第235話 札を外したのは、行き先を聞いてからだった
【本文】
朝、エルナは細長い革を三本、床へ並べていた。
買ってきた革じゃない。
欲しい革の見本だった。
一本は腹帯に当てた古い革。もう一本は肩当て。最後の一本だけ新しく切った細い帯で、端に炭で線が引いてある。
「長さ、これ以上。厚みはこっち。柔らかすぎるのはいらない」
エルナが三本を重ねる。
ティムが横から覗き込んだ。
「書かないの?」
「革屋に字読ませるより、これ見せた方が早い」
「俺なら線の意味忘れる」
「だからお前に頼んでない」
朝からきれいに終わった。
革を取りに麦津へ行くのは、ネドだった。
昨日の荷駄とは別の一頭を連れている。北へ来た時に空になった油樽の留め金と、壊れた馬具金具を二つ籠へ入れ、帰りに革と交換部材を買って戻るらしい。
つまり、麦津へ行く理由はもうある。
俺たちが油の札を持ち出さなくても、ネドは行く。
壁を見る。
原預かり札は昨日と同じ釘に掛かっていた。
ティムも見た。
でも、今日はすぐ手を伸ばさなかった。
「ネド」
俺が呼ぶ。
「何だ」
荷駄の鼻革を直していたネドは、顔を上げない。
「麦津の革屋って、どこです?」
「西の荷場の裏。二軒並んでる方の古い店」
「油屋は?」
そこで手が止まった。
「油?」
俺が壁を指すと、ネドも札を見た。
「あれか。まだあったのか」
ティムが言う。
「壁の一部だった」
「壁は返金しないぞ」
ネドは鼻革を締め直してから立った。
「店は知ってる。革屋からなら遠くない。東の井戸を越えたところだ」
「店の人も?」
「顔は知らん。買ったことない」
そこが一つ残った。
店へ行ける。
場所も分かる。
でも、空壺を返した時の話を知っている人ではない。
ゼンが帳面を持って出てきた。
「原札だけ渡しても、何の返金か分からない可能性あるな」
「札に店の印はあるんだろ?」
ネドが聞く。
ゼンは壁から外さず、札の表を見た。
「店印と二壺目の刻みはある。空壺返却は別に記録してる」
「なら、その記録も持ってけばいい?」
ティムが言った。
「帳面ごとは持ってかない」
「そりゃそうか」
ゼンは小さな木片を一枚取り、空壺を返した日と、先に空壺を運んだ船頭の印だけ写した。
余計なことは書かない。
ネドがそれを見て眉を寄せる。
「俺、返金の使いじゃないぞ」
「革のついででいいです。寄れなかったら持って帰ってください」
俺が言う。
「寄って、店が分からんって言ったら?」
「札も持って帰る」
「銭が出たら?」
そこでティムが口を開きかけた。
俺より先に、受取場の男が戸口から言った。
「革代と混ぜるなよ」
手に麦の粉が付いている。
さっきまで袋口を見ていたらしい。
ネドが鼻で笑った。
「俺を何だと思ってる」
「銭を一つの袋に入れる男」
「二つ持つのが面倒なんだよ」
「今日は持て」
二人の間に、妙に具体的な信用があった。
受取場の男は小さな空の銭袋を投げた。
ネドが片手で受け取る。
「返金が出たらそこ。出なきゃ空で返せ」
ティムが男を見る。
「立替えた一銅貨も、その袋から返す?」
男は粉の付いた手を振った。
「それは別。俺が立てたのは俺が立てた分。油屋の預かり銭と混ぜるな」
ゼンがすぐ言う。
「そう。別勘定」
ティムが小さく唸った。
「一緒に片付けた方が楽なのに」
「楽だから混ぜると、あとで誰の銭か分からなくなる」
ゼンは木片をネドへ渡した。
最後に、原札だった。
俺は壁の前へ立つ。
釘から外すだけなのに、少し時間がかかった。
長くそこにありすぎた。
札の裏には、壁に当たっていた部分だけ色が薄く残っている。
