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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第316話 着いた時には、車輪はもう道へ戻っていた


【本文】


東道は、上の荷場から見ていたより狭かった。


狭いというより、逃げ場が少ない。


左は低い土の壁。右は細い草地の先がゆっくり落ちている。崖じゃない。でも荷車が半分寄ったら、戻すのは面倒そうだ。


御者は馬を急がせなかった。


「そこ、石」


前から言われて、俺は一歩ずれた。


次の瞬間、右足で別の石を踏んだ。


「そっちにもある」


「先に言ってください」


「二個あるとは思わんかった」


御者が笑った。


東道へ入ってまだ大した距離じゃないのに、俺はもう鴎泊より足元を見ていた。


長縄は荷台の後ろに載っている。


上の荷場を出る時、俺が担ぐつもりで持ち上げようとしたら、御者に「荷車が行けるとこまでは荷車に働かせろ」と止められた。


その通りだった。


人が運ぶのは、荷車が行けなくなってからでいい。


少し下ったところで馬が鼻を鳴らした。


御者が手綱を緩める。


道の真ん中に、昨日の雨が乾ききらず黒く残っている。


「ここから先、車は置く」


「影曲がりですか」


「まだ手前。影曲がりまで車で行って、二台並べる方が邪魔だ」


荷車を道の広いところへ寄せた。


馬を木へ直接つなぐんじゃなく、御者が持ってきた短い引き綱で手元へ残す。


俺は荷台から長縄を下ろした。


思ったより重い。


巻いた縄は、持つと形が崩れる。


肩へ掛けようとしたら輪が一つ落ちた。


拾う。


もう一つ落ちる。


御者が黙って見ていた。


「何か言ってください」


「学んでる途中かと思って」


「助けてくださいよ」


「輪を全部肩に乗せるな。半分抱えろ」


やってみる。


今度は落ちなかった。


ただ、前が少し見えにくい。


「それで転ぶなよ」


「言うの遅い」


「今、言った」


御者は自分の分の短い縄と革袋だけ持った。


ずるい気もしたけど、俺は長縄を運ぶために来た。


歩き出す。


百歩も行かないうちに、声が聞こえた。


「もう一枚、そっちじゃない!」


「分かってる、足が入らん!」


「車輪の下に手入れるなよ!」


思っていたより近い。


影曲がりは、名前の通り急に暗くなった。


道が大きく曲がっているわけじゃない。


土壁側から伸びた木の枝と、斜面の向きで日が入りにくいだけだ。


明るい道から二十歩くらい。


そこだけ、色が違った。


黒い。


濡れているというより、表面が踏まれて光っている。


そして、その先に荷車があった。


俺は足を止めた。


車輪は――道の上にあった。


両方とも。


「……戻ってる」


俺が言うと、御者が前から笑った。


「お前が来るまで待つ理由ないだろ」


確かに。


荷車の周りには四人いた。


一人は昨日走ってきた若い男。もう一人は見覚えがない太い腕の男。残り二人は御者らしく、泥だらけの裾をまくっている。


馬はいない。


荷もない。


車体だけが、少し斜めに道の中央へ戻されていた。


太い腕の男が俺たちを見る。


「縄来たか」


御者が顎を上げる。


「ガンツ、お前ら早いじゃん」


名前を聞いたことがある。


上の荷場で、昨日最初に縄を頼んだ人だ。


ガンツは長縄より先に俺を見た。


「一人って、こいつ?」


「こいつ」


「細いな」


「縄は太い」


「ならいい」


俺の評価、一瞬で終わった。


長縄を下ろす。


肩が急に軽くなって、逆に腕がじんとした。


「車輪、もう上がったんですね」


俺が言うと、ガンツは車体の後ろを指した。


「上げるだけならな。荷を抜いたら軽くなった。短い縄三本継いで、板噛ませて、一輪ずつ戻した」


そこで言葉を切る。


「でも、ここから馬つけて前へ出すと、また外へ寄るかもしれん。土の縁が弱い」


長縄は、最後に車体の向きを保つためらしい。


助けに来た時には、助ける場面の大半はもう終わっていた。


少しだけ拍子抜けした。


でも、よく考えたらそれでいい。


俺が来るのを待って車輪が沈み続ける方がおかしい。


「俺、何すればいいですか」


「今は何もするな」


ガンツが言った。


「縄通すまで、そこ立ってろ。足元だけ見とけ」


仕事をしに来たのに、最初の仕事が立っていることだった。


俺は少し離れた固そうな場所へ立つ。


その瞬間、道の上側にいた人が、棒の先で俺の足元を指した。


言葉はない。


昨日、御者が言っていたのを思い出した。


上番の人。


俺は足元を見る。


右足の半分だけ、薄い泥色がついていた。


「そこ、下が柔らかい?」


聞いてみる。


棒を持った人は首を一度横へ振り、少し左を指した。


俺は左へ動く。


今度は何も言われない。


正解らしい。


ティムがいたら、たぶん「喋らない人だ」と小声で言う。


俺は言わなかった。


