第250話 「上の道は使える」だけが、先に伝わっていた
【本文】
次の朝、炭窯の道へ行く予定はなかった。
東河港から来た麦を、挽き場へ回す日だった。
俺はマルクと一緒に袋の底を見て、ティムは量りに使う木枠を運んでいた。
炭窯の道は、昨日のままだ。
少なくとも俺たちが最後に見た時は。
受取場の外で、荷駄の鈴が鳴った。
ネドの荷駄じゃない。
若い男が一頭を引いて立っていた。
炭で黒くなった袖をしている。窯の方から来た人間だと思う。
左右の籠には、干し豆の小袋と空の炭袋が入っていた。
男はネドを見つけると、手を上げた。
「上の古い道、荷駄で通れるって聞いたんだけど。下の道は駄目なんだろ?」
ネドが蹄を見ていた手を止めた。
「誰から聞いた」
「夜番のやつ。昨日、荷駄で炭を下ろせたって」
俺とティムが顔を見合わせた。
炭は下りた。
そこだけなら、間違っていない。
でも荷駄は、炭を載せたまま根のところを越えていない。
ティムが先に口を開く。
「途中で全部降ろしたよ。荷駄だけ通して、その先でもう一回載せた」
若い男が眉を寄せた。
「そこまで聞いてない。上の道なら行ける、ってだけ」
ネドは怒らなかった。
荷駄の左右の籠を一度見てから、若い男へ向き直る。
「今の荷なら炭袋より幅はない。でも、昨日通れたから今日も通れるとは俺は言ってない。雨もまだ降ってないが、根のところは荷物を外す前提で考えろ」
男が少し困った顔をした。
「じゃあ、使えないのか?」
「そういう意味じゃない」
俺が言うと、男の視線がこっちへ来た。
「昨日分かったのは、下の道が危ないこと。上の古道は、空の荷駄なら一回通ったこと。炭二袋は根のところで降ろせば運べたこと。その三つです」
言っていて、自分でも長いと思った。
若い男もそう思ったらしい。
「それ、全部伝えろって?」
「全部じゃなくて、削る場所を間違えない方がいい」
ティムが木枠を脇へ置いた。
「『上は使える』だけにすると、荷を載せたまま行く人が出る。俺もたぶん行く」
「お前は行くな」
ネドが言う。
「例えだって」
マルクは俺たちの話を聞きながら、麦袋を一つ秤へ載せた。
「道の話するなら外でやれ。粉の口開いてる」
若い男が一歩横へずれた。
マルクはそのまま秤の目盛りを見る。
「あと、炭窯の全員が知ってる前提で話すなよ。昨日ここに来てないやつもいるだろ」
若い男が頷く。
「俺、昨日は反対の窯だった」
やっぱり知らなかった。
誰かが聞いた。
誰かへ話した。
その途中で、条件が一つ落ちた。
ゼンが奥から薄い板を持ってきた。
「炭窯へ持っていくなら、これ書くか」
板は手のひら二つ分くらいしかない。
ティムがすぐ寄る。
「短くしないと入らない」
「短くして間違えたばっかりだろ」
ネドが返す。
ゼンは少し考えてから書いた。
《下道 通行停止》
《上の古道 荷駄は根部で荷を外す》
《雨後 再確認》
若い男が読む。
「空荷なら?」
「昨日は通った」
ネドが答える。
「今日の今、この場から先の道は見てない。そこは自分で勝手に『安全』へ足すな」
男は板を受け取った。
不満そうではない。
むしろ、さっきより顔が楽になっていた。
「分かった。窯の小屋に掛けとく。夜番にも見せる」
ティムが言う。
「ちゃんと『雨後』も」
「お前、今まで俺が何聞いてたと思ってんだ」
「途中で一個落ちることあるから」
若い男は一瞬むっとしたあと、自分で笑った。
「確かに今朝、落ちてたわ」
荷駄を引いて出ていく。