ティムが覗く。
「跡ついてる」
「札じゃなくて壁にな」
札がなくなった場所に、小さな四角い跡があった。
俺は原札をネドへ渡した。
ネドは受け取って、すぐ銭袋とは別の胸袋へ入れた。
「なくしたら?」
ティムが聞く。
「戻らない」
「銭も?」
「俺が戻りたくなくなる」
それ以上聞かなかった。
荷駄が動き出す。
俺とティムもついていった。
革の買い付けを邪魔しないこと。
油屋へ寄れなければ諦めること。
帰りの銭を俺たちが勝手に使わないこと。
そこまで確認してから、赤崖を離れた。
ずっと壁に掛かっていた札は、ようやく荷物になった。
でも、まだ返金にはなっていなかった。
第236話 革を買ってから、油屋へ寄った
【本文】
麦津へ着いても、最初に油屋へは行かなかった。
ティムは着くなり東の井戸を探した。
「油屋、あっちだよね」
ネドが荷駄の手綱を引く。
「今日は革を買いに来た」
「分かってるけど、近いなら先でも――」
「革屋が昼に閉めたら、お前が腹帯になるか?」
「またそれ言う」
エルナから預かった三本の見本は、ネドの胸袋に入っている。
原札とは反対側だ。
俺たちは西の荷場を回った。
革屋は、店というより半分倉だった。
軒下に丸めた革が立て掛けてある。
中では男が一人、太い革を床へ広げ、端を切っていた。
ネドは挨拶より先に三本を出した。
「これ以上の長さ。こっちくらいの厚み。柔らかすぎないやつ」
男は一本ずつ指で曲げた。
最後の細い帯だけ裏返す。
「線は?」
「最低の幅」
「誰の注文」
「北の修理屋」
「エルナか」
名前が通った。
ティムが俺を見る。
声には出さない。
たぶん、ちょっと嬉しいだけだ。
男は奥から二枚出した。
一枚目をネドが曲げる。
「硬い」
「腹帯ならこっち」
二枚目。
ネドは見本と重ね、端を指で押した。
「これ」
「長いのは一本しかない。次は五日か、その先」
「一本でいい。今日は」
余計に買わなかった。
エルナが必要と言った分だけ切ってもらう。
金具も二つ受け取る。
値を確認し、銭を払う。
それが終わって、ようやくネドが俺を見た。
「油、行くぞ」
ティムが小さく拳を握った。
「何でお前が達成した顔なんだ」
「長かったから」
「まだ店にも着いてない」
前より少し、言われる側が変わっている。
東の井戸を越える。
油屋はすぐ分かった。
軒下に空の壺が並んでいた。
大きさがそろっていない。
同じものを売る店でも、使われた壺は同じ顔では帰ってこないらしい。
店先で若い男が口栓を削っていた。
ネドが胸袋から原札を出す。
「これの預かり銭。空壺は先に戻ってるはずだ」
男は札を受け取る。
すぐに銭へは行かなかった。
「二壺目?」
「そう書いてある」
「誰が壺返した?」
来た。
俺は口を出しかけて止めた。
ネドがもう片方の胸袋から、ゼンの木片を出している。
「北の帳面はこれ。返した日と、運んだ船頭の印」
若い男は木片を見て、店の奥へ声を飛ばした。
「親父、北の二つ目、返し入ってる?」
奥から、返事ではなく咳が聞こえた。
そのあとで「待て」とだけ来る。
ティムが俺の袖を引く。
「これ、分かってないやつ?」
「待てって言ってる」
「分かってない時も待てって言う」
「今しゃべると分かってても遅くなる」
ティムは口を閉じた。
しばらくして、奥から年配の男が帳面を持って出てきた。
原札を見る。
木片を見る。
帳面をめくる。
指が一度止まった。
「壺は戻ってる」
それだけで少し肩が軽くなった。
「返しは入ってるが、札が来てなかったから銭を残してある」
