第322話 大きな船は来ず、小舟が水を買いに来た
【本文】
朝、白い帆はなかった。
俺は港へ出て、最初にそれを確認した。
確認しただけだ。
探したわけじゃない。
……たぶん。
「朝一で海見てる時点で、だいぶ探してるけど」
隣でティムが言った。
「天気見たんだよ」
「空じゃなくて海見てた」
「海の天気もあるだろ」
「じゃあ今の海、何点?」
「知らない」
「天気見てないじゃん」
負けた気がした。
昨日の霧はほとんど消えている。
湾口の岩も、その向こうの水面も見える。
波は小さい。
白い二枚帆らしき船は、どこにもいない。
マルクは俺たちを見もしなかった。
「見終わったなら、籠を先に出せ」
「はい」
普通の仕事が始まった。
魚籠を六つ。
空樽を三つ。
昨日屋根の下へ移した長縄は、傷んだ場所に布を二本結んだまま壁際にある。
今日はまだ誰も触らない。
俺とティムは籠を出した。
一個だけ底に小さな魚の鱗が張りついている。
ティムが爪で取ろうとして、途中で顔をしかめた。
「乾いてる」
「水つければ」
「昨日ハナに、何でも水でどうにかするなって言われた」
「じゃあ爪で」
「取れないから言ってる」
後ろからハナの声がした。
「木べらあるよ」
ティムが振り返る。
「最初から言って」
「聞かれてない」
木べらで押すと、鱗は一回で取れた。
俺は笑った。
ティムが木べらを見て、少し悔しそうに言う。
「技能より道具だな」
「一枚取っただけで技能の話するなよ」
「昨日から何も増えてないから、そろそろ何か欲しい」
「仕事増えるぞ」
「それは嫌」
都合がいい。
昼前までは、本当に何も起きなかった。
小舟が一隻出て、一隻戻る。
塩袋が二つ届く。
北へ持っていく空籠が一つ足りず、ハナが隣の倉から借りてくる。
ティムが結び目を一回やり直す。
俺は濡れた板で一度だけ靴を滑らせる。
転ばない。
誰も褒めない。
いつもの港だ。
だから、港口の外に見慣れない小舟が現れた時も、最初はそれほど気にしなかった。
小さい。
二人乗っている。
荷らしい荷はない。
ただ、舟の真ん中に空の樽が二つ寝かせてあった。
ボルが先に気づいた。
「どこのだ」
岸から声を投げる。
小舟の年上の男が片手を上げた。
「入っていいか!」
「何しに!」
「水!」
短い。
ボルがマルクを見る。
マルクは手を止めた。
「入るだけなら入れ。岸へ突っ込むなよ!」
返事が飛ぶ。
小舟はすぐには向きを変えなかった。
一度、港口の外側で速度を落とす。
それから内側へ入ってくる。
俺は思わず近づいた。
二歩。
三歩目で、ハナが俺の袖を引いた。
「そこ、今樽転がす」
「ごめん」
知らない舟を見る場所まで、仕事に邪魔された。
小舟は空いている場所へついた。
年上の男が綱を投げる。
ボルが取る。
一回で届いた。
昨日の霧の時とは違う。
見えているだけで、全部が早い。
もう一人は若い。
俺たちより少し上くらいに見える。
舟を降りるなり、寝かせていた樽を叩いた。
「二樽分、水を分けてもらえるか。買う」
マルクが聞く。
「舟のか」
「沖の船の。水樽一つ、底から漏れた」
俺の手が止まりそうになった。
止めなかった。
空籠を持ったまま聞く。
沖の船。
昨日の白い二枚帆。
まだ同じとは限らない。
ティムは俺より我慢がなかった。
「船、大きい?」
若い男がティムを見る。
「これよりはな」
「帆、二枚?」
年上の男が少し笑った。
「何だ、帆の枚数で水の値段変わるのか」
「変わらない。たぶん」
「たぶんって何だよ」
ティムが俺を見る。
助けを求めている顔だ。
俺は知らないふりをした。
年上の男は腰へ手を当てる。
「二枚だよ。白っぽいやつ」
ティムの眉が上がった。
俺は空籠の縁を強く持った。
白っぽい帆が二枚。
一個増えた。
でも、それだけ。
マルクは水の話へ戻した。
「港の水を俺が売るわけじゃない。井戸の方へ聞く。二樽なら出せるかもしれん」
「助かる。急ぎはするが、無理なら一樽でもいい」
「船、入れないの?」
ティムがまた聞いた。
若い男が先に答える。
「入らない。今日は寄る予定じゃない」
「浅いから?」
「それもある。満ちるまで待って入るほどの用もない。水が足りれば行く」
普通だった。
秘密の船じゃない。
困っているのは水樽一つ。
港へ入る必要がないから、小舟で来た。
それだけかもしれない。
ハナが井戸の方へ確認に行く。
年上の男と若い男は岸の端で待った。
二人とも、港を珍しそうに見回さない。
観光に来たわけじゃない。
若い男は自分の靴の紐を結び直し、年上の男は小舟の底に溜まった水を柄杓で外へ出している。
ティムが小声で言った。
「昨日の、かな」
「昨日見た船ではあるかも」
「前に来た方」
「まだ分からない」
「聞かないの?」
俺は少し迷った。
聞けば早い。
