第304話 赤い布を外す前に、荷物の方が来た
【本文】
朝、港へ下りると、二台目の荷車にはまだ赤い布が結ばれていた。
昨日と同じ場所。
右後ろの柵。
風が吹くたび、細い布の端だけがぱたぱた動く。
ティムはそれを見て、何の迷いもなく手を伸ばした。
「外しとく?」
横にいた御者が、縄の端でティムの手の甲を軽く叩いた。
「なんでだ」
「朝になったから」
「朝になったら木栓が勝手に新品になるのか」
ティムは赤い布を見た。
それから車輪を見る。
「……ならないね」
「なら触るな」
俺は笑いながら、荷台の下へ潜りかけたティムの襟を引いた。
昨日は音が消えて、空荷でここまで帰ってきた。
でも、次に荷を積む前には替えろと言われている。
そこだけは変わっていない。
変わったのは、荷の方だった。
受取場の前には、塩袋が二つと空樽が三つ並んでいた。
昨日までなかった荷だ。
マルクが札を片手に立っている。
「北の石小屋。昼前に出したい」
俺が荷を見るより先に、御者が二台目を見た。
「これ使うつもりだった?」
「使えればな。ほかの一台は朝一で網場、もう一台は材木積んで出た。四台目は馬の蹄を見てもらってる」
マルクはそこで塩袋を足先で軽く押した。
「だからって、これへ積めとは言わん。直ってからだ」
塩袋の横で待っていた男が、少しだけ顔をしかめた。
「昼前って言ったんだけどな」
マルクが男を見る。
「聞いてる。荷車が壊れても昼前でいいなら積むぞ」
「いや、それは困る」
「じゃあ待てるか、別口を探すかだ」
男は塩袋を見る。
港の外を見る。
もう一度、二台目の赤い布を見る。
「昼を少し過ぎるくらいなら待つ。樽は急がん」
言ってから、空樽を一つ蹴った。
乾いた音がした。
「塩だけ先でもいい」
「それは戻ってから決める」
マルクは札へ何か書いた。
俺たちへ向き直る。
「空で車輪屋まで持っていけ。昨日の職人に見せる。レン、ティム、行けるか」
ティムが先に頷いた。
「空荷なら楽そう」
御者が鼻で笑う。
「お前、昨日それで一回学んだだろ」
「人が乗ってない空荷です」
「言い直しても賢くは聞こえん」
出発の準備は早かった。
積む物がないからだ。
馬具を見る。
車輪を見る。
赤い布はそのまま。
俺は右後ろを覗き込んだ。
昨日の木栓は、見てもやっぱりただの木に見える。
擦れて白くなったところも、言われれば分かる程度だ。
「触るなよ」
御者が言った。
「見てるだけ」
「お前の“見てるだけ”は手が近い」
俺は手を後ろへ回した。
ティムが隣で笑う。
「俺より怒られてる」
「お前はもう一回怒られた後だ」
港を出る。
昨日は四台で通った道を、今日は一台だけで戻る。
同じ道なのに、前後の車輪音がないだけで妙に広く感じた。
途中、昨日ラドが一度降りた荒れた区間を通った。
荷台は空だ。
人も乗っていない。
それでも車輪は跳ねる。
ティムが荷台を見ながら言った。
「昨日より揺れてない?」
御者は前を向いたまま返した。
「軽いから跳ねる」
「軽い方が静かだと思ってた」
「馬も荷車も、お前の思う通りにはならん」
「レンは?」
「もっとならん」
「なんで俺まで入るんだよ」
俺が言うと、御者は少しだけ笑った。
車輪屋へ着いたのは、朝の仕事が一段落する前だった。
昨日と同じ削り屑が店の前にある。
昨日と違うのは、ラドが入口の脇に椅子を出して座っていたことだ。
右足はまだ厚布で巻かれている。
膝の上に細い木片を置き、手だけで角を削っていた。
俺たちを見るなり、ラドが眉を上げた。
「また人を乗せに来た?」
「今日は荷車だけ」
ティムが答える。
ラドは二台目の右後ろを見て、すぐ昨日の赤い布に気づいた。
「ちゃんと付けて帰ったんだ」
御者が言う。
「お前んとこの人が付けろって言った」
「じゃあ外すのも、うちの人にやらせた方がいい」
奥から木槌の音が止まった。
昨日の職人が出てくる。
「朝から戻ってくる顔じゃないな」
「荷積む前に替えろって言ったの、そっちだろ」
「ああ。言ったな」
職人は赤い布を見て、それから俺たちを見た。
「で、誰か勝手に外したか」
ティムが手を後ろへ隠した。
「未遂です」
「じゃあまだ人間だな」
何を基準にしてるんだ。
荷車を店の脇へ寄せる。
馬を外すほどではないらしい。
車体を少し上げ、右後ろの車輪へ重さがかからないようにする。
俺は角材を運んだ。
ティムは頼まれていない木槌まで持ってきて、一度戻された。
「それじゃない」
「木槌、いっぱいあるんだね」
「だから勝手に選ぶな」
ラドが椅子の上で笑っている。
「昨日より仕事増やしてるじゃん」
「座ってる人に言われたくない」
ラドが立ちかけた。
奥の職人が振り返りもせず言う。
「立つな」
ラドは座った。
速い。
木栓を抜くところを、俺は少し離れて見た。
昨日より簡単に抜けた。
それが良いことなのか悪いことなのか分からない。
抜けた木栓を職人が掌で転がす。
「端、減ってるな」
ティムが横から覗く。
「同じ形の作ればいい?」
職人はティムを見た。
「どの形を同じにする」
「これ」
「減った後のこれか?」
ティムが黙った。
俺も黙った。
言われるまで考えていなかった。
古い物を見て、そのまま同じ物を作れば戻る。
そういう話じゃない。
