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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第256話 狼の次の日、頼まれたのは網の重石だった

【本文】

次の朝、石窯の道から狼の話は来なかった。

来なかったから、安全になったわけでもない。

ただ、今日そこを使う荷がなかった。

俺の肩には、昨日木棒を押し返された鈍い痛みが少し残っていた。

腕は上がる。粉袋も持てる。

だからマルクに言うほどでもないと思っていたら、袋を一つ持ち上げたところで見つかった。

「そっち、かばってるだろ」

マルクが粉の口を閉じながら言った。

「かばってないです」

「じゃあ右で持て」

持ち替える。

普通に持てた。

「ほら」

「何が、ほらなんですか」

「左より顔がまし」

昨日も顔で判定された気がする。

ティムが横で笑った。

「みんな見てるとこ同じなんだね」

「お前も笑ってないで、その空袋畳め」

「今やってる」

平和な朝だった。

昼前、ハナが受取場へ上がってきた。

いつもの魚籠はない。代わりに、濡れた太縄を肩へ掛けている。

縄の端には、指二本ぶんくらいの木札が結ばれていた。

「腕、二人分余ってる?」

ティムがすぐ自分と俺を交互に指した。

「たぶん」

「勝手に俺まで余らせるな」

「今、空袋畳んでるだけじゃん」

「終わってない」

ハナは二人のやり取りを待たず、濡れた縄を床へ置いた。

「外の網石がずれた。夕方の上げ潮までに戻したい」

俺は縄を見る。

「切れた?」

「切れてない。切れてたら楽なんだけど」

ティムが首を傾げた。

「切れてる方が楽なの?」

「どこ行ったか諦められるからね。つながってるから、網まで引っ張ってる」

ハナは木札を足先で返した。

網石。

網を海中で押さえるための重石らしい。

昨日の雨と夜の潮で位置が動き、縄が斜めに張っているという。

「いつもは何人で?」

俺が聞くと、ハナは少し考えた。

「二人でもやる。でも今日は石を戻すだけじゃなくて、網の端も見たい。船で引きながらだと、手が一組足りない」

「俺たち船、詳しくないよ」

ティムが言う。

「だから網を触らせる気はないよ」

「じゃあ何するの」

「言った時に縄持つ。言った時に離す。勝手に引かない」

最後だけ、俺を見た気がした。

「なんで俺を見るの」

「重そうなもの見ると持ちたがるから」

ティムが声を立てて笑った。

否定したかったが、炭袋でも木棒でも似たことをしている。

ネドは荷駄小屋から出てきて、ハナの話を聞いた。

「帰りは?」

「夕方前。潮が変ならもっと早く戻る」

「二人とも今日の荷はない」

それで決まった。

狼を見に行くでもない。

炭窯の水を追うでもない。

潮入浦を探すでもない。

ずれた網石を戻す。

それだけの仕事だった。

鴎泊へ下りると、小舟が一艘、浜へ引き上げられていた。

ハナの舟だ。

昨日まで見ていた荷駄より、ずっと小さい。

それなのに、乗った瞬間から足元が信用できなかった。

ティムが先に乗り、俺へ手を出す。

「ほら」

「いらない」

「昨日肩痛めた人が?」

「船に乗るだけだろ」

足を置く。

舟が横へ揺れた。

思ったより大きく。

反射でティムの手を掴んだ。

ティムは何も言わなかった。

顔だけが、ものすごく言っていた。

「笑うなら笑えよ」

「まだ浜だよ」

結局、言った。

ハナが船尾から櫂を押す。

「二人とも、転ぶなら沖でお願い。今転ばれると舟が戻ってくる」

砂が離れる。

鴎泊の岸が、ゆっくり遠くなった。

昨日まで地面の道を見ていた足の下で、今日は道そのものが揺れていた。

第257話 陸なら踏ん張れた場所で、船の床だけが逃げた

