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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第292話 荷より先に、受け取る人が来た


【本文】


知らない小舟が何も置かずに帰った翌朝、鴎泊は驚くほど普通だった。


沖に白い帆もない。

浜で聞こえるのは、波と木箱を引きずる音と、ティムが縄を一本なくした声だけだ。


「なくしてない。置いた場所が分からないだけ」


「それを、なくしたって言うんだろ」


俺が返すと、ティムは受取場の下へ頭を突っ込んだ。


「昨日ここにあったんだって。灰色で、先がちょっと焦げてて――」


「縄はだいたい灰色だ」


「先もだいたい焦がしてる」


ハナが塩袋の口を縛りながら言った。


ティムが顔だけ出す。


「二人とも探す気ないでしょ」


「あるよ。足元にある」


ハナが顎で示した。


ティムの右足の下から、縄の端が少し出ていた。


しばらく誰も何も言わなかった。


「……踏んでた?」


「踏んでた」


「朝から幸先悪いな」


「縄に謝っとけ」


俺は笑いながら、昨日外した係留縄の毛羽を切った。


海から変な船が二隻来ても、朝になるとこうなる。


塩は運ぶ。

濡れた縄は干す。

割れた籠の縁は直す。

倉の床へ落ちた魚鱗は、放っておけば臭う。


世界が動いた感じがした翌日ほど、普通の仕事が多い。


昼前、北から荷車が一台下りてきた。


細い車輪。

荷台には空籠が三つと、古い麻袋が二つ。

御者台の横に、日に焼けた男が座っている。


男は港へ着くなり、馬を降りて首の後ろを掻いた。


「塩、まだあるか」


浜の男が倉から顔を出す。


「どこの分だ」


「葦曲がり。いつもの二袋」


聞いたことのない地名だった。


俺が振り向くと、ティムも同じ顔をしていた。


ハナだけは塩袋を数え続けている。


「北の川沿い」


ティムが小声で言う。


「聞こえた」


「昨日の」


「まだ繋げるな」


言った直後、男の方がこっちを見た。


「何だ?」


「何でもないです」


俺は塩袋を持ち上げた。


見た目より重い。


男の荷車へ運ぶ。

一袋目を荷台の前へ寄せたところで、浜の男が二袋目を指した。


「底見ろ。昨日湿ったやつと同じ棚だ」


俺は袋を少し傾ける。


乾いている。


掌で底を押す。

固まりもない。


「大丈夫そう」


「なら積め」


男は荷台の縄を解きながら、俺たちの板を見た。


板の中央ではなく、右寄り。


《他所船から北向け中継の事前照会 一件》

《荷なし/受取先・便未確認のため持込保留》


その少し下に、ゼンが昨日足した小さな文字。


《候補発話:干し網の重り》


男の手が止まった。


「干し網?」


俺も止まった。


ティムは止まらなかった。

二袋目を持ったまま俺の背中へぶつかった。


「うわ」


「止まるなら言って」


「お前も前見ろ」


「前にレンがいるんだもん」


塩袋の向こうで、男が眉を寄せた。


「それ、誰の話だ」


浜の男が先に答える。


「昨日、海から来た奴が聞いていった。まだ荷は来てない」


「どんな奴」


「女と男。小舟三人」


男は考えた。


荷台の縄を持ったまま、海を見る。


「石か?」


今度は全員が止まった。


オルドは自分の親指と人差し指で輪を作った。


「丸石じゃない。平たい方だ。真ん中を少し細く削って、縄が逃げないようにする。二つ割れた。残りも溝が広がってきてるから、まとめて六つ頼んだ」


「六つ全部、今すぐ必要?」


俺が聞くと、オルドは首を振った。


「今すぐなら二つ。残りは替え。風強い日に網が倒れる方が面倒だから、古いのを使い切る前に変えたい」


具体的だった。


でも、具体的だから同じ荷だとは限らない。


浜の男が聞く。


「何の石だ」


「網干す時に端へ吊るすやつ。溝切って縄通す。古いの二つ割れたから、六つ頼んだ」


ティムの口が開いた。


俺は横から腕を押さえる。


まだだ。


昨日の女は《干し網の重り》と言った。

量は未定。

受取人も知らない。


今の男は六つ。

石。

縄を通す溝。


似ている。


でも、似ているだけだ。


ゼンが受取場から出てきた。


「いつ頼んだ?」


男はゼンを見る。


「十日くらい前。東河港の魚市で」


「誰に」


「名前は知らん」


ティムが小さく息を吸った。


ハナが先に言った。


「言うなよ」


「まだ何も」


「顔が言ってる」


昨日から顔ばかりだ。


男は話を続けた。


「魚を買いに来てた奴に、重り作れるところ知らんかって聞いた。海側の石は硬くて欠けにくいって話になって、その場で頼んだ。誰が持ってくるかまでは聞いてない」


浜の男が腕を組んだ。


「鴎泊へ持ってこいとは?」


「言ってない」


「鴎泊の名前は?」


「今、板見て初めて聞いた」


それで、一つだけ分かった。


少なくともこの男から鴎泊へ話を流したわけじゃない。


噂は途中で誰かが足した。


ゼンが炭筆を持ってくる。


「名前」


「オルド」


「場所」


「葦曲がり。川の東岸。古い柳の渡しから半日上」


ゼンの筆が止まった。


「こっちでは、その場所を知ってる人いる?」


浜の男が首をひねる。


荷車の御者が代わりに言った。


「俺は行く。塩降ろすから」


全員の目が御者へ向いた。


御者は嫌そうな顔をした。


「何だよ」


「いや」


俺は塩袋を荷台へ押し込む。


昨日まで未確認だった《北の川沿い》へ、今目の前の荷車が行くらしい。


でも、その荷車が次も行くとは限らない。

石六つを載せられるとも限らない。

昨日の小舟が持ってくる物と、オルドが頼んだ物が同じとも限らない。


オルドは板の前へ来た。


「もし俺の重りなら、六つ全部いっぺんじゃなくていいぞ」


ティムがすぐ聞く。


「何個なら?」


「二つでもいい。割れた場所だけ先に直せる。急いで六つ揃えて、荷車ひっくり返す方が困る」


御者が鼻で笑った。


「俺を見て言うな」


「お前、去年一回やっただろ」


「ぬかるみだ」


「横倒しは横倒し」


御者が俺を見る。


「聞くな。昔の話だ」


聞いていない。


でも、少し面白い。


オルドは塩袋の縄を引いた。


「石の代金は魚市の方で話がついてる。運ぶ奴の分は、受け取った時に俺が払う。鴎泊に先に金置いてくのは嫌だ」


浜の男が頷く。


「それでいい。こっちは売り手にも運び手にもならん」


「じゃあ、来たらどうする」


浜の男は板を見た。


「来た時に、運ぶ便がいるか見る」


「いなかったら?」


「持って帰ってもらう」


オルドは笑った。


「面倒な港だな」


昨日も聞いた。


浜の男は同じ顔で返す。


「知らん荷を置いていける港の方が怖い」


「それもそうか」


塩二袋を積み終える。


オルドは御者台へ上がる前に、俺へ言った。


「石が来ても、俺のって決めつけるなよ。溝が浅いのは違う。指一本くらい入るやつだ」


自分から言った。


俺は頷く。