使って減った形を写したら、減った状態を作ることになる。
職人は棚から乾いた木の棒を数本出した。
太さが少しずつ違う。
一本を穴へ当てる。
入らない。
二本目。
少し細い。
三本目を手にして、職人は小刀で角を削り始めた。
「決まった大きさじゃないんですか」
俺が聞く。
「この車を俺が作ったなら、もう少し近いのは出せる。これは別のとこの車だろ」
御者が頷く。
「北の中古」
「なら、穴も癖も見て合わせる」
「全部違う?」
「全部同じなら俺はもっと暇だ」
ラドが入口から口を挟む。
「暇になったら機嫌悪くなるよ」
「今も悪い」
「知ってる」
会話はそこで終わった。
職人の手だけが動く。
削る。
当てる。
戻す。
もう少し削る。
俺はつい穴の中を覗こうとして、職人の肘の近くへ顔を出した。
「指入れるなよ」
「まだ入れてない」
「入れそうな顔してる」
昨日と同じことを言われた気がする。
ティムが笑った。
「レン、顔で怒られてる」
「お前は手で怒られたろ」
新しい木栓は、一度目では少しきつかった。
抜く。
ほんの少し削る。
二度目。
途中まで入る。
職人が木槌で軽く叩く。
音を聞いて止める。
「ここ」
何が“ここ”なのか俺には分からない。
ラドだけが、椅子から身体を前へ傾けた。
職人は栓の側面を薄く削り直し、三度目で入れた。
車輪を回す。
一周。
二周。
三周。
昨日の「かち」はしない。
ティムが言いかける。
「直――」
職人が先に指を立てた。
ティムは口を閉じた。
俺は笑った。
「言う前に止められたな」
「学習した」
「今のは向こうが早かっただけだ」
職人は車体を下ろす。
「港まで空で戻れ。途中で一回止めて、栓が浮いてないか見る。戻ったらもう一回。そこで何もなければ、荷は積んでいい」
御者が聞く。
「今日の昼から?」
「今日でも明日でも。見るのは同じ」
「重いのは?」
「いきなり限界まで積むな。普段の荷で使え」
限界まで試して安全を証明する、ではないらしい。
いつもの仕事で。
途中で見る。
おかしければ止める。
そういう戻し方だった。
赤い布を外したのは職人だった。
ただし捨てない。
丸めて御者へ渡す。
「また何かあったら使え」
御者が受け取る。
ティムが小声で言う。
「縁起悪くない?」
ラドが聞きつけた。
「布に罪ないだろ」
「昨日からずっと悪いことの印なんだけど」
「悪いことじゃなくて、触るなって印」
「もっと嫌だな」
俺は荷車へ手をかけた。
港までの帰り道。
荷台はまだ空だ。
途中で一度止まり、右後ろを見る。
栓は浮いていない。
音もない。
御者が触って。
俺も触ろうとして。
一拍遅れて手を止めた。
「触っていい?」
御者が俺を見る。
「今日は聞いたな」
「成長した」
「それくらいでレベルは上がらんぞ」
ティムが笑った。
本当に上がらなかった。
視界の端にも。
頭の中にも。
何も出ない。
それでも、朝の赤い布はもうない。
港へ戻れば、塩袋と空樽が待っている。
――そう思っていた。
第305話 直った荷車に、朝の荷は残っていなかった
【本文】
塩袋はなかった。
空樽もなかった。
受取場の前にあったのは、丸めた濡れ網と、誰かが食べ終えた豆の殻だけだった。
ティムが荷台から身を乗り出す。
「え。どこ行った?」
マルクは板の前で別の荷札を見ていた。
顔も上げない。
「北」
「待っててくれなかったの?」
そこでマルクが顔を上げた。
「何を」
「荷を」
「荷は人を待たん。出せる車が見つかったから出した」
朝の男は、昼を少し過ぎるくらいなら待つと言っていた。
でも、その後で小さい荷車が二台空いたらしい。
塩は一袋ずつ。
空樽は片方へ二つ、もう片方へ一つ。
一台で運ぶより面倒だったはずだ。
それでも、待つより早かった。
ティムが少し残念そうな顔をする。
「じゃあ、何のために急いで直したんだろ」
御者が右後ろの木栓を確認しながら言った。
「次に使うためだろ」
「朝の荷のためじゃなくて?」
「荷車は朝の荷専用じゃない」
マルクが札を板へ戻す。
「修理待ちの間、荷まで止める理由はない。逆も同じ。荷がなくても壊れた車を置いとく理由はない」
話としては分かる。
気持ちは、少し分かりにくい。
俺もどこかで、直して戻れば朝の荷が待っていると思っていた。
そこで“間に合った”になる気がしていた。
でも、世界の方は俺たちの修理完了を待っていなかった。
「じゃあ今、仕事ない?」
ティムが聞く。
マルクは港を見る。
「ある」
「何」
「昼飯」
ティムの顔が明るくなった。
「いい仕事」
「食うだけだ」
「得意」
俺たちは倉の陰へ座った。
今日の昼は固いパンと、豆を潰した塩気の強いペースト。
それに薄いスープ。
ティムはパンを一度、二台目の車輪の上へ置こうとした。
御者が何も言わずに見た。
ティムは手を止めた。
「置かないです」
「まだ何も言ってない」
「顔で言った」
俺は笑った。
右後ろの木栓は、港へ戻った時にも浮いていなかった。
御者は車輪を一周させ、音を聞いた。
赤い布は戻さなかった。
それで“完全に直った”の札が出るわけでもない。
ただ、使う側が見て、次へ回す。
昼飯を食べ終える頃、煙場の女が港へ来た。
背中に空籠を二つ重ねている。
マルクへ何か話す。