今日は道を見なかった。
それでも昨日までと同じではなかった。
道そのものだけじゃない。
道について誰が何を知っているかも、運ぶ前に揃っていないと危ない。
俺はそう思ったが、ゼンの板にはそこまで書かなかった。
板には、通る人が必要なことだけあればいい。
第251話 雨が降ったら、昨日の溝が本当に流れた
【本文】
雨は昼過ぎに来た。
大雨じゃない。
受取場の屋根を叩く音が、話している声より少し大きくなるくらいだった。
俺とティムは外へ出なかった。
雨を待っていたわけじゃない。
マルクに言われて、挽き上がった粉袋の口を閉じていた。
東河港の十袋が来ても、粉にしなければ石窯では使えない。
ティムが紐を引きながら外を見る。
「昨日の水、増えてるかな」
「分からない」
「見に行きたい?」
「今はこれ閉じたい」
ティムは少し笑った。
「前なら逆だった気がする」
「前を知らないだろ」
「最近の前」
それなら少し分かる。
粉袋を六つ閉じ終わる前に、炭窯の男が来た。
昨日から何度も現場へ来ている方の男だ。
今日は肩が濡れている。
戸口へ入るなり、マルクが言った。
「そのまま粉の横来るな」
男は足を止めた。
「来ねえよ。ネドいるか」
「荷駄小屋」
「上の溝、水流れてる。昨日の湿ってたやつ」
ティムの手が止まる。
俺は紐を結び終えてから顔を上げた。
「どこまで見ました?」
「古道の脇。上から来て、途中で道の外へ出てる。下までは降りて見てない」
昨日と同じで、見たところと見ていないところを分けている。
ネドを呼びに行く前に、マルクが俺たちを止めた。
「粉は?」
「あと四袋」
「閉じてから行け。雨は逃げても、粉濡らしたらこっちが困る」
ティムが口を開きかけて、やめた。
四袋を閉じる。
急ぐと結びが雑になる。
二袋目で、ティムの紐が片側だけ長くなった。
「それ、運ぶ時ずれるぞ」
俺が言うと、ティムは雨の方を見たまま結び直した。
「分かってる。今、道の水が気になってるだけ」
「粉は気にして」
「してるから直してる」
前より会話が少し長くなった気がした。
仕事が終わってから、ネドと三人で炭窯支道へ向かった。
炭窯の男は先に戻っている。
雨は細いまま続いていた。
下の崩れには近づかない。
まず上の古い切り出し道へ回る。
昨日まで湿っていただけの浅い溝に、今日は細い水があった。
流れている。
はっきり分かるほどではない。
でも落ち葉の間を、透明な筋が途切れず動いている。
ティムがしゃがみかけた。
ネドが言う。
「触るなよ」
「今日は触らないって分かってる」
「昨日も分かってなかったから言ってる」
ティムは立ったまま見ることにした。
俺は溝を上側へたどった。
数歩。
十歩。
斜面から落ちてくる雨水が、いくつかの細い筋になって古道の内側へ集まっている。
一か所だけが入口じゃない。
土のへこみや石の間から、少しずつ溝へ入っていた。
「上から一気に入ってるわけじゃない」
俺が言う。
ネドが後ろから答える。
「今見えてる雨だとな」
昨日なら、そこで「じゃあ雨水が原因」と言いたくなったかもしれない。
今日は、まだ一つしか分からない。
少なくとも今の雨では、この浅い溝へ水が集まる。
溝を下へ戻る。
根の張り出しを越えた少し先で、水の筋が太くなっていた。
そして、落ち葉が重なっているところで溝の形が分からなくなる。
水は止まっていない。
溝の外へ薄くあふれ、古道を横切るように山側から谷側へ流れていた。
ティムが声を落とす。
