第286話 知らない舟は、岸より先に砂へ乗りかけた
【本文】
小舟は、まっすぐ来なかった。
正確には、まっすぐ来ようとして、途中でやめた。
浅瀬の少し手前で櫂が急に強く入り、舟首が横へ振れる。
「そっちじゃない!」
年配の船頭が浜から叫んだ。
向こうの櫂を握った男が顔を上げる。
「こっちか!」
「逆だ、逆!」
小舟の真ん中で、さっきから立ちたがっていた男がまた腰を浮かせた。
「右だろ!」
後ろの男がすぐ服を引く。
「お前は座ってろ。三人で違う右を作るな」
浜で笑いが起きた。
年配の船頭が俺の横で鼻を鳴らす。
「海で右左言うと、だいたい一回こうなる」
「じゃあ何て言うんです?」
「指さす」
ずいぶん原始的だった。
でも次に船頭が大きく腕を振ると、向こうはすぐ分かった。
小舟が少し沖へ戻り、浜に対して斜めに入り直す。
俺は濡れた縄の端を持ったまま待った。
さっきから腕が勝手に投げる準備をしている。
「まだ」
船頭が言った。
「分かってます」
「顔が投げてる」
「顔で縄は飛ばないです」
「腕も飛びそうだ」
否定できなかった。
波が一つ入る。
小舟が持ち上がる。
下がる。
舟底の向こうに薄茶色の砂が見えた。
思っていたより浅い。
向こうの櫂手が水面を覗き込んだ。
「これ以上行くと擦るか?」
年配の船頭が答える。
「今の波なら行ける。次の大きいので寄せろ。小さいので無理に漕ぐな」
「大きいの、どれだ」
「見りゃ分かる!」
向こうが笑った。
「初めての浜でそれ言うか!」
「こっちも初めてのお前らだ!」
また笑いが起きた。
少しだけ、空気が普通になった。
見慣れない帆船。
知らない三人。
さっきまでは、それだけで浜全体が構えていた。
でも浅瀬は、誰が来ても浅瀬らしい。
大きめの波が入った。
小舟が一気に近づく。
「今!」
俺は縄を投げた。
短い。
先端が舟の手前へ落ちた。
「あ」
「拾うな、そのまま!」
船頭が言う。
波が戻る。
縄が浜側へ引かれる。
俺は慌てて手繰った。
小舟の男が笑っている。
「惜しい!」
「次は届く!」
「港の人じゃないのか?」
「今日二回目です!」
言ってから、自分で何を申告しているんだと思った。
横の船頭がため息をつく。
「一回目は数に入れるな」
「じゃあ今日一回目です」
「もっと悪い」
次の波。
今度は肩から投げない。
船頭がさっき見せたように、縄の重みを前へ送る。
先端が舟まで届いた。
ただし、立ちたがる男の胸に当たった。
「うおっ」
男が縄を掴む。
「港じゃなくて人を獲る縄か」
「すみません」
「取れたからいい!」
後ろの男が呆れた顔をしている。
「よくない。船に取れ」
「細かいな」
「お前が毎回雑なんだよ」
二人が言い合っている間に、櫂手が縄を舟首の輪へ回した。
俺は引こうとした。
すぐ手首を叩かれる。
年配の船頭だった。
「引くな」
「え?」
「舟を陸へ引っ張るな。波が寄せる時だけ余りを取れ。戻る時は持たせろ」
「持たせる?」
「張りすぎると舟首が振られる。やってみろ」
次の波が来る。
縄が緩む。
俺は余った分だけ手繰る。
波が戻る。
縄が張る。
そこで止める。
引かない。
小舟が横へ逃げず、少しずつ石の横へ寄った。
「おお」
思わず声が出た。
船頭が横目で見る。
「上手くなった顔するな。まだ一回目だ」
「でも一回目よりは」
「それはそう」
認めるところは認めるらしい。
小舟の底が砂を軽く擦った。
ぎ、と嫌な音がする。
櫂手が顔をしかめた。
「やっぱ浅いな」
「だから本船で入ってこなかったのか?」
浜の男が聞いた。
後ろにいた男が、小舟から慎重に降りる。
膝くらいまで水へ入った。
「知らない港に、あれで突っ込むほど船長は馬鹿じゃない」
沖の二枚帆を顎で示す。
「底も分からない。風の抜け方も分からない。小舟で見て、駄目なら外で待つ」
年配の船頭が頷いた。
「それなら話は早い」
「話が早いなら、靴濡らさずに上がれる場所も教えてくれ」
「そこはもう遅い」
男は自分の膝を見た。
本当に遅かった。
立ちたがっていた男も降りようとして、舟が揺れた。
「お前、最後」
後ろの男が止める。
「何で俺だけ」
「一番揺らすから」
「体重はお前の方がある」
「動きが多い」
櫂手まで言った。
二対一だった。
俺は縄を石の杭へ回した。
結び方を迷っていると、年配の船頭が指で輪を作る。
「そこ一周。締め切るな。小舟はまだ浮いてる」
「はい」
「あと足元」
見た。
波が来る。
今度は濡れなかった。
少し嬉しい。
その間にも、浜の仕事は続いていた。
魚籠を洗う音。
誰かが塩袋を数える声。
沖の船を見ながら、別の小舟が普通に出ていく。
知らない船が来たからって、港全部が止まるわけじゃない。
俺も縄を任せた後、さっき運びかけた空籠を二つ持った。
立ちたがっていた男が、ようやく岸へ上がる。
俺を見て言った。
「さっきの兄ちゃん。ここで荷、北へ回せるって本当か?」
「俺に聞かれても」
「港の人じゃないのか?」
「港でも働いてるけど、ずっとじゃないです」
「ややこしいな」
「俺もそう思います」
男は笑った。
後ろの男がその肩を軽く押す。
「先に、ここで話していいか確認しろ」
浜の男が近づいてくる。
「何を持ってきたかは後で聞く。まずどこからだ」
一つ目の質問が自然に出た。
立ちたがる男が答えかける。
「南西——」
後ろの男が先に続けた。
「南西の島筋。ここからなら沿岸を二晩くらい。風がよければ一晩半」
島の名前は言わなかった。
俺は少し気になった。