俺たちの方を見る。
二台目を見る。
「その車、使える?」
御者が先に答えた。
「何積む」
「薪。乾いたの六束。煙場まで」
「重さは?」
「いつもの束。濡れてない」
御者はマルクを見る。
マルクは俺たちを見ない。
荷札を一枚取って、女へ確認する。
「今日中?」
「火を落とす前なら」
急ぎではない。
距離も短い。
受取先も分かっている。
御者が二台目の荷台を叩いた。
「これで行く」
ティムが俺へ小声で言う。
「試す?」
御者が聞いていた。
「仕事だ。試験じゃない」
「でも直した後の最初の荷だよ」
「だから見る。見るけど、荷の方が本番だ」
少し違うらしい。
俺は薪置場へ向かった。
六束。
一束ずつなら持てる。
二束まとめると、腰が嫌な感じになる。
ティムが二束持ち上げようとして、すぐ一束に戻した。
俺は何も言わなかった。
「今笑った?」
「笑ってない」
「口が」
「薪見てた」
「薪見て笑う人いる?」
「知らない」
女が横から言った。
「早く積んで。火止めたくないから」
二人とも黙って積んだ。
薪は荷台の中央へ寄せる。
前後へ動かないよう、縄を二本。
俺が右後ろばかり見ていると、御者が肩を叩いた。
「車輪は俺が見る。お前は縄」
「分かった」
「あと道」
「分かった」
「あと前」
「増えてない?」
ティムが笑う。
「レン、車輪見すぎ」
「昨日鳴ってたから気になるんだよ」
「見て直る?」
「直らない」
「じゃあ俺と同じだ」
一緒にするなと思ったけど、少しだけ同じだった。
煙場までは、港から坂を一つ上がる。
四台で走った北道ほど荒れていない。
荷を積んだ二台目は、空の時より跳ねなかった。
でも重い分、下りでは押してくる感じがある。
右後ろは静かだった。
半分ほど進んだところで御者が止めた。
俺がすぐ車輪へ寄ろうとすると、御者は先に馬の鼻面を撫でた。
「先にこっち」
馬が少し汗をかいている。
昨日まで、荷車の具合だけ見ればいいような気になっていた。
でも荷車は馬が引いている。
俺は反対側へ回り、水袋を取った。
ティムは右後ろを覗く。
「浮いてない」
「触った?」
「見ただけ」
「成長したな」
「レンより早い」
俺は水袋を渡すふりをして、少し高い位置にした。
「届かない」
「成長しろ」
「そういう意味じゃない」
御者が笑った。
車輪はそのまま。
木栓もそのまま。
煙場へ着く。
女は俺たちより先に荷台へ手をかけた。
「その二束、奥。残りは壁」
「全部同じ薪じゃないの?」
ティムが聞く。
「奥は今日。壁は明日」
「薪にも順番あるんだ」
「濡れたらある」
今日の六束は乾いている。
でも煙場の奥は火に近い。
壁際は風が通る。
全部を同じ場所へ置けばいいわけではない。
荷を降ろした後、御者はまた右後ろを見る。
今度は俺も隣にしゃがんだ。
木栓は浮いていない。
擦れる音もない。
「これで直ったって言っていい?」
ティムが聞く。
御者は少し考えた。
「今日の荷では問題ない」
「言い方が職人に似てきた」
「昨日怒られたからな」
俺は笑った。
港へ戻る頃、陽が傾き始めた。
入口で、北から来た荷車とすれ違う。
車輪に白い泥が固まっている。
泥というより、薄い殻みたいだった。
御者が相手へ声をかけた。
「上、凍った?」
北から来た男が手綱を緩める。
「朝だけ。切通しの影。昼にはぐちゃぐちゃ」
ティムが荷車から身を乗り出した。
「凍った方が走りやすい?」
男は笑わなかった。
「平らならな」
「平らじゃない?」
「轍ごと固まる」
男は自分の車輪を指す。
白く固まった泥の中に、細い筋が何本も入っている。
「朝一、二回滑った。馬じゃなくて車輪が横へ逃げた」
御者の顔が少し変わる。
「どの辺」
「北の低道。日が当たる前だけ。上道はまだまし」
「明日も?」
「知らん。俺は今日の朝を見ただけ」
そこが妙に良かった。
明日も凍る。
そうは言わない。
今日、凍っていた。
それだけ持ってきた。
男は港へ入っていった。
二台目を元の場所へ戻す。
マルクが板へ新しい札を差した。
「明朝、北の樽屋。塩一袋、冬布一包み。受取人確認済み」
俺は札を見る。
御者は北の道を見る。
ティムは地面を蹴った。
「明日、固いかな」
御者が言う。
「固いのと、走りやすいのは別だ」
右後ろの車輪は直った。
次に気にするのは、地面の方らしい。
第306話 凍った泥は、固い道じゃなかった
【本文】
朝、草が白かった。
雪じゃない。
葉の縁と、柵の上と、屋根の薄い板だけが白い。
ティムが指で触る。
「冷た」
「見れば分かるだろ」
「触るともっと分かる」
俺も触った。
冷たかった。
ティムが勝った顔をした。
「何」
「同じことした」
「確認しただけ」
「俺も」
御者が馬具を締めながら言う。
「二人とも確認終わったなら働け」
荷は少ない。
塩一袋。
冬用の厚布が一包み。
受取先は北の樽屋。
昨日直した二台目を使う。
御者は右後ろを先に見た。
木栓。
車輪。
軸まわり。
俺も見る。
「浮いてない」
ティムが言う。
「俺が言おうと思ってた」
「早い者勝ち」
「勝ち負けじゃない」
マルクは荷札を御者へ渡した。
「昨日の北便が、低道の切通しで朝だけ凍結を見た。今日は現地未確認。無理なら上へ回れ」
