↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
69/97

第229話 帰りの荷駄が空だと、ティムはもったいないと言った


【本文】

十二袋が届いてから二日、麦のことで走る人はいなかった。

石窯は朝の分を焼き、炭窯はいつもの人数で火を見ている。

受取場の隅には、挽く前の袋が三つ。どれも今日中に触る必要はない。

ゼンの板にも、新しい赤い印はなかった。

「平和だね」

ティムが言った。

マルクは袋の口を縛り直しながら、顔も上げない。

「二日で平和って言うな」

「じゃあ、暇?」

「お前が暇なだけだ」

否定できなかったらしく、ティムは外へ出た。

俺もついていく。

赤崖の上で、ネドが荷駄の腹帯を締め直していた。

上ってきた時に載せていた袋は、もう受取場へ降ろしてある。

左右の籠は空だった。

ティムが目を細める。

「帰り、空なんだ」

「見りゃ分かる」

「もったいなくない?」

ネドの手が止まった。

腹帯の端を持ったまま、ティムを見る。

「何が」

「だって、下まで行くんでしょ。空で」

「空だから行ける速さもある」

「でも何か積めば――」

「下りで足滑らせた荷駄、起こしたことあるか?」

ティムが口を閉じた。

ネドは腹帯を引いた。

「荷は行きだけの重さじゃない。帰りにも積むなら、一日ずっと荷持ちだ。餌も休みも変わる」

俺は空籠を見た。

前なら、俺もティムと同じことを言ったかもしれない。

空いているなら使えばいい。

道があるなら運べばいい。

その考えで、前の人生では道を太くした。

「それでも、軽いものなら?」

聞いたのは俺だった。

ネドが俺を見る。

「軽いだけじゃ決まらん。片側だけ重いのも嫌だ。揺れるのも嫌だ。急がせるのはもっと嫌だ」

「注文多いね」

ティムが言う。

「荷駄に聞いたら俺より多いぞ」

その時、受取場の方から金属の擦れる音がした。

振り返ると、エルナが革袋を膝で押さえていた。

針を通しているのは袋の底だ。

すぐ横に、灰青色の欠片がいくつか転がっている。

炉晶だった。

高純度の柱でも、大きな塊でもない。

選別の途中で欠けた、指先から親指ほどの小片。

「踏むなよ。靴底に刺さるから」

エルナが言った。

ティムは上げかけた足を戻した。

「これ、何の袋?」

「選別場の。底が負けた」

袋の持ち主らしい女が、壁際で別の袋を畳んでいた。

手の爪の間まで灰色だ。

「細かいのだけ入れると、角が集まってすぐ穴になるんだよ。大きいのより面倒」

エルナが縫い目を引く。

「だから薄い革一枚足す。次も同じ詰め方したら、また持ってきて」

「持ってきたくないから直してもらってんだけど」

二人とも笑わない。

冗談ではなく、本当にそうらしい。

女が空の荷駄へ目を向けた。

「あれ、鴎泊まで下りる?」

ネドが嫌そうな顔をした。

「下りるけど、何を思いついた」

「前に浜の鍛冶が、屑でいいからあったら持ってこいって。これくらいなら捨てるよりましだろ」

女は足元の欠片を一つ拾った。

その言葉で、胸の奥が少し冷えた。

前の人生でも、最初はそんな話だった。

余っている。

向こうでは欲しがっている。

道はもうある。

だったら運べばいい。

間違ってはいない。

一つずつなら、全部正しかった。

ティムが俺を見る。

「軽いんじゃない?」

「欠片だけならな」

ネドが答えた。

「でも袋にしたら別だ。あと、片方だけ載せるなよ」

女が鼻を鳴らす。

「二つに分けりゃいい?」

「同じ重さなら、まだ話はできる」

まだ話はできる。

運べる、ではない。

俺はその言い方が気に入った。

「今日は載せない方がいいと思う」

ティムがすぐこっちを向いた。

「なんで?」

「今、袋も直してる途中だし。下で本当に買う人がいるかも、俺は知らない」

女が言う。

「いるよ。前に言われた」

「じゃあ、次に空で下りる時までに、二袋に分けて重さ合わせよう。売れなかったら持って帰れる量で」

