第217話 十八袋そろった翌日、誰も麦を運ばなかった
【本文】
十八袋そろった翌朝、受取場の前に荷駄はいなかった。
俺は少しだけ変な気分になった。
ここ何日か、朝に来れば何かしら足りなかった。
袋が足りない。粉が足りない。時間が足りない。水が足りない。
今日は、壁際の麦袋が普通に並んでいる。
ティムが一番奥まで覗いた。
「本当に何もない?」
マルクは返事をせず、木升で麦を量り続けた。
「探すな」
受取場の男が言った。
「いや、探してないよ。確認」
「顔が探してる」
ティムが俺を見る。
「顔で分かるらしい」
「俺に聞くな」
ゼンの帳面にも、今日は赤い印がなかった。
昨日の《計 十八》が残っているだけだ。
俺は壁の預かり札を見た。
油壺の原札。
その下には、受取場の男が立て替えた一銅貨の印も残っている。
急げば、仕事は作れる。
でも昨日、マルクに言われた。
十八そろったなら、今日はそれでいい。
だからまず、何も起きていない方を見に行くことにした。
石窯では、オルナが朝の固焼きを籠へ移していた。
「昨日の粉、間に合った?」
俺が聞くと、オルナは焼けた一枚を裏返した。
「見れば分かるだろ」
「焦げてる」
ティムが横から言った。
「それはお前にやる」
「聞かなきゃよかった」
俺は粉桶の残りを見せてもらった。
昨日より減っているが、空ではない。
「次は?」
「明日の分まである。明後日は、今日の受取次第」
昨日までと違って、今すぐ何かを動かす答えではなかった。
炭窯では、ハルドが火口の前にしゃがんでいた。
モーグは炭俵の縄を締めている。
木運びは二人。
昨日の年上の男はいない。
「人数、戻った?」
ティムが聞く。
モーグが縄を歯で引きながら言った。
「戻ったっていうか、昨日が増えてた」
「なるほど」
「何がだ」
「言い方」
モーグはもう答えなかった。
小屋の麦袋は昨日より減っている。
でもハルドは、明日の朝までなら今の人数で持つと言った。
「昼から人、増える?」
俺が聞く。
「知らん。山から戻れば一人来るかもな」
「来なかったら?」
「一人来ない」
ティムが口を開きかけて、やめた。
少し学んでいる。
受取場へ戻ると、東河港から板が一枚届いていた。
《水位 昨日とほぼ同じ》
《次便 積載量未定》
《夕方 再確認》
上がってはいない。
下がってもいない。
ゼンは《通常復帰》とは書かなかった。
「麦津は?」
俺が聞くと、受取場の男が首を振った。
「まだ板なし」
乾き大麦の次入荷は二日後見込みだった。
今日がその一日前。
「じゃあ今日は、何する?」
ティムがまた言った。
昨日の最後と同じ質問だ。
今度は俺も少し考えた。
「赤崖の縄、見に行く」
「麦ないのに?」
「麦がない日に見た方が邪魔しないだろ」
ネドが荷駄を上げる時に使う補助縄が、前回少し毛羽立っていた。
危ないほどではない。
だから危なくなる前に見られる日が今日だった。
赤崖へ下りると、ネドは荷駄の腹帯を外していた。
「今度は何袋だ」
「ゼロ」
ネドが一度だけ手を止めた。
「帰れ」
「縄見に来た」
「なら最初からそう言え」
ティムが小声で言う。
「今日はみんな機嫌悪くない?」
「お前が余計な一言を置いてくからだ」
補助縄は、まだ使える。
ただ一本だけ、岩角に擦れたところが少し細くなっていた。
ネドはそこへ指を当てる。
「次に五袋やるなら替える。三袋なら様子見る」
「荷の数で替える?」
「荷の数っていうより、往復の回数だ」
道が使えるかどうかだけじゃない。
使うたびに、道具も少しずつ減る。
昼過ぎ、鴎泊まで下りた。
今日は船を探しに来たわけではない。
海側の人にも、次の荷の予定があるかだけ聞いておきたかった。
ハナは浜で網をほどいていた。
片方の足で網端を踏み、指で小さな絡みを一つずつ外している。
「麦?」
顔を上げずに聞く。
「今日は麦じゃない」
「じゃあ後にして」
本当に後になった。
俺とティムは横で待った。
ティムが浜の小石を一つ蹴った。
海へ届かず、途中で止まった。
「今のなし」
誰も見ていなかった。
しばらくして、ハナが網を丸めた。
