第262話 十袋来た次の便は、六袋しかなかった
【本文】
翌朝、受取場へ着くと、入口の前に麦袋が並んでいた。
六つ。
俺は一度数えて、もう一度数えた。
増えなかった。
ティムも同じことをしたらしい。
「……六だよね」
「六だな」
「前、十じゃなかった?」
荷を運んできた男が、肩から縄を外しながらこっちを見た。
「前は十。今日は六。数が違うと困るか?」
「いや、違うから聞いただけ」
ティムはすぐ手を出した。
一番端の袋を抱えようとして、持ち上げる前に俺を見る。
「これ、二人?」
「二人」
昨日まで舟の上で魚籠を持っていたせいか、麦袋の方が妙に安心する。
床が動かない。
袋も急に離れていかない。
二人で持ち上げ、受取場の奥へ運ぶ。
マルクは袋を数えながら、運んできた男へ聞いた。
「次は?」
「決まってない。東河港で北向けにまとまったのが今日はこれだけだ」
「荷がない?」
「麦がないんじゃない。南へ出す分もあるし、他の買い手もいる。次にこっちへ何袋まとまるかは俺は知らん」
それだけ言って、男は空になった荷縄を畳み始めた。
ティムが俺の横で小声になる。
「十から六って、減ったよね」
マルクに聞こえた。
「何が減った」
「袋」
「前の便と比べりゃな。でも十袋来る約束だったのに六になったわけじゃない」
ティムは少し考えた。
「……今回は六袋来た、が正しい?」
「そう。勝手に四袋なくすな」
マルクらしい言い方だった。
俺たちは残りも運ぶ。
三袋目から、腕より腰に来た。
前世なら、荷を持つ姿勢なんて考えもしなかった。
今はLv3の身体だ。
知っている持ち方と、長く持てる身体は同じじゃない。
四袋目で俺が持ち直すと、ティムが気づいた。
「右、疲れてる?」
「昨日の肩じゃなくて、普通に重い」
「それなら安心した」
「何が」
「怪我じゃないなら俺も重いって言える」
「先に言えよ」
二人で笑って、いったん袋を下ろした。
マルクは急かさなかった。
代わりに、置く場所だけ指した。
「そこ。粉に回す二つは手前。残りは壁側」
「全部まとめないの?」
ティムが聞く。
「今日使うやつを奥に入れて、明日また全部出すの嫌だろ」
「それは嫌」
「なら分けろ」
最後の袋は、口の結びが少し緩かった。
ティムがそのまま壁へ寄せようとすると、運んできた男が「待て」と呼んだ。
縄をほどくほどではない。結び目を一度押さえ、袋の首をひねってから締め直す。
「中身こぼれた?」
ティムが聞く。
「こぼれてない。だから今直すんだ」
男は結び目を二度引いてから手を離した。
俺も真似して触ってみたが、最初との違いがよく分からない。
「見ただけで分かる?」
「運んでる途中に緩むと音が変わる。あと首が寝る」
ティムが袋の首を見る。
「寝る?」
「今日は覚えなくていい。お前らは落とさず奥へ入れろ」
全部教えてくれるわけじゃなかった。
でも、その方が仕事の人らしかった。
最後の袋を置いたところで、ゼンが来た。
「東河港?」
「六」
マルクが答える。
ゼンは前回の板を見た。
そこには十袋実着とだけ残っている。
「次便は?」
「未定」
運んできた男が、自分の荷縄を肩へ掛けながら補った。
「東河港に麦はある。ただ、北向けに次いつまとまるかは知らん。明日ってことはないと思うが、それ以上は俺に聞くな」
「分かった」
ゼンは一行だけ足した。
《今回 六袋実着》
《次便量・日 未定》
ティムがそれを見て、俺に言う。
「十、六って来ると、次は八くらい?」
「何で平均取った」
「なんとなく」
ゼンが筆を置いた。
「その『なんとなく』で飯を数えるな」
ティムは口を閉じた。
でも、俺も似たことを考えていた。
前回十袋来たから、次も同じくらい来る。
東河港から一度届いたから、これからも届く。
何となく、そういう線を頭の中で引きかけていた。