「昨日、ここで消えてた」
「そう見えてたな」
「今日は消えてない」
水は草の下へ入る。
そこから先は、見えるところと見えないところが交互になる。
斜面を下へ直接追うのはやめた。
崩れた現行道を上から見える場所まで回る。
昨日、濡れていた土。
今日はそこへ細い水が届いていた。
勢いは弱い。
泥を削るほどではない。
でも、来ている。
ネドが木棒を地面へ立てた。
水へ入れない。
横へ置いて、位置だけ残す。
「今の雨でここへ来るのは見た」
ティムが言う。
「じゃあ、原因――」
途中で止まった。
自分で止めた。
俺が見ると、ティムは嫌そうな顔をした。
「言わない。まだこれだけじゃ分かんない」
ネドが少し笑った。
「覚えたな」
「感染しただけ」
雨の中で笑うほどの話でもないのに、俺は少し笑った。
受取場へ戻ると、ゼンは濡れた俺たちを見て板を一枚避けた。
「こっち来る前に拭け」
まずそれだった。
報告はそのあと。
《雨天時 旧道脇溝に流水確認》
《溝外へ越流し、下側崩落部山側まで到達確認》
《崩落原因との因果 未確認》
ゼンが書く。
マルクはその板を横から見た。
「つまり、水は来る?」
「今日の雨では来た」
俺が答える。
「道を壊したかは?」
「まだ分からない」
マルクは「なら分かった」と言って、粉袋へ戻った。
同じ話を聞いても、必要なところが違う。
マルクには、原因の名前より、明日の荷をどこへ出せるかの方が大事だ。
俺には、それが少し面白かった。
第252話 昨日通れた道は、雨のあとでは未確認に戻った
【本文】
雨は夕方には止んだ。
次の朝、空は晴れていた。
だからといって、古い切り出し道が「乾いた道」に戻ったわけじゃない。
俺たちは受取場にいた。
炭窯の道へ行く予定はない。
ネドは別の荷駄を見ている。
マルクは石窯へ回す粉を数えている。
ティムは昨日の雨で濡れた空袋を、壁際へ広げていた。
そこへ、第250話で板を持っていった若い炭焼きが戻ってきた。
板も持っている。
《下道 通行停止》
《上の古道 荷駄は根部で荷を外す》
《雨後 再確認》
最後の一行を指で叩いた。
「雨、止んだ。今日、確認する?」
ネドが荷駄の脚から顔を上げないまま答える。
「何運ぶ」
「今日は何も。窯の方で、明後日くらいに炭が出る」
「じゃあ今日は行かん」
男が少し意外そうにする。
「確認だけ先にした方が楽じゃないか?」
「今日確認して、明後日雨降ったらまた確認するのか」
男は返事をしなかった。
ティムが空袋を一枚裏返す。
「それ、俺が前に言いそう」
「前って昨日だろ」
俺が言う。
「そこまで近くない」
若い炭焼きは板を見る。
「じゃあ今、上の道はどういう扱いなんだ」
ゼンが答えた。
「未確認」
「通れない、じゃなく?」
「通れないとも見てない。雨のあとを見てない」
男はしばらく板を眺めた。
「昨日まで使えたのに、面倒だな」
ネドが今度は顔を上げた。
「昨日までじゃない。乾いてる時に、空荷一回。炭二袋は根で降ろして一回。そこから雨が降った。数を増やすな」
若い男が「ああ」と小さく言った。
前に聞いた時より、理解が早い。
自分が一度、条件の抜けた話を受け取ったからかもしれない。
ゼンは板の裏へ新しく書いた。
《下道 通行停止》
《上の古道 雨後未確認》
《次回実荷の前に確認》
ティムが読む。
「根の積替え、消した?」
「消してない」
ゼンが表を返した。
「乾いた時の実績はこっち。今の状態は裏」
