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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第298話 三台は出た。でも、四台目は待ち合わせにいなかった


【本文】

月がまだ海の上に残っているうちに起きた。

正確には、起きたというより。

外から聞こえた馬の鼻息で、布団の中にいる理由がなくなった。

戸を開けると、空はまだ青くもなっていない。

港の端に三台の荷車が並び、御者たちが声を落として動いていた。

ティムはもういた。

「起きてるじゃん」

俺が言うと、ティムは妙に得意そうな顔をした。

「自力」

「昨日、起こしてって言ってなかった?」

「半分任せるって言っただけ」

「その半分どこいった」

「ハナに取られた」

意味が分からない。

そのハナは、港の火のそばでパンを布に包んでいた。

俺と目が合うと一つ投げてくる。

「食べながら歩かないで。馬の横で喉詰まらせても知らないから」

「じゃあ今食べる」

ティムが先に手を出した。

ハナは一度その手を見て、包みを俺へ渡した。

「それレンの」

「差別」

「昨日、二個食べるって言った人は後」

「覚えてるの怖いな」

朝からいつも通りだった。

それが少し助かった。

昨日までは三台だった荷車も、暗い中で見ると妙に大きく見える。

一台目には塩袋と鉄具箱。

二台目には空樽と布包み。

三台目には木材、細工道具、乾物。

全部、昨日聞いた通りだ。

ただし。

昨日と同じ形ではなかった。

雨を吸った縄は夜の間に少し伸びたらしい。

二台目の布包みを押さえていた横縄が、手を差し込めるくらい浮いている。

俺が触ろうとすると、御者が先に言った。

「引っ張る前に、荷押してみろ」

言われた通り、布包みへ手を当てる。

ぐっと押す。

一番上が少し動いた。

「緩い?」

「縄だけ見ても分からん。荷が動くなら締める」

御者は結び目を外した。

俺も反対側を持つ。

「そこじゃない。下」

「こっち?」

「もう一個下」

暗くて見えない。

触る。

縄。

板。

また縄。

「これ?」

「それ馬の腹帯」

「ごめん」

馬が耳だけこっちへ向けた。

ティムが後ろから笑う。

「出発前に馬脱がせるところだったな」

「脱がせてない」

「一歩手前」

「お前は後ろ行け」

「もう後ろ担当です」

役割を思い出したらしい。

マルクは一台目の前で、三人の御者と短く話していた。

細かい作戦会議ではない。

「上道」

「下りの石場は間を空ける」

「合流は広い曲がり」

「北の一台が来てなかったら、勝手に探し回るな」

最後だけ少し長い。

俺が近づくと、マルクがこちらを見る。

「レン、水」

「ある」

「手袋」

見せる。

「短剣」

腰を叩く。

マルクは頷いた。

「今日はそれ抜かずに終わるのが一番いい」

ティムが三台目の後ろから顔を出す。

「俺も短剣あるけど」

「聞いてない」

「なんでレンだけ確認するの」

「お前はまず水袋確認しろ。昨日空のまま持って帰ったろ」

ティムが止まった。

水袋を見る。

振る。

音がしない。

「……今入れてくる」

マルクは何も言わず、俺を見た。

俺も何も言わなかった。

言うと余計な時間がかかる。

ティムが戻ってきた頃、月が山の端へ沈み始めた。

三台は動いた。

一台目の馬が歩き出す。

少し間を空けて二台目。

さらに三台目。

俺は一台目と二台目の間より少し前。

ティムは三台目の後ろ。

港を出るまでは、全部見えた。

上道へ入って最初の曲がりで。

もう見えなくなった。

一台目が曲がる。

俺も曲がる。

振り返ると、二台目の馬の額しか見えない。

三台目は、その後ろの暗がりに消えている。

「ティム!」

呼ぶ。

少し遅れて返ってきた。

「いる!」

声は近いのに姿がない。

マルクが前から言う。

「それくらいでいい。詰めるな」

「見えないけど?」

「見えないから詰めるのが一番危ない。前が急に止まった時、馬車は人みたいに横へ避けられん」

言われて、昨日の泥穴を思い出す。

短い道。

早い道。

見える距離。

全部、同じじゃない。

夜明け前の上道は、昨日より乾いていた。

上道へ入ってしばらくして、二台目の馬が一度だけ横へ逃げた。

道の真ん中に、雨で濡れた白い石が出ていた。

蹄を置く直前で嫌がったらしい。

俺は反射で手綱の近くへ手を伸ばした。

「触るな」

御者の声が飛ぶ。

手を止める。

「ごめん」

「謝るのはいい。知らん馬の顔の前へ急に手出すな。怖がってんのか、避けたいだけなのか、こっちがまだ分からん」

御者は手綱を少し緩めた。

引っ張らない。

馬が鼻を鳴らし、白い石の横を自分で回った。

それだけで通れた。

「今、押した方が早いと思った」

「人には早い。馬には急かされたになる時がある」

俺は一歩下がった。

何か起きると、手を出したくなる。

昨日は泥。

今日は馬。

手を出す前に見る。

それも仕事らしい。

でも乾いている場所ほど、馬の蹄の音が大きい。

石を踏むたび、かん、と鳴る。

その音に混じって。

二台目の空樽が、ときどきころんと鳴った。

「今の平気?」

俺が横へ寄ると、御者が耳だけ傾ける。

「樽同士が当たってるだけ。音変わったら言え」

「音?」

「今は軽い。割れたり、縄ほどけたりしたら音が続く」

俺にはまだ全部同じに聞こえる。

でも。

そういう見方があると分かるだけで、道の音が急に増えた気がした。

一刻ほど進んだ頃。

空がようやく薄くなった。

休まない。

まだ合流地点まで近い。

前を行くマルクが手を上げる。

一台目が少し速度を落とす。

広い曲がりが見えた。

ここで北側の一台と合流する。

――はずだった。

誰もいない。

荷車も。

馬も。

人も。

ティムが三台目の後ろから走ってくる。

「いない?」

「見れば分かる」

「予定、ここだよね?」

マルクはすぐ答えなかった。

道の端を見る。

車輪跡。

馬の糞。

昨日より古そうな泥。

一台目の御者が馬を止めながら言う。

「朝一でここ通った跡は見えんな」

ティムが道の先を見る。

「来てない?」

マルクが返す。

「分からん」

その答えが早かった。

「遅れてるかもしれん。場所を上と取ったかもしれん。来る途中で何かあったかもしれん。今分かるのは、ここにいないだけだ」

俺は道を少し戻って見た。

後ろから来た跡は、俺たち三台分しかない。

北へ続く方は。

古い車輪跡がいくつも重なっていて、新しいかどうかまでは分からない。

「探しに行く?」

ティムが聞く。

マルクは首を振った。

「三台置いて全員で動かん。まず待つ」

「どれくらい?」

「馬に水やる間」

時間じゃない答えだった。

御者たちは慌てなかった。

馬の鼻袋を外す。

水を飲ませる。

一人は車輪の泥を棒で落としている。

俺も一台目の鉄具箱を押した。

動かない。

二台目。