御者が頷く。
「出発遅らせる?」
俺が聞くと、御者は空を見る。
「日が当たるまで待てば、今度は溶けて泥になる。どっちがましかは道見て決める」
正解が先に決まっていない。
出発する。
港を出た辺りは普通だった。
地面は硬い。
昨日までの泥が締まって、むしろ歩きやすい。
ティムが靴底で二度踏む。
「今日、楽じゃない?」
御者は返事をしなかった。
俺も少しだけそう思った。
昨日、車輪が沈んだ場所も今日は跡が固まっている。
馬の蹄も深く入らない。
これは当たりかもしれない。
そう思ったのは、切通しの手前までだった。
道が山影へ入る。
光が消える。
同時に、地面の色が変わった。
土色のままなのに、表面だけ薄く光っている。
轍の底に水が残ったまま固まったらしい。
御者が手を上げた。
「降りる」
ティムが俺を見る。
「もう?」
「降りる」
御者が二回言った。
俺たちは荷台の横から地面へ降りた。
最初の一歩で、ティムの右足が半分滑った。
「うわ」
転びはしない。
でも腕だけ大きく振った。
俺は笑いそうになって、次の一歩で自分も滑った。
ティムがすぐ見る。
「今笑おうとしたでしょ」
「してない」
「俺より腕振ってた」
「黙れ」
御者は笑わない。
馬の横へ立ち、手綱を短く持つ。
「轍へ入れるな」
「車輪?」
「馬も」
道の中央には、昨日まで何台も通った深い跡がある。
普段なら車輪をそこへ入れた方が安定する。
今日は逆だった。
轍の底が一番光っている。
御者は道の左端を歩いた。
俺も続く。
土と小石が混じっていて、中央よりざらついている。
「こっちなら?」
「まだまし。決めるのは馬だ」
馬は鼻を鳴らし、一歩ずつ進む。
荷車の右輪が一度、中央側へ滑った。
数センチ。
それだけなのに、荷台全体が横へ動いたように感じた。
ティムが反射的に荷台へ手を伸ばす。
「押すな」
御者の声が飛ぶ。
ティムが手を引く。
「支えようと」
「人一人で止まる重さじゃない。挟まれる」
ティムの顔が少し固くなった。
俺も同じことをしそうだった。
昨日までなら。
たぶん手を出していた。
荷車が少し横へ動くと、身体は勝手に“戻したい”と思う。
でも、戻せるかどうかは別だ。
御者が馬を止める。
「一回下がる」
「下がれる?」
俺が聞く。
「今ならな」
数歩だけ戻す。
そこから、轍を外して左端へ入り直す。
俺とティムは荷台の後ろではなく、少し離れて歩く。
必要な時だけ声を出す。
「右、石」
俺が言う。
御者が見る。
「それは踏んでいい」
「いいんだ」
「全部避けたら道がなくなる」
ティムが笑った。
「それ、レンに言っといた方がいい」
「なんで俺」
「全部気にするから」
否定しにくい。
切通しは長くなかった。
でも、抜けるまでに三回止まった。
一回戻った。
荷は崩れていない。
馬も転んでいない。
それでも港からここまでの倍くらい疲れた気がした。
日向へ出る。
土は普通の色に戻った。
ティムが大きく息を吐く。
「固い道、楽じゃなかった」
御者が言う。
「固いのと滑らないのは別だって昨日聞いただろ」
「聞くのと滑るのは違う」
俺は笑った。
それは分かる。
少し進んだ場所で休憩する。
御者は馬を見る。
俺は荷の縄を見る。
ティムは、今度こそ右後ろの木栓を見る。
「こっちは大丈夫そう」
御者が隣へしゃがむ。
「そうだな」
昨日替えた木栓は、そのままだ。
道路が変わっても。
車輪が横へずれても。
今のところ浮いていない。
俺は少し嬉しくなった。
自分で直したわけでもないのに。
「なんでレンが満足そうなの」
ティムに見つかった。
「昨日見てたから」
「見てただけじゃん」
「角材運んだ」
「俺も木槌運んだ」
「違う木槌をな」
御者が吹き出した。
休憩後は上道へ回った。
距離は増える。
坂も少し長い。
でも日が当たっている。
道幅もある。
速い方を選ぶ、ではなかった。
今通れる方を選ぶ。
樽屋へ着いたのは、予定より少し遅れた。
受取人の男は、荷札より先に馬を見た。
「滑った?」
御者が答える。
「切通しだけ」
「やっぱりか。朝、井戸桶の縁まで凍ってた」
「上は?」
「知らん。昨日の夕方は降ってない」
男は塩袋を持ち上げようとして、腰を入れ直した。
「重っ」
ティムが手を出す。
「二人で持つ?」
「最初からそうする」
二人で運ぶ。
俺は冬布を抱えた。
厚布は見た目より重い。
前にも思った。
店の中へ入れると、奥に同じような包みが二つ積んである。
「冬支度?」
俺が聞く。
男が布の端を整えながら言う。
「まだ途中。上の村はもっと早い」
「雪?」
「ここじゃまだ」
“ここじゃ”が少し気になった。
外へ出る。
北の空は晴れている。
でも、遠い稜線の一つだけ色が違った。
白い。
雲かと思った。
動かない。
ティムも見つけた。
「あれ、昨日あった?」
御者が目を細める。
「知らん。俺は昨日、そこ見てない」
樽屋の男が戸口から出てきた。
「あっちは朝、白かったって話だ。雪か霜かまでは聞いてない」
また、分からないまま止まる。
雪だ。
冬が来た。
そう決めるには遠すぎた。
その時、北側から別の荷車が一台下りてきた。
荷台は空。
御者台の横に、丸めた縄と薄い板が積んである。
樽屋の男が手を上げる。
