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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第268話 潮入浦の宿では、明日の出発時刻を誰も言わなかった


【本文】


潮入浦へ来た目的は、もう終わっていた。


粉を扱う場所はあった。


今日は二袋見えた。


毎日あるとは限らない。


麦のままでは、あの店は扱っていない。


そこまで見て、俺は港へ戻った。


なのに帰れない。


ゴルの舟へ積む樽が、まだ来ないからだ。


「日が落ちるまで待つんですか?」


俺が聞くと、ゴルは舟縁へ腰を預けたまま、沖を見ていた。


「樽は待つ。潮までは待たん。両方そろわなきゃ今日は出ない。それだけだ」


「じゃあ、明日は何時に出ます?」


「知らん」


返事が早すぎて、聞き方を間違えたのかと思った。


ゴルは俺の顔を見て、少しだけ口の端を上げた。


「朝になって風見て、潮見て、樽見て決める。先に時刻だけ決めても舟は言うこと聞かんぞ」


「陸だと、荷が来る時間を決めて、それに合わせるんですけど」


「海でも決めるさ。決めた通りにならんことが多いだけだ」


それは、ずいぶん違う。


荷物を運ぶという意味では同じなのに、時間の使い方が違う。


夕方になっても樽は来なかった。


ゴルは諦めたように舟の縄をもう一度締め直し、港の奥を顎で示した。


「寝床、いるだろ。俺が使う舟宿に床一枚くらいある。飯は自分で何とかしろ」


「銅貨、払います」


「俺に言うな。宿の婆さんに言え」


連れていかれた舟宿は、宿というより大きな家だった。


入口に濡れた外套が何枚も掛かり、土間には長靴が並んでいる。


奥では魚を焼く匂いがした。


年配の女がゴルを見るなり眉を上げた。


「また延びたの?」


「樽が来ない」


「昨日も別の舟が同じこと言ってたよ。で、その子は?」


ゴルが俺を指す。


「北から来た。床だけ一晩」


女は俺を上から下まで見た。


「船乗りには見えないね」


「見習いでもないです」


「じゃあ何しに?」


一瞬迷った。


「粉があるか見に来ました」


女の手が止まった。


「粉?」


「はい」


「それだけ?」


今日、二回目だ。


「それだけです」


女は声を上げて笑った。


「潮入浦まで来て、粉見て帰れなくなったの。変な旅だねえ」


「自分でもそう思います」


ゴルが横から口を挟む。


「こいつ、店で値段も聞いてないらしいぞ」


「なんで?」


「今日はそこまで聞く用事じゃなかったので」


女はしばらく俺を見ていたが、やがて肩をすくめた。


「まあ、勝手にしな。床は奥。濡れたものは入口。火のそばに置くと臭くなるから寄せるんじゃないよ」


言われた直後、ゴルが濡れた縄袋を火のそばへ置こうとして怒られた。


「聞いてた?」


「今置こうとしただけだ」


「だから言ったんだよ」


ゴルが無言で縄袋を戻す。


俺は笑いそうになって、顔を伏せた。


夕飯は硬い麦の粥と焼いた小魚だった。


粉屋で見た白い粉は出てこない。


だからといって、この町で小麦粉が珍しいとは決められない。


一晩の飯だけで分かることじゃない。


隣の卓では、別の船頭たちが明日の話をしていた。


俺はふと、北へ連絡する方法を考えた。


昨日帰るつもりだった。


ティムたちは、少なくとも今日中には戻ると思っているはずだ。


「ゴルさん。今夜、北へ戻る舟ってあります?」


「あるなら俺が乗って帰る」


「ですよね」


「急ぎなら、陸を回って使いを出す手もある。だが今から出しても、お前が明日戻る方が早いかもしれん」


結局、今日は帰れないという事実まで、北へすぐ届ける手段はない。


前なら、そのくらいはどうでもいいと思ったかもしれない。


一日遅れるだけだ。


でも今は、待っている側が何を知っているかまで気になる。


俺が粉を見つけたことも。


帰れなくなったことも。