六袋は少なく見える。
ただ、本当に問題なのは数が減ったことじゃない。
次が、まだ決まっていないことだった。
マルクは手前へ置いた二袋を叩いた。
「レン、ティム。これ挽き場へ。終わったら石窯の残りも見てきて」
ティムがすぐ聞く。
「足りない?」
「それを今から見るんだよ」
六袋を見ただけでは、まだ何も足りなくなっていなかった。
第263話 足りないのは今日じゃなく、次の便が遅れた時だった
【本文】
挽き場へ二袋を運んだあと、俺たちは石窯へ向かった。
手ぶらではない。
空袋を三つと、粉を量る木枠を持たされている。
ティムが木枠を肩へ掛けた。
「残りを見るだけじゃないの?」
「マルクが『ついでに戻せ』って」
「ついで多くない?」
「仕事ってだいたいそうじゃない?」
「冒険は?」
「昨日しただろ。舟二艘の間で」
ティムは少し考えた。
「……あれ、冒険だったのかな」
「少なくとも俺の足には冒険だった」
石窯へ着くと、昼の焼きに入る前だった。
炉の近くは暑い。
粉を練っていた女が、俺たちを見るなり木枠を指した。
「それ、こっち。空袋は壁」
名前を聞くより先に仕事が決まった。
木枠を置き、空袋を重ねる。
ティムが麦の残りを聞こうとしたが、女は粉だらけの両手を見せた。
「ちょっと待って。今これ触ったら全部くっつく」
俺たちは待った。
待っている間に、石窯の中を見回す。
麦袋は二つ。
一つは口が閉じている。
もう一つは半分より少し多いくらい。
その横に、粉を入れた桶が二つある。
ティムが小声で言う。
「数えていい?」
「見えてる分なら」
「袋二つ、粉二桶」
「桶は袋と同じ量じゃないぞ」
「分かってる。今、言っただけ」
前なら、そこで勝手に換算していたかもしれない。
女が手を洗って戻ってきた。
「何、在庫見に来たの?」
「東河港から今日六袋来ました。次がまだ決まってないって」
俺が答えると、女は閉じた袋ではなく、粉桶の方を見た。
「今日明日は困らないよ。明日の朝まではこっちの粉で回す。そのあと新しいのを挽いてもらえばいい」
ティムが聞く。
「何日くらい?」
「今の人数なら、ここだけで四日か五日。急に人が増えなきゃね」
「四か五」
「ぴったり欲しいならマルクに聞いて。私は焼く方」
その言い方で、数字の意味が少し分かった。
四日と五日の間に、間違いがあるわけじゃない。
食べる人数も、一日に焼く量も動く。
石窯を出る前に、女が思い出したように言った。
「炭窯の連中、今朝二人こっちで食べてったよ。道が止まってるから泊まってるやついるでしょ。そういうの続くなら、減りは少し早い」
昨日までなら、炭窯支道の話をすぐ前へ出していたかもしれない。
今日は違った。
道を直す話じゃない。
食べる人数が一時的に増えているという話だ。
受取場へ戻ると、マルクは粉袋を数えていた。
「石窯は?」
「今日明日は問題なし。今の人数なら四、五日くらい。ただ炭窯から食べに来てる人が続けば早まるかも」
「炭窯は?」
「見てない」
マルクがこっちを見る。
「見てないのに足すなよ」
「足してないです」
「ならいい」
ティムが笑った。
「最近それ多いね」
「お前らが勝手に未来作るからだ」
そこへゼンが来た。
受取場の残り、挽き場へ回した分、石窯の話。
マルクと二人で確認する。
数字を並べるというより、袋を実際に指しながら話した。
「今日、食事を減らす必要はない」
ゼンが言う。
マルクが頷く。
「次が数日で来れば何も起きん」
「来なかったら?」
ティムが聞く。
マルクはすぐ答えなかった。
壁側の四袋を見る。
「石窯へ回す。炭窯にも要る。受取場で抱えたままにはできん。七日、八日と空くなら、その前に別を考える」
「別って?」
「近場で買える分。麦じゃなくても食えるもの。あと――」
