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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第280話 狼を見た男は、荷物より先に荷獣の耳を見ていた


【本文】


受取場の裏へ回ると、戻ってきた荷駄はまだ解かれていなかった。


荷は無事だった。

麻袋も、縄でまとめた道具も、そのまま荷台に残っている。


ただ、荷獣だけが落ち着かない。

鼻を鳴らして、何度も後ろを振り返っていた。


戻ってきた男は、鞍の横紐を外しながら言った。

「先にこいつ降ろしていいか。話はそのあとで」


マルクが頷く。

「もちろん。レン、反対側持て。ティムは袋から。落とすなよ」


「狼の話は?」

ティムがもう男の顔を見ている。


「荷物が先」

ハナに肩を押された。


「はい」


さっきまで海の粉を食っていた口で、今度は山の荷を降ろす。

忙しい世界だ。


俺は荷台の反対へ回り、縄を緩めた。

結び目が固い。

一度引いて、逆だった。


男が手を伸ばす。

「そっちじゃない。短い方を抜け」


「これ?」


「それ。帰りに締め直したから固い」


短い方を引くと、あっさりほどけた。


ティムが隣で袋を抱え上げる。

「狼見てるのに、締め直したんですか」


「見たからだよ。緩んだ荷のまま引き返したら、今度は道で袋ぶちまけるだろ」


「……それは嫌だ」


「だから口より手」


男はそう言って、荷獣の首を二度撫でた。

さっきからこっちを見ない。

荷獣の耳ばかり見ている。


一本目の縄を外す。

袋を二つ下ろす。

木箱を一つ。


荷獣が少し身体を揺すった。

男の手がすぐ首へ戻る。


「まだ怖がってる?」

俺が聞くと、男は耳の向きを見たまま答えた。

「さっきよりはまし。戻る途中、何も出てないからな」


「狼が追ってきたわけじゃない?」


「追ってきてたら、俺はもっと騒いでる」


それはそうだ。


荷を全部下ろしてから、男はようやく水を飲んだ。

一口。

もう一口。


ティムが待っている。

露骨に待っている。


男が水筒から口を離す。

「聞きたいなら聞けよ。顔がうるさい」


「どこですか」


早い。


ハナが横からティムの腕を軽く叩いた。

「一個ずつ」


「じゃあ、どこ」


変わってない。


男は苦笑して、地面にしゃがんだ。

指で道を一本引く。


「炭窯支道へ入って、最初の急な坂を越えるだろ。そのあと、道が左へ折れるところがある」


マルクが確認する。

「焼けた切り株の少し手前か」


「ああ。あそこ。俺は曲がりへ入る前だった」


男の指が道の線の外へ動く。

「狼は下側。斜面から出てきた」


「道の上?」

俺が聞く。


「最初は下。そこから二、三歩だけ道へ出た」


「距離は?」


男は顔を上げ、俺とティムの間を見る。

それから受取場の端に立つ柱を指した。

「ここから、あの柱より少し遠いくらい」


数字じゃない。

でも、その方が分かる。

二十歩か、もう少し。


「時間は?」

マルクが聞いた。


「昼前。腹が鳴り始めたくらい」


ティムが小声で俺に言う。

「それ人によるよね」


男に聞こえた。

「俺は朝、二枚食った」


「かなり参考にならない」


「お前、さっき三枚目狙ってただろ」

ハナが言った。


ティムが黙る。

俺はちょっと笑った。


マルクが話を戻した。

「灰狼は何してた」


男の顔から笑いが消える。

「こっち見た。……いや、先にこいつだな」


荷獣の首を叩く。


「俺より先に、こいつが止まった。耳が前へ向いて、急に動かなくなった。それで俺が見たら、下から灰色のが出てきた」


「一匹?」


「見たのは一匹」


「他に音とか、動いた草とか」

俺が聞く。


男は少し考える。

「分からん。こいつが鼻鳴らしてたし、俺も戻すので頭いっぱいだった。見てないものまでいたとは言えん」


ゼンが横で板に短く書いた。

《目撃 一匹》


それだけ。


「こっちへ来た?」


「二、三歩、道へ出た。そこで止まった。頭を低くしてた」


「唸った?」


「聞いてない」


「追った?」


「追ってない。俺が荷獣を返して、坂を下りた。曲がりを出るまで二回振り返ったけど、ついては来なかった」


ティムが腕を組む。

「じゃあ、別に通れた?」


男がすぐ首を横に振った。

「今ここでならそう言える。でもあそこで、こいつが前へ行かなくなって、二十歩先に灰狼がいたら、俺一人では押さない」


声は大きくない。

でも迷いがなかった。


「荷が急ぎじゃなかったのもある。戻れるなら戻る」


マルクが頷いた。

「それでいい」


男の肩が少し下がった。

誰かに正しかったと言ってほしかったのかもしれない。


俺は地面の線を見る。

道。

曲がり。

下の斜面。

一匹。

追ってこなかった。


第一人生で灰狼とやり合ったことはある。

でも、それはこの一匹じゃない。

同じ動きをする保証もない。


記憶があるから分かることはある。

記憶があるせいで、分かった気になることもある。


「今日、あの支道を使う予定は?」

俺が聞いた。


ハナが答えた。

