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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第223話 十二袋が出た朝、北鼻へ向かったのは塩だった


【本文】

朝一番の板には、昨日までなかった一行が増えていた。

《十二袋 出発》

ティムが声に出して読んだ。

その下には、《水位 通過時維持》とある。

「じゃあ十二来る」

「出た、だな」

ゼンは帳面へ《出発》だけを書いた。

「着いたら《着》にする」

ティムが炭筆の先を見ている。

「一文字なのに厳しいね」

「その一文字で倉の中身が変わる」

マルクは会話へ入らず、昨日開けた麦袋の底を持ち上げていた。

袋の下に湿りがないか確かめている。

俺も倉を見た。

石窯は今日の分をもう受け取っている。

炭窯も、今朝すぐ新しい袋を要求してはいない。

共同挽き場からも呼びは来ていない。

十二袋が出た。

でも、だから十二袋を待って一日座っている理由もなかった。

「麦津は?」

俺が聞く。

受取場の男が壁の板を指した。

「乾き大麦、まだ入荷連絡なし。湿ったやつは昨日のまま」

「北鼻は?」

ティムが続ける。

今度は誰も答えなかった。

場所に板は来ない。

俺たちは赤崖へ向かった。

昨日使った古縄は、ネドへ返すつもりで肩に掛けている。

白く毛羽立った場所が二つ増えていた。

石一つ一往復でこれだ。

赤崖の上でネドと会った。

今日は塩を積んでいた。

片側に大きい袋、反対側に少し小さい袋が二つ。

俺が古縄を差し出すと、ネドは荷駄を止めずに受け取った。

「切れなかったか」

「切れる前にやめました」

「ならいい」

ティムが横から古縄を見る。

「もう一回くらいいけそうじゃない?」

ネドは歩きながら返した。

「お前を吊るすならな」

「俺、昨日から吊られ役にされてない?」

「自分で腰縄外したやつだろ」

俺は笑いそうになった。

ティムは反論を諦めたらしい。

赤崖を下りる途中、ネドの荷駄の右側だけが少し軽く見えた。

「その小さい塩、どこへ?」

俺が聞く。

「鴎泊。ハナの分だ」

ティムがすぐネドの横へ寄った。

「ハナ、今日北へ出てるよね」

ネドが眉を寄せる。

「知らん。俺は塩を鴎泊へ置く」

「北鼻で渡せたら?」

ネドの歩きが一度だけ止まった。

俺はティムより先に言う。

「渡せなくても、鴎泊へ持っていけばいい。急ぎじゃないなら」

「急ぎじゃない」

ネドは小さい塩袋の紐を触った。

「今日受け取れなきゃ、明日でいいって話だ」

それなら失敗しても誰かの飯が止まるわけではない。

塩を海へ落とさなければ、だが。

鴎泊へ着くと、ハナの船はいなかった。

浜で網を直していた船頭が、こっちも見ずに言った。

「ハナなら北の網。昼前に北鼻の内側へ入るって言ってた」

ティムが俺を見る。

俺は塩袋を見た。

昨日は石一つだった。

今日は、本当に使う荷がある。

ただし、石と違って落とせば困る。

濡らしても困る。

「古縄は使わない」

ネドが先に言った。

「ですよね」

「俺の予備縄なら一回だけ貸す。変な擦り跡付けたら、次は貸さん」

ティムが小さく息を吸った。

たぶん喜んだ。

でもネドが続ける。

「あと、塩を試験道具にするな。ハナへ渡す荷だ。無理なら普通に鴎泊へ置く」

「分かってます」

「お前じゃない」

「なんで」

俺だった。

俺は頷いた。

「下ろせる条件が揃った時だけやります。駄目なら塩はここへ戻す」

ネドは予備縄を荷駄から外した。

古縄より太い。

毛羽立ちもほとんどない。

「これで人は吊るすな」

「結局そこは同じなんですね」

ティムが言う。

ネドは無視した。

俺たちは塩の小袋を持って、また北鼻の上へ向かった。

昨日より荷は重い。

足場は同じなのに、下り坂で身体が前へ持っていかれる。

Lv3の身体は、道を覚えるのは少し早くなった気がする。

でも、荷物の重さまで軽くしてはくれない。

途中でティムが塩袋を持ちたがった。

渡すと、十歩で持ち方を変えた。

「思ったより、ずっと塩だね」

「何だと思ってた」

「小袋」

意味は分からなかったが、息が上がっているのは分かった。

北鼻上部へ着いた時、海は昨日より少し光っていた。