ティムが二枚の面を見比べる。
「昨日の事実と、今使っていいかは別?」
ゼンは筆を置いた。
「そういうこと」
言い方は短い。
でも、俺にはかなり大きな違いに聞こえた。
前の人生では、地図に線があれば道だった。
一度通せば、次も通る前提で人が増えた。
もちろん現場では誰かが直していた。
雨が降れば、崩れれば、塞がれば、誰かが見ていたはずだ。
俺はその「誰か」をあまり見ていなかった。
今は、一本の細い旧道ですら、昨日と今日で状態が変わる。
しかも、知っている人間まで同じじゃない。
若い炭焼きが板を持ち上げた。
「これ、窯に戻す。夜番にも裏まで見ろって言っとく」
ティムがすぐ言う。
「表だけ見たら昨日のままだからね」
男が笑う。
「お前に言われたくないけど、今回はその通りだ」
受取場を出ていく。
俺は少し考えてからゼンへ聞いた。
「炭窯の全員に伝わったことにはしない方がいいですよね」
ゼンが俺を見る。
「俺は窯に行ってない」
「ですよね」
「板を持っていったやつが誰に見せたかも、戻って聞くまでは知らん」
ティムが空袋を広げる手を止めた。
「そこまで?」
「そこまで」
ゼンは普通に答えた。
ティムはしばらく黙っていたが、やがて袋の端を石で押さえた。
「じゃあ俺、今まで『みんな知ってる』って結構言ってたかも」
「言ってた」
俺が答える。
「即答するなよ」
「知ってるから」
「誰から聞いた」
「本人」
ティムが少し悔しそうに笑った。
その日の午後、東河港から新しい板は来なかった。
炭窯からも、道を使う話は来なかった。
だから俺たちは、古道へ行かなかった。
雨で流れた水筋も、昨日の位置のままかどうかは知らない。
次に実荷を運ぶ時。
その直前に見る。
それまでは未確認でいい。
ゲームなら、使える道は地図へ明るく表示される。
今の俺たちの地図には、
「昨日は使えた」
「雨が降った」
「今日はまだ見ていない」
が同じ場所に重なっていた。
面倒だった。
でも、その面倒ごと見える方が、前より少しだけ世界を信じられる気がした。
第253話 荷駄が止まった場所には、まだ狼はいなかった
【本文】
炭窯の道は、その朝も見に行かなかった。
代わりに、石窯へ粉を二袋送る日だった。
不足したわけじゃない。
昨日までに挽いた分を、いつもの人数が食べるために運ぶだけだ。
マルクが袋の口を見て、底を押す。
「二つ。夕方までに着けばいい」
「昼じゃなくて?」
ティムが聞く。
「昼は向こうに残ってる。夜の分」
いつもなら、それで終わる話だった。
そこへ石窯の男が来た。
朝から石粉を浴びたらしく、髪の片側だけ白い。
「ネドいるか。灰狼、二頭見た」
マルクの手が止まった。
「どこ」
「石窯へ曲がる手前。低い林のとこ。夜明け前だ」
ティムが粉袋から顔を上げる。
「襲われた?」
「見られただけ。俺が止まったら向こうも止まった。近づいてはこなかった」
「二頭とも?」
男は少し考えた。
「一頭は見た。もう一頭は草の向こうで動いた。たぶん二」
二頭、までが直接見た情報ではない。
俺がそれを口に出す前に、男自身が言い直した。
「二頭いた、って言い切るのは違うな。一頭は見た。もう一つ、同じくらいの動きがあった」
最近、みんな少しずつ言い方が変わってきた気がする。
ネドは荷駄小屋から出てきて、話を聞いた。
「粉は今日じゃなくてもいいのか」
マルクが答える。
「夕方までなら今日。無理なら明日の朝でも窯は止まらん」
「じゃあ、昼前まで待つ」