「午後に空荷で窯側へ戻す人はいる。でも、急ぎじゃないから止めても困らない」


「明日は?」


「いつもの便が一つ。行きに荷、帰りに炭を積む予定」


ティムがすぐ俺を見る。

俺もたぶん同じ顔をしていた。


マルクが先に釘を刺す。

「討伐には行かないぞ」


「まだ何も言ってない」


「二人とも顔に出る」


さっき男がティムに言ったやつだ。


マルクは地面の線を靴で半分消した。

「明日の便は予定通りにする。ただし一人増やす。確認できるところまで。狼を探して山へ入るな。道から外れるな」


ティムが自分を指す。

「一人って」


「二人増やす」


「増えた」


「お前を一人で数えたら不安になった」


「ひどくない?」


ハナが笑った。

男もやっと笑った。


俺は荷台の横に残っていた縄を拾う。

湿っている。

戻る時に締め直した跡が、手の中に残っている。


狼を見た話だけなら、もっと早く聞けた。

でも荷を下ろして、荷獣が落ち着いて、戻った男の息が整ってから聞いた方が、たぶん分かったことは多かった。


明日。

同じ道を、今度は俺たちも通る。


狼がいるかどうかを見に行くんじゃない。

荷が通れるかを見に行く。


似ているようで、たぶん全然違う。


第281話 足跡は道を追っていなかった

【本文】


翌朝、荷を積む前にティムが一つだけ確認した。


「狼出たら、どうする?」


荷駄の男は袋の位置を直しながら答えた。

「まず荷を落とすな」


「戦い方じゃなくて?」


「荷駄だぞ」


「そうなんだけど」


「そうなんだよ」


ティムが俺を見る。

助けを求める顔だ。


俺は反対側の縄を引いた。

「昨日の話、聞いてなかった?」


「聞いてた。でも一応」


「一応で狼と戦うな」


マルクが後ろから言った。

俺たち二人とも返事をした。


今日の便は、昨日止まった仕事のやり直しじゃない。

もともと予定されていた便だ。

行きの荷を炭窯側へ運び、帰りに積める物を積んで戻る。


俺とティムが増えただけ。


専用の討伐隊でも、調査隊でもない。

それが今はちょうどよかった。


支道へ入る。

朝の地面は少し湿っていた。

夜に雨が降ったほどではない。

草の先だけ濡れて、靴の外側がじわじわ冷たくなる。


ティムが三度目に足を振ったところで、男が言った。

「濡れたくらいで歩き方変えるな。荷獣が気にする」


「俺の足まで?」


「後ろでずっとばたばたされたら、人でも気にする」


ティムは歩幅を戻した。

三十歩くらいで、また水を踏んだ。

今度は黙っていた。


俺は笑わなかった。

少しだけ偉い。


最初の坂を上る。

荷獣の息が太くなる。

俺たちは横へつかず、少し後ろを歩いた。


男が時々、手綱を持ち替える。

坂の途中で一度止めた。

荷の片側がわずかに下がっている。


「狼じゃないぞ」

男が先に言った。


ティムが口を開きかけて閉じた。


縄を締め直す。

俺も反対を押さえる。


昨日の話を聞いてから、音が全部それっぽく聞こえる。

枝が折れる。

鳥が飛ぶ。

斜面で小石が転がる。


でも、どれも狼じゃない。


一番それを分かっていないのは、たぶん俺の肩だった。

さっきから少し力が入っている。


第一人生の記憶は、こういう時だけ妙に鮮明になる。

灰色の毛。

地面を蹴る前脚。

一歩目に合わせてくる目。


俺は息を吐いた。


今の身体は、あの時の身体じゃない。

レベルも違う。

仲間も違う。

道も違う。


昔の正解を持ってくる方が危ない。


「もうすぐ」


前の男が言った。


焼けた切り株が見える。

上半分だけ黒く残り、根元から新しい草が出ていた。


そこを越えると、道が左へ折れる。


荷獣の耳が動いた。


全員止まった。


いや。

荷獣は止まっていない。

歩幅が少し短くなっただけだ。


男が手を上げる。

俺とティムは声を出さない。


一歩。

二歩。


曲がりの手前。


何もいない。


ティムが息を吐いた。

聞こえるくらいだった。


「今の、絶対びびったでしょ」

俺が小声で言う。


「レンも止まったじゃん」


「俺は確認」


「俺も確認」


前の男が振り返らずに言う。

「二人とも静かに確認しろ」


怒られた。


曲がりへ入る。

昨日、灰狼が出たという下側の斜面。

草が腰ほどまである。

一部だけ倒れている。


男が荷獣を道の内側へ寄せた。

「俺が見たのは、あの辺だ」


俺は道から降りずに見る。

最初は何も分からない。


ティムが隣でしゃがみかけた。


「道の外出るなよ」


「分かってる。ここから見る」


珍しく先に言った。


泥の薄いところ。

小さな窪みがある。

一つ。

少し先にもう一つ。


「足跡?」


ティムの声が低くなる。


俺は近づく。

道の端ぎりぎり。


形は崩れている。

爪なのか、小石の跡なのかも一つだけでは分からない。


でも同じくらいの窪みが、その先にもあった。


下の斜面から道へ。

道を横切って。

上の藪へ。


「こっちから、こっち?」

ティムが手だけ動かす。


「そう見える」


「道沿いじゃない」


「今見える分はな」


荷駄の男も寄ってきた。