ネドが横から足す。

「帰りも俺の荷駄だからな」

「そこも」

ティムが少し残念そうに炉晶片を見る。

「今日、平和だったのに」

マルクが受取場の戸口から声を飛ばした。

「平和だから余計なこと思いつくんだよ」

誰も否定しなかった。

その日の夕方、俺はエルナの横で二つに分けられた小袋を見た。

まだ口は閉じられていない。

運ぶかどうかも決まっていない。

ただ、食料を運んで戻る道に、初めて「帰りの荷」の話が出た。

それだけで、道の意味が少し変わった気がした。

第230話 屑炉晶一袋で、空荷は空荷じゃなくなった

【本文】

次にネドが下りたのは、翌朝ではなかった。

一日空いた。

その間に東河港の水位は「少し上がった」とだけ届いた。

次便の量はまだ書かれていない。

石窯にも炭窯にも、急ぎの札はない。

炉晶の小袋は、受取場の棚の下で待っていた。

ティムは三回くらい見た。

三回目でマルクに言われた。

「見ても軽くならんぞ」

「重さ覚えようとしてる」

「手で?」

「……雰囲気で」

「覚えるな、それ」

二袋は同じくらいの大きさだった。

エルナが底を二重にしてある。

選別場の女は、中身を増やしていない。

それが良かった。

売るために新しく屑を作ったわけではない。

今まで隅へ寄せていたものを分けただけだ。

昼前、ネドが荷駄を連れてきた。

北側へ運んだ荷を降ろした帰りだ。

「今日なら一つずつ左右に入る。ただし、他は載せん」

女が袋を持ち上げた。

「二つとも?」

「二つに分けた意味なんだと思ってた」

ティムが小声で俺に言った。

「ネド、今日ちょっと機嫌悪い?」

「たぶん普通」

「普通がこれ?」

聞こえていたらしく、ネドが振り返った。

「置いてくぞ」

ティムは急いで一袋を持った。

すぐ顔が変わる。

「軽くはない」

「だから雰囲気で覚えるなって言った」

俺ももう一袋を持つ。

麦袋よりは小さい。

でも炉晶は見た目より重い。

腕だけで上げると手首に来る。

今の身体では、こういう時に昔との差がはっきりする。

持てる。

でも、持ち続けられる重さではない。

ネドが俺の持ち方を見た。

「腰近づけろ。腕でぶら下げるな」

言われた通りにすると少しましになった。

【Lv3】

視界の端に表示が出たわけではない。

でも、身体の方がそう言っているみたいだった。

前の人生なら考えなかった持ち方を、今は一つずつ覚え直す。

左右の籠へ入れる。

ネドは紐を締め、荷駄を二歩歩かせて止めた。

右を触る。

左を触る。

もう一度歩かせる。

「これなら下ろす」

ティムが嬉しそうに言った。

「帰り荷、初成功」

「まだ上だ」

「厳しい」

赤崖の下りは、空荷の時より遅かった。

それでも麦袋を上げる時ほどではない。

途中で一度止まり、腹帯を締め直した。

炉晶袋は動いていない。

俺は荷駄の横を歩いた。

前を行くネドが振り返らずに言う。

「空で戻る日と同じ数、往復できると思うなよ」

「今日ので?」

「今日一回なら変わらん。毎回なら変わる」

ティムがすぐ聞く。

「どれくらい?」

「毎回やってから聞け」

「毎回やったら遅いじゃん」

「だから先に決めるなって言ってる」

最近、同じことを別の人から何度も言われている気がする。

鴎泊へ着くと、ハナはいなかった。

船が一艘出ている。

浜の鍛冶場から、槌の音だけ聞こえた。

炉晶の袋を持っていくと、鍛冶の男は手を止めなかった。

鉄片を挟んだまま、顎で床を指す。

「そこ。口だけ開けて」

選別場の女から聞いた名を出すと、「ああ」とだけ言った。

本当に話は通っていたらしい。

男は一欠片だけ拾う。

光へかざさない。

爪で表面を擦り、炉の脇に置いた小皿へ入れた。

しばらくして、欠片の縁が赤く光った。

「前のと同じくらい。細かすぎるのは要らん。砂みたいなの混ぜるな」

ティムが聞く。

「二袋、全部買う?」

鍛冶の男はそこで初めてティムを見た。