風は強くない。

下から船の音はまだしない。

ネドは三本目の溝を見て、それから周りの岩を見た。

昨日は俺たちが腕で古縄を持った場所だ。

「これ、手だけで塩下ろしたのか」

「昨日は石です」

「同じじゃない」

もう一度言われた。

ネドは溝の少し後ろにある、腰ほどの黒岩を叩いた。

上が海側へ少し張り出している。

「巻くならここ。でも固定じゃないぞ。縄を一周させて滑らせるだけだ」

杭も滑車もない。

縄を置けば、ただの岩だ。

俺は岩の角を手でなぞった。

尖ってはいない。

でも、細かなざらつきはある。

新しい縄が減る場所は、昨日より増えるかもしれない。

下から声がした。

「上にいるなら返事して!」

ハナだった。

ティムが岩の縁へ行きかける。

俺が襟を掴んだ。

「寄りすぎ」

「返事だけ!」

「ここにいる!」

俺が叫ぶ。

少し遅れて返ってくる。

「網先に上げるから待ってて!」

ネドが塩袋を地面へ置いた。

「仕事が先だそうだ」

当然だった。

十二袋は川から出た。

北鼻では塩が一袋、まだ地面にある。

今日は、そのくらいの速さでちょうどよかった。

第224話 塩袋は、石みたいに真っ直ぐ下りなかった

【本文】

ハナの網が終わるまで、俺たちは上で何もしなかった。

下から時々、木枠が石へ当たる音がする。

一度、ハナの声で「そっちじゃない」が聞こえた。

誰に言っているのかは分からない。

ティムが覗こうとするたび、ネドが「落ちるなら塩置いてけ」と言った。

三回目でティムは座った。

「俺、そんな信用ない?」

「あると思ってたのか」

ネドは予備縄を岩へ一周だけ回し、擦れ方を見ている。

俺は塩袋の口を確かめた。

袋は二重になっていた。

外側は少し粗い布、内側は目の詰まった袋だ。

ネドがいつも塩を運ぶ時の形らしい。

「海水かかったら?」

俺が聞く。

「外が少し濡れるだけならすぐ終わりじゃない。沈めたら終わり」

「分かりやすい」

「だから沈めるな」

下からハナの声が上がった。

「終わった! やるなら一回! 潮上がる前!」

一回。

試験の回数ではなく、ハナが待てる回数だった。

俺は斜面を人の通れる方から下りた。

昨日より足を置く場所は迷わない。

それでも岩の張り出しを横向きで抜けるところでは、肩が自然に固くなる。

浜へ着くと、ハナは船の中で魚を分けていた。

銀色の小魚を籠へ、傷んだのを別の桶へ放る。

「塩、本当に上にある?」

「あります」

「落とさないでね。今日そこそこ獲れたから」

「急に価値上がってません?」

「塩の価値じゃなくて、魚の都合」

そう言って、ハナは手を止めなかった。

上にはネドとティム。

下には俺とハナ。

昨日は石入りの籠を、古縄と補助綱で下ろした。

今日は塩袋をそのまま吊ってみる。

籠を使わなければ、空籠をあとで返す手間がない。

ネドが上から叫んだ。

「結び終わった! 下、空けろ!」

俺はハナから細い予備綱を借りた。

昨日使ったのと同じ綱だ。

先を大きな輪にする。

「切らないで」

「昨日も言われました」

「昨日切らなかったから今日も言える」

上から塩袋が少しずつ見えてきた。

最初は順調だった。

袋の口を上にして、胴へ二本の縄が回っている。

石入り籠より幅がない。

張り出しの外側も通りそうに見えた。

でも、途中から袋が回り始めた。

ゆっくり。

半回転。

もう半回転。

「止めて!」

俺が叫ぶ。

上で縄が止まった。

袋の中で塩が片側へ寄っている。

布が柔らかいぶん、形が変わる。

重い側が下になろうとして、結び目を引っ張っていた。

ティムの声が上から飛ぶ。

「何?」

「袋が回る! 右が下がってる!」

ネドが何か言ったが、風で聞こえなかった。

もう一度、少しだけ下ろす。

袋の底が斜面へ触れた。

その瞬間、今度は横へ振れた。

石入り籠は枠があった。

岩へ当たれば、ごつ、と当たる。

塩袋は違う。

当たった場所だけがへこみ、中身が逃げて、その反動で別の形になる。

補助綱の輪を掛けようとした。

一回目は袋の底を滑った。

二回目、ようやく胴へ掛かる。

俺が浜側へ少し引く。

袋の向きは戻った。

でも、上の結び目がさっきより口側へ寄っている。

「止めたまま!」

ハナが魚籠から顔だけ上げた。