「上、どうだった」
下りてきた御者は馬を止めず、声だけ返した。
「朝だけ白い! あと、上の荷場が明後日まとめて出すって!」
「何台」
「三つって言ってたけど、四つになるかも!」
荷車はそのまま通り過ぎる。
ティムが振り返った。
「何を?」
もう少し離れたところから声が返ってきた。
「冬前の分!」
それ以上は聞こえなかった。
三台か四台。
何を積むのか。
どこまで行くのか。
俺たちに関係があるのか。
何も分からない。
分かったのは。
朝の道が、昨日と同じじゃなくなったこと。
遠い稜線が、少し白く見えたこと。
そして北の荷場が、明後日、何かをまとめて動かそうとしているらしいこと。
俺は空になった荷台へ手をかけた。
ティムが隣で鼻をすすった。
「寒くなってきた」
「さっき霜触るからだろ」
「レンも触った」
「確認しただけ」
「俺も」
同じ会話を朝にもした。
御者が馬を返す。
「帰るぞ。帰りの切通し、もう溶けてるかもしれん」
朝は凍っていた道が。
帰りには泥へ戻っているかもしれない。
一日で二つ。
道の方が、こっちより忙しい。
俺は北の白い稜線をもう一度だけ見てから、荷車の横を歩き始めた。
第307話 三台か四台の話は、先に縄だけ戻ってきた
【本文】
朝、港の板が白くなっていた。
昨日の切通しほどじゃない。
踏めばすぐ濡れるくらいの薄い霜だ。
ティムは倉の前で両手をこすり合わせ、そのまま俺の首筋へ片方を突っ込んできた。
「冷たっ! 何すんだよ」
「分けた。朝の冷たさ」
「いらないって。それ、昨日の俺の言い訳だろ」
手首をつかんで引きはがすと、ティムは笑いながら逃げた。
ハナが空籠を積み直している。
こっちを見もしない。
「朝から元気だね。二人とも、その手で豆袋触らないでよ」
「俺は被害者」
「冷たい手で荷を触る被害者はいない」
俺は濡れた掌を服の横で拭いた。
港はいつも通りだった。
港の朝は、寒くなると音まで少し違う。
濡れた板を踏む靴の音が高くて、縄を引く音は乾いている。昨日まで素手で触っていた鉄の輪も、今日は握るとすぐ指が離れた。
ティムは一度だけ息を吹きかけてから、「冬って毎年こんな面倒なの」とハナへ聞いた。
ハナは籠の口を縛りながら肩をすくめる。
「毎年違う面倒が来るよ。去年は雨が長かったし、その前は風。寒いだけならまだ分かりやすい」
「分かりやすい寒さって何」
「寒いから寒い、で終わるやつ」
「今日それ?」
「まだ知らない」
俺は笑った。
季節まで、先に答えをくれないらしい。
昨日聞いた、上の荷場の三台か四台。
誰もその話をしない。
板にも札は増えていない。
マルクは塩二袋の受取札を見て、その次に空樽の戻し先を書いている。
俺は少しだけ板の上を探した。
ない。
「探すな」
見られていた。
マルクが札から目を上げないまま言う。
「まだ何も来てない」
「見ただけ」
「お前の“見ただけ”は、だいたい次に聞く」
ティムが横から頷く。
「分かる」
「お前はさっき俺の首に手を入れただろ」
「それは別件」
マルクがため息をついた。
「三台でも四台でも、上から来るなら向こうが来る。こっちから迎えに行く仕事はない」
分かっている。
昨日もそう決めた。
でも、北の荷場がまとめて何かを動かすと聞くと、気になる。
何を積むのか。
どこへ出すのか。
この港へ来るのか。
気になるものは、気になる。
「レン」
ハナが呼んだ。
「はい」
「気になる顔のままでいいから、こっちの縄ほどいて」
現実の仕事が来た。
空籠を縛っていた縄が、昨夜の湿気で固くなっている。
結び目が小さい。
指先が冷えているせいで、余計にほどけない。
ティムも横へしゃがんだ。
「切る?」
「切ったら短くなる」
「少しだけ」
「その“少しだけ”を六回やったら一本なくなる」
ハナが言う。
ティムは小刀を戻した。
俺は結び目を指で押す。
固い。
爪が痛い。
「ぬるい湯かける?」
俺が聞くと、ハナは少し考えた。
「濡らすとまた固くなる。手でだめなら木釘使って」
細い木釘を結び目へ差し込む。
押す。
抜く。
少し角度を変える。
ティムが反対側を引いた。
「今?」
「まだ。……待て、引くな」
「じゃあ今?」
「まだ。三回目聞いたら、もうお前だけでやれ」
ハナが笑った。
三回目で少し隙間ができた。
俺が木釘を奥へ入れる。
ティムが引く。
縄が急に緩んだ。
二人とも後ろへ尻をついた。
「今だった」
ティムが言った。
「結果見て言うな」
その時、港の入口で車輪の音がした。
反射的に顔を上げる。
一台。
荷台はほぼ空だった。
昨日の「三台か四台」とは全然違う。
北から来た御者が、馬を止める前に荷台の端を指した。
「これ、上の荷場へ戻す縄で合ってるか」
長い縄が三本。
丸めて積んである。
マルクが近づく。
「どこから持ってきた」
「塩倉。上から借りてたやつだって」
御者は一番上の一本を持ち上げた。
「明日の積みで使うから、昼までに返してくれってさ」
俺とティムが同時に顔を見合わせた。
明日。
積み。
そこまでは本当らしい。
ティムが口を開きかける。
マルクの目が先に向いた。
ティムは一度閉じた。
それから聞く。
「何積むんですか」
御者は肩をすくめた。
「知らん。俺は縄を持ってきただけだ」