「お前が売り主?」

「違う」

「じゃあ聞くな」

ティムが俺を見る。

俺も売り主ではない。

ネドが選別場の女から預かっていた短い木札を出した。

前回の値と、二袋まで売っていいことが刻んである。

鍛冶の男はそれを読み、もう一度袋を見る。

「二つとも置いてけ」

銭を数えた。

大儲け、というほどではない。

でもネドが受け取った額を見て、俺は少し黙った。

今回の帰り道に荷を載せた分の手間と、荷駄の餌を考えても、余る。

ティムも同じ計算をしたらしい。

口が開いた。

「これ、帰りに毎回――」

ネドが先に言った。

「毎回って言うな」

「まだ最後まで言ってない」

「顔が言ってた」

鍛冶の男が槌を持ち直した。

「同じ屑なら、次も買うぞ。量は先に言え。こっちも炉の都合ある」

槌が落ちる。

話はそれで終わった。

外へ出る。

潮の匂いがした。

ティムが小声になる。

「売れたね」

「売れた」

「帰りの荷って、すごくない?」

すごい。

行きの食料だけで金を取る道より、帰りにも売れるものがある道の方が強い。

荷駄の往復が稼げるなら、食料を運ぶ側の負担も減る。

昔の俺なら、そこで喜んだ。

今も、喜ばないわけじゃない。

ただ、胸の奥に別の景色が重なっていた。

炉晶を積む荷車。

南から来る麦。

人の増えた道。

畑から消えていく手。

全部、最初は便利だった。

俺は帰り道、ティムにその話をしなかった。

まだ二袋だ。

二袋だからこそ、急いで意味を決めない方がよかった。

第231話 帰り荷が儲かると、道は勝手に太くなる

【本文】

銭は、その日のうちに選別場の女へ戻った。

ネドが木札と一緒に渡す。

女は数えたあと、もう一回数えた。

「屑だぞ、これ」

「浜じゃ屑じゃなかった」

「じゃあ次、四袋くらい――」

「待って」

言ったのは俺だった。

自分でも、少し早かったと思う。

女がこっちを見る。

エルナも、針を持ったまま顔だけ上げた。

ティムはたぶん「言うと思った」という顔をしている。

「何?」

俺はすぐ答えなかった。

四袋が多いからではない。

二袋なら安全で四袋なら危険、という話でもない。

問題は、売れると分かった瞬間に数が増えたことだった。

「今ある屑って、どれくらいです?」

女が肩をすくめる。

「袋にしたら……六、いや、細かいの抜いたら四つくらい。今ある分だけなら」

「それ、売るために選別を増やさなくても出る?」

「今まで通りなら出るよ」

エルナが革を引きながら言う。

「でも売れるってなったら、拾い方変わるだろうね。今まで床に落ちた細かいの、全部捨ててたし」

女がエルナを見る。

「拾うくらいならいいだろ」

「私は袋を直す回数増えるだけだから、どっちでもいい」

どっちでもよくなさそうな言い方だった。

ネドが壁へ背を預けた。

「荷駄の帰りも増やす前提にするなよ。空で下ろしたい日もある」

「毎回じゃなくていい。空いてる日だけ」

女が言う。

ティムが俺を見る。

「それならよくない?」

悪くない。

むしろ、かなりいい。

捨てていたものに値段が付く。

空だった帰り道に荷が乗る。

その銭で、行きの食料運びの負担を少し下げられるかもしれない。

ゲームなら、きれいな循環に見える。

行きに麦。

帰りに炉晶。

往復で無駄が減る。

前の人生で、俺が作ったのもそれだった。

「レン?」

ティムに呼ばれて、俺はエルナの手元を見た。

針が止まっている。

みんな、俺の返事を待っていた。

違う。

俺が決めることじゃない。

前の人生で失敗したのは、道を作ったことだけじゃない。

自分が見つけたから、自分が一番分かっていると思ったことだ。

「俺が止める話じゃないと思う」

女の眉が少し動いた。

「じゃあ四袋?」

「でも、四袋の注文はまだ受けない方がいいと思う。今ある屑を、自然に空で下りる荷駄へ載せられる日にだけ載せる。それで、どれくらい選別の手間が増えるか、荷駄が遅くなるか、先に見たい」