ティムがすぐ聞く。
「狼がいなくなる?」
「知らん。ただ、夜明け前より人が動く。石窯から来るやつもいる」
「なるほど」
「あと地面が乾く」
そっちも大事だった。
雨の翌々日。
石窯へ向かう道は炭窯の支道ほど悪くないが、林の手前だけ土が深い。
昼前、粉二袋を左右へ載せた。
俺とティムも行くことになった。
護衛というほど大げさな話ではない。
ネドが「二人、暇なら来い」と言っただけだ。
マルクは聞こえる位置で粉袋を数えていた。
「暇じゃないって言ったら?」
ティムが聞く。
「別のやつ連れてく」
ネドが答える。
「行きます」
「決めるの早いな」
マルクが粉袋の横から顔を出した。
「行くなら、狼ばっか見て袋落とすなよ。こっちは食う物を待ってるんだから」
ティムが真面目な顔で頷く。
「狼に食われるより、マルクに怒られる方が先かもしれない」
「それ言えるなら余裕あるな」
石窯の男が吹き出した。
朝の目撃を聞いた時より、空気が少しだけ軽くなった。
ネドは笑わず、荷駄の腹帯を一度外して締め直した。
蹄の裏まで見て、左右の粉袋を空のまま当てて幅を確かめる。
「狼が出なきゃ、いつもの配送だ。出た時だけ勝手に別の仕事へ変えるな」
「別の仕事?」
「追いかけるとか、倒すとか」
ティムが俺を見る。
俺は先に視線を外した。
俺も行く。
最近は道ばかり見ていた。
荷駄と一緒に普通の道を歩くのが、少し久しぶりに感じた。
石窯へ向かう道は広くない。
でも、荷を降ろさなきゃ通れない根も、崩れた路床もない。
歩いている間、ティムは最初だけ狼の話をした。
「灰狼って、人も食う?」
ネドが前を向いたまま答える。
「腹減ってりゃ何でも噛む。人だから食うとか、食わんとか、本人に聞いたことはない」
「聞けたら逃げる?」
「しゃべったらな」
それからしばらく、狼の話は消えた。
荷駄の蹄。
袋の揺れる音。
俺の靴の裏で、小石が一つ転がる。
林の手前まで来た時だった。
荷駄が止まった。
ネドは引かなかった。
手綱を持ったまま、荷駄の耳を見る。
前へ向いていた耳が、左右へ細かく動いている。
鼻が鳴った。
ティムも黙った。
道には何もいない。
俺は一歩だけ横へ出た。
湿りの残った土に、跡がある。
犬より大きい。
四つ指。
爪が出ている。
ティムが近づこうとして、途中で足を止めた。
「踏まない方がいい?」
「見たいなら、横から」
俺が言うと、ティムは自分の靴を見てから半歩ずれた。
前ならそのまま跡の真ん中へしゃがんでいたかもしれない。
一列が道を横切っている。
縁がまだ崩れていない。
朝の雨はない。いつ付いた跡かまでは分からないが、古く乾いた感じでもない。
その少し奥に、もう一列。
二本は同じ方向ではない。
片方は林へ入り、もう片方は道に沿って少し続いて消えていた。
引きずった跡も、血も見えない。
何かを追っていたのか、ただ通ったのかも分からない。
「二?」
ティムが小声で言う。
「跡は二本ある」
俺も声を落とした。
「同時かは分からない」
ネドが手綱を少し戻す。
「曲がり角まで行かん。ここで広い方へ戻す」
「引き返す?」
石窯の男が聞いた。
「まだ決めてない。荷駄を狭いとこへ入れないだけ」
荷駄を五歩ほど戻す。
山側に低い石壁がある場所まで。
そこで、草の向こうが動いた。
灰色の背中が一瞬見えた。
大きい。
でも、飛び出してこない。
俺の頭の中では、もう剣を抜いたあとの動きまで進んでいた。
身体は、まだ立っているだけだった。
