第9話 車輪一つ分
「通せると思う」
俺が言った。
エダンの兄は、寝床からこっちを見た。
「まだ車も見てないだろ」
「昨日、見た」
「横からだろ」
「横からでも車は車だろ」
「じゃあお前、魚を横から見たら泳げるか分かるのか」
分からない。
エダンが隣で笑った。
ミオは笑わなかった。
「まず空で通す」
地図を膝に置いたまま言う。
「炭は載せない?」
「載せて詰まったら、炭も車も邪魔になる」
兄が頷いた。
俺は少しだけ残念だった。
どうせなら最初から積んでみたい。
顔に出たらしい。
「レン」
ミオが名前だけ呼んだ。
「何も言ってない」
「言う前に止めた」
最近これが増えた。
外へ出ると、炭車は家の横に置いてあった。
二輪の木製車。
荷台は黒く汚れ、片方の車輪だけ昨日買った留め輪が新しい。
エダンがそこを指で弾く。
「ほら」
「何が?」
「兄貴の金二枚」
「そこを誇るの?」
「怒られたから元は取りたい」
よく分かる。
カイとセナも来た。
カイは宿の薪を運び終えたらしい。
「手伝ったら今日も一枚まけてもらえるかな」
「それ、宿の仕事じゃないでしょ」
セナが言った。
「村に貢献してる」
「自分で言うと弱い」
子どもが二人、荷台へ乗ろうとして女将に追い払われた。
俺も一瞬、乗ってみたいと思った。
ミオとセナが同時にこっちを見た。
「何?」
「別に」
二人とも同じ返事をした。
納得いかない。
最初の難所までは、何も起きなかった。
村を出て、草の薄い場所を選び、昨日まで何度も歩いた森へ入る。
空の炭車は思ったより軽い。
前を俺とエダンが引き、後ろからカイが押す。
ミオとセナは少し離れて歩いた。
問題は、最初の斜面だった。
人なら横を向いて抜ける場所。
弓は外せば通った。
槍も縦にすれば通った。
炭車は、縦にも横にもならない。
右の車輪が岩へ当たり、左の車輪が木の根へ乗る。
止まった。
「押す?」
カイが言った。
「押す」
俺も答えた。
「待って」
ミオが言った。
でも、少しだけならいけそうだった。
俺は取っ手を握り直す。
腰を落とす。
身体補助が入る前に、足裏で地面を探した。
右は硬い。
左は少し滑る。
前なら、そのまま力を入れていた。
今日は一度、左足を半歩だけ後ろへずらした。
「せーの」
カイが押す。
俺が引く。
炭車が上がった。
ほんの少し。
いける。
そう思った瞬間、右の車輪が岩を越えた。
荷台が跳ねる。
軽いぶん、勢いもそのまま来た。
取っ手が腕を引っ張る。
俺は前へ持っていかれかけて、足を開いた。
身体が勝手に戻ろうとする。
そこへ逆らわず、右足を一歩出す。
炭車の鼻先が地面へ落ちる前に止まった。
静かになった。
「……今の危なかったよね」
カイが言った。
「ちょっと」
「ちょっと?」
セナが岩の上から見ている。
ミオは地図を開いた。
「荷車不可」
「早くない?」
「今の線は」
「まだ一回」
「一回で車輪割れたら終わる」
それもそうだった。
エダンがしゃがみ、車輪と木の根を見比べる。
「兄貴なら、ここ削ると思う」
「根を?」
「たぶん」
ミオが首を振った。
「削って通れたら、次も削る?」
エダンが黙る。
俺も周りを見る。
道を車に合わせる。
さっきまで、それしか考えていなかった。
でも人間の足なら、別の場所を通れる。
だったら車も同じかもしれない。
「この道じゃなくていい?」
俺が言う。
ミオが地図から顔を上げる。
「何が?」
「炭車が通る道」
今まで俺たちは、歩いて通れた線を少しずつ直してきた。
でも炭車まで、同じ線を通す必要はない。
斜面の下側を見る。
草が深い。
遠回りになる。
ただ、傾きは緩い。
俺は炭車から手を離した。
「見てくる」
「一人で?」
「すぐそこ」
「それを一人って言う」
ミオが地図を閉じた。
結局、全員で見に行った。
草を分けて進む。