布包みもさっきより締まっている。

三台目で、ティムが乾物袋を指で押していた。

「何してる」

「レンがやってたから」

「俺も教わっただけ」

「じゃあ教えて」

「動かなければ多分いい」

「雑になった」

「御者に聞け」

三台目の御者が笑った。

「そいつは動いたら分かる。乾物が道に撒かれる」

嫌な分かり方だった。

水を飲ませ終わっても、四台目は来ない。

マルクが一台目の御者へ言った。

「ここで三台待たせる。俺だけ上の曲がり見てくる」

「俺も行く」

言ってから。

昨日、荷車から離れるなと言われたのを思い出した。

マルクも思い出したらしい。

「お前は二台目見ろ」

「はい」

言い直すしかない。

未知へ行きたい癖は。

こういう時に出る。

マルクが一人で坂を上がる。

姿が消える。

少しして。

遠くで声がした。

「いた!」

ティムがすぐ反応する。

「誰が?」

「マルクだろ」

「四台目じゃなく?」

「四台目は喋らない」

「御者は喋る」

確かに。

その少し後。

上の曲がりから、馬の顔が出た。

荷車。

その横を歩く男。

前にマルク。

四台目はいた。

ただ。

一つ上の曲がりで待っていた。

合流すると、北側の御者が最初に言った。

「下の曲がりって、あそこかよ」

マルクが返す。

「広い曲がりって言っただろ」

「上の方が広い」

確かに。

俺たちが待っていた曲がりは、三台を置くともうぎりぎりだった。

上の方は道端に草地があり、荷車一台なら完全に外へ寄せられる。

北側の御者は悪びれていない。

「下で待ったら、南から来る荷と尻合わせになると思ったんだよ」

マルクが一度口を開き。

閉じた。

「……それはそうだな」

ティムが小声で俺へ言う。

「どっちも間違ってないやつ?」

「たぶん」

「一番面倒」

でも誰も怒らなかった。

四台目の荷を軽く見る。

麻袋が二つ。

木箱が一つ。

空籠が積んである。

特別な物はない。

マルクは御者へ聞く。

「荷、増えてないな」

「増やしてない。合流してからって話だったろ」

「よし」

それだけで四台目は列へ入った。

順番は変えた。

北側の一台は二台目へ。

空樽の車は三台目。

木材の車を最後へ。

「なんで?」

ティムが聞く。

マルクは歩きながら答えた。

「四台目の馬が一番大人しい。真ん中へ入れる。最後は後ろから見て荷が長い木材。ティム、お前そこ」

「また最後」

「最後が嫌なら馬になれ」

「人でいいです」

四台が動き始める。

数は揃った。

でも。

三台に一台足しただけなのに、列は急に長くなった。

前を見る。

一台目。

少し後ろに二台目。

振り返る。

三台目は見える。

四台目は曲がりの向こう。

四台そろった。

それで一つの隊列になったわけじゃない。

むしろ。

ここからが、本当に四台だった。

第299話 「止まれ」は、四台目まで届かなかった

【本文】

四台になって最初に困ったのは、敵でも坂でもなかった。

声だった。

「少し詰めるぞ」

先頭のマルクが言う。

俺には聞こえた。

二台目の御者にも聞こえた。

三台目は。

「何て?」

聞き返した。

四台目のティムは、そもそも返事をしなかった。

振り返る。

見えない。

「ティム!」

「聞こえてる!」

今度は返ってきた。

「じゃあ返事しろ!」

「今、馬に話しかけてた!」

「なんで」

「暇そうだったから!」

四台目の御者の笑い声だけが聞こえた。

マルクが前を向いたまま言う。

「後ろは元気そうだな」

「元気だけど役に立ってるか分からない」

俺が返すと、二台目の御者が笑った。

「後ろは静かな方が怖いぞ」

それも分かる気がする。

道は朝より明るくなった。

上道は川から離れ、斜面の中腹を横へ進む。

右は山。

左は低い谷。

危ない崖ではない。

でも荷車がすれ違えるほど広くもない。

四台は、一定の形で進まなかった。

坂では間が伸びる。

平らになると縮む。

馬が水たまりを避ければ、後ろも少しずれる。

俺は一台目と二台目の間を歩きながら、何度も後ろを見た。

見える時もある。

見えない時もある。

そのうち。

先頭のマルクが急に腕を上げた。

「止まれ!」

一台目の御者が手綱を引く。

馬が止まる。

俺も止まる。

二台目の御者へ言う。

「止まる!」

二台目も止まった。

その後ろから。

三台目の車輪が、まだ近づいてくる。

「止まれ!」

二台目の御者が叫ぶ。

三台目が止まる。

でも。

まだ音がする。

四台目。

木の曲がりの向こうから、車輪のごろごろが続いている。

ティムの声。

「前、動いてる?」

「止まれ!」

俺と三台目の御者が同時に叫んだ。

少し遅れて。

「うわ、止まる!」

四台目の馬が鼻を鳴らす。

車輪の音が近づき。

見えるところまで来て、やっと止まった。

三台目との間は、荷車一台分もなかった。

事故ではない。

ぶつかってもいない。

でも四台目の御者は、手綱を握ったまま顔をしかめた。

「前の停止、聞こえんかった」

ティムがこちらを見る。

「俺も途中まで」

マルクは怒鳴らなかった。

道の前を指した。

曲がりの先。

太い枯れ枝が、道の半分へ倒れていた。

木そのものじゃない。

大人二人なら動かせそうな枝だ。

「これで止まっただけだ」

マルクが言う。

「魔物でも崩落でもない。それでも後ろまで止まるのに時間かかった」

ティムが四台目から歩いてくる。

「じゃあ、もっと大声?」

三台目の御者が首を振った。

「曲がり二つ挟んだら声量じゃどうにもならん」

北側から合流した御者が言う。

「前から順に言えばいい」

「順に?」

俺が聞く。

御者は面倒そうに説明するというより、当たり前のことを口にした。

「一台目が止まる。二台目が聞いたら後ろへ言う。三台目も言う。四台目まで。走る時も同じ。前の声を一人で最後まで飛ばそうとするから抜ける」

ティムが頷いた。

「伝言」

「そうだな」

「子どもの遊びみたい」

「荷車ぶつけないなら遊びでも何でもいい」

ティムは反論しなかった。

マルクも頷く。

「今からそれ。止まれ、動く、右寄せ。この三つだけは後ろへ返せ」

「左は?」

ティムが聞く。

「左へ寄せる時に考える」

「決めとかないの?」

「全部決める時間で昼になる」

それもそうだった。

マルクは枝へ近づいた。

俺も手袋をはめる。

昨日なら。

たぶん素手で掴んでいた。

今日は棘が見えなくても手袋を使った。

少しだけ賢くなった気がする。

技能は出ない。

その方が今は自然だった。

枝は先から持ち上げても動かなかった。

俺とティムで持つ。

重い。

「せーの」

ティムが言う。

「今日は言っていい」

「昨日禁止されたからね」

持ち上げる。

動かない。

北側の御者が根元に近い方を足で示す。

「そっち持ち上げるより、回せ。先を谷側へ振る」

言われてみれば、道を全部空ける必要はない。

根元を支点みたいにして。

先をずらす。