「六つ、溝深め。葦曲がりのオルド。受け取りは現物見てから」


「そう」


ティムが後ろから言う。


「名前分かったじゃん」


オルドが振り返る。


「俺の名前だけな」


それは大事だった。


荷の受取人が分かったわけじゃない。

《その荷かもしれない人》が、一人出てきただけだ。


荷車が北へ戻る前、御者が馬の腹帯まで見直した。


オルドが言う。


「そこまで締めると嫌がるぞ」


「昨日緩かったってお前が言ったんだろ」


「昨日は昨日。今日は朝飯食った」


「馬の腹まで日替わりかよ」


「生きてるからな」


御者が手を止めた。


俺も少しだけ納得した。


荷も道も、人も馬も、昨日と同じ形ではない。


だから一回通っただけで《次も通る》にはならない。


荷車が北へ戻っていく。


ゼンは板へ長く書かなかった。


《葦曲がり・オルド》

《石重り六を注文した申告》

《昨日照会の荷との同一性 未確認》

《一部受取可》


ティムが読む。


「未確認、多いな」


ゼンは炭筆の先を削った。


「分かったことより、分かってないことの方が多いから」


オルドの荷車が出る前、ハナが塩袋の角を叩いた。


「これ、片方だけ少し寄ってる。坂でずれるよ」


御者が舌打ちして、縄を一本掛け直す。


「昨日締めた奴、誰だ」


オルドが御者を見る。


「お前」


「じゃあ昨日の俺が悪い」


「今日のお前が直せ」


「今直してる」


誰も特別なことをしていない。


だからこそ、荷の話だけが浮いて見えなかった。


「夢ないなあ」


「荷を間違えるよりいい」


ハナが、さっきティムが踏んでいた縄を拾い上げた。


「夢の前にこれ片づけて。今度は本当になくすよ」


ティムが受け取る。


「俺、今日ずっと縄に怒られてない?」


「縄は怒ってない」


「人が怒ってる」


港は、また普通の仕事へ戻った。


それでも板には、昨日なかった名前が一つ増えた。


荷より先に。


受け取るかもしれない人の方が、先に来た。


第293話 六個の重りは、二個しか北へ載らなかった

【本文】


二日後。


昼の潮が上がる少し前に、見覚えのある小舟が戻ってきた。


白い二枚帆の船じゃない。

二日前、荷を持たずに聞きに来た女の舟だ。


今度は、舟底に何かある。


低い木箱。

その横に、丸い石が並んでいた。


ティムが最初に気づく。


「来た」


「仕事しながら見ろ」


ハナに言われても、首だけは海へ向いている。


俺は干していた縄を掛け直した。


小舟は前と同じところで少し右へ流された。


女が櫂を入れる。


「また右!」


岸から浜の男が叫ぶ。


「分かってる! 前も言われた!」


「前も右だったから言ってる!」


「波が右から来るんだよ!」


「今日は左からだ!」


女が一瞬黙った。


後ろの男が吹き出す。


「ほら」


「うるさい!」


俺も笑いそうになった。


そのせいで投げる縄が少し遅れた。


「レン!」


ティムの声。


「分かってる」


波が戻る。


そこで投げる。


女が受けた。


今度は胸じゃなく、手へ届いた。


それだけで少し嬉しい。


舟を寄せる。


石が六つ。


どれも手のひら二つ分くらいの幅で、中央に縄を掛けるための溝が一周している。


女が岸へ上がる前に言った。


「先に言う。葦曲がりのオルド。六個。魚市の男に頼まれたやつ」


浜の男が目を細めた。


「前は名前知らなかっただろ」


「戻って聞いた。あんたらに持ってくるなって言われたから」


「俺らが言ったのは、受け先か便を確認しろだ」


「だから受け先を聞いた。魚市の男、最初は『川の方の奴』って言ったから三回聞き直した」


後ろの男が笑う。


「四回だよ。三回目は別のオルド出てきた」


女が振り向く。


「それ今言う?」


「同じ名前二人いたの大事だろ」


大事だった。


名前一つ分かっても、それだけではまだ足りない。


浜の男が俺を見る。


俺は頷いた。


名前が合った。


数も合う。


でも、まだ荷を下ろさない。


オルドが言っていたことを思い出す。


「溝、見てもいいですか」


女が石を一つ持ち上げた。


「持てる?」


「たぶん」


「たぶんで足に落とすなよ」


渡される。


重い。


予想よりずっと重い。


腕だけで受けて、危うく腰が後ろへ逃げた。


女がすぐ手を戻す。


「ほら」


「今のは重さ見ただけです」


「足の指も見なくなるところだったけど」


ティムが笑う。


「レン、顔が――」


「言うな」


最近そればかりだ。


石を地面へ置く。


女が残り五個も順に舟縁へ寄せた。


形は似ているけど、全部同じではない。

一個は少し楕円。

一個は縁が白く擦れている。

一個は溝の片側だけ、削り跡が粗い。


ティムが粗い方へ指を伸ばす。


「これ、外れ?」


女が先に手を叩いた。


「触る前に聞いて」


「まだ触ってない」


「触る顔してた」


また顔だ。


浜の男が石を見比べる。


「売り物として揃ってるかは、こっちじゃ決めん。受ける奴が見る」


女も頷いた。


「作った方は『使える』って言ってた。それ以上は知らない」


誰も品質保証役にならない。


それでいい。


溝へ指を入れる。


浅くない。

第一関節より少し深い。


オルドが言っていた「指一本くらい」は、たぶんこれだ。


ただし本人はまだ見ていない。


俺が言う。


「注文の話とはかなり合います。でも、本人が現物見て受け取るって言ってました」


女は眉を上げた。


「じゃあ運べる?」


浜の男が横から入る。


「便があればな」


女が周りを見る。


「昨日、北へ行く荷車あるって聞いた」


「昨日は昨日だ」


「今日ない?」


「ある」


女の顔が明るくなる。


浜の男は続けた。


「載るとは言ってない」


やっぱり面倒な港だ。


北行きの荷車は、ちょうど受取場の裏にいた。


オルドの塩を運んだ御者と同じ男だ。


今日は荷台に塩袋が一つ。

樽が二つ。

細長い木材の束。

空いた場所は、見た目ならまだある。


女が石を指す。


「六個」


御者は一個持ち上げた。


すぐ置いた。


「二個」


女が聞き返す。


「六個ある」


「見れば分かる。載せるのは二個」


「場所空いてるじゃん」


御者が荷台の後ろを叩いた。


「場所と重さは同じじゃない」


ティムが俺の横で、小さく「お」と言った。


俺も同じ気分だった。


御者は車輪の軸を指した。


「こっちへ重いの足すと、北の石道で跳ねた時に軸が嫌な鳴き方する。二個なら前へ寄せられる。六個なら木材を降ろす」


女は木材を見る。


「降ろせない?」


「先に頼まれた荷だ」


答えは早かった。


それで終わり。


知らない荷を運ぶために、先に決まっている荷を降ろさない。


すごく当たり前だ。


でも、こういう当たり前が一個ずつないと、道は続かない。


女が六個の石を見る。


「四個どうする」


浜の男が言う。


「舟へ戻す」


「二個だけ下ろす?」


「二個だけ北へ行くなら」


女は後ろの男を見る。


男は肩をすくめた。