「島筋って、どの島です?」
後ろの男は俺を見る。
悪い顔はしなかった。
ただ、小舟を顎で示した。
「荷を見てからでいいか。ここが違うなら、島の名前だけ置いて帰ることになる」
それもそうだった。
出所が一層分かった。
南西。
沿岸を二晩ほど。
それだけ。
遠洋船なのか、どこか大きな勢力なのか、まだ何も分からない。
俺はもう一度沖の二枚帆を見る。
見慣れない大きさではある。
でも、知らないから大きく見えているだけかもしれない。
「レン! 空籠、あと二つ!」
後ろから呼ばれた。
「今行きます!」
俺は振り返る。
立ちたがる男が笑った。
「忙しいな、港の人」
「港の人じゃないです」
「もうどっちでもいい!」
俺もそう思い始めた。
何を運んできたのかは、まだ籠二つ分、先だった。
第287話 北へ回したかったのは、粉でも麦でもなかった
【本文】
空籠二つを積み終えると、小舟の荷が見えるようになっていた。
座板の下に、小さな樽が四つ。
全部、腰より低い。
外から見えなかったのは、三人がその前へ座っていたかららしい。
浜の男が一本ずつ指す。
「中身」
立ちたがる男が胸を張る。
「魚油」
俺は少し拍子抜けした。
麦でも粉でもない。
食べ物ですらない。
男が俺の顔を見た。
「何だ、その顔」
「いや。北へ回す荷って聞いたから、食い物かと思って」
「何でも食い物の顔するな」
「そんな顔あります?」
年配の船頭が横から言った。
「ある」
即答だった。
否定しにくい。
後ろの男が樽の横から木札を出した。
縄で結ばれている。
字は読めた。
《魚油 小樽四》
その下。
《北向け 受取人は後便》
浜の男が眉を寄せる。
「後便って、誰だ」
「俺たちも名前までは聞いてない」
「じゃあ誰に渡す」
「それを、ここで預かって北へ回すって聞いた」
会話が一度止まった。
立ちたがる男が俺を見る。
俺は首を横に振る。
「俺、そういう受付じゃないです」
「受付って何だ」
「俺も今、言ってから分からなくなりました」
後ろの男が額を押さえた。
「頼むから話を増やすな」
浜の男は笑わなかった。
樽を一つ、小舟の上で転がすように触る。
重さを見ている。
「魚油なら、魚籠の横には置けん」
「匂い?」
俺が聞く。
「匂いも。漏れたらもっと嫌だ。魚は魚臭いから一緒でいい、にはならん」
年配の船頭が樽の栓を見る。
「倉の中も嫌だな」
「何でです?」
「漏れた時、床がずっと滑る」
立ちたがる男が言う。
「じゃあ外?」
「日向に置く気か」
「屋根の下」
浜の男が受取場の後ろを指した。
魚籠を置く場所から少し離れた、低い庇がある。
古い桶と空樽が二つ置いてあった。
「あそこなら二つ」
「四つある」
「見れば分かる」
「二つしか置けないってこと?」
「そう言ってる」
向こうの三人が庇を見る。
俺も見る。
確かに二つなら置ける。
三つ目を入れたら通り道へ出る。
四つ目は完全に邪魔だ。
荷を受ける場所がある。
それと、何でも受けられるのは別らしい。
「とりあえず二つ下ろして、樽を見ていいか」
浜の男が言った。
後ろの男が頷く。
「いい。受けるか決める前に見てくれ」
立ちたがる男が俺を見る。
「兄ちゃん、持てる?」
「樽ですよね」
「空なら軽い」
「中身入ってるじゃないですか」
「じゃあ空じゃない」
「何の確認ですか」
櫂手が笑った。
「こいつ、しゃべりながら考えるんだ」
「考えてからしゃべってる」
「順番が逆だ」
三人の関係が少し分かってきた。
俺と浜の男で、一つ目を持つ。
持ち上げる前に年配の船頭が止めた。
「転がすな。栓が上」
「はい」
「足、砂に取られるぞ」
「はい」
「返事だけは早いな」
「最近よく言われます」
樽は思ったより重かった。
粉袋とは重さの寄り方が違う。
中で液体が少し遅れて動く。
一歩出ると、腕の中で重心がずれる。
「うわ」
「止まるな、余計揺れる」
浜の男が言う。
二人で庇まで運ぶ。
下へ置く。
樽の底に木の薄い板が二枚挟んであった。
俺が抜こうとする。
「それ取るな」
小舟から声が飛ぶ。
立ちたがる男だった。
「何です?」
「楔。転がらんようにする」
「樽の一部?」
「樽としては空だ!」
何を言っているのか一瞬分からなかった。
櫂手が額を押さえる。
「樽の外の付属だって言いたいんだ」
「最初からそう言えばいいのに」
「俺もそう思う」
二つ目を運ぶ。
今度は揺れを先に意識した。
歩幅を小さくする。
樽の中が一拍遅れてくる。
少し楽だった。
年配の船頭が見ていた。
「上手くなった顔するな。まだ二回目だ」
「でも一回目よりは」
「それはそう」
さっきと同じだった。
二つを庇へ置く。
浜の男が栓の周りへ指を当てる。
乾いている。
樽腹も見る。
板の継ぎ目。
縄の食い込み。
「こっちは平気そうだ」
小舟に残った三つ目へ行く。
年配の船頭が手を伸ばす前に止まった。
鼻を近づける。
「これ、少し漏れてないか」
空気を嗅ぐ。
魚とは違う、油っぽい匂いがした。
栓の片側が黒く湿っている。
立ちたがる男が急に真面目な顔になる。
「出る時は乾いてた」
「今は湿ってる」
「揺れたかな」
「かもしれん。ここでは下ろさん」
浜の男が即答した。
「締め直して、本船へ戻せ」
男は反論しなかった。
四つ目は見た目に問題ない。
でも庇の場所がない。
「これは?」
「置く場所がない」
「二つまでって、本当に二つまでなんだな」
「さっきからそう言ってる」
小舟の三人が顔を見合わせた。
後ろの男が言う。