俺とティム。

もう一人の御者。

三人で押す。

ぎしっ。

枝が土を削りながら回った。

道の端に半分出る。

マルクが馬を一頭ずつ通せる幅を見る。

「これでいい。全部落とすな。下に人いたら危ない」

派手じゃない。

枝を一本倒したまま。

半分どけただけ。

それで道は通れた。

一台目が動く。

マルクが言う。

「動く!」

一台目の御者が後ろへ。

「動く!」

俺も二台目の横で言う。

「動く!」

三台目。

「動く!」

少し遅れて、ティム。

「動くー!」

「伸ばすな!」

マルクの声が前から飛んだ。

笑いが起きる。

でも。

今度は四台目まで同じタイミングで動いた。

坂を一つ越えたところで、今度は声そのものが変になった。

前から「水入れで止まる」と聞こえた気がした。

俺は二台目の御者を見る。

「水?」

「“杉のところで止まる”だろ」

全然違う。

後ろへ伝える。

「杉のところで止まる!」

三台目から返ってくる。

「次の杉で止まる!」

そのさらに後ろ。

「水飲むの?」

ティムだった。

「飲んでもいいけど、話変えるな!」

四台目の御者が笑っている。

道の風向きと車輪の音で、言葉は簡単に削れた。

長い説明ほど後ろへ行く前に別物になる。

マルクもそれを聞いたらしい。

次からは「止まる」「動く」「右寄せ」だけになった。

理由は、止まってから聞けばいい。

全部を同時に伝えようとしない。

これも、たぶん四台になって初めて必要になったことだった。

次の坂で、列はまた伸びた。

一台目の馬は足が速い。

二台目は一定。

三台目は空樽が揺れるのを嫌って少し遅い。

四台目は木材が長く、曲がりで慎重になる。

同じ速度で歩けない。

だから、何度か先頭が待った。

そのたびに。

「止まる!」

「止まる!」

「止まる!」

後ろへ声が渡る。

二回目からは、俺が言わなくても御者が先に言った。

三回目。

ティムの声だけ少し遅れた。

「止まる!」

「遅いぞ!」

「パン食べてた!」

「歩きながら食うなって言われてただろ!」

「もう止まってたから!」

ハナのパンらしい。

約束は半分守っている。

昼前。

小さな水場で馬を休ませた。

四台を一度に水へ寄せると狭い。

一台ずつ。

待っている間、俺は石へ座った。

足が重い。

戦っていない。

走ってもいない。

ただ歩いているだけなのに。

荷車の横を歩くのは、自分の好きな速度で歩くのと違う。

止まる。

動く。

避ける。

また止まる。

ティムが最後尾から来て、俺の隣へ腰を下ろした。

「護衛って、もっとこう……」

手を振る。

何かを斬る動きらしい。

俺も水を飲む。

「昨日マルクに言われただろ」

「言われたけど、ほら。ゲーム的に」

「今もゲームだろ」

ティムが水袋を止めた。

「どこが?」

俺は道を見る。

一台目と二台目の間。

二台目と三台目。

三台目と四台目。

「前が止まったの、最後まで届かなかった」

「うん」

「枝一本どけるのも、全部落とす必要なかった」

「うん」

「馬の水、四頭一気に入れたら詰まる」

ティムは少し考えて。

「地味」

「昨日も聞いた」

「でも、ちょっと面白い」

「それも昨日聞いた」

ティムが笑った。

「レン、最近同じこと言うようになったな」

「お前が同じこと言うからだよ」

近くで三台目の御者がパンを齧っている。

ハナが余分に入れた四つ目が、そっちへ回っていた。

ティムが気づいた。

「あれ俺の二個目候補」

「違う」

「候補ですらない?」

「朝食べ損ねた人用って言ってた」

三台目の御者が口いっぱいのまま手を上げる。

「俺、朝食ってるぞ」

ティムが立ち上がりかけた。

マルクが先に言った。

「さっき荷車の下潜って樽縄直した分だ。座れ」

ティムは座った。

「仕事で奪われた」

誰も同情しなかった。

休憩後。

水場を離れる時、ティムが最後尾へ戻りながらぼやいた。

「前にいる時より、後ろの方が忙しいな」

「喋る暇あるだろ」

俺が言うと、ティムは振り返った。

「喋りながら見るんだよ。そこが高等技術」

四台目の御者がすぐ横から返す。

「その技術、今日は半分でいいぞ」

ティムは少しだけ静かになった。

列はまた動いた。

今度は俺が二台目より少し後ろへ下がった。

声がどう渡るか見たかった。

先頭は見えない。

マルクの声も直接は聞こえない。

それでも二台目の御者が言う。

「右寄せ!」

三台目が返す。

「右寄せ!」

ティム。

「右寄せ!」

四台目が少しだけ山側へ寄る。

声だけで前の動きが来る。

前が見えなくても。

全部が分からなくても。

次に自分が何をするかは分かる。

その時だった。

二台目の御者が、荷台を見て眉を寄せた。

布包みじゃない。

車輪でもない。

荷台の右端へ結んでいた細い縄が。

朝より少し下がっている。

俺も見る。

「緩んだ?」

御者はすぐに止めなかった。

手を伸ばし。

歩きながら一度だけ押す。

「まだ。次の平らで見る」

俺はそれ以上言わなかった。

何でもその場で止めればいいわけじゃない。

でも。

少し先。

道は下りになる。

御者も、それを見ていた。

「下り入る前に止める」

今度は、その声を。

俺が後ろへ返した。

「次の平らで止まる!」

三台目。

「次の平らで止まる!」

少し遅れて。

「止まるー!」

「伸ばすなって!」

四台目の笑い声が聞こえた。

止まるという言葉は。

今度はちゃんと。

一番後ろまで届いた。

第300話 荷崩れは、音がする前に始まっていた

【本文】

次の平らな場所で、四台全部を止めた。

理由は。

二台目の細い縄一本。

それだけだった。

ティムが後ろから歩いてきて、荷台を覗く。

「切れた?」

「切れてない」

御者が答える。

「ほどけた?」

「ほどけてもない」

「じゃあ何」

「伸びた」

雨の後。

縄が湿って。

朝締めた時より少し馴染んだらしい。

見た目では、ほんの少し下がっただけだ。

でも御者は布包みを横から押した。

一番上が、ぐっ、と右へ動いた。

俺も反対から押す。

今度は戻る。

「これ、下り入ったら?」

俺が聞く。

御者は荷台の前を見る。

「止まるたびに前へ来る。曲がりで右へ振られたら、上の包みからずれる」

ティムが縄を持つ。

「締め直せばいい?」

「その前に一個下ろす」

「なんで?」

「締めたまま引くと、今ずれた形で固める」

なるほど。

と言いそうになって。

やめた。

最近、なるほどが多い。

知らないことが多いから仕方ない。

俺とティムで一番上の布包みを下ろす。

見た目より重い。

「何入ってるの、これ」

ティムが顔をしかめる。

御者が答える。

「厚布。冬用」

「布って軽いと思ってた」

「一枚ならな」

地面へ置く。

その下の包みを見ると、確かに少し右へ寄っている。

縄だけの問題じゃない。

荷そのものが、朝から少しずつ動いていた。

音もしない。

樽みたいに鳴らない。