「二個でもいいって受け手が言ってるなら、それでいいだろ。四個抱えて浜に立ってても軽くならん」


「抱えるの私じゃないけど」


「俺でもない」


船頭が舟の上から言った。


「俺だぞ」


女と男が同時に海を見る。


「ごめん」


「決めてから謝れ」


話がまとまった。


二個だけ。


ただ、持ち上げ方が問題だった。


石には溝がある。

でも、そこへ短い縄一本を掛けて持つと、揺れて膝に当たる。


俺は一個目でやった。


ごん。


「痛っ」


ティムがしゃがむ。


「膝?」


「石は?」


「そっち?」


ハナが呆れた。


「両方見なよ」


女が舟から細い縄を一本持ってきた。


「二本で十字にした方がいい」


「やったことある?」


「これ積む時に三回落とした」


「三回?」


「一回は砂。二回は舟の中」


「足は?」


「無事」


後ろの男が言う。


「俺の足は一回踏んだ」


「言うなって」


完璧じゃなかった。


それで少し安心した。


二本の縄を溝へ掛ける。

持ち手を二か所にする。


今度は石が回りにくい。


俺とティムで一個ずつ持つ。


「せーの、いる?」


ティムが聞く。


「同じ石じゃないからいらない」


「なんか寂しい」


「じゃあ一人で言え」


「せーの」


自分で言って持ち上げた。


荷車まで運ぶ。


御者が位置を決める。


前。

塩袋の横。

車輪の軸より少し前。


「そこで止めろ。石同士当てるな」


女が聞く。


「割れる?」


「割れなくても音が馬に嫌だ」


荷物だけ見ていない。


馬も見る。


二個を置く。

間へ古布を挟む。


御者が荷台の端へ膝をつき、車軸の真上を指で叩いた。


「重い物はここより前。後ろへ寄せると、下りで押される」


ティムが石を半歩ずらす。


「これくらい?」


「半歩って何だ。もう指二本」


「細かい」


「荷車は細かくないと横向く」


ティムは黙って指二本分動かした。


縄で動きを止める。


俺は結び目を一度作って、御者に首を振られた。


「それ、引っ張ると石の方へ寄る」


ほどく。


「こっち?」


「もう一巻き」


やり直す。


今度は頷いた。


画面には何も出ない。


技能名も出ない。


でも前より、誰に聞けばいいかは分かる。


俺が全部知る必要はない。


二個を積み終えたあと、御者は荷車を数歩だけ動かした。


ぎし。


木が鳴る。


全員の顔が車輪へ向く。


御者は止めた。


「今のは普通」


ティムが聞く。


「普通と嫌な音、分かるの?」


「毎日聞いてればな」


「俺には同じに聞こえた」


「だからお前に荷車任せてない」


御者はもう一度だけ前へ出し、石が動いていないのを見てから馬を止めた。


一個積むことより、積んだあとにどうなるかを見る方が長い。


女は残った四個を舟へ戻す前に、少し不満そうに荷車を見た。


「二個のために来たみたい」


御者が鼻で笑う。


「六個持ってきて六個返すよりいいだろ」


前にも似たことを聞いた。


女は俺を見る。


「この港、そういう考えの人ばっかり?」


「たぶん、失敗した荷を何回か見てるからです」


「何回?」


ティムが指を折りそうになった。


ハナが手を叩いた。


「数えなくていい」


ゼンが板へ書く。


《葦曲がり・オルド申告と数量/形状一致》

《石重り六のうち二》

《既存北便に空き重量あり》

《四は未受入・船側持帰り》


女が読む。


「“成功”って書かないの?」


ゼンは炭筆を止めない。


「まだ着いてない」


女が「あ」と言った。


そうだ。


荷車へ載っただけ。


鴎泊を出ただけ。


オルドが受け取るまでは、まだ途中だ。


御者が馬へ乗る。


「金はオルドから取る。俺の分だけな。石の代金は知らん」


浜の男が頷く。


「こっちは触らん」


金も鴎泊を通らない。


荷だけが、ここで舟から荷車へ移った。


それも二個だけ。


御者が手綱を引く。


荷車が動く。


石は鳴らない。


少し離れてから、ティムが言った。


「地味だな」


俺は笑った。


「何が」


「もっとさ。船が来て、荷がどーんと降りて、北へどーんと行く感じかと思ってた」


「二個だもんな」


「しかも持ってったの、俺らじゃない」


ハナが残った四個を指した。


「その地味な二個のせいで、四個また積み直しだよ」


女が舟から叫ぶ。


「聞こえてる! 手伝って!」


ティムの顔から笑いが消えた。


「地味な方、まだ終わってなかった」


俺たちは浜へ戻った。


道が一本できた感じは、まだしない。


二個の石が。


たまたま空いていた荷車の、空いていた重さへ載っただけだった。


第294話 二個届いても、まだ「便」にはならなかった

【本文】


石を二個載せた荷車が戻ってきたのは、二日後の午後だった。


俺はその時、港の端で籠の底を直していた。


竹の細片を一本通す。

抜ける。

もう一回通す。


隣でティムが見ている。


「そこ、逆じゃない?」


「じゃあやって」


「俺、今見てる係」


「便利な係だな」


「人にやらせると覚えないって、前に誰か言ってた」


「お前が言うな」


三回目でやっと竹が通った。


そこで、馬の鈴が聞こえた。


ティムが立つ。


「来た」


「何が」


「二個のやつ」


荷車は、二日前より少し汚れていた。


車輪の縁に乾いた泥。

荷台はほとんど空。

御者の髪だけが妙に跳ねている。


浜の男が先に声を掛けた。


「どうだった」


御者は馬を止める。


「届いた」


ティムが俺を見る。


俺も、直しかけの籠を膝へ置いたまま立った。


竹が一本、裾に引っかかって落ちる。


ハナが拾う。


「そういう時ほど道具落とすよね」


「今はそれどころじゃ」


「後で踏むから今」


渡された。


俺は受け取って、籠の中へ入れた。


それから荷車へ行く。


俺も見た。


その二文字だけで、少し体が前へ出た。


御者は荷台から降りながら続けた。


「オルドが受け取った。溝も問題なし。二個で先に一か所直すってよ」


御者はそこで少し笑った。


「受け取る前に、あいつ一個その場で縄通したぞ。俺が急いでるって言ってんのに」


「使えた?」


ティムが身を乗り出す。


「吊っただけ。網まで掛けてない。縄が溝から逃げないの確認して、それで受け取った」


ゼンがすぐ炭筆を止める。


「じゃあ、使用確認はそこまで」


「知らん。俺は荷車戻したからな」


いい切り方だった。


《受け取った》は分かる。

《長く使える》は分からない。


同じ出来事でも、誰がどこまで見たかで残せる事実が違う。


「道は?」


俺が聞く。


御者は水袋を受け取る前に顔をしかめた。


「行きは柳の渡し。帰りは混んでたから上の浅瀬。昨日雨が強かったら、たぶん行ってない」


ティムが板を見る。


「同じ荷車でも、行きと帰りで道違うの?」


「違う時は違う。馬が嫌がる道もある」


御者は荷台を叩いた。


「途中で一回、石がずれた。古布入れてなかったら角当たってたかもな。結び直して終わり」