でも、前の船だと決めたいから聞くなら、順番が逆な気がした。
「向こうが何しに来たかが先」
「水」
「じゃあ今は水」
ティムが嫌そうな顔をした。
「最近、ちゃんとしてる」
「悪い?」
「ちょっと」
年上の男がこっちを見た。
「何の話だ」
「こいつが最近ちゃんとしてて困る話」
ティムが答える。
「知らん」
年上の男は本当に興味がなさそうに、小舟の水をもう一杯捨てた。
少ししてハナが戻った。
「二樽ならいいって。井戸の家に直接払って。樽はそっちのを使うなら、港では何も取らない」
マルクが頷く。
年上の男は腰の小袋を叩いた。
「分かった」
正式な補給所でもない。
港の水を売る商売でもない。
井戸の家が二樽分を出せる。
だから買う。
それだけだった。
二人は空樽を舟から下ろした。
一つ目を俺とティムが受ける。
空なのに、思ったより重い。
「こっちの道で井戸まで行ける?」
若い男が聞く。
ハナが指を差す。
「石段の手前を右。坂は樽転がさないで。帰ってこなくなるから」
「樽が?」
「人も」
若い男が笑った。
俺も少し笑う。
そして、年上の男が何でもないように言った。
「昨日の霧の前に南西から上がってきたから、たぶん誰かには見られてるな」
俺とティムが同時に顔を上げた。
年上の男はもう樽の取っ手を見ている。
昨日。
霧の前。
南西。
白っぽい帆が二枚。
遠望一件だったものに、小舟が一つつながった。
でも、前に魚油を下ろした船と同じかどうかは、まだ一つも増えていない。
俺は空樽を持ち直した。
「行こう」
今は水だ。
海の話は、向こうからもう一個来るまで待つ。
そう決めて、俺たちは井戸へ向かった。
第323話 「魚油を四つ下ろした」と、向こうから言った
【本文】
二樽分の水は、思っていたより仕事だった。
空樽を井戸まで運ぶ時は、まだよかった。
問題は帰りだ。
「重っ」
ティムが言った。
「さっきと同じ樽?」
「中身増えたからな」
「水ってこんな重いの」
「飲む時は軽いのにな」
「それ一口だから」
若い船乗りが後ろで笑った。
井戸の家で二樽分の代金を払う。
俺たちはその場にいたけれど、金には触らない。
港の取り分もない。
年上の船乗りと井戸の家の人が直接やり取りする。
俺とティムは、いっぱいになった一樽目を坂の下へ運ぶ役だけ手伝った。
樽は転がせる。
でも坂で勝手に転がしたら、ハナが言った通り本当に帰ってこない。
太い短縄を一周掛ける。
前で二人。
後ろで一人。
少しずつ下ろす。
俺が前の右。
ティムが前の左。
若い船乗りが後ろ。
年上の男は二樽目の水を見ている。
「せーの、で動かす?」
ティムが聞いた。
若い男が首を振った。
「それやると“せー”で誰か動く」
「いる?」
「船に」
「誰」
「船長」
「船長が早いの?」
「全部早い。飯も早い」
何の情報なんだ。
俺は笑いそうになった。
若い男が樽の後ろを押さえる。
「俺が“下ろす”って言ったら、二人は前で止めながら下がってくれ。手で抱えるな。縄で受ける」
「分かった」
一歩。
樽が動く。
思っていたより勢いがある。
縄が掌へ食い込む。
二歩。
三歩。
ティムの足が樽の前へ出た。
「足!」
俺より先に若い男が言った。
ティムが引く。
樽が一瞬だけ斜めになる。
俺も反射で足を出しかけた。
「足で止めるな!」
今度は俺が言われた。
二人とも止まる。
若い男が樽の後ろで息を吐いた。
「頼むから、足は樽より大事にしてくれ」
ティムが俺を見る。
「同じことやろうとしたじゃん」
「やる前に止めた」
「俺も」
「お前は出てた」
「半分」
「半分の足って何だよ」
若い男が吹き出した。
「仲いいな」
「普通」
「悪い」
俺とティムが同時に言った。
今度は三人で笑った。
やり直す。
足を外へ置く。
縄で受ける。
一歩ずつ。
今度は樽が勝手に先へ行かない。
坂を下りきった時には、掌が少し赤くなっていた。
水は漏れていない。
樽も無事。
ティムの足も無事。
「一樽でこれか」
ティムが言う。
「船に何樽積んでるんだろ」
若い男が肩をすくめる。
「数えたことない」
「船員なのに?」
「全部の樽数える仕事じゃない」
それもそうだ。
港へ戻ると、年上の男が二樽目を待っていた。
ボルが隣で何か話している。
俺たちが近づくと、ボルがこっちを指した。
「こいつら、昨日お前らの船みたいなの見たって騒いでた」
「騒いでない」
俺が言う。
ティムは少し考えてから言った。
「俺はちょっと騒いだ」
裏切った。
年上の男が俺たちを見る。
「前にここへ来た船を知ってるのか?」
聞かれた。
今度はこっちから作った質問じゃない。
俺は答えた。
「白い帆が二枚の船が一度。魚油を四樽下ろした」
年上の男の顔が少し変わった。
驚いたというより、何かを思い出した顔だ。
「四樽?」
「はい」
「ここだったのか」