木材みたいにはみ出さない。

ただ。

静かにずれる。

「朝、押した時は動かなかったよな」

俺が言うと、御者は頷いた。

「だから今見る」

責める感じがない。

朝よかった。

今は違う。

それだけだ。

包みを一度中央へ戻す。

下の縄を外す。

板の角へ擦れていた場所を少しずらす。

御者が俺へ縄を渡した。

「引いて」

引く。

「そこまで?」

「まだ」

もう少し。

「まだ」

「結構引くな」

「濡れてるからな」

もう一度。

「そこで止め」

ティムが反対側で結び目を作りかける。

御者が見る。

「それ違う」

ティムの手が止まる。

「え」

「ほどく時、固まる」

「でも昨日これで――」

「昨日何縛った」

「……パンの包み」

「荷車とパン一緒にするな」

俺は吹き出した。

ティムが睨む。

「笑ってる場合じゃない。レンやって」

「俺も知らない」

「じゃあ一緒じゃん」

御者がため息をついた。

「見てろ」

結ぶ。

回す。

端を戻す。

速い。

でも見えないほどではない。

「これ、名前ある?」

俺が聞く。

「知らん」

「知らないの?」

「親父がこうしてた」

それで終わった。

技能名もない。

正式な呼び方もない。

でも解く時は早いらしい。

上の包みを戻す。

今度は押しても動かない。

御者は満足そうにしない。

もう一度、反対側から押した。

「よし」

そこで終わった。

マルクが前から戻ってくる。

「どれくらい?」

「終わった」

「じゃあ行く。下り長い。間、さっきより取れ」

ティムが言う。

「どれくらい?」

マルクは道を見る。

「前の荷車が曲がりきってから次が入るくらい」

「距離じゃないんだ」

「ここで歩幅数えて何になる」

また数字じゃなかった。

でもその方が分かった。

下りへ入る。

一台目が曲がる。

見えなくなる。

少し待つ。

二台目。

俺はその横。

三台目。

四台目。

声は前から順に来る。

「動く!」

「動く!」

「動く!」

一台目が止まる。

「止まる!」

「止まる!」

「止まる!」

今度は誰も詰まらなかった。

途中。

谷側から鳥が一羽飛び出した。

二台目の馬が首を上げる。

俺も身構えた。

でも御者は手綱を急に引かなかった。

声だけ。

「ほら、行くぞ」

馬は二歩遅れてまた歩いた。

ティムが後ろから言う。

「今の、何もしなくていいんだ」

御者が前を向いたまま返す。

「驚いただけの馬を、人がもっと驚かせてどうする」

簡単そうに言う。

俺にはまだ難しい。

何か起きたら、何かしたくなる。

敵なら斬る。

道ならどける。

荷なら締める。

でも。

何もしない方がいい時もある。

第一人生の俺なら。

そういうのが一番苦手だったかもしれない。

そこまで考えて。

やめた。

今の俺は、今の道を歩いている。

昼をかなり過ぎた頃。

山が少し開けた。

家が見える。

倉。

柵。

荷を下ろすための広い土の場所。

北側の荷場だった。

「着いた?」

ティムの声が後ろから飛ぶ。

マルクが返す。

「まだ入ってない」

「見えてるのに?」

「門の前でひっくり返したら着いたことにならん」

最後まで細かい。

でも誰も急がなかった。

一台ずつ入る。

一台目。

二台目。

三台目。

四台目。

最後の木材が門を抜けた時。

ティムが両手を上げた。

「四台!」

マルクがすぐ言う。

「まだ荷下ろし」

「厳しい」

「帰すってのは、ここへ置くだけじゃない」

北側の御者が笑う。

「俺のはここから先だぞ」

ティムの手が下がる。

「五台目?」

「違う。俺の家が先」

「じゃあ四台帰したことにならないじゃん」

「荷はここで引き継ぐ。馬車は俺が帰す」

「ややこしい」

俺も笑った。

目的は、四台を一列で最後まで同じ場所へ押し込むことじゃなかった。

必要な場所まで荷を戻す。

人が引き継ぐ。

馬車はそれぞれの場所へ帰る。

到着にも、線がある。

荷下ろしが始まった。

荷下ろしでは、別の意味で列がほどけた。

四台は一緒に来たのに。

荷は一緒には置かれない。

空樽を一つ、荷場の若い男が転がしていく。

二台目の御者がすぐ止めた。

「それ、ここのじゃない」

若い男が樽を抱えるように止める。

「空だろ?」

「空でも戻す先がある。南へ持っていくやつ」

昨日、港で聞いたのとほとんど同じやり取りだった。

空でも荷。

着いても終わりじゃない。

若い男は樽の底の焼き印を見て、「ああ、こっちか」と別の列へ転がした。

誰も大ごとにはしない。

俺はそれを見て、少し笑った。

道の途中では四台を一つにするのが難しかった。

着いたら今度は、四台を正しくばらすのが仕事になる。

塩袋は倉へ。

鉄具箱は受取札を確認して別の棚。

空樽は戻り先ごとに分ける。

マルクは受取札を一枚ずつ確認していた。

俺が手伝おうとすると、首を振る。

「そこは俺と御者でやる。お前は運べ」

何でも覚えればいいわけじゃない。

責任まで一緒に受け取る仕事もある。

俺は素直に布包みへ戻った。

俺は二台目の布包みを持った。

朝より重く感じる。

「それ奥」

荷場の男が指す。

「どの奥?」

「右」

右へ行く。

「そっちじゃない」

止まる。

「今右って」

「俺から見て右」

今日二回目だ。

左右は、人が増えると急に難しくなる。

ティムが後ろで笑っている。

「レン、今日は馬の腹帯も持ってたし」

「持ってない。触っただけ」

「十分」

「お前パン結びで荷縛ろうとしただろ」

ティムの笑いが止まった。

荷場の男が聞く。

「何の話だ」

「何でもないです」

ティムの返事が早い。

荷を下ろし終わる頃には、腕が重かった。

短剣は一度も抜いていない。

《先導》も何も言わない。

表示も出ない。

レベルも上がらない。

それでも。

朝、三台だった。

途中で四台になった。

止まる声が届かなかった。

枝一本で列が詰まった。

縄が一本伸びた。

鳥一羽で馬が首を上げた。

そのたびに。

四台を帰すという目的だけは変えなかった。

マルクが水を飲みながら言う。

「今日は楽だったな」

ティムが即座に振り向く。

「どこが?」

「誰も怪我してない。荷も落ちてない。馬も全部歩いてる」

「基準が低くない?」

「仕事はそれでいい日もある」

俺はそれを聞きながら、手袋を外した。

指の布はまだ巻いてある。

昨日の棘の傷。

大したことはない。

でも、手袋を使った。

それだけは昨日と違う。

荷場の端で、誰かがこちらを見ていた。

四十くらいの女だった。

腰に木屑の付いた前掛け。

片手に杖。

いや。

杖を使っているのは、隣の男だ。

男は若い。

俺たちとそこまで変わらない。

右足へ体重をかけないように立っている。

女がマルクへ声をかけた。

「鴎泊へ戻るのか」

マルクは水袋の口を閉めた。

「戻る。今日はここで荷見てからだけど」

女は少しだけ迷った。

荷車を見る。

