第274話 七袋あった棚が、三袋まで減っていた
【本文】
四日後、受取場の棚に麦袋は三つ残っていた。
ティムが入口で足を止めた。
「……三?」
「三だな」
「七あったよね」
「来たのは七」
俺が答えると、ティムは棚と壁の板を見比べた。
板には、まだ《東河港 七袋実着》と残っている。
横には《次便量・日 未定》。
数字だけ見ると、七袋がずっとそこにあるみたいだった。
もちろん、そんなわけはない。
挽き場へ回した。
石窯へ運んだ。
受取場から別の保管場所へ移した分もある。
人が食えば、袋は減る。
マルクは棚の横にしゃがみ、床へ落ちていた麦を二粒拾った。
「七来たから安心、三しかないから危険、ってやると毎日忙しいぞ」
ティムが聞く。
「じゃあ何見ればいいの?」
「今日食う分があるか。明日動かせる手があるか。その次が分からないなら、分からないままにしとく」
「雑じゃない?」
「雑に見えるくらいでちょうどいい。全部決められるなら、そもそもここまで袋数えん」
マルクは拾った麦を袋の口へ戻さず、小皿へ入れた。
床に落ちたものは混ぜないらしい。
そういう細かいところだけは妙にきっちりしている。
ティムもそれに気づいたらしく、小皿を見る。
「それは捨てる?」
「鳥にやる」
「もったいない」
「じゃあお前食うか?」
「鳥で」
即答だった。
当たり前のことなのに、ティムは少し納得していない顔をした。
「記録、七のままでいいの?」
板の前にいたゼンが振り返る。
「実着は七。今ある数は別」
「じゃあ今ある数も書けば?」
「毎回?」
「……毎回は面倒だね」
「もう答え出たな」
ゼンは板へ何も足さなかった。
代わりにマルクが棚の奥から顔を出す。
「三つ見て固まってる暇あったら、こっち一つ持て。石窯へ回す」
ティムの眉が上がった。
「え、三から二になるじゃん」
「だから何だ」
「減ってる」
「食うために置いてある」
正しい。
ティムは反論を探したらしいが、見つからなかった。
俺と二人で一袋を持つ。
海の粉袋より大きい。
床は動かない。
それだけで、腕にかかる重さの割に楽だった。
石窯へ運ぶ途中、ティムが袋の向こうから言う。
「でもさ。次の東河港、まだ分かんないんでしょ?」
「分からない」
「二袋になったら、そろそろ困るんじゃない?」
「今日困ってる?」
「困ってない」
「じゃあ落とすな」
「マルクみたいなこと言うようになったね」
「嫌な言い方するな」
石窯では、朝の焼き上がりが終わったばかりだった。
入口の近くに粉が少し舞っている。
焼いた平たいパンの匂いが残っていて、腹が反応した。
窯番の男が、俺たちの持ってきた袋を見る。
「そこ。いつもの場所」
二人で下ろす。
ティムは腰を伸ばしながら、窯の脇にある粉桶を覗いた。
「こっちはまだある」
「覗くなら蓋閉めろ」
「見ただけ」
「見た後に閉めろって言ってんの」
ティムが慌てて蓋を戻す。
俺は窯番へ聞いた。
「今すぐ足りなくなる感じですか?」
男は少し考えてから、粉桶ではなく焼き上がったパンの方を見た。
「今すぐって、今日?」
「今日と明日くらい」
「今日なら困らん。明日も、急に人数増えなきゃな」
「その先は?」
「知らん。炭窯から何人食いに来るかも分からんし、挽き場がどれだけ回すかも俺が決めることじゃない」
前に聞いた四日とか五日とかいう数字より、ずっと頼りない答えだった。
でも、たぶんこっちの方が本物だった。
人の数も、食べる量も、毎日同じじゃない。
受取場へ戻ると、マルクは残った二袋の口を見ていた。
俺たちが戻ったのに気づいて、聞く。
「窯は?」
「今日明日は困らない。人数次第」
「だろうな」
それだけだった。
ティムが我慢できずに言う。
「じゃあ潮入浦の一袋、試す?」
マルクはすぐには答えなかった。
袋の一つを足先で少し押す。
壁へきちんと寄っているか確かめてから、俺を見る。
「レンはどう思う」
急にこっちへ来た。
「……今すぐ必要ではないです」
「うん」
「でも、必要になってから頼むと、いつ来るか分からない」
マルクの口元が少し動いた。
「そこだな」
ティムが俺を見る。
「それ、煮炊き屋のおばさんが言ってたやつ」
「俺も今思った」
「本当?」
「本当だよ」
ゼンが板の前から言う。
「同じ結論でも、理由が今の在庫なら別にいい」
ティムが小声で俺へ言う。
「ゼン、たまに俺らの会話を採点してない?」
「聞こえてる」
「ほら」
ゼンは無視した。
マルクが決めたのは、大げさなことじゃなかった。
潮入浦へ舟を出す。
そんな話にはならない。
「一袋だけ。急ぎじゃない。空きがある時でいい。その頼み方を、こっちから一回やってみる」
俺は頷いた。
ティムはもう少し嬉しそうだった。
「じゃあ俺も舟——」
「乗らん」
マルクが途中で切った。
「え」
「荷を頼むのに人まで乗せたら、何を試してるか分からんだろ」
ティムは口を閉じる。
俺も、少しだけ乗りたかったとは言わなかった。
その日の午後、石窯へ粉袋を届けた帰りに、俺とティムは鴎泊の煮炊き屋へ寄った。
店先では、前に会った年配の女が大鍋をかき混ぜている。
俺たちを見るなり言った。
「今日は値段聞きに来た?」
ティムが吹き出した。
「まだ覚えてるんですか」
「港の笑い話は、魚より長持ちするよ」
「笑い話にしないでください」
俺が言うと、女は鍋の蓋を少しずらした。
「で、何?」
説明する。