マルクの目が、一瞬だけ壁の地図へ向いた。
潮入浦の点がある。
ティムも気づいた。
「海?」
「海で麦が買えるなんて誰も確認してない」
「でも港なんでしょ」
「港なら麦が湧くのか?」
「湧かない」
「じゃあ、まず売ってるかだ」
俺は地図を見る。
三人が知っている港。
浅い入口。
小舟は潮を待つ。
右の黒い割れ岩。
点は前より濃くなった。
でも、北方の食料に使えるかは一度も確認していない。
「行く?」
ティムが聞いた。
マルクが先に言う。
「船を雇って見に行くほど困ってない」
「じゃあ行かない?」
「勝手に二択にするな」
マルクは袋の口を結び直した。
「自然に向こうへ行く舟があるなら、乗せてもらえるか聞く価値はある。なければ今は東河港を待つ。今日の飯はあるんだからな」
それだった。
潮入浦は、行きたい場所じゃなくなった。
必要になるかもしれない場所になった。
違いは小さいようで、大きかった。
第264話 一人分だけ、潮入浦へ行く舟が空いていた
【本文】
鴎泊へ下りたのは、その日の午後だった。
船を出してもらうためじゃない。
誰かが、もともと潮入浦へ行く予定を持っているか聞くためだ。
ハナは干し場で魚を裏返していた。
俺たちを見ると、手を止めずに言う。
「今日は籠ないよ」
ティムが答える。
「今日は籠じゃない」
「じゃあ網?」
「船」
そこでハナの手が止まった。
「船はあるけど、全部誰かの仕事中」
「潮入浦へ行く船、ある?」
ティムが聞くと、ハナは魚を一枚返してから顔を上げた。
「何で?」
俺が説明した。
東河港から今回は六袋。
次便は未定。
今日明日の食料は足りる。
でも次が長く空くなら、別の入手先が使えるか知っておきたい。
ハナは最後まで聞いた。
「麦を買いに行くの?」
「まだ。売ってるかも知らない」
「じゃあ市場見に行く?」
「それも、自然に行く舟があれば」
ハナは少し考え、干し場の奥を指した。
「夕方まで待てる?」
「何かある?」
「今日、塩桶を持ってきた舟が一艘いる。帰りに潮入浦へ寄るって朝言ってた気がする」
ティムの目が一気に明るくなった。
ハナはすぐ続けた。
「『気がする』だからね。私が聞いたのは、船頭が塩屋と話してた途中だけ。行き先も今日のままか知らない」
ティムの顔の明るさが少し戻った。
「確認してから喜ぶ」
「えらい」
「最近よく褒められる」
「前がひどかったんじゃない?」
「そこまで言ってない」
夕方まで、俺たちは干し場を手伝った。
魚を裏返す。
縄を張り直す。
空いた桶を洗う。
潮入浦の話をしに来たはずなのに、ほとんど魚を触っていた。
でも、それでいい気がした。
港で待つというのは、何もしないで立っていることじゃない。
日が少し傾いた頃、沖から帆の低い小舟が入ってきた。
昨日の船頭ではない。
船首に塩の白い跡が残っている。
舟には空になった桶が何本か積まれていた。
ハナが浜から声をかける。
「ゴル、帰り潮入浦?」
船頭は舟を寄せながら答えた。
「寄る。風変わらなきゃな」
ティムが俺の袖を引いた。
確認できた。
でも、ハナはすぐ俺たちを前へ出さなかった。
船が浜へ触れる。
桶を二本下ろす。
縄を取る。
船頭が自分の仕事を終えるまで待つ。
そのあとで、ハナが言った。
「この二人、潮入浦へ乗れないかって」
船頭――ゴルは俺たちを見た。
頭から足までというより、荷物を探している目だった。
「何積む?」
「今は何も」
俺が答える。
「港を見たい。麦とか粉を扱うところがあるか、それだけ確認したいです」
「買うんじゃない?」
「今日買うとは決めてません」
ゴルは舟を振り返った。
空桶。
縄。
小さな樽。
船尾に積んだ袋。
「二人は無理だな」
ティムが俺より早く聞く。
「一人なら?」
「一人なら、仕事の邪魔しないなら乗る場所はある」