「で?」
「次、北へ行く予定あります?」
「明日の朝。北鼻の内側で網上げ」
「北鼻?」
ティムが先に聞いた。
ハナが海の向こうを顎で示す。
鴎泊から北へ突き出した黒い岬が見える。
「あれの向こう。外が荒れてても、内側だけ静かな日がある」
俺は岬を見る。
赤崖は、そのさらに陸側へ続いている。
「舟、入れる?」
「私のなら」
「荷は?」
「知らない」
答えが早かった。
「人は降りられる?」
「降りたことはある。網ほどくために」
ティムが俺より先に身を乗り出す。
「そこから上、歩ける?」
ハナは少し考えた。
「私は魚持って登ろうと思わない」
それは、歩けないとは違う。
俺が岬をもう一度見ると、ハナは網束を持ち上げた。
「見たいなら明日。私は網を上げる。二人分の見物船は出さない」
「手伝います」
「網を?」
「できる範囲で」
ハナがティムを見る。
「こっちは?」
「見物を全力で」
「一人で歩いて来い」
「網、手伝います」
変わるのが早い。
食料は、今日は動かなかった。
東河港の水位も、麦津の在庫も、まだ答えが出ていない。
でも、何も起きなかった日に見えたものが一つあった。
鴎泊より北。
赤崖の途中に、舟が人だけなら降ろせる場所がある。
使える道なのかは分からない。
それくらいが、明日の朝にはちょうどよかった。
第218話 海から見ると、赤崖は途中で切れていた
【本文】
朝の鴎泊は、まだ浜より海の方が暗かった。
ハナは俺たちを待っていなかった。
船を押し始めていた。
「遅い」
「まだ約束の刻より前」
ティムが言うと、ハナは船尾を押したまま返す。
「潮はお前の約束知らない」
俺たちは黙って反対側へ回った。
小舟を浮かせてから、網籠を二つ載せる。
片方には浮き、もう片方には石の重りが入っていた。
ティムが石籠を持ち上げようとして、途中で置いた。
「これ網の道具?」
「海の底に浮かせる網があるなら教えて」
「聞いただけ」
俺は反対側を持った。
二人で載せる。
赤崖を何度も歩いて、脚は前より動くようになった。
でも船の縁をまたぎながら重い籠を持つと、別の場所がぐらつく。
ハナが船の中から言った。
「足から入れない。籠から」
「はい」
身体は覚え直している途中だ。
陸の荷役で少し上手くなったからといって、船の上まで上手くはならない。
北鼻までは、鴎泊からそれほど遠くなかった。
近いのに、陸から見た時と形が違う。
赤崖はずっと一枚の壁みたいに続いていると思っていた。
海から回り込むと、岬の内側で一度だけ大きくへこんでいる。
「ここ?」
ティムが聞く。
ハナは返事をせず、櫂を左へ切った。
外海では小舟の横を叩いていた波が、岬を越えた瞬間に弱くなる。
水面が完全に静かなわけではない。
でも、船底への当たりが明らかに軽くなった。
俺は岸を見る。
砂浜ではない。
丸い石と黒い岩が混ざった、細い浜だ。
その上に、崖の割れ目みたいな斜面が一本ある。
ティムが言う。
「道っぽい」
「遠くからならね」
ハナは船をすぐ岸へ寄せなかった。
先に沖側へ一度戻し、棒を水へ入れる。
「何してる?」
「昨日より浅い」
「入れない?」
「入れる。帰りが面倒になる前に網上げる」
俺たちの偵察より、ハナの仕事が先だった。
岬内側に仕掛けていた網を引く。
最初の網は軽かった。
小魚が数匹。
二枚目は途中で止まった。
「石」
ハナが短く言う。
俺が縄へ手を掛けると、ティムも反対側へ回る。
三人で引いた。
網の端に、拳より大きな石が噛んで上がってきた。
ティムが息を切らす。
「見物より働いてる」
「帰っていいよ」
「もう半分来たから帰れない」
ハナは網を外しながら笑わなかった。
でも少しだけ口元が動いた。
網を上げ終わってから、ようやく岸へ寄せた。
「先に私が降りる」
ハナが言う。
船底が石へ軽く当たる。
完全に着岸できない。
ハナは膝くらいまで水へ入り、船首を引いた。
俺も続く。
冷たい。
ティムは船縁へ座ったまま水を見る。
「思ったより深い」
「見れば分かる」
「入る前に言ってほしかった」
結局、最後に降りた。