完璧に運べたわけでもない。


壊れなかった。


届いた。


その間に、一回直している。


ゼンが受取場から板を持ってくる。


「二個とも?」


「二個とも」


「破損は」


「なし。古布も返せって言われたけど、忘れた」


浜の男が眉を上げる。


「忘れた?」


「葦曲がりの小屋に置いてきた」


「返してないじゃん」


「次持ってくる」


「次があるみたいに言うな」


御者が笑った。


「塩はまたあるだろ」


「石の話だ」


「石は知らん。あの女の舟がまた来るかも知らん。俺も毎回葦曲がりへ行くわけじゃない」


その言い方の方が、今の状態に近かった。


そっちの次らしい。


俺は少し安心した。


ゼンが書く。


《石重り二 葦曲がり・オルドへ実着》

《破損申告なし》

《運び賃 オルドと御者間で精算》


浜の男が横から言う。


「金額は書かなくていいのか」


御者がすぐ手を上げた。


「俺とオルドの話だ」


ゼンは金額欄を作らなかった。


鴎泊が取った金はない。

売った石でもない。

運賃を決めたわけでもない。


ここでやったのは、舟から荷車へ二個移しただけだ。


御者が水を飲む。


「あと四個は急がなくていいって」


ティムが聞く。


「いらない?」


「いる。ただ、二個あれば一枚は直せる。残りは次に誰か持ってこられる時でいいってよ」


「次の便?」


御者が顔をしかめた。


「便って言うと、決まってるみたいに聞こえるだろ」


ティムが口を閉じる。


俺も同じところで引っかかった。


二個は届いた。


でも、その二個を運んだ荷車が、次も同じ日に来るとは限らない。


同じ船が四個を持って戻るかも分からない。


次は二個載せられるとも限らない。


一回つながった。


それだけだ。


もしゲームなら。


【鴎泊―葦曲がり輸送路を解放しました】


みたいな表示が出てもおかしくない。


でも出ない。


出たら、むしろ嘘だ。


ティムは板を見ながら、指で空中へ線を引いた。


「ここから、こう行って。で、川の方へ――」


ゼンが炭筆の尻でその指を押し下げた。


「線は引かない」


「板にも?」


「決まってないから」


「一回行ったじゃん」


「一回行った荷を書くのと、道を書くのは違う」


ティムが俺を見る。


「どう思う?」


急に振られた。


俺は板を見る。


魚油四樽は来て、全部帰った。

別の舟は、荷を持たずに聞きに来た。

今回は石六個のうち、二個だけが北へ行って届いた。


線にすると、全部同じに見える。


でも実際は全部違う。


「俺も、まだ線はいらないと思う」


ティムが肩を落とした。


「二対一」


ハナが向こうから言う。


「私もいらない」


「聞いてない」


「三対一」


「増やさないで」


御者が笑った。


「お前ら、そんなこと話してんのか」


浜の男が答える。


「こいつがすぐ線にしたがる」


「線ある方が分かりやすいじゃん」


ティムが言う。


御者は少し考えた。


「分かりやすいけど、馬は線の上走らんぞ」


全員が御者を見る。


本人は水袋の口を閉めた。


「雨降れば別の道行くし、樽が重けりゃ遠回りする。橋が混んでりゃ待つ。線にしとくと、行けるって思う奴出るだろ」


ティムが黙る。


ゼンが板の端へ小さく書いた。


《経路線 未設定》


ティムが嫌そうな顔をする。


「わざわざ書く?」


「お前が引きそうだから」


「信用ないなあ」


「縄踏んでた人だし」


ハナが言う。


「それは関係ない」


「今日も探してたよね」


「今日は探してない」


ティムが腰を見る。


縄がない。


一瞬、顔が固まる。


俺が受取場の柱を指した。


「掛けてある」


「あった」


「今のはなくしてない」


「言ってないよ」


「顔で言った」


ティムが勝ち誇った。


とうとう使い返した。


御者が何の話か分からない顔をしている。


そのままでいい。


昼前、御者は空になった荷台でそのまま帰ろうとして、浜の男に止められた。


「空樽二つ、東河港へ戻すんじゃなかったのか」


御者が完全に忘れていた顔をした。


「……そうだった」


ティムが笑う。


「道のこと全部覚えてるのに、樽忘れるんだ」


「道は馬が困る。樽はお前らが叫ぶ」


「今叫ばれたね」


「だから思い出した」


御者は悪びれず、空樽を積む。


完璧な人が物流を回しているわけじゃない。

忘れる人がいて、見つける人がいて、出る前に直せたから動いている。


昼を過ぎると、港の仕事がまた動き始めた。


荷車から空樽を二つ降ろす。

馬の水を替える。

浜へ流れ着いた細い板を拾う。

籠の底は、さっき直したところがもう少し浮いている。


俺は座り直して、竹をもう一本通した。


今度は一回で入った。


ティムが横から覗く。


「上手くなった?」


「たぶん」


「技能出た?」


「出てない」


「じゃあ偶然」


「お前の籠、次やる」


「上手くなったと思う」


変わり身が早い。


夕方、ゼンが板を整理した。


消さないもの。

端へ寄せるもの。

今見るもの。


石の記録は中央ではなく、中央より少し右に残った。


《北向け小口荷 実着一件》

その下へ、

《石重り二》

《受取人確認済み》

《既存荷車の空き重量を利用》

《保管なし》

《保証なし》

《次回未定》


ティムが最後の一行を読む。


「次回未定、多くない?」


「未定だから」


「でも二個届いた」


「届いた」


ゼンはそこだけ否定しない。


それがよかった。


成功していないことにする必要もない。

大成功にする必要もない。


二個は届いた。


その事実は残す。


その先を勝手に足さない。


海を見る。


二日前の小舟は、まだ戻っていない。


四個の石も鴎泊にはない。


オルドは二個で一か所直した。


御者は、たまたまその日、二個分の重さを載せられた。


女は、たまたま六個を持ってきた。


鴎泊は、たまたまその間にあった。


でも。


たまたまが一回重なって、荷が届いた。


それはゼロとは違う。


浜の男が板を見て言った。


「看板増やすなよ」


ティムが振り向く。


「何の?」


「“北へ回せます”とか」


「俺まだ何も言ってないです」


「顔が言ってる」


まただ。


俺は笑った。


ティムがこっちを見る。


「レンも笑ってる」


「今度は笑ってる」


「認めた」


波が石を洗う。


板には線がない。


決まった便もない。


それでも、海から来た二個の石は。


鴎泊を通って、北の川沿いまで届いた。


一回だけ。


今は、それで十分だった。


第295話 「置いていける」は、誰も言っていなかった

【本文】


石重りが二個届いた三日後、鴎泊に来たのは石でも油でもなかった。


匂いだった。


朝の荷ほどきが一段落した頃、沖から小舟が一艘入ってきた。

舟縁の向こうに、蓋をした大きな籠が二つ見える。


まだ岸へ着いていないのに分かった。


「魚だ」


ティムが鼻を押さえた。