俺たちは黙った。
本当に一人分だった。
「今日出る?」
俺が聞く。
ゴルは空を見た。
「いや。朝だ。今出たら向こうの入口で夜になる。俺は暗い時にあそこ入りたくない」
第261話で聞いた話が、別の船頭の口から少し違う形で出てきた。
待って入る港。
暗い時には入りたくない。
同じ意味かはまだ分からない。
ティムが聞く。
「帰りは?」
「明日戻るとは言わん。荷がまとまれば戻るし、まとまらなきゃ一晩余計にいる」
「何日?」
「二日で戻るつもり。つもりな」
ゴルはそこで俺たちを見た。
「泊まる金と飯は自分で持て。向こうで俺が面倒見る話じゃないぞ」
ハナが横から言う。
「普通だよ。泊まるなら、自分の飯くらい自分で持つ」
「分かってる」
俺が答えると、ハナは首を横へ振った。
「レンじゃなくて、ティムに言った」
ティムが自分を指す。
「俺? 何で」
ハナは少し笑った。
「今の顔。何も持たずに乗りそうだった」
「また顔で決めた!」
ゴルが笑った。
「元気な方は置いてけ。舟がうるさくなる」
「それ選考理由としてどうなの」
冗談みたいに聞こえた。
でも、一人しか乗れないのは本当だった。
俺は舟を見る。
潮入浦へ行くためだけに雇った船じゃない。
もともと明日の朝、向こうへ行く船。
北方の食料は今日なくならない。
東河港の次便も、来ないと決まったわけじゃない。
潮入浦に麦がある保証もない。
それでも今なら、一人だけ現地を見に行ける。
ティムも同じことを考えているらしく、さっきまでの軽口をやめていた。
「戻って、マルクたちに話そう」
俺が言う。
ティムは少し間を置いて頷いた。
「うん。先に決めない方がいい」
ハナが魚の入った桶を持ち上げる。
「決まったら朝までに来て。ゴル、潮待ってくれないから」
船頭が鼻で笑った。
「潮は俺も待たん。出られる時に出る」
一人分だけ。
今まで地図の点だった場所へ、初めて現実の席が一つ空いた。
乗るかどうかは、まだ決めていなかった。
第265話 一席に乗るのは、俺になった
【本文】
受取場へ戻った時には、外はもう暗くなり始めていた。
ティムは扉を開けるなり、マルクへ言った。
「一人なら乗れる」
マルクは麦袋の口を縛っていた手を止めなかった。
「何に」
「潮入浦へ行く舟。明日の朝。もともと向こうへ寄る舟で、一人なら空いてるって」
「誰の舟だ」
「ゴルって船頭」
俺が続ける。
「帰りは二日くらいのつもりだそうです。ただ、向こうで荷がまとまらなければ延びる。風が変われば、朝の出航自体も変わるって」
そこでやっとマルクが顔を上げた。
「で、お前らはもうどっちが行くか決めたのか」
ティムが首を横に振る。
「決めてない。先に戻れってレンが」
「珍しく正しい」
「最近俺の評価、前提が低すぎない?」
「積み上げたのはお前だろ」
言いながら、マルクは結び終えた袋を壁へ寄せた。
ゼンも奥から出てきた。
俺たちの話を最初から聞いていたわけではないらしく、板を一枚持ったまま止まる。
「何が一人だ」
今度は、ティムが少しゆっくり説明した。
東河港から今回は六袋。
次便は未定。
石窯は今日明日で困っていない。
潮入浦で麦や粉を扱っているかはまだ誰も確認していない。
明朝、もともと潮入浦へ寄る小舟があり、一人だけ乗れる。
途中でマルクが一度だけ口を挟んだ。
「『六袋しか来なかった』じゃない。『今回は六袋来た』だ」
ティムは言い直した。
「今回は六袋来た。次は未定」
ゼンは頷いた。
「それで、一人を何しに行かせる」
俺は地図の潮入浦の点を見る。
聞きたいことは増やせる。
入口の岩。
潮の時間。
泊まる場所。
帰りの船。
値段。
どれだけ買えるか。
どこから来る麦なのか。
でも、今の北方に必要なのは全部じゃない。