【本文】

鴎泊の中では、まだ平気だった。

波は小さい。

舟も、思ったほど暴れない。

俺がそう思ったのは、外の岩鼻を回るまでだった。

海面が少し広がっただけで、舟の揺れ方が変わった。

上下より、斜めにずれる。

右へ来ると思って踏ん張ると、床が左へ逃げる。

「膝、固めない」

ハナが前を見たまま言った。

「固めてない」

「固めてる人の揺れ方してる」

また見ただけで分かるらしい。

ティムは俺よりましだった。

上手いわけじゃない。

でも最初から諦めているのか、舟と一緒に身体が動いている。

「レン、陸強いのに船弱い」

「まだ五分だぞ」

「五分で強い弱いって分かることあるよ」

ハナが言う。

「喋れるならまだ平気。酔う人はそのうち返事が減るから」

ティムが急に黙った。

「試さなくていい」

俺が言う。

岩鼻の外側に、小さな浮きが見えた。

木を削って赤い布を巻いたものだ。

ハナが指す。

「右の札。あれが端」

浮きは舟の正面にない。

思ったより沖側にある。

近づくと、海面へ出ている縄が斜めだった。

ハナの顔が変わる。

さっきまでの軽口が消えた。

「石、外へ持ってかれてる」

ティムが浮きと岸を見比べる。

「引けば戻る?」

「引くだけならね。舟もそっちへ行く」

俺は縄へ手を伸ばしかけた。

「まだ」

ハナに止められる。

「触ってない」

「触る顔してた」

今日は顔がよく働く。

ハナは舟を浮きの横へ回した。

舟を縄の延長線に置かない。

少し斜めから寄せる。

「ティム、浮き見て。沈んだら言って。レンはこの縄。私が『取る』って言ったら両手。『逃がす』で指開く。握ったままにしない」

「指開くだけ?」

「縄が走る時に握ってたら、指の皮なくなるよ」

ティムが自分の手を見た。

「俺、浮きでいい」

「もう決めた」

俺は縄を持つ。

濡れていて冷たい。

「取る」

両手で握る。

重い。

陸の荷物みたいな重さじゃない。

持ち上げる方向が決まっていない。

波が来るたび、縄の向こうから引く力が増えたり消えたりする。

俺は一度、強く引いた。

舟が傾いた。

「引くな!」

ハナの声が飛ぶ。

反射で手を緩める。

「逃がす!」

指を開く。

縄が掌を擦って走った。

熱い。

「今の何」

ハナが聞く。

「上がると思った」

「陸の石じゃない。舟ごと引かれる」

ティムが浮きを見たまま言う。

「レン、船弱い」

「二回言うな」

でも、その通りだった。

前世の経験にも、こういう重さは少ない。

足場が動く状態で、向こう側も波で動く。

力を入れれば正解、にならない。

【Lv3】

数字が上がったわけじゃない。

むしろ、今の身体と今の場所で知らないことが増えた。

ハナは舟を少し沖へ出した。

「浮き、どう?」

ティムが答える。

「さっきより沈まない。縄、横向きになった」

「よし。レン、次は引かない。張ったら持つだけ」

「持つだけ?」

「海が緩めるの待つ」

意味が分からないまま、言われた通りにする。

波が舟を持ち上げる。

縄が張る。

次の瞬間、舟が沈む側へ入ると、縄がほんの少し緩んだ。

「今。二手だけ」

腕を引く。

一手。

二手。

「止める」

止める。

また待つ。

何度か繰り返すと、海面の下で黒いものが見えた。

網石だ。

石というより、平たい岩へ縄を掛けたものだった。

でもその横に、別の岩がある。

縄がその角へ回り込んでいる。

ハナが舌打ちした。

「そこ噛んでる」

ティムが身を乗り出しかけて、すぐ戻る。

「外せる?」

「真上から引けば、網の方を先に痛めるかも」

「じゃあ?」

ハナは海と岩鼻を見た。

「一回、石を戻すの諦める」

俺は驚いた。

ここまで上げたのに。

「外さないの?」