若い男が棚の下から小箱を出した。
年配の男が原札の端へ短い刃で一本線を入れる。
それから返金分の銭を数えた。
ネドは受け取る前に言った。
「俺の銭じゃない。別袋に入れてくれ」
若い男が怪訝な顔をした。
「持ってきた」
ネドが、受取場の男から渡された小袋を出す。
店の若い男が笑った。
「そこまで分ける?」
ネドも笑わない。
「帰ってから説明する方が面倒だ」
俺は少し笑った。
預かり銭が小袋へ入る。
口を縛る。
原札は店に残った。
線を入れたまま帳面の間へ挟まれる。
ティムがそれを見て聞いた。
「札、返さないの?」
年配の男が答えた。
「返したら、また持ってくるだろ」
「持ってこないよ」
「お前を知らん」
「それはそう」
妙に納得していた。
店を出る。
俺はネドの小袋を見る。
「これで返金は成立?」
ネドが言う。
「店ではな。北へ戻すまで俺の荷だ」
ティムがすぐ口を挟む。
「落としたら?」
「お前を先に探す」
「俺持ってない」
「うるさいから見つけやすい」
帰り道、革は荷駄の左。
金具は右。
預かり銭はネドの胸元。
原札はもうない。
長く止まっていた一つが、麦津では終わった。
でも、北ではまだ終わっていなかった。
第237話 預かり銭は戻った。一銅貨はまだ別だった
【本文】
帰りの赤崖で、ティムは何度もネドの胸元を見た。
三度目で言われた。
「増えないぞ」
「見てない」
「見てる」
「落ちてないか確認してるだけ」
「落ちたら俺が先に気づく」
「何で?」
「軽くなるからだ」
ティムは少し考えた。
「そんな分かる?」
「分からん」
「今の何だったの」
ネドは答えなかった。
俺は後ろで笑った。
麦津へ行く前、あの小袋は空だった。
今は銭が入っている。
それでも荷駄の重さが変わるほどではない。
大事なのは重さじゃなく、誰の銭か分かることだった。
受取場へ戻ると、エルナが先に革へ来た。
「見せて」
挨拶より早い。
ネドが丸めた革を下ろす。
エルナは広げ、指で曲げ、古い見本を重ねた。
「これならいける」
「長いのは一本しかなかった。次は五日か、その先だって」
エルナの手が止まる。
「一本?」
「注文分は足りる」
「じゃあ今はいい」
一瞬で終わった。
不足を聞いて、すぐ次を買い足すとは言わない。
そこからようやく、ネドが小袋を出した。
「油」
ティムが受取場の男を探す。
「戻った!」
男は奥から顔を出した。
「何が」
「預かり銭」
「お前が返してもらったみたいに言うな」
ゼンも帳面を持ってくる。
ネドは袋を床へ置かず、ゼンの前で口を開けた。
中身を数える。
ゼンは自分の記録を見た。
「合ってる」
「店では壺返却済み。原札は店が回収した。帳面にも残ってた」
「木片は?」
「返してもらった」
ネドがゼンへ渡す。
ゼンは原札のところへ一本線を引いた。
《二壺目 預かり銭 返金済》
書いてから、少し間を置く。
《原札 油屋回収》
ティムが壁を見る。
昨日まで札が掛かっていた釘だけ残っている。
「本当に終わった」
ゼンが顔を上げる。
「油屋の預かり銭は、な」
受取場の男がすぐ言った。
「俺の一銅貨は?」
ティムが「あ」と声を出した。
俺も忘れてはいなかった。
ただ、返金が戻ると、全部終わったような気分になる。
ゼンは帳面をめくった。
「立替え一銅貨は別。返金分から勝手に引かない」
男が眉を上げる。
「俺に返るなら同じじゃないのか」
「同じ人に行っても、理由が違う」
「帳面って面倒だな」
「面倒にしないための帳面だよ」
ティムが俺へ小声で言う。
「この会話、ずっと終わらないやつ?」