「麦か粉を、本当に扱う場所があるか。それを見に行く」
俺が言うと、マルクが地図からこっちへ視線を戻した。
「買うのは?」
「まだ決めない。あっても量も値段も分からないし、東河港の次が来るかもしれない」
「ならそれでいい」
ティムが少し身を乗り出す。
「で、どっち?」
マルクはすぐ答えなかった。
俺を見る。
ティムを見る。
また俺を見る。
「レン」
ティムの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
「やっぱ主人公だから?」
「何の主人公だよ」
「知らないけど」
マルクが眉を寄せた。
「何の話してるんだ、お前ら」
俺も分からないので黙った。
マルクはティムを指す。
「お前は残れ。明日、挽き場へ二袋回す。東河港から次が来たら、今日の六袋と混ぜずに数えろ。石窯へ行ってる分も、お前は今見てる」
それから俺へ向く。
「レンはこの数日、舟に乗ってる。上手いって意味じゃないぞ」
「分かってます」
「ならいい。向こうで見るのは荷の扱いだ。麦袋か粉袋が本当に動いてるか。誰かが『ある』って言っただけで帰ってくるな」
ティムが横から言う。
「俺だって舟乗ったけど」
「お前が残る理由も言っただろ」
「聞いた。ちょっと言いたかっただけ」
マルクはため息をついたが、口元が少しだけ緩んだ。
ゼンは板へ三行書いた。
《潮入浦 現地確認》
《目的 麦/粉の取扱場所の有無》
《購入判断 しない》
俺は最後の一行を見る。
「そこまで書く?」
「書く。見に行って、買えると思って、勝手に話を広げるのを止めるためだ」
「俺、そこまで信用ない?」
「お前というより、人は現地まで行くと何か持って帰りたくなる」
ティムがすぐ頷いた。
「分かる」
「お前は強く分かるな」
話はそこで終わらなかった。
泊まりが一晩増えても困らないだけの食べ物。
水。
雨具。
濡らしたくないものを入れる布袋。
ゴルの仕事を邪魔しないこと。
知らない港で荷を触る時は先に持ち主へ聞くこと。
旅支度というより、注意事項が少しずつ増えていく。
マルクは俺の手持ちを聞いた。
「泊まり銭は」
「二晩なら足ります」
「三晩になったら?」
俺は少し考えた。
「食べる物を減らせば」
「減らす前に言え」
マルクは小さな銅貨を二枚、机の端へ置いた。
「受取場の用事で行くんだ。使わなきゃ戻せ」
俺は受け取った。
前世なら、遠征の費用なんてもっと大きな数字だった。
今は銅貨二枚でも、使った理由を説明する側だ。
その方が、自分の足で動いている感じがした。
夜、寝床へ戻る途中でティムが何度も俺を見る。
「何」
「いや。別に」
「行きたかった?」
「行きたいよ。そりゃ」
ティムは少し前を歩いた。
「でも、今度は俺が残ってる方が役に立つって言われたから。前だったら腹立ってたと思う」
「今は?」
「ちょっと腹立つ」
俺は笑った。
「じゃあ前とそんな変わってない」
「半分になった」
「何が」
「腹立つ量」
測れるのか、それ。
翌朝はまだ暗いうちに起きた。
潮入浦へ行くから、ではない。
ゴルの舟が出られる時に出るからだ。
鴎泊へ下りると、舟はもう波打ち際にいた。
ゴルが船尾で縄をまとめている。
ティムも来た。
見送りというより、俺の荷物を勝手に確認しに来たらしい。
「飯、ある」
「ある」
「水」
「ある」
「銅貨」
「お前に数えさせない」
「何で」
「減りそうだから」
「俺を何だと思ってるの」
ゴルが舟から言った。
「置いてく方、朝からうるさいな」
ティムが黙った。
俺は少しだけ勝った気がした。
ゴルが顎で舟を示す。
「乗れ。荷は船底。自分の足元へ置くな」
俺は荷を置き、昨日より少しだけ迷わず舟へ乗った。
まだ上手くはない。
でも、最初の日みたいに陸と同じ足で踏み込むことはしなかった。