北では、まだ誰も知らない。


だからといって、何か起きているわけでもない。


そういう「知らないままの一晩」が普通にある。


そのこと自体が、少し新しかった。


隣の卓では、別の船頭たちが明日の話を続けていた。


「朝一で出る」


「風次第だろ」


「風が駄目なら昼」


「昼まで待ったら、今度は潮が合わん」


誰も、何時何分とは言わない。


俺は粥を食べながら、その会話を聞いていた。


前の人生でも、天候で予定が変わることはあった。


山なら雪、雨、崩落。


でも街道は、動かなければ同じ場所に残る。


海は、待っている間にも条件が変わる。


宿の床へ横になる頃、港から縄の軋む音が聞こえた。


一度眠りかけて、目が覚める。


波の音ではない。


誰かが夜のうちに舟の位置を直している音だった。


明日の出発時刻は、まだ決まっていない。


それなのに港では、もう明日のための仕事が始まっていた。


第269話 最後の樽を積まないまま、舟は岸を離れた

【本文】


朝、目を覚ました時には、ゴルがいなかった。


外へ出ると、港の空気が昨日より冷たい。


風は弱い。


水面も、夜より静かに見える。


ゴルは舟のところにいた。


樽が三つ並んでいる。


昨日待っていた荷らしい。


「来たんですね」


「三つな」


「全部で三つ?」


「四つ」


俺は舟と樽を見比べた。


一つ足りない。


少し離れたところから、太った男が早足で来た。


昨日は見なかった顔だ。


「もう一個、すぐ来る。荷車が上で引っかかってるだけだ」


ゴルは返事をせず、空を見た。


次に港口を見る。


男が苛立ったように続ける。


「半刻も待たん。せっかく四つそろえて北へ出すんだぞ」


「半刻待ったら、入口で待つ時間が増える」


「昨日一日待っただろ」


「昨日は出られなかった。今日は出られる」


二人の言葉が噛み合っていない。


荷主らしい男は、四つ全部を送りたい。


ゴルは、今出られる時に出たい。


俺は口を挟まなかった。


これは俺の粉の話じゃない。


ゴルが俺へ顎を向けた。


「縄、昨日の結び方覚えてるか」


「たぶん」


「たぶんで樽止めるな。分からんとこは聞け」


「はい」


三つの樽を舟へ入れる。


昨日までより、船底が狭い。


足を置きたい場所に荷がある。


俺は一本目の縄を回し、結び目を締めた。


ゴルが手で引く。


「そこ、逆」


「え?」


「引かれた時に締まる向きじゃない。ほどけはせんが、緩む」


見直す。


確かに、前回教わった形と左右が反対だった。


俺はほどいて結び直した。


「陸だと、この向きでも動かないんですけど」


「陸に置くならな」


言い方が少しだけ意地悪だった。


「海、嫌いになりそうです」


「まだ三回も乗ってないだろ。嫌うならもう少し乗ってからにしろ」


ゴルが笑う。


荷主の男は笑わなかった。


港の坂を何度も見ている。


まだ四つ目は来ない。


ゴルが縄を最後に確認し、舟へ乗った。


「出す」


男が声を上げる。


「待てって。もう見えるかもしれん」


「次で持ってけ」


「次がいつだと思ってる」


「俺も知らん」


昨日、俺が聞いた時と同じ答えだった。


でも今度は意味が違って聞こえた。


知らないから待つんじゃない。


知らないから、今使える条件を逃さない。


荷主の男は何か言いたそうにしていたが、最後には樽を一度叩いた。


「三つ、濡らすなよ」


「沈める気はない」


舟が岸を離れる。


四つ目の樽は来なかった。


港口へ向かう途中、俺は振り返った。


坂の上に荷車らしい影が見えた気がした。


本当に四つ目だったかは分からない。


ゴルは見もしなかった。


入口では、昨日と同じ黒い割れ岩が見える。


ただ、水の高さは同じに見えない。


昨日覚えた目印だけで判断しようとすると、すぐ分からなくなった。


「岩、見るなとは言わんけど、それだけ見るなよ」