ティムが言う。

「売れる量じゃなくて、増える仕事を見る?」

「うん」

ネドが壁から背を離した。

「それなら俺は文句ない。載せる日は俺が決める」

女は少し考えた。

「じゃあ、今ある分は取っとく。わざわざ屑作れとは言わない」

エルナが笑った。

「わざわざ屑作る工房あったら嫌だよ」

ティムが吹き出した。

女は笑わなかった。

「売れるなら、そのうち出るかもよ」

誰もすぐ返さなかった。

冗談に聞こえなかったからだ。

午後、マルクとゼンへ結果を伝えた。

ゼンは帳面に書く。

《炉晶屑 帰り荷 二袋 売却成立》

その下で筆が止まった。

「次は?」

「未定で」

「量も?」

「未定」

「値は?」

「今回だけの実績」

ゼンが俺を見る。

「珍しく慎重だな」

「珍しくは余計です」

マルクが袋を数えながら言う。

「食い物は?」

「今日は足りてます」

「明日以降は?」

「まだ見てない」

「じゃあ、そっち忘れるなよ」

炉晶が売れた瞬間でも、マルクの目は麦の方に向いていた。

それが少し安心した。

受取場の外では、ティムがネドの荷駄を見ていた。

今日はもう下りない。

空の籠が左右で揺れている。

「ねえ」

俺が出ると、ティムが言った。

「帰り荷で銭が入るなら、麦の運び賃、安くできる?」

「できるかもしれない」

「じゃあ、いいことじゃん」

「うん」

「でも嬉しそうじゃない」

少し迷った。

前の人生の話はできない。

でも、何も言わないのも違う。

「儲かる道って、使う人が増えるだろ」

「そりゃ」

「人が増えたら、その道に合わせて仕事を変える人も出る」

ティムはすぐには答えなかった。

空籠の揺れを見ている。

「炉晶をもっと取る人が増えるってこと?」

「かもしれない」

「それで麦作る人が減ったら?」

俺はティムを見た。

そこまで自分で来た。

「困る」

「うん」

「でも、今は屑二袋だよ」

「だから今見るんだと思う」

ティムはしばらく黙ったあと、空籠を軽く叩いた。

「じゃあ次、何袋までならいい?」

「まだ数えない」

「またそれ」

「次に空で下りる日が来たら、その時ある屑を見る」

「四袋あったら?」

「ネドに聞く」

「六袋なら?」

「ネドが逃げる」

少し離れたところから声が飛んだ。

「聞こえてるぞ」

ティムが笑った。

俺も笑った。

でも、空の荷駄を見ながら思う。

前の人生で、道が太くなった瞬間を俺は覚えていない。

一本の荷車だったのか。

一人の商人だったのか。

もっと小さな、誰かの「もったいない」だったのかもしれない。

今はまだ、屑炉晶二袋。

食料を運ぶために見つけた道に、金になる帰り荷が乗った。

その変化だけは、見落とさないでいたかった。

第232話 四袋の屑より、一本の腹帯が先だった

【本文】

次の空荷は、二日後に来た。

その間に東河港から届いたのは、短い板一枚だけだった。

《水位 少し上》

《次便量 未定》

ゼンは板を掛け替えて、それ以上書かなかった。

石窯にも炭窯にも、急ぎの札はない。

受取場には挽く前の麦が残っている。

食料の話が静かなままなのを確認してから、俺は外へ出た。

ネドの荷駄が一頭、柵につながれていた。

荷はない。

ティムがもう見つけている。

「今日こそ空いてる」

「声が嬉しそうだな」

ネドは荷駄の腹の下へ手を入れていた。

前に炉晶屑を積んだ方とは別の一頭だ。

腹帯の端が外され、エルナが地面へ広げている。

革の縁が白く擦れていた。

ティムがしゃがむ。

「切れた?」

「切れる前」

エルナは返事をしながら、擦れた革を指で曲げた。

細いひびが何本か開く。

「これで荷を締めて、赤崖の途中で裂けたら笑えない。縫い足すだけじゃ持たないから、革を当てる」

選別場の女が、その横に炉晶屑の袋を四つ置いた。

前より増えている。

「ちょうど空で下りるんだろ。二つずつでいいじゃない」

ネドは腹帯から目を離さない。

「今日はこいつ、空で下ろす」

女の眉が上がった。

「空で?」

ティムも同じ顔をした。

「直した腹帯、いきなり荷載せて試す気か?」

ネドが言う。

「試すって、歩くだけ?」

「歩くだけが一番分かる。何も載せずに締めて、下までずれなきゃ次だ」