北の受取場でも、潮入浦の粉を一袋だけ頼んでみたい。
急ぎではない。
専用の舟は出さない。
空きがある時だけでいい。
女は黙って聞いていたが、最後に一つだけ聞いた。
「今、粉なくて困ってるの?」
「まだです」
「じゃあ、その頼み方でいいね」
あっさりしていた。
ティムが首を傾げる。
「頼めるんですか?」
「私は頼んだことあるんだから、頼むだけならね。来るかは知らないよ」
女は鍋の柄を離して、指についた湯気を払った。
「粉屋には、次に潮入浦へ寄る人がいたら伝える。私がいつも頼むのと同じやり方で、一袋だけなら回してもいい。ただし一袋だけ。あんたらの倉庫係になる気はないからね」
「一袋で十分です」
「届いたら粉代はその時返して。運び賃は運んだ人の言い値を聞いて、自分で納得して払いな」
俺は少し迷った。
「先に払わなくていいんですか」
「私が立てるのは一袋まで。来なかったら金も動かない。二袋三袋頼むなら自分で商人探しな」
線引きがはっきりしていた。
親切だけど、何でもやってくれる人ではない。
その方が頼みやすい。
店の奥から客が声をかけた。
「粥、まだ?」
女が振り返る。
「今よそる!」
それから俺たちへ顎をしゃくった。
「ほら、用が済んだらそこ退いて。客の前ふさがない」
ティムが一歩横へ避けた。
「頼みって、こんな感じで終わるんだ」
「もっと儀式がいると思ってた?」
「紙とか、印とか」
「一袋に?」
女に笑われた。
店を出る前、女が俺たちを呼び止めた。
「一つだけ。届く前に別の麦便が来ても、断るなら早めに言いな」
「断れるんですか?」
「まだ買ってなきゃね。買って舟に乗った後で『いらない』はなし」
ティムが俺を見る。
「東河港が先に来たら?」
「その時考える」
「またそれ」
女が笑った。
「それでいいんだよ。今決めなくていいことまで決めると、後で自分に怒られるから」
店の奥から、さっきの客がまた声を上げた。
「粥!」
「分かってるって!」
女は俺たちへの話を途中で切り、今度こそ鍋の方へ戻った。
大事な話の終わりが、粥に負けた。
でも港では、そのくらいでいいのかもしれない。
俺たちは店を出る。
ちょうど坂の下から、さっき荷を下ろしていた船頭が上がってきた。
煮炊き屋の女が呼び止める。
「明日、潮入浦寄る?」
船頭は空を見た。
「風が変わらなきゃ」
「粉一袋、北の受取場ぶん。あったら。帰り空いてたら」
「分かった。空いてたらな」
それだけだった。
ティムが船頭へ聞く。
「いつ戻ります?」
船頭は歩きながら振り返った。
「戻れた日」
「それ答え?」
「海ではだいたい答えだ」
そのまま行ってしまった。
ティムはしばらく背中を見ていた。
「俺、ここ来てから『いつ』って聞くたび嫌われてない?」
「たぶん聞き方じゃなくて、答えがないんだろ」
「それも嫌だなあ」
俺は少し笑った。
受取場へ戻っても、地図には何も書かなかった。
板にも、まだ何も足さない。
今あるのは一袋の依頼だけだ。
荷はまだ、海の向こうにすらない。
第275話 頼んだ舟は、粉を積まずに帰ってきた
【本文】
翌日、舟は来なかった。
その次の日の朝も来なかった。
ティムは二回、鴎泊へ下りる用事を見つけた。
一回目は網小屋へ縄を返す用事。
二回目は、ハナに頼まれて干し台の竹を運ぶ用事。
二回とも、本当に仕事ではあった。
ただし二回目は、わざわざ俺まで誘う必要はなかったと思う。
「一人で持てるだろ、それ」
竹を三本まとめた束を見て言うと、ティムは真顔で答えた。
「長いから」
「軽いぞ」
「長い」
「舟見たいだけだろ」
「三割」
「七割は?」
「浜まで散歩」
「仕事どこ行った」
後ろからハナが言った。
「二人とも口動かすなら手も動かして」
結局、三人で浜まで下りた。
粉の舟はいない。
ティムは露骨に海を見たが、ハナは何も言わず、干し台の壊れた横木を外し始めた。
俺も竹を渡す。
一本目を結ぶ。
二本目の端を合わせる。
縄を締めている途中で、沖から帆が見えた。
ティムの手が止まった。
ハナが横木を押さえたまま言う。
「離すなら先に言って」
「あ、ごめん」
「舟は逃げない。こっち落ちる」
ティムが慌てて縄を持ち直す。
俺は帆を見た。
見覚えのある形だった。
粉を頼んだ船頭の舟だ。
鴎泊へ入ってくる。
でも、少しおかしい。
船体が思ったより低い。
荷が多い。
船首に塩袋。
中央に樽が二つ。
船尾側には濡れた網が大きく巻かれている。
白い粉袋は見えなかった。
ティムが小さく言う。
「ない」
ハナは縄を締め終えた。
「見える前に決めない」
「でも白い袋——」
「仕事終わったら見に行けばいいでしょ」
三本目まで結んでから浜へ行った。
船頭は、俺たちの顔を見るなり片手を上げた。
「粉ならないぞ」
先に言われた。
ティムの肩が落ちる。
「やっぱり」
「潮入浦にはあった」
今度は顔が上がる。
俺が聞いた。
「じゃあ、何で?」
船頭は返事の代わりに船の中を指した。
「見りゃ分かるだろ」
塩袋。
樽。
濡れた網。
確かに、空いている場所がほとんどない。
「一袋なら、端に乗せられません?」
ティムが聞いた。
船頭は露骨に嫌な顔をした。
「粉を?」
「はい」
「その濡れ網の横に?」
ティムが網を見る。
水がまだ垂れている。
「あー……」
「樽どかして船尾に置けば傾く。塩の上に積めば滑る。粉一袋のために、先に頼まれてる荷を危なくする気はない」
言われると当たり前だった。