ゴルが櫂を動かしながら言った。


「昨日もそうでしたね」


「昨日見たから今日分かった気になるのが一番危ない」


胸に刺さる。


俺が前の人生で何度もやった失敗に近い。


一度通った道を、知っている道だと思う。


港を抜けてから、舟の揺れ方が変わった。


昨日より鈍い。


でも傾き始めると、戻りが遅い。


樽三つ分の重さがあるからだと気づくまで、少しかかった。


一度、立つタイミングを間違えた。


足が流れそうになり、俺は反射的に舟縁へ手をつく。


ゴルが横目で見る。


「前よりましだな」


「今の見て言ってます?」


「前なら立ったまま直そうとしてた」


褒められた気がしない。


でも、たぶん褒められた。


俺は座り直した。


しばらくして、波が少し落ち着いた。


俺は後ろの樽を見た。


三つとも縄は緩んでいない。


「最後の一樽、待たなくてよかったんですか」


今さらの質問だった。


ゴルは前を見たまま答えた。


「良かったかは荷主が決める。俺が決めたのは、三つを今日出すか、四つをいつ出せるか分からん方に賭けるかだ」


「四つ全部を運ぶ方が、仕事としては成功じゃないんですか」


「四つ積んで潮外して、港へ戻ったら成功か?」


返せなかった。


ゴルは少し間を置いてから続けた。


「積めるだけ積むのと、運び切るのは別だ。俺は舟を出す方の責任持ってる。荷主は四つそろえる方の責任持ってる。だから揉める」


「仲悪いんです?」


「普通だ」


その答えで少し笑った。


揉めることが失敗じゃない。


違う責任を持っていれば、同じ荷物でも優先するものが違う。


俺は前世で、全員が同じ目的を見ているつもりで話を進めて、後から崩れたことを思い出した。


今の俺は、三つの樽を無事に北へ運ぶ側にいる。


四つ目を惜しむ側ではない。


海の上では、同じ舟でも積んでいるものが変われば動きが変わる。


同じ港でも、昨日と今日で入れる瞬間が変わる。


潮入浦に粉がある。


その事実だけなら簡単だった。


それを北へ運ぶとなった瞬間、簡単ではなくなる。


舟は三つの樽を載せて、北へ向かった。


積めなかった一つを、岸に残したまま。


第270話 粉があることより、帰れる日がずれる方が困った

【本文】


鴎泊へ戻った時、最初に見えたのはティムだった。


その前に、俺は三つの樽を下ろした。


舟から岸へ渡すだけなのに、最後の一つで腕が重くなる。


船の上で踏ん張っていた脚も、陸へ戻った途端に妙なところが張っていた。


ゴルが樽を受け取る男へ何か短く話し、俺の方を見た。


「次乗るなら、今日より荷が軽いと思うなよ」


「次がある前提です?」


「お前が決めることじゃないだろ」


最後までそれだった。


俺は笑って頭を下げた。


桟橋の手前では、ティムが空の魚籠を積み直している。


俺を見つけると、持っていた籠をその場に置いた。


「遅い。昨日帰るって聞いてた」


「俺もそのつもりだった」


「で?」


ティムが近づいてくる。


「粉あった?」


「あった」


「いくら?」


「知らない」


ティムが止まった。


「……え?」


「値段は聞いてない」


「潮入浦まで行って?」


「行って」


「粉を見て?」


「見て」


「値段聞かずに帰ってきたの?」


言いながら、ティムの顔がだんだん笑いそうになっていく。


「笑うなら笑えよ」


「いや、だって。俺が残ったの、そういうのも見てくるためだと思ってたから」


「店があるか見るため。買う判断はしないって決めただろ」


「決めたけどさ。目の前に値段あるのに聞かないの、逆に難しくない?」


それは少し分かる。


俺も聞きたかった。


「難しかった。だから帰ってきた」


ティムはとうとう笑った。


「変な真面目さ増えたなあ」


「海で一泊した感想がそれか」


「一泊したの?」


そこでやっと、ティムの顔から笑いが消えた。


「帰れなかった?」


「樽待ち。今朝は四つ目を待たずに三つだけ積んで出た」