「濡れた?」

「まだ」

「じゃあ、まだ勝ってる」

「勝ち負けなんですか」

「濡れたら負け」

分かりやすい。

俺は袋を見た。

このまま下ろせば、たぶん浜までは来る。

でも途中で結びがさらにずれたら、袋口へ力が集中する。

裂けなくても、口が傾けば中身が寄る。

昨日の石は、落ちても石だった。

今日は塩だ。

「戻します!」

俺は上へ叫んだ。

ティムがすぐ返す。

「いけそうだよ!」

「今はいけそう! 下までいけるとは言ってない!」

少し間があった。

ネドの声。

「戻すぞ!」

縄が上へ動く。

俺は補助綱で袋を斜面から離した。

引き上げる方が、袋はさらに回ろうとした。

中身が下へ寄る方向が変わるからだ。

上と下で何度も「止める」「上げる」を繰り返した。

塩袋は、一度も海水へ触れずに上へ戻った。

ハナが魚の蓋を閉める。

「今日は終わり?」

俺は上を見る。

「袋のままは、終わりです」

「言い方があるね」

「籠なら、もう一回だけ試せるかも」

ハナの手が止まった。

「籠、あるの?」

昨日の飼葉籠を、ティムが持ってきている。

上に置いてある。

昨日の反省を一個だけ先に持ってきた。

ハナは海を見た。

それから船の中の魚を見た。

「一回。次で駄目なら、塩は鴎泊。私は次の網行く」

上へ伝えると、ティムの返事が先に来た。

「籠にする!」

ネドの声が重なる。

「お前が決めるな!」

ハナが笑った。

誰も拾わなかった。

上では、塩袋を籠へ入れ直す音がしている。

一回目は失敗だった。

でも塩は濡れていない。

縄も切れていない。

誰も怪我していない。

安全に失敗すると、二回目が残る。

それだけで、昨日の石よりずっとゲームらしく感じた。

第225話 一袋は下りた。でも三人の手がふさがった

【本文】

二回目の塩袋は、籠の中に入っていた。

上から見えた瞬間、昨日の石入り籠とほとんど同じ形に見えた。

違うのは重さと、中身の値段だ。

ネドは塩袋をそのまま籠へ置かなかった。

底へ空の古袋を折って敷き、塩袋の口を上へ向ける。

籠の外側から縄を十字に回した。

ティムが上から叫ぶ。

「準備できた!」

ネドの声が続いた。

「まだだ! 勝手に始めるな!」

下にいる俺にも、今の順番は分かった。

ハナが魚籠を船へ押し込む。

「ティム、元気だね」

「上だからです」

「下にいても元気だったよ」

否定できなかった。

予備縄がゆっくり動いた。

今回は、上の黒岩へ一周させている。

固定したわけではない。

ネドが縄を握り、岩の摩擦を使って重さを逃がす。

ティムは籠が斜面へ当たりすぎないよう、上側で位置を見ている。

籠が三本目の溝から出てきた。

一回目の塩袋より回らない。

少し振れる。

でも、形が崩れない。

「そのまま!」

俺が叫ぶ。

上から返事はない。

縄だけが少しずつ出る。

張り出しの手前で、籠が岩へ近づいた。

俺は補助綱の輪を掛けた。

昨日より一回早く入った。

浜側へ引く。

籠が岩から離れる。

「止めて!」

止まる。

ハナがすぐ横で海を見ている。

「波、次ちょっと大きい」

俺も見た。

大きいと言っても、昨日より少し高いくらいだ。

でも丸石のところまで水が来る。

「一回待って!」

上へ叫ぶ。

籠は斜面の途中で止まった。

波が来る。

丸石の上を白く洗って、戻る。

「今!」

縄がまた出た。

籠が最後の斜面を越える。

俺は補助綱を引きながら後ろへ下がった。

もう少し。

籠の底が丸石へ触れた。

そのまま一気に引く。

海水が次に来る前に、籠は濡れていない石の上まで来た。

「着いた!」

上からティムの声。

「濡れた!?」

「濡れてない!」

「勝った!」

ハナが塩袋の外側へ手を当てる。

「今のは勝ちでいい」

上でティムが何か言った。

たぶん喜んでいる。

俺は籠の縄を解いた。

塩袋の口は上を向いたまま。

外布にも濡れはない。

小さい塩袋一つ。

本当に使う荷が、北鼻の岩を越えた。

その瞬間、上からネドの声が落ちてきた。

「籠、戻せ!」

俺とハナが同時に上を見る。

昨日は石を入れた籠を引き上げた。

今日は塩を下ろしただけで、上では二人がずっと縄を握っている。

俺は空になった籠を見る。

「今から上げます?」

ハナが船を指した。