ハナは塩袋の口を縛ったまま、海を見もしない。


「干してあっても魚は魚でしょ」


「いや、かなり強い」


「鼻で荷受けしないで」


俺は濡れていた係留杭を布で拭いた。


小舟は前に来た女の舟じゃない。

二人乗りで、船頭らしい年上の男と、もう一人は細身の若い男だった。


若い方が、岸へ近づく前から手を振った。


「鴎泊って、ここでいいか!」


浜の男が返す。


「そうだけど、浅い! そのまま真っ直ぐ来るな!」


「どっち!」


「お前から見て左!」


若い男が右を見る。


船頭が後ろから頭を叩いた。


「そっちは右だ!」


「今、向き変わったから!」


「変わってねえ!」


ティムが俺の横で小さく笑った。


「ちょっと安心するな」


「何が」


「海の人でも左右間違える」


「お前と一緒にするな」


「俺は陸で間違える」


自慢することじゃない。


舟を寄せる。

今度は俺が縄を投げる役じゃなかった。


岸の男が一発で輪を投げ、船頭が受ける。

悔しいほど普通に決まった。


若い男が籠の一つへ手を掛けた。


「北へ回すやつ、ここ置いとけばいいんだよな?」


浜の男が止まった。


俺も止まった。


ティムだけが半歩前へ出て、ハナに服の後ろを掴まれた。


「まだ何も言ってない」


「今から言いそうだった」


若い男はこっちの空気に気づかないまま、籠を持ち上げる。


「干し魚。二籠。北の炭焼き場の方へ行くって話だ。次の荷車に載せてもらえればいい」


「受け取る人の名前は?」


浜の男が聞く。


若い男は籠を抱えたまま瞬きをした。


「知らない」


「場所は?」


「北の、炭焼き場の方」


「どこの炭焼き場」


「……北にそんな何個もあるのか?」


あるらしい。


俺も全部は知らない。

だから黙っていた。


若い男が困った顔で船頭を見る。


船頭は櫂を舟の中へ置いた。


「東河港で聞いたんだよ。小さい荷なら鴎泊に持ってけば、北へ回るって」


来た。


荷より先に、話が育っていた。


浜の男は籠を見た。


「ここに置いていけるとは?」


「言われた」


「誰に」


「名前は知らん。魚買ってた奴」


前にも似た話があった。


名前のない誰か。

市場。

荷の話だけ先へ行く。


若い男は、ようやく籠を舟底へ戻した。


「俺らも、好きで押しつけに来たんじゃないぞ。朝の潮に合わせて出て、ここまで回ってきた。東河港じゃ“北なら鴎泊で繋がる”って、それで話が終わったんだ」


怒っているというより、困っている声だった。


船頭も櫂へ腕を乗せる。


「こっちだって、置けるなら置いて帰りたい。魚積んだまま沖へ戻ると、次の荷が載らん」


そりゃそうだ。


俺たちに都合があるように、向こうにも都合がある。


だから余計に、誰か一人の善意で“じゃあ置いていって”とは言えなかった。


ただ、今回は石の時と違う。


石は受け取るかもしれない人が先に来た。

行き先も分かった。

その日に北へ行く荷車がいて、空き重量があった。


今は何もない。


受け取る人も分からない。

炭焼き場も特定できない。

今日、北へ行く便があるかも分からない。


でも籠はもうここにある。


しかも臭う。


ハナが俺の横へ来て、小声で言った。


「倉に入れたら、塩袋まで匂い移るよ」


「入れない」


「外なら鳥が来る」


「置かない」


「ならいい」


早い。


若い男が片膝を岸へ掛ける。


「とりあえず下ろすぞ」


浜の男が手を出した。


「下ろすな」


「話してる間だけ」


「話してる間も」


「重いんだって」


「重いなら舟に置いとけ」


若い男の顔が少し険しくなった。


「石は置いたんだろ?」


ティムの表情が変わった。

さっきまでの軽さが消える。


「置いてないです」


若い男がティムを見る。


「北へ行ったって聞いたぞ」


「二個だけ、その日に来てた荷車へ載せたんです。残り四個は舟が持って帰りました」


「同じじゃないのか」


ティムが口を開く。

少し早い。


俺は先に籠の底を見た。


縄が一本、外れかけている。


「そのまま持ち上げると底が傾きます」


若い男が下を見る。


「え?」


籠がぐらっと傾いた。


俺と船頭が同時に手を出した。


中で何かがざざっと滑る。


魚の匂いが一段強くなった。


「うわ」


ティムが本気で一歩下がる。


ハナは動かない。


「鼻で仕事しないんじゃなかった?」


「これは仕事より先に鼻に来る」


若い男は籠を舟底へ戻した。


底の縄が一本、擦れて細くなっている。


船頭が舌打ちした。


「昨日締め直しただろ」


「上だけ」


「底見ろって言っただろ」


「聞いた」


「聞いたならやれ」


言い合いながら、二人で縄を直し始めた。


俺も横から籠を押さえる。

手に魚の油が少し付いた。


それだけで、今この籠を倉へ置いたらどうなるか想像できた。


床。

匂い。

鳥。

誰かが蹴る。

次の荷が来る。

受取人が来ない。


そして最後に、


「鴎泊で預かっただろ」


と言われる。


たった二個の石とは違う。


石の時も、誰も預かってはいない。


たまたま同じ日に、舟から荷車へ移っただけだ。


「誰かがここで受けるって分かってるなら、その時に持ってきた方がいいです」


俺が言うと、若い男は縄を引きながら顔を上げた。


「また来いって?」


「少なくとも、ここへ置いて帰るよりは」


「遠いんだぞ」


「分かります」


「分かってないだろ」


言われて、少し黙った。


海の二晩がどのくらいしんどいか。

俺は最近ようやく少し知っただけだ。


若い男の方が、ずっと知っている。


だから簡単に「また来てください」と言うのも違う。


俺は言い直した。


「……遠いから、置いて帰りたいんですよね。でも、受け取る人が分からないままこっちに置かれると、今度は俺たちが、いつまで置くかも、誰に渡すかも決めることになる」


若い男は縄を持ったまま黙った。


船頭が先に息を吐く。


「まあ、そうなるな」


「石は?」


若い男がまだ引っかかっている。


ゼンが受取場から出てきた。


「石は受取人の名前が出て、その日の北便に空きがあった。港には残してない」


「じゃあ、今日、北へ行く荷車が来たら?」


浜の男が答える。


「行き先が合って、受け取る奴まで分かれば、その荷車の奴が決める」


「港が決めない?」


「決めない」


若い男は少し笑った。


「面倒だな」


浜の男も笑わない。


「知らん魚を預かる方がもっと面倒だ」


それで、話は終わった。


籠は下ろさない。


若い男たちは底縄を直し、二籠とも舟へ残した。


ただ、来たまま返すのも違う。


ゼンが炭筆を持って聞く。


「どの辺へ行く荷?」


若い男は少し考えた。


「東河港で聞いたのは、“北の炭焼き場”。それ以上は知らない」


「誰が受け取る?」


「知らない」


「依頼した人は?」


「魚市場で仲介した親父。名前は……」


船頭が横から言う。


「ロバンじゃなかったか」


「ロバンは樽屋だろ」


「じゃあ知らん」


ゼンの炭筆が止まった。