荷獣の手綱は離さない。


「ああ。昨日も下から出た」


「そのあと上へ行った?」


男は首を傾げた。

「そこまでは見てない。俺が先に戻った」


それでいい。

見てないものは足さない。


俺は道の上を前後に見る。

足跡らしいものは、曲がりを越えた先へ続いていない。

戻る側にも見つからない。


少なくとも、見える範囲では。


ゼンなら板にこう書く。

《道沿い移動 未確認》


頭の中で勝手に文字が浮かんだ。


「なんかゼンに会いたくなってきた」

俺が言うと、ティムが変な顔をする。


「なんで今?」


「俺の頭の中で勝手に『未確認』って言う」


「あ、それ俺もある」


「感染してる」


荷駄の男が鼻で笑った。

「便利なら治すな」


その時。


上の藪で、葉が一枚揺れた。


全員の顔が上がる。


風は弱い。

でも葉は一枚じゃなかった。

奥で、細い枝が戻る。


俺は腰の刃へ手を置いた。

抜かない。


ティムが立つ。

さっきまでの軽い顔が消えている。


荷獣が鼻を鳴らした。

一歩、後ろへ下がる。


男が手綱を短くした。

「寄るな」


誰に言ったのか分からない。

たぶん全員にだ。


十秒。


何も出ない。


もう十秒。


鳥が一羽、藪から飛び出した。

ティムの肩が跳ねた。


俺も少し跳ねた。


鳥は俺たちを気にもせず、道の反対へ消えた。


「……鳥」

ティムが言う。


「見れば分かる」


「レンも動いた」


「鳥が急だった」


「俺も鳥が急だった」


前の男がため息をついた。

「進むぞ。ここで鳥と話してても炭は来ない」


曲がりを越える。


そこから先、灰狼は出なかった。


炭窯まで行き、荷を下ろす。

向こうの作業者は昨日の目撃をもう聞いていた。

でも仕事は止まっていない。


一人が俺たちに聞いた。

「いたか?」


「足跡らしいのはあった」

俺が答える。

「下から上へ横切ったように見える。狼本人は見てない」


「じゃあ通れるな」


別の男が横から言う。

「一回通れただけだろ」


「そうだけど」


「明日も通る」


「じゃあ明日も分かる」


それで会話は終わった。


炭を積む作業が始まる。

俺も袋を持つ。

ティムも持つ。


狼の足跡を見つけたからって、炭が勝手に荷台へ乗るわけじゃない。


帰り。

また同じ曲がりを通る。


今度は、荷獣の耳が先に動かなかった。


俺たちは速度を落とした。

下を見る。

上を見る。


何も出ない。


曲がりを抜ける。


ティムが後ろを振り返る。

「今日だけなら、普通の道だったね」


「狼の足跡っぽいの見つけて言うことか」


「でも通れた」


「今日はな」


ティムが少し笑った。

「ゼン、いる」


今度は俺が感染源になったらしい。


でも、頭の中には別のことが残っていた。


足跡は、道を追っていなかった。

道を横切っていた。


人の道と、獣の道。


たまたま一か所で重なっているだけなのかもしれない。


だったら危ないのは、道全部じゃない。


あの曲がりだ。


第282話 灰狼が動いたのは、荷獣が走ったあとだった

【本文】


二日目も、同じ曲がりへ着くまでは何も起きなかった。


昨日通れたから、今日は護衛なし。

そうはならなかった。


逆に昨日通れたからこそ、同じ条件でもう一度見ることになった。


荷駄の男。

俺。

ティム。


荷は昨日より少ない。

急ぎでもない。


マルクは出る前に言った。

「何も出なかったら、それも一回分だ。出たら戻れ。追うな」


ティムが聞いた。

「襲われたら?」


「その時は生きて戻れ」


「具体性がない」


「狼に予定表渡してないからな」


俺は笑った。

ティムも笑った。


曲がりが近づくと、笑いは自然に消えた。


焼けた切り株。

下の斜面。

昨日見た、道を横切る窪み。


一つはもう崩れていた。

誰かの靴で踏まれたらしい。


「消えるの早いな」

ティムが言う。


「道だからな」


荷駄の男が手綱を短くする。


今日の荷獣は、昨日より落ち着いている。

耳は前。

足も止まらない。


俺たちは曲がりへ入った。


何もいない。


昨日と同じように通り過ぎる。


その時だった。


下の草が、内側から倒れた。


音より先に灰色が見えた。


一匹。


斜面から上がってくる。


昨日の個体と同じかどうかは分からない。

ただ、大きさは聞いていた話と近い。


「止める」


荷駄の男が低く言った。


荷獣が止まる。


俺も止まる。

ティムも止まる。


灰狼は道の端まで出てきた。


二十歩もない。


こっちを見る。


俺の手は腰の刃にある。

でも抜かない。


第一人生の記憶が勝手に距離を測る。

飛び込んでくるなら、あの辺。

避けるなら――。


違う。


俺は手を少し緩めた。

今の俺は、昔の俺じゃない。


灰狼は一歩出た。


荷獣の鼻息が変わる。


男が手綱を押さえる。

「動くな」


荷獣に言った。

俺たちにも聞こえた。


灰狼はもう一歩。


ティムが息を吸う。


「まだ」

俺が言う。


「分かってる」


声がいつもより低い。