「それ、私が鴎泊へ持ってく方が早くない?」

確かにそうだった。

籠は受取場の古い飼葉籠だ。

明日までに戻らなければ困る物でもない。

ハナの船は、このあと鴎泊へ戻る。

上へ叫ぶ。

「籠はハナに鴎泊まで持ってもらう! 今上げない!」

少し間が空く。

ネドの声。

「勝手に決めるな!」

ハナが俺の横から叫んだ。

「私が持ってく!」

また間。

「ならいい!」

ティムの声が続く。

「俺、何も言ってない!」

「お前は縄持ってろ!」

下までよく聞こえた。

ハナは塩袋を船の乾いた場所へ置いた。

「これ、今日の魚に使う。全部じゃないけど」

「間に合いましたね」

「間に合った。でも毎回ここで受け取れって言われたら断るよ」

即答だった。

「上に二人いるし、下にも誰かいるし、船もいるしね。私は網見たいの。荷受け係じゃない」

「ですよね」

昨日は上下一人ずつで石一個だった。

今日は上にネドとティム。

下に俺。

船にはハナ。

塩一袋を下ろす間、少なくとも三人の手が荷役へ取られた。

ハナまで数えれば四人だ。

道が短くても、人の時間は短くならない。

俺は斜面を上へ戻った。

三度目になると、足を置く岩は覚えている。

それでも最後の登りでは息が上がった。

上ではネドが予備縄を調べていた。

黒岩へ当たっていた部分を親指で擦る。

表面が少しだけ白くなっている。

「一回でこれですか」

「切れるほどじゃない。でも、毎日やったら俺の荷駄縄が先に死ぬ」

ティムが言う。

「専用の縄があれば?」

ネドは予備縄を巻きながら答えた。

「その縄を誰が買う」

ティムが俺を見る。

「見ても金出ないぞ」

「最近先回りで止めるよね」

「お前が先回りするから」

黒岩を見る。

一周させれば、腕だけで支えるより楽だった。

でも岩は縄を減らす。

滑車も杭もない。

作れば変わるかもしれない。

まだ作る理由はない。

塩一袋が一度下りただけだ。

受取場へ戻ると、東河港の板より先に荷駄が着いていた。

麦袋が十二。

マルクが数えている途中だった。

ティムが入口で止まる。

今度は「十二!」とは言わなかった。

一袋ずつ置かれるのを見ている。

十。

十一。

十二。

最後の袋をマルクが押して、底を確認する。

「十二、着」

ゼンの炭筆が動いた。

《東河港 十二袋 着》

「水位は?」

俺が荷駄を引いてきた男へ聞く。

男は水袋を外しながら肩を回した。

「通れた。次も通れるかは川に聞け」

前にも似たことを言われた気がする。

マルクは十二袋を見てから、俺たちの手を見た。

俺の手には細い補助綱の跡が残っている。

「北鼻は?」

「塩の小袋一つ、下ろせました」

ゼンが別の頁を開いた。

「条件」

「上二人。下一人。船あり。籠あり。補助綱あり。ネドの現役の予備縄を使用」

ネドが横から足す。

「縄、減った」

ティムも足す。

「塩、濡れてない」

「そこは結果」

ゼンが言う。

ティムが黙る。

俺は続けた。

「袋のまま一回失敗。回って結びが口側へずれたので引き戻し。籠に入れて二回目は成功。空籠は綱で戻さず、ハナが船で鴎泊へ返す」

ゼンは書いた。

《実荷 塩小袋 一》

《袋直吊り 中止》

《籠使用 下ろし成功》

《上二・下一/船・補助綱・現役縄》

《縄摩耗あり》

《空籠 通常路で返却》

最後に、昨日と同じ一行を残した。

《港・荷揚げ路 未認定》

ティムが言う。

「塩まで下りたのに?」

ゼンは帳面を閉じた。

「塩が下りたからだ」

意味を聞き返しそうになって、俺はやめた。

石なら失敗しても石だった。

塩になった瞬間、濡れ、袋、縄、人の手、船の時間まで全部が条件になった。

使えるかもしれない場所は、使い始めるほど簡単じゃなくなる。

でも、それが少し嬉しかった。

ゲームの攻略も、だいたい同じだ。

一回通れた道より、通れる条件が見え始めた道の方が、次を考えたくなる。

第226話 十二袋着いた翌日、戻っていなかったのは籠だった

【本文】

十二袋が着いた次の朝、麦は静かだった。

誰も倉の前で待っていない。

石窯から来たのは粉袋を返す子ども一人だけで、「次は昼過ぎ」と言って走っていった。炭窯も今朝の人数は変わっていない。共同挽き場は別の家の豆を挽いていて、麦袋を急いで持ち込める空気でもなかった。