「外す。でも元の場所には戻さない。今の潮で無理にやると網ごと持ってく」

仕事の成功条件が途中で変わった。

元へ戻す、から。

これ以上悪くしない、へ。

舟を岩から離し、縄の角度を変える。

ハナが小さな予備石を出した。

本物の網石ほど大きくない。

今日だけ端を逃がさないための重しだという。

「レン、今度は持つだけ」

「分かってる」

「さっきも分かってた顔してた」

「顔の話やめよう」

ティムが笑ったせいで、浮きを見失いかけた。

「ティム、そっち」

「見てる、見てる」

今度は三人とも、自分の仕事だけをやった。

網石は元へ戻らなかった。

でも縄の張りは減った。

浮きも沈まなくなった。

ハナが最後に網端を見て、頷く。

「今日はこれでいい」

完全には直っていない。

なのに、さっきよりずっと終わった感じがした。

第258話 鴎泊の外で、海の色が二つに分かれていた

【本文】

すぐ浜へ戻ると思っていた。

でもハナは舟を岸へ向けなかった。

「少し待つ」

ティムが浮きを振り返る。

「何かまだある?」

「潮。今戻ると岩鼻の手前で押される」

「さっき来た道なのに?」

ハナが櫂を舟の内側へ置いた。

「来た時と水が同じだと思ってる?」

ティムは黙った。

俺も黙った。

陸の道なら、雨で崩れない限り場所そのものは残る。

海は、今この瞬間にも条件が変わっている。

舟は岩鼻の外でゆっくり流された。

流されている、と分かったのは岸を見たからだ。

自分たちだけ見ていると、止まっているようにも感じる。

俺の掌は、さっき縄が走ったところだけ赤い。

肩も少し重い。

ティムがそれを見た。

「狼より網の方が怪我してない?」

「怪我じゃない」

「昨日もそれ言ってた」

「赤いだけ」

ハナが横から言う。

「皮むけたら海水しみるよ」

言われた瞬間、少し痛くなった気がした。

ティムが笑う。

「聞かなきゃよかったね」

舟がさらに外へ流れる。

そこで、海の色が変わった。

鴎泊側は、浅い緑がかった色。

その外に、細長く暗い青が伸びている。

境目が線みたいに見えた。

でも真っ直ぐじゃない。

蛇みたいに曲がって、ゆっくり形を変えている。

「何あれ」

ティムが聞いた。

ハナは一度見て、普通に答えた。

「潮目」

「道?」

「水」

「見れば分かるよ」

「じゃあ聞かないで」

ティムが俺を見る。

「ハナ、今日ちょっと厳しい」

「網石ずれた日に優しく説明してほしい?」

「今ので大丈夫」

俺は暗い水を見た。

海面に柵も杭もない。

それでも、片方の水は外へ流れ、もう片方は岩鼻の近くを回っているらしい。

小さな木片が境目へ入った。

一度くるっと回り、暗い方へ流される。

「船はあそこ使う?」

俺が聞くと、ハナはすぐ答えなかった。

「使う時もある。使わない時もある」

「風?」

「風、潮、行き先、舟の大きさ。あと船頭が知ってるか」

ティムが暗い水の先を見る。

「どこまで行くの?」

「今日のこれが、ずっと同じまま行くわけじゃないよ」

その言い方で、地図の線とは違うんだと分かった。

遠くに舟が一艘見えた。

鴎泊の漁舟より少し大きい。

帆は上げていない。

暗い色の水へ沿うように進み、途中で向きを変えた。

「知ってる船?」

ティムが聞く。

ハナは目を細めた。

「知らない」

「潮入浦?」

一瞬だけ、その名前が戻ってきた。

ハナは首を振った。

「そこまで見て分かるわけないでしょ」

それで終わった。

三度目の情報源にはならなかった。

知らない船は、知らない船のまま遠ざかった。

しばらくすると、ハナが櫂を取った。

「戻るよ。今なら鼻の内側へ入れる」

「何が変わった?」

ティムが聞く。

「さっきより押しが弱い」

「見て分かる?」