「なんで待たなかったの?」


「潮を逃すから」


ティムは魚籠を持ち直しながら、少し考えた。


「じゃあ、粉が買えても、持って帰る舟が『明日帰る』とは限らない?」


「少なくとも、俺が乗った一回はそうだった」


「一回だけね」


言い直した。


前なら、そこで「潮入浦便は遅れる」と大きくしていたかもしれない。


「そう。一回だけ」


俺たちはそのまま受取場へ戻った。


ティムは歩きながら昨日のことを話した。


東河港から新しい便は来ていない。


石窯へ出した分は予定通り。


炭窯から急に人数が増えたわけでもない。


つまり、俺が一晩遅れた間に北方が飢え始めたわけではない。


受取場では、マルクが袋の底を確かめていた。


ゼンは板を一枚削り直している。


俺を見るなり、マルクが言った。


「帰ったか。まず荷置け。話はそのあと」


ティムが横から笑う。


「値段、聞いてないって」


「お前は先にそれ言うのやめろ」


マルクが手を止める。


「何の値段だ」


「潮入浦の粉」


「粉はあったのか」


「あった。小麦粉を量って売ってる店は見た。昨日は見えるところに二袋。毎日あるとは言わないって。麦のままは、その店では扱ってない」


マルクはすぐに返事をしなかった。


袋を一つ起こし、底を手で押してから言う。


「二袋見えた、だけな」


「はい。売れる残りが二袋か、予約分かも分からない」


「なら、そこはまだ数に入れん」


ゼンが削っていた板を置いた。


「帰りが一日延びた理由は?」


「積荷待ちです。今朝は四樽の予定が三樽しか来てなくて、最後を待つと潮を逃すから三つで出た」


ゼンの手が止まる。


「帰着時刻を先に固定できない?」


「俺が乗った便では、できなかったです。風と潮と積荷を見て決めてた」


「毎回?」


「そこまでは知りません」


ゼンが頷く。


それ以上は書かなかった。


マルクが粉袋から手を離す。


「値段聞かなかったのは、まあいい」


ティムが小さく吹き出した。


マルクがそっちを見る。


「何がおかしい」


「いや。俺は絶対怒られると思ってた」


「買う量も決めてないのに値段だけ聞いて、安い高い言ってもしょうがないだろ」


マルクはそう言ってから、少し考えた。


「ただ、粉があるだけじゃ足りんな。北へ使うなら、何袋出せるか。持って帰る舟に何袋載るか。帰りがどのくらいずれるか。その辺のどれかは次に要る」


「どれから?」


俺が聞く。


マルクは即答しなかった。


受取場の奥を見て、今ある袋を数える。


それから入口の外を見た。


東河港から次の荷駄が来る道だ。


「今日決めんでいい。次の便が来るか、こっちの減りが先か見てからだ」


ティムが俺を見る。


「じゃあ次は、俺も潮入浦行ける?」


「そこから?」


「だって一席しかなかったじゃん。次は二席かもしれない」


「船次第だろ」


俺が言うと、ティムは不満そうに口を曲げた。


「それ、ゴルさんみたいな言い方になってる」


少し嫌だった。


でも、否定はできなかった。


ゼンの板には、三行だけ増えた。


《潮入浦 小麦粉取扱あり/常時量不明》


《帰路 潮・積荷で予定変動あり》


《次確認 北方在庫・東河港次便を見て決定》


粉はあった。


港にも入れた。


帰っても来られた。


それでも、まだ「使える食料路」とは言えない。


前なら、できたことを足して道にしていた。


今は、できなかったことや、ずれた時間まで一緒に持ち帰る。


その方が遅い。


でも、次に同じ道を使う人間には、その遅さの方が役に立つ気がした。


第271話 次の東河港便は、七袋ちゃんと来た

【本文】


翌日の昼を過ぎても、受取場の前は静かだった。


だからといって、誰も潮入浦へ行く準備はしていない。


マルクは残っている袋の口を見て、石窯へ回す分を二つ脇へ出した。ゼンは板の数字を消さず、ティムは空袋を畳んでいる。


俺だけが、何となく入口の外を気にしていた。