俺たちを見る。

もう一度、隣の若い男を見る。

「一つ頼めるか」

ティムが先に反応しかけて。

黙った。

少しだけ成長したのかもしれない。

マルクが聞く。

「荷か」

女は首を振った。

「人」

俺も若い男を見る。

足首に厚い布が巻かれている。

「歩けない?」

俺が聞くと、男本人が答えた。

「歩ける。遅いだけ」

女がすぐ横から言う。

「昨日、材木落として挟んだ。骨はたぶん大丈夫って言われたけど、鴎泊より手前の家まで歩かせたくない」

男が顔をしかめる。

「“たぶん”を強く言うなよ」

「じゃあ自分で歩く?」

「乗れるなら乗る」

緊急ではない。

血も出ていない。

でも。

荷ではなかった。

マルクはすぐに返事をしなかった。

空いた荷台を見る。

馬を見る。

帰りに持つ荷を見る。

「どこまでか。どの車なら乗せられるか。御者がいいって言うか。まずそこからだ」

女は頷いた。

「それでいい」

ティムが俺の横へ来る。

小声で。

「帰り、空だと思ってた」

「俺も」

「荷じゃないの来たな」

「来たな」

朝。

四台を北へ帰す仕事だった。

昼を過ぎて。

四台は着いた。

そして帰り道には。

まだ何を乗せるかも決まっていない人が、一人増えた。

第301話 空いている荷台は、人の席じゃなかった

【本文】

「家はどこ?」


マルクが聞くと、足首に布を巻いた若い男は、港へ戻る道の方を顎で示した。


「鴎泊まで行かない。南へ戻る道の、二つ目の分かれの先。車輪屋があるだろ」


俺は知らなかった。


ティムも同じらしく、俺を見る。


二人で首を傾げたら、前掛けの女が呆れた顔をした。


「荷車で何度も通ってて、あの店を見てないのか」


「荷車の車輪は見てます」


ティムが答えた。


「店は見てない」


「胸張るところじゃない」


若い男が笑った。


前掛けの女が、その肩を軽く叩く。


「ラド。笑ってないで、自分で説明しな」


そこで初めて名前が出た。


ラド。


俺たちと同じくらいの歳に見える。


昨日、材木を足に落として、右足首を挟んだ。


歩ける。


ただ遅い。


分かったのはそれだけだ。


「車輪屋なら帰り道から外れない?」


マルクが御者へ聞く。


一台目の御者が首を横へ振った。


「分かれを一つ入るだけ。荷車でも行ける」


「じゃあ次。どれに乗せられる」


四台を順に見る。


北へ来る時は、それぞれ荷が違った。


帰りはもっと違う。


空になった場所もあれば、空樽や返し道具を積んだ場所もある。


見た目だけなら二台目が一番空いていた。


俺が指を向ける前に、その御者が言った。


「空いてるけど、乗る場所じゃないぞ」


「え?」


ティムが先に聞き返した。


御者は荷台へ上がる。


床板を靴で二度踏んだ。


「前は空樽。後ろは縄と板。真ん中は空いてる。でも座る板も背もたれもない。人は荷みたいに縛れん」


ラドが顔を上げた。


「縛る話まで出てたのか」


「出てない」


俺が言う。


「今初めて出た」


「なら消してくれ」


「最初から候補じゃない」


ティムが真顔で頷いた。


「俺も縛られたくない」


「お前は乗らない」


マルクの返事が早かった。


前掛けの女が笑いを堪えながら、荷台を覗く。


「厚布ある?」


御者が顎で前を示す。


北へ持ってきた冬布のうち、受取先違いで戻す一包みが残っていた。


商品そのものへ勝手に座らせるわけにはいかない。


でも、その上に巻いてあった古い当て布なら使っていいらしい。


御者が広げる。


俺も端を持った。


湿った縄の匂いと、乾いた布の匂いが混じる。


「ここ?」


荷台の一番後ろへ置こうとしたら、御者に止められた。


「そこ一番跳ねる」


「じゃあ前?」


「前すぎると空樽の出し入れで邪魔だ」


「真ん中?」


「車輪の少し前。まず本人座らせて決める」


結局。


荷物みたいに、最初に場所を決められなかった。


ラドが荷台へ上がろうとする。


右足をかばって、左足だけで踏み台へ乗った。


次の瞬間。


荷台の縁を掴んだまま止まる。


「高いな」


さっきまで普通に見ていた高さが、人が乗るとなると急に高く見えた。


俺が手を出す。


ラドはその手を見た。


「引っ張る?」


「いや。たぶん押す方が――」


「たぶんで俺の腕抜くなよ」


「じゃあどうする」


前掛けの女が短い板を持ってきた。


「一段増やす」


それだけだった。


板を地面へ置く。


御者が車輪へ輪止めを入れる。


ラドが一段上がる。


荷台の縁を掴む。


今度は、変な勢いをつけずに乗れた。


「最初からこれでよかったな」


ティムが言う。


ラドが座りながら見る。


「今言う?」


「俺も今思った」


「じゃあ黙ってていいやつだ」


少し口が悪い。


でも、ティムと話す速度は合っているらしい。


ラドは当て布の上へ腰を下ろした。


右足を床へ置く。


すぐに位置を変える。


「下に置くと、揺れる前から嫌だな」


御者が巻いた縄束を足元へ置いた。


「乗せるためじゃないぞ。楽なら使え」


ラドが踵をそこへ乗せる。


少しだけ肩の力が抜けた。


「これなら」


前掛けの女が荷台の外から聞く。


「痛くない?」


「痛い」


「じゃあ駄目じゃない」


「何しても痛いんだよ。さっきよりまし」


言い方が似ていない。


たぶん、この二人は普段からこうなんだろう。


女は何か言い返しかけて、やめた。


代わりに布包みを一つ渡す。


「昼」


「多い」


「ティムって子に取られな」


「なんで俺」


ティムが真っ先に反応した。


「顔」


「顔でパン取ると思われてる?」


俺は昨日までのことを思い出した。


否定しなかった。


マルクが二台目の御者へ聞く。


「乗せる?」


御者はラドを見る。


「分かれまで。途中で無理なら降ろす。俺は治せんし、急げん」


ラドが頷いた。


「それでいい」


前掛けの女は、それでもすぐ離れなかった。


二台目の荷台へ目をやる。


「空樽、動かない?」


御者が一本ずつ触る。


「三本。前で括ってある。人がぶつかったくらいじゃ来ない」


「“くらい”ってどのくらい」


「知らん。だから本人も手ぇついてろ」


ラドが片手を上げる。


「そこは働く」


怪我人を乗せるのに、怪我人にも仕事が残る。


変な感じがした。


でも荷台は椅子じゃない。


誰かが全部やってくれる場所でもない。


俺は空樽を括っている縄を押した。


朝の厚布包みみたいに、上だけ見ず横からも押す。


一本目は動かない。


二本目も。


三本目だけ、底が少し鳴った。


「これ」


御者が覗く。


樽が緩いんじゃなく、その下の薄板が擦れただけだった。


「音だけで止めるな。でも音を無視もするな」


「難しいな」


「仕事なんてだいたいそうだ」