そこで終わった。
台数も。
行き先も。
鴎泊へ来るかも。
分からない。
でも、昨日の道端の声より一つだけ近くなった。
上の荷場は、本当に何かを積むらしい。
マルクが三本の縄を順番に見る。
「これ、全部あっちのか?」
御者が困った顔をした。
「塩倉の親父はそう言ってた」
ハナが一本を持ち上げた。
先端に黒い糸が巻いてある。
「これ、うちのじゃない?」
マルクが見る。
「何で分かる」
「前に私が巻いた。毛羽がひどかったから」
御者が頭を掻いた。
「じゃあ二本?」
「待て。似たのある」
結局、縄を返すだけで少し時間がかかった。
倉の横から同じ長さの縄を二本出す。
並べる。
先端を見る。
継いだ場所を見る。
一本は鴎泊。
二本は上の荷場。
残りの一本は、誰のか分からない。
「三本返せって言われたんだけどな」
御者が言う。
マルクは首を振った。
「分からん一本まで返すな。二本だけ持ってけ。三本目は塩倉に聞き直せ」
「また来るの俺?」
「お前が持ってきた」
「そうなんだけどさ」
御者はぶつぶつ言いながら二本を積んだ。
ティムが俺の耳元で言う。
「三台か四台より、縄三本の方が難しい」
「一本減ったけどな」
「じゃあ二本」
「そういう話じゃない」
残った一本は、倉の柱へ立てかけたままにした。
ティムが端を指でつまむ。
「これ、誰のか分からないなら、使ってもいい?」
ハナが即座に首を振った。
「分からないから使わないの。明日『うちの縄どこ』って来た時に、短くなってたら誰が説明する?」
「レン」
「なんで俺」
「説明得意そう」
「責任だけ渡すな」
マルクは札板の隅へ小さく『縄一本・持主未確認』と書いた。
大げさな帳簿じゃない。消せる炭書きだ。それでも、置いた物が誰のものか分からないまま仕事に混ぜないためには十分だった。
俺はその一行を見て、昨日の車輪の赤い布を思い出した。
触るな。
使うな。
分からないなら、分からないまま残す。
前の俺なら、もう少し早く答えを作りたがっていた気がする。
荷車が北へ戻っていく。
その荷台に、冬前の荷は一つもない。
あるのは長い縄が二本だけ。
俺はそれを見送った。
大きな話が動く時も、最初に見えるのは荷物じゃないことがあるらしい。
縄とか。
空の荷車とか。
誰かの「明日使う」だけとか。
今日は、そこまでだった。
第308話 四台出た。でも、鴎泊へ来たのは二台だった
【本文】
翌朝。
何も来なかった。
少なくとも、朝一番には。
ティムは港の入口を三回見た。
俺は二回しか見ていない。
「レンも見てるじゃん」
「お前ほどじゃない」
「回数の問題?」
「問題」
ハナが干した布を取り込みながら笑った。
「暇なら箱運んで。北じゃなくて目の前見て」
箱は魚網の補修糸だった。
軽そうに見えた。
持ったら重かった。
俺が一度持ち直すと、ティムがすぐ横を見る。
「今、軽い顔したよね」
「顔で重さ決めるな」
「持つ前、片手だった」
「今は両手だろ」
「修正が早い」
「学習した」
昨日の御者みたいな言い方になった。
午前の仕事は普通に終わった。
塩袋が一つ出て。
空樽が二つ戻って。
漁具屋の男が糸箱を受け取って、箱より先に蓋の角が欠けていることへ文句を言った。
中身は無事だった。
「中身が無事ならいいだろ」
ティムが小声で言う。
漁具屋の男が聞いていた。
「箱も俺のだ」
「すみません」
早い。
昼が近くなった頃。
港の外から、車輪音が一つ聞こえた。
今度は誰もすぐ見なかった。
たぶん三人とも、見たら待っていたみたいだからだ。
二回目の軋みで、ティムが負けた。
「来た。……いや、今のは音を確認しただけ」
「まだ何も言ってない」
俺も見た。
一台。
厚い布をかけた荷が、荷台の半分ほど。
馬の鼻から白い息が出ている。
昨日見た御者ではない。
港へ入ってきた男は、止まるなり肩を回した。
「鴎泊の豆倉、どっち」
マルクが顎で奥を示す。
「札」
「ある」
御者は懐から折れた荷札を出した。
宛先は鴎泊の豆倉。
受取人名もある。
そこで初めて荷布をめくる。
麻袋が五つ。
豆だった。
派手じゃない。
冬前の荷と聞いて少しだけ何かを想像していた俺の中で、たぶん一番普通の物が出てきた。
ティムが袋を見て言う。
「豆なんだ」
御者が顔をしかめる。
「冬に腹減らないなら別のもん運ぶ」
「いや、減るけど」
「なら豆でいいだろ」
その通りだった。
マルクが札と袋数を確認する。
俺たちは一袋ずつ降ろす。
五袋。
前に持った塩より少し軽い。
でも最後の一袋になる頃には腕が重い。
ティムは三袋目から急に喋らなくなった。
「静かだな」
俺が言う。
「息してる」
「喋ると減る?」
「力が」
「さっきまで無駄に使ってたのに」
「朝は余ってた」
豆倉の男が笑った。
最後の袋を下ろした時、港の入口からまた車輪音がした。
二台目。
今度の荷台には細長い包みが何本も積まれている。
布の隙間から藁が見えた。
御者が先に声を上げる。
「一台目、着いてる?」
豆を運んできた男が手を上げた。
「今降ろした」
「早いな」
「お前が遅い」
「こっちは坂で一回縄締めたんだよ」
二人は知り合いらしい。
ティムが、今度はマルクを見てから聞いた。
「二台だけ?」
二台目の御者が荷台から降りながら首を振った。