「さっきから道ばっかり見てるね」


ティムが空袋を膝で押さえながら言う。


「見てない」


「今も見た」


「音がした気がしただけ」


「来てほしいの、東河港? 潮入浦?」


答えに少し詰まった。


どっちでもいい、と言えば嘘になる。


潮入浦まで行って、粉があるところまで確かめた。帰りが一日ずれることも知った。あれだけ手間をかけた以上、次に何か起きるなら海の方だと思っていたところはある。


でも、それは北の食料とは別の話だ。


「麦が来るなら東河港でいいだろ」


「真面目」


「お前が聞いたんだろ」


その時、本当に音がした。


鈴ではない。


荷車の車輪が、乾いた石を踏む音だった。


ティムが立ち上がる。


「今のは俺も聞いた」


受取場の前へ出ると、坂の向こうから荷車が一台上がってきた。


荷台には麦袋。


俺とティムは、ほぼ同時に数え始めた。


一、二、三。


前より少ないとか多いとか考える前に、最後まで数える。


七つ。


荷車を引いてきた男が、こちらの顔を見て先に言った。


「七。今日は七だ。数え直しても七だぞ」


ティムが口を閉じた。


「前にも誰か数え直した?」


「お前らみたいな顔するやつは大体やる」


また顔だった。


マルクが出てくる。


「東河港?」


「そう。七袋。次はまだ聞いてない」


「麦そのものは?」


「港にはある。北向けがいつまとまるかは俺の仕事じゃない」


前回と、ほとんど同じ答えだった。


違うのは袋の数だけだ。


マルクは頷いて、俺たちへ指を二本立てた。


「一袋ずつ行くな。二人で持て。今日は急ぐ理由ない」


「七袋来たのに?」


ティムが聞く。


「七袋来たからだよ」


意味が分からなかったらしい。


ティムは袋の端を掴んだまま、マルクを見る。


マルクはもう反対側へ回っていた俺の手元を見て言った。


「来なきゃ急ぐ。来たなら落とすな。ほら持て」


一袋目を運ぶ。


陸の荷は、やっぱり楽だった。


重いけれど、床が逃げない。


二袋目でティムが笑う。


「レン、海から帰ってから麦袋好きになってない?」


「好きじゃない。信用できるだけ」


「袋を?」


「地面を」


荷を運んできた男が吹き出した。


七袋を全部入れ終える頃には、額に汗が浮いていた。


最後の一袋だけ、マルクがすぐ壁へ寄せなかった。


口の縄をほどき、指を中へ差し入れる。


ティムが覗き込む。


「悪い?」


「見てる」


「何を?」


「匂いと湿り」


マルクは麦を数粒掌へ出して潰した。


「問題なさそうだな」


荷を運んできた男が水を一口飲みながら言う。


「七って数だけ合ってても、中で駄目になってたら七じゃないからな」


ティムが袋を見る。


「じゃあ板に書くの、数だけでいいの?」


ゼンが答える前に、マルクが縄を締め直した。


「変なものがあれば書く。普通だったことまで全部書いてたら壁が先になくなる」


ゼンは否定しなかった。


記録することと、全部を書くことも同じじゃないらしい。


Lv3の身体は、海へ一度行ったくらいで強くなってはいない。


腕も腰も普通に重い。


ゼンは板へ一行だけ足した。


《東河港 七袋実着》


その下の《次便量・日 未定》は消さない。


ティムが板を見てから聞いた。


「じゃあ、潮入浦は?」


マルクが袋の一つを足先で軽く押し、傾きがないのを確かめる。


「今日行く理由はない」


「もう行かない?」


「誰がそんなこと言った」


ティムが眉を寄せる。


「今日行かないと、もう行かないは違う?」


「全然違う」


俺が答えると、マルクがこっちを見る。


「海帰りが言うと説得力あるな」


「一泊しただけです」


「予定より長かっただろ」


それはそうだった。


潮入浦に粉はある。


でも今日、北には東河港から七袋来た。


なら今すぐ海へ走る理由は消えた。


それだけだ。


受取場の外では、荷車を引いてきた男が車輪に挟まった小石を靴先で蹴り出していた。