ティムが浜から手を上げる。
「麦あっても買ってくんなよ!」
「分かってる!」
「本当に!」
「お前が言うな!」
ゴルが縄を解いた。
舟が浜を離れる。
地図の点だった潮入浦へ、今度は俺自身が向かっていた。
ただし、確認するのは一つだけだった。
第266話 黒い割れ岩が沈んでも、船頭はまだ入らなかった
【本文】
海は昨日より静かだった。
だから楽かと言われると、そうでもない。
揺れが小さいぶん、油断すると身体だけが遅れる。
ゴルは出航してしばらく、ほとんど喋らなかった。
帆と舵を見る。
時々、海面を見る。
俺が何か聞けそうな顔をしても、見ていない。
俺も黙っていた。
舟の上で、仕事中の船頭へ質問を重ねるのは違う気がした。
その代わり、自分の膝を意識する。
前回、縄を引いた時は陸と同じように踏ん張って、床に逃げられた。
今日は固めすぎない。
揺れたら、少し遅れてでも身体をついていかせる。
上手くできている感じはない。
ただ、一度目より怖くない。
沖へ出てしばらくすると、ゴルが後ろを見ずに言った。
「その袋、もう少し船腹へ寄せろ」
俺は足元の荷を見る。
「ここ、邪魔ですか」
「今は邪魔じゃない。波が横から来たら転がる」
言われた通り、布袋をずらす。
結び目を舟の金具へ軽く掛けた。
ゴルがちらっと見る。
「縛り切るなよ」
「落ちないようにした方が――」
「急に外したい時、外れなくなる」
俺は結び目を緩めた。
何でも固定すれば安全になるわけじゃないらしい。
ティムがいたら、たぶん「舟って面倒だね」と言う。
俺も今は同じ気持ちだった。
陽が上がるにつれて、海の色が変わった。
鴎泊の外で見た浅い緑は薄れ、少し濃い青が増える。
前に見た潮目は見えなかった。
同じ場所を通っているのかも、俺には分からない。
「潮目、今日はないんですか」
ようやく俺が聞くと、ゴルは前を向いたまま答えた。
「あるかもしれん」
「見えないだけ?」
「俺に今それ探す用事あるか?」
「ないです」
「なら前見ろ」
終わった。
ハナより説明が少ない。
でも、それで困らなかった。
俺たちが向かっているのは潮目じゃない。
昼前、岸の形が変わった。
長く続いていた低い岩場が一度途切れ、少し高い崖が見える。
その先に、海へ割れ込むような二つの黒い岩が立っていた。
片方は上が裂けている。
俺は無意識に姿勢を起こした。
黒い割れ岩。
第261話で聞いた目印と似ている。
ゴルは何も言わない。
舟はそのまま近づく。
岩の下の方へ波が当たるたび、白い泡が細く出る。
目印にすると言われた「肩」がどこなのか、最初は分からなかった。
近づくと、一段だけ横へ張り出した場所がある。
そこだけ濡れた色になっていた。
水位が少しずつ上がる。
張り出しが波に隠れる。
また見える。
何度か繰り返したあと、完全に水の下へ消えた。
俺はゴルを見る。
船頭は動かなかった。
舟の向きを少し変え、沖側へ横に流している。
「入らないんですか」
「まだ」
短い。
俺はもう一度、割れ岩を見る。
聞いていた話だと、肩が隠れる頃が入る目安だった。
隠れた。
でも、ゴルは入らない。
少し先の狭い入口から、一艘の小舟が出てきた。
ゴルは舵を切り、そちらへ進路を譲る。
出てきた船頭が片手を上げる。
ゴルも上げる。
会話はない。
その舟が沖へ離れてからも、まだ入らない。
海面を見る。
入口の手前だけ、水の線が斜めに走っていた。
右から左へ、細い泡が流れている。
しばらくすると、その流れが弱くなった。
ゴルが帆を少し落とす。
「今から入る。立つなよ」
俺は座り直した。
舟が黒い岩へ近づく。
思ったより狭い。
外から見ると、岩と岩の間に道があるようには見えなかった。
海面だけが奥へ曲がっている。
入った瞬間、横から舟を押す力が来た。
俺の荷袋が少し滑った。