前の人生なら、その差はなかった。
今はある。
灰狼が草の間から顔を出した。
向こうも、こっちを見ていた。
第254話 倒すより先に、荷駄を石壁へ寄せた
【本文】
灰狼は動かなかった。
こっちも動かない。
距離は、二十歩あるかないか。
前の人生なら、その距離で相手の踏み込み方まで考えた。
首の高さ。前脚の向き。二歩目の逃げ道。
頭の中だけなら、今でも勝手に並ぶ。
でも今の俺は、まず自分の足がどこまで出るかを考える。
昨日の粉袋で張った腕も、雨道で疲れた脚も、前世の身体じゃない。
腰の短剣へ手を置く。
抜けば気持ちは楽になる。
その代わり、荷駄の横で刃物を振ることになる。
ネドが横目だけ寄こした。
「追うなよ」
「追いません」
「今の顔、追いそうだった」
「顔で決めるのやめません?」
ティムが小声で言う。
「俺には追いそうに見えた」
二対一になった。
灰狼の耳が立つ。
笑っている場合じゃない。
ネドは荷駄を低い石壁へ寄せた。
完全に背中をつけるわけじゃない。後ろ足が動けるだけの幅を残す。
「ティム、荷駄の左。レン、右。石窯の人は後ろで袋見て。荷駄が暴れたら狼より先に袋落とす」
石窯の男が粉袋の縄へ手を掛ける。
ティムは足元から拳くらいの石を一つ拾った。
「投げる?」
「まだ」
ネドが答える。
「近づけたくないだけなら、先にやることある」
ネドが声を張った。
「おい!」
低い声だった。
俺も続ける。
ティムも石を持ったまま叫ぶ。
灰狼の頭が少し下がった。
逃げない。
草の奥で、別の音がした。
俺の首筋が冷えた。
一頭じゃない。
今度は見えた。
もう一頭が、少し離れた場所で道の反対側へ回っている。
ティムが言う。
「二、いた」
今度は推測じゃない。
「見えてる」
ネドが返す。
「数えたなら次、荷駄見ろ」
ティムはすぐ視線を戻した。
荷駄の鼻息が速い。
右の粉袋が小さく揺れる。
俺は短剣から手を離した。
石壁の脇に、荷を支えるための長い木棒が一本括ってある。
ネドの道具だ。
「これ借りる」
「折るなよ」
「狼より棒?」
ティムが言う。
「棒は俺のだ」
こんな時でもネドはネドだった。
木棒を両手で持つ。
軽くはない。
前の身体なら片手でも扱えたと思う。
今は両手の方がいい。
一頭目が横へ動いた。
もう一頭も合わせるように位置を変える。
囲む、と決めつけるのは早い。
ただ、荷駄はそう思ったらしい。
後ろ足が石を蹴った。
粉袋が大きく一度揺れる。
石窯の男が反射的に袋を押さえた。
「脚の後ろ入るな!」
ネドの声が飛ぶ。
男がすぐ身体を引く。
蹴られれば、狼より先に怪我をする。
俺はそこでようやく、相手だけ見ていた自分に気づいた。
護衛する物は、狼の前にあるんじゃない。
横にも後ろにもいる。
「落とす準備!」
ネドが言う。
石窯の男が右袋の縄へ指を入れる。
その瞬間、一頭が二歩だけ走った。
こっちへ。
俺の頭の中では、横へ踏み、首の下へ刃を返す動きが出た。
身体が一歩目で遅れた。
――違う。
短剣じゃない。
木棒を横へ出す。
灰狼の鼻先と棒がぶつかった。
腕ごと押された。
重い。
足が半歩滑る。
【Lv3】
数字を思い出すより先に、肩が痛かった。
でも棒は離さない。
灰狼も止まった。
ティムの石が飛んだ。
狼には当たらない。
その横の石壁へぶつかって、乾いた音が鳴った。
灰狼の耳がそっちへ動く。
「外した!」
「今のでいい!」
俺が言う。
「え、当てないの?」
「当てて怒らせたいなら別だけど!」
