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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第211話 昼に便は決まった。でも朝には届かなかった


【本文】

「昼までは待つ」と決めた日の朝は、妙に長かった。

待っているから長い、というだけかもしれない。

受取場ではマルクが麦袋の底を叩き、ゼンは昨日の行の下を空けたままにしている。

ティムは三回、入口まで行った。

三回目に、受取場の男が小刀を研ぎながら言った。

「板は歩いてこないぞ」

「分かってる。人が持ってくる」

「なら入口見ても早くならん」

ティムは戻ってきた。

「待つって、何もしてない感じするな」

俺も少し分かる。

だから炭窯へ行った。

昨日の約束どおり、こちらから確認するためだ。

赤崖を上がる途中、足場は乾いていた。

昨日より楽に登れたが、曲がりで速度を上げる気にはならない。

同じ道でも、荷がある日とない日で別物になる。

炭窯へ着く前に、人の声が二つ増えているのが聞こえた。

モーグが言っていた木運びだった。

若い男が二人、細い丸太を肩から下ろしている。

ティムが俺の横で息を吐いた。

「来たね」

「来たな」

昨日なら、来るかもしれない、だった。

今日は、いる。

ハルドは窯口で灰を掻いていた。

俺が小屋の方を見ると、気づいたらしい。

「減るぞ」

挨拶より先だった。

「二人ぶん?」

「二人が二人ぶん食えばな」

奥で丸太を置いた男が言う。

「俺、朝食ってきた」

もう一人が笑った。

「昼は食うだろ」

「昼は食う」

ハルドは灰掻きを止めない。

「そういうことだ」

昨日の「明後日朝まで」は、もう今日から見れば明日の朝だ。

しかも人数が増えた。

木運びの二人の荷物は、小屋の壁際にもう置かれていた。片方は丸めた外套、もう片方は柄の欠けた木椀だけ。二人とも一日だけ手伝いに来た顔ではない。

「何日いるんです?」

俺が聞くと、朝飯を食ってきた方が丸太の皮を剥ぎながら答えた。

「木がなくなるまで」

「いつなくなる?」

ティムが続ける。

男は皮を剥ぐ手を止めず、山の方を顎で示した。

「山に聞けよ」

モーグが笑った。

「お前までそれ言うようになったか」

「ここ、そういう答え方すると仕事できるって聞いた」

誰が教えたのかは聞かなかった。

小屋の袋を見せてもらう。

残りは、昨日よりはっきり少ない。

「朝までは?」

俺が聞くと、ハルドは少し考えた。

「朝は食える」

「昼は?」

「今聞くな。昼までにどれだけ食うか、俺が今から決めるのか」

「ですよね」

横でティムが何か言いかけて、口を閉じた。

たぶん俺と同じことを聞こうとした。

モーグが木屑の付いた手で空の籠を押した。

「麦来るなら来るでいい。来ないなら、腹減る前に分かればいい」

「今日の昼までに次便の話が来なかったら、別を探します」

「別って何」

「まだ決めてないです」

モーグが一瞬だけ笑った。

「昨日より賢いな」

「褒めてる?」

ティムが聞く。

「お前には言ってない」

また刺された。

帰り道、俺たちは少し急いだ。

受取場へ戻った時、入口に板を持った男が立っていた。

東河港からの走りだ。

ゼンが板を受け取り、最初の一行を読んだところで炭筆を置いた。

「出る」

ティムが身を乗り出す。

「二袋?」

ゼンは板を下へずらした。

「明朝。低水位のまま。積み増し、一袋まで」

「一袋」

俺は繰り返した。

マルクが倉の奥から出てくる。

「着くのは」

走りの男が肩を揉みながら答えた。

「順調なら明日の夕方。浅いところで止まれば、もっと後」

「一袋しか増やせないのは、船が小さいから?」

俺が聞くと、男は首を横へ振った。

「船じゃない。底だ。今日も一か所、人が降りて押した。明日は荷を減らして出る。それで一袋だけ空いた」

「二袋載せたら?」

ティムが聞く。

「船頭に言え。俺は押したくない」

男は靴の泥を落とした。

「あと、出るって言っても朝に水見て変わるぞ。板には見込って書いてあるだろ」

本当だ。

《明朝 出発見込》

決定ではない。

それでも、昨日の《未定》よりは一つ先へ進んでいる。

ティムの顔から、少しだけ明るさが消えた。

便は決まった。

一袋も増やせる。

でも、炭窯が待てるのは明日の朝までだ。