ガンツたちは長縄を車体の後ろ側へ回した。


何をどこへ結んでいるのか、俺には全部は分からない。


分からないから近づかない。


一人が縄を引き、一人が板をずらし、もう一人が車輪の位置を見る。


ガンツが俺へ手を振った。


「レン、こっち。端持て」


名前をいつ聞いたんだろうと思ったら、御者が横で俺を指していた。


「強く引くな。たるみだけ取れ」


「はい」


持つ。


引きすぎない。


それが意外と難しい。


力を入れないと縄が地面へ落ちる。


入れすぎると向こうが動く。


「それでいい」


ガンツが言った直後、俺は少し引きすぎた。


「それじゃない」


「今ので分かりました」


「一回で分かれ」


「無茶言うなよ」


御者が笑う。


棒を持った上番の人は笑わなかった。


でも、こっちを見ていた。


馬を戻す。


車体の前へつなぐ。


俺たちは道の外側へ誰も立たない。


ガンツが声を出す。


「一歩だけ!」


馬が動く。


車輪が半回転する。


長縄が張る。


俺の手に重さが来る。


「止め!」


止まる。


誰も歓声を上げない。


ガンツがしゃがんで車輪を見る。


御者が馬の鼻先を撫でる。


若い男は板を拾おうとして、泥へ手をついて「あ」と言った。


手袋の片方を泥へ落としたらしい。


それを見て、ガンツが初めて笑った。


「昨日から一番深く落ちたの、お前の手だな」


「車輪よりましです」


二歩目。


三歩目。


荷車は、影曲がりを抜けた。


明るいところまで出して、やっと止める。


俺は縄から手を離した。


手のひらが少し赤い。


大したことはしていない。


縄を運んで、端を持っただけだ。


でも、それで終わった。


荷車は道へ戻った。


俺が来る前に大半が。


俺が来た後に、最後の少しだけ。


それくらいが、たぶん本当の仕事だった。


第317話 上番の人は、俺より先に靴の裏を見た

【本文】


荷車を明るい道まで出したあと、すぐ出発にはならなかった。


車輪を見る。


軸を見る。


短い縄を外す。


長縄をほどく。


板についた泥を落とす。


俺は長縄を巻き直していた。


昨日ティムが斜めに巻いた革は、まだずれていない。


ちょっと悔しい。


別にティムの仕事がうまくいって悔しいわけじゃない。


たぶん。


ガンツが車輪の横でしゃがんだまま言う。


「レン、それ、泥踏ませるなよ。濡れたら重くなる」


「はい」


俺は縄を一段持ち上げる。


その時、棒の先が俺の靴を軽く叩いた。


「え?」


上番の人だった。


近くで見ると、俺が勝手に想像していたより若い。


短く切った黒い髪を耳へ掛けている。


厚い外套の裾には、泥が乾いた線が何本もあった。


女の人だった。


「裏」


初めて声を聞いた。


低くも高くもない。


短い。


俺は靴を少し上げた。


「これですか」


「どこ踏んだ」


質問が返ってきた。


俺は来た道を振り返る。


「最初の下りで黒いところ。一回石踏んで、そのあと……影曲がりの手前で、さっき指されたところも」


「右」


「右?」


「右足だけ違う」


靴の裏を見る。


自分じゃよく分からない。


右の溝に灰色っぽい泥が入り、左は黒い泥が多い。


上番の人は棒の鉄先で右靴の溝を指した。


「これは影の縁。こっちは手前」


「泥で分かるんですか」


「泥だけじゃ分からない」


それだけ言って、今度は俺の歩いてきた方を見る。


俺も見る。


同じ道だ。


でも、光が違う。


土壁の影が、さっきより少し短くなっている。


ガンツが後ろから声を掛けた。


「ニル、もう一台通していいか」


上番の人――ニルは、ガンツを見ないまま答えた。


「私は決めない」


「分かってる。今どうだ」


「荷ありなら待つ。空なら一台ずつ」


「理由」


「縁だけ下が緩い。二台続けると跡が寄る」


ガンツは「じゃあ待たせる」と言った。


ニルが道を止めたわけじゃない。


ガンツが聞いて、ガンツが決めた。


昨日聞いた通りだった。


セドもそうだった。


道を見る人は、道の状態を返す。


荷を出す人が、それでどうするかを決める。


俺は長縄を巻きながら、ニルの持つ棒を見た。


昨日の細長い包みに入っていた鉄先。


新しいせいか、先端だけ少し色が違う。


「それ、昨日替えたやつですよね」


ニルが棒を見る。


「そう」


「古いの、今朝下へ行ってました」


「そう」


会話が終わった。


本当に終わった。


俺はちょっと待った。


ニルはもう道を見ている。


「……質問、もう一個いいですか」


「何」


「その棒、俺も一回だけ使っていいですか」


ニルが初めて、ちゃんと俺の顔を見た。


断られるかと思った。


「壊すなよ」


「壊したばっかりですもんね」


「私は壊してない」


少しだけ返しがあった。


ニルから棒を受け取る。


思ったより軽い。


セドのを一度触った時より、鉄先の重さが真っ直ぐ下へ来る気がする。