マルクは、その間に他の三台を見て回っていた。


人を一人乗せるからといって、残り三台の帰り支度が止まるわけじゃない。


一台目では御者が馬の蹄についた泥を落としている。


三台目では返し道具の数を数えている。


四台目のティムは、なぜか自分の水袋をもう一度振っていた。


「今日は入ってる」


誰も聞いていない。


ティムだけが満足そうに頷いた。


前掛けの女がラドへ言う。


「途中で無理なら戻ってきな」


「戻る方が遠いだろ」


「言葉の話」


「分かってる」


さっきまで少し強がっていたラドが、そこだけ素直に返した。


俺は見なかったことにした。


女が腰の袋へ手を入れた。


「先に払う?」


御者は首を振る。


「着いてからもいらん。今日は帰る途中だ」


「でも人一人増える」


「増えるけど、荷を降ろすわけじゃない。遅れたらその時考える」


マルクが横から口を挟んだ。


「ここで値段決めたら、次も同じ条件で乗れるって話になる。今日は一回だけでいい」


女は少し考えて、小銭袋から手を出した。


「分かった。じゃあ借りにもしない」


「それが一番いい」


ラドが荷台から言う。


「本人抜きで綺麗に終わったな」


「お前は乗って帰るのが仕事」


「怪我人の仕事多くない?」


ティムが頷く。


「俺より多い」


マルクがティムを見る。


「お前は帰りも四台目」


「はい」


仕事が戻った。


そこでやっと。


一人増えた。


料金の話も。


次も乗せる話も。


誰でも乗れる話もしていない。


今日。


帰る四台のうち一台に。


帰り道の途中まで。


足を痛めたラドが一人乗る。


それだけだ。


出発前。


俺は二台目の荷台を横から押した。


朝と同じ癖で、荷が動かないか確認する。


御者が言う。


「人は押すなよ」


「分かってる」


ラドが荷台の上から言った。


「今ちょっと迷った顔してたぞ」


「してない」


「してた」


ティムまで乗る。


「してた」


「お前は後ろ行け」


帰りの隊列が動き始める。


一台目。


二台目。


三台目。


四台目。


朝より荷は軽い。


空いている場所も多い。


だから帰りは楽だと思っていた。


最初の浅い轍を、二台目の右車輪が踏むまでは。


がたん。


荷台が一度だけ大きく傾いた。


ラドの手が、荷台の縁を掴む。


顔から笑いが消えた。


「……これ」


御者が振り返らずに聞く。


「降りるか?」


ラドは少し考えた。


「まだ乗る」


それから、右足の置き場所をもう一度変えた。


空いている荷台は。


やっぱり、人の席じゃなかった。

第302話 歩ける人を乗せる方が、意外と難しかった

【本文】

ラドは、二つ目の轍で舌打ちした。


三つ目では何も言わなかった。


その方が気になった。


俺は二台目の横を歩きながら、荷台を見る。


ラドは右手で縁を掴み、左手で当て布を押さえている。


足元の縄束はさっきより少し前へずれていた。


「止める?」


俺が聞く。


ラドは顔だけこちらへ向けた。


「聞かれるたびに止まってたら、家着くの夜じゃない?」


「じゃあ聞かない」


「それも困る」


面倒だ。


でも、荷物ならこういう返事はしない。


前を歩く御者が笑った。


「本人が喋れるうちは本人に言わせろ。勝手に大丈夫にも、駄目にもするな」


「はい」


「あと、前見ろ」


前を見る。


危うく小石を蹴るところだった。


ティムが後ろから追いついてきた。


「どう?」


ラドが答える。


「お前ら、全員それ聞くな」


「じゃあ今日の昼何?」


「なんで」


「聞いちゃ駄目なやつ避けた」


ラドは一拍置いてから、布包みを持ち上げた。


「黒パンと燻し肉」


「いいな」


「取るなって言われてたぞ」


「まだ取ってない」


「未来形で話すな」


ティムは満足したらしく、また後ろへ戻っていった。


何しに来たのか分からない。


道は緩く下り始めた。


朝、厚布包みを締め直した長い下りとは別の場所だ。


でも路面は悪い。


雨の水が細い筋になって流れた跡が残り、車輪が何度も浅い溝を越える。


一つ。


二つ。


三つ目で。


ラドが荷台を叩いた。


「一回降りる」


御者が手綱を引く。


すぐには止まらない。


一台目へ声を送る。


「止まる!」


朝やった声継ぎが、帰りもそのまま出た。


でも今度は四台目まで届く前に、マルクが振り返った。


「何?」


「人」


御者がそれだけ答える。


マルクはラドを見て、頷いた。


理由を聞きに来なかった。


四台が平らなところで止まる。


ラドが荷台の端へ移る。


俺は朝と同じように手を出しかけた。


昨日から何回目だろう。


手を出す前に見る。


ラドは荷台の縁を掴んでいる。


左足からなら降りられそうだ。


でも地面までが高い。


俺は短い板を探した。


ない。


あれは北側荷場に置いてきた。


「板ない」


「板に乗って帰ってきたわけじゃないからな」


ラドが言う。


そりゃそうだ。


ティムが四台目から持ってきたのは、板ではなく空の木箱だった。


「これ」


御者が見る。


「底、割れてない?」


「たぶん」


「たぶんで人乗せるな」


今日何回目かの“たぶん”禁止だった。


箱を裏返す。


俺が押す。


ティムも押す。


ぐらつく。


却下。


結局。


御者が荷台を道の少し高い側へ寄せた。


車輪を止める。


地面との高さが少しだけ縮む。


ラドは左足から降りた。


最後だけ俺の肩を掴む。


「今は使う」


「どうぞ」


「偉そう」


「さっき拒否したのそっちだろ」


地面へ立つ。


ラドは一度、右足をつけた。


すぐ体重を左へ戻す。


それから、ゆっくり歩き出した。


マルクが聞く。


「歩く方が楽?」


「この道だけ。揺れるよりまし」


「じゃあ平らになったら?」


「また乗る」


「分かった」


それで終わった。


乗せたから、最後まで乗せる。


そういう話でもなかった。


俺たちは荷車を押していない。


ラドも担いでいない。


本人が歩けるところは歩く。


揺れの少ないところだけ乗る。


帰り道が、一つの方法で全部済まなくなった。


しばらくして、路面が固くなる。


御者が先に速度を落とした。


「ここから乗る?」


ラドは道を見た。


車輪の跡を見る。


「乗る」


今度は踏み台を探さなかった。


道端の低い石を使う。


俺が石を蹴って確かめる。


動かない。


ラドが左足を乗せる。


荷台へ上がる。


さっきより早い。


「慣れた?」


ティムが聞く。


「二回で慣れるなら職人いらないだろ」


「何の職人?」


「荷車に乗る職人」


「いるの?」


「いない」


ティムが真顔で俺を見る。


「いないって」