ティムが空になった荷縄をまとめながら、まだ少し残念そうに言う。


「せっかく次、俺も舟乗れるかもしれなかったのに」


「目的変わってるぞ」


「半分くらいは最初からこれ」


「言うなよ」


マルクが笑った。


その日の地図には、何も増えなかった。


代わりに袋が七つ増えた。


たぶん、北で暮らすっていうのは、こういう日の方が多い。


第272話 俺たちが調べている間に、誰かはもう一袋運んでいた

【本文】


東河港の七袋が来た二日後、潮入浦の話は本当に止まっていた。


板にも地図にも、新しい文字は増えていない。


朝は挽き場で粉袋を移し、昼前には石窯へ二袋運んだ。


その帰りだった。


鴎泊の方から、ハナが坂を上がってくる。


今日は魚籠も縄も持っていない。


その代わり、片手を振った。


「二人、今ひま?」


ティムが俺を見る。


俺もティムを見る。


「ひまって言ったら何運ぶ?」


ティムが警戒して聞いた。


ハナは少し考えた。


「樽二つ。塩袋三つ。あと雑なのいくつか」


「雑なのって何」


「見れば分かる」


分からないやつだ。


鴎泊へ下りると、小舟が一艘入っていた。


ゴルの舟ではない。


船首が少し広く、底も前に乗った舟より深い。


荷はばらばらだった。


小さな樽が二つ。


塩の袋が三つ。


束ねた細い木材。


布包み。


それから、麦袋より少し小さい白っぽい袋が一つ。


「ほんとに雑だ」


ティムが言う。


ハナは樽を指した。


「感想いいから、重いの先」


俺とティムで一つ目を持つ。


中身は液体らしく、少し傾けるだけで重さが遅れて動いた。


「うわ、これ嫌だ」


ティムがすぐ言う。


「魚籠よりましだろ」


「魚は中で全部一緒に右へ行かない」


確かに、樽の中身が寄ると一瞬だけ持ち手へ重さが来る。


ハナが後ろから言った。


「喋る余裕あるなら段差見て」


二人とも黙った。


樽を浜へ置く。


二つ目も同じ。


次に塩袋。


これは普通の袋に近い。


ティムが一つ抱え、俺も一つ持つ。


三つ目をハナが肩へ上げた。


舟に残ったのは、細木と布包みと白い袋。


船頭が荷札を見ながら言う。


「細木は網小屋。布は宿。粉は浜端の煮炊き屋」


俺の手が止まった。


ティムも止まる。


ハナだけが普通に白い袋を見た。


「粉、濡れてない?」


「上に積んでたから平気だ」


俺は船頭へ聞いた。


「その粉、どこからです?」


船頭は俺を見る。


「潮入浦」


あまりに普通に返ってきた。


ティムが白い袋と俺の顔を交互に見る。


「潮入浦?」


「そうだけど」


「これ、ここまで持ってきたの?」


船頭が笑う。


「舟に乗ってるんだから、そうだろ」


言い方は正しい。


俺たちは潮入浦に粉があるか確かめるために、一席を使って行った。


帰りは一日ずれた。


値段も聞かずに戻ってきた。


その間に、別の誰かは粉を一袋、普通の荷物として鴎泊まで運ばせていた。


「誰が頼んだんです?」


俺が聞くと、ハナが先に白い袋の下へ手を入れた。


「それ今必要?」


「あ」


「先に下ろす。粉、濡らしたらその人に怒られるよ」


また順番を間違えた。


俺は反対側を持つ。


一袋だけなら、二人で十分だった。


ただ、粉は魚や塩みたいに濡れても洗えばいい荷じゃない。


俺が浜側へ降りようとすると、ハナが足元の濡れた板を指した。


「そっち滑る。粉持ってる時に初めての足場試さないで」


「じゃあどこ?」


「一歩戻って、乾いてる方」


ティムが袋の向こうで笑う。


「海から帰ったのに、まだ陸でも止められてる」


「お前も持ってるんだから笑うな」


二人で一度戻り、乾いた板へ足を置き直した。


舟から浜へ。


浜から板の上へ。


袋を下ろした時、俺は口の結びを見る。


青い細紐が二重に回っている。


潮入浦の粉屋で見た袋も、たしか似た結びだった。