俺は影曲がりの縁へ立った。


「どこに刺す?」


「刺すな」


開始一秒で間違えた。


ガンツが後ろで吹き出す。


「お前、聞いてからやれよ」


「聞いたんです。どこに刺すって」


「刺す前提じゃねえか」


ニルは笑わない。


「置いて押す」


「はい」


鉄先を地面へ置く。


押す。


固い。


もう少し力を入れる。


「強すぎ」


「え」


「それじゃ地面じゃなくて、お前の腕見てる」


ガンツがまた笑った。


「今日一番分かりやすいな、それ」


俺は力を抜いた。


ニルが隣で自分の指を二本、棒へ添える。


「同じくらいで、三か所」


一か所目。


少し沈む。


二か所目。


ほとんど沈まない。


三か所目。


表面は固いのに、途中で急に柔らかくなる。


「あ」


声が出た。


ニルが俺を見る。


「今の?」


「表面だけ固くて、下が違う」


「それ」


たったそれだけで嬉しかった。


でも、次に同じ場所を押したら、今度はさっきより深く入った。


「あれ」


「一回押したから」


「なるほど」


測れば正解が出る道具じゃない。


押したことで地面まで変わる。


俺は棒を返した。


《技能を習得しました》みたいな表示は出ない。


当然だ。


一回触っただけだ。


ニルは棒を受け取り、泥を布で拭った。


俺の手より扱いが速い。


少し離れたところで、若い男が硬そうなパンをかじっていた。


一口で諦めて、革袋の水へ浸す。


ガンツが見つけた。


「それ昨日のだろ」


「今日の朝飯です」


「昨日の夕飯でもあったろ」


「途中で寝たんです」


「パン持ったまま?」


男は黙って、ふやけた端を食べた。


ニルは一度だけそっちを見た。


「それ、馬にやるなよ」


「やりませんよ。俺のです」


「馬の方が断る」


今度は俺が笑った。


ニルも普通に軽口を言うらしい。


ただ、笑わせようとして言っている感じじゃない。


ガンツが車輪の横から立ち上がる。


「朝の話、荷場まで来るの遅かったぞ」


ニルは棒の先を布で拭きながら答えた。


「下番から上げた。上で一回止まった」


「何で」


「伝える人が別便へ乗った」


ガンツが鼻で笑う。


「道より人の方が詰まったか」


「今日はね」


それで誰かを責める話にはならなかった。


情報は出した。


でも、途中で人が別の仕事へ回れば遅れる。


番小屋があっても、道の状態が瞬間で全員へ届くわけじゃない。


俺はそこも少し面白いと思った。


「上番って、毎朝ここまで来るんですか」


俺が聞く。


ニルは布を折りながら答えた。


「ここだけじゃない」


「もっと上?」


「上も下も。小屋に座ってても道は分からない」


それ以上は言わなかった。


杉背の上番小屋がどんな場所かも。


何人いるのかも。


どこまで見るのかも。


分からないまま。


でも、俺の中で一つだけ想像が外れた。


番小屋の人は、小屋にいる人じゃなかった。


少なくともニルは、道の上にいる時間の方が長そうだった。


ガンツが車体を叩いた。


「よし。これは上まで戻す。今日は荷積まん」


御者が「助かる」と言う。


ニルはもう影曲がりの向こうを見ていた。


俺は長縄を抱え直す。


帰る準備だ。


杉背は、まだこの先だ。


見えない。


でも今日は、それでよかった。


俺が見に来たのは杉背じゃない。


一本の縄の行き先だった。


第318話 東道の最初の成果は、杉背じゃなく泥だった

【本文】


帰り道、俺は行きより遅かった。


疲れたからじゃない。


たぶん、見えるものが増えたからだ。


行きには「黒い地面」で終わっていた場所が、帰りには少し違って見える。


日が当たって乾き始めたところ。


まだ影が残っているところ。


車輪が踏んだ跡だけ水が浮いたところ。


全部を説明できるわけじゃない。


むしろ、説明できない場所の方が多い。


御者が前を歩きながら振り返った。


「足元ばっか見てると木に当たるぞ」


「さっき石二個踏んだんで」


「今度は木か」


「嫌です」


「じゃあ前も見ろ」


もっともだった。


長縄は荷車へ戻してある。


残っていた厚板も一枚、現場から回収できた。


昨日貸した物は、これで縄一本と板二枚が全部戻る。


ただし、縄の革巻きはそのまま。


鴎泊へ着いたらマルクが見る。


影曲がりを抜ける前、ニルが俺たちを呼び止めた。


「上の荷場へ」


御者が止まる。


ニルは小さな木片へ炭で何か書いた。


文字は短い。


俺の位置からは全部読めない。


御者が受け取る。


「朝一?」


「積み車は待ち。空一台なら先に見てから」


「明日も?」


「明日は明日見る」


それで終わり。


明日の道を、今日のまま決めない。


ちょっとだけ格好いいと思った。


言ったらニルは嫌そうな顔をしそうだから、言わなかった。


上の荷場へ戻る。


ガンツは俺たちより先に別の短道で戻っていた。