俺の心臓が一回強く打った。
ティムも黙った。
ボルが先に聞く。
「知ってるのか」
年上の男は顎を掻いた。
「航海帳にある。少し前、この辺の小さい泊まりで魚油四樽降ろしたって。俺はその時、別の船に乗ってた」
ティムの口が開く。
俺もたぶん同じ顔をしていた。
年上の男が続ける。
「今乗ってる船は同じだと思う。少なくとも帳面はその船のだ」
「思う?」
ティムが聞いた。
「俺、乗ってまだひと月経ってないからな。前の寄港は知らん。船頭に聞けば分かる」
「船頭、沖?」
「沖」
「呼べる?」
ティムが言った。
マルクの声が後ろから来た。
「呼ばない」
ティムの肩が下がる。
年上の男が笑った。
「水二樽で船頭呼ばれたら、向こうが怒るぞ」
「じゃあ、同じ船?」
ティムが俺を見る。
俺はすぐ頷きそうになった。
止めた。
同じ船の航海帳。
今の男は、その帳面が今乗っている船のものだと言う。
かなり強い。
でも、“思う”が一個ある。
「同じ可能性は高い」
俺が言う。
ティムが眉を寄せる。
「ほぼ同じじゃん」
「ほぼは同じじゃない」
「最近それ好きだな」
「何が」
「最後の一歩だけ踏まないやつ」
年上の男が俺たちを見比べる。
「何か調べてるのか?」
マルクが答えた。
「いや。前に来た荷が少し変わってただけだ」
「魚油が?」
「荷の方じゃない」
そこまでで切った。
丸に横線二本の荷印。
俺の頭にはすぐ浮かんだ。
ティムも同じだったらしい。
こっちを見た。
でも言わない。
今度は偉い。
年上の男は興味を失ったのか、一樽目の蓋を叩いた。
「これ、満タン?」
若い男が答える。
「口の下まで。坂で二人足出した」
「何してる」
「止めた」
「樽を?」
「足を」
年上の男は一拍置いて、俺たちを見る。
「足、二本ずつある?」
「あります」
ティムが答える。
「ならいい」
雑だった。
二樽目が来るまで、俺たちは港で待った。
待っている間にも仕事はある。
ハナに空籠を一つ渡される。
俺は底を洗う。
ティムは小舟の綱が板の角へ擦れているのを見て、勝手に位置を直そうとした。
ボルに「人の舟の綱触る前に聞け」と止められる。
「切れそうだった」
「切れそうか見るのと、動かすのは別」
昨日から、似た言葉ばかり聞いている。
見る。
決める。
動かす。
全部同じじゃない。
二樽目が到着した。
今度はハナも一緒に来る。
「途中で誰も足挟んでない?」
「大丈夫」
ティムが言う。
「一回だけ挟みそうになった」
若い男が正直に足した。
「言わなくていいのに」
「次やる時、言った方がいい」
ハナはティムの靴を見る。
「次やる時がある前提なんだ」
「ない方がいい」
ティムが即答した。
水樽一つで学習が早い。
俺たちは二樽目を小舟の横へ置いた。
年上の男が金の残りを確認する。
井戸の家へ払った分。
小舟の綱。
樽の蓋。
全部自分たちで見る。
鴎泊が補給業を始めたわけじゃない。
俺たちはたまたま手を貸しただけだ。
それでも。
前に魚油四樽を下ろした記録を持つ船が、今は沖にいるらしい。
昨日の遠望が、昨日だけの話じゃなくなった。
ティムが俺の横で小声になる。
「魚油、聞く?」
「今、何積んでるかも?」
「うん」
俺は首を振った。
「向こう、水取りに来ただけ」
「聞くだけなら」
「聞きたいけど」
そこは正直に言った。
ティムが少し笑う。
「やっぱりちゃんとしてないじゃん」
「我慢してるだけ」
「それなら分かる」
若い船乗りが二樽目の側面を布で拭き始めた。
水で濡れたまま舟へ積むと滑るらしい。
俺は空籠を洗いながら、それを見ていた。
前の船と同じかもしれない。
魚油四樽の記録もある。
でも今日は、魚油を一滴も見ていない。
今ここにあるのは、水だけだ。
それを忘れない方が、たぶん次が面白い。
そう思った時だった。
若い男が樽を半回転させた。
濡れた木の側面に、黒っぽい線が見えた。
丸。
その中を横に走る、二本の線。
俺の手が止まった。
第324話 油じゃない水樽にも、同じ印があった
【本文】
「ティム」
呼ぶ声が、自分でも小さかった。
「何」
ティムが振り向く。
俺は答えず、水樽を指した。
若い船乗りが拭いている二樽目。
濡れた木の側面。
古い黒い塗りが、ところどころ剥げている。
でも形は分かる。
丸。
横線が二本。
ティムの顔から、さっきまでの軽さが消えた。
「……それ」
「うん」
前に見た。
魚油の樽に付いていた印。
同じ形。
少なくとも、俺の記憶では。
若い男が布を止めた。
「何だ?」
俺は一歩近づく。
近づいただけ。
樽には触らない。
「その印、何の印?」
若い男が自分の拭いていた場所を見る。
「ああ、これ?」
指で丸の縁をなぞりかけて、濡れているのを嫌がって手を引いた。
「知らない」
ティムがずるっと肩を落とした。