「じゃあ二つだけ仮に置く。受取人が分からないなら、受けてもらったことにはしない。夕方までに話が通らなければ戻す」
浜の男が頷いた。
「それならいい。こっちも預かった扱いにはしない。今は置き場を貸しただけだ」
ゼンがいたら、たぶん好きそうな言い方だ。
いや。
最近の俺の頭が勝手にそう分けているだけかもしれない。
浜の男は板切れを持ってきた。
炭で書く。
《魚油 小樽四》
《鴎泊 仮置き二/受取確認前》
《船へ戻し 二》
立ちたがる男が覗き込む。
「戻し二って、まだ舟にあるだろ」
「だから戻す二だ」
「一個は漏れ、もう一個は置けない」
「そこまで書く?」
「お前ら帰ったあと聞かれたら、俺が困る」
男が俺を見た。
「細かい港だな」
俺は思わず笑った。
「昨日まで俺、山で狼の『見た』『見てない』を同じように数えてました」
浜の男が俺を見る。
「だったら分かるだろ。魚油でも同じだ」
「狼と魚油、同じですか」
「漏れたらどっちも面倒だ」
それは少し強引だった。
でも分かりやすかった。
俺は庇の二樽を見る。
北へ回したかった荷は、粉でも麦でもなかった。
これが届いても、石窯の棚は増えない。
腹も満たさない。
だから、潮入浦の一袋とは別の話だ。
ただ。
こっちが海へ食料を探しに行っていた間に、海の別の場所では、別の荷を北へ送りたい誰かがいた。
それだけは、もう目の前にある。
年配の船頭が小舟の縄を見て言った。
「レン、緩んでる」
「あ」
俺はすぐ縄へ戻った。
世界が広がっても、結び目は勝手に締まってくれなかった。
第288話 「鴎泊なら北へ回る」と、俺たちのいない場所で言われていた
【本文】
問題は、樽を置いたあとに出た。
受取人が分からない。
名前もない。
後便で来る、と木札にはある。
でも、いつ来るのかも書いていない。
浜の男が木札を裏返した。
そこに、小さな印が焼きつけてあった。
丸が一つ。
その中に横線が二本。
「これ、知ってる奴いるか?」
周りにいた船頭や荷運びが一度ずつ見る。
誰も手を上げなかった。
年配の船頭も首を横に振る。
「東河港の印じゃない」
「潮入浦でも見ないな」
別の男が言う。
立ちたがる男が腕を組んだ。
「でも荷札には北向けってある」
浜の男が返す。
「北向けなら誰の物でも置ける、にはならん」
「今、仮置きしたのはそっちだろ」
「だから仮だ」
「細かいなあ」
後ろの男が片手で顔を覆った。
「初対面でその言い方やめろ」
「間違ってないだろ」
「間違ってない時が一番面倒なんだよ」
櫂手が笑った。
俺も少し笑った。
でも浜の男は板を見たままだった。
「夕方までに受取人が分からないなら二つとも持って帰ってくれ。ここで一晩は預からん」
今度は後ろの男もすぐ頷いた。
「分かった。それでいい」
立ちたがる男だけが少し残念そうにする。
「せっかく下ろしたのに」
「下ろしたから確認できた」
櫂手が言う。
「漏れた一個も見つかった」
「それはそうだけど」
「じゃあ仕事した」
「お前、急に前向きだな」
三人が勝手に納得し始める。
俺は木札をもう一度見た。
知らない印。
北向け。
後便。
ここへ届いた理由だけが抜けている。
「誰から鴎泊のこと聞いたんです?」
聞くつもりで準備した質問じゃなかった。
木札を見ていたら、そのまま口から出た。
立ちたがる男がすぐ答える。
「東河港」
俺は顔を上げた。
「東河港?」
「荷を運んでた男。名前は知らん」
「何て?」
「北へ回すなら鴎泊へ持ってけ、そこから北へ行く荷がある、って」
後ろの男が横から補う。
「それだけなら来てない」
「え?」
「知らん男一人の話で、こっちも本船寄せない」
櫂手が小舟の水を柄杓で掻き出しながら言った。
「そのあと、もっと北寄りの浜で小舟の奴にも聞いた。鴎泊なら小さい荷を置けるって」
立ちたがる男が指を二本出す。
「二回聞いたから来た」
浜の男が眉間を押さえた。
「待て。『預かってくれる』って言われたのか?」
「小さい荷なら置ける、だったかな」
「同じじゃない」
「俺にはだいたい同じ」
「だから面倒なんだよ」
後ろの男がまた言った。
今度は浜側からも笑いが出た。
俺は笑いながら、少しだけ背中がぞわっとした。
東河港。
名前も知らない荷運び。
もっと北寄りの浜の、小舟の誰か。
別々の場所で、鴎泊の名前が出ている。
俺たちが潮入浦へ行った時、誰かに「北へ荷を集める港を作る」なんて宣言していない。
粉を一袋運んだ。
東河港から袋が来る。
炭窯へ荷が上がる。
小舟が寄る。
そういう仕事を見た誰かが、勝手に一つの言葉へまとめたのかもしれない。
もちろん、まだ分からない。
同じ噂が二か所にあった。
そこまでだ。
「レン!」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
ティムが薪の粉を肩につけたまま、浜へ降りてきていた。
その後ろにハナ。
ティムは沖の二枚帆を見る。
小舟を見る。
庇の二樽を見る。
俺を見る。
もう顔がうるさい。
「何あれ」
「魚油」
「船だよ」
「南西の島筋から来たらしい」
「何で?」
「北へ荷を回せるって聞いたって」
「誰から?」
「東河港の知らない人と、北寄りの浜の小舟」
ティムはしばらく黙った。
珍しい。
それから真顔で言った。
「俺、薪やってる間に世界進みすぎじゃない?」
「薪も世界だろ」
「今それ言う?」
ハナが後ろで吹き出した。
「しかも薪、まだ全部終わってないよ」
ティムが振り返る。
「終わってから来た」
「積むのが残ってる」
「割るのは終わった」