「知ってる」


少し遅れて、御者が笑った。


荷台の当て布を畳み直す。


縄束は足元で動かないよう、板と空樽の間へ挟んだ。


今度はラドが自分で座る位置を決めた。


「そこだと足、当たらない?」


俺が聞く。


「今はここがいい」


ちょうどその先に、馬へ水を飲ませられる浅い桶場があった。


四台全部を一度に寄せる広さはない。


朝と同じで、一台ずつ。


二台目の番が来るまで、ラドは荷台に座ったまま昼の包みを開いた。


黒パン。


燻し肉。


それと、小さな酸っぱい実が二つ。


ティムがどこからともなく現れた。


ラドは実を一つ持ち上げる。


「見るな」


「見てない」


「目がこれ見てる」


「珍しいだけ」


「何が」


「怪我人の昼飯」


「そこ珍しがるなよ」


俺は水を飲んだ。


歩いている俺たちと違って、ラドはほとんど座っている。


でも楽そうには見えない。


同じ姿勢のまま揺られる方が、別の疲れ方をするらしい。


ラドは黒パンをちぎりながら、俺の手を見る。


昨日の棘を巻いた布がまだ残っている。


「それ何」


「板触って棘刺さった」


「材木に負けたのか」


「一本だけ」


「本数の問題じゃないだろ」


ティムが嬉しそうに頷く。


「俺もそう思う」


「お前はさっき空箱を踏み台にしようとしただろ」


「割れてなかったら使えた」


「割れてるか“たぶん”だった」


ティムが黙る。


ラドが少し笑った。


「車輪屋って、車輪だけ作るの?」


俺が聞く。


ラドはパンを飲み込んでから答えた。


「車輪、軸の木、荷台の割れ、外れた鉄輪。店でできるのは何でも。馬具は別」


「じゃあ荷車全部?」


「全部って言うと親方に怒られる。俺ができるのはもっと少ない」


「何ができる?」


「削る。運ぶ。押さえる。怒られる」


「最後多そう」


「昨日は材木落としたから多かった」


軽く言ったけど、右足はまだ縄束の上だ。


俺はそれ以上、怪我の話を聞かなかった。


ティムが代わりに車輪を指す。


「俺、車輪って全部同じに見える」


ラドも二台目の車輪を見る。


「俺は馬が全部同じに見える」


御者が即座に振り返った。


「一緒にするな」


今度は三人で笑った。


馬だけは、何も面白くなさそうに水を飲んでいた。


マルクも一台目の横で硬いパンを齧っていた。


ラドがそちらを見る。


「俺一人のために、四台全部ゆっくりになってない?」


マルクはパンを飲み込んでから答えた。


「今のところなってない。止まったのも水場とお前が降りた一回」


「これから荒れ道続くなら?」


「その時考える。お前のために全員遠回りする気はないし、お前を揺らしてまで急ぐ気もない」


ラドは少しだけ目を丸くした。


「真ん中ないの」


「今探してる」


それを聞いて、ラドは笑った。


「じゃあ俺も黙って座ってるのやめる。無理なら言う」


「最初からそうしてくれ」


御者の方が先に返した。


ラドは「はいはい」と言いながら、残ったパンを包みに戻した。


今は。


それでいい。


道はさらに南へ下る。


空が明るくなってからずっと歩いていたせいで、今度は俺の足の方が重くなってきた。


人を乗せてる本人より、横を歩いてる俺の方が疲れてる気がする。


ティムも同じらしく、前へ来るなり言った。


「俺も荷台乗っていい?」


御者は振り返らない。


「足痛めたら考える」


「じゃあ今から――」


「やめろ」


俺とラドの声が重なった。


ティムが口を閉じた。


少し先で道が二つに分かれる。


ラドが荷台から身を乗り出しかけた。


御者がすぐ言う。


「落ちるぞ」


「右」


「どっちから見て?」


昨日のことを思い出したらしい。


ラドが一瞬止まった。


俺たちも止まる。


ラドは自分の右手を上げた。


「こっち。俺の右。お前らから見ても右」


「確認した」


御者が右へ入る。


そこから道が少し狭くなる。


両側に削った木片が落ちていた。


新しい。


木の匂いがする。


「もう近い?」


俺が聞く。


「近い。あの屋根」


木立の向こうに、低い屋根が見えた。


その横に。


壁へ立てかけられた大きな車輪が三つ。


車輪屋。


本当にあった。


ティムが言う。


「見たことある?」


「ない」


「俺も」


ラドが荷台の上でため息をつく。


「お前ら、道しか見てないんだな」


言い返そうとして。


できなかった。


店の前から。


さっき荷場にいた前掛けの女とは別の男が出てきた。


こっちへ手を振る。


その時。


二台目の右後ろから。


かち。


小さな音がした。


俺は振り返った。


もう一度。


かち。


ラドも同じ方向を見た。


さっきまで足のことで顔をしかめていたのに。


今度は、車輪の音を聞く顔になっていた。

第303話 人を降ろした先で、車輪の音が一つ増えた

【本文】

「止めて」


ラドが言った。


御者はもう止め始めていた。


二人とも、同じ音を聞いたらしい。


かち。


車輪が一回転する。


少し間を置いて。


かち。


俺には、それ以上分からない。


壊れそうな音にも聞こえるし。


木が擦れただけにも聞こえる。


ラドは荷台から降りようとした。


御者が振り返る。


「先にお前降ろす」


「だから降りる」


「急ぐな」


「音、右後ろ」


「逃げない」


その言い方で、ラドが止まった。


店から出てきた男が近づく。


五十くらい。


腕が太い。


手に木槌を持っている。


「何だ、その帰り方」


ラドを見るなり言った。


「仕事場から荷車で帰ってくるほど偉くなったのか」


「足挟んだ」


「馬鹿」


「知ってる」


「骨は」


「分からん」


「じゃあ分かった顔すんな」


会話が短い。


でも、俺たちがさっきまでしていた確認とは全然違った。


家の人間の会話だった。


男は俺たちへ頭を下げる。


「運んでくれた?」


御者が答える。


「途中まで頼まれただけ。ここで降ろす」


「助かった」


「次も乗せるって意味じゃないぞ」


「分かってる」


話が早い。


ラドが荷台の縁へ座る。


今度は店の男が低い踏み台を出してきた。


最初からそこにあった。


「あるんじゃん」


ティムが言う。


ラドが睨む。


「ここ俺んちだからな」


左足。


踏み台。


地面。


最後に右足。


ラドは少し顔をしかめたが、立った。


店の男が支えようとする。


ラドは手で断る。


三歩目でふらついて。


結局、肩を借りた。


ティムが小声で俺へ言う。


「俺なら最初から借りる」


「お前はまず怪我しないで帰れ」


「それが一番難しい」


難しくない。


ラドを店の中へ入れる前に、御者が当て布を回収した。


縄束を元へ戻す。