一袋だけなら邪魔にならない時がある。
前の船頭もそう言っていた。
今日は、その「時」じゃなかった。
ハナが船縁を見て言う。
「話はあと。網、下ろすなら手いる?」
「いる。重いぞ」
「じゃあ二人使う」
当然みたいに俺とティムが数に入った。
浜の端では、カモメが魚の切れ端を狙っていた。
一羽が降りる。
ハナが手を振る。
逃げる。
ティムが網の端を持ちながら言った。
「あいつら、毎日ちゃんと来るよね」
「餌あるからだろ」
「舟より予定分かる」
船頭が鼻で笑った。
「ならカモメに粉運ばせろ」
「一袋いけます?」
「先にお前が持って飛んでみろ」
ティムが真顔で俺を見る。
「無理だね」
「考える時間いらなかっただろ」
ハナが笑いながら、網の下から小さな貝殻を一つ蹴り出した。
こういう時だけ、待っている感じが薄くなる。
粉が来るか来ないかとは別に、浜の仕事は普通に進んでいた。
濡れた網の束は、見た目よりずっと重かった。
俺が舟へ乗る。
前なら、片足を置いた瞬間に上半身が固まっていた。
今回は、船縁へ手を置く前に揺れを一度待った。
船が岸へ寄る。
少し戻る。
その戻りに合わせて足を入れる。
膝が勝手に少し曲がった。
上手いわけじゃない。
でも、前より「床が動いた」と驚くまでが遅くなった。
後ろからティムが乗ってくる。
「今、普通だった」
「何が」
「乗るの」
「網持て」
船頭も聞いていた。
「前より邪魔じゃないな」
褒められた気はしなかった。
「ありがとうございますって言うところですか」
「網落とさなかったらな」
言われた瞬間、網の束がずれた。
「うわ」
ティムの声が近い。
俺は反射で縄を引こうとして、途中で止めた。
前に網石の縄でやった。
船の上で、陸と同じように力をかけると船ごと返ってくる。
足を広げる。
船が岸へ寄るのを待つ。
「今!」
ハナが浜から言った。
俺とティムで同時に持ち上げる。
一度で全部運ぼうとせず、船縁へ半分乗せる。
ハナと船頭が浜側から引いた。
重さが抜ける。
網は砂の上へ落ちた。
ティムが息を吐く。
「今の、前なら俺ら舟傾けてた?」
「たぶん」
「成長してるじゃん」
船頭が網の縄をほどきながら言った。
「一回失敗したやつを、二回目も同じようにやるなら成長してないだろ」
それも正しい。
ただ、何か表示が出るわけではなかった。
Lvも変わらない。
技能名も増えない。
足の置き場所を、前より一つ早く決められただけだ。
今はそれで十分だった。
荷を全部下ろしてから、俺はもう一度粉の話を聞いた。
「潮入浦の店には、頼みは伝わったんですか?」
「伝えた。婆さんの名前も、北の受取場ぶんってのも」
「じゃあ次ですか」
「俺の次とは限らん」
船頭は濡れた手をズボンで拭いた。
「向こうで鴎泊へ来るってやつがいたから、話だけ回した」
ティムが眉を上げる。
「別の舟に?」
「積めるならな。積めないなら、その次だ」
「勝手に変えていいんですか?」
「変えたのは舟で、頼みじゃない。お前ら、俺の舟指定したか?」
していない。
空きがある時でいい。
それしか言っていない。
ティムは少し考え込んだ。
ハナが塩袋を肩へ乗せる。
「考えるなら歩きながら。これ網小屋の横まで」
また仕事が先だった。
昼過ぎ、煮炊き屋へ寄ると、年配の女は話を聞いても驚かなかった。
「そりゃ積めない日もあるよ」
ティムが聞く。
「失敗じゃないんですか?」
「何が?」
「粉、来なかった」
「今日来るって誰が言ったの」
「誰も」
「じゃあ今日来なかっただけ」
女は粥の椀を二つ並べる。
「私の前の一袋だって五日かかったんだよ。二日で騒ぐなら、金積んで専用で運んでもらいな」
それは俺たちがやらないと決めた方法だった。
受取場へ戻ると、ゼンが板の前にいた。
ティムが先に言う。
「粉、失敗」
俺は横から訂正した。
「最初の舟には乗らなかった。潮入浦には一袋あった。積む場所がなくて、別の鴎泊行きに頼みだけ回した」
ゼンはティムを見る。
「どっちが正しいと思う?」
ティムは少し考えた。
「……レン」
「珍しいな」
「それ今いる?」
マルクが奥から笑った。
ゼンは板へ小さく一行だけ足した。
《北側依頼一袋:初回船は積載不能/依頼継続》
それだけだった。
地図は白いまま。
粉も来ていない。
でも、頼みは一艘の舟から離れて、まだどこかで生きているらしい。
それが便利なのか、ただ曖昧なだけなのかは、まだ分からなかった。
帰り道、ティムは干し台の前で靴を止めた。
さっきの濡れ網から落ちた水が板の端へ溜まっている。
「うわ」
「何」
「さっきここ踏んだ」
片方の靴の先が濡れていた。
ハナが振り返る。
「今気づいたの?」
「舟ばっかり見てた」
「じゃあ粉来るまでに足元見る練習しといて」
ティムは靴を振った。
水は落ちなかった。
「こういうの乾くまで長いんだよな」
「粉より先に靴待ちだね」
「それは嫌だ」
頼んだ荷は来なかった。
代わりにティムの靴だけが少し濡れた。
たぶん、記録には残らない。
第276話 頼んだ舟じゃない舟が、粉を持ってきた
【本文】
粉が来たのは、その二日後だった。
その朝、俺は海を見ていなかった。
受取場の裏で、空になった麦袋を畳んでいた。
ティムは隣で、袋の端を揃えている。
なぜか俺よりきれいだった。
「そこ、曲がってる」
「袋だぞ」
「重ねるとずれる」
「お前、こういう時だけ細かいよな」
「こういう時って何」
「戦わない時」