早い。


俺が知らない道があるのかと思ったら、御者が言った。


「近道じゃない。あいつ走るの速い」


「ずるい」


「何がだ」


荷場で板を一度下ろす。


鴎泊へ返す印を付けるためだ。


そこにいた男が、俺の靴を見て言った。


「杉背まで行ったのか」


「行ってないです」


「その泥で?」


俺も靴を見る。


右足の溝に、灰色の泥がまだ詰まっている。


「影曲がりまで。杉背は見てないです」


男は「なんだ」と言った。


知らない人にまで残念がられた。


俺が一番残念なのに。


でも、不思議と昨日ほどじゃない。


今までは、杉背という名前だけが先にあった。


今はそこへ続く道の一部を知っている。


たった二十歩の日陰で車輪が止まること。


昼になると同じ場所が少し変わること。


道を見る人がいること。


その人も、道を止める人じゃないこと。


俺が一回触った棒では、地面のことをほとんど分からないこと。


名前だけより、こっちの方が面白い。


鴎泊へ戻ったのは、日が少し傾いてからだった。


港へ入る前に、ティムが見えた。


見えたというより、こっちを見つけて走ってきた。


「どうだった!」


第一声がそれだった。


マルクじゃない。


縄でも板でもない。


「荷車は戻った」


「知ってる。上から先に来た人が言ってた。杉背は?」


「見てない」


ティムの顔が止まる前に、後ろからハナが言った。


「その前に、今日こっちは網糸二束届いてるからね。あと小舟一隻、空樽三つ返してった」


「聞いてない」


俺が言う。


「いなかったから」


当たり前だった。


俺が東道へ行っている間も、鴎泊は普通に動いていた。


ティムが少し得意そうに顎を上げる。


「網糸、俺が数えた」


「一回十一って言ったけどね」


ハナが言う。


「束の中の巻き数と混ざっただけ」


「数える対象を途中で変えるな」


俺が笑うと、ティムが俺の肩を小さく押した。


「そっちは泥見てただけだろ」


「縄も持った」


「もっと地味」


「見てない」


ティムの顔が止まった。


「え」


「影曲がりまで」


「上番の人は?」


「いた」


「誰」


「ニル」


「どんな人」


質問が速い。


俺は荷台から板を降ろしながら答える。


「俺より先に靴見た」


「何それ」


「あと、あんまり喋らない」


「それだけ?」


「棒借りた」


ティムの顔が変わる。


「道見るやつ?」


「一回だけ」


「ずる」


「刺そうとして止められた」


「やっぱり」


「やっぱりって何だよ」


ハナが板の向こうから顔を出した。


「二人とも、再会の感想より先に板運んで」


「再会って、朝会ったじゃん」


ティムが言う。


「長く感じた」


俺が言うと、ティムが頷く。


「それは分かる」


ハナは分からない顔をした。


板を戻す。


マルクが長縄の革巻きを見る。


指で押す。


引く。


「ずれてないな」


俺は少し胸を張った。


「俺が押さえて、ティムが巻いたんで」


ティムも胸を張る。


「三周目は一回失敗したけど」


「言わなくていい」


「正確に」


マルクは縄を巻きながら言う。


「次使う前に、ここの中まで見る。今日はしまう」


長縄は倉へ戻った。


板も二枚戻った。


貸した物は全部帰ってきた。


マルクは札板の「長縄一本」「厚板二枚」の横へ、小さく線を引いた。


消したわけじゃない。


返ってきた印らしい。


「終わりですか」


俺が聞く。


「貸し物はな」


「荷車は?」


「上の荷場の仕事だ」


やっぱり、全部が鴎泊の仕事になるわけじゃない。


俺たちは縄と板が戻ったところで終わり。


荷車が明日どこへ行くかまで管理しない。


俺も帰ってきた。


靴だけ、東道の泥を持っている。


夕方、港の水で洗おうとしたらティムが止めた。


「待って」


「何」


「俺、ちょっと見る」


しゃがんで、俺の右靴の裏を覗く。


「これが影曲がり?」


「たぶん」


ティムは指で触ろうとして、途中でやめた。


「触らないの?」


「匂い嗅ぐ羽目になりそうだから」


「泥だよ」


「お前、今日朝から魚桶洗ってたじゃん」


確かに。


俺も触らないことにした。


水を掛ける。


灰色の泥が流れていく。


ティムが隣で、少し悔しそうに言った。


「次は俺も行く」


俺は靴を裏返したまま答えた。


「仕事があればね」


ティムが黙った。


一拍置いて、すごく嫌そうな顔をする。


「お前がそれ言うようになったの、ちょっと腹立つ」


俺は笑った。


「俺もちょっと思った」


杉背は、今日も見ていない。


次に曲がる理由も、まだない。


第319話 返ってきた縄は、戻っただけだった

【本文】


翌朝、杉背へ曲がる仕事はなかった。


俺は少しだけ安心して、少しだけがっかりした。


その二つが同時にあるのが、自分でも面倒くさい。


倉の前で長縄を見ながら立っていると、ティムが横から俺の顔を覗いた。