「それ、書けないな」


「“知らない”って書けば」


ティムが言う。


ゼンは本当に書いた。


《干し魚二籠》

《北の炭焼き場方面という申告》

《受取人・地点 不明》

《未受入》


若い男が板を覗く。


「“断った”じゃないんだな」


ゼンは炭筆の先を吹いた。


「受け取ってないから」


そこは妙に正確だった。


小舟を押し出す時、俺も水へ膝まで入った。


若い男が舷側を押しながら言う。


「次から、何聞けばいい」


俺は少し考える。


一覧を作るのは違う。


「少なくとも、受け取る人の名前か、場所。どっちかだけでも今よりは違うと思います」


浜の男が岸から足す。


「それと、持ってくる前に聞け」


若い男は笑った。


「それが一番面倒なんだよ」


「分かる」


俺も笑った。


「でも二往復するよりはマシかも」


「それはそうだな」


舟が離れる。


二籠の干し魚も一緒に行く。


鴎泊には何も残らなかった。


ティムが鼻をすすった。


「匂いは残った」


ハナがすぐ返す。


「水汲んで」


「俺?」


「一番臭いって言ってた人」


ティムが俺を見る。


「レンも触った」


俺は袖を嗅いだ。


「……俺も汲む」


「二人でやって」


ハナは塩袋へ戻った。


ゼンは板を見ている。


「石二個が届いた話だけ、外で短くなったんだろうな」


ティムが桶を持ちながら言う。


「“受取人確認して、その日に空き重量があって、港に置かず二個だけ”が、全部消えて?」


「たぶん」


俺は水桶を持ち上げた。


重い。


魚の油が付いた袖に海水が跳ねる。


一回うまくいった話は、短くなる。


短くなると、簡単に見える。


簡単に見えると、誰かが次を持ってくる。


それを止める看板を作るつもりは、まだなかった。


ただ。


「置いていける」は、誰も言っていない。


その一行だけは。


今日、ちゃんと分かった。


第296話 荷を置かなかった翌朝、道の方が止まった

【本文】


夜から雨が降った。


朝になっても、港の板は濡れていた。

波はそこまで高くない。

風も強くない。


なのに海から舟は来なかった。


代わりに、北の道から馬が一頭だけ下りてきた。


荷車はない。


乗っているのは、石重り二個を運んだあの御者だった。


ティムが最初に言う。


「車、どうしたの」


御者は馬を降りる前に顔をしかめた。


「挨拶より先にそれか」


「だって、いつも後ろにいるから」


「今は後ろにいない」


見れば分かる。


御者の長靴は泥だらけだった。

膝の少し下まで、乾いていない茶色が付いている。


浜の男が倉から出てくる。


「柳の渡し?」


御者は頷いた。


「渡しの手前。道の脇から水が入って、荷車一台はまった」


俺は手を止めた。


「あなたの?」


「違う。俺のは北に置いてきた。馬だけで抜けてきた」


「人は?」


「いる。怪我なし。荷も下ろしてる」


そこまで聞いて少し息が戻る。


御者は濡れた髪を手で押さえた。


「縄と板、貸せるか。向こうの奴が短い縄しか持ってない。板も一枚割れた」


浜の男が港の端を見る。


海用の新しい縄は出さない。

それは分かる。


古い係留縄が何本か、干し台の下に丸めてある。

毛羽立っていて、船を繋ぐにはもう怖い。


でも、荷車を少し引く補助なら使えるかもしれない。


「切れても文句言うなよ」


浜の男が一本を持ち上げる。


御者が手で撚りを確かめた。


「これなら十分。車輪を持ち上げるんじゃない。軸を逃がすだけだ」


ティムが聞く。


「俺らも行く?」


御者が先に答えた。


「来るなら泥になるぞ」


「それは行くなって意味?」


「靴見て自分で決めろって意味」


ティムが自分の靴を見る。


昨日、魚の匂いを洗ったせいでまだ少し湿っている。


「もう濡れてる」


「それと泥は別だ」


俺は古い板を二枚持ち上げた。


一本は幅が狭い。

もう一本は端が欠けている。


「これも?」


浜の男が頷く。


「持ってけ。ただし港へ戻す。向こうの道具になるなら、向こうで板を出してもらえ」


貸す。

あげるじゃない。


その線も、今は分かる。


ハナが倉の中から布包みを投げてきた。


「パン」


ティムが受け損ねた。


地面へ落ちる前に俺が取る。


「俺の?」


「二人分。昼までに戻れると思わないで」


「ハナ優しい」


「泥ついたまま倉入られたくないだけ」


「理由が毎回薄い」


「パン返して」


「優しいです」


ティムの変わり身も早い。


俺たちは御者の馬に縄と板を括り、北へ歩いた。


雨は細くなっていた。


港を離れると、道の音が変わる。

波じゃなく、靴底が泥を吸う音。


ぬち。


ぬち。


ティムが三回目で嫌そうな顔をした。


「これ、帰り重くなってない?」


「泥持って帰ってるから」


「いらない荷だな」


御者が前を歩きながら言う。


「その荷は勝手についてくる」


一刻もしないうちに、道の端へ水が見え始めた。


川じゃない。


斜面から流れてきた水が、道を横切っている。


普段は道脇の浅い溝へ入るらしい。

でも今は、折れた枝と枯葉が溝の口を塞いでいた。


水は行き場をなくして、道の低い方へ広がっている。


その少し先。


荷車が傾いていた。


右の後輪が泥へ沈み、車体が斜めになっている。


馬は外されて、少し離れた木へ繋がれていた。


男が二人。

女が一人。


荷台から下ろした革袋と木箱が、濡れないよう布の上へ並べられている。


女が俺たちを見る。


「縄!」


御者が手を上げる。


「持ってきた。先に水止めるぞ」


女は一瞬、荷車を見た。


「先に引かないの?」


「引いても穴深くするだけだ」


俺も荷車の車輪を見る。


確かに。

右後輪の後ろに、泥が盛り上がっている。


そのまま前へ引けば、車輪がさらに土を掻きそうだ。


ティムが縄を下ろした。


「じゃあ何する?」


御者が道脇を指した。


「溝開ける」


派手じゃない。


でも、そっちが先だった。


木の枝をどける。

枯葉を掻き出す。

水が少しずつ溝へ戻る。


俺は手で枝を掴んで、すぐ後悔した。


泥の下に棘があった。


「痛っ」


ティムが見る。


「血?」


「ちょっと」


女が小さな布を投げる。


「巻いとけ。そこ、野薔薇混じってる」


先に言ってほしかった。


でも、見れば枝には小さな棘がある。


俺が見ていなかっただけだ。


布を指へ巻く。


その間も、水は少しずつ道から減っていった。


「レン、それ持って」


ティムが太い枝を引っ張っている。


二人でどける。


枝の下から、水が一気に溝へ流れた。


ざあっ。


泥の表面が少し動く。


御者がしゃがんで、車輪の前を指で押した。


「まだ柔らかい。板入れる」


古板を一枚、車輪の前へ差し込む。


入らない。


泥が押し返す。


俺が端を踏んだ。


ずぶ。


板より先に、俺の右足が沈んだ。


「……」


ティムが口を押さえた。


「笑うな」


「まだ笑ってない」


「顔が言ってる」