「失礼だな」
言いながら、俺の曲がった袋を直した。
そこへ、坂の下からハナが来た。
走ってはいない。
でも歩くのは少し速い。
俺たちを見ると、開口一番言った。
「白い袋来たよ」
ティムが立ち上がった。
「粉?」
「たぶん。私は開けてない」
「どの舟?」
「知らない舟」
今度は俺も立った。
ハナが眉を上げる。
「二人とも、粉って聞くと速いね」
「仕事です」
ティムが言う。
「今まで袋畳んでたのも仕事」
「これは現場確認」
「便利な言葉覚えたね」
三人で鴎泊へ下りる。
浜には、小さな舟が一艘ついていた。
ゴルの舟でもない。
前に粉を運んできた舟でもない。
頼みを預かった船頭の舟でもない。
船首が丸く、横板に何度も補修した跡がある。
荷は少なかった。
細い木箱が二つ。
小さな油壺。
布包み。
そして船尾寄りに、白い袋が一つ。
口には青い細紐。
ティムが俺の横で小さく言った。
「来た」
俺も見ている。
ただ、前より先に聞きたいことがあった。
船頭へ近づく。
「それ、北の受取場ぶんですか?」
男は袋を見てから、俺を見る。
「そう聞いてる」
「誰から?」
「潮入浦で、鴎泊へ戻ったらこれ持ってけって言われた。最初に頼まれた舟が満杯だったらしいな」
その言い方で、話がつながった。
頼みを受けた船頭。
潮入浦の粉屋。
別の鴎泊行き。
どこか一つが決めたというより、順番に渡されてきた。
ティムが聞く。
「この舟、最初から鴎泊に来る予定だったんですか?」
「ああ。こっちの宿へ油壺届ける用があった」
「粉のためじゃなく?」
「一袋のためだけに来るかよ」
ティムは俺を見る。
俺は何も言わなかった。
今のは前にも聞いた答えに近い。
違うのは、今回は俺たちが頼んだ一袋が、その「ついで」の中に入ったことだ。
船頭が袋へ手を伸ばす。
「下ろすぞ。二人いるなら持てるだろ」
俺は舟へ乗った。
足を置く。
船が少し沈む。
前なら、その沈み方を見てから身体を合わせていた。
今日は、足を置いた時にはもう膝が少し逃げていた。
考えた感じがしない。
たぶん、何度かやったからだ。
船頭が粉袋の口側を持つ。
俺は底へ手を入れる。
「今上げる」
「はい」
船が岸へ寄る。
その一瞬で袋を持ち上げる。
ティムが浜から受ける。
一度、袋の角が船縁へ当たりそうになった。
俺が止めるより先に、ティムが少しだけ持ち上げ直した。
「濡らさない」
「分かってる」
「今、俺が先だった」
「粉置いてから勝ち誇れ」
ハナが後ろから言う。
「二人とも、足元」
声が重なる。
でも今回は止まらなかった。
袋を乾いた板の上へ下ろす。
船頭が俺の足元を見て言った。
「海の人間じゃないだろ」
「分かります?」
「分かる。でも前よりは乗ってそうな足だな」
前の船頭と似たような褒め方だった。
ティムが笑う。
「『邪魔じゃない』から上がった」
「評価低すぎない?」
「最初が低かったんだよ」
否定できない。
粉袋は、まず煮炊き屋へ持っていった。
年配の女が口の青紐を見て、指で結び目を確認する。
「うん。私が頼んだ店のやつ」
「俺たちの分?」
ティムが聞く。
「私の分はまだある。これはあんたらの一袋」
「じゃあ、ほんとに来た」
「袋見てまだ疑ってたの?」
女は呆れた顔をした。
俺は聞く。
「最初の船頭さんが、粉代も払ってくれたんですか?」
「私が預けた。向こうで店に払って、袋だけ別の舟へ回した。運び賃はこっちで精算。だから後でマルクさん連れてきな」
「分かりました」
「あと、これ毎回できると思わないでよ」
先に釘を刺された。
「今回は向こうで話がつながっただけ。誰もいなきゃ止まるし、荷が多けりゃまた乗らない。それに私、毎回間に入るほど暇じゃないから」
鍋の奥から焦げる匂いがした。
女が「あ」と言って振り返る。
「ほら、もう焦げる」
本当に暇じゃなかった。
俺とティムで粉袋を受取場へ運ぶ。
坂を上がる途中、ティムが言った。
「最初の舟、失敗じゃなかったね」
「積めなかったのは失敗だろ」
「でも別の舟が持ってきた」
「だからって、次も来るとは限らない」
「レン、最近そればっかり言う」
「何が」
「『次も同じとは限らない』」
少し考える。
確かに言っている気がする。
前の人生では、同じことを再現できるようにするのが好きだった。
道も、隊列も、救助も。
一度できたことを、誰でも同じようにできる形へ近づけた。
でも今の海では、同じ舟すら来ない。
同じ船頭でもない。
同じ日でもない。
それでも一袋は届いた。
「……同じじゃなくても、届く時はあるんだな」
俺が言うと、ティムが袋の向こうから顔を出した。
「今の、ちょっと格好いい」
「言うな。自分でも思った」
「台無し」
坂の途中で二人とも笑った。
受取場では、マルクが先に袋を見た。
「来たか」
「別の舟で」
俺が答える。
「最初の船頭は積めなかった。潮入浦で頼みを別の鴎泊行きへ回して、その舟に空きがあったから来た」
ゼンが板の前へ来る。
「直接確認したのは?」
「運んできた船頭。潮入浦で引き継いだって。煮炊き屋も自分が頼んだ粉屋の袋だと確認した」
「日数」
「頼んでから四日。今回だけ」
「運賃」
「まだマルクが煮炊き屋と精算してない。標準扱いしない」
ゼンが頷く。
マルクは袋の口を開ける前に、まず外側を触った。
「濡れは?」
「浜ではなかったです」
俺が答えると、ティムも横から袋の底を触る。
「こっちも乾いてる」