本当に分かっている時の声だ。


灰狼の鼻が動く。

こっちを見ているのか、荷獣を見ているのか分からない。


道の真ん中までは来ない。


横切るなら、昨日と同じ線だ。


そう思った瞬間。


荷台の後ろで、木箱の蓋が鳴った。


かたん。


荷獣が跳ねた。


「おい!」


前脚が浮く。

手綱が張る。


男が引かれる。

俺は横から荷台へ手をかけた。


ティムが手綱の余りを掴む。


「止まれ、止まれ!」


荷獣が二歩走った。


灰狼が動いた。


速い。


こっちへ――。


いや。


俺たちじゃない。

走った荷獣の後ろへ向いた。


「ティム、引くな! 止めろ!」


「どっち!?」


「後ろへ引っ張るな、立て!」


言いながら自分でも必死だった。

荷台が斜めになる。

車輪が道の端へ寄る。


俺は肩を当てた。

重い。


足が滑る。


昔なら、もっと軽く動けた。

身体が覚えているつもりの位置に、今の足が半歩遅れる。


灰狼が三歩。

四歩。


距離が縮む。


刃を抜く。


でも前へは出ない。


荷獣が止まった。


急に。


ティムが手綱を握ったまま尻もちをつく。


「痛っ」


荷駄の男が荷獣の首へしがみつくように手を回した。

「よし、よし。動くな。いい、動くな」


灰狼も止まった。


俺はそこで初めて、こいつが俺を見ていないことに気づいた。


目は荷獣へ向いている。


でも、荷獣が止まると距離を詰めない。


一呼吸。


二呼吸。


俺は刃を構えたまま、前へ一歩だけ出た。


灰狼の耳がこっちへ向く。


「レン」

ティムが呼ぶ。


「追わない」


先に言う。


足元の小石を蹴った。

灰狼の手前で転がる。


石が当たるほど近くはない。

それでいい。


「行け!」


俺が声を張る。


ティムも立ち上がった。

「ほら! 行け!」


荷駄の男は荷獣を押さえたまま動かない。

役割が違う。


灰狼が半歩下がる。


もう一度、俺は声を出した。


今度は灰狼が斜面側へ身体を向けた。


走らない。

数歩歩いて、草の中へ入る。


灰色が見えなくなる。


枝が揺れる。


それも止まった。


誰もすぐにしゃべらなかった。


最初に音を出したのはティムだった。


「……尻、痛い」


俺は息を吐いた。

笑いそうになったけど、まだ足が震えていた。


「それで済んだなら安い」


「レン、今ちょっと声裏返ったよ」


「お前は尻から落ちただろ」


「引き分け?」


荷駄の男が振り返った。

「荷を見る」


笑っている場合じゃなかった。


荷台は道の端へ寄っている。

右の車輪が柔らかい土へ半分入っていた。


三人で少しずつ戻す。

荷を一つ降ろす。

車輪の前へ平たい石を入れる。


「せーの」


押す。


一回では上がらない。


「もう一回」


ティムが泥を払う暇もなく反対へ回る。


二回目。


車輪が道へ戻った。


荷獣の脚を見る。

擦り傷なし。

荷も一つ縄が緩んだだけ。


男が結び直す。

手が少し震えている。


俺も刃を鞘へ戻した時、うまく一度で入らなかった。


ティムが見た。


何も言わなかった。


そういう時だけ気が利く。


落ちた木箱の蓋を確認する。

割れていない。


「何が入ってるんです?」

ティムが聞く。


男が答える。

「釘と金具」


ティムが蓋を押さえた。

「狼より先にこっち締めた方がよくない?」


「帰ったら言う」


「今も締めよう」


「今も締める」


三人で縄を回した。


それから、さっき灰狼が出てきたところを見る。


昨日の足跡らしい線と、今日出てきた場所。

ほぼ同じだった。


下の斜面から道へ。

道を渡って、上へ。


「やっぱり横切ってる」

ティムが言う。


俺は頷いた。


「でも今日は追った」


「荷獣が走ったあと」


荷駄の男が言った。

「昨日は走らせる前に返した」


三人とも少し黙った。


断定はできない。

同じ狼かも分からない。


でも今日見たことなら言える。


灰狼は最初から荷駄を追って来たわけじゃない。

斜面から出てきた。

荷獣が走った。

そのあと追った。

荷獣が止まると、狼も詰めなかった。

声を出したら斜面へ戻った。


そこまで。


「戻る?」

ティムが聞く。


荷駄の男が荷獣の様子を見る。

「こいつ次第」


首を撫でる。

脚を見る。

呼吸を待つ。


しばらくして荷獣が草を一口噛んだ。


男の顔が少し緩んだ。

「行けそうだ」


俺は道の先を見る。


炭窯まで、ここからの方が近い。

戻る方が安全か。

進む方が安全か。


昨日なら迷わず戻したかもしれない。

今日は一匹の動きを見た。

でも、それで全部分かったわけじゃない。


男が決めた。

「進む。向こうで一回休ませる。帰りはここで止まってから入る」


俺とティムは頷いた。


炭窯へ着くまで、灰狼はもう出なかった。


向こうで荷を下ろすと、ティムがようやく尻の泥を本気で払った。

作業者の一人が笑う。

「狼にやられた?」


「道にやられた」


「いつものやつか」


「いつもじゃない!」


今になって笑いが戻った。


帰りは空に近い荷で、あの曲がりへ入る前に一度止めた。