「じゃあ積んで」
「船見てから」
「積んでから」
ティムが俺へ助けを求める。
俺は庇の樽を指した。
「こっちも受取人分からなくて、夕方までに戻すかも」
「じゃあ急がない?」
「薪は急ぐ」
ハナが即答した。
ティムは本当に戻された。
立ちたがる男がその背中を見て言う。
「友達?」
「たぶん」
「たぶんって何だ」
「毎日あんな感じなんで」
「いいな」
「どこがです?」
男は答えず、庇の方へ歩いた。
魚油の樽を軽く叩く。
「これ、北へ行くならさ」
浜の男が警戒した顔をする。
「まだ行くと決まってない」
「分かってる。もし行くなら、帰りは何かあるのか?」
「帰り?」
「北からこっち側へ来る荷。船が空で戻るなら、もったいないだろ」
俺は言葉が出なかった。
粉を北へ運ぶ話は考えた。
東河港から来る袋も見た。
炭や道具が行き来するのも見ている。
でも、南西の島筋まで戻る荷なんて考えたことがない。
浜の男もすぐには答えなかった。
年配の船頭が沖を見る。
「あるかもしれんし、ないかもしれん」
立ちたがる男が笑う。
「海の人って、みんなそれ言うな」
「知らんことに『ある』って言う奴よりましだ」
「それはそう」
今度は素直だった。
午後まで、丸二本線の印を知る人は現れなかった。
東河港から来た荷の中にも、その印はなかった。
受取人らしい人も来なかった。
約束通り、庇の二樽を小舟へ戻す。
俺も運んだ。
一回目より、中の油の揺れが分かる。
だからといって技能表示は出ない。
ただ少し、持ち方がましになっただけだ。
漏れの疑いがあった樽は、栓の周りへ布を巻き、別に固定されていた。
四樽とも小舟へ戻る。
木札も戻す。
浜の板には、荷そのものではなく出来事だけが残った。
《南西島筋方面の船 来航一回》
《魚油小樽四 受取人未確認/引渡しなし》
《鴎泊を北向け荷の経由地と聞いた旨 二系統》
そこまで。
「二系統って書くんだ」
いつの間に戻ってきたティムが言った。
肩の薪粉が減っている。
ちゃんと積んできたらしい。
浜の男が板から目を離さない。
「東河港と、別の浜。話した人間は分からん。だから二系統」
ティムが俺を見る。
「ゼンじゃないのにゼンみたい」
「最近みんな感染してる」
年配の船頭が聞き返す。
「何にだ」
「未確認って言いたくなる病気です」
「治すな。海では役に立つ」
また同じことを言われた。
小舟が離れる。
今度は俺が縄を放す側だった。
引かない。
波が戻る時に少し送る。
最後に輪を外す。
小舟の三人が沖へ戻っていく。
本船の白い二枚帆は、まだ外で待っていた。
あの船が次にどこへ行くのかは聞かなかった。
また来るかも聞かなかった。
北から南へ何が戻せるかも、答えは出ていない。
それでも一つだけ残った。
《鴎泊なら北へ回る》
その言葉だけは、俺たちのいない場所で、もう二回使われていた。
第289話 南へ行く荷はあった。でも、あの船には載せられなかった
【本文】
白い二枚帆は、その日の夕方まで沖にいた。
戻っていった小舟を吊り上げたあとも、すぐには帆を張らなかった。潮を待っているのか、風を見ているのか、浜からでは分からない。
分からないまま、こっちの仕事は続いた。
魚籠を洗う。縄を干す。底の抜けた籠は修理場へ回す。昼に来た塩袋を倉の奥へ入れる。
ティムは二枚帆を三回見に来た。
三回ともハナに戻された。
四回目は、さすがに来なかった。
「学習した?」
俺が聞くと、薪を積んでいたハナが首を振った。
「マルクに捕まってる」
「そっちか」
「学習はしてないと思う」
それなら納得した。
夕方前、炭窯側から荷駄が一頭降りてきた。黒い袋が三つ。口を二重に縛ってある。荷台の縁まで煤で薄く汚れていた。
俺は反射で沖を見る。
白い二枚帆は、まだいる。
荷駄の男が俺の視線に気づいた。
「あれ、朝からいる船か」
「南西の島筋から来たらしいです」
「へえ」
男はそこで話を終えた。
袋を一つ下ろす。
俺が手を出す。
「これ、どこへ?」
「東河港」
「南へ行く?」
男が袋を持ったまま、俺を見る。
「東河港は南だろ」
「いや、そうじゃなくて」
自分でも言い方が変だと思った。
朝の男が言った《北から南西側へ戻す荷》が頭に残っている。
そこへ年配の船頭が来た。俺と荷駄の男を一度見て、黒い袋を見る。
「何だ」
「南へ行く荷、あるじゃないですか」
俺が言うと、船頭は袋の口を指で押した。
「炭だな」
「それは見れば分かります」
「じゃあ何が分からん」
「これ、あの船に載せられないんですか」
言ったあとで、自分でも少し早いと思った。
荷駄の男は笑いもしなかった。
「誰に売るんだ?」
止まった。
「……南西の、どこか?」
「どこだよ」
「それは、まだ」
「いくらで?」
「それも」
「誰が受け取る?」
「分からない」
男は炭袋をもう一つ下ろした。
「じゃあ俺の荷じゃない」
短かった。
でも、その一言で全部終わった。
年配の船頭が鼻で笑う。
「方向だけ合ってても、荷は届かん」
「でも船は空で戻るって」
「空いてる船に、知らん相手へ売る荷を勝手に積むのか?」
「……積まないですね」
「だろ」
俺は炭袋を持ち上げた。
見た目より重い。
胸へ寄せたら、服に黒い粉がついた。
「うわ」
荷駄の男が言う。
「白い服じゃなくてよかったな」
「これ落ちます?」
「落ちる。たぶん」
「海の人みたいな言い方やめてください」
年配の船頭が横から言う。
「知らんことに『落ちる』って言う奴よりましだ」
またそれだ。
俺は黒くなった手で袋を運んだ。