「今日、東?」


「仕事ない」


「じゃあ西?」


「なんで方角から決めるんだよ」


「昨日お前だけ東行ったから」


まだ言っている。


俺は巻いてある長縄へ手を掛けた。


「今日はこれ見るんだって」


「縄?」


「中まで」


ティムが一瞬黙る。


それから、革を巻いたところを指でつついた。


「中って、縄の?」


「たぶん」


「切るの?」


「たぶん切らない」


「何も分かってないじゃん」


「だから見るんだよ」


倉の奥からマルクが出てきた。


「二人とも、見る前に勝手に触るな」


俺とティムの手が同時に止まった。


マルクは長縄を持ち上げると、港の板の上へ少しずつ伸ばした。


全部は伸ばさない。


昨日、板の角で擦れたところだけ。


ティムが巻いた革は三周。


外から見ると、ずれていない。


昨日もそうだった。


「これ、成功じゃない?」


ティムが言う。


マルクは返事をせず、革の結びをほどいた。


一周目。


二周目。


三周目。


革を外す。


縄が出てくる。


俺は思わずしゃがんだ。


昨日見た時より、そこだけ少し平たい。


「切れてる?」


俺が聞く。


「全部は切れてない」


マルクは縄を曲げた。


今度は反対へ。


指で撚りを少し開く。


中の細い繊維の何本かが、白っぽく毛羽立っていた。


ティムの顔から得意そうな感じが消える。


「俺の巻き方?」


「違う」


マルクがすぐ言った。


ティムが一度だけ目を上げる。


「板角で擦れた時のだ。革はその後。広がらせなかっただけ」


「じゃあ、革は意味あった?」


「帰すにはな」


短い答えだった。


戻すためには役に立った。


戻ったから、次も使えるとは限らない。


昨日はそこまで考えていなかった。


「これ、まだ使うんですか」


俺が聞くと、マルクは縄を真っ直ぐに戻した。


「使い方による」


「荷車は?」


「重い引きはさせない」


「船は?」


「何を引く」


質問に質問で返された。


ちょうどその時、港の入口から声が飛んだ。


「マルク! 長いの空いてるか!」


三人で振り返る。


小舟の船頭が、濡れた上着のまま歩いてきた。


名前はボルだ。


たまに網と塩を運ぶ人で、声がいつも少し大きい。


「何する」


マルクが聞く。


「うちの舟、少し上へ寄せたい。昼に底見るんだよ。岸の短いのじゃ足りん」


ティムが俺を見る。


俺もティムを見る。


昨日までなら、たぶん「ある」と言っていた。


縄は返ってきている。


倉にもある。


でも今は、革が外されて、中の毛羽立ちまで見えていた。


マルクは長縄を足元へ置いた。


「これは出さない」


ボルが縄を見る。


「切れた?」


「切れる前」


「少し寄せるだけだぞ」


「少し寄せるだけでも、舟の重さは軽くならん」


ボルが口を開きかける。


閉じた。


縄をもう一回見る。


「昨日貸してたやつか」


「ああ」


「戻ったんだろ」


「戻った」


「じゃあ――」


そこでボルも止まった。


自分で言いかけて、何か違うと思ったらしい。


「戻っただけか」


マルクが頷く。


「そういうこと」


俺はその言い方が少し気に入った。


返ってきた。


でも、戻っただけ。


昨日までと同じ状態に戻ったわけじゃない。


ボルは頭を掻いた。


「じゃあ、向こうの舟から二本借りる。一本じゃ短いけど、別に今日じゃなくてもいい」


「あっちの縄も先に見ろよ」


「分かってるって」


「今、うちの見て“戻ったなら使える”って言った人が?」


ハナが籠を抱えて通りながら言った。


ボルが顔をしかめた。


「聞いてたのか」


「声大きいから」


「港で声小さい船頭、役に立たんぞ」


「今は岸にいるでしょ」


ハナはそのまま行った。


ボルはしばらく背中を見送ってから、小声になった。


「……あれくらい?」


俺は笑った。


ティムも吹き出した。


マルクだけは縄を見ている。


ボルは本当に別の舟へ行った。


俺たちの長縄を無理に借りようとはしなかった。


それで仕事が止まるわけでもなかった。


別の縄を探す。


時間をずらす。


舟の方が待つ。


選び方はいくつもある。


俺はマルクの横へしゃがんだ。


「これ、どうするんですか」


「今日はしまわない」


「捨てる?」


「まだ決めない」


また、すぐ答えが出ない。


マルクは毛羽立った場所の両側へ細い布を二本結んだ。


目印らしい。


「次に縄を扱う人へ見せる。重い仕事には出さない。それだけ」


ティムが革を拾う。


「これ、また巻かないの?」


「今巻いたら見えなくなる」


「あ」


昨日は守るために巻いたものが、今日は隠すものになる。


同じ革なのに。


ティムは何となく気まずそうに革を畳んだ。


「俺、昨日ちょっと完璧だと思ってた」


「三周目失敗してたじゃん」


「そこじゃない」


俺たちは長縄を壁際へ移した。