「たぶん昔からある」
受取場の男は一銅貨のことをしばらく言っていたが、麦袋が一つ届くとそっちへ行った。
本気で怒っているわけではないらしい。
返金分の銭は、ゼンが油の預かり銭として元の勘定へ戻した。
俺も触らない。
ティムは空いた釘を見ている。
「外すと、変な感じするね」
「何が?」
「昨日まであったものがない」
「終わったからな」
「でも一銅貨残ってる」
「別だから」
ティムは嫌そうな顔をした。
「その言い方、ゼンみたい」
「褒めてる?」
「分かんない」
エルナが向こうで新しい革を切り始めた。
刃を入れる前に、古い腹帯へ重ねている。
ネドの荷駄は水を飲んでいた。
今日、炉晶屑は一袋も動いていない。
北鼻にも行っていない。
麦の不足も出ていない。
それでも一つ、長く止まっていたものが終わった。
俺は空いた釘から目を離した。
前の人生では、道を作ることばかり覚えていた。
今は、道の途中に残ったものを、ちゃんと最後まで片付けることも覚えたい。
ただし、全部を一度に片付ける必要はない。
一銅貨はまだ残っている。
革も次の長物は五日か、その先。
東河港の次便量もまだ出ていない。
世界は、終わったものの隣で普通に次を残していく。
その方が、少しだけ本物らしかった。
第238話 炉晶一袋を頼まれた朝、知らない帆の話が来た
【本文】
次に動いたのは、一銅貨じゃなかった。
朝、ネドが塩袋を二つ載せて赤崖を上がってきた。
荷駄の左右が白く粉を吹いている。
受取場へ着くなり、荷を下ろすより先に俺へ顎を向けた。
「浜の鍛冶から伝言」
ティムが麦袋の陰から出てくる。
「炉晶?」
「何でお前が答える」
「前に買ったから」
「一袋だけ欲しいと。細かい砂は要らん。前くらいの欠片。今日俺が下りるなら載せてくれってさ」
一袋。
その言い方で、少し安心した。
前に二袋売れたから四袋、六袋と勝手に増えたわけじゃない。
買う側にも今使う量がある。
選別場へ行くと、底革を直した二袋が棚の下に残っていた。
もう二袋はまだそのままだ。
女は俺たちを見るなり言った。
「二つ持ってけば?」
ティムの口が開く。
でも、俺より先にネドが言った。
「一つって言われた」
「どうせ次も使うだろ」
「どうせで荷駄に載せるな」
女は袋を一つ蹴るように寄せた。
「じゃあこっち。大きいの多い」
エルナが縫い物の手を止めずに横から見る。
「底は昨日直した方?」
「そう」
「なら縫い目だけ見せて」
袋を倒し、底を確認する。
糸は浮いていない。
角ばった欠片が一か所へ寄りすぎてもいない。
俺は中身を増やさなかった。
女も増やそうとはしなかった。
前回の遅れが、少しは残っているらしい。
受取場へ戻ると、ゼンが新しい板を掛けていた。
《東河港 次便十袋見込》
《積込 明後日予定》
《水位 横ばい》
ティムが炉晶袋と板を交互に見る。
「十袋って少ない?」
マルクが粉のついた手を払った。
「何に対して」
「次の分」
「またそれか」
石窯は明後日まで粉がある。
炭窯は人が増えていない。
受取場の残りと挽き場の予定を合わせても、今日急いで何かを買う状態ではない。
十袋が多いか少ないかは、まだ決まらなかった。
「じゃあ今日は炉晶?」
ティムが言う。
「今日はネドの帰りに一袋が乗るだけ」
「俺たちも行く?」
ネドが嫌そうな顔をした。
「何しに」
俺は少し考えた。
前回、鍛冶は量を先に言えと言った。
今回は鍛冶から一袋と指定が来た。
本当なら、荷だけ渡して終わりでもいい。
「買う側が本当に一袋だけなのか、直接聞きたい」