「乗ってれば」

俺にはまだ分からない。

そこが面白かった。

帰りは、来る時より身体が少し舟に合わせられた。

上手くなった、というほどじゃない。

ただ、床が逃げる前に膝を固めなくなった。

岩鼻を回る。

鴎泊の浅い水へ戻る。

砂へ舟底が触れた時、ティムが先に飛び降りた。

俺も続く。

今度は差し出された手を使わなかった。

「成長した」

ティムが言う。

「浜に降りただけ」

「朝はそれで掴んだじゃん」

「覚えてるのかよ」

ハナは舟から網縄を下ろしながら言った。

「二人とも明日になって腕痛かったら、次は来なくていいからね」

「次あるの?」

ティムがすぐ聞く。

「網は毎日あるよ。二人を乗せるかは知らない」

そこも未定だった。

受取場へ戻る前に、俺は一度だけ海を振り返った。

鴎泊の外に見えた暗い潮目は、もう岸からはよく分からない。

陸には、昨日通れた道が今日使えるか分からないことがある。

海には、そもそも昨日と同じ場所に道が残っていない。

それでも船は進む。

地図へ線を引く前に、覚えることがまだたくさんあった。


第259話 空の魚籠でも、舟では置く場所があった

【本文】

二日後、掌の赤みはほとんど消えていた。

肩も、腕を上げた時に少し重いくらいだ。

だから朝は海じゃなく、受取場で麦袋を動かしていた。

東河港の十袋から挽き場へ回した分が粉になって戻ってきて、マルクが石窯行きと保管分を分けている。

ティムは空袋の口をまとめながら、俺の手を見た。

「もう赤くないね」

「最初から大したことない」

「海水しみるって言われた瞬間、痛そうな顔してたけど」

「気のせいだ」

「顔で分かるやつ?」

最近、顔の話が長い。

俺が粉袋を一つ持ち上げると、マルクが横から見た。

「右肩は?」

「普通です」

「じゃあ今日は右で持てるな」

「確認の仕方が雑じゃないですか」

「持ててるからいいだろ」

そういう朝だった。

昼前、ハナが来た。

今日は濡れ縄じゃない。

背中に空の魚籠を三つ重ねている。

「また腕、余ってる?」

ティムが俺より先に答える。

「今日はたぶん二本とも」

「一本ずつ数えるな」

ハナは魚籠を床へ下ろした。

「外の磯で網が上がった。向こうの舟に籠が足りないから、空を持ってく。帰りは魚入り」

俺は三つしかない籠を見る。

「これだけ?」

「浜にあと五つ。全部で八」

「八つなら、舟に積むだけでしょ」

ティムが言った。

ハナはティムを見る。

「今の言い方、覚えとくね」

「何で」

「乗せれば終わると思ってる顔だから」

今度はティムが顔で判定された。

鴎泊へ下りると、空の魚籠が浜に並んでいた。

竹で編んだ同じ形のものが八つ。

中身がないから軽い。

ティムが二つずつ重ねて舟へ入れようとしたところで、ハナが止めた。

「そこじゃない。真ん中から」

「空だよ?」

「空でも高さあるでしょ。端に寄せると風受けるし、帰りは魚入るんだから同じ場所に戻せなくなる」

ティムは籠を持ったまま舟の中を見た。

「最初から帰りまで考えるの?」

「帰ってくるならね」

当たり前みたいに言われた。

前回は、目の前の網石をどうするかだけで精いっぱいだった。

今日は出る前から、帰りの重さまで入っている。

八つの籠を四つずつ重ね、舟の中央へ低く置く。

縄でまとめる。

ハナは最後に水の入った小さな壺を船尾寄りから中央へ移した。

ティムが聞く。

「それも?」

「今日は帰りの方が重いから、今は適当でいい。でも動くものは寄せる」

「適当って言った」

「動いて転がらない程度の適当」

同じ言葉でも幅があるらしい。

舟へ乗る。

前回みたいにティムの手は借りなかった。

足を置く前に舟の揺れを一度見る。

片足。

次にもう片方。