三袋全部が東河港へ行くわけじゃなかった。
二袋だけ。
残り一袋は鴎泊の金物仕事で使うらしい。
「じゃあ二袋は、前から南へ?」
俺が聞くと、荷駄の男は頷いた。
「前から。向こうで使う奴がいて、こっちで出す奴がいる。船も決まってる」
「運賃も?」
「俺はそこまで知らん。売る方と運ぶ方で話してる」
全部を一人が知っているわけじゃない。
それも普通だった。
東河港行きの小舟が寄る。
炭袋を二つ積む。
俺も一つ運んだ。
船べりを越える時、袋の底を足へ当てた。
「痛っ」
船の男が笑う。
「油よりましだろ」
「何で魚油の話知ってるんです?」
「浜中、匂ってたぞ」
それは噂より早い。
俺は思わず自分の服の袖を嗅いだ。
炭の匂いしかしない。
「今は黒い方だな」
言われた。
東河港行きの船頭は、炭袋を積む前に木札を一枚出した。
札には出した側の名前と、向こうで渡す相手の呼び名が短く書いてある。俺が読めたのはそこまでで、値段は別の帳面らしい。
「ほら」
年配の船頭が木札を顎で示した。
「南へ行く、だけじゃないだろ」
「渡す相手まで決まってる」
「そういう荷は載せられる」
その時、船の男が一袋の底へ手を入れた。
「これ湿ってるぞ」
荷駄の男が顔をしかめる。
「どこだ」
「こっち側。朝露か、地面の水か」
袋を少し持ち上げる。底の布がほんの少し濃い。
俺には、言われなければ分からない程度だった。
「駄目?」
俺が聞く。
船の男はすぐ首を振らなかった。指で触り、匂いを嗅ぐ。
「炭自体まで湿ってるかは分からん。今日はこっちやめとく。向こうで火床に入れるって話だから、濡れてたら揉める」
荷駄の男が舌打ちする。怒ったというより、自分に向けた音だった。
「じゃあ鴎泊分と替える」
「こっちでいいのか?」
「そっちは今日使うだけだ。乾かせる」
袋が入れ替わった。
南へ行く荷ですら、方向と船が合えば終わりじゃない。中身の状態まで見ている。
俺は自分の服の黒い跡を見た。
「あの船に適当に積んだら、こういうの誰が見るんだろ」
荷駄の男が言った。
「だから適当に積まないんだよ」
当たり前だった。
でも、朝までの俺は《空いている船》を一つの答えみたいに見ていた。
空きは、条件の一つでしかない。
東河港行きの小舟が先に離れた。
炭二袋を載せて、いつもの方向へ行く。
ティムが戻ってきたのは、その積み替えが終わる少し前だった。
胸の前で腕を組み、東河港行きの炭袋と沖の船を交互に見る。
「あっちに聞くだけ聞かない?」
「何を?」
「炭いるか」
荷駄の男が笑った。
「誰に聞くんだ」
「船の人」
「船の人が買うのか?」
ティムが止まる。
「……島の誰か?」
「その誰かを知らんだろ」
「でも、欲しいかもしれない」
マルクがちょうど受取場から来た。
「欲しいかもしれない物を、値段も量も決めずに船止めて聞くのか」
ティムが俺を見る。
助けを求めている。
俺もさっきまで同じことを考えていたので、助けられない。
「俺も聞けないかなって思った」
正直に言う。
マルクは俺とティムを一度ずつ見た。
「聞くのはできる。今から小舟出して、あの船まで行けばな」
ティムの顔が少し明るくなる。
「じゃあ――」
「その間、誰がここやる」
終わった。
空籠はまだ残っている。東河港行きの荷もある。濡れた縄も片づけていない。
しかも聞けたところで、向こうが「欲しい」と言ったら次に価格、量、渡し先が出る。
何一つ用意していない。
俺は沖を見た。
知らない船へ行ってみたい気持ちはある。かなりある。
だからこそ、今行ったら《行きたいから理由を作った》だけになる気もした。
「今日はやめる」
俺が言うと、ティムがこっちを見る。
「レンが言うんだ」
「俺が一番行きたいから」
マルクが少し笑った。
「珍しく自分で分かってるな」
「毎回分かってないみたいに言わないで」
「毎回じゃない。だいたいだ」
ハナまで笑った。
結局、誰も小舟を出さなかった。
聞かなかったことも、一つの選択だった。
沖では、白い二枚帆がようやく動き始めていた。
帆が張る。
船首が少しずつ南西へ向く。
あの船は、北から何も積まなかった。
空だったかは分からない。自分たちの荷や水や道具はある。
ただ、鴎泊から載せた返り荷はゼロだ。
ティムは、帆が小さくなるまでしばらく黙って見ていた。
「結局、何も載せなかったな」
「載せなかった」
「炭も?」
「炭は東河港行き」
「分かってるけど、ちょっともったいない」
「俺もそう思った。でも行き先も買う人も値段も分からない」
ティムは一度だけ頷き、それから俺の胸を指した。
「炭は船に載らなかったけど、レンには載ったね」
見下ろす。
服の前が黒い。
「これ、落ちるらしい」
「たぶん?」
「たぶん」
二人で笑った。
ゼンは夕方、板に一行だけ足した。
《南行き既存荷あり/南西方面の買い手・価格・受取先は未確認》
ティムが横から読んだ。
「長い」
「短くして間違うよりいい」
「最近その板、俺より慎重」
ゼンは返事をしなかった。
俺は沖を見る。
白い帆はもう見えない。
南へ行く荷は、最初からあった。
でも《南》は、届け先の名前じゃなかった。
第290話 丸に二本線は、受取人の印とは限らなかった
【本文】
二日後、東河港から来た小舟に、俺の知らない男が乗っていた。
知らないと言っても、船の人間じゃない。荷を降ろす手つきが妙に慣れている。
年は五十前後。左の袖だけ油染みが多く、右手の親指の爪が半分黒い。
「それ、上じゃなく横に置け。上だと潰れる」