人が一人降りただけなのに、荷台が急に広く見えた。


ラドがポケットを探る。


小銭を一枚出した。


「これ」


御者は見ない。


「いらん」


「でも乗せた」


「帰り道だった」


「じゃあ借り一つ」


御者がそこで初めてラドを見る。


「借りにすると面倒だから、足治ったら自分で歩け」


ラドは小銭を持ったまま止まった。


店の男が笑う。


「返せ。こいつ借り作ると、返す方が大きくなる」


「俺そんな信用ない?」


「あるから言ってる」


よく分からないけど。


たぶん悪い意味ではない。


ラドは小銭を戻した。


そこで終わった。


運賃も決まらない。


人を乗せる仕事にもならない。


一回。


帰り道の途中まで乗っただけ。


それでよかった。


「で」


ラドが店の入口から顔だけ出した。


「右後ろ」


店の男が二台目を見る。


「何」


「回るたび一回鳴る」


男の顔が変わった。


ラドと同じだった。


さっきまで怪我人を迎える顔だったのが、車輪を見る顔になる。


「少し前へ」


御者が馬を歩かせる。


二台目だけ、店の前をゆっくり進む。


かち。


男がしゃがむ。


「もう一回」


戻す。


かち。


ティムもしゃがんだ。


俺もしゃがむ。


三人並んで車輪を見る。


何も分からない。


男が言う。


「お前ら、近い」


俺とティムだけ下がった。


御者は最初から近づいていない。


慣れてる。


男は右後ろの車輪を手で回させる。


外側を見る。


内側を見る。


指で木の栓を押した。


ほんの少し。


動いた。


「これ」


店の前には、削りかけの輪が二つ寝かされていた。


丸いはずなのに、まだ少し角が残っている。


壁には長さの違う木片。


鉄輪。


削り屑。


奥で誰かが鉋を引く音がする。


俺は一瞬だけそっちを見た。


知らない作業場は、見たい物が多い。


ティムも同じらしく、一歩だけ入口へ寄った。


ラドが言う。


「勝手に入ると怒られるぞ」


ティムが止まる。


「誰に?」


店の男が木槌を持ったまま答えた。


「俺に」


ティムは元の位置へ戻った。


速い。


俺は笑いながら、もう一度右後ろを見る。


音は小さい。


港のざわつきの中なら、たぶん聞こえない。


ここまで荷を降ろして、道も静かになって、車輪屋の前まで来たから拾えた音だった。


俺にはただの木の栓にしか見えない。


「抜ける?」


ティムが聞く。


「今すぐじゃない」


「じゃあ大丈夫?」


「その言い方が嫌いだな」


男は木栓の端を爪でなぞった。


「見ろ。こっちだけ色が違う」


俺は顔を近づける。


分からない。


ティムも同じ顔をしている。


ラドだけが入口から言った。


「擦れて白くなってる」


「そう」


男は俺たちへ説明するためというより、ラドの返事を確認するように頷いた。


「緩んで動いた跡。音が消えても跡は消えない」


俺は木栓を見る。


さっきまでただの木だった。


言われても、まだただの木に近い。


「これ見ただけで、いつ替えるか分かる?」


「分からん」


男はあっさり言った。


「だから今の緩みと、今日どれだけ走るかと、明日何積むかで決める」


数字一個で答えが出る話ではなかった。


俺は少し安心した。


分からないまま見ていい物もある。


店の男は立ち上がった。


木槌を取りに戻る。


「空で鴎泊まで戻るだけなら、今締め直して様子を見る。明日また荷積むなら替えろ」


御者が頷く。


「帰る前にやる?」


「やる。五分」


本当に五分かは分からない。


職人の五分は信用していいのか。


ティムも同じことを思ったらしい。


「五分って本当に?」


店の男が木槌を持って戻ってくる。


「お前が黙ってれば」


ティムが口を閉じた。


俺は笑った。


木栓を一度抜く。


完全には外さない。


位置を見て。


薄い木片を一枚だけ噛ませる。


木槌で二度。


三度。


叩く。


音が変わる。


男が言う。


「回して」


車輪を回す。


一周。


二周。


かち、が消えた。


ティムが目を丸くする。


「直った」


男はすぐ首を横へ振った。


「今日はな」


「違うの?」


「締めただけ。削れてる。次に荷を積む前に栓ごと替える」


また一つ。


“今動く”と“次も使える”が別だった。


朝の縄と同じだ。


出発前は平気でも、途中で変わる。


今帰れても、明日同じとは限らない。


俺は車輪を見た。


何か表示が出るわけじゃない。


耐久値も見えない。


赤い警告もない。


ただ。


一周に一回。


小さく鳴った。


それを聞いた人がいた。


店の男は木片を拾いながら、御者へ言う。


「鴎泊着いたら、右後ろに印つけとけ。誰か知らずに荷積むぞ」


「分かった」


ラドが入口から口を挟む。


「俺、明日なら替えられる」


男が振り向く。


「お前は足を先に替えろ」


「替えられないだろ」


「じゃあ座ってろ」


「横暴」


「怪我人が工具持つ方が横暴だ」


ラドが何か言い返した。


店の奥から別の声が飛んできて、途中で聞こえなくなった。


俺たちは出発する。


一台目。


二台目。


三台目。


四台目。


二台目の右後ろを、何度か見た。


音はしない。


だから大丈夫、とは思わなかった。


鴎泊へ戻った時には、日が少し傾いていた。


四台を港の端へ並べる。


マルクが人数を見て。


馬を見る。


荷台を見る。


最後に二台目の右後ろを見る。


「帰ったな」


ティムが言う。


「一台、明日そのまま使えないけど」


「それでも帰った」


マルクは短く答えた。


「壊して帰るよりいい」


御者が細い赤布を持ってきた。


右後ろの柵へ結ぶ。


“使うな”と文字を書いたわけじゃない。


でも港の御者同士では、朝まで触るなという印にするらしい。


「知らない人が見たら?」


俺が聞く。


「聞けばいい」


御者が言った。


全部を誰にでも分かる印にする気はないらしい。


今いる人間が。


明日の自分たちへ残す。


それで足りる時もある。


朝。


四台を北へ帰す仕事だった。


昼。


帰り道で人を一人乗せた。


夕方。


人を降ろした場所で、車輪の小さな音を拾った。


誰も戦っていない。


レベルも上がらない。


《先導》も黙ったまま。


それでも。


四台を帰す、だけだった仕事は。


帰ってからも一つだけ残った。


明日。


二台目へ荷を積む前に。


右後ろの車輪を、ちゃんと使える状態へ戻すこと。


帰したら終わりじゃない。


次に使えるところまで残す。


そういう仕事もあるらしい。


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