ティムは四つの袋を見る。

「でも、二つくらいなら――」

「お前が腹帯なら載せる」

「俺、腹帯じゃない」

「じゃあ黙って見とけ」

エルナが吹き出した。

女は袋を一つ持ち上げる。

「こっち二つは底も直ってるよ」

「直ってる袋と、直したばっかの腹帯は別の話」

ネドはようやく顔を上げた。

「帰り荷で稼げるのは分かった。でも荷駄が先。こいつが歩けなくなったら、麦も炉晶も運ばん」

その言い方は、前回より少し強かった。

たぶん二袋が売れたからだ。

売れたことが、次を当たり前にしそうになっている。

俺は四袋を見た。

二つは底革が新しい。

残り二つは口だけ縛ってある。

床へ置くと、角ばった欠片が底へ寄る。

エルナがそっちを見て言った。

「残り二つ、今日はやらないよ」

女がすぐ返す。

「なんで。革あるでしょ」

「あるけど、腹帯が先。あと、ネドの肩当ても擦れてる」

「炉晶袋なんて底だけじゃん」

「底だけでも針は同じ一本」

言いながら、エルナは腹帯へ穴を開けた。

革針を押す指に力が入る。

「袋は売るため。こっちは歩かせるため。今日はこっち」

女は少し不満そうだった。

でも、文句はそこで止まった。

ティムが俺へ小声で言う。

「売れるのに、順番後なんだ」

「売れるから先、にはならないってことだな」

「でも袋直さないと売れない」

「だから仕事が増えた」

ティムは四つの袋と、一本の腹帯を見比べた。

二袋売れた時、増えたのは銭だけじゃなかった。

拾う手間。

分ける手間。

袋を直す手間。

荷駄へ載せる手間。

そのどれかが、元からある仕事と同じ場所を取り始める。

前の人生では、たぶんそこを「忙しくなった」で済ませていた。

忙しいのは繁盛している証拠だと思っていた。

今は、その忙しさが何を押し出すのかを見ておきたい。

エルナが新しい革を重ね、腹帯を縫い始める。

ネドは荷駄の背を撫でた。

ティムがまた四袋を見る。

「じゃあ、今日は本当に空で下りる?」

ネドは即答した。

「そうだ」

「もったいない」

「試して壊れなかったら、次に積める。今日壊したら次がない」

ティムは少し考えてから、空の籠を見た。

「……それも運んでることになる?」

「何を」

「次に運べるかどうか」

ネドの手が一瞬止まった。

「変なこと覚えたな」

褒めたのかどうかは分からなかった。

その日、荷駄は本当に空で赤崖を下った。

俺とティムも途中までついていった。

腹帯はずれなかった。

下でネドが締め具を外し、擦れた場所を見る。

「今日はこれで終わり」

ティムが言う。

「屑、四袋残った」

「残せるなら残せ」

ネドは荷駄へ水を飲ませた。

売れるものがある。

道もある。

荷駄も空いている。

それでも、運ばない日がある。

その理由が、前より少し見えるようになっていた。

第233話 売れる屑を拾ったら、本来の選別が遅れた

【本文】

翌朝、選別場へ行ったのは炉晶屑を数えるためじゃなかった。

昨日、エルナが言った「仕事が増えた」が気になったからだ。

ティムは最初から数える気だったらしい。

「四袋あって、昨日二つ直ってたから――」

「今日は袋見に来たんじゃない」

「じゃあ何見るの」

「人」

ティムが一歩離れた。

「急に怖い言い方するな」

選別場は朝から音が多かった。

石箱を引く音。

炉晶同士が触れる硬い音。

木枠を置く音。

前に来た時より、床がきれいだった。

それが最初の違和感だった。

選別場の女が、低い箱の前にしゃがんでいる。

大きな炉晶を見ているのかと思ったら、指で拾っているのは小さい欠片だった。

親指より小さい。

前なら、たぶん掃き寄せられていた大きさだ。

少し離れた台に、大きな炉晶が三つ置かれたままになっている。

「それ、屑?」

ティムが聞いた。

女は顔を上げずに答えた。

「売れる屑」

「増えた?」

「拾えばね」

その返事で分かった。

増えたのは炉晶じゃない。

拾う範囲が変わった。

女はもう一つ、小さな欠片を拾った。

横の木皿へ入れる。

俺は大きな炉晶の方を見る。

「そっちは?」

「あと」

「前は先に見てなかった?」

今度は顔が上がった。