岸へ上がると、足元の丸石が動いた。
一歩踏むたび、靴底の下で石がずれる。
赤崖とは違う怖さだ。
落ちるというより、力が逃げる。
ティムが斜面を指す。
「上、行けるじゃん」
「人はね」
ハナは濡れた裾を絞った。
斜面の入口は、人二人が並べるくらいある。
でも少し上がると、岩が内側へ張り出している。
俺は空身で登った。
五歩。
十歩。
そこで横向きにならないと通れない場所が来た。
ティムが後ろから言う。
「荷駄、無理じゃない?」
「今のままなら」
人は通れる。
背負い籠なら、たぶん通れる。
左右へ荷を下げた荷駄は、幅が足りない。
さらに上へ行くと、地面が柔らかくなった。
昨日の雨が残っている。
靴が少し沈む。
「上まで続いてる?」
ティムが聞く。
「見えない」
斜面は途中で曲がっていた。
そこから先へ行くには、ハナの船と網を浜へ置いたままになる。
ハナが下から声を上げる。
「魚、焼いていいなら行ってきて」
「戻ります」
俺たちは下りた。
偵察で人の仕事を腐らせるのは違う。
浜では、網籠が思ったより邪魔だった。
石の重りが入った方を少し上へ移すだけで、足元の丸石がずれる。
「これ、上へ持ってみてもいい?」
俺が聞くと、ハナは籠を見た。
「戻すなら」
「麦袋くらい?」
「麦知らない。これは濡れて二人で持つ重さ」
ちょうどよかった。
数字を合わせるための荷ではない。
今ここにある、本当に運ばないといけない荷だ。
俺とティムで石籠を持った。
浜から斜面へ入る。
一歩目で分かった。
空身と全然違う。
丸石の上で踏ん張るたび、籠が遅れて揺れる。
斜面へ入ると、今度は岩に肩が当たる。
ティムが前で言う。
「右、もうちょい」
「お前が左行け」
「左ない」
本当になかった。
横向きになるところで、籠を一度地面へ置いた。
ハナが下から見ている。
「それ、魚入ってたらやらないからね」
「なんで?」
「潰すから」
石なら置ける。
魚は置き方まで変わる。
麦袋なら、濡れた地面へ直接置きたくない。
荷物が変われば、同じ坂でも条件が変わる。
俺たちは岩の張り出しまでで引き返した。
ティムが籠を浜へ戻してから、斜面を見上げた。
「舟は着ける」
「人も上がれる」
「荷駄は入れない」
「荷は人で少しなら」
「でも麦だったら地面に置きたくない」
ティムが指を折る。
「増えたね、条件」
ハナが網を畳みながら言う。
「だから私は魚持って登らないって言った」
最初から答えは聞いていたらしい。
ただ、自分で籠を持つまで意味が分かっていなかった。
帰る前、俺は浜から赤崖を見た。
海から見れば、壁は途中で切れている。
でも切れ目の先に、すぐ道があるわけじゃない。
舟で赤崖を避けても、その後に人の肩で登る区間が残る。
それでも、鴎泊しかないと思っていた昨日よりは一つ増えた。
『港』じゃない。
『人なら降りられる場所』。
今は、そのくらいだった。
第219話 舟は着いた。荷は上がらなかった
【本文】
鴎泊へ戻った時、ティムはもう一度北鼻を見た。
「明日も行く?」
ハナが網籠を船から下ろしながら言う。
「私は行かない」
「じゃあ行けない」
「そういうこと」
自分たちの船はない。
場所を見つけたからといって、好きな日に試せるわけではなかった。
受取場へ戻ると、東河港の夕方板が来ていた。
《水位 ほぼ変化なし》
《次便 十二袋見込》
《通常量 未定》
十二袋。
前回の十一袋より一つ多い。
でも、十八袋へ戻ったわけではない。
マルクは板を見てから、壁へ立てた。
「次の必要量は?」
ティムが聞く。
「まだ出してない」
「十二しか来ないのに?」
「十二来る日と、何袋要る日が同じとは限らん」
前なら、そこで不足数を計算していたかもしれない。
今はまだ、石窯も炭窯も次の受取日を決めていない。
ゼンも数字を書かなかった。
俺は北鼻の話をした。
マルクは途中で一度だけ口を挟んだ。
「荷駄は?」
「入れません」
「じゃあ道じゃない」
ティムが言う。
「人でなら持てる」
「何を何回?」
今度は答えられなかった。
俺たちが持ったのは濡れた石籠一つだけだ。