自分で言いながら、それが正しいかは分からない。
ただ、今は距離が一歩増えればいい。
ティムは一瞬きょとんとしたあと、もう一つ拾った。
狼ではなく、さっきより少し遠い石壁を狙う。
今度は投げず、石同士を打ち合わせた。
カン、と高い音が出る。
石窯の男も後ろから声を出した。
人数の音が増えた。
灰狼は一歩下がった。
もう一頭も止まる。
ネドは追わない。
荷駄の手綱を短く持ち、ただその場を保つ。
「前出るな」
誰に言ったのか分からなかった。
たぶん全員だ。
十秒。
もっと長かった気がする。
一頭が草へ入った。
もう一頭は少し残った。
俺の木棒を見る。
ティムの手の石を見る。
荷駄を見る。
最後に、向こうが顔をそらした。
草が揺れて、灰色が消える。
誰も追わなかった。
消えたあとも、すぐには声を落とさない。
ネドが片手を上げ、俺たちをそのままの位置に残す。
草の音。
荷駄の鼻息。
遠くで石窯の槌らしい音が一度。
灰色は戻ってこない。
石窯の男が袋の縄から指を外した。
「……行った?」
「見えなくなった」
ネドが答える。
「行ったかは知らん」
誰もそれ以上確かめに行かなかった。
俺は棒を下ろした。
腕が震えていた。
ティムがそれを見る。
「大丈夫?」
「痛いけど、大丈夫」
「俺、石当ててない」
「当てなくてよかった」
「本当に?」
ネドが荷駄の鼻面を撫でながら言う。
「狼倒す仕事じゃない。粉二袋を石窯へ持ってく仕事だ」
それを聞いて、俺は妙に納得した。
前の人生なら、敵が出たら戦闘が始まった。
今は違う。
戦うことがあっても、それが目的とは限らない。
荷駄の呼吸が少し戻るまで、俺たちはその場を動かなかった。
第255話 護衛一回で、この道を安全とは言わなかった
【本文】
灰狼が消えてすぐには出発しなかった。
石窯の男が言った。
「今のうちに行った方がよくないか?」
ネドは首を振った。
「荷駄がまだ駄目だ」
見ると、耳は前を向いたり後ろを向いたりしている。
鼻息もまだ少し速い。
ティムが俺の腕を見る。
「レンもまだ駄目じゃない?」
「荷駄と一緒にするな」
「震えてる」
「棒を持ってたから」
「じゃあ棒と一緒」
意味が分からない。
でも、言い返しているうちに肩の力が少し抜けた。
ネドは林の方を見たまま、石窯の男へ聞く。
「朝見たの、あの大きさか」
「一頭はたぶん同じ。もう一つは草しか見てないから分からん」
「よし」
何がよしかは聞かなかった。
直接見たことと、見ていないことが混ざらなかっただけで十分だったんだと思う。
荷駄が草を一口かじった。
ネドが手綱を少し緩める。
「行く。林の中へは入らん。外の石地を回る」
そっちは距離が少し伸びる。
でも木が少なく、見通しがある。
道を作るわけじゃない。
今日、この荷を通すだけだ。
俺が先へ出ようとすると、ネドに止められた。
「横」
「前じゃなく?」
「お前が前行ったら、狼見つけて止まる。荷駄は後ろで何が起きてるか分からん。横で見ろ」
なるほど。
ティムが反対側へ入る。
「俺も横?」
「お前は荷駄見ろ。レンまで見始めるな」
「信用ないな」
「役割が違う」
今度はティムもそれ以上言わなかった。
石地を回る。
灰狼は出てこない。
草が揺れるたびに目が向く。
でも全部風だった。
石窯の柵が見えた時、俺より先にティムが息を吐いた。
「着いた」
「まだ柵の外」
石窯の男が言う。
「もう着いたでいいじゃん」
「粉降ろしてから言え」