足元は湿っていたが、岩は少ない。
エダンが枝を折らずに持ち上げ、その下を見る。
「獣は通ってる」
細い足跡がいくつかある。
「車は?」
「知らない」
正直でいい。
少し進むと、沢へ出た。
いつもの渡り場所より下流。
幅は狭い。
その代わり、両岸が低い。
「ここなら車輪落とせそう」
カイが言った。
「落とす前提?」
「渡す前提」
「言い方」
セナが石を蹴った。
水は足首より少し上。
空車なら持ち上げなくてもいけるかもしれない。
戻って炭車を引いてくる。
今度は無理に岩を越えない。
草の中を大回りする。
車輪が土へ沈む場所では、セナが先に石を置いた。
カイは自分の槍を地面へ寝かせかけて、途中で止めた。
「これ、橋にできる?」
「やめて」
セナが即答した。
「まだ置いてない」
「顔で分かる」
俺は思わず笑った。
それ、俺が言われるやつだ。
沢の手前で炭車を止める。
俺とエダンが前。
カイが後ろ。
セナは右の車輪を見る。
ミオは岸の高さを見ている。
「一気に行くと跳ねる」
ミオが言った。
「ゆっくり?」
「右だけ先に」
「車なのに?」
「車だから」
右の車輪を水へ落とす。
次に左。
荷台が斜めになる。
昨日までなら、俺はたぶん腕で全部支えようとしていた。
今日は取っ手を握ったまま、炭車が傾く方へ半歩入る。
重さを受けてから押し返す。
補助が遅れてついてくる。
いや。
遅れたんじゃない。
俺が先に動けた。
「レン、右」
エダンの声で戻る。
車輪が石に当たっている。
角度を変える。
カイが押す。
右の車輪が上がる。
新しい留め輪が一度、乾いた音を立てた。
外れない。
エダンが嬉しそうに言った。
「二枚」
「今言う?」
「今だろ」
炭車は沢を越えた。
誰も歓声は上げなかった。
俺だけ少し上げたかった。
その先は、思ったより楽だった。
人の道から外れたせいで距離は伸びたが、車輪が詰まる場所は減った。
斜面では押す人を前後で変える。
狭いところでは枝を切らず、荷台を少し傾ける。
一度、俺が取っ手を持ったまま後ろ向きに歩こうとして根につまずいた。
炭車より先に俺が転んだ。
ミオは地図へ何も書かなかった。
「今のは?」
「道と関係ない」
「記録しないんだ」
「残してほしい?」
「いらない」
すぐ答えた。
昼を過ぎたころ、町側の森が明るくなってきた。
まだ炭は一袋も載せていない。
それでも、村から空の炭車がここまで来た。
俺は荷台を叩いた。
「通った」
エダンが首を振る。
「空だからな」
「次は一袋」
「兄貴なら二袋って言う」
「じゃあ一袋半」
「どうやって半分にするんだよ」
カイが荷台へ腰を下ろしかけた。
セナに弓の先で尻を押され、やめた。
「空なら人乗せてもいいんじゃない?」
「帰り歩けなくなっても知らないよ」
「降ります」
素直だった。
ミオだけ少し離れた場所にいた。
しゃがんでいる。
また地面を見ていた。
「何?」
近づく。
「車輪」
土に、浅い筋があった。
俺たちが今つけた跡だと思った。
でも違う。
炭車はまだ少し上にある。
筋はその下から続いている。
苔を指で払う。
平たい石が出た。
一枚。
その先にも一枚。
さらに少し先。
間隔が妙に揃っている。
エダンも来て、しゃがんだ。
「これ、村の?」
首を振る。
「俺は知らない」
「兄貴が作ったとか」
「兄貴、石並べるくらいなら枝切る」
たぶん褒めていない。
ミオが反対側の草をどけた。
もう一本、浅い筋が出た。
二本。
俺たちの炭車の車輪に近い幅で、森の奥へ続いている。
「道?」
カイが聞いた。
ミオはすぐ答えなかった。
鉛筆も出さない。
俺は立ち上がって、その二本の筋の先を見た。
今まで通っていた細道とは、少し向きが違う。
町にも、村にも、まっすぐではない。
「……車輪一つ分、試してみる?」
俺が言った。
ミオがやっと地図を開いた。