荷獣を落ち着かせる。

木箱の蓋を締める。

縄を見る。


それから通る。


灰狼は出なかった。


受取場へ戻ると、ゼンが板を待っていた。

ティムが勢いよく言う。

「いた。追ってきた。でも俺らじゃなくて、荷獣が走って、それを――」


ゼンが手を上げた。

「順番」


ティムが口を閉じる。


俺が笑う。


「まず、一匹を直接見た。下の斜面から昨日と近い場所へ出た」


ゼンが書く。

《灰狼 一匹直接確認》


「同じ個体?」


「未確認」


「他個体?」


「見てない」


《他個体 未確認》


「追跡?」


俺は一度考えた。

「荷獣が走ったあと、数歩追った。止まったあと距離は詰めなかった。俺たちが声を出したら斜面へ戻った」


ゼンの鉛筆が動く。


マルクが横から聞いた。

「道は」


「通れた」


荷駄の男が答えた。

「ただ、一人なら今日は戻ってた。荷獣が走った時、一人で荷まで見られん」


マルクはそこを一番長く聞いていた。


「じゃあ当面、あの便は一人で行かせない。支道は閉じない。狼狩りもしない。曲がりへ入る前に荷と縄を確認する」


ティムが板を見る。

「それ、ルール?」


マルクは首を横に振った。

「今のやり方。何日か見て変わるなら変える」


昨日までなら、その曖昧さが少し気持ち悪かったかもしれない。


でも海でもそうだった。

粉でもそうだった。


一回分かったことを、永遠の決まりにしない。


ゼンが最後に一行だけ書いた。

《曲がり付近 獣道交差候補》


「候補?」

ティムが聞く。


「足跡と今日の出現位置だけ」


「二日あるのに」


「二日しかない」


ティムが俺を見る。


俺は肩をすくめた。

「感染したから諦めろ」


「レンまでそっち側」


ハナが後ろで笑った。


俺は板の文字を見る。


道を塞ぐ敵が出た、ではなかった。

今のところは。


人の道と、獣の通り道が一か所重なった。

そこで荷獣が走ると、危険が大きくなる。


なら攻略するのは、狼だけじゃない。

荷の締め方。

曲がりへ入る前の止まり方。

一人で行かないこと。


そういうものまで含めて、道を使うということなんだろう。


レベル表示は出なかった。

新しい技能名も出ない。


でも明日の荷駄は、昨日より少しだけ安全に通れる。


それなら今日は、ちゃんと進んだ。


第283話 狼が出なかった三日目に、人手の方が足りなくなった

【本文】


灰狼を見た翌日の便には、何も出なかった。


その次の便にも出なかった。


曲がりへ入る前に荷を止める。縄を見る。荷獣の呼吸が落ち着いてから進む。

俺たちは前の日に決めたことだけを続けた。


足跡らしい窪みは、もう半分ほど潰れていた。

雨は降っていない。人の靴と荷獣の蹄で、普通に道へ戻っていく。


ティムは二回目の帰りに、曲がりを抜けてから小さく言った。


「狼、いない方が疲れるね」


前を歩いていた荷駄の男が振り返った。


「出てほしいみたいに言うな」


「違う。ずっと出るかもって思ってるのが疲れるって意味」


「それなら分かる」


俺も分かった。


何も起きない道を、何か起きるかもしれないと思って歩く。

それだけで肩が少し固くなる。


でも、三日目の朝。

困ったのは狼じゃなかった。


受取場の横に、炭窯へ上げる袋が六つ並んでいた。

いつもならもう荷台へ載っている時間だ。


ハナが袋の数を確かめ、眉を寄せる。


「まだ人、決まってないの?」


荷駄の男が縄を持ったまま首を振った。


「俺は行ける。もう一人がいない」


「昨日一緒だった人は?」


「窯の方。朝から火入れ手伝い」


ティムが受取場の中を覗いた。


「じゃあ俺行く?」


「お前は午前、石窯の薪」


ハナがすぐ返した。


「あ」


「『あ』じゃないよ。昨日、自分で運ぶって言ったでしょ」


ティムは口を閉じた。


俺も今日は空いていなかった。

港側から戻る空籠を受け取って、昼までに修理場へ回す予定がある。


マルクが袋の前でしゃがんだ。

一つ持ち上げ、底を確かめる。


「急ぎは?」


ハナが帳面代わりの板を見た。


「今日の昼までじゃない。でも夕方まで置くと、向こうの炭出しが一便ずれるかも」


「一便ずれたら?」


「明日の朝に寄る」


「止まるわけじゃないな」


「止まらない。でも、毎回これやると嫌」


ハナは最後だけ少し強く言った。


それが一番分かりやすかった。


灰狼を一匹見た。

だから一人で行かせない。


一回だけなら簡単だった。

二回目もできた。

でも、それを毎日の仕事にすると、一人分の手が別の場所から消える。


ティムが袋へ腰を下ろしかけ、ハナに見られて立ち直った。


「狼より人が足りない」


「座る人なら一人余ってる」


「座ってない」


「今、膝曲げた」


「休憩の準備」


「仕事の準備して」


いつもの調子だった。


でも荷駄の男は笑わなかった。

縄を指でしごきながら、袋と道の方を交互に見ている。


「一人で行っちゃ駄目って話じゃなかったよな」


マルクが顔を上げた。


「当面、一人にしない。そう言った」


「じゃあ、俺が一人しかいない日は荷を止める?」


