。
「じゃあ満ちたら?」
「満ちすぎると、石棚の縁が見えにくい。風が横から来る日も寄りたくない。昨日は昨日で、ちょうど寄れた」
ティムが眉を寄せる。
「面倒だな」
「海だからな」
昨日マルクが言っていたのと似ている。
海の予定は弱い。
道は朝だけ固くなる。
浜は潮で使える時間が変わる。
同じ北へ行くのに、どっちも勝手だった。
俺は少し笑った。
「何」
ティムが気づく。
「北へ行く方法が増えたと思ったら、条件も一緒に増えるんだなって」
「じゃあ、増えてない?」
「増えてる。面倒ごと付きで」
ボルが後ろで鼻を鳴らす。
「便利な道だけ欲しいなら寝てろ」
「寝てても飯は来る?」
ティムが聞く。
「来ない」
「じゃあ起きる」
判断が早い。
石浜へ一番近づいたところで、波の引くタイミングが重なった。
濡れた岩棚に、細い筋が二本見えた。
溝というほど深くない。
何か重いものを何度も引いたみたいに、表面だけ色が違う。
「舟の跡?」
俺が聞く。
ボルは一度だけそっちを見る。
「たぶんな。荷を上げる時、舟を少し引くことはある」
「何年くらい?」
「知らん」
「誰が最初に?」
「もっと知らん」
ティムが笑う。
「レン、始まった」
「二個しか聞いてない」
「三個目来る顔してる」
ボルが俺へ言った。
「赤浮き持って帰る仕事だぞ」
「分かってる」
「石浜へ寄る仕事じゃない」
「分かってるって」
二人に言われると、さすがに俺も笑った。
少し前なら、たぶん“近いなら見よう”と言っていた。
今も見たい。
それは変わっていない。
ただ、今ここで寄る理由がない。
しかもボルは、今日は寄れないと言っている。
だったら、見えるところまででいい。
舟は石浜の横を過ぎた。
北入り江は見えない。
岬の向こうらしい。
塩場も、ここからは見えない。
ヨルが昨日どこを歩いたのかも分からない。
分かったのは、石浜が本当にあること。
昨日は人を一人降ろせたこと。
今日は同じようには寄れないこと。
桟橋らしい物は見えないこと。
それだけだった。
十分だった。
鴎泊へ戻る前に、赤浮きの縄が一度舟底へ回りかけた。
ティムが先に気づく。
「下入った」
ボルがすぐ櫂を止める。
俺は縄へ手を伸ばしかけた。
「待て」
二人から同時に言われた。
俺は手を引く。
ティムが笑う。
「成長してない」
「今止まっただろ」
「言われて」
「止まったのは止まった」
ボルが舟を少し横へ向ける。
張っていた縄が緩み、水の流れで自然に外れた。
俺は何もしなかった。
何もしない方が早かった。
「これ、覚えた?」
ティムが言う。
「何を」
「海では手を出す前に待つ」
「お前、さっき尻浮いてたじゃん」
「それは別の学び」
「分けるなよ」
後ろでボルが笑った。
港へ戻ると、ハナが俺たちの濡れた靴を見て顔をしかめた。
「海、取ってきたの?」
「浮き木」
ティムが言う。
俺の靴から水が落ちる。
「海も少し」
「それはいらないから外で落として」
歓迎されなかった。
マルクは赤浮きの切れた縄を見て、ボルへ聞く。
「今日戻すか?」
「戻さない。下の石と残り縄見ないと、また流す。浮きだけ置いても意味ない」
「じゃあ屋根下」
決まるのが早い。
俺は切れた繊維を近くで見たかった。
でもボルが先に浮き木を転がし、壁へ立て掛ける。
今は触る仕事じゃない。
聞くまでもなかった。
赤浮きは港へ戻った。
でも、いつもの場所には戻らなかった。
残った荷車も、まだ西倉の脇にいる。
朝に鴎泊を出た一台が、北塩場まで着いたかもまだ聞いていない。
一つ出て、一つ残る。
一つ拾って、一つ直っていない。
石浜は見えたけれど、行ってはいない。
きれいに全部進む日は、たぶん少ない。
ティムが濡れた靴を脱ぎながら言った。
「次、石浜行く仕事来ないかな」
「来たらな」
「自分から作らない?」
俺は少し考えた。
「作らない」
ティムが顔を上げる。
「今の間、怪しい」
「見たいのは本当だから」
「それなら分かる」
俺たちは笑った。
屋根の下では、赤い浮き木からまだ海水がぽたぽた落ちている。
北の地図が埋まったわけじゃない。
ただ、昨日まで名前しかなかった石浜に、潮で消えたり現れたりする形がついた。
次にそこへ行く理由が来た時、俺はたぶん今日より少しだけ、何を知らないのか分かっている。
それまでは、港の仕事をする。