「じゃあ開けるぞ」
縄をほどく。
粉の匂いは、東河港から来る麦を挽いた時と少し違った。
俺には違う、としか分からない。
マルクは指先に少し取って、色と粒を見た。
「悪くはなさそうだな」
ティムが覗き込む。
「味は?」
「生で食いたいなら止めんぞ」
「聞いただけ」
ゼンが板へ書きながら言う。
「品質は石窯で一回使ってから。今日届いたことと、使える粉かは別」
ティムが俺を見る。
「また別だ」
「別だらけだな」
「でも一個ずつなら分かる」
そこは、俺も同じだった。
板へ書く。
《北側依頼:潮入浦の粉一袋→鴎泊 実着》
《初回船は積載不能/別船へ依頼引継ぎ》
《日指定なし/今回四日/恒常値ではない》
ティムが地図を見た。
俺もつられて見る。
潮入浦の点と、鴎泊の場所。
間はまだ白い。
ティムは何も言わなかった。
代わりに粉袋を持ち直す。
「これ、どこ置く?」
マルクが奥を指した。
「東河港分と混ぜるな。右の棚。来た経路が違ううちは分けとけ」
「はい」
その後、マルクは俺と一緒に煮炊き屋へ行った。
女は帳面ではなく、棚の端に置いた小さな木札を見ながら金額を言った。
マルクは聞き返さずに払う。
俺は横から口を出しそうになって、やめた。
今回の粉代と今回の運び賃。
それが安いか高いかを判断する材料を、俺はまだ持っていない。
女は銭を数え終えてから俺を見る。
「今日は値段、聞かないの?」
「聞いても一回分ですよね」
「ちょっとは学んだね」
マルクが笑う。
「港で有名になった甲斐あったな」
「その話まだ残ってるんですか」
「しばらく残るだろ」
女は銭をしまい、もう俺たちを見ていなかった。
次の客が持ってきた小魚の方を見ている。
俺たちの一袋は、店にとっては今日の仕事の一つでしかなかった。
ティムが地図を見たまま歩き出した。
肩の袋が入口の柱へ当たる。
鈍い音がした。
「痛っ」
マルクがため息をつく。
「道より入口見ろ」
俺は笑いながら反対側を持ち直した。
海の線は、まだ引かなかった。
その代わり、右の棚に白い袋が一つ増えた。
第277話 海の粉は、いつもの水で同じ生地にならなかった
【本文】
翌朝、潮入浦の粉袋はまだ右の棚にいた。
昨日と同じ場所。
青い細紐だけ外されて、口は別の縄で結び直されている。
マルクが袋の前にしゃがみ、木鉢へ粉をすくった。
「全部持ってくなよ」
隣でティムが袋の口を覗く。
「分かってる。試すだけでしょ」
「分かってる顔で一番多く持つのがお前だから言ってる」
「俺、そんな信用ない?」
「今、鉢もう一杯取ろうとしただろ」
ティムの手が止まった。
見ていたらしい。
俺は木鉢を受け取った。
思ったより軽い。
粉は粉だ。
白いし、指で押せば崩れる。
昨日、マルクが言っていた通り、東河港の麦を挽いた粉とは少し匂いが違う気がする。
ただ、違うと言われたからそう感じているだけかもしれない。
ゼンは板へ何も書かなかった。
「焼いてから?」
俺が聞くと、ゼンは縄を結び直しながら頷く。
「焼く前に書けるのは、粉が届いたことまで」
ティムが木鉢を覗き込む。
「食べたら『食べられた』?」
「腹壊したら?」
「半日待つ?」
「仕事しろ」
マルクに追い払われた。
石窯では、窯番の男が朝の仕込みをしていた。
長い木べらの先で灰を寄せ、焼き床の熱を確かめている。
俺たちが木鉢を置くと、男は中を見た。
「例の海の粉か」
「一回だけ試してほしいって」
ティムが言う。
「一回だけって、どのくらいだ」
「一回です」
「分量の話だ」
ティムが俺を見る。
俺も分からない。
男はため息をつき、木鉢を自分の方へ引いた。
「いつもの一枚分より少し多いくらいでやる。失敗しても昼の分に響かん量」
それなら、俺にも意味が分かった。
男は粉を大きな鉢へ移す。
塩を少し。
水差しを持つ。
ティムが横から言った。
「いつもと同じ水?」
男の手が止まった。
「いつもの粉ならな」
「でも比べるなら同じ方がよくない?」
「お前、食い物を紙の上で作る気か」
「いや、そうじゃないけど」
「粉が違うのに、手まで止めて同じにする意味があるか。触って決める」
男は最初から全部の水を入れなかった。
半分ほど回し入れ、指で粉を寄せる。
俺は少し意外だった。
もっと何か決まった順番があると思っていた。
でも男の手は、混ぜるたびに止まる。
指先で押す。
鉢の底についた粉を集める。
また少しだけ水を足す。
ティムは真剣に見ていた。
「今、何見てる?」
「お前が黙れるか」
「そこじゃなくて」
「硬さ」
「どのくらい?」
「手で分かるくらい」
「それ俺に伝わらない」
「じゃあ触れ」
男が生地の端をつまみ、ティムの方へ向けた。
ティムが人差し指で押す。
「……柔らかい?」
「今のは聞き返しただけだろ」
「いや、柔らかい気がする」
俺も触った。
指を離すと、生地が少しだけついてきた。
ティムが真似をする。
今度は指へくっついたまま、細い角みたいに持ち上がった。
「ほら」
「何が『ほら』だ」
窯番が笑いもせず、粉をひとつまみティムの指へ落とす。
ティムが払った。
粉がそのまま鼻へ入ったらしい。
「っ、くしゅ」
白い粉が自分の胸へ飛ぶ。
俺は笑った。
「海っぽい?」
「今それ言う?」
「言いたかった」
ティムは服を叩いてから、もう一度触る。
今度は指へ残らない。
「上手くなった?」
「粉をつけることを覚えただけだ」
「それも上手くなったに入らない?」