「それ、みんな使うようになったね」


抜こうとする。


抜けない。


もう一度力を入れる。


足だけ抜けた。


靴が残った。


今度こそ全員が笑った。


女まで笑った。


俺は片足で立ったまま泥を見る。


「これ、どうするの」


御者が真顔で言う。


「掘れ」


「俺の靴を?」


「お前の靴だろ」


正しい。


手で泥を掘って靴を回収する。

中まで冷たい。


ティムがパンの布包みを高く持っている。


「昼飯、泥から遠ざけとくね」


「今だけは助かる」


道の水が引き始めると、作業が変わった。


荷車の右後輪の周りを少し掘る。

古板を二枚、車輪が上がる方向へ斜めに入れる。


縄は車輪に掛けない。


俺が車輪へ回そうとした時、御者に止められた。


「そこじゃない」


「引きやすそうだけど」


「車輪だけ引いてどうする。軸」


荷車の下へ潜る。


横木。

軸。

泥。


御者が縄を通す位置を見せる。


「車体を前へ逃がす。持ち上げるんじゃない。馬は急に引かせない」


女が馬を連れてくる。


「私が手綱持つ」


御者が頷く。


誰が何をやるか。

その場で決まる。


俺とティムは縄。

御者は荷車の横。

もう一人の男は板。

女は馬。


「声、俺が出す」


御者が言う。


ティムが小声で俺へ言った。


「せーの、言わなくていい?」


「今日は我慢しろ」


「分かった」


御者が馬の肩へ手を置く。


「一歩」


馬が動く。


縄が張る。


荷車がきしむ。


動かない。


「止め」


すぐ止まる。


御者は車輪を見る。


「板、もう指三本右」


どこかで聞いたような細かさだ。


ティムが板をずらす。


「今度」


もう一度。


「一歩」


馬が前へ出る。


俺たちも縄を引く。


泥が吸う。


車輪が少し上がる。


「そのまま。もう一歩」


ごりっ。


嫌な音。


全員止まる。


俺は息を止めた。


御者が軸を触る。


板の男が車輪を見る。


「石」


泥の中から小石が一個出ていた。


御者がそれを放り投げる。


「もう一回」


三回目。


車輪が板へ乗った。


荷車が傾きから戻る。


女が馬をすぐ止める。


誰も歓声を上げなかった。


最初にしたのは、軸を見ることだった。


御者が下へ潜る。


「割れてない」


女が息を吐く。


俺もそこでようやく肩の力が抜けた。


ティムが縄を離して言う。


「地味」


御者が荷車の下から返す。


「地味で戻れたなら十分だ」


また同じ答えだ。


でも、今はよく分かった。


荷を戻す。


一度に全部じゃない。


沈んだ側へ重い箱を置かないように、左右を変える。


女が革袋を持ち上げて俺へ言う。


「これ軽いから奥」


「中身は?」


「なめし前の皮」


近くで嗅ぐ。


魚とは違う強い匂いがした。


「今日、鼻の仕事多いな」


ティムが言う。


「昨日からだろ」


「港、匂いで覚えそう」


女が笑った。


「それは嫌だな」


荷車が再び動いたのは、昼をかなり過ぎてからだった。


動かしたあと、すぐには帰らなかった。


女が布の上へパンを置き、俺たちもハナにもらった包みを開いた。

泥だらけの手を水で流してから齧る。


ティムが一口目で言った。


「こういう時のパン、やたらうまい」


御者が笑う。


「泥食ってないか」


ティムが口を止めた。


「言わないで。今ちょっと考えた」


女が自分の靴を見る。


「泥は入ってないけど、水は入ってる」


俺も右足を動かす。


ぐしゅ。


全員が笑った。


昨日までは海の荷の話をしていたのに、今日は道端で濡れた靴の話をしている。

世界は、こっちの都合に合わせて一つの問題だけ出してくれない。


道そのものを直したわけじゃない。


水を溝へ戻した。

一台を穴から出した。

車輪が通るところへ板を置いた。


それだけ。


雨がまた強くなれば、同じ場所は柔らかくなる。


御者もそう言った。


「今日は通れる。明日は知らん」


ティムが聞く。


「じゃあ板、置いてく?」


浜から持ってきた板を見る。


御者は首を振った。


「一枚は向こうの奴に返す。二枚とも港のだろ」


道具も勝手に道のものにならない。


帰り道。

俺の右足だけ、靴の中でぐしゅぐしゅ鳴った。


ティムがそれに合わせて歩き始める。


ぐしゅ。


一歩。


ぐしゅ。


一歩。


「やめろ」


「何が?」


「合わせるな」


「自然に合う」


「嘘つけ」


御者が前で笑っている。


港へ戻る頃には、海は朝より静かだった。


舟は一艘も来ていない。


でも今日は、海の荷が来なくて助かったと思った。


もし朝、あの干し魚二籠を預かっていたら。


今頃、誰がそれを見ていたんだろう。


道が一つ止まるだけで、人はそっちへ取られる。


港に置いた荷は、置いたままにはならない。


誰かが見る。


誰かが守る。


誰かが責任を持つ。


昨日は魚の匂いで分かった。


今日は泥で分かった。


鴎泊はまだ。


荷を置いておく場所じゃなかった。


第297話 海が静かな日に、北の仕事が三台分たまった

【本文】


翌日は、何も来なかった。


海からも。

北からも。


正確には、いつもの塩の小舟は来た。

貝籠も来た。

空樽も戻った。


でも、知らない荷は来なかった。


石重りの残り四個も来ない。

干し魚二籠も来ない。


それで困る人も、鴎泊にはいなかった。


ティムだけが、昼前に一度海を見て言った。


「静かだな」


ハナが網袋を干しながら返す。


「普通」


「最近ちょっと来すぎてたから」


「三回くらいで慣れないで」


「人間って慣れる生き物だから」


「縄踏んでた人が言うと弱い」


「まだ言う?」


俺は笑いながら、昨日泥だらけにした靴を干し台の端へ掛けた。


まだ少し臭う。


魚ではない。

泥だ。


どっちがマシかは、考えないことにした。


柳の渡し手前の道は、その日の昼には荷車が一台通ったらしい。

完全に直ったわけじゃない。


水が引いて、柔らかいところを避ければ通れた。


ゼンは板へ一行だけ足した。


《柳の渡し手前 雨後一時通行難》

《一台救出》

《翌日一台通過申告》


それ以上は書かなかった。


「復旧じゃないの?」


ティムが聞く。


「一台通っただけ」


「最近それ多くない? 一回だけ」


ゼンは炭筆を置いた。


「一回を一回って書くから記録なんだろ」


ティムが少し考える。


「じゃあ俺が昨日泥で転ばなかったのも一回?」


「それは書かない」


「差別だ」


「必要ない」


「俺には必要」


「自分で日記に書け」


ティムは本当に板の端を探した。


ハナが無言で炭筆を取り上げた。


昼を過ぎても、海は静かだった。


俺は籠を二つ直した。

一つ目は底の編み目を逆に通してやり直した。


二つ目は一回で通った。


ティムが見ている。


「技能出た?」


「出てない」


「二回目だから偶然じゃないかも」


「三回目で失敗したら?」


「調子に乗ったってことにする」