貸せる縄の場所じゃない。


でも廃棄の山でもない。


決まっていないものの場所。


そんな場所まで倉にあることを、俺は今まで気にしていなかった。


昼前、ボルの舟は別の縄二本を使って、少しだけ岸へ寄せられていた。


俺たちの手は要らなかった。


ティムが遠くから見て言う。


「普通に終わってる」


「終わるだろ」


「俺らの縄なくても」


「港、俺らの縄一本で動いてないから」


言ったあと、自分でちょっと偉そうだと思った。


ティムも同じ顔をした。


「昨日から急に大人みたいなこと言うじゃん」


「うるさい」


「杉背の泥で育った?」


「一日で?」


「成長効率いいな」


ハナが後ろから空籠を俺へ押しつけた。


「育った人、これ洗って」


「はい」


現実の仕事は、成長を待ってくれなかった。


そして長縄は、その日一度も使われなかった。


戻ってきた物が、次の仕事へすぐ戻れるとは限らない。


俺はそれを、縄一本で覚えた。


第320話 霧の中では、返事をする場所まで仕事だった

【本文】


昼を過ぎてから、海が消えた。


最初は遠い水面が白くなっただけだった。


その白さが、少しずつ近づいてきた。


対岸の低い岩が消える。


沖の杭が消える。


最後に、港口の外側まで見えなくなった。


「これ、雲?」


ティムが聞いた。


ハナが干していた布を取り込みながら言う。


「海に落ちてきたなら霧」


「じゃあ雲が落ちてきたら?」


「霧」


「同じじゃん」


「今そう言った」


ティムは納得していない顔をした。


俺は港口を見た。


見たと言っても、白いだけだ。


水と空の境目がない。


鴎泊でここまで近い霧を見るのは初めてだった。


俺はちょっと楽しくなった。


その顔を見たマルクが先に言う。


「出ないぞ」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「見るだけ」


「岸からな」


最近、俺の“見るだけ”は信用がない。


港の中の仕事は止まらなかった。


魚籠を洗う。


小樽を並べる。


朝から出していた長縄は、霧で湿る前に屋根の下へ移した。


使わない縄なのに、濡らさない仕事はある。


ティムと二人で運ぶ。


「重い引きには使えないのに重い」


ティムが言う。


「縄だから」


「軽い仕事しかしない縄は軽くなってほしい」


「お前が軽く持てば」


「その技、先に覚えて」


覚えられるなら俺も欲しい。


港の外から、何も聞こえない。


霧は音まで全部消すのかと思った。


でも、しばらくすると逆だった。


見えないせいで、音だけが急に近い。


板を打つ音。


誰かが樽を転がす音。


水が岸へ当たる音。


いつもなら気にしない音が、一つずつ前に出てくる。


「まだ戻ってないの、誰?」


俺が聞くと、マルクは札板を見た。


「西の浅場へ出た小舟が一つ」


ティムの顔から笑いが少し減る。


「遅い?」


「まだ遅いって時間じゃない」


マルクは淡々としている。


「霧見て外で待つこともある」


「迎えに――」


俺が言いかける前に、マルクがこっちを見る。


「行かない」


「言ってない」


「言う顔だった」


今日は顔に全部出るらしい。


ハナが横で布を畳みながら、少し笑った。


「レン、顔だけ先に仕事作るのやめたら」


「作ってないって」


「今の“迎えに”は何」


「迎えに来るなら、どこ見るのかなって」


「苦しい」


ティムまで言った。


俺は魚籠をもう一つ洗った。


少しして、港口の方から音がした。


こん。


一回。


少し間がある。


こん、こん。


今度は二回。


俺は手を止めた。


ティムも止まる。


「聞いた?」


「聞いた」


マルクが札板から顔を上げた。


ハナは洗い桶を持ったまま、港口を見る。


もちろん何も見えない。


もう一度。


こん。


木を叩くような音。


そのあと、遠くから声がした。


「おーい!」


ティムがすぐ返した。


「おーい!」


「待て」


マルクが止める。


ティムの口が半分開いたまま止まった。


「何」


「そこから返すな」


「聞こえたじゃん」


「倉の壁がある」


マルクは港口の右側を指した。


「外石まで行け。走るな」


俺とティムが同時に動いた。


「一人」


止められた。


ティムが俺を見る。


俺も見る。


「じゃんけん?」


「違う」


マルクが俺を指した。


「レン。ティムはここ。返事が二か所から飛ぶと面倒だ」


ティムがすごく不満そうな顔をした。


俺はちょっとだけ勝った気がした。


それが顔に出たらしい。


「転べ」


「最低だな」


走らず、外石まで歩く。


濡れた板が滑る。


途中で一度、右足がつるっといった。


転ばなかった。


後ろからティムの声がした。


「惜しい!」


聞こえてるぞ。


外石は、港口の内側にある平たい大岩だ。


晴れていれば沖を見る場所。