「鴎泊へはな。上の荷場から出たのは四台で、二台は東へ回った。こっちは俺ら二台」
昨日の三台か四台。
四台だった。
でも、四台全部がこっちへ来る話じゃなかった。
ティムが俺を見る。
「三か四が、四で、こっちは二」
「分かった」
「俺も言ってて分からなくなった」
豆の御者が鼻で笑う。
「荷場の台数と、お前らの台数は別だ」
マルクは特に驚かなかった。
「二台目、宛先は」
御者が札を出す。
「縄場と、油屋。混載」
荷布を開く。
細長い包みは新しい縄だった。
その下に、小さな油樽が二つ。
どちらも鴎泊の受取人が書かれている。
定期便でもない。
新しい交易でもない。
冬前に必要な物を、上の荷場がまとめて出した。
そのうち二台が、たまたま鴎泊分だった。
それだけだ。
でも、二台同時に受けると、普段と少し違った。
二台が同じ港へ来ても、仕事は一列にはならなかった。
豆倉の男は「昼までに棚へ上げたい」と言う。縄場は「濡れる前に中へ入れたい」。油屋の男は樽を見るなり「こっちは立てたまま」と先に場所を空けた。
三人とも、自分の荷が一番先だと思っている顔をしている。
マルクは誰かを黙らせる代わりに、港の幅を見た。
「豆車が出れば一台ぶん空く。縄は人で運べる。油は最後に樽ごと入れる。豆から」
縄場の男が口を開きかけた。
マルクが先に言う。
「濡れたら困るのは分かってる。今、雨は降ってない」
男は空を見て、口を閉じた。
ティムが小声で俺へ言う。
「言われる前に答えた」
「毎日同じこと言われてるんだろ」
「俺らみたい」
「一緒にするな」
豆の空袋を返す場所。
新縄を置く場所。
油樽は横倒しにしない。
二台目を先に奥へ入れると、一台目が出られない。
マルクが手を上げた。
「豆の車、先に外へ出せ。二台目は入口で待て」
二台目の御者が嫌そうな顔をする。
「寒い」
「中で詰まるより早い」
「馬が待つの嫌がる」
「じゃあ道の脇。日が当たる方」
「そこならいい」
話が早い。
俺とティムは豆車の後ろへ回った。
空になった荷台を少し押す――ではなく、御者に言われて横を歩く。
馬が自分で出る。
俺たちは人と箱が近づかないよう見るだけだ。
朝の霜は、もう港には残っていなかった。
地面は少しぬかるんでいる。
昨日の切通しほどじゃない。
でも、豆車の左輪が小さなくぼみに入った。
俺が手を出しかける。
御者が見た。
俺はその手を自分で引っ込めた。
「何もしてない」
「今はな」
ティムが笑った。
豆車が出る。
二台目が入る。
新縄を縄場へ。
油樽を油屋へ。
油樽は最後まで少し気を使った。
一つ目は底が乾いている。二つ目は持ち上げた時、樽の外側が少しだけぬるっとした。
「漏れてる?」
俺が聞くと、油屋の男はすぐ栓ではなく底を見た。
「今は垂れてない。上で別の樽に触ったかもしれん。立てて運べ」
ティムが抱えようとして、男が止める。
「抱えるな。二人で下を持て。服についたら一日くさいぞ」
ティムは自分の上着を嗅いだ。
「今も魚くさい」
「それは港だから諦めろ」
俺とティムで樽の左右を持った。
重さより、滑る方が嫌だった。
一歩ずつ。
油屋の入口まで。
荷を運ぶだけでも、中身が変わると触り方まで変わる。
一つずつ動かす。
全部終わった頃には昼を過ぎていた。
大きな事件はなかった。
四台の大輸送もなかった。
鴎泊へ来たのは二台。
中身も、豆と縄と油。
冬前なら必要になる普通の物ばかりだった。
それでも俺は少し面白かった。
昨日まで声だけだった「三台か四台」が。
今日は車輪の跡になって港へ入ってきた。
ただし、聞いた話の通りではなく。
四台出て。
二台しか来なかった。
世界は、聞いた形のまま動かないらしい。
二台目の御者が帰る前、荷台の隅に残っていた細い包みを一つ持ち上げた。
「これ、降ろしてないよな」
マルクが見る。
「うちの札じゃない」
御者が包みの端についた木札をひっくり返した。
俺には読めない地名が書いてあった。
鴎泊ではなかった。
第309話 荷札の一枚だけ、鴎泊の名前じゃなかった
【本文】
「これ、どこだろ。鴎泊じゃないよね」
ティムが先に聞いた。
二台目の御者は木札を自分の顔へ近づけた。
読めていなかったらしい。
少し離す。
もう一度見る。
「……杉背?」
マルクが手を出した。
「見せろ」
細長い包みは、俺の腕より少し長い。
布で二重に巻かれている。
重さは、持った御者の腕を見る限りそこまでない。
木札には受取人の名前じゃなく、行き先らしい文字が二つ並んでいた。
杉背。
その下に、小さく「番小屋」とある。
「鴎泊じゃないね」
ティムが言う。
「見れば分かる」
御者は嫌そうに返した。
「上で積んだ時、縄の束と一緒だったんだよ。長さも同じくらいで」
マルクは包みを触らない。
札だけ見る。
「荷札は」
「これしかない」
「受取人」
「書いてない」
「中身」
御者が眉を寄せる。
「知らん」
ティムが俺を見る。
俺もティムを見る。
「……開ける?」
俺とティムの声がほとんど重なった。
マルクは間を置かずに首を振る。
「開けない。うち宛てでもない荷を、好奇心で開けるな」
「ですよね」
ティムの返事だけ妙に早い。俺は一拍遅れて、「……ですよね」と続けた。
御者が笑った。