粉二袋を降ろす。
袋は破れていない。
荷駄も怪我していない。
俺の肩も、痛いだけだった。
石窯の男が袋の底を確かめながら言う。
「朝のやつと同じかは分からんな」
「一頭は同じに見えたんじゃなかった?」
ティムが聞く。
「見えた気がした、だ。朝は暗かったし、今は近かった。狼の顔まで覚えてない」
ティムは「ああ」と言って、それ以上同じ個体にしなかった。
石窯の親方らしい男が粉袋を見て、それから俺たちを見る。
「狼は?」
ティムが答える。
「二頭見た。追ってない。倒してない。粉は二袋ともある」
妙に順番がきれいだった。
親方が頷く。
「なら十分だ」
それだけだった。
討伐証明もない。
牙も毛皮もない。
レベルも上がらない。
ゲームとして見るなら、何も増えていない。
でも、人も荷駄も粉も全部着いた。
俺はそっちの方が、今は少し嬉しかった。
帰りは、石窯から薪割りへ出る男が一人、同じ方向まで一緒になった。
護衛を増やすために呼んだわけじゃない。
本来の仕事が同じ道だっただけだ。
その男は狼の話を聞くと、腰の鉈へ一度だけ手をやった。
「最近、あそこにいたって話は?」
ネドが聞く。
「俺は聞いてない。昨日は反対の斜面にいた」
石窯で働いているから全部知っている、にはならない。
さっきの朝の目撃も、親方へ届いていたかどうかは俺たちが着くまで分からなかった。
四人と空荷の荷駄で戻る。
灰狼は出なかった。
途中、朝の足跡があった場所を見る。
新しい跡が増えたかどうかは、乾き始めた土では分からなかった。
ティムがしゃがもうとして、やめた。
「今日は追わないんだよね」
「追う用事ない」
俺が答える。
ネドも歩いたまま言う。
「次にここ使う時、まだいるなら考える」
「いなかったら?」
「その時は、その時」
受取場へ戻ったのは夕方前だった。
マルクが最初に聞いたのは狼じゃない。
「粉、着いた?」
「二袋とも」
石窯の男が答える。
「破れは」
「なし」
そこでようやく、ティムが言う。
「狼二頭いたよ」
マルクの顔が上がった。
「怪我は?」
「なし。レンの肩がちょっと痛い」
「お前は?」
「石投げた」
「狼に?」
「外した」
「なら怪我しようがないな」
「わざと外したんだって」
説明が始まりそうだったので、俺は粉袋の空いた場所へ腰を下ろした。
ゼンは話を聞いていたが、すぐ板を出さなかった。
「次に石窯へ荷を出すの、いつだ」
マルクが答える。
「まだ決めてない。向こうも今日の二袋で急ぎはない」
「じゃあ通行板までは要らん」
ゼンは日々の記録へ短く書くだけにした。
今日見た二頭。近接一回。人と荷駄の怪我なし。
「次に使う時、必要ならこの続き見る」
大きい板へ書けば、それだけで『ずっと危ない道』に見えるかもしれない。
何も書かなければ、今日のことが消える。
今は、その間でよかった。
灰狼二頭を直接見た。
一頭が近づいた。
追わず、荷を通した。
それ以上は、まだ決めない。
今日一回で、石窯への道が危険な道になったわけじゃない。
安全な道のままでもない。
次に使う時、必要なら見る。
夕方、腕の震えはなくなっていた。
代わりに粉袋を持った時みたいな鈍い疲れが残っている。
ティムが隣で腕を回した。
「狼いる時って、疲れてるの分かんないね」
「終わると来る」
「粉運ぶだけの日だったのに」
「粉は運べた」
ティムは少し考えて、笑った。
「じゃあ今日は成功か」
俺も笑った。
少なくとも、今日の目的だけなら。