ティムが何か言いたそうにしている。

「言うなよ」

「まだ何も言ってない」

「顔で分かる」

ハナが船尾で笑った。

鴎泊を出る。

岩鼻の外へ出た時、前回ほど身体は固まらなかった。

上手くなったわけじゃない。

揺れる前提で立っているだけだ。

ただ、今日は別のものが邪魔だった。

空の魚籠だ。

軽いから、舟が傾くたびに縄の中で少し鳴る。

竹同士が、から、から、と乾いた音を立てる。

「これ、魚入ったら静かになる?」

ティムが聞く。

「重くなるから今より動かない。でも舟は鈍くなる」

ハナが答える。

「鈍い方が楽そう」

「そう思うなら帰り楽しみにしてて」

言い方が嫌だった。

外の磯は、岸から見えていた。

歩いて行けそうにも見える。

でも間に切れ込んだ岩場があって、陸から回るとかなり遠いらしい。

舟なら短い。

近づくにつれ、黒い岩の陰から別の小舟が見えた。

一艘。

その向こうに、もう一艘。

網の上がった魚を分けている。

ハナが櫂を止めずに言った。

「着いたら勝手に立たないで。向こうの舟へ横付けする」

ティムが魚籠を見る。

「浜に下ろすんじゃないの?」

「浜ないよ」

「じゃあどうやって渡すの」

「舟から舟」

ティムが俺を見る。

俺も見返した。

前回は海の中の縄だった。

今日は、足元ごと動く舟から、別に動いている舟へ荷を渡すらしい。

海の仕事は、同じ舟に二回乗ったくらいじゃ同じになってくれなかった。

第260話 二艘の舟は、荷を渡す時にも止まってくれなかった

【本文】

相手の舟には、日に焼けた船頭と若い男が乗っていた。

魚が入った籠が足元に並んでいる。

銀色の腹が重なり、そのうち一尾が籠の縁で尾を打った。

ぱん、と音がした。

ティムが少し身を引く。

「生きてる」

「魚だからね」

ハナが言った。

「分かってるけど、今動くと思わなかった」

船頭が笑った。

「そいつは朝から何回も死んだふりしてる」

知らない相手なのに、ティムはすぐ籠の魚へ言った。

「性格悪いな」

魚は返事をしなかった。

二艘の舟が近づく。

俺はてっきり、ぴったり横へ付けて縄で固定すると思っていた。

ハナはそうしなかった。

短い縄を一本だけ相手へ投げる。

船頭が受け取り、舟同士が離れすぎない程度に持つ。

それでも船体は別々に上下する。

「止まらないの?」

俺が聞いた。

「止めたらぶつかる方が強くなる」

ハナが答える。

「近づいた時だけ渡す」

空の魚籠からだった。

ハナが一つ持つ。

相手の若い男も手を出す。

二艘が離れる。

どちらも手を伸ばさない。

また近づく。

そこで渡す。

簡単そうに見えた。

二つ目を俺が持った。

相手の若い男が手を出す。

舟が少し離れる。

届きそうだった。

俺は一歩前へ出た。

「待て」

ハナと相手の船頭が、ほぼ同時に言った。

止まる。

次の波で舟同士が寄った。

今度は何も頑張らなくても相手の手が近くなった。

渡す。

「陸の癖、まだ抜けてないな」

船頭が言う。

俺は魚籠から手を離した。

「届くなら渡した方が早いかと」

「海で『あと半歩』やると、その半歩の床が逃げるぞ」

ハナが船頭を見る。

「昨日も似たことやった」

「昨日?」

「網石」

「ああ。こいつが引いたのか」

「こいつって」

俺が言う。

ティムが横で笑う。

「だいたい合ってる」

空の籠を八つ渡し終える。

今度は魚入りだ。

重さが全然違った。

一籠を受け取る。

向こうの若い男が手を離した瞬間、腕が下がる。

前回の縄みたいに力が増減するわけじゃない。

でも、自分の舟も相手の舟も動いているせいで、重さの受け方が一定じゃない。

「膝」

ハナが短く言った。

固めかけた脚を緩める。

籠を胸へ抱え込まず、低いまま舟の中央へ置く。