でも、それだけなら同じとは言えない。


今は船頭本人が潮入浦と言った。


それで十分だ。


ティムがしゃがみ込んで袋を見る。


「俺らより先に運んでる人いたんだ」


「先かどうかは知らないだろ」


「でも俺らは運んでない」


それはそうだった。


ハナが細木を肩へ乗せながら言う。


「何の競争してるの」


「してない」


俺とティムがほぼ同時に答えた。


ハナが笑う。


「してる人の返事だね」


船頭は荷札を畳み、白い粉袋を顎で示した。


「それ、煮炊き屋の婆さんが前に頼んでたやつ。次に潮入浦寄ったら、一袋あれば持ってきてって」


俺は聞き返す。


「日を決めて?」


「決めてない。俺が行く日も決めてないし」


「一袋だけ?」


「頼まれたのは一袋。二袋頼まれても、今日の荷ならたぶん一袋だな」


船頭は樽があった場所を見る。


「帰りに空いてりゃ乗せる。空いてなきゃ次。そういう荷」


それ以上聞く前に、ハナが浜の上を指した。


「煮炊き屋、持ってくよ。日陰に置いといても邪魔になる」


また仕事が先だった。


俺とティムで袋を持ち上げる。


Lv3の腕には、普通に重い。


でもその重さより、今は別のものが気になった。


潮入浦から鴎泊へ、粉一袋。


専用の便じゃない。


決まった日でもない。


誰かが頼んで、舟に空きがあった時に乗ってきた。


俺たちが地図に線を引く前から、世界の方では小さな荷物がもう動いていた。


第273話 海路は、最初から一本の線じゃなかった

【本文】


粉袋を運ぶ先は、浜から坂を少し上がったところにある煮炊き屋だった。


店先に大鍋が二つ並び、昼を過ぎても湯気が出ている。


中から年配の女が顔を出した。


「やっと来た?」


船頭が後ろから言う。


「やっとって言うほど待たせてないだろ」


「頼んだの五日前だよ」


「五日前に『次に行ったら』って言っただろ。次が今日だった」


女は口を開きかけて、少し考えた。


「……まあ、それはそうか」


怒っているのかと思ったら、あっさり引いた。


俺とティムは袋を店の中へ運ぶ。


「そこじゃない、こっち。火から離して」


女が床の端を指す。


粉袋を置くと、腰が少し楽になった。


ティムが聞く。


「粉、なくなってたんですか?」


女は袋の口を触りながら首を振る。


「まだ少しあるよ。なくなってから頼んだら、いつ来るか分からないじゃない」


「じゃあ五日前に頼んだのは、減ってきたから?」


「そう。こっちは毎日パン焼く店じゃないし、粥に入れたり、とろみつけたり、たまに焼いたり。絶対この日に必要ってもんでもない」


ティムは納得した顔をした。


俺は、潮入浦で見た二袋を思い出した。


あの時、値段も量も聞かなかった。


でもこの一袋は、俺たちが知らないところで普通に買われて、普通に運ばれてきた。


「運ぶの、毎回この船頭さんなんですか?」


俺が聞く。


女は船頭を見る。


「この人の時もあるし、別の人に頼む時もある。潮入浦へ行くって聞いた人に、ついでに頼むだけ」


船頭が鼻で笑う。


「俺を荷車みたいに言うな」


「荷車より予定読めないけどね」


「海に言え」


女は粉袋の横に置いてあった小さな木箱を開けた。


中にはまだ粉が少し残っている。


底が見えるほどではない。


本当に、なくなる前に頼んだらしい。


俺は聞いた。


「運び賃は?」


女がこっちを見る。


一瞬だけ、ティムが笑いそうになった。


前回、値段を聞かなかった俺を思い出したんだろう。


「今日はそれ聞くんだ」


小声で言う。


「今日は運ぶ仕組みを見る話だからな」


「言い訳が上手くなった」


女は俺たちのやり取りを聞いていた。


「何、粉買いたいの?」


「北で使えるか見てます。まだ買うとは決めてません」


「変な子たちだねえ」


また言われた。


船頭が笑う。


「こいつ、潮入浦まで行って粉の値段聞かずに帰ったらしいぞ」


「ゴルさんから聞いたんですか?」