手を伸ばす。
前なら、そのまま身体ごと取りに行っていたと思う。
今回は片手を舟の縁へ置いてから、もう片方で袋の紐を押さえた。
それでも身体が遅れ、肩が舟縁へ当たる。
痛いほどではない。
でも、上手くもない。
ゴルが振り返る。
「手、縄に巻いてないな」
「巻いてないです」
「ならいい」
褒められた感じはしなかった。
入口を抜けると、波が急に小さくなった。
海が止まったわけじゃない。
でも外より静かだ。
岩の内側に細長い水面があり、その両側へ木の足場と小さな建物が並んでいる。
高い場所には家がいくつも見えた。
塩の匂い。
魚を干す匂い。
濡れた縄。
木箱。
船底を削る音。
鴎泊より狭い。
なのに、人が近い。
何人かがゴルの舟を見て、手を上げた。
「遅かったな」
岸から男が言う。
ゴルが返す。
「入口で一艘出した」
「朝ならすぐ入れたのに」
「朝はこいつ拾ってた」
俺を顎で示す。
男が俺を見る。
「荷?」
「人」
「見りゃ分かる」
二人とも笑わない。
でも、たぶん冗談だった。
舟が木の足場へ寄る。
俺は立とうとして、ゴルに手で止められた。
「まだ」
岸から縄が投げられる。
ゴルが取る。
舟が一度だけ離れ、また寄る。
それからようやく言われた。
「今」
俺は足場へ移った。
地面ではない。
板が少し沈む。
それでも、舟よりは動かない。
振り返ると、黒い割れ岩はもう入口の外側に半分隠れていた。
肩が沈んだら入る。
聞いた話は、完全な嘘じゃなかった。
でも、それだけでもなかった。
今日は肩が沈んだあと、出る舟を待った。
流れも待った。
俺が見た一回では、そこまでだった。
「荷、下ろすぞ」
ゴルの声がする。
俺は潮入浦へ着いた感想を考える前に、舟へ戻った。
空の樽を二つ。
小袋を三つ。
木箱を一つ。
まずはゴルの仕事だった。
地図の点の内側へ初めて立ったのに、最初にやったのは荷下ろしだった。
それが少し嬉しかった。
第267話 潮入浦には粉があった。でも、北へ持っていけるとはまだ言えない
【本文】
ゴルの荷を下ろし終えた時、俺は潮入浦のことをまだほとんど知らなかった。
知ったのは、木の足場が濡れて滑ること。
樽を置く場所が決まっていること。
舟を寄せても、荷下ろしが終わるまでは通路を塞いではいけないこと。
麦とは関係ないことばかりだった。
ゴルは空になった舟の中を見て、次に積む物を確認している。
「どのくらい離れていいですか」
俺が聞くと、船頭は足場の奥を顎で示した。
「昼の鐘までなら好きにしろ。戻るかどうかは、その頃には決まる」
「今日戻る可能性もある?」
「荷次第」
二日で戻るつもり。
昨日はそう言った。
今日戻る可能性もある。
予定は予定だった。
「昼までに戻ります」
「遅れたら置いてくぞ」
「本当に?」
「試すか?」
やめておいた。
俺は足場を離れた。
潮入浦は、名前から想像していたより市場らしくなかった。
海側には塩桶、干し魚、縄、油の小樽。
木箱の中には貝殻や工具まで混じっている。
人はいる。
物も動いている。
でも、麦袋は見えない。
最初の通りを端まで歩いてもない。
俺は少しだけ嫌な予感がした。
三人目の船頭まで港の話をしていた。
自然便もあった。
石窯側には代替調達の理由もできた。
それでも、麦がなければそこまでだ。
港だから食料がある、なんて話にはならない。
曲がり角で、粉の白い跡を見つけた。
地面じゃない。
男の袖についている。
その男は肩へ小さな袋を担ぎ、海側とは反対の坂を上っていた。
俺は少し迷ってから声をかけた。
「すみません。その袋、粉ですか」
男が止まる。
「見りゃ分かるだろ」
「麦の粉?」
「今日は小麦」
今日は。
俺はそれ以上聞く前に、目的を思い出した。
「ここで買える場所、あります?」
男は坂の上を指した。