「今のところはな」


男は少し考えた。


「明日の朝、別の荷駄が一つ上がる」


ハナが板を見る。


「木炭袋の空き返し?」


「ああ。あいつと一緒に行けば、人を足さなくていい」


ティムがすぐ食いついた。


「二便を一便にする?」


男が首を振る。


「荷を一つに積むんじゃない。二頭で一緒に行く。人も二人。もともと明日二人動くなら、時間を合わせるだけ」


俺は袋を見た。


「今日の分を明日まで待たせることになる」


「そうだな」


「でも追加の人はいらない」


「そういうこと」


マルクはすぐ決めなかった。


「二頭であの曲がり、通れるか?」


荷駄の男は鼻を鳴らした。


「横には並べん。前後なら通れる。ただ後ろが詰めると、前が嫌がるかもしれん」


「間、どのくらい」


俺が聞いた。


男は受取場から向こうの桶を指した。


「最低あれくらい。できればもう少し」


また数字じゃない。

でも現場では、それで十分だった。


マルクが俺を見る。


「レン、明日の空籠は午後でも間に合うか」


俺は頭の中で順番を入れ替えた。

修理場が欲しいのは夕方までだ。

朝一じゃなくていい。


「たぶん。今日の分を先に多めに戻しておけば」


「たぶんで動かすな。修理場に聞け」


「はい」


俺はすぐ行った。


修理場では、籠の縁を編み直していた男に「午後でもいい」と言われた。

ただし、今日戻った傷みの強い二つだけは先に欲しいらしい。


全部じゃない。

二つだけ。


持って戻ると、ティムが俺を見る。


「どうだった?」


「午後でいい。ただ壊れかけ二つは今日」


「細かいな」


修理場の男が後ろから聞いていた。


「細かくない。壊れてから持ってくる方が面倒なんだよ」


ティムが振り返る。


「ついてきてたんですか」


「俺の籠をお前らが勝手に午後へ回す話してるからな」


ハナが笑った。


結局、その日の炭窯便は出さなかった。

急がない荷は明日へ回す。

壊れかけの籠二つだけ俺が港から先に戻す。

ティムは予定通り薪を運ぶ。


灰狼に勝ったわけじゃない。


ただ、狼を見たあとに作ったやり方が、別の仕事を食い始めた。


そこを直さないと続かない。


夕方。

ゼンは板の《一人運行を避ける》という文字の横に、小さく一つ足した。


《人手負担あり》


ティムが覗く。


「負担って書くと、急に悪いことみたい」


「良い悪いじゃない」


ゼンは鉛筆を置いた。


「三日で困った。それだけ」


俺はその板を見た。


狼が出なかった三日目。

初めて見えた問題は、狼じゃなかった。


第284話 二頭で行ったら、安全より先に道が狭くなった

【本文】


翌朝、荷獣が二頭並んだ。


並んだ、と言っても横じゃない。

受取場の前に前後で立たせているだけだ。


先頭は昨日の荷駄の男。

後ろは俺になった。


ティムがものすごく不満そうな顔をしている。


「なんでレン」


「お前、薪」


ハナが答えた。


「今日も?」


「昨日割った分、積んだ?」


ティムが目を逸らした。


「……今から」


「じゃあ今から」


終わった。


俺は後ろの荷獣の横へ回る。

昨日まで何度も荷締めを手伝っているが、自分が一頭を預かるのは初めてだ。


男が手綱を渡す前に言った。


「引っ張るなよ」


「はい」


「止まらせようとして後ろへ引くな。嫌がったらまず自分が止まれ」


「昨日ティムに言ってたやつ」


「昨日見てたなら、今日は一回で覚えろ」


そこは厳しい。


前の荷獣には、昨日止めた六袋。

後ろは空き袋と道具箱が中心で軽い。


二頭分を一頭へ積み替えない。

人も新しく足さない。

時間だけ合わせた。


それで本当に楽になるかは、まだ分からない。


出る前にマルクが言う。


「狼が出たら二頭まとめて何とかしようとするな。片方が暴れたら、もう片方まで巻き込む」


俺は頷いた。


「距離を取る」


「距離を取れる道ならな」


荷駄の男が付け足す。


それが少し気になった。


支道へ入るまでは簡単だった。

前の男が歩き、俺が後ろをついていく。

荷獣も素直だ。


問題は最初の坂だった。


前の荷獣が少し速度を落とす。

俺の方はまだ歩きたい。


距離が詰まる。


「レン、止まれ」


前から声が飛んだ。


俺が足を止める。


後ろの荷獣は半歩だけ進み、俺の肩へ鼻先を近づけた。


「近い?」


「近い。坂で前が遅くなる分を見ろ」


平地の間隔を、そのまま持ってきたら駄目らしい。


俺は二歩下がった。


荷獣もついてくる。


「下がりすぎ」


「難しいな」


「だから荷駄は歩くだけじゃない」


前の男の声が少し得意そうだった。


第一人生で魔物の間合いなら何度も測った。

でも荷獣二頭の間合いは知らない。


知らないものは、普通に難しい。

それが少し楽しかった。


坂を越える。


次は下り。

今度は前が少し速い。

距離が開く。


俺が追おうとすると、後ろの荷獣の荷台が小さく揺れた。


からん。


道具箱の中で金具が鳴る。


耳が動いた。


俺は反射で速度を落とした。


「今のはいい」


前から男が言う。