一袋の麦を持っていない。
二往復もしていない。
雨の日も知らない。
潮が高い時に船を寄せられるかも分からない。
「見つけたのは入口だけです」
俺が言うと、マルクは頷かなかった。
否定もしなかった。
「入口なら、入口って書け」
ゼンが帳面を開いた。
《北鼻内側 人上陸可》
《荷駄不可》
《荷役 未確認》
ティムが覗き込む。
「石籠やったじゃん」
「麦じゃない」
「厳しい」
「後でお前が『いけるって書いてあった』って言うからだ」
ティムは何も返さなかった。
たぶん、それは言う。
その日の午後、ネドが赤崖から上がってきた。
空荷だった。
補助縄を一本、肩へ掛けている。
「替えるって言ってたやつ?」
俺が聞くと、ネドは縄を床へ置いた。
「五袋じゃなくても替えた」
毛羽立った部分が、朝よりさらに細くなっていた。
「何した?」
「塩二往復」
麦が動かなくても、赤崖は使われる。
俺たちの食料便だけで傷むわけじゃない。
ティムが新しい縄と古い縄を並べる。
「北鼻使えたら、これ減る?」
ネドは古い縄を丸めながら言った。
「荷駄が入れん場所の話を俺にするな」
「人で運ぶなら?」
「人の腰に聞け」
話が終わった。
でも、俺は少し引っ掛かった。
赤崖の消耗は、麦がない日にも進む。
北鼻は荷駄が入れない。
二つは同じ問題の別解にはならない。
少なくとも今は。
夕方、鴎泊の船頭が受取場へ来た。
ハナとは別の男だ。
塩の受取札を渡しに来ただけらしい。
ゼンが札を受け取り、俺たちの北鼻の記録を見せるつもりはなかった。
男の方が先に帳面の文字を読んだ。
「北鼻、降りたのか」
「知ってるんです?」
俺が聞くと、男は塩札の端を指で折った。
「昔から降りるやつはいる。嵐避けとか、網切れた時とか」
ティムが寄る。
「上の道は?」
「道?」
「斜面」
男は少し考えた。
「上まで行ったことない。用がない」
「でも、人は通れる」
「人はな」
それだけなら、ハナと同じだった。
男は塩札をゼンへ渡し終え、帰ろうとした。
その時、俺は朝の斜面を思い出した。
横向きになった岩の張り出し。
「途中の岩、削れてませんでした?」
男が止まる。
「何が」
「人が擦ったみたいに」
朝は荷を運ぶ方ばかり見ていた。
でも岩の角が一か所だけ丸かった。
自然に割れた面より、そこだけ色が少し違った。
船頭はすぐ答えなかった。
「綱の跡ならある」
「綱?」
ティムが聞く。
「浜の上。岩に溝が何本か。子どもの頃、昔の船留めだって聞いた」
「船留め?」
「本当かは知らん」
男はそこで手を振った。
「俺に昔話聞くな。塩届けに来ただけだ」
今度こそ帰った。
俺とティムは顔を見合わせた。
朝、そこまで見ていない。
人が降りられるか。
荷を持てるか。
荷駄が入れるか。
そればかりだった。
「明日、見たい」
ティムが言う。
「船ない」
「ハナは?」
「行かないって言ってた」
「船頭は?」
「塩の人だぞ」
ティムが黙る。
少ししてから言った。
「昔の綱の跡って、何に使ってたんだろ」
「分からない」
「道だったとか?」
「分からない」
「昔の港?」
「分からない」
「何なら分かる?」
「今日見てない」
ティムは不満そうだった。
俺も同じくらい気になっていた。
だからこそ、明日の予定には書かなかった。
東河港は十二袋見込み。
石窯と炭窯の次の必要量はまだ未確認。
麦津の乾き麦入荷も、まだ板が来ていない。
北鼻の岩には、古い綱の跡があるらしい。
らしい、だけだ。
食料が一度そろった翌日、俺たちは新しい道を一本手に入れなかった。
代わりに、道だったかもしれない場所を一つ見つけた。
その違いは、今なら少し分かる。
第220話 上から見たら、綱の跡は一本じゃなかった
【本文】
次の朝、北鼻へ行く船はなかった。
だから先に、麦の方を見た。
受取場には東河港から板が一枚届いていた。
《次便 十二袋見込》
《積込 明朝予定》
《水位 横ばい》
昨日と大きくは変わっていない。
「十二で足りる?」
ティムが板を読みながら聞いた。
マルクは麦袋の口を縛っていた。