着いた直後から、誰に頼まれたわけでもなく荷の位置を直している。
ティムが小声で聞いた。
「誰?」
「知らない」
「レンが知らないなら俺もっと知らない」
「知らない量で張り合うな」
男はこっちを見た。
「聞こえてるぞ」
ティムが普通の声で言う。
「じゃあ誰です?」
「聞き方ってもんがあるだろ」
「今の駄目でした?」
「駄目だな。でも答える。東河港で荷組みやってるバロだ」
自分から名前を言った。
ティムは俺を見る。
「聞けば出るんじゃん」
「お前は次からもう少し丁寧に聞け」
バロに言われた。
ハナが荷札を受け取りながら、笑いを噛み殺している。
その日の荷は小さい木箱が二つと、塩袋が一つ。
大事件じゃない。
だからこそ、誰もバロに昨日までの話を説明しなかった。
普通に降ろす。
俺は木箱の片方を持つ。
中で金具が鳴った。
「傾けるなよ」
バロが言う。
「何入ってるんです?」
「留め金と輪。細かいのが多い」
俺はまっすぐ持ち直した。
木箱を受取場へ運ぶ。
戻る時、バロが板の前で止まっていた。
あの板だ。
狼の記録は端。
海の粉。
南西島筋の船。
魚油四樽。
そして、俺たちが木札から写した丸に横線二本の印。
ただし、板にあるのは本物の木札じゃない。
魚油を返した日に、ゼンが見た形をそのまま写しただけだ。
俺はそれを思い出した。
「これ、写しですよ」
バロの指が止まる。
「本物は?」
「船に返しました」
「じゃあ線の太さも焼き方も分からんな」
ティムが板へ顔を近づける。
「そんなの関係ある?」
「同じ丸二本でも、焼印なら作る場所で癖がある。手書きならもっと当てにならん」
ゼンが俺を見る。
俺は首を振った。
「焼きつけてあったのは見た。でも深さまでは覚えてない」
「俺も」
ハナも同じだった。
ティムだけが少し悔しそうにする。
「写真撮れたら楽なのに」
ゲーム内で何でも自動保存されるわけじゃない。
見たものを全部完全に持ち帰れないのも、この世界では普通だった。
バロが板をもう一度見る。
「じゃあ、似てる。そこから先は言わん」
最初から一段、慎重になった。
バロがその印へ指を近づける。
「これ、どこで見た?」
俺の足が止まった。
ゼンも顔を上げる。
ティムが先に言った。
「知ってるんですか?」
バロはすぐ頷かなかった。
板の印をもう一度見る。
「知ってる、って言うと違うな。見たことはある」
「どこで?」
俺が聞く。
「東河港。油荷の木札」
ハナが荷札を置いた。
「受取人の印?」
バロが首を横に振る。
「たぶん違う」
全員が少し黙った。
ティムが一番先に口を開く。
「じゃあ俺たち、何を探してたの?」
「それを今から聞くんだろ」
ゼンが言う。
バロは板から離れ、さっきの木箱の蓋を押した。
「去年か、その前か。魚油を二回運んだ。どっちもこの印がついた札だった」
「同じ受取人?」
俺が聞く。
「違う」
答えは早かった。
「一つは東河港の灯り油を扱う店。もう一つは革をなめす仕事場の方へ回った。少なくとも俺が運んだ二つは別」
ティムが眉を寄せる。
「じゃあ送り主?」
「そこも知らん」
「知らないの?」
「俺は荷を運んだ。作った奴まで毎回聞かん」
バロの方が正しかった。
また全部を知っている人はいない。
「でも受取人の印じゃない、は言える?」
ハナが聞く。
バロは少し考えた。
「俺が見た二回だけなら、少なくとも《同じ受取人》ではない。油をまとめる側の印か、荷札を付ける場所の印か、その辺だと思う。思うだけだ」
ゼンがすぐ板の横へ炭筆を持っていく。
ティムが覗く。
「消す?」
「何を」
「受取人不明の印」
「印を見た事実は消えない」
ゼンは前の文字へ一本、細い線を引いた。全部を塗りつぶさない。
その下に書く。
《丸+横線二本:受取人印とは限らない》
もう一行。
《東河港荷組み人バロ:別受取先の油荷で同印を二回見た》
ティムが読み上げる。
「慎重すぎて長い」
「お前が短く言ってみろ」
「丸二本、謎」
「却下」
「早い」
バロが笑った。
「そいつに板書かせるなよ」
「書かせてません」
ハナが答えた。
ティムだけが不満そうだった。
俺は板の前に立つ。
丸に横線二本。
二日前までは、受取人へ近づく手掛かりだと思っていた。
今は逆だ。
その印を追っても、受取人へ近づかないかもしれない。
「じゃあ、魚油の行き先は結局分からないままか」
俺が言う。
バロは木箱の縄を締め直しながら返した。
「分からないなら、それでいいだろ」
「気になりません?」
「気にはなる。でも分からんものを分かったことにすると、後で荷が消える」
手が止まる。
「荷が消える?」
「前にあった。似た印で勝手に同じ店へ回して、三日揉めた」
ティムが嬉しそうに近づく。
「それ詳しく」
「仕事終わったらな」
「絶対ですよ」
「何でそんな楽しそうなんだ」
「人の失敗は勉強になるので」
「言い方」
俺とハナが同時に言った。
ティムが笑う。
そのあと、バロは本当に話した。
ただし三日揉めた部分は、思ったより地味だった。
店が違う。
帳面が違う。
運賃を誰が払うかで揉める。
一度荷を戻す。
それだけ。
ティムは途中で少し顔を曇らせた。
「もっとこう、荷を取り合うとか」
「お前は何を期待してた」
バロが呆れる。
でも俺には、その地味さの方が面白かった。
印一つ読み違えるだけで、荷が止まる。
剣も魔法も出ない。
それでも世界はちゃんと困る。
ティムはまだ、三日揉めた話を諦めていなかった。
「それで、結局どうなったんです?」