便利な判定だ。


午後。


北の道から、馬の鈴が三つ聞こえた。


荷車が三台来た。


先頭にいたのはマルクだった。


久しぶりに見る顔なのに、挨拶より先に後ろを振り返っている。


「そこ、寄せすぎるな。二台目の馬が嫌がる」


二台目の御者が返す。


「分かってる!」


「分かってて寄るから言ってんだ!」


三台目から笑い声がする。


マルクが港へ入ってきて、俺たちを見る。


「人いるか」


浜の男が眉を上げた。


「何人」


「二人。明け方から昼まで」


ティムが俺を見る。


俺も見る。


ハナは見ない。


「何の仕事?」


俺が聞くと、マルクは馬の首を撫でながら答えた。


「護衛半分、荷役半分。雨で二日詰まった分を、明日まとめて北へ戻す」


「三台全部?」


「今ここに三台。向こうで一台合流する」


ティムが口笛を吹こうとして、ハナに見られてやめた。


四台。


今までの小口荷とは違う。


でも、マルクは続けた。


「大仕事みたいな顔するなよ。中身は塩、空樽、鉄具、布。いつもの荷が二日分溜まっただけだ」


そこがよかった。


新しい交易じゃない。


いつもの仕事が、雨で遅れて重なっただけ。


浜の男が聞く。


「護衛一人足りないのか」


「足りないっていうより、いつもの一人が足首やった。今日の朝、倉で樽踏んだ」


ティムが真顔になる。


「樽に?」


マルクが首を振る。


「樽を避けて、自分の足に自分で引っかかった」


「分かる」


「分かるな」


「俺も縄で」


ハナが咳払いした。


「その話いらない」


マルクは笑ってから、俺を見る。


「レン、前に荷駄ついてきたことあるだろ。馬の横は歩けるか」


「歩ける。扱えるとは言わない」


「それでいい。扱うのは御者。お前は前と横を見て、止まる時に荷が動いてないか見る」


ティムが自分を指す。


「俺は?」


「お前は後ろ」


「なんで」


「前に置くと喋る」


「後ろでも喋る」


「じゃあ一番後ろで喋れ」


マルクの返しが早い。


ティムが俺を見る。


「雑じゃない?」


「役割は分かりやすい」


「レン、最近そっち側だな」


こっち側がどっちかは分からない。


マルクが荷台から板札を一枚出した。


文字が並んでいる。


でも細かい計画じゃない。


一台目。

塩二袋、鉄具箱一。


二台目。

空樽四、布包み三。


三台目。

木材、細工道具、乾物。


「明日の朝、これに向こうの一台が足される。道は柳の渡しを使わない」


俺は顔を上げた。


「昨日のところ?」


「通れるって話は聞いた。でも四台続けて通す必要はない。上の道へ回る」


ティムが聞く。


「遠い?」


「遠い」


「じゃあなんで」


「四台とも泥にはまるより早い」


昨日、御者が言ったことと同じだった。


線の短さと、実際の早さは違う。


マルクは板札を俺へ渡さなかった。


見せただけで戻す。


「荷の細かい責任は各御者。お前らに数えさせない。明日やるのは、止まる時に周り見る、荷崩れたら声出す、道塞いでる物があったら勝手に突っ込まない。それだけ」


「魔物は?」


ティムが聞いた。


マルクは少し考えた。


「出ないとは言わない。でも今のところ報告なし。昨日の雨で獣の動きも分からん。だから“狼が出る仕事”だと思って来るな」


灰狼のことを思い出した。


一匹見た。

数便何も起きなかった。


あれと同じだ。


いないとも言えない。

いるとも決めない。


「武器は?」


俺が聞く。


「いつもの短剣と棒でいい。戦うために増やすな。四台を帰すのが仕事だ」


マルクはそこで、俺の腰の短剣より水袋を見た。


「むしろ水。あと手袋。昨日みたいな雨の後は枝落ちてる。道塞いでたら、素手で退かすなよ」


俺は巻いたままの指の布を見る。


ティムがすぐ気づいた。


「昨日やった人がいる」


「いるな」


マルクまで乗った。


「棘が泥に隠れてたんだよ」


「隠れてても棘は棘だろ」


「正しいけど腹立つな」


マルクは笑いながら続けた。


「それと、何か出ても追うな。荷車から離れるな。護衛って聞くと、敵見つけた奴から前へ出るのがいる」


ティムが俺を見る。


「なんで俺じゃなくレン見るの」


「昔からそういう顔してるから」


今度は俺まで顔で決められた。


その言い方が好きだった。


敵を倒す仕事じゃない。


四台を帰す。


目的が先にある。


ティムが俺の横で小声になる。


「ちょっと面白そう」


「聞こえてるぞ」


マルクが言った。


ティムは普通の声に戻す。


「面白そうです」


「仕事だ」


「仕事でも面白い時あるでしょ」


マルクは否定しなかった。


代わりに、三台目の御者へ怒鳴った。


「その樽、港のじゃないぞ! 勝手に降ろすな!」


御者が樽を抱えたまま止まる。


「空だからいいかと」


「よくない。戻す先が違う」


浜の男が俺を見る。


俺も笑った。


荷は、空でも荷だった。


結局、夕方まで三台の荷車は港の外れに置かれた。


鴎泊へ預けたわけじゃない。


御者たちがその場にいる。

馬もいる。

荷も各自が見ている。


ハナがパンを四つ余分に焼くと言った。


「四つ?」


ティムが聞く。


「レンとティムと、マルクと、明日朝食べ損ねた人用」


「俺、二個いける」


「じゃあ最後の一個はお前以外用」


「なんで」


「今言ったから」


俺は笑った。


夜になる前に、自分の靴をもう一度見た。


泥は落とした。

紐も切れていない。


短剣。

水袋。

手袋。


大げさな準備はいらない。


でも昨日、棘で指を切った。

靴も泥へ置いてきた。


何も起きない仕事ほど、準備が雑になる。


それは少し覚えた。


ゼンの板では、石重りの記録が端へ寄った。


干し魚の《未受入》も、その下へ移った。


海の欄は静かだ。


代わりに、マルクが持ってきた板札の写しが一枚だけ増えた。


《雨後遅延 二日分》

《荷車三+北側合流一》

《明朝 上道》

《目的:四台を帰す》


ティムが最後を読む。


「“護衛”って書かないんだ」


ゼンが答える。


「目的はそっちじゃないから」


俺は板を見た。


確かに。


戦うかもしれない。

泥に止まるかもしれない。

何も起きないかもしれない。


それでも明日の朝、四台は北へ動く。


海から来た知らない荷じゃない。


ずっとこの土地を動いていた荷だ。


雨で二日止まり。


その二日分が、明日一度に動く。


マルクが帰り際に言った。


「月が沈む前に出る。寝坊したら置いてくぞ」


ティムが俺を見る。


「起こして」


「自分で起きろ」


「レンの方が早い」


「だからって任せるな」


「じゃあ半分任せる」


「半分って何だよ」


マルクはもう歩き出していた。


海は静かだった。


残り四個の石も来ない。


それでいい。


明日は。


北の道が、三台分――いや。


途中で一台増えて、四台分動く。


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