窯番は少し考えた。
「昨日よりは邪魔じゃない」
聞き覚えのある褒め方だった。
いつもの生地を毎日触っているわけじゃない。
比べられるほどの経験はない。
ただ、指に残った。
少しべたつく。
男は俺たちの顔を見て、鼻で笑った。
「二人とも、食べる方しかやってない顔だな」
「当たりです」
ティムが即答した。
俺も否定できない。
男は残りの水を見た。
まだ差しに残っている。
「いつもの粉なら、これくらいは入る」
「入れないんですか」
俺が聞く。
「今入れたら、たぶんべたべたになる。たぶんな」
最後だけ少し弱くなった。
ティムが反応する。
「窯番でも『たぶん』なんだ」
「初めての粉だぞ。触って一発で全部分かるなら、俺は粉屋やってる」
そう言いながら男は生地をまとめた。
ところが、持ち上げた瞬間、底の一部が鉢へ残った。
べたり、と嫌な音がする。
ティムが笑う。
「今の、ちょっと失敗?」
男が無言でティムを見る。
「……手伝います」
すぐに声が小さくなった。
俺も笑いそうになったが、男に木のへらを渡されて逃げられなくなった。
「笑うなら剥がせ」
鉢の底についた生地を寄せる。
思ったよりしつこい。
へらを立てると切れる。
寝かせると鉢へ残る。
「これ、粉が悪いんですか?」
「まだ分からん」
男は短く答えた。
「水かもしれん。混ぜ方かもしれん。粉かもしれん。お前らが横でうるさいせいかもしれん」
「最後は違うでしょ」
「証明できるか?」
ティムが黙った。
その顔がおかしくて、今度こそ俺は笑った。
生地は少し休ませることになった。
その間に、いつもの粉で作った朝分を先に窯へ入れる。
仕事は止まらない。
海の粉の試験だけを特別扱いするわけでもない。
俺は薪を一本運び、ティムは焼き上がった平たいパンを籠へ移した。
途中で一枚落としかけ、慌てて両手で挟む。
「熱っ」
「置け!」
窯番が怒鳴る。
ティムは台へ置いた。
指先を振る。
「持てた」
「持つな。熱いって分かってただろ」
「反射」
「その反射、海では使うなよ」
俺が言うと、ティムが睨む。
「最近すぐ海に戻すよね」
「お前が海の話ばっかりするからだ」
「今日は粉の話」
「海から来た粉な」
言ってから、二人とも木鉢を見た。
少し休んだ生地は、さっきよりまとまっている。
窯番が指で押す。
伸ばす。
首を傾げた。
「焼けはする」
「食べられる?」
ティムが聞く。
男は生地を丸め直しながら言った。
「それは焼いて食ってから聞け」
もっともだった。
生地を小さく分ける。
いつもの一枚より少し小さい。
薄く伸ばそうとすると、端が戻る。
男が手のひらで押す。
「こっちの粉、少し癖あるな」
「悪い癖?」
「だから、まだ決めるな」
昨日から何度も聞いた言葉を、今度は窯番に言われた。
生地は木べらへ乗った。
男が一度、窯の中を見る。
火の位置を変える。
ティムが身を乗り出す。
「入る?」
「入る。お前は下がれ」
「なんで」
「顔焼くぞ」
ティムが半歩下がった。
木べらが動く。
海を四日かけて来た粉が、初めて石窯の中へ入った。
それだけなのに、俺は荷下ろしの時より少し緊張した。
運べることと、食えることは別だ。
昨日まで右の棚にあった一袋が、本当に食べ物になるかどうか。
答えはまだ、火の向こうにあった。
第278話 食える。でも「同じ」って言うほど同じじゃなかった
【本文】
最初に匂いが変わった。
焦げた匂いじゃない。
いつもの焼きたてに近い。
でも、少し香りが強い。
ティムが鼻を動かす。
「分かる?」
「何が」
「海っぽい?」
「粉に海の匂いついてたら嫌だろ」
「じゃあ何だろ」
「知らん」
窯番は俺たちの会話を無視していた。
木べらを差し込み、焼けた生地の端を持ち上げる。
一枚目。
形は少し悪い。
端が厚く、反対側が薄い。
男が台へ置いた。
「切るぞ」
ティムが手を伸ばしかける。
木べらの柄が、その手の前へ横になった。
「熱い」
「さっき学んだ」
「なら手を出すな」
「確認しただけ」
「何を」
「俺が学んだか」
俺は吹き出した。
窯番は笑わなかった。
ただ、口の端は少し動いていた。
焼きたてを四つに切る。
中から湯気が出た。
男が一片を割る。
断面を見る。
「少し詰まってるな」
ティムが覗く。
「失敗?」
「お前は何でもすぐ成功か失敗にしたがるな」
「分かりやすいから」
「食い物は、食えたら終わりじゃない」
男は一片を俺へ渡した。
熱い。
指先で持ち替えながら齧る。
味は、普通にパンだった。
少しだけ噛み応えが強い。
香りも違う気がする。
でも、昨日まで荷物だったものが、口の中ではちゃんと食べ物になっている。
「どうだ」
窯番が聞く。
「食えます」
「それは見れば分かる」
「ちょっと重い気がする」
「気がする、か」
「比べるほど舌が良くないです」
男が頷いた。
「その答えの方が信用できる」
ティムも食べる。
二回噛んで、首を傾げる。
「俺、こっち嫌いじゃない」
「何と比べて」
「いつもの」
「朝から何枚食ってる」
「数えてない」
「じゃあ比較にならん」
「またそれ」
そこへハナが薪束を抱えて入ってきた。
「何してるの」
ティムがすぐに一片を差し出す。
「食べて」
「急だね」
「感想ほしい」
「朝ごはん食べたけど」
「一口だけ」
ハナは薪を置き、手の粉を服で払おうとしてやめた。
水桶で手を洗う。
そこを飛ばさないところがハナだった。
一片を受け取り、半分ほど齧る。