「俺が聞いてきた」
「そうですよね」
「じゃあ来るな」
正しい。
ティムが俺を見る。
口元が少し笑っている。
「レン、最近ちゃんと止まるね」
「今のは止められたんだよ」
ネドが鼻で笑った。
結局、俺たちは行かなかった。
炉晶屑一袋だけが、塩を下ろして空いた籠へ入った。
荷駄が赤崖を下り始める。
その背中を見送ったところで、今度は別の声がした。
「レン!」
坂の下からハナが上がってきた。
今日は船じゃない。
肩に網針の束を掛けている。
息を整えるより先に、ティムが聞いた。
「何かあった?」
「別に。網糸取りに来ただけ」
言いながら、ハナは俺たちの後ろを見る。
「ネド、もう下りた?」
「今」
「じゃあ見るかもね」
「何を?」
ハナは網針を肩で持ち直した。
「鴎泊に知らない帆が入ってる。青い継ぎ当てのあるやつ」
ティムの顔が一瞬で変わった。
「船?」
「帆って言ったでしょ」
「どこから?」
「知らない。朝、風避けで入ってきた。船首の金具が割れたとかで、鍛冶のとこ行ってた」
俺は、赤崖の下へ消えかけたネドを見る。
炉晶屑一袋を積んで、浜の鍛冶へ向かっている。
そこに、俺たちの知らない船がいる。
ティムが俺を見る。
今度は俺も、止まるのに少し時間がかかった。
「……網糸、どこで取るの?」
「受取場の裏」
「手伝う」
「何で?」
「早く終わったら、下りる理由になるかなって」
ハナが真顔で言った。
「ならないよ」
マルクが後ろで笑った。
それでも、知らない帆のことは頭から離れなかった。
第239話 鴎泊に、俺たちを知らない船が泊まっていた
【本文】
午後、下りる理由はちゃんとできた。
ネドが戻ってこなかったから――ではない。
ハナが受取場で受け取った網糸の束が思ったより多く、一本を肩に担いだまま赤崖を下りることになった。
俺とティムは半分ずつ持った。
「これ、俺たちが運ばないと駄目だった?」
ティムが前で聞く。
ハナは振り返らない。
「頼んでないよ。二人が来るって言うから持たせた」
「利用された」
「お互い様でしょ」
正しかった。
鴎泊が見える位置まで下りた時、最初に目に入ったのは帆だった。
ハナの船より二回りほど大きい。
ただし大きな商船ではない。
帆の下半分に、青い布が三角に縫い足されている。
遠くからでも継ぎ当てだと分かった。
「本当に青い」
ティムが言う。
「そこ疑ってたの?」
「ちょっと」
浜へ降りると、知らない船は岸へ横付けされていなかった。
少し沖へ置き、細い渡し板だけ伸ばしている。
船底が浅瀬を嫌っているらしい。
浜の鍛冶場にはネドがいた。
炉晶屑の袋はもう開いている。
鍛冶の男は欠片を一つ炉脇へ置き、俺たちを見るなり言った。
「一袋で足りる。次はまだ要らん」
俺が聞く前だった。
ティムが小声で言う。
「直接聞く必要なかったね」
「言うな」
ネドはもっと小さく笑った。
炉の外には、見慣れない鉄金具が置かれていた。
太い棒の先が曲がっている。
「それ、船の?」
ティムが聞く。
鍛冶の男は炉晶を選びながら答える。
「舵の留め。割れたんだと」
その時、店の外から声が飛んだ。
「割れたんじゃない。前から割れかけてたのを、ここの波で止め刺しただけだ」
声の主は、袖を肘までまくった男だった。
日に焼けている。
でもハナたちとは服の縫い方が違う。
腰に細い革袋を二つ下げていた。
ハナが網糸を床へ置いた。
「同じでしょ」
「違う。俺の整備が悪かったみたいに聞こえる」
「悪かったんじゃないの」
男は一度口を開いて、やめた。
たぶん悪かったらしい。