ティムが倉の入口で、昨日届いた十二袋を見上げた。

「十二あると、急に何も起きないね」

マルクが一袋の口を締め直しながら言う。

「昨日も十二あったから起きたわけじゃない」

「いや、気持ちの話」

「気持ちで粉は増えん」

ティムが俺を見る。

「最近、誰も拾ってくれない」

「俺も今、麦数えてるから」

本当は数えていなかった。

袋の底に湿りがないか見ていた。

ゼンの帳面には、《東河港十二 着》の下に新しい数字がまだなかった。

次に何袋要るかは、石窯と炭窯の使い方を見てからでいい。

少なくとも今日と明日の朝に、誰かの食事が止まるような不足はない。

それを確認したところで、受取場の男が倉の奥を指した。

「ところで、籠は?」

ティムが振り返る。

「どの?」

「お前らが塩を下ろしたやつ。飼葉入れてた古い籠」

あ。

第225話で、塩を北鼻へ下ろしたあと、空になった籠は綱で上へ戻さなかった。

ハナの船で鴎泊へ持って帰ってもらった。

「鴎泊です」

俺が答えると、男は鼻を鳴らした。

「知ってる。帰ってきてないって話だ」

「今日使う?」

ティムが聞く。

「今日じゃない。明日かもしれん。飼葉籠なんだから、飼葉入れることもある」

当たり前だった。

塩一袋を下ろす時は、空籠を船で返せば楽だと思った。

実際、あの場では一番楽だった。

でも船が鴎泊へ着いただけでは、北側の受取場へ戻ったことにはならない。

ティムが少し考えて言う。

「じゃあ取りに行く?」

男は小刀で縄の毛羽を切りながら、こっちも見ずに返した。

「籠一個取りに赤崖下りるのか?」

「……それは、なんか負けた感じする」

「勝ち負けで飼葉入れるな」

今日はよく刺さる。

赤崖へ行く予定はあった。

昨日ネドが使った現役縄の擦れ方を見たかったし、荷駄の足場も一度見たい。

ただ、鴎泊まで降りて籠を担いで戻るための予定ではない。

ネドに会ったのは、赤崖の中ほどだった。

今日は何も積んでいない荷駄を一頭だけ連れている。

「籠なら鴎泊にあるぞ」

こっちが聞く前に言われた。

ティムが口を尖らせる。

「みんな顔で分かるようになってない?」

「お前が昨日から籠の話しかしそうな顔してる」

「どんな顔だよ」

ネドは答えず、荷駄の腹帯を二本指で持ち上げた。

少し緩いらしい。

俺は昨日借りた予備縄を見る。

荷駄の後ろへ戻っている。

黒岩に当たった部分だけ、色が白い。

「一回で結構いきましたね」

「だから毎日は貸さん」

「今日は借りないです」

「それが一番助かる」

赤崖を下り、鴎泊へ着く。

籠は船小屋の壁に立て掛けてあった。

一目で分かる。

古い。片側の縁が少し欠けている。

俺たちが塩を下ろした時についた擦り跡も残っていた。

ハナは船の中で浮きを数えていた。

今日は最初から十まで声に出している。

「十一、十二……十四」

「十三抜けた」

ティムが言う。

ハナの手が止まった。

「今、数え直すところだった」

「十三抜けたよ」

「分かったから黙って」

信用が一つ減った顔だった。

俺は籠を指した。

「これ、今日戻せます?」

「北へ?」

「受取場まで」

ハナは浮きを数え直しながら答える。

「私は上まで行かないよ」

「ですよね」

「明日、北鼻の網を見る。船には載せていける」

ティムが俺より先に反応した。

「北鼻で上げればいい」

ハナは十三を数えながら言った。

「上げられるならね。私は網が先」

前にも聞いた言葉だった。

籠は急ぎじゃない。