「何にだ。次の分って言っても、石窯か炭窯かで日が違う」
ティムは板を持ったまま少し止まった。
「……じゃあ、次の何か」
「それが決まってから十二を見るんだろ」
俺も答えを持っていなかった。
石窯は、今日の焼き分と明日の朝までは今ある粉で回る。
炭窯は木運びが二人のままなら、急に袋が空く状態ではない。
共同挽き場も、今日は持ち込みが少ないらしい。
ゼンは十二という数字の横へ何も足さなかった。
「必要量、まだ出てない。十二が多いか少ないかも、今は決めない」
「最近、分からないまま置いとくの増えたね」
「前は分からんのに決めてたからな」
ティムが板を見直した。
言い返さなかったので、少しは思い当たるらしい。
今日中に麦を動かす理由はなかった。
北鼻へ船で行く理由もない。
でも、上からなら歩いて行けるかもしれない。
赤崖へ下りる前、ネドに聞いた。
「北鼻の上って、陸から行けます?」
ネドは荷駄の蹄を見ていた。
蹄鉄の端へ泥が詰まっている。
「人なら。赤崖の上を北へ行けば、羊番の踏み跡がある。崖際まで寄るなよ」
ティムがすぐ聞く。
「上からなら荷駄も行ける?」
ネドは顔を上げた。
「昨日、荷駄が入らん場所の話したよな。上から見ても荷駄は荷駄だ。途中で細くなる」
そう言って、蹄の泥を小刀で落とす。
「あと、俺は案内せんぞ。今日は塩だ」
荷駄の反対側には、本当に塩袋が二つぶら下がっていた。
「聞いただけです」
「聞く顔が頼む顔なんだよ」
今日はみんな、顔を読む。
俺とティムは空身で北へ歩いた。
赤崖の上を離れると、道はすぐ道らしくなくなった。
草の倒れ方だけが続いている。
時々、羊の糞がある。
ティムが一つ避けたあと、二つ目を踏んだ。
「今のなし。見なかったことにして」
「靴に付いてるから無理」
しばらく、ティムが歩くたびに少し臭った。
北鼻の上は、海から見た時より広かった。
低い草の間に黒い岩が何本も出ている。
どれが昨日の斜面につながるのか、上からでは分からない。
俺たちは一度、間違った切れ目へ入った。
下へ十歩も行かないうちに、ただの崖になった。
ティムが海を覗く。
「ここ降りたら早い」
「一回だけな」
「何が?」
「人生が」
ティムは二歩下がった。
もう一度、上へ戻る。
昨日の浜は、岬の内側だ。
波の音が少し弱くなる方向を探して、草の低いところを回った。
しばらくして、靴の下から土が消えた。
平たい黒岩が出ている。
その先で斜面が折れ、下は見えない。
「ここじゃない?」
ティムがしゃがんだ。
岩の端に、細い溝がある。
一本。
いや、少し離れてもう一本。
さらに外側に、浅い筋が二本。
昨日の船頭は「何本か」と言っていた。
たしかに一本ではなかった。
俺は一番深い溝へ指を入れた。
指一本ぶんもない。
でも角が丸い。
自然に割れた岩の縁とは手触りが違う。
「綱で削れた?」
ティムが聞く。
「かもしれない。でも、それ以上はまだ分からない」
「昔の荷揚げとか、船留めとか」
「どっちも聞いただけ」
ティムは口を尖らせたが、次の溝を見つけるとすぐそっちへ移った。
溝の向きが違った。
一番深いものは海側へ落ちている。
浅い一本は、斜面ではなく内陸側へ斜めに延びている。
「一本の綱じゃない?」
俺はしゃがんだまま岩の向こうを見る。
「同じ綱を掛け替えたかもしれないし、別の用途かもしれない」
「分からない?」
「分からない」
「今日それ何回目?」
「数えてない」
上から斜面を覗いた。
途中までは見える。
その先は昨日横向きになった岩の張り出しに隠れていた。
深い溝から真下へ線を引けば、ちょうどその張り出しの外側を通りそうに見える。
見えるだけだ。
本当に綱を通したら、どこへ当たるかは分からない。
ティムが自分の腰縄を外しかけた。
「これで試す?」
「命綱なくなるだろ。使う日って、落ちる日だぞ」
ティムは手を止めた。
「それ言われると外せない」
帰り道、赤崖でネドに会った。
朝の塩袋はもうない。
代わりに空の籠が二つ下がっている。
「溝、何本かありました」
俺が言うと、ネドは荷駄を止めずに「そうか」と返した。