「見てた?」


「音で分かる」


「それ反則じゃない?」


「何と戦ってんだ」


俺は笑った。


昨日の木箱の蓋の音が頭に残っている。

今日は箱そのものを縄で一巻き増やしてあった。


それでも中身までは黙らない。


焼けた切り株が見えた。


笑いは止まった。


曲がりの手前。

先頭の男が手を上げる。


止まる。


俺も止まる。

後ろの荷獣が前へ出ようとしたので、自分が一歩横へ立った。

引かない。

身体で進む場所を少し消す。


男が振り返って、ほんの少し頷いた。


前の荷獣の耳。

普通。


下の斜面。

草は動かない。


上の藪。

鳥の声がする。


「行く」


男が進んだ。


一頭目が曲がりへ入る。


俺も後ろを進ませる。


そこで、初めて分かった。


狭い。


道そのものは二頭通れる。

でも前の荷獣が曲がっている間、後ろの俺から先が見えない。


前が止まったのか。

進んでいるのか。


一瞬、分からない。


「待て!」


前から声。


俺は止まる。


後ろの荷獣の鼻が、前の荷台の端へ近づく。


近い。


俺は手綱を引きそうになって、やめた。

自分が前へ出て、肩で進路を塞ぐ。


荷獣が鼻を鳴らす。


前の男が見えた。

道の真ん中に、拳くらいの石が転がっている。


「これだけ?」


思わず言った。


「これだけで前の車輪は嫌なんだよ」


男が石を蹴って道端へ寄せた。


「二頭だと、後ろは前の理由が見えん。だから詰めるな」


狼はいなかった。


でも俺は、昨日より曲がりが面倒に見えた。


一頭なら、前で起きたことは全部自分で見える。

二頭なら、前の一頭が壁になる。


安全のために人を増やさない方法を考えたら、今度は隊列そのものが新しい問題になった。


ティムがいたら喜びそうだ。


炭窯へ着く。

荷を下ろす。


作業者の一人が二頭を見て言った。


「今日は多いな」


「多いんじゃない。昨日の分が一つ遅れただけ」


荷駄の男が答える。


「じゃあ多いじゃん」


「今日だけな」


俺は後ろで笑った。


帰りも二頭だった。

今度は俺が先頭をやることになった。


「え、俺?」


「帰りは軽い。曲がりで止まる場所、覚えただろ」


「覚えたけど」


「じゃあやれ」


急に来た。


先頭になると、さっきと景色が違う。

後ろの気配が遠い。


曲がりの手前で止まる。

荷を見る。

縄。

耳。

呼吸。


それから下の斜面を見る。


何もいない。


「行く」


自分で声を出した。


曲がる。


道の中央にさっき蹴った石がある。

端へ寄ったまま。


その横を通る。


後ろが詰めてこない。

荷駄の男は俺よりずっと間を空けていた。


曲がりを抜けてから聞く。


「そんなに離す?」


「前が初心者だからな」


「それ先に言って」


「言ったら縮めるだろ」


否定できなかった。


受取場へ戻ると、ティムが薪の粉だらけで待っていた。


「どうだった?」


「狼いなかった」


「それだけ?」


俺は少し考えた。


「二頭だと曲がりが狭かった」


ティムの目が輝く。


「何それ。面白そう」


「お前、危険って言葉を面白そうに変換するのやめろ」


「レンも今ちょっと楽しかった顔してる」


俺は返事をしなかった。


ゼンは板に、新しい決まりを書かなかった。


《二頭同時通行 一回》

《灰狼 確認なし》


それだけだった。


マルクも言った。


「毎回まとめるな。時間が合う時に使える手が一つ増えただけだ」


人手を足さずに通れた。


でも二頭なら二頭の難しさがある。


完全な答えじゃない。


ただ昨日より、選べるやり方が一つ増えた。


俺はそっちの方が、ずっとゲームらしいと思った。


第285話 灰狼の板を端へ寄せた日に、海に知らない帆が立った

【本文】


それから三便、灰狼は出なかった。


同じ曲がり。

同じ斜面。


足跡らしい窪みは、最後にはどれがそうだったのか分からなくなった。

人と荷獣が毎日通れば、道は人の跡で上書きされる。


だからゼンは消さなかった。


消さずに、板の端へ移した。


《曲がり付近 獣道交差候補》

《灰狼 一匹直接確認一回/他個体未確認》

《荷獣走行後、数歩追跡一回》


中央から右端へ。


ティムがその作業を見ていた。


「終わり?」


「何が」


「狼」


ゼンは板を掛け直す。


「終わったかは知らない」


「じゃあ何で端にするの」


「今、毎便見るものじゃなくなったから」


「また出たら?」


「戻す」


ティムは少し考えた。


「便利だね、その板」


「お前の頭よりは」


「今日きつくない?」


ゼンはもう別の荷札を見ていた。

返事もしない。


俺は笑った。


灰狼のために始めた「一人で行かせない」やり方も、ずっと同じではなくなった。


二人の予定が合う日は二頭をまとめる。

一頭だけなら、急ぎかどうかを見る。

人が足りなければ遅らせる。

急ぎなら別の仕事を動かす。


誰かが正式に名前をつけたわけじゃない。


ただ、みんな少しずつやり方を変えた。


俺も、曲がりへ入る前に荷獣の耳を見る癖だけ残った。


狼は見ない。