「知らないの?」
「俺、樽職人でも荷方でもないぞ」
「船の人じゃん」
「船の人でも、船の全部知ってるわけじゃない」
聞いたことのある理屈だ。
さっき自分たちも、樽の数を聞いて同じことを言われた。
年上の男が横から覗く。
「その印なら、船の物に付いてるのは見るな」
俺とティムが同時にそっちを見る。
「船の物?」
俺が聞く。
「水樽とか、替えの箱とか。全部じゃない。何が基準かは知らん」
「荷物にも?」
ティムが聞く。
「荷物は荷主次第だろ。俺は荷方じゃないって」
二回目だった。
でも、十分だった。
前は魚油の樽にあった。
今は水樽にある。
しかも、目の前の男は、この水樽を船の持ち物だと言った。
「この樽、船の?」
確認する。
「そう。漏れた一樽も同じ組。こっちは空にして持ってきた」
年上の男が答えた。
「港で樽買ったわけじゃない?」
「買ってない。水だけ」
一個。
はっきりした。
この印は、少なくとも“魚油にしか付かない印”ではない。
それ以上は分からない。
船の所有印かもしれない。
樽の管理印かもしれない。
積み替えの印かもしれない。
同じ商会の印かもしれない。
俺の頭の中に、勝手に候補が増える。
「顔」
マルクが言った。
俺は振り返る。
「何ですか」
「今、三本くらい線引いた顔してる」
ティムが横で頷く。
「俺は五本」
「増やすな」
マルクは樽の印を見る。
それから俺たちを見る。
「前は油樽にあった。今日は水樽にある」
「はい」
「この水樽は船の持ち物」
「はい」
「今確定したのはそこまで」
短い。
腹が立つくらい正しい。
「でも、荷印じゃない可能性は上がったよね」
ティムが言う。
マルクは少し考えた。
「“油の種類を示す印”ではなさそう、くらいならな」
「船の印?」
「まだ言うな」
「商会の?」
「増やすなって言っただろ」
ティムが口を閉じる。
若い船乗りが俺たちを見ている。
「そんな珍しい印なのか?」
「前に来た油樽にあった」
俺が答える。
「へえ」
それだけだった。
自分たちの船の物に付いているのに、本人には特別じゃないらしい。
その差が面白い。
俺たちが何話も覚えている印を、向こうは“よく見る何か”くらいにしか思っていない。
ティムが聞く。
「船頭なら知ってる?」
年上の男が肩をすくめる。
「荷方か船倉番なら知ってるかもな。船頭が全部の印まで覚えてるかは知らん」
「呼ばない」
マルクが先に言った。
ティムが振り向く。
「まだ何も」
「顔が言ってる」
昨日の俺と同じだった。
俺は笑った。
「今度はお前の顔だな」
「うるさい」
若い船乗りが樽の残りを拭く。
印の上ももう一度布が通る。
黒い線が少しだけはっきりした。
俺は触りたかった。
前の油樽の印と、本当に線の太さまで同じか見たかった。
でも、水樽は俺たちの物じゃない。
勝手に測る理由もない。
写真もない。
紙へ写し取った記録も、今ここにはない。
記憶だけで“完全一致”とは書けない。
「レン」
ハナが後ろから呼ぶ。
「はい」
「その顔で樽に張りつく前に、こっちの籠運んで」
「張りつかないよ」
「今、半歩出てた」
昨日ボルにも言われた。
俺は半歩戻る。
ティムが笑う。
「成長止まった」
「一日で全部直るか」
「昨日、杉背の泥で育ったって言ったのに」
「育った分、今日減った」
「成長率マイナスじゃん」
若い船乗りまで笑った。
俺たちは籠を二つ運ぶ。
戻ってくると、水樽は小舟へ積み込まれるところだった。
一樽目を舟の真ん中。
二樽目を少し後ろ。
重いから、二人で勝手に持ち上げない。
板を渡す。
短縄を使う。
ボルが板の角を見て、位置を少し変える。
「そこだと縄擦る」
年上の男が頷く。
「昨日それで一本やったって聞いた」
ボルが俺たちを見る。
「情報早いな」
ティムが言う。
「港、噂だけ定期便」
ハナが後ろから言った。
「それは止めたいね」
全員少し笑った。
二樽とも舟へ乗る。
蓋を確認する。
綱を解く。
年上の男がマルクへ手を上げた。
「助かった。水の代金は井戸へ払った。港には?」
「何もない。うちの荷でも仕事でもない」
「じゃあ借りはなし?」
「水運びを手伝った分を借りにしたいなら、こいつらにパンでもやれ」
ティムの目が一瞬光った。
俺は見た。
「今、反応した」
「パンは別」
年上の男は笑う。
「次に来たらな」
「来るの?」
ティムがすぐ食いつく。
「知らん。俺が決めることじゃない」
やっぱり、みんな自分の範囲しか知らない。
小舟が岸を離れる。
俺たちは追わない。
港口まで歩いていくこともしない。
仕事が残っている。
ただ、少しして外石の向こうを見た時、小舟が沖へ進んでいるのは見えた。
さらに遠く。
白っぽい帆が二枚。
昨日よりはっきりしている。
大きな船体。
港へ向かっては来ない。
小舟はそこへ近づき、船の陰へ入った。