「見てたよ。でもこっち、昨日の二袋で銭になったから。朝のうちに集めた方が踏まれない」

理屈は通っている。

ティムが床を見回した。

「じゃあ、全部拾えばもっと売れる?」

女が答える前に、奥から声が飛んだ。

「その箱、まだか!」

女が振り返る。

奥の男が、蓋の開いた箱を指していた。

中には大きな炉晶が並んでいる。

「今やる!」

女の声が少し強くなる。

ティムが俺を見る。

俺も見た。

女は立ち上がり、小皿を端へ寄せた。

大きな炉晶の前へ戻る。

一つ持ち上げる。

光へ透かし、欠けを見て、別の箱へ置く。

その速さは、屑を拾っていた時と全然違った。

迷わない。

仕事として身体に入っている。

二つ。

三つ。

さっきまで止まっていた箱が、すぐ動き始めた。

エルナが袋を抱えて入ってきた。

昨日直さなかった二つだ。

「底革、まだ付けてないから置きに来ただけ」

女が言う。

「そこ。今日やって」

「今日は肩当て二本と、荷駄の鼻革。空いたら」

「また後?」

「後」

エルナは床の小皿へ目を落とした。

「細かいのまで拾ってるの?」

女が大きな炉晶を置きながら返す。

「売れるから」

「それで大きいの止めてた?」

返事がない。

奥からまた木箱を引く音がした。

エルナは俺ではなく、女を見る。

「屑の袋直すの増えるなら、直す。でも本体の仕事止めて屑作って、袋まで急げって言われたら嫌だよ」

「屑作ってない」

「拾ってる」

「拾うのは別だろ」

「手は同じ二本じゃん」

女が黙った。

ティムが小声で言う。

「エルナ、今日強い」

聞こえたらしい。

「今日はじゃない」

ティムがまた黙った。

俺は小皿の中を見た。

量は多くない。

これを一日集めても、昨日の四袋にはならないだろう。

「二袋売れた分と、今日のこれって、どっちが大きいです?」

女が眉を寄せる。

「何が」

「銭。屑を拾うために大きい方の選別が遅れた分と、屑で増える分」

「分かんないよ、そんなの」

即答だった。

だから俺もそれ以上言わなかった。

分からないなら、今ここで数字を作る意味はない。

しばらく女は大きな炉晶を選別した。

俺たちは邪魔にならない端へ寄る。

途中で一度だけ、床へ大きめの欠片が落ちた。

女の目がそっちへ行った。

でも手は止まらなかった。

大きな炉晶を箱へ置き終えてから拾った。

ティムが気づいた。

「今、後で拾った」

「見りゃ分かる」

女がネドみたいな返しをした。

ティムが少し嬉しそうだった。

昼前、昨日の箱が全部閉じた。

女は床を箒で掃いた。

その時に初めて、細かい炉晶を一か所へ寄せる。

指で拾うのではなく、箒の先で大きめだけ分けた。

砂みたいなものはそのまま捨てる箱へ入れた。

「それ、売らないの?」

ティムが聞く。

「細かすぎるの要らんって言われたんだろ」

「そうだけど、集めたら――」

「めんどくさい」

女は言い切った。

昨日までなら、その言葉を雑だと思ったかもしれない。

今日は少し違って聞こえた。

面倒だからやらない。

それも、仕事を増やしすぎないための境界になる。

エルナが置いていった袋は、まだそのままだった。

直っていない。

でも、選別の大きな箱は先に終わった。

俺はその順番を覚えておくことにした。

屑を売ることを止めなくても、本来の仕事まで屑の方へ引っ張られないやり方はあるかもしれない。

まだ方法と呼べるほどじゃない。

ただ、今日のところは、女自身が手を止める場所を一つ決めた。

それで十分だった。

第234話 空荷を見送った日に、古い札がまた候補になった

【本文】

三日目、ネドの荷駄はもう一度空で下りることになった。

腹帯の試しは終わっている。

肩当ても直った。

炉晶屑の袋は、二つだけ使える状態になっていた。

残り二つはまだ底革待ちだ。

条件だけ見れば、今日は載せられる。

ティムもそう思った。

「二つなら前と同じだよね」

ネドは荷駄の背へ籠を掛けながら答える。

「重さはな」

「じゃあ積む?」

「誰が買うって言った」

ティムが止まった。

前回、鴎泊の鍛冶は言っていた。

次も買う。

ただし、量は先に言え。

今回は二袋。

前と同じ量だ。