今日は白い壁を見る場所だった。


俺はそこで止まる。


また声。


「おーい!」


今度はさっきより左に聞こえた。


「こっち!」


返す。


少しして。


「どっちだ!」


どっちと言われても困る。


俺は自分の場所を見た。


港の外石。


「外石! 港口の右!」


返事がない。


聞こえなかったのかと思った。


もう一回言おうとした時、背後から男の声がした。


「連続で叫ぶな」


ボルだった。


朝の舟の船頭。


いつの間にか後ろへ来ている。


「何で?」


「向こうも返す。重なると分からん」


俺は口を閉じた。


白い中を見る。


見えない。


その代わり、耳を使う。


しばらくして。


「聞こえた! そのまま!」


声が返ってきた。


ボルが俺の横へ立つ。


「次、聞こえるまで待て」


「はい」


「あと、海へ身乗り出すな」


「出てない」


「今、半歩出た」


見られていた。


後ろからティムが何か言っている。


遠くて聞き取れない。


「何?」


俺が振り返ると、ボルが笑った。


「今度はお前が聞こえてないじゃん」


確かに。


霧の中の声だけを気にして、後ろの声が消えていた。


もう一度、木を叩く音。


こん、こん。


今度は近い。


ボルが言う。


「舟べり叩いてるな。位置知らせてる」


白い中から、黒い影が出た。


最初は棒に見えた。


次に人。


その下に舟の先。


小さい。


思っていたよりずっとゆっくり進んでいる。


「見えた!」


俺が言うと、舟から声が返った。


「そっちも見えた!」


知らないうちに笑っていた。


でも、まだ終わりじゃない。


舟は港口の真ん中じゃなく、少し外へ寄っている。


ボルが俺へ言う。


「もう叫ぶな。ここからは中のやつに任せろ」


「はい」


俺たちは外石から下がった。


舟の方から短い綱が投げられる。


最初の一投は届かない。


水へ落ちる。


ティムが拾おうとして前へ出る。


ハナが服の背中を掴んだ。


「足から行くな」


「取れるって」


「次が来る」


本当に次が来た。


二投目。


今度は港側の男が取る。


俺じゃない。


ティムでもない。


慣れている人が取る。


舟はゆっくり寄った。


岸へぶつけない。


最後に船頭が手で板を押して、止まった。


誰も助かったとは言わなかった。


そもそも遭難していない。


舟の船頭は降りるなり、最初に言った。


「腹減った」


ティムが目を丸くした。


「それ?」


「霧の外で待ってたんだよ。戻っても入れんと思って」


「危なくなかった?」


「見えん時に入る方が危ないだろ」


普通の答えだった。


霧の中を突破して帰ってきたわけじゃない。


見えないから、見えるまで待った。


それだけ。


船頭は舟の中から小さな籠を二つ出した。


魚は少ない。


「今日はこれだけ。待ってる間に逃げた」


「魚が?」


ティムが聞く。


「俺のやる気が」


船頭が言った。


ボルが笑う。


「元から少ないだろ」


「お前よりある」


二人は普通に言い合いを始めた。


俺は外石の方を見た。


霧はまだ白い。


でも、さっきまでとは少し違う。


何も見えない場所じゃない。


声を返す場所を間違えると、相手の向きまで変わる場所。


返事をすればいいんじゃない。


どこから返すかも仕事になる。


今日はそれを、一回だけ知った。


《技能を習得しました》は、もちろん出ない。


俺はただ、次に霧が来たら外石の位置を先に見ると思う。


それくらいだった。


第321話 白い二枚帆は、港へ来なかった

【本文】


霧は、夕方まで港口に残った。


ずっと同じ濃さじゃない。


薄くなって、また白くなる。


少し先の岩が見えたと思ったら、次に見た時には消えている。


俺は何度か外石の方を見た。


そのたびにマルクから「見るだけ」と先に言われた。


「もう分かってるって」


「分かってるやつは三回も同じ方見ない」


「霧の濃さが変わってるから」


「なら霧見てろ。船探すな」


見抜かれていた。


戻ってきた小舟は、港の内側へしっかり結ばれている。


船頭は遅い昼飯を食べていた。


硬いパンと、魚を煮た残りみたいなもの。


ティムが近くを通るたび、匂いだけ嗅いでいく。


三回目で船頭が言った。


「食うか?」


ティムが止まる。


「いいの?」


「匂いだけ持ってかれる方が気になる」


「じゃあ少し」


「少しって言うやつは大体多く取る」


ティムは本当に小さい切れ端だけ取った。


船頭の方が驚いた顔をした。


「遠慮できるのか」


「できますよ」


「いつもは?」


「相手による」


俺は横で笑った。


ティムがすぐこっちを見る。


「お前も食う?」


「いらない」


「相手による?」


「昼食った」


そんな話をしている間にも、港は動いていた。


霧で出るのを遅らせた舟が二隻。