そのあと、二枚の帆はしばらく同じ場所にあった。
昼を過ぎる頃、少しずつ北東へ動いた。
入港しない。
魚油も降ろさない。
誰も上陸しない。
水二樽だけ受け取って、船は行った。
ティムが外石の手前で言う。
「結局、名前も分からなかった」
「うん」
「何積んでるかも」
「うん」
「どこ行くかも」
「北東へ動いた、まで」
「何も分からないじゃん」
俺は少し考えた。
「前より一個、分からなくなった」
「何それ」
「印」
前は、魚油の樽に付いていた。
だから俺の中で、どこか“魚油の荷印”みたいに見ていた。
でも今日は違う。
水樽にもあった。
船の持ち物だという水樽に。
答えが増えたんじゃない。
古い答え候補が一つ弱くなった。
ティムも少し黙る。
「それ、面白いな」
「だろ」
「答え出てないのに」
「出てないから」
俺たちは港へ戻った。
マルクが空樽の札を整理している。
ハナが濡れた板へ砂を少し撒いている。
ボルはさっきの小舟が擦らなかったか岸の板を見ている。
長縄はまだ壁際。
東道からは何も来ない。
白い二枚帆は、もう沖へ遠ざかっている。
世界は一個だけ答えて、二個くらい新しく分からなくなった。
俺はそのくらいの方が、次を待てる気がした。
今度は俺が追わなくてもいい。
同じ船なら、また世界のどこかで何かを残す。
違うなら、その違いもいつか分かる。
そして丸に横線二本の印は。
魚油の印ではなくなったかもしれない。
でも、まだ何の印にもなっていなかった。
第325話 船が消えた翌朝、俺たちは空樽を数えていた
【本文】
翌朝、海はまた普通だった。
白い帆はない。
二枚どころか、一枚も見えない。
俺は港へ出た時に一度だけ沖を見た。
本当に一度だけだ。
「今、一回って数えた?」
後ろからティムに言われた。
「何を」
「海見る回数」
「数えてない」
「じゃあ今ので二回」
「お前が言うから見たんだよ」
「三回目」
反射で沖を見てしまった。
ティムが笑う。
腹が立ったので、俺は足元にあった空樽を転がした。
もちろんティムの方へではない。
「遊んでるなら、それ七つ出せ」
マルクが倉の横を顎で示した。
「七つ?」
「返し樽。昼までに片帆の舟が来るかもしれん」
「来るかもしれない?」
ティムが聞く。
「風が合えば来る。合わなきゃ来ない」
「予定、弱くない?」
「海の予定なんてそんなもんだ」
マルクはそれだけ言って、別の荷札を束ね始めた。
白い二枚帆の船が昨日北東へ離れたことも、丸に横線二本の印も、今の仕事には関係ない。
今日やるのは、空樽を七つ出すことだった。
倉の横には十個以上の樽が並んでいた。
「七つって、どれ」
ティムが言う。
「札ついてるやつ」
ハナが答えた。
「全部何かついてるけど」
それは本当だった。
縄の切れ端。
木札。
煤で書いた数字。
底に焼かれた小さな印。
胴に残った白い筋。
赤い三角。
青く滲んだ丸。
俺は少しだけ嫌な予感がした。
昨日までなら、たぶん全部見たくなっていた。
今日は見た。
見たけど、まず七つを探す。
「この赤い三角が返すやつ?」
ティムが一番近い樽を叩いた。
ハナが振り返る。
「それ、塩屋が前に借りた時の印」
「じゃあ違う?」
「違う。返す先は首の木札」
ティムが樽の口元を覗く。
「首どこ」
「人じゃないから」
「知ってるよ」
「今、探してた顔だった」
俺は笑った。
樽の上の方に短い縄で括られた細い木札があった。
文字は半分擦れている。
ハナが指先で泥を落とす。
「これは東返し。こっち」
一個目。
次の樽は底に大きな焼き印があった。
ティムがしゃがむ。
「こっちは印ある」
「それは樽屋」
ハナが言う。
「樽屋?」
「たぶん。前にボルがそう言ってた」
「じゃあ返し先じゃない?」
「それだけじゃ分からない」
ハナは胴に結ばれた札を持ち上げる。
「今見るのはこっち」
ティムが俺を見る。
「昨日の話、急に難しくなってない?」
俺も同じことを考えていた。
樽に付いた印は、一個とは限らない。
一個の印に、一個の意味があるとも限らない。
でも、昨日の丸と二本線の答えを出すために今日の樽を見ているわけじゃない。
今は返し樽七つだ。
「二個目」
俺は木札を確認して、樽を転がした。
「ちゃんとしてる」
ティムが言う。
「昨日も言ってたな」
「昨日より嫌」
「何で」
「俺だけ面倒くさい方に残されてる感じする」
「一緒に数えろよ」
三個目。
四個目。
五個目は、動かした瞬間に酸っぱい匂いがした。
ティムが鼻を寄せる。
「これ何入ってた?」
「嗅がなくていいだろ」
「気になるじゃん」
もう一度近づいて、すぐ離れた。
「酢」
ハナが言う。
ティムは鼻を押さえた。
「先に言って」
「聞かれてない」
前にも同じことを聞いた気がする。
俺は樽を転がしながら笑った。