だから大丈夫だろう、と考えるのは簡単だった。

俺も一瞬そう思った。

「同じ二袋なら、前と同じじゃない?」

ティムが言う。

ネドは籠の紐を締める。

「前は前。今日は今日」

「ネドまでそれ言うようになった」

「俺は前から言ってる」

選別場の女が袋を持ってきた。

「持ってっていいよ。前と同じ値なら」

ネドは受け取らない。

「鍛冶に話した?」

「前に次も買うって」

「量は先に言え、とも言ってたろ」

女の口が少し曲がる。

「二袋だよ。増えてない」

「俺が売り主じゃない。返品になったら、俺がまた上げるのか?」

その一言で、ティムが袋を見る目が変わった。

売れれば帰り荷。

売れなければ、往復荷だ。

下りで稼ぐはずだった荷が、上りの重さになる。

俺は前回の鍛冶場を思い出した。

細かすぎるものは要らない。

量は先に言え。

炉の都合もある。

あれは形式じゃなかった。

鍛冶屋にも仕事の順番がある。

「今日は載せない方がいいと思う」

俺が言うと、女がこっちを見た。

「また?」

「二袋が駄目なんじゃなくて、買う側の今日を確認してないから」

「確認するために持ってけばいいじゃん」

「持っていって駄目なら戻すことになる」

「戻せば?」

ネドが即答した。

「俺が嫌だ」

女が黙る。

ネドは続けた。

「行きで麦上げたあと、帰りに炉晶下ろして、それ売れなくてまた上げろって? それは空荷じゃない」

ティムが小さく言う。

「往復で重い」

「そういうこと」

結局、その日も荷駄は空で下りた。

炉晶屑二袋は残った。

でも前回と違って、積めないから残ったわけじゃない。

積めるのに、条件が足りないから残した。

ティムは赤崖へ下りていく空籠をしばらく見ていた。

「もったいないって思う?」

俺が聞く。

「思う」

「俺も」

「でも、前よりちょっと我慢できる」

「何で?」

「戻す方がもっと嫌だから」

理由がきれいじゃない。

でも、その方が信用できた。

受取場へ戻ると、エルナが革の切れ端を床へ並べていた。

長いものがない。

短い端材ばかりだ。

「底革、足りない?」

俺が聞くと、エルナは一枚を持ち上げて透かす。

「袋二つなら継げる。でも腹帯とか肩当てに使える長さがもうない」

「どこで買うんです?」

「麦津。こっちに来る革、だいたいあそこ通るから」

ティムが反応した。

「麦津?」

俺も同じ言葉を頭の中で繰り返した。

壁を見る。

油壺の原預かり札が、まだ釘に掛かっている。

ずっとそこにある。

返金は麦津で止まったまま。

エルナは俺たちの視線に気づかず、端革を重ねている。

「明日、革買いに行く荷が出るって。私は行かない。寸法書いて頼む」

ティムがすぐ俺を見る。

何も言わない。

前なら、もう「札も持っていこう」と言っていたと思う。

少しだけ待った。

「その荷、油屋の前通ります?」

俺が聞くと、エルナがようやく顔を上げた。

「知らない。麦津のどこで革買うかも私じゃないし」

「ですよね」

「何。油?」

「返金の札がまだあるんです」

エルナは壁の札を見る。

「ああ、あれまだ終わってなかったんだ」

「終わってないです」

ティムが言った。

「ずっと掛かってるから、途中から壁の一部みたいになってた」

俺も少しそうなっていた。

長く残る未処理は、景色になる。

それが一番危ない。

「明日の荷の人に、先に聞こう」

俺は言った。

「油屋へ寄れるのか。原札を預けていい相手なのか。返金の銭を持って戻れるのか」

ティムが頷く。

「全部いけるなら?」

「その時、札を外す」

「今日は?」

「掛けたまま」

ティムが笑った。

「今日は空荷も札も動かなかったね」

「そうだな」

「でも、何も進んでない感じしない」

壁の札を見る。

炉晶屑二袋も残った。

荷駄も空で下りた。

油の銭もまだ麦津だ。

数字だけ見れば、今日は何も片付いていない。

でも、明日自然に麦津へ行く荷がある。

その荷が本当に使えるなら、ずっと止まっていた一枚の札が、ようやく動くかもしれない。

壁の一部だったものが、久しぶりに次の荷物に見えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。