しばらく噛む。
ティムが待ちきれない。
「どう?」
「口に入ってる」
「飲み込んでからでいい」
「自分で聞いたんでしょ」
ハナはもう一度噛み、飲み込んだ。
「少し重い。でも普通」
「普通!」
ティムが嬉しそうに言う。
ハナは眉を上げた。
「何がそんなに嬉しいの」
「海の粉」
「これ?」
「潮入浦から来たやつ」
ハナは残り半分を見た。
「言われなかったら分からなかった」
窯番が横から言う。
「それは粉に失礼なのか、ティムの舌に失礼なのか」
「俺?」
「何でお前が真ん中に入る」
ハナが笑った。
俺も笑った。
その間に窯番は、もう二回目の生地を作り始めていた。
同じ粉。
今度は水を少し減らしている。
ティムが気づく。
「さっきより少ない」
「さっきよりべたついたからな」
「じゃあ原因、粉?」
「原因候補」
「ゼンみたいになってきた」
「お前らが面倒な聞き方するからだ」
男は生地を押す。
さっきより指へ残らない。
俺にも少し分かった。
「これなら伸ばしやすそう」
「触ってみろ」
今度は俺が押した。
確かに違う。
柔らかいが、指について持ち上がってこない。
ティムも触る。
「さっきより生地っぽい」
窯番が俺を見る。
「こいつの言葉、どうにかならんか」
「俺の担当じゃないです」
「薄情」
二回目は形も揃った。
焼き時間は窯番が少し変えた。
理由は聞かなかった。
たぶん聞けば「見れば分かる」と言われる。
焼き上がった一枚は、最初より端が薄い。
割ると中も少し軽かった。
窯番が一口。
今度はすぐに言う。
「これなら出せる」
男はそう言ってから、最初の少し形が悪い一枚も自分の皿へ寄せた。
ティムが聞く。
「それ、失敗分?」
「食えるって言っただろ」
「捨てないんだ」
「捨てるほどまずくない。形が悪いだけだ」
男は端をちぎり、残っていた薄いスープへ浸した。
さっきより柔らかくなったのか、今度は何も言わずに食べる。
「それうまそう」
「お前の分じゃない」
「一口」
「薪一本」
「高い」
「じゃあ見るだけにしろ」
ティムは本当に見るだけにした。
ティムが顔を明るくする。
「合格?」
「だから誰の試験だ」
「北方食料試験」
「勝手に作るな」
ちょうどマルクが入ってきた。
「何を勝手に作った」
ティムが振り向く。
「試験名」
「いらん」
即答だった。
マルクは焼き上がりを一口食べる。
何も言わず、もう一口。
ティムがじっと見る。
「どう?」
「食える」
「みんなそれしか言わない」
「食い物に最初に必要なのはそこだろ」
マルクは窯番を見る。
「一袋、全部こっちへ回していいか」
俺は少し驚いた。
でも窯番はすぐ首を振った。
「まだいらん。東河港の粉もある。混ぜたら何がどうだったか分からなくなる。使うなら別で置いとけ」
「分かった」
「あと、この粉は同じ水じゃ柔らかくなった。次やる奴にそれだけ言っとけ。量は俺が合わせる」
ティムが俺を見る。
「それ、記録じゃない?」
「ゼンに言えば」
「俺が覚える」
「お前、昨日靴濡れたの夕方まで気づかなかっただろ」
「粉と靴は別」
ハナが薪を一本ずつ積み直しながら言う。
「ティムの記憶に預けるなら、紙にも書いた方がいいね」
三対一になった。
受取場へ戻ると、ゼンは話を聞いて板の端へ短く書いた。
《潮入浦粉:石窯少量使用可》
《いつもの粉と扱い差あり/水量は現場調整》
ティムが指で追う。
「『おいしい』は?」
「誰の?」
「俺の」
「いらない」
「ハナは普通って」
「もっといらない」
俺は笑った。
ゼンはその下へ何も足さなかった。
品質保証。
常時使用可。
東河港の代替。
そういう言葉も書かない。
でも右の棚の一袋は、昨日までと少し意味が変わった。
運べた粉。
見た粉。
触った粉。
今日、初めて焼いて食べた。
そこまでなら、俺たちは自分で見た。
第279話 海の粉を食べた人は、どこから来たか聞かなかった
【本文】
次の朝、石窯の前に人が多かった。
いつもなら焼き上がりを待つのは三、四人だ。
今日は倍くらいいる。
炭窯から来た男たちが、仕事へ入る前に腹へ入れていくらしい。
一人が窯の前で腕を組んでいる。
「まだか」
中から窯番が怒鳴った。
「腹減った順に焼けるなら苦労せん!」
「俺が一番減ってる」
「知らん!」
ティムが俺の横で小声になる。
「毎朝ああなの?」
「今日は人多いからだろ」
俺たちは、昨日の海の粉をもう一度持ってきていた。
全部じゃない。
木鉢二杯分。
昨日の少量試しで使えることは分かった。
今日は「試験」ではなく、足りない分を一回焼く。
窯番は東河港の粉の鉢と、海の粉の鉢を離して置いている。
「混ぜないんですね」
俺が言うと、男は手を動かしたまま答えた。
「混ぜた方が楽かもしれん。でもまだ一袋目だ。癖も分からんのに全部一緒にしたくない」
ティムが頷く。
「ゼンみたい」
「昨日も言ったな、それ」
「似てきてる」
「次言ったら薪割り増やすぞ」
ティムが口を閉じた。
三秒くらいだった。
「でも昨日より水——」
「薪」
「はい」
本当に割りに行った。
俺は笑いながら生地の鉢を押さえた。
昨日より窯番の手が迷わない。
水を少しずつ。
生地を寄せる。
一度止める。
指で押す。
「覚えたんですか」
「一回やったからな」
「一回で?」
「同じにするためじゃない。昨日より変じゃないところから始めるだけだ」
その言い方は、海の舟と少し似ていた。
同じ日にする。