耳は見る。


たぶん、そういうものが一番残る。


その日の午前、俺は港へ行った。


狼の件が端へ寄ったから、というより、もともと空籠を戻す日だった。


鴎泊の浜は朝から魚臭い。

濡れた縄。

魚籠。

塩の白い跡。


ティムは来ていない。

石窯の薪を昨日さぼりかけた分、今日も回された。


「レン、そっち三つ!」


浜の男に呼ばれた。


「三つって、これ?」


「それとその奥!」


「四つあるけど」


「壊れてるの数えるな!」


「見た目じゃ分からない!」


「底抜けてるだろ!」


持ち上げた。


本当に底がなかった。


朝から負けた気がした。


空籠を積み直していると、沖から小さな鐘の音がした。


一回。


間を空けて、もう一回。


浜の人間が何人か顔を上げる。


俺も見る。


船がいた。


最初は、いつもの沿岸舟だと思った。


でも高い。


帆柱が、鴎泊へ入る小舟より明らかに高い。

帆も一枚じゃない。


白っぽい帆が二つ。

その下に、細長い船体。


沖で止まっている。


入ってこない。


隣で魚籠を洗っていた男が目を細めた。


「東河港の船か?」


別の年配の船頭が、濡れた手を腰へ当てた。


「違う。あそこ、あんな帆張らん」


「潮入浦?」


「もっと違う」


言い方がおかしくて、少し笑いが起きた。


でもみんな見ている。


船は港口へ近づかない。

外でゆっくり向きを変えた。


「入れないのか」


俺が聞く。


年配の船頭が首を振る。


「知らん港に、あの大きさでそのまま入る奴なら、俺は近づきたくない」


「じゃあどうするんです?」


「普通なら、小さいの出す」


言った直後だった。


船腹の横で、何かが動いた。


小舟。


吊ってあったらしい舟が海へ降りる。


浜の空気が少し変わった。


仕事を止めるほどじゃない。

でも、みんな手だけ遅くなる。


俺は持っていた籠を一度置いた。


「置くな、運べ」


後ろから言われた。


「見たい」


「運びながら見ろ」


正論だった。


籠を二つ持つ。

重い。


小舟には三人乗った。


一人が櫂を持つ。

一人が後ろ。

もう一人は立ち上がろうとして、すぐ座らされた。


遠くて顔は見えない。


ティムがいたら絶対笑っていた。


小舟が近づく。


年配の船頭が、足元の細い縄束を俺へ投げた。


「レン、それ持って石の先。まだ投げるなよ」


「何に使うんです?」


「舟が寄れたら取る。寄れなきゃ使わん」


「どっち」


「海見て決める」


またそれだ。


俺は籠を置こうとして、さっき怒られたのを思い出した。

籠を先に三つ運ぶ。

戻って縄束を拾う。


濡れて重い。

丸めてあるようで、途中が少しほどけている。


「これ、絡んでません?」


「だから今ほどけ」


「先に言ってくださいよ」


「今言った」


港の人間は、だいたい説明が一歩遅い。

いや、俺が一歩早く聞いているだけかもしれない。


縄を足元へ広げる。

輪を一つ。

もう一つ。


第一人生でロープを使った場面はいくらでもある。

崖。橋。荷揚げ。救助。

でも濡れた浜で、知らない小舟を寄せる縄は初めてだ。


俺が端を持って立つと、年配の船頭がすぐ言った。


「そこじゃない。半歩下がれ」


「浅いから?」


「波来たら靴が濡れる」


「そっち?」


「今日ずっとその靴で働くんだろ」


確かに。


半歩下がる。

その直後、細い波が石を洗った。

立ったままだったら普通に濡れていた。


俺は船頭を見る。


「何」


「いや、すごいなって」


「海見てたら分かる」


言われた。


小舟が近づく。

浜から見て左へ少し流れている。


年配の船頭が右手を上げた。

まだ縄は投げない。


俺の腕だけ、勝手に準備していた。


「待て」


「待ってます」


「顔が投げてる」


どこかで聞いた言い方だった。

ティムがいたら、たぶん笑う。


鴎泊の船頭の一人が岸から手を上げた。


「浅いぞ! そのまま真っ直ぐ来るな!」


向こうから声が返る。


聞き取れない。


もう一度。


今度は少し分かった。


「――ここ、鴎泊で合ってるか!」


浜の男が怒鳴り返す。


「そうだ! どこから来た!」


小舟の上で、立ちたがっていた男がまた腰を浮かせた。

今度は後ろの人に服を掴まれている。


そのまま大声を張った。


「北へ回す荷を預かる港があるって聞いた!」


俺の足が止まった。


後ろからまた声が飛ぶ。


「レン! 籠!」


「あ、はい!」


慌てて歩く。


誰が言った。

どこで聞いた。

何を持ってきた。


何も分からない。


潮入浦の粉を一袋運んだだけで、こんな船が来たとも思えない。

そもそも、こっちは誰かを呼んでいない。


でも。


海の向こうでは、俺たちが知らないところで話が動いていたらしい。


小舟が、浅瀬の手前で速度を落とす。


俺は籠を抱えたまま、その見慣れない帆をもう一度見た。


海は、こっちが調べに行くのを待っていなかった。


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