二つ目。

三つ目。

四つ目で、ティムが受け取る側へ入った。

「俺もやる」

相手の船頭がティムの立ち方を見る。

「そっちの方が船慣れてる顔してるな」

俺は思わず言った。

「顔で決める人、多くないですか」

「海じゃ足元見ればだいたい分かる」

また顔じゃなかった。

ティムが籠を受け取る。

舟が離れた時には手を伸ばさず、次に寄るのを待った。

前なら俺より先に行きそうなのに、今日は待つ。

「上手いじゃん」

俺が言う。

「昨日、レンが失敗したの見てたから」

「俺で覚えるな」

「使えるものは使う」

魚入りの籠が六つ、こちらへ移った。

八つ持ってきて、六つ戻る。

残り二つは向こうの舟で使うらしい。

ハナが六つを見て位置を変え始めた。

「二つ前。二つ真ん中。二つ後ろ寄り」

ティムが首を傾げる。

「全部真ん中じゃないの?」

「重くなったから、人の場所も入れて分ける」

「俺たちも荷物?」

「かなり動く荷物」

船頭が声を立てて笑った。

荷を置き終えたころ、海面を見ていた船頭が言った。

「外の流れ、朝より速くなったな」

ハナも沖を見る。

「戻り、鼻の外を少し開ける」

「それがいい。今の押しなら、潮入浦でも入口で待つやつだ」

俺の手が止まった。

ティムも止まった。

船頭だけが普通の顔をしている。

ハナは縄をほどきながら聞いた。

「向こう行くの?」

「たまに。昔ほどじゃないけどな」

潮入浦。

ドアンの船から聞いた。

別の船頭も名前を知っていた。

そして今、三人目が仕事の途中で当たり前みたいにその名を使った。

ティムが口を開く。

「そこ――」

ハナが魚籠を一つ指した。

「質問はあと。今離れるよ」

ティムは口を閉じた。

相手の船頭が短い縄を放す。

二艘の舟が離れた。

仕事が終わっていないなら、世界の秘密より先に魚を落とさない方がいい。

帰りの舟は、本当に別物だった。

六つの魚籠が重い。

空の時より揺れはゆっくりになった。

でも一度傾くと、戻るのも遅い。

ティムが舟の縁を掴みながら言う。

「こっちの方が楽って言ったの、なしで」

ハナは前を見たまま答えた。

「聞いたからね」

「忘れて」

「海に捨てとく」

そのやり取りの向こうで、さっきの舟が岩陰へ消えていった。

潮入浦の話は、一言だけ残った。

今の流れなら、入口で待つ。

距離も、値段も、麦の量も分からない。

でも、また点の中身が一つ増えた。

第261話 「潮入浦は、待って入る港だ」

【本文】

鴎泊へ戻ると、魚籠を下ろす方が先だった。

六つ。

空で持っていった時より、当然重い。

浜へ上げるたびに水が籠の底から落ち、砂へ黒い染みを作る。

ティムが三つ目で言った。

「さっきの人、帰っちゃった?」

ハナが四つ目を持ち上げる。

「帰ってない。向こうも魚まとめたらこっち寄るって」

「先に言ってよ」

「聞かれてない」

「潮入浦の話したそうな顔してたでしょ」

「魚落としそうな顔の方見てた」

ティムが俺を見る。

「また顔」

「俺に言うな」

魚を干し場へ回す男たちへ渡す。

ハナは籠の数を確認してから、ようやく腰を伸ばした。

「六。向こうに二。合ってる」

「魚の数は?」

ティムが聞く。

「知らない」

「数えないの?」

「籠ごとの売り方じゃないから、あとで向こうが量る」

ティムは少し考えてから、何も言わなかった。

全部がその場で数字になるわけじゃない。

しばらくして、さっきの舟が鴎泊へ入ってきた。

船頭だけだった。

若い男は岩場側へ残ったらしい。

船頭は水を汲み、舟の底へ置いてあった細い縄を一本取り替えた。

俺たちは少し離れて待った。

ティムが小声で聞く。

「今ならいい?」

「俺に聞くなよ」

「ハナに聞いたら仕事しろって言われそう」