六個目は軽かった。
軽すぎて、ティムが勢いよく押したら横へ逃げた。
「待っ、そっち行くな」
「樽に言っても止まらないよ」
ハナが足で木片をどける。
樽は倉の柱に当たる前に俺が受けた。
「空だと軽いな」
「さっきの酢樽も空だったけど」
「匂いが重かった」
「意味分からん」
七個目は、見つかったけれど動かなかった。
いや、動かそうと思えば動く。
でもハナが止めた。
「それ、輪が浮いてる」
樽の下から二本目の鉄輪。
片側だけ、木からわずかに離れていた。
俺が手を伸ばす前に、ハナが木槌を持ってきた。
「叩く?」
ティムが聞く。
「私がやる」
「俺たちじゃ駄目?」
「駄目っていうか、これ返す樽だから。余計に壊したら説明増える」
ハナは樽を寝かせず、その場で輪の位置だけ見る。
木槌で一回。
二回。
音が違った。
二回目の方が少し低い。
ハナは眉を寄せた。
「これ、持っていくかは舟の人に見てもらう」
「直らない?」
俺が聞く。
「今ここで直す話じゃない」
短い。
最近よく聞く言葉だった。
見ること。
触ること。
決めること。
直すこと。
持っていくこと。
近いけど、全部別だ。
七つ並べたつもりが、港の端には六つと、少し離して置いた一つができた。
ティムが指で数える。
「七つあるけど、七つじゃない」
「持っていけるのは六つかもしれない」
「面倒」
「樽に言え」
「樽は返事しない」
「さっき止まれって言ってたじゃん」
「聞いてなかった」
昼が近づいても、白い二枚帆は戻らなかった。
代わりに、東の湾口の向こうから茶色い帆が一枚見えた。
低い。
昨日の船よりずっと小さい。
ティムが先に気づく。
「一枚」
「見れば分かる」
「白くない」
「うん」
「残念?」
少しだけ考えた。
「別に」
「今の間」
「返し樽の舟かもしれない」
ハナが手を額にかざして海を見る。
「たぶんね」
その言葉通り、茶色い一枚帆はゆっくり鴎泊へ向きを変えた。
白い船は来ない。
丸と二本線の答えも来ない。
その代わり、返す予定の空樽が七つあって、そのうち一つは輪が浮いている。
俺たちはそっちを先にやった。
海は、こっちが気にしている順番では動いてくれない。
最近、そのことが少し面白くなってきた。
第326話 茶色い一枚帆は、返し樽を五つしか持っていかなかった
【本文】
茶色い一枚帆の舟は、本当に返し樽を取りに来た。
ただし、七つ全部ではなかった。
「五つだな」
舟から降りた船頭が、港に並べた樽を見て言った。
日に焼けた頬に、短い灰色の髭がある。
背は高くない。
声も大きくない。
なのにティムが聞き返した。
「七つあるけど」
「見える」
「じゃあ七つじゃない?」
「俺が持って帰るのは五つ」
船頭は腰の板札をめくった。
細い字が何本か並んでいる。
「東返し四。浜返し一。北塩場のが一つ混じってる。そっちはうちじゃない」
ティムが俺を見る。
「樽にも行き先あるんだな」
「人より多そう」
「俺、今どこ返し?」
「知らない」
「鴎泊返しでいい?」
「返品みたいに言うな」
船頭は話を聞いていたらしく、鼻で笑った。
「若いの二人も持ってくか?」
「いらない」
マルクが即答した。
ティムが小さく言う。
「早い」
「飯の船長より早いな」
俺が言うと、ティムが吹き出した。
船頭は意味が分からず首を傾げた。
説明はしなかった。
五つの内訳を確認する。
昨日までなら、たぶん大きな印から見ていた。
今日は木札。
結び紐。
板札の字。
必要なものから見る。
その結果、一つ間違えた。
「これ東返し」
俺が一番端の樽を転がそうとすると、船頭が止めた。
「それじゃない」
「札、東って」
「古い」
船頭は木札の裏を爪で起こした。
薄い板が二枚重なっている。
上の一枚が途中で割れていた。
下から別の短い札が出てくる。
「こっちが新しい。上の剥がし忘れてる」
俺はしゃがんだ。
本当に二枚ある。
「いつの?」
「知らん」
「誰が重ねた?」
「それも知らん。だから持って帰る先だけ見る」
船頭は俺の顔を見た。
「樽の昔まで知りたいなら、樽に聞け」
ティムが横で笑った。
「返事しないって」
「じゃあ諦めろ」
強い。
俺は古い札を剥がさなかった。
勝手に取っていいものか分からない。
船頭も取らない。
今の行き先が分かればそれでいいらしい。
五つを選ぶ。
六つ目は北塩場へ返す樽。
七つ目は輪が浮いていた樽。
船頭は問題の輪を親指で押した。
木の胴を軽く叩く。
口元も見る。
「これは今日は置いてく」
ハナが頷く。
「輪?」
「輪も。板も一本、少し痩せてる。空なら転がせるけど、舟で他の樽に挟むのは嫌だ」
「直す?」
ティムが聞く。
「俺は直さない」
「船の人なのに?」
船頭がティムを見た。
「またそれ言うのか?」
俺は笑った。
昨日の船員と同じ顔をされた。