「粉なら上。石段上がって、赤い屋根の手前。朝遅いと閉まるぞ」
「麦袋そのものは?」
「俺は粉買う側だ。知らん」
それで終わった。
知らないことまで説明してくれない。
坂を上がる。
海から少し離れただけで、匂いが変わった。
塩より、煙と土の匂いが強くなる。
石段は思ったより急だった。
舟で使った脚とは別の場所が重い。
途中で一度止まる。
Lv3の身体は、海へ出たから急に強くなるわけじゃない。
前世の自分なら、こんな坂で息を整えた記憶はあまりない。
今は整える。
上り切ると、赤い屋根が見えた。
その手前に、小さな店がある。
店というより、前を開けた倉みたいな建物だった。
木の台。
量り。
小さな枡。
そして、袋。
二つ。
一つは口が閉じている。
もう一つは開いていて、中が白い。
女が枡で粉を量り、布袋へ移していた。
客らしい年寄りが待っている。
俺は入口の外で止まった。
見つけた。
少なくとも今、潮入浦には粉を扱っている場所がある。
それだけなら、もう確認できた。
女がこっちを見る。
「買うなら並んで」
「今日は、買うか決めてないです」
「じゃあ何しに来たの」
言われてみれば変な客だ。
「北の方で、次の麦便がいつ来るか分からなくて。潮入浦で麦か粉を扱ってる場所があるか、見に来ました」
女は枡を止めた。
「見たでしょ」
「はい」
「じゃあ終わり?」
「たぶん」
年寄りが横で笑った。
「ずいぶん遠くから、店があるかだけ見に来たな」
俺も少し笑った。
「買える量とか値段まで聞くと、今日の用事じゃなくなるので」
女は変な顔をした。
「商人じゃないの?」
「違います」
「役人?」
「もっと違います」
年寄りがまた笑う。
女は粉を袋へ入れ終えて、口を縛った。
「小麦粉は置く日もある。毎日あるとは言わない。今日はその二袋。麦のままなら、私は扱ってない」
二袋。
数字が出た。
でも、それを北へ持っていける量とは考えない。
一袋がどれくらい残っているかも分からない。
予約分かもしれない。
明日も入るかもしれないし、入らないかもしれない。
俺は聞きたくなった。
どこから来る。
いくらだ。
まとめて何袋出せる。
舟へ積めるのか。
次はいつ来る。
全部、今すぐ聞ける。
でもゼンの板を思い出した。
《目的 麦/粉の取扱場所の有無》
《購入判断 しない》
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
女が少し驚く。
「本当にそれだけ?」
「今日は」
「変なの」
店を出る。
坂を下る途中で、俺は一度振り返った。
赤い屋根の手前。
小さな量り台。
白い粉。
二つの袋。
地図の点に、初めて別の意味が増えた。
潮入浦には、小麦粉を扱う場所がある。
それは見た。
ただし、北方の食料を支えられる場所かどうかは、まだ何も分からない。
港へ戻ると、ゴルが舟の横で誰かと話していた。
俺を見つけると、片手を上げる。
「早かったな」
「見るもの、一つだったので」
「で、あったか」
「粉はありました」
ゴルは「そうか」とだけ言った。
それ以上、興味を示さない。
自分の仕事じゃないからだ。
その反応が、妙にありがたかった。
俺の中では大きな発見でも、世界中がそれを待っていたわけじゃない。
ゴルは舟の中を指した。
「帰り、今日じゃなくなった。積むはずの樽が夕方まで来ない」
「一泊?」
「たぶんな」
また、たぶんだった。
俺は荷袋の中の食べ物を思い出した。
銅貨二枚もある。
来た目的は終わった。
でも帰る時間は、俺だけでは決められない。
潮入浦に粉があることは分かった。
次に必要なのは量か、値段か、運べるか。
それを決めるのは、ここで暇になった俺ではない。
北へ戻って、今の食料と東河港の次便を見てからだった。