ハナは明日本来の仕事で北鼻へ行く。

上から俺たちが行けば、空籠を北側へ戻す試しになる。

ただし、北鼻へ行くために船を出すわけではない。

籠を返すために、ハナの網を遅らせるわけでもない。

俺は籠をその場へ戻した。

「じゃあ、明日。網が終わって、海が駄目じゃなければ」

ハナが十四の次で止まる。

「今、十五だった?」

「十四」

ティムが答えた。

「お前もう数えないで」

俺は笑った。

帰りの赤崖で、ティムが後ろから言った。

「籠って、塩を運ぶ道具だったのに、今度は籠自身が荷になるんだな」

「帰ってこない道具は、使うたび減るからね」

「籠は減ってないよ」

「北にない」

ティムは少し黙った。

「……なるほど」

明日は、空の籠一つ。

軽い。

壊れても麦や塩ほど困らない。

だから簡単だとは、もう思わなかった。

第227話 空の籠は、軽いくせに上げにくかった

【本文】

翌朝、籠は海から来た。

俺とティムは北鼻の上にいた。

ネドから借りたのは、前に石を下ろした時の古縄だ。

現役の荷駄縄ではない。

空籠なら落としても中身はない。人も吊らない。

それでも、ネドは貸す時に一度だけ縄を引いた。

「昨日より白いところ増やすなよ」

「昨日、これは使ってないです」

「じゃあ今日増やすな」

無理な注文なのか注意なのか、もう分からない。

下からハナの声がしたのは、しばらく待ってからだった。

「網終わった! 籠ある!」

ティムが岩際へ寄りかける。

俺は先に袖をつかんだ。

「分かってるって」

「昨日も聞いた」

「昨日は一回しか言われてない」

回数の問題ではない。

俺は上から返した。

「今から縄下ろす! 籠だけでいい!」

「魚は入れないよ!」

「入れないで!」

ティムが横で小声になる。

「魚入ってたら面白かったのに」

「上げるの俺たちだぞ」

「やっぱ空でいい」

古縄を三本目の溝へ置く。

第222話で石を下ろした線。

第225話で塩を下ろした線。

今度は逆だ。

下へ縄を送る。

古縄だけなら軽い。

斜面を滑り、張り出しの外側へ消えた。

少しして、ハナの声。

「届いた!」

「籠の四隅じゃなくて、前の十字のところへ!」

「分かる!」

本当に分かっている声だったので、余計な説明はやめた。

下で何かを結ぶ時間が続く。

俺たちは待つ。

ティムが海を見ている。

「軽いなら一人で上げられそうじゃない?」

俺もそう思った。

塩小袋よりずっと軽い。

「最初だけ、一人で引いてみる?」

「俺が?」

「俺が。ティムは縄が岩から外れないか見て」

「それ、二人使ってる」

言われて気づいた。

下から「結んだ!」と声が来る。

俺は古縄を引いた。

重くない。

本当に重くない。

最初の数歩ぶんは、片手でも来た。

「楽じゃん」

ティムが言う。

次の瞬間、縄が横へ引かれた。

俺は両手で止める。

「何?」

「籠が寝たかも!」

下からハナの声。

「倒れてる! 待って!」

軽いから、籠は斜面へ素直に貼り付かなかった。

角が草へ当たり、そのまま横を向いたらしい。

ハナが細い補助綱で下から姿勢を直す。

「今!」

俺は引く。

籠が動く。

また少しして、今度は上の方で縄が黒岩の端へ寄った。

ティムが手を伸ばす。

「こっち、ずれる」

俺は縄を引いている。

両手が塞がっている。

「押さえて」

「押さえてる」

ティムが古縄を溝の中央へ戻す。

一人で引ける重さだった。

でも一人で扱える仕事ではなかった。