バロは塩袋の口を結びながら答えた。
「最初の店が『うちじゃない』って言う。運んだ奴が『印は同じだ』って言う。帳面を持ってきた奴が『荷の数が合わない』って言う。そこからだ」
「ちょっと面白くなってきた」
「面白くない。暑い日に荷を三回動かした」
「戦わないんですか」
「何とだ」
「店同士とか」
「お前、荷運びに何を求めてる」
ハナが横から言った。
「ティムは話に剣が出ないと不安になるんだよ」
「そんなことない」
「狼の時は出てほしくなさそうだったけど」
「あれは本物だから」
「荷も本物だよ」
バロが笑う。
「で、最後は札を付けたところまで戻った。そこで、同じ印は受取先じゃなく油荷をまとめた側で付けてるって分かった」
俺は顔を上げた。
「じゃあ今回も同じ?」
「そこまでは言ってない」
すぐ返された。
「俺が見たのは東河港へ来た二回と、その誤配一回。今回の木札そのものは見てない。印が似てるだけかもしれん」
ゼンが板へ書き足そうとして、手を止めた。
「三回?」
「俺が覚えてる範囲でな。数えるなら三回だ」
「じゃあ二回じゃなく三回?」
「別受取先を俺が直接運んだのが二回。揉めた一回は途中から見ただけ」
ゼンはさっき書いた文を消さず、その横へ小さく付け足した。
《誤配例一件は本人が途中から確認》
ティムが頭を抱える。
「もう板だけ読んでも分からない」
「だから本人がいれば聞け」
「本人、今日帰るじゃん」
「じゃあ全部分かった顔するな」
ティムは黙った。
珍しく効いたらしい。
俺も同じだった。
一つ情報が増えるたびに、答えが細くなる。
でも細くなった分だけ、間違った道へ走りにくくなる。
午後、東河港へ戻る小舟へ空箱を積む。
俺は前より縄を短く持てるようになっていた。
一度巻く。
余りを足元へ落とさない。
年配の船頭が横から見る。
「今日は顔が投げてないな」
「投げない日です」
「それが普通だ」
バロが小舟から手を振る。
「丸二本、また見たら覚えとく」
ゼンが言う。
「受取先じゃなく、どこで付いてたかも」
バロは一瞬だけ止まり、親指を立てた。
「面倒な頼み方するなあ」
「嫌ならいい」
「覚えてたらな」
それくらいがちょうどよかった。
頼んだから必ず情報が返ってくるわけじゃない。
板には、前より答えが増えたわけじゃない。
むしろ一つ、答えだと思っていたものが消えた。
でも俺は、その方が少しだけ先へ進んだ気がした。
第291話 二隻目は、荷を持ってこなかった
【本文】
白い二枚帆は戻ってこなかった。
魚油も来なかった。
六日間、海は普通だった。
普通というのは、静かという意味じゃない。
朝は魚籠が足りない。
昼は縄が一本見つからない。
夕方になると、誰かが濡れた籠を乾いた山へ混ぜる。
ティムは一度、塩袋の上へ座ってハナに本気で怒られた。
「袋が破れたらどうするの」
「座っただけだよ」
「座る場所じゃない」
「ちょうどいい高さで」
「次やったら薪じゃなく塩運び増やすから」
「それ罰になってる?」
「なるまで増やす」
ティムは立った。
俺は笑いながら魚籠を運んだ。
海の向こうの大きな話なんて、一度も出なかった。
六日目の昼前。
俺は浜で縄の端を焼いていた。
ほつれた細い繊維を短く切り、炭火へ近づける。
焦げた匂いがした。
「近づけすぎ」
年配の船頭が言う。
「燃やしてないです」
「今、燃える一歩前だった」
「一歩前で止めたなら成功じゃないですか」
「その理屈で船燃やすなよ」
そこで、浜の端から声が上がった。
「舟来るぞ」
俺は顔を上げる。
小舟だった。
前の白い二枚帆みたいな本船は見えない。
低い帆が一枚。船体も鴎泊へ来る沿岸舟と大きく変わらない。
ただ、見覚えがなかった。
「東河港?」
誰かが言う。
「帆の縫い方が違う」
年配の船頭が答えた。
俺は縄を置いた。
「持って石の先」
「今日は籠先じゃないんですか」
「今日は手空いてるだろ」
ちゃんと見られている。
細い係留縄を持って石の先へ行く。
半歩下がる。
波を見る。
前みたいに言われる前にやった。
船頭が横目で見る。
何も言わない。
言われないのが、少し嬉しい。
近づいてきた小舟には二人。
前に女。後ろに若い男。
女の方が櫂を握っている。
岸から声が飛ぶ。
「浅いぞ。右から回れ!」
女が一度左へ切った。
後ろの男がすぐ言う。
「右!」
「分かってる!」
「今左行った!」
「波に押されたの!」
知らない舟でも、やっていることは少し似ている。
俺は笑いそうになった。
女がこっちを見る。
「何笑ってんの!」
「まだ笑ってません!」
「顔が笑ってる!」
また顔だ。
舟が浅瀬へ入る。
俺は縄を投げる。
一回で届いた。
女が取る。
勢いで強く引こうとして、前のことを思い出す。
引かない。
波が戻る時だけ送る。
舟が石へ寄る。
年配の船頭が何も言わない。
今度こそ少し嬉しかった。
女が岸へ上がる。
最初に周りを見る。
倉。庇。受取場。板。
荷は持っていない。
手ぶらだ。
後ろの男も、小さな水袋しか持っていない。
浜の男が聞く。
「何の荷だ?」
女が答える。
「今日はない」
「ない?」
「先に聞きに来た」
ティムが、ちょうど受取場から出てきた。
六日前の三回分を取り返すみたいに、ものすごい速さで近づいてくる。
ハナもいる。
ハナは走らない。
ティムだけ走る。
「何を聞きに?」
俺より先に聞いた。
女がティムを見る。
「お前が港の人?」
ティムが一瞬止まる。
「……手伝ってる人」
正直だった。
浜の男が前へ出る。
「俺に言え」
女は頷いた。