「港で聞いた」


もう広がっていた。


ティムがとうとう声を出して笑う。


「有名になってる」


「そこだけ広めるなよ」


女は笑いながら、指を二本立てた。


「運び賃は銅貨二枚。今日はね」


俺は聞き返した。


「今日は?」


「大きい荷が多い時は断られる。別の舟だと違う。急ぎで頼むなら、もっと取る人もいる。私は急がないから、空いた時でいいって頼んだ」


船頭が付け足す。


「一袋なら邪魔にならない時がある。二袋、三袋になると話は別。水樽や塩や魚が先に決まってたら載らん」


俺はそこで口を閉じた。


聞きたいことはまだある。


一度に何袋まで。


潮入浦側では、どこで頼めばいいのか。


誰が金を払うのか。


濡れた時はどうするのか。


でも今聞いたのは、一袋がどうやってここまで来たかだ。


それなら、もう十分だった。


帰り道、ティムが妙に静かだった。


俺が見ると、考えている顔をしている。


「何?」


「俺ら、道作ろうとしてたじゃん」


「うん」


「でも今のって、道ないのに来たよね」


少し考える。


「線がないだけで、人は行き来してるんだろ」


「じゃあ海路って、最初に線引くんじゃなくて、こういう一袋とかが増えたら線になるのかな」


俺はすぐには答えなかった。


前の人生の俺なら、たぶん先に道を決めていた。


ここからここまで。


誰が通る。


何を運ぶ。


何日に一回。


決めてから、人を乗せようとした。


でも海では、先に一袋が来ていた。


その前には魚籠が動いていた。


その前には樽が三つ動いた。


全部、同じ目的じゃない。


同じ舟ですらない。


「分からない」


俺は言った。


ティムがこっちを見る。


「珍しい」


「うるさい。まだ一袋だろ」


「でも一袋は来た」


「それはそう」


受取場へ戻ると、マルクは七袋のうち一つを開けて中身を確認していた。


ゼンは板の前にいる。


俺は今日のことを話した。


潮入浦から粉一袋。


鴎泊の煮炊き屋が、潮入浦へ寄る船頭へ事前に頼んでいた。


日指定なし。


空きがある時だけ。


今回の運び賃は銅貨二枚。


一袋なら載ることがあるが、荷次第で断られる。


マルクは粉袋から手を離した。


「うちが何もしなくても、一袋は来てたか」


「はい」


「面白いな」


その言い方が意外だった。


ゼンは板へ書く前に確認する。


「その一袋が潮入浦発なのは、船頭本人から聞いた?」


「聞いた。受取側も潮入浦へ寄る人に頼むって言ってた」


「運賃二枚は今回だけ?」


「今回だけ。別の舟や急ぎなら違うって」


ゼンが頷く。


板にはこう書いた。


《他者実績:潮入浦の粉一袋→鴎泊》


《自然便の空き積載/日指定なし》


《今回運び賃:銅貨二枚/恒常値ではない》


ティムが板を見てから、地図へ目を移した。


「線、引く?」


俺も地図を見る。


潮入浦の点。


鴎泊の場所。


その間は、まだ空白だ。


「まだ」


ティムは今度、すぐには不満そうな顔をしなかった。


「一袋じゃ?」


「一袋だから」


「じゃあ二袋なら?」


「知らない」


「三袋?」


「お前、線引きたいだけだろ」


ばれた。


ティムが笑う。


マルクは俺たちを見ずに言った。


「線はどうでもいい。次に北の袋が減った時、選べる手が一個増えたならそれでいい」


その言葉で、少しだけ見え方が変わった。


海路は、最初から一本の線として現れるんじゃないのかもしれない。


誰かの魚籠。


誰かの樽。


誰かの粉一袋。


別々の用事が、同じ海の上で少しずつ重なる。


その重なりを、使える形にできるかどうか。


俺たちが次に確かめるのは、たぶんそこだった。


ただし、今日じゃない。


受取場には東河港から来た七袋が、まだちゃんと積んであった。


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