籠が張り出しのあたりへ来た。

見えない。

下からハナが叫ぶ。

「右へ振れてる!」

ティムが俺の横へ来た。

「一回止める?」

「止める」

俺は縄を腰へ回さず、両手のまま保持した。

古縄を身体へ預けるのは嫌だった。

ティムが余った縄を黒岩の後ろへ回し、手で押さえる。

固定ではない。

ただ、一瞬の重さを二人に分ける。

ハナが下で籠を引く。

「真っ直ぐ!」

「上げる!」

二人で引いた。

空籠が岩の張り出しを越えた瞬間、急に軽くなった。

俺の身体が後ろへ半歩流れる。

ティムが笑う。

「空なのに罠多いな!」

「しゃべるなら引いて!」

「引いてる!」

最後の斜面は、二人で交互に縄を取った。

俺が引く。

ティムが持つ。

俺が持ち替える。

ティムが引く。

前の身体なら、このくらいはもっと滑らかにできたのかもしれない。

今は手のひらが先に熱くなる。

Lv3になっても、縄は俺の手を気にしてくれない。

籠の縁が見えた。

ティムが先に掴む。

俺も片側を持つ。

二人で岩の上へ引き上げた。

空。

本当に何も入っていない。

それなのに、二人とも少し息が上がっていた。

下からハナの声。

「上がった!?」

「上がった!」

「じゃあ私行くよ!」

「ありがとう!」

返事はなかった。

たぶん、もう船へ戻っている。

ティムが籠へ腰を下ろそうとした。

俺が止める。

「それ、受取場の」

「休むだけ」

「縁欠けてる」

「俺で壊れたら、飼葉にも負けたことになるな」

座らなかった。

古縄を見る。

白く毛羽立っていた場所が、少し広がっている。

切れるほどじゃない。

でも、何も入っていない籠一つを上げただけで、縄はちゃんと減った。

ティムが自分の手を見る。

「これ、塩より軽かったよね」

「軽かった」

「なのに二人要った」

「重さ以外があるから」

籠は風を受ける。

斜面へ引っ掛かる。

縄はずれる。

下から姿勢を直す人もいる。

軽い荷だから簡単、ではない。

俺たちは空籠を二人で持って、北側の受取場へ戻った。

途中、持つのが面倒になってティムと三回交代した。

最後の交代だけ、どっちも何も言わなかった。

第228話 近道なのに、早くなかった

【本文】

受取場の男は、戻った籠を見て最初に喜ばなかった。

縁の欠けたところを指でなぞり、新しい傷がないか見る。

底をひっくり返す。

最後に、中へ手を入れてから言った。

「帰ったな」

「帰りました」

ティムが籠を床へ置いた。

「海から」

「知ってる」

ゼンが帳面を開く。

俺は横から言った。

「条件、前と少し違います」

「何が」

「荷は空籠一個。上二人。下にハナ一人。古縄。ハナの補助綱。下から上へ」

ゼンが書く。

《空籠 逆送 一》

《上二・下一》

《古縄+補助綱》

《人員拘束 三》

ティムが横から覗く。

「拘束って、なんか捕まったみたい」

「その時間、別の仕事できないって意味」

「俺、帰り道は籠持ってた」

「それも仕事」

受取場の男が籠へ飼葉を一掴み入れた。

本当に、もう次の用途へ戻っている。

そこへネドが来た。

古縄を返すと、受け取る前に白い部分を見た。

「増えたな」

「増えました」

「空だったんだろ」

「空でした」

ネドは笑わなかった。

古縄を両手で曲げ、繊維を見ている。

「で、早かったか」

俺は答えかけて止まった。

鴎泊から受取場まで、普通なら赤崖を上がる。

籠一個なら人が持てる。