「船の人って、船の全部やるわけじゃないんだな」
ティムが言う。
「当たり前だ。お前、港にいるなら港の柱全部直せるのか」
「無理」
「じゃあ終わり」
分かりやすかった。
五つだけ積む。
空樽だから、一個一個は満水の時ほど重くない。
でも五つまとめて舟へ入れると、置く順番がある。
船頭が最初の二つを奥へ送る。
もう一人いた若い船乗りが、舟の中で受ける。
三つ目を入れたところで、風が少し横から強くなった。
舟の尻が岸から離れる。
「綱、もう一つ取れるか」
船頭が言った。
ボルが壁際へ目をやった。
長縄がある。
革巻きの下に毛羽立ちを見つけて、重い引きには使わないと決めた長縄。
俺も見た。
マルクが先に言う。
「長いのは出さない。傷んでる」
船頭は「ああ」とだけ言った。
嫌な顔もしない。
「じゃあ船の前綱を回す」
若い船乗りが舟の中から一本出す。
思ったより長い。
ボルが受け取って、岸の少し先の杭へ回した。
それで舟の尻の振れが小さくなった。
ティムが俺の横で小声になる。
「長縄、直さないとな」
「必要になったらな」
「今必要だったじゃん」
「なくても終わった」
ティムは口を尖らせた。
「最近、その言い方多い」
「何」
「なくても終わった」
俺は少し考える。
確かに多いかもしれない。
自分たちが持っているものが使えないと、前なら何となく欠けた感じがした。
でも今は、使えないなら別のやり方で終わることがある。
俺たちが直さなくても、世界は止まらない。
四つ目。
五つ目。
舟の中で空樽が並ぶ。
若い船乗りが一つを押して位置を変えた時、酸っぱい匂いが風に乗った。
ティムの顔が歪む。
「こいつだ」
船頭が笑う。
「何が」
「酢の樽」
「嗅いだのか」
「こいつが」
俺がティムを指す。
「何で嗅ぐ」
船頭の目が本気で不思議そうだった。
ティムは答えに困った。
「……気になった」
「分からん」
昨日の年上船員より、今日の船頭の方がティムに厳しい。
五つ積み終えると、船頭は板札へ爪で印を付けた。
「五つ受けた。北塩場の一つと、傷んだ一つは残し」
マルクも自分の札を見る。
「こっちも五つ」
「じゃあ合ってる」
「金は?」
「返しだけ。今日は動かない」
売り買いじゃない。
空になった容器を、次に使う場所へ戻すだけ。
それでも舟が来る。
人が動く。
札が増える。
間違えば違う場所へ行く。
昨日の白い船より小さいのに、見ているものは十分多かった。
船頭が岸を離れる準備を始めた。
前綱を戻す。
帆を半分だけ上げる。
若い船乗りが舟の中で樽を押した。
「親方、後ろ重い」
「水樽前へやれ」
舟の後ろに置いてあった小ぶりな水樽を、若い船乗りが抱えようとする。
船頭がすぐ言った。
「抱くな。転がせ」
「この狭さで?」
「半回しでいい」
若い船乗りは渋い顔をして、水樽の下へ手を入れた。
俺は何となく見ていた。
白い船じゃない。
昨日の二樽でもない。
ただの茶色い一枚帆の舟の、水樽だ。
水樽が半回転する。
乾いた塩の筋が剥がれた。
その下に、黒い丸の一部が見えた。
俺は息を止めた。
でも、まだ何も言わなかった。
丸だけなら、昨日の印とは限らない。
若い船乗りがもう半回転させた。
今度は線が見えた。
一本。
その下に、もう一本。
ティムの肘が、俺の腕に当たった。
第327話 違う船の水樽にも、丸と二本線があった
【本文】
「見た?」
ティムが小さく言った。
「見た」
「同じ?」
「待て」
「今の、同じだったじゃん」
「待てって」
声が少し強くなった。
船頭がこっちを見る。
「何だ」
俺は水樽を指した。
「その樽、少し見ていい?」
「見るだけなら」
若い船乗りが手を離す。
俺は舟には乗らない。
岸から見える位置まで一歩寄る。
黒い丸。
その中を横に走る二本の線。
昨日の白い二枚帆の水樽にあった形。
前に魚油樽で見た形。
少なくとも、見た目はかなり近い。
ティムが先に言った。
「これ、何の印?」
船頭は樽を見る。
「知らん」
ティムの肩が下がった。
二日続けて同じ反応だった。
「何でみんな知らないんだよ」
「樽の印なんか全部覚えてたら、船出せん」
「でも船の水樽でしょ」
「今はな」
俺が引っかかった。
「今は?」
船頭は前綱をまとめながら答えた。
「その樽、去年買ったやつだ」
ティムがすぐ近づく。
「どこで?」
「東の小さい泊まり。名前……何だっけな」
若い船乗りが舟の中から言う。
「俺その時いない」
「聞いてない」
「先に言っとこうと思って」
「じゃあ黙っとけ」
若い船乗りが口を閉じた。
でも少し笑っている。
船頭は水樽の側面を靴先で軽く押した。
「前のが割れた。水入れる樽が足りなくて、向こうで二つ買った。その一つ」
「二つともこの印?」
俺が聞く。
「覚えてない」
「今の舟でずっと使ってる?」
「去年からはな」