「ドアン」
名乗ったのか、ハナが呼んだのか分からないくらいのタイミングだった。
男は俺たちを見る。
「北の?」
「北から来ただけ」
俺が答える。
「それを北のって言うんだろ」
ティムが船を見る。
「どこから来たの?」
「東」
「東のどこ?」
「お前、荷買うのか?」
「いや」
「じゃあ細かいな」
ネドが横から言った。
「こいつは細かい」
「ネドに言われたくない」
いつの間にか、ティムとネドの間だけ話が早くなっている。
俺は船を見る。
渡し板の向こう、甲板の端に袋が四つ見えた。
麦袋と似ている。
でも、北側で使っている袋とは縫い目が違う。
見ていたのが分かったらしい。
ドアンが言った。
「二つは大麦。二つは干し豆。売り物だけど、ここで全部売る気はないぞ」
ティムがすぐ俺を見る。
俺は先に言った。
「今、北は急ぎじゃない」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってた」
ネドが吹き出した。
ティムが睨む。
「みんな俺の顔読むのやめて」
ドアンは炉脇の炉晶へ目を向けた。
「それ、北の石か?」
鍛冶の男が返す。
「屑。石じゃなくて炉晶」
「燃えるやつ?」
「燃やすんじゃない」
鍛冶の男が一欠片を小皿へ置く。
熱が入ると、縁から淡く赤くなる。
ドアンが少し前へ出た。
その目つきが変わった。
商品を見る目だった。
「これ、どれくらい出る」
聞かれたのは俺じゃない。
でも、ティムが俺を見る。
俺は首を振る。
「俺、売り主じゃない」
鍛冶の男が笑った。
前にティムが言われたのと、ほとんど同じだった。
ドアンは気にせず続ける。
「東じゃ見ない。細かいのでこれなら、持って帰れば欲しがる鍛冶はいる」
「持って帰る?」
ティムが聞いた。
「船は戻るからな」
「どこへ?」
「潮入浦。そこから先は荷次第」
初めて聞く名だった。
ティムの顔から、軽口が消えた。
俺もたぶん同じだった。
ドアンは炉晶を見ている。
俺は船の大麦袋を見ていた。
北で余るものを、海の向こうが欲しがる。
海の向こうには、北で足りなくなるものが載っている。
前の人生と、形が似ていた。
違うのは、白嶺が間にないことだけだった。
第240話 地図に線は引かず、点だけ増やした
【本文】
ドアンの船は、その日のうちには出られなかった。
舵の留め金が冷えるまで待つ必要があった。
風も夕方までは強いらしい。
だから時間はあった。
でも、商談を始める時間ではなかった。
少なくとも俺は、そう思った。
「潮入浦って、麦あるの?」
ティムが聞く。
聞いた。
俺は横を見る。
「何」
「いや」
「今の聞いちゃ駄目だった?」
ドアンは船縁へ腰を掛け、革袋から干した果実を一つ出した。
「ある時はある」
「ない時もある?」
「畑なんだから当たり前だろ」
ティムは少しむっとした。
「東河港より多い?」
「知らん。東河港の畑見たことない」
質問が一つずつ潰れていく。
でも、嫌な感じはしなかった。
分からないものを、分かった形にしない人だった。
俺は船の大麦袋を指した。
「それは潮入浦の?」
「一つはそう。もう一つは、その手前の浜で買った」
「同じ袋なのに?」
「袋は俺のだ」
なるほど。
袋の見た目で産地を決めなくてよかった。
ドアンは干し果実を半分かじる。
「北で麦足りないのか?」
「今は足りてる」
「じゃあ何でそんなに聞く」
少し迷った。
海路を作りたい、と言えば早い。
でも、まだ作っていない。
「白嶺に寄らない食べ物の道があるか、見てる」
ドアンは噛むのを止めた。
「白嶺?」