「古い綱、捨てました?」
今度は止まった。
「何する」
「人は吊らないです」
「先にそれ言うやつは怪しいな」
ティムが横で頷く。
「俺もそう思う」
「お前は黙ってろ」
ネドは少し考え、荷駄の後ろへ括っていた古縄を指した。
昨日交換した補助縄だ。
毛羽立ったところが一本、はっきり細い。
「測るだけなら持ってけ。人は預けるな。値のある荷も載せるな」
「籠は?」
「空なら好きにしろ。石入れたら、お前らの足の上に落とすな」
許可なのか注意なのか、半分ずつだった。
俺は古縄を肩へ掛けた。
新品より軽い気がした。
たぶん、減ったぶんだけ本当に軽い。
北鼻で見つけたものは、まだ昔の道じゃない。
ただの溝かもしれない。
でも次は、見るだけじゃなく、線を一本通せる。
それで何が分かるのかは、やってみないと分からなかった。
第221話 古い縄は、人を預けるには弱すぎた
【本文】
古縄は、受取場の床に置くと余計に頼りなく見えた。
ティムが端を持ち上げる。
「これ、昨日まで荷駄に使ってたんだよね。切れなかったのが不思議に見えてきた」
「切れる前に替えたから、ここにあるんだろ」
毛羽立った場所を曲げると、細い繊維が何本か立った。
ゼンが帳面から顔を上げた。
「北鼻へ持ってくのか。何を載せる」
「最初は空籠だけ。溝に通して、どこへ落ちるか見ます」
マルクが倉の隅を顎で示した。
麦の量り分けに使う古い飼葉籠が一つある。
縁が欠けて、穀物にはもう使っていない。
ティムが持ち上げて底を見た。
「これ、壊れても怒る?」
「壊すために持ってくなら怒る。壊れたら戻って謝れ」
「結局怒るんだ」
持っていくことにはなった。
北鼻の上まで、昨日より早く着いた。
道を覚えたからだと思ったが、ティムは同じ羊の糞をまた踏んだ。
「道を覚えても罠は動く」
「動いてない」
今日は見なかったことにしなかった。
岩の溝へ古縄を置く。
人も値のある荷も預けない。それでも空籠だけでは、縄がどこを通るか分かりにくい。
俺は手のひら大の平たい石を一つ、籠へ入れた。
ティムが見る。
「ネド、石入れるなって言ってなかった?」
「足の上に落とすな、って言ってた」
「言葉の隙間を使い始めたね」
「嫌なら離れて」
「持つ。足だけ離す」
二人で古縄をゆっくり出した。
最初は、一番深い溝。
籠が斜面を滑る。
草を押し、土を少し削って下へ行く。
十歩ぶん。
二十歩ぶん。
その先で、急に縄が重くなった。
「止まった」
ティムが両手へ力を入れる。
俺は縄を少し戻し、もう一度だけ出した。
ごつ、と下で音がした。
「岩だな」
昨日、横向きになった張り出しのあたりだと思う。
見えない。
縄を引き戻す。
籠の縁に新しい擦り傷が付いていた。
「一番深いの、当たる」
ティムが言う。
「今の重さと長さならね。違う荷なら動き方も変わる」
「また条件が増えた」
石籠で昨日思い知ったばかりだ。
次は外側の浅い溝へ掛け替えた。
同じ籠。同じ石。
同じ長さから始める。
今度は張り出しの手前までは軽かった。
その先で縄が岩の角へ強く押し付けられた。
きゅ、と嫌な音がする。
俺はすぐ止めた。
「戻す。縄が先に減ってる」
「まだ籠、下まで行ってないよ」
「だから今なら戻せる」
引き上げると、古縄の別の場所に黒い擦れ跡が付いていた。
ティムが指で触る。
「一回でこれ?」
「古いから余計だと思う。でも新品を同じ角に当てたら、新品を削るだけだ」
道があるかもしれない、から一歩進んだ。
今度は、道具が減る場所が分かった。
三本目。
海側へ一番離れた浅い溝を使った。
籠は最初から少し横へ振れた。
斜面の外へ出たがる。
ティムが縄を内側へ寄せる。
「落ちない?」
「籠は落ちてもいい。人は寄るな」
二人とも岩縁から一歩離れた。
縄を出す。
張り出しのところで、ごつ、という音がしなかった。
代わりに、しばらく何も聞こえなくなった。
ティムが声を落とす。
「どこ行った?」
「下。たぶん」
「見えないの、嫌だな」
「俺も」
さらに少し出す。
今度は、ころ、と石が籠の中で転がる音がした。