「お前ら、同じ顔するな」
同じじゃない。
たぶん。
マルクは荷札を裏返して、もう一度表を見た。
「杉背の“番小屋”まで書いてあるなら、少なくとも上では行き先を分けてたんだろうな」
「じゃあ積み間違い?」
俺が聞く。
「たぶん、までは言える。誰がどこで混ぜたかは分からん」
御者が荷台を見て唸った。
「縄と同じ山に置いてあった。俺は鴎泊分だって言われた山から積んだ」
「なら、札を見ずに全部同じと思った奴がいたか、置く場所が途中で混ざったか」
マルクはそこで止めた。
「どっちかは上で聞け」
犯人探しにはならなかった。
今必要なのは、この包みを間違った場所へ降ろさないことだけだ。
包みは荷台から降ろさなかった。
鴎泊宛てではない。
受取人も分からない。
中身も分からない。
ここで預かる理由がない。
二台目の御者が縄を締め直す。
「戻すわ。上で聞く」
マルクが頷いた。
「それがいい」
話はそれで終わるはずだった。
俺の中では終わらなかった。
杉背。
聞いたことがない。
「杉背って、どこですか」
俺が聞くと、マルクは少しだけ考えた。
「北東」
「遠い?」
「ここからなら遠い。上の荷場からなら、東へ分かれる」
さっき、四台のうち二台は東へ回ったと言っていた。
俺がそこへつなげそうになったところで、マルクが先に言う。
「だからって、その二台が杉背とは限らんぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言った」
最近、顔で止められることが増えた。
ティムが笑う。
「レンの顔、便利」
「お前もさっき開ける顔してただろ」
「俺は言った」
「もっと悪い」
荷車の御者が手綱を取った。
「杉背なら、古い道番の小屋があるって聞いたことはある」
俺が振り返る。
御者はすぐ手を上げた。
「聞いただけ。行ったことない」
「今も人いる?」
「知らん」
「冬も?」
「知らんって」
三回目は少し笑っていた。
そこで本当に終わった。
荷車は港を出る。
知らない行き先の包みも一緒に戻る。
俺たちは追わない。
確認しに行かない。
仕事じゃないからだ。
ティムが荷車を見送りながら言う。
「レン、行きたい顔」
「お前は?」
「ちょっと」
「同じだろ」
「俺は顔に出してない」
ハナが後ろから言った。
「二人とも出てる」
振り返ると、ハナが空になった油樽置場の板を拭いていた。
「見送ってないで、こっち。油垂れてる」
現実へ戻された。
油屋へ運んだ二樽のうち、一つの底に薄く油が付いていたらしい。
漏れているほどじゃない。
置いた時に別の樽から移ったのかもしれない。
でも、板は滑る。
俺が布を取りに行く。
ティムが先に水をかけようとした。
「待って」
ハナが止める。
「水だけだと広がる」
「じゃあ何」
「灰」
炉の横から乾いた灰を少し持ってくる。
薄く撒く。
油を吸わせる。
集める。
その後で拭く。
知らない地名より、足元の油の方が今は危ない。
ティムが灰を撒きすぎた。
「多い」
「吸うと思って」
「床までなくす気?」
「灰で?」
「言い方」
俺は笑いながら端へ寄った灰を集めた。
昼過ぎ、港はまた普通に戻った。
冬前荷の二台は帰った。
豆は倉へ。
縄は縄場へ。
油は油屋へ。
四台のうち二台が鴎泊へ来た。
それ以上のことは、まだない。
定期便にもならない。
中継港にもならない。
明日また同じ荷が来る保証もない。
夕方、北から別の小荷車が入ってきた。
俺は一瞬だけ見た。
杉背の包みはない。
普通の空樽だった。
少しだけ残念だった。
自分でも分かるくらいに。
ティムが見逃さない。
「なかったね」
「何が」
「知らない道」
「荷だろ」
「同じじゃない?」
「違う」
「じゃあ、何が気になってるの」
返事に少し困った。
荷物の中身じゃない。
杉背という名前そのものでもない。
北東へ分かれる道があって。
そこに、俺の知らない番小屋があるらしい。
まだ誰がいるかも分からない。
今も使われているかも分からない。
ただ、道がある。
それだけで気になる。
前なら、たぶん次の日に見に行く方法を考えていた。
今は、目の前の空樽を降ろしている。
気にならなくなったわけじゃない。
行かなくていい時に行かないことを、少し覚えただけだ。
空樽を二つ重ねる。
上の一つが傾いた。
ティムが押さえる。
「危な」
「今のは触っていいやつ」
「俺もそう思った」
「成長したな」
「それくらいでレベル上がる?」
「上がらない」
本当に何も出なかった。
Lv3のまま。
視界も静かだ。
港の外は、もう薄暗い。
北東の道はここから見えない。
杉背の荷も、もうない。
「番小屋って、何を見るんだろうな」
ティムが言った。
「道じゃない?」
「道を見るだけの小屋?」
「知らない」
「獣とか?」
「知らないって」
さっき御者に返された言葉を、そのままティムへ返した。
ティムは少し考えてから笑う。
「気になる時に“知らない”って言われると、余計気になるね」
「分かる」
そこだけは、すぐ同意できた。
でも、知らないから行く、ではない。
少なくとも今日は。
それでも。
世界の地図に、俺の知らない名前が一つ増えた。
次にそこが動くかどうかは、まだ分からない。