「その前は?」
「知らん」
そこで止まった。
当たり前だ。
中古で買った樽なら、その前まで知っている方がおかしい。
ティムが水樽を覗き込む。
「じゃあ、この印ってこの舟のじゃない?」
「そうとは言ってない」
俺が言う。
「でも買う前から付いてたんでしょ?」
船頭が首を傾げた。
「たぶんな」
「たぶん?」
「買った時に印があったかなんて覚えてない。水漏れないかしか見てない」
俺は黙った。
その方が自然だった。
俺たちには大きな謎でも、船頭にとっては一年使っている水樽だ。
買った時の側面の塗りまで覚えていない。
「底、見える?」
若い船乗りが急に言った。
船頭が振り返る。
「何で」
「さっき動かした時、下にも何かあった」
船頭が嫌そうな顔をする。
「もう積み直したんだぞ」
「半回しで見える」
「お前がやれ」
若い船乗りは笑いながら水樽を少しだけ回した。
底の縁が見える。
そこに、小さな焼き印があった。
黒い塗りじゃない。
木へ焼き付けた、三本の短い斜線みたいな形。
ティムが目を細める。
「違う印」
「うん」
丸と二本線は胴に塗られている。
底には別の小さな焼き印。
二つある。
昨日の返し樽でも見た。
札と焼き印と、前の持ち主が付けた印みたいなものが一つの樽に重なることがある。
だから、これも一個の樽に二種類あるだけかもしれない。
「底のは何?」
ティムが聞く。
船頭は即答した。
「知らん」
ティムが空を見る。
「今日ずっとそれじゃん」
「知らんものは知らん」
船頭は悪びれない。
マルクが少し離れた場所から声をかけた。
「出るなら出ろ。風変わるぞ」
「今出る」
船頭が答える。
俺は水樽から離れた。
聞きたいことはまだある。
どこの泊まりで買ったのか。
誰から買ったのか。
丸と二本線は買った時からあったのか。
底の焼き印は樽屋のものなのか。
でも船頭は、もう出る準備をしている。
今日ここへ来たのは返し樽五つを受け取るためだ。
俺の謎を解くためじゃない。
ティムはまだ諦めきれない顔で船頭を見る。
「その東の泊まり、また行く?」
「行く時は行く」
「次いつ?」
「知らん」
「何なら知ってるの」
船頭は考えた。
「今日、風が夕方まで持たない」
「それは知ってるんだ」
「船乗りだからな」
ティムが負けた顔をした。
俺は笑った。
茶色い帆が上がる。
五つの返し樽。
一つの水樽。
もう一つ水樽が舟の奥にある。
輪が浮いた樽は港に残った。
北塩場へ返す樽も残った。
何でも一度に片づかない。
船が岸から離れる。
若い船乗りが前綱を回収しながら俺たちに手を上げた。
「次、樽嗅ぐなよ!」
ティムが叫び返す。
「もう嗅がない!」
「絶対また嗅ぐだろ」
俺が言う。
「必要なら」
「何の必要だよ」
そこだけは分からなかった。
舟が港口へ向かう。
白い二枚帆じゃない。
茶色い一枚帆だ。
昨日とは別の船。
少なくとも、見間違えようがないくらい違う。
それなのに、水樽には同じ形があった。
「じゃあさ」
ティムが海を見たまま言う。
「丸と二本線、白い船の印って線、弱くなった?」
「弱くなった」
今回はすぐ答えられた。
「でも前の白い船と昨日の白い船が同じかもって話は?」
「それは航海帳の話だから、別」
ティムが顔をしかめる。
「分けるの面倒」
「混ぜるともっと面倒」
「ゲームなら一覧出してほしい」
「出ないから覚えるんだろ」
「俺、酢の匂いしか覚えてない」
「それは忘れろ」
茶色い一枚帆は東へ曲がった。
丸と二本線の印は、白い二枚帆だけのものではなくなった。
それ以上は分からない。
商会の印かもしれない。
樽を回す誰かの印かもしれない。
一度だけ付けられた古い管理印かもしれない。
昨日より候補が増えたわけじゃない。
むしろ、白い船という一番分かりやすい答え候補が弱くなった。
少し残念だった。
でも、その残念さごと面白かった。
船を追えば解ける謎じゃないかもしれない。
人を一人捕まえて聞けば終わる謎でもないかもしれない。
いろんな場所を動いている物の方に、何かが残っている。
俺はそこまで考えて、やめた。
今から東の泊まりを探す理由はない。
茶色い舟を追う理由もない。
白い二枚帆を追う理由もない。
港へ戻る。
ハナが、残った輪の浮いた樽の前でしゃがんでいた。
「戻ったなら、これ向こう持って」
「どこへ?」
「日陰。午後、輪見る人が来るかもしれないから」
「来るかもしれない?」
「来なかったら明日」
ティムが俺を見る。
「また弱い予定」
「港だからな」
俺たちは樽を持ち上げなかった。
転がす。
輪をぶつけないように、ゆっくり。
海では二隻の船がもう見えなくなっている。
答えは来なかった。
代わりに、昨日まで同じだと思っていたものが一つ、同じではなくなった。
それで十分、次が気になった。