そのあと、縄が斜めに引かれた。
「止めよう」
俺たちはそこで止めた。
下に人がいない。
籠が浜へ着いたのか、岩へ引っ掛かったのか分からない。
無理に出して、古縄が切れれば、籠ごと回収できなくなる。
引き上げる。
重かった。
途中で二度、籠が岩へ当たった。
でも戻ってきた。
石も入ったままだ。
ティムが籠を覗いた。
「三本目、いけたって言っていい?」
「途中までは。下が見えないまま進めるのは、まだ成功じゃない」
ティムは少し黙って斜面を覗いた。
「じゃあ、下に人がいれば?」
俺も同じことを考えていた。
上で縄を出す人。
下で籠がどこへ来たか見る人。
一人増えるだけで、試せることが変わる。
ただし、今日その一人はいない。
帰る前に、三本の溝をもう一度見た。
一番深い溝は籠が張り出しへ当たる。
二本目は縄が強く擦れる。
三本目は、少なくとも見える範囲では張り出しの外を回った。
昔の人が同じことをした証拠ではない。
でも、溝の位置には意味があるかもしれない。
受取場へ戻ると、東河港の板が増えていた。
《十二袋 積込予定維持》
《明朝 水位確認後出発》
ティムが板を見てから、古縄を見る。
「食料の方、今は止まってるね」
マルクが訂正した。
「待ってる。止まってるのは壊れた時だ」
「似てるけど、違う?」
「違う」
俺は古縄を床へ置いた。
北鼻も同じだった。
止まったんじゃない。
次に必要な条件が分かったから、そこで待っている。
下に人がいる日。
それが来るまでは、古縄へもう石を預ける気はなかった。
第222話 上と下に人がいて、初めて荷が岩を越えた
【本文】
その日は、次の日に来た。
朝、鴎泊へ下りると、ハナが船へ網籠を積んでいた。
俺を見て最初に言ったのは、挨拶じゃなかった。
「今日は北鼻行く。網見に行くだけだから、乗るなら船押して」
ティムが隣で笑う。
「昨日は行かないって言ってた」
「昨日は行かなかった。今日は行く」
「正しい」
話が早かった。
ただし、今回は二人とも船へ乗らなかった。
ティムは北鼻の上へ回る。
古縄と飼葉籠を持って。
「一人で大丈夫?」
俺が聞くと、ティムは少し考えた。
「籠に俺を入れなければ大丈夫だと思う」
「入らないで。岩の縁にも寄りすぎるな」
「そこまで言われると、俺が何すると思われてるのか気になる」
「昨日、腰縄外そうとした人」
「分かった。上で普通に待つ」
俺はハナの船へ乗った。
北鼻へ着くまで、昨日の綱痕の話はしなかった。
ハナは網の浮きを数えている。
一本足りないらしい。
「昨日も一本なかった」
俺が言うと、ハナが手を止めた。
「昨日見た?」
「たぶん。今、数えてるの見て思い出した」
「その時言って」
ハナの中で、俺の信用が一つ減った気がした。
北鼻の内側は前回より水が少し高かった。
船首が丸石へ当たりにくい。
代わりに、降りる時の水は膝より上まで来た。
「毎回同じじゃないな」
俺が言う。
ハナは船を引きながら返す。
「海だからね。昨日の形で待ってくれないよ」
先に網を上げた。
俺の試しはその後だ。
一枚目には小魚が三匹。
二枚目は空。
三枚目に、なくしたと思っていた浮きが絡んでいた。
ハナが俺を見る。
「昨日見たの、それじゃない?」
「そうかも」
「信用、一個返す」
数えられていたらしい。
仕事が終わってから、浜の上へ移動した。
俺は昨日、籠が来そうだった場所を探す。
岩の張り出しの下。
上は見えない。
「ティム!」
声を上げる。
少し遅れて、ずっと上から返事が来た。
「いる! 籠もある!」
「こっちから見えない! まだ出すな!」
「分かった!」
返事より先に、上で何かが転がる音がした。
「何落とした!」
「石じゃない! 水袋! 拾った!」
ハナが横で言う。
「楽しそうだね」
「下はそうでもない」
籠に入れるのは、前と同じくらいの平たい石一つだけにした。
麦でも魚でもない。
落としても食べ物が駄目にならない重さだ。
俺はハナから細い予備綱を一本借りた。
籠が浜まで来たら、横から引いて岩へぶつからないようにするためだ。
「切ったら弁償する。いくら?」