「昔の街道」
「ああ。崩れたやつ」
知っている。
当然かもしれない。
世界から消えた道じゃない。通れなくなった道だ。
「海で代わり作るのか?」
「作れるかも、まだ分からない」
「船欲しいなら高いぞ」
「買わない」
「港作るならもっと高い」
「作らない」
ティムが横で笑い始めた。
ドアンが眉を寄せる。
「何がしたいんだ」
俺も笑いそうになった。
確かに、今の答えだけ聞けば何もしたくない人だ。
「ある道を知りたい」
ドアンの顔が少し変わった。
「それなら最初からそう言え」
船の横板を指で二回叩く。
「俺は潮入浦から西へ来る。毎回ここじゃない。風と荷で寄る浜が変わる。魚が多い日は魚を載せるし、豆が高いと聞けば豆を載せる。戻りに塩を持つこともある」
ティムが身を乗り出す。
「何日ごと?」
「決めてない」
「次は?」
「決めてない」
「予定ないの?」
「船で予定ぴったり欲しいなら川舟に乗れ」
ハナが少し離れたところで網糸を巻きながら言った。
「川舟でもずれるよ」
「じゃあ歩け」
「崖がある」
ネドまで混ざった。
ドアンが額を押さえた。
「面倒な土地だな」
俺は笑った。
その面倒な土地で、俺たちはずっと運んでいる。
「大麦を鴎泊で売ることはある?」
俺が聞く。
「値が合えば。一袋だけでも売る。全部売れって言われたら売らん時もある。次の浜で約束してる荷を空にするわけにいかん」
前に麦津で聞いた話と同じだ。
在庫があることと、売れることは別。
「炉晶は?」
今度はドアンから聞いた。
俺は鍛冶場を見る。
一袋分はもう鍛冶のものだ。
北には残りがある。
でも、俺のものではない。
「売る人に聞いて」
「お前、何しに来たんだ」
「道を見に」
「本当にそれだけか」
ティムが横から言った。
「最近ずっとそんな感じ」
余計だった。
夕方、留め金が戻った。
鍛冶の男とドアンが船へ運ぶ。
俺たちも渡し板を押さえた。
その時、船の一番奥に小さな木箱があるのが見えた。
上に炭で文字が書いてある。
《潮入》
行き先じゃなく、荷主の印かもしれない。
でも、口で聞いた名前と同じだった。
ドアンが舵を動かす。
一度。
二度。
「これなら出る」
鍛冶の男が言う。
「次壊したら、割れる前に持ってこい」
「次は壊さない」
ハナがすぐ返す。
「前もそう思ってたんでしょ」
ドアンは答えなかった。
風が少し落ちる。
今日出るか、朝まで待つかはまだ決めていないらしい。
俺は受取場へ戻る前に、浜の古い板切れを一枚借りた。
地図というほどじゃない。
鴎泊と赤崖と北鼻だけ、今まで歩いた形で簡単に書く。
その東側。
ティムが覗く。
「線、引かないの?」
「一回会った船の道を線にしたら、道に見えるだろ」
「じゃあ?」
俺は少し離れた場所へ、小さな丸だけ書いた。
《潮入浦 伝聞+船一隻確認》
線はない。
距離も正確じゃない。
大麦の量も、次に来る日も分からない。
炉晶を向こうが本当に買うかも分からない。
分からないことだらけだった。
でも、昨日まで海の向こうには何も書いていなかった。
今日、点が一つ増えた。
ティムがその丸を見る。
「これ、ゲームだったら新しい町見つけた感じしない?」
「町かどうかも見てない」
「そこは乗ってよ」
「じゃあ、新しい点を見つけた」
「弱い」
そう言いながら、ティムは笑っていた。
俺も、少し笑った。
前の人生では、道を見つけるとすぐ線を引いた。
線を引くと、人が通った。
人が通ると、世界が変わった。
今度は、点のまま少し置いてみる。
それでも次が気になるなら、たぶん本物だ。