「小さい荷なら、ここで北行きへ渡せるって聞いた。持ってきてから違うって言われるの嫌だから、先に来た」
俺とティムが顔を見合わせた。
六日前の魚油四樽が頭に浮かぶ。
浜の男も同じだったらしい。
「誰から聞いた」
「東河港の魚買い。名前は知らない」
また名前は知らない。
ティムが小声で言う。
「東河港、名前知らない人多くない?」
ハナが後ろから言う。
「ティムも魚買いの名前、何人言える?」
「一人も」
「じゃあ同じ」
終わった。
女は続けた。
「次に干し網の重りを少し持ってくるかもしれない。北の川沿いで使う奴が欲しがってる。量はまだ決まってない」
浜の男がすぐ手を上げた。
「待て。欲しがってる奴の名前は?」
女が口を閉じた。
後ろの男を見る。
男も首を横に振る。
「俺らが直接知ってるわけじゃない。東河港で聞いただけ」
「じゃあ今は持ってくるな」
返事は早かった。
女は怒らなかった。
「何が分かればいい?」
浜の男が板を顎で示す。
「誰に渡すか。どの便へ乗せる話なのか。少なくともそこ」
「値段は?」
「売買までここで決めるなら別の話。俺らは知らん荷の買い手にならん」
女は少し笑った。
「思ったより何でもやってくれる港じゃないんだ」
「誰が何でもやるって言った」
「東河港の魚買い」
浜の男が目を閉じた。
ティムが横で肩を震わせている。
「笑うな」
「まだ笑ってないです」
「顔が笑ってる」
俺とティムが同時に言われた。
ハナまで吹き出した。
女は板へ近づく。
丸に横線二本の記録を見つけた。
「これ何?」
「前に来た荷の印」
俺が言う。
「受取人の印じゃないかもしれないって分かったとこ」
「荷、置いてった?」
「全部持って帰った」
女が少しだけ驚いた顔をする。
「それで噂になったの?」
俺は答えられなかった。
噂になったのは、その前からだ。
魚油を持ってきた船も、噂を聞いて来た。
今の舟も、また噂を聞いて来た。
鴎泊から誰かが宣伝したわけじゃない。
なのに、こっちへ来る前に《ここなら北へ回せるかもしれない》と考える人が増えている。
浜の男は、女の話をそこで終わらせなかった。
「北の川沿いって、どこだ」
「そこも名前までは聞いてない。荷を探してた男がいたってだけ」
「誰が探してた」
「だから知らないって」
女の声が少し強くなる。
後ろの男が慌てて入った。
「喧嘩しに来たんじゃない。持ってくる前に聞けって言われたから来た」
浜の男が眉を上げる。
「誰に?」
「東河港の魚買い」
「またそいつか」
名前を知らないのに、もう妙に存在感だけある。
俺が聞く。
「その人、鴎泊で何でも預かるって言ってました?」
女は少し考える。
「何でも、とは言ってない。『小さい荷なら北行きに拾われることがある』だったかな」
前の船が聞いた言い方と、少し違う。
《預かる港》でもない。
《必ず回る》でもない。
話す人が変わるたびに、少しずつ形が変わっている。
ハナが腕を組んだ。
「それなら、余計に先に聞きに来て正解だったね」
女が頷く。
「四樽持ってきて全部戻すのは嫌だから」
俺とティムが同時に女を見る。
「魚油の話、知ってるんですか?」
俺が聞く。
「魚油?」
女は本気で知らない顔をした。
違った。
ただの例だったらしい。
ティムが小声で言う。
「今のちょっと怖かった」
「勝手に繋げたの俺たちだな」
「うん」
世界が繋がって見える時ほど、こっちが先に繋げているだけのことがある。
浜の男が女へ言う。
「次に来るなら、荷を持つ前に、渡す相手か、その相手まで運ぶ便のどっちかは確認してこい。両方分かれば話は早い」
「片方だけなら?」
「その時考える」
「決まりじゃないんだ」
「今、一回聞かれただけで決まり作る方が怖いだろ」
女は少し笑った。
「それもそうだ」
正式な規則はできなかった。
ただ、次に持ってくるなら何を先に確かめるか。
それだけは、女の側へ渡った。
ゼンが受取場から板を見ていた。
しばらくして、炭筆を取る。
「何書く?」
ティムが聞く。
ゼンは考えてから書いた。
《他所船から北向け中継の事前照会 一件》
その下に、
《荷なし/受取先・便未確認のため持込保留》
ティムが読む。
「二隻目って書かないの?」
「前は照会じゃなく、荷を持ってきた」
「細かい」
「違う」
ゼンは炭筆を置いた。
女が板を見て笑う。
「ここ、面倒だね」
浜の男が答える。
「面倒じゃない港へ、知らん荷置いてこい」
「嫌だよ」
「だろ」
それで話は終わった。
女たちは本当に何も置かなかった。
水を少し補い、舟へ戻る。
俺は係留縄を外した。
輪を外す。
波が来る。
少し待つ。
送る。
一回目の知らない舟の時より、手が迷わなかった。
でも画面には何も出ない。
【技能を習得しました】もない。
ただ、前より一つ、普通にできただけだ。
舟が離れる。
ティムが隣で言う。
「荷持ってないのに来るんだな」
「持ってきてから全部返すよりいいだろ」
ハナが言う。
「前の人たち、聞こえたら怒りそう」
「もういないから大丈夫」
ティムが海を見る。
「次、何持ってくるんだろ」
俺も同じ方を見た。
知らない。
干し網の重りだって、まだ持ってくると決まったわけじゃない。
受取人も、便も、量も分からない。
だから板の中央にはしなかった。
でも端へも寄せなかった。
魚油は一度来て、帰った。
二隻目は、荷を持たずに聞きに来た。
鴎泊の倉に増えた荷は、一つもない。
それなのに、ここへ来る前に鴎泊の名前を使う人だけが、少しずつ増えていた。