同じ船にする。
同じ水にする。
そうやって全部を固定するんじゃない。
昨日分かったところだけ使って、今日をやる。
窯番は小さく分けた生地を並べた。
一本だけ形が細い。
俺が指差す。
「それ、ティムの?」
「何で分かる」
薪を抱えて戻ってきたティムが言った。
「お前がさっき触ったから」
「証拠は?」
「真ん中だけ指の跡ある」
ティムが見た。
本当にある。
「俺のにして」
「客に出せん形を自分で食うなら好きにしろ」
窯番が木べらへ乗せる。
前で待っていた炭窯の男が声を上げる。
「形どうでもいいから早く」
「じゃあお前のそれな」
「俺は丸いのがいい」
「注文多いな!」
笑いが起きた。
火の前だけ、朝からうるさい。
海の粉で作った分も、普通に窯へ入った。
焼き上がる。
昨日ほど見張らなかった。
俺もティムも、一枚ごとに顔を近づけなかった。
それが少し変な感じだった。
窯番は海の粉の分を別の籠へ入れた。
「こっち、先に出すぞ」
「何で?」
ティムが聞く。
「今焼けたから」
「海の粉だからじゃなく?」
「腹減ってる奴に粉の出身聞くか?」
前の男が手を出した。
「何でもいい。二枚」
「一人一枚だ」
「昨日三枚食った」
「今日は人が多い」
文句を言いながら、一枚受け取る。
男はその場で端をちぎった。
熱そうに口を開ける。
それでも食う。
少しして、煮炊き屋の方へ顔だけ向けた。
「汁、まだある?」
向こうから年配の女の声が返る。
「椀持って来な!」
男はパンを口にくわえたまま、空の椀を取りに行った。
粉の話は一度も出なかった。
ティムがじっと見ている。
俺は肘で軽く押した。
「見るなよ」
「感想」
「客だぞ」
男が気づいた。
「何だ」
ティムは一瞬迷ってから聞く。
「……うまい?」
「腹減ってる時に焼きたて食って、まずい方が難しいだろ」
それだけ言って、煮炊き屋の方へ行った。
どこの粉かは聞かなかった。
もう一人も取る。
その次も。
一人が端を見て言った。
「ここ少し焦げてる」
窯番が返す。
「嫌なら俺が食う」
男はすぐ齧った。
「食う」
粉じゃなく、焦げた端の話だった。
俺は妙におかしくなった。
四日かけて来た。
最初の舟には乗れなかった。
別の舟へ頼みが回った。
煮炊き屋が間に入った。
受取場で別棚に置いた。
昨日は水の量でべたついた。
こっちはずっと気にしていた。
でも食う側は、朝の一枚が出てきたら食う。
それでいいのかもしれない。
前の人生の俺なら、ここでやり方を揃えたくなった気がする。
誰が頼むか。
どの舟に乗せるか。
何日で届くか。
粉は何杯の水でこねるか。
決めれば、次は楽になる。
でも今朝、一番役に立ったのは、窯番が昨日の生地を覚えていて、水を少し減らしたことだった。
決まりじゃない。
人が覚えていた。
今は、それで朝飯が出た。
ティムが細長い一枚を受け取った。
「これ俺の」
「まだ言ってたのか」
「指跡あるから」
齧る。
少し考える。
「昨日よりうまい」
窯番が即座に言う。
「焼きたてだからだ」
「粉の扱い慣れたからかも」
「それもある」
ティムが止まった。
「今、認めた?」
「何を」
「成長」
「俺がな」
「俺じゃない?」
「お前は薪割っただけ」
ティムは俺を見る。
「今日、評価厳しくない?」
「いつもだろ」
俺も一枚もらった。
昨日より軽く感じた。
本当に違うのか。
焼きたてだからか。
腹が減っているからか。
分からない。
でも食える。
人に出せる。
一回だけじゃなく、今日も焼けた。
それなら、右の棚に置いておく意味はある。
昼前、受取場へ戻る。
ゼンが板の前で、昨日の二行を見ていた。
ティムが先に言う。
「今日も焼けた。炭窯の人も食べた」
ゼンは振り返らない。
「何人」
「え」
「海の粉の分を食べた人数」
ティムが俺を見る。
俺も数えていない。
「……五人くらい?」
「くらい?」
「六かも」
ゼンがようやく振り返った。
「じゃあ人数は書かない」
ティムが口を尖らせる。
「でも食べたのは本当」
「それは書ける」
板へ一行。
《石窯:二日連続で少量使用》
それだけ。
マルクが棚の残りを見ながら言う。
「まだ一袋目だ。なくなるまで全部試す必要はない。使う理由がある時だけ使え」
「今日は?」
俺が聞く。
「朝、人が多かった。理由になる」
ティムが頷く。
「じゃあ海の粉、役に立った?」
マルクは少し考えた。
「今日の朝はな。予備ってのは、棚で神棚みたいに置いとく物じゃない。使う時が来たら使う」
ティムが右の棚を見る。
「神棚には見えないけど」
「ならなおさらだ」
また、今日だけだった。
俺はそれが嫌じゃなくなっていた。
道を作るなら、毎日使えないと意味がないと思っていた。
でも、毎日じゃなくても助かる時はある。
東河港の袋がある日。
潮入浦の粉が来る日。
挽き場が回る日。
石窯に人が増える朝。
全部、同じじゃない。
それでも食事は続いていく。
入口からハナが顔を出した。
いつもの仕事顔だった。
でも、少しだけ早口だった。
「レン。ティムも」
「何?」
ティムが先に返す。
ハナは息を整えてから言った。
「炭窯支道から戻った荷駄がいる。曲がりの先で灰狼を一匹見たって。荷はそのまま持って戻ってきた」
俺はマルクを見る。
マルクもこっちを見た。
海の粉の話は、その瞬間に終わった。
灰狼。
一匹見た。
それだけなら、まだ何も分からない。
でも。
今度は山側が、先に動いた。