逆に、港の内側だけ動く小舟はそのまま仕事をしている。


誰も「霧だから全部止めよう」とは言わない。


見える範囲でやる。


待つものは待つ。


俺はそれが少し面白かった。


朝の長縄は、屋根の下に伸ばされたままだ。


傷んだ場所に布の目印が二つ。


海は白い。


東道は、今日は何も来ない。


杉背のことも、ニルのことも、誰も話さない。


世界は昨日の続きを俺のために用意してくれていなかった。


それでいいと思えるようになったのは、たぶん最近だ。


小舟の船頭が、最後のパンを口へ入れた。


ボルが横から聞く。


「外、どこまで白かった」


船頭は噛みながら、手で沖の方を指した。


「湾口の外は逆に薄かった。西の浅場までは平気。戻る時にこっちだけ真っ白」


「風は?」


「ほとんどない」


「だから残ったか」


二人の会話は、俺には半分くらいしか分からない。


でも、聞いているだけでも海の形が少し変わる。


港が白いから、外も全部白いわけじゃない。


船頭が水を飲んだ。


そのまま何でもない声で言う。


「そういや、白い帆の大きいの、外にいたぞ」


俺の手が止まった。


手に持っていた空籠の縁が、板へ当たる。


こつ。


ティムが先に俺を見る。


俺は船頭を見る。


マルクは札板から顔を上げた。


ボルだけが普通に聞いた。


「どの辺」


「南西寄り。浅場よりずっと外。霧入る前」


「一枚?」


「二枚に見えた」


ティムが俺の袖をつまんだ。


声は出さない。


俺も出さなかった。


白い二枚帆。


前に鴎泊へ来た船と、同じ言葉だ。


でも、同じ船とは限らない。


白い帆が二枚ある船なんて、他にもいるかもしれない。


距離もある。


霧が来る前に見ただけ。


マルクが船頭へ聞く。


「船体見えたか」


「長くは見えた。色までは分からん」


「旗」


「見てない」


「こっち向いてた?」


船頭は少し考えた。


パンの欠片を指で払う。


「いや。北東……かな。こっちへ切った感じはなかった」


ボルが言う。


「沖通る荷船じゃねえの」


「かもな」


「大きさは」


「遠いから分からん。俺の舟より大きい」


「それ、だいたい全部だろ」


ボルが笑った。


船頭も笑う。


情報が急に頼りなくなった。


でも、その方が本当っぽい。


見えたものしか分からない。


船の名前も。


どこから来たかも。


何を積んでいるかも。


前に来た二枚帆と同じかも。


何一つ確定していない。


ティムが袖を離した。


小声で聞く。


「前の?」


「分からない」


「魚油の?」


「分からない」


「丸に二本の?」


「分からないって」


三回目は少し強く言った。


ティムが口を閉じた。


怒ったわけじゃない。


たぶん、自分にも言っていた。


前の船へつなげたくなる。


俺はそういうのが好きだ。


線が一本できると、すぐ先まで引きたくなる。


でも、前に荷印でやった。


似ているものが、同じとは限らない。


マルクが俺を見た。


「追うなよ」


「海を?」


「話を」


先に言われた。


俺は少し笑う。


「まだ一個しかないです」


「一個で走るから言ってる」


ティムが横で頷く。


「分かる」


「お前は俺側だろ」


「今日はマルク側」


「何で」


「俺も走りそうだから」


それは正直だった。


船頭は俺たちの会話を見て、首を傾げる。


「知ってる船か?」


マルクが答えた。


「似た見た目のが一度来た。それだけだ」


「へえ」


船頭はそれ以上聞かなかった。


その程度の話だった。


夕方、霧が少しずつ切れた。


港口の外側が戻ってくる。


最初に岩。


次に杭。


最後に、その先の水面。


俺は白い帆を探さなかった。


探しても、もう見える距離にはいない。


そもそも同じ船かも分からない。


それでも、胸の奥が少しざわついている。


杉背へ行きたかった時とは違う。


あの時は、俺が理由を探していた。


今回は違う。


俺は東道から戻って、港で縄を見て、霧の小舟を迎えただけだ。


その間に、海の外で何かが動いた。


同じ船かもしれない。


違う船かもしれない。


そして、そのどちらでも、今の俺にできることはない。


ティムが隣へ来た。


「明日、来るかな」


「分からない」


「来なかったら?」


「仕事する」


ティムが嫌そうな顔をした。


「最近そればっか」


「じゃあ何て言えばいいんだよ」


「“来るまで海を見る”」


「マルクに怒られる」


少し離れたところから声が飛んだ。


「聞こえてるぞ」


二人で黙った。


ハナが笑った。


霧の向こうに、白い帆は見えなかった。


港へ来るとも決まっていない。


でも今度は、俺が先へ行く理由を作らなくてもよかった。


もしあれが前の船なら。


海の方が、先に動いていた。


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