「今してるだろ」

船頭がこっちを見た。

「何だ。さっきの話か?」

聞こえていた。

ティムは少しだけ恥ずかしそうにしたあと、すぐ戻った。

「潮入浦、行ったことある?」

「あるよ。二回か三回」

「遠い?」

俺はティムを見た。

一つだけ聞くつもりだった。

ティムも気づいたらしく、途中で口を閉じる。

「……いや、先に。さっき『入口で待つ』って何?」

船頭は縄を結び直しながら答えた。

「そのまま。あそこは浅いから、着いた時間で入れるとは限らん」

「干潮は駄目って聞いた」

俺が言う。

「まあ、小舟でも底擦る時あるからな」

そこまでは、前の船頭の話と同じだ。

俺はもう一つだけ聞いた。

「入れる時は、何を見ます?」

船頭の手が止まった。

質問の意味を考えたのかもしれない。

「入口の右に、黒い割れ岩がある。俺が乗ってたくらいの舟なら、その岩の肩が水に隠れるまで待った」

ティムが自分の肩へ手を置く。

「肩?」

「人の肩じゃねえよ。岩が途中で出っ張ってる」

船頭は手で斜めの形を作った。

「上が細くて、その下が一回張り出してる。そこが見えてるうちは、俺は入らなかった」

「それが隠れたら絶対入れる?」

船頭はすぐ首を振った。

「絶対なんて知らん。舟も違うし、波もある。俺が行った時はそれを目安にしただけ」

その答えが、むしろ良かった。

使える条件が増えたんじゃない。

確認するものが一つ増えた。

ティムはまだ聞きたそうだった。

「何日くらい――」

船頭が縄の端を引いて締まりを確かめた。

「それは今度な。今出ないと、俺がここで潮待ちになる」

笑っている。

本当に時間がないらしい。

ティムも追わなかった。

「じゃあ次来たら」

「覚えてたらな」

「忘れないでよ」

「お前が覚えとけ」

船頭は舟へ乗った。

ハナが浜から声をかける。

「外、まだ押してるよ」

「分かってる。鼻の内側から出る」

二人の会話はそれだけだった。

舟が出る。

ティムはしばらく見送ってから言った。

「三人目だね」

「うん」

「今度は、岩の肩」

「伝聞だけどな」

「でも三人目」

嬉しそうだった。

俺も少しだけ同じだった。

受取場へ戻ると、壁際の地図は前と同じ場所にあった。

潮入浦の点。

《船一隻実見+別船頭確認》

《入口浅い/干潮時注意 船種差あり》

俺は炭を持った。

すぐには書かなかった。

今日の船頭が言ったことは、俺たちが見たものじゃない。

それでも、独立した三人目の船頭が潮入浦を知っていた。

しかも「浅い」だけじゃなく、自分が入った時に見ていた目印まで話した。

だから、前の文を消さず、その下へ足した。

《三人目確認》

《小舟経験談:右の黒い割れ岩の肩が隠れる頃を進入目安》

《現地未確認》

ティムが横から読む。

「線は?」

「まだ」

「三人でも?」

「三人が知ってるのは、潮入浦があることと、入る時に待つこと。鴎泊から毎回行ける道があるとは聞いてない」

ティムは地図の空白を見る。

前なら不満そうにしたかもしれない。

今日は少し考えてから言った。

「じゃあ、点が濃くなっただけか」

「そんな感じ」

「でも前より気になる」

「それも同じ」

外から魚を運ぶ声が聞こえた。

干し場へ回す籠が足りないらしく、誰かがハナを呼んでいる。

ティムが振り返る。

「行く?」

「呼ばれてるのハナだろ」

「でも籠運ぶなら手いるかも」

言いながら、もう半分そっちへ向いている。

俺も地図から離れた。

潮入浦は逃げない。

今日、線は増えなかった。

代わりに、そこへ入る時に見るものが一つ増えた。

それくらいの進み方が、今はちょうどよかった。


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