急がなければ、ネドや他の荷駄が上がる日に一緒に運ぶこともできた。

今回は、ハナが北鼻へ行く日を待った。

俺とティムが上まで歩いた。

ハナは下で網を終えるまで待った。

古縄を借りた。

補助綱を使った。

三人の手が一度、籠だけのために止まった。

地図の線だけなら、北鼻の方が短い。

「……早くはないです」

ネドが古縄を巻き始める。

「だろうな」

ティムが少し納得いかなそうに言う。

「でも距離は短いよ」

「距離が働くわけじゃない」

ネドは巻いた古縄を肩へ掛けた。

「人が働く」

それだけ言って、荷駄のところへ行った。

ティムが俺を見る。

「今の、なんか名言っぽくない?」

「本人に言ったら怒ると思う」

「じゃあ黙っとく」

たぶん十分後には誰かへ言う。

ティムがゼンの帳面を見ながら聞いた。

「時間も書く? 赤崖より何分早いとか」

ゼンは炭筆を止めた。

「何分から数える」

「え」

「ハナが北鼻へ来るまで待った時間。網が終わるまで待った時間。俺たちが上まで歩いた時間。縄借りた時間。どれ入れる」

ティムが口を閉じた。

俺も答えられなかった。

籠を実際に引いていた時間だけなら短い。

でも、その数分を作るために前の日から船の予定へ合わせている。

ゼンは時間を書かなかった。

代わりに一言だけ足した。

《待ち含む比較 未実施》

数字を出さない方が正確な時もある。

受取場の男は、もう籠へ飼葉を半分ほど入れていた。

荷駄が一頭、鼻を突っ込もうとして追い払われる。

北鼻を越えた籠は、数分後にはただの飼葉籠へ戻っていた。

午前のうちに石窯と炭窯も回った。

石窯では、昨日届いた十二袋のうち今日回す分が決まっていた。

炭窯は人が増えていない。

モーグは薪を積みながら「今すぐ追加はいらん」と言った。

「明日は?」

ティムが聞く。

モーグは薪を抱えたまま止まった。

「明日の人数を今日決めろって?」

「あ、いや」

「増えたら言う。減っても言わんかもしれん。減ったら減るだけだ」

ティムは俺を見なかった。

学習している。

受取場へ戻ると、ゼンの帳面には北鼻の記録が一行増えていた。

《短距離=省力 ではない》

俺はその横へ、もう一つだけ足してもらった。

《港・荷揚げ路 未認定》

「まだ?」

ティムが聞く。

「まだ」

「石、塩、籠まで通ったのに」

「だから」

第225話でゼンが言った意味が、今なら少し分かった。

物が通るほど、使う条件が増える。

北鼻は、通れない場所ではなくなった。

でも、通れるから使う場所にもなっていない。

静かな海。

自然な船の予定。

上に二人。

下に一人。

使える縄。

補助綱。

荷の形。

帰り道。

そのうち何個かが揃った時だけ、短い線が意味を持つ。

俺は帳面を閉じた。

「しばらく北鼻は、荷が出るまで触らなくていいと思う」

ティムが意外そうな顔をした。

「もっと試さないの?」

「試すための荷を作ったら、道を使うんじゃなくて道に使われる」

受取場の男が飼葉籠を持ち上げた。

「それより、これ使うぞ」

「はい」

籠はもう北鼻の試験道具ではなかった。

飼葉が入る普通の籠に戻った。

それが少し良かった。

外へ出る。

赤崖の向こうに海は見えない。

北鼻もここからは見えない。

でも、地図の中には前より一本、線が増えている。

道ではない。

まだ、可能性の線だ。

今はそれで十分だった。

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