俺が聞くと、ハナは予備綱の結び目を確かめた。
「切ってから考える」
高そうだった。
上へ声を掛ける。
「三本目の溝!」
「分かってる!」
古縄が岩の上から少しずつ下りてきた。
最初は縄だけ。
そのあと籠の縁が見えた。
昨日は上から消えたところだ。
下から見ると、籠は張り出しの外側を回っていた。
完全に浮いているわけではない。
斜面へ触れ、離れ、また触れる。
「もう少し下!」
俺が叫ぶ。
上でティムが返す。
「下は分かる! どれくらい!」
「腕一本ぶん! ゆっくり!」
籠があと少しというところで、岩へ横から寄った。
俺は予備綱の輪を籠へ掛けた。
一度失敗した。
二度目で入る。
「止めて!」
古縄が止まった。
予備綱を浜側へ引く。
籠が岩から離れる。
「出して!」
今度はゆっくり下りた。
丸石の上へ、籠が着いた。
石一つ。
籠一つ。
それだけだった。
でも昨日、上から見えなくなった場所を、今日は荷が越えた。
ティムの声が上から飛ぶ。
「着いた!?」
「着いた!」
「勝った?」
俺は籠と古縄を見る。
縄の毛羽立ちが増えている。
予備綱がなければ、最後の岩へ何度か当たっていたはずだ。
「一回だけ!」
「それ勝ち?」
ハナが先に答えた。
「魚なら負け」
上まで聞こえたらしい。
今度は逆に、籠を引き上げた。
俺が下で予備綱を持ち、岩から離す。
ティムが上で古縄を引く。
下ろすよりきつかった。
籠が斜面へ食い込みたがる。
予備綱を引きすぎると横へ振れる。
緩めると岩へ当たる。
「ちょい待って!」
上からティムの声。
古縄が止まる。
「手、痛い! ちょっと休む!」
「休め! 籠こっちで押さえる!」
荷の重さだけじゃない。
綱を握る手も減る。
人が疲れれば、同じ一往復でも条件が変わる。
少しして再開した。
籠は岩の張り出しを越えた。
見えなくなる。
しばらくして、上からティムの声。
「上がった!」
俺は予備綱を離した。
手のひらが赤い。
ハナがそれを見る。
「麦、何袋やる気?」
「まだ一袋も。今日は石一個で十分」
「それがいい」
浜から見上げる。
人が歩く斜面は狭い。
荷駄は通れない。
でも荷だけなら、人の身体とは別の線を通せるかもしれない。
上と下に人がいる。
綱が二本ある。
荷は小さい。
海が静か。
条件が四つも揃って、やっと石一つだ。
港とは呼べない。
道とも言い切れない。
帰りに北鼻の上へ回ってティムと合流した。
古縄を受け取る。
三本目の溝へ当たっていた場所が、前より白く毛羽立っている。
「昔もここで綱使ってたんじゃない?」
ティムが言う。
俺は溝を見る。
今日の俺たちの縄も、同じ場所を擦った。
「使いやすい場所なのは分かった」
「昔も?」
「それはまだ分からない」
ティムはもう突っ込まなかった。
代わりに籠の石を持ち上げる。
「これ、持って帰る?」
「置いたらマルクに籠だけ返すことになる」
「石は北鼻のだよ」
「持ってきた石だろ」
「あ、そうだった」
探索が続くと、石の出身まで怪しくなるらしい。
受取場へ戻る頃には、東河港から新しい板が来ていた。
《十二袋 積込済》
《明朝 水位確認後出発》
まだ到着ではない。
でも今回は、北方側でも今日中に追加麦が必要という話は出ていなかった。
ゼンは北鼻の記録を一行だけ増やした。
《小荷 綱下ろし試験 一往復》
その下に俺が言う。
「条件も書いてください。上下一人ずつ、補助綱あり、石一つ。古縄は一往復でも減りました」
ティムが横から足す。
「海、静か。そこもいる」
ハナはもういない。
でもそれも必要だった。
ゼンは最後に書いた。
《港・荷揚げ路 未認定》
ティムが文字を見て口を曲げる。
「そこだけ厳しい」
「そこが一番大事だろ」
俺は答えた。
今日分かったのは、昔の港があったことじゃない。
荷駄が通れない岩の横を、荷だけなら別の線で越えられる可能性があることだ。
しかも、その線は人の手と綱をかなり使う。
新しい道を見つけたわけじゃない。
道にしようとした時、何が必要になるかが一つ見えた。
それで十分、次が気になった。