「間に合わないね」

ティムが言った。

マルクは板を見たまま返す。

「朝飯にはな」

俺は昨日の帳面を開いた。

《明日昼 次便未定なら代替確認》

次便は未定ではなくなった。

でも、困る時間には間に合わない。

ゼンが炭筆を持つ。

「線、どうする」

俺は少し考えた。

「消さないで。横に書いてください」

《次便 明朝出発見込》

《積増 一袋》

《炭窯朝 間に合わず》

ティムが文字を追う。

「じゃあ、残り一袋を探す?」

「二袋分の麦を探す話じゃなくなった」

「え?」

「明日の朝から、船の一袋が着くまでの飯をどうするか、だと思う」

「一日ぶん?」

「たぶん半日から一日。でも、まず炭窯に聞かないと分からない」

「また行くの?」

「さっき行った時と条件が変わった」

ティムは天井を見た。

「今日、赤崖何回目だっけ」

「まだ二回」

「まだって言った」

マルクが袋の口を縛り直しながら言った。

「それを先に見ろ。二袋って数字に戻るな」

俺は頷いた。

穴の大きさは二袋のままなのに、必要な橋は二袋ぶんじゃなくなっていた。

昼を待ったら、問題が小さくなったわけじゃない。

形が変わった。

今度は、その形に合うものを探せばいい。

第212話 パンにならない麦でも、粥にはなった

【本文】

代わりを探すなら、最初に行く場所は麦津じゃなかった。

昨日、一袋を粉にした町の挽き場だった。

俺とティムが着いた時、挽き手の男は臼の下から粉を掻き出していた。

こっちを見て、嫌そうな顔をする。

「今日は何袋だ」

「ゼロです」

「じゃあ帰れ」

「聞きたいことだけ」

男は粉を掻く手を止めなかった。

「一番長いやつだな」

ティムが俺の横で笑う。

「最近、説明が嫌いな人にばっかり当たるね」

「働いてる時に来るからだろ」

それはそうだった。

俺は臼の脇に積まれた小袋へ目をやった。

昨日は気づかなかった。

白い粉ではない。

麦粒の割れたものや、皮の付いた粗い欠片が混じっている。

「それ、何です?」

男が一度だけ見る。

「ふるい落ち」

「捨てるやつ?」

ティムが聞いた。

「捨てるなら袋に入れん」

「食べる?」

「人も食う。家畜も食う。パン屋は嫌がる」

男は木箆で粉を寄せた。

「粗い。皮多い。焼くと重い。粥なら煮ろ」

俺は小袋の口を少し開けた。

匂いは普通の麦に近い。

粒の大きさがばらばらだ。

「どれくらいあります?」

「今はあれだけ」

手で示されたのは、小さめの袋一つと半分ほど。

挽き手の男は臼の脇に置いた木枠を持ち上げた。底が細かな網になっている。

「粉を取ったあと、ここに残る。粒が揃ってりゃ別に売る。皮ばっかりなら家畜。今日のは真ん中だ」

ティムが袋を覗き込む。

「真ん中って便利だな」

「売る方には不便だ。値段決めにくい」

「じゃあ安い?」

「お前が買うのか」

「俺は食う側」

「一番値段に口出す側だな」

ティムは否定しかけて、やめた。

二袋には遠い。

でも、明日の朝から東河港の一袋が着くまでをつなぐだけなら、話は違う。

「売れます?」

挽き手の男がようやく手を止めた。

「何に使う」

「炭窯の粥」

「誰が食う」

「炭焼きの人たち」

「本人に聞いたか」

俺は口を閉じた。

聞いていない。

ティムが小袋を見ながら言う。

「また順番逆?」

「今のはそうだな」

男が先に答えた。

俺たちは何も買わず、炭窯へ戻った。

坂を二往復するのは、正直ちょっと嫌だった。

でも、勝手に飯を替えるよりはいい。

炭窯では、増えた二人がもう仕事に入っていた。

丸太を割る音が昨日より多い。

ハルドは小屋の前で鍋を洗っている。

「粗い麦があるんです」

俺が言う。

ハルドは鍋の水を捨てた。

「麦は麦だろ」

「パンには向かない。ふるい落ちって言って、皮とか割れた粒が多いみたいで」

「で」

「粥なら食えるって」

「誰が」

「挽き場の人が」

ハルドはそこで初めてこっちを見た。

「食うのは俺らだぞ」

「だから聞きに来ました」

少し間があった。

モーグが向こうから声を投げる。

「腹壊さなきゃ何でもいい」

ハルドが返す。

「お前は昨日、焦げた芋も食っただろ」

「焦げてただけで芋だ」

「そういう基準で決めるな」

木運びの一人が笑った。

もう一人は笑わず、腹を押さえている。

ティムが小声で俺へ言った。

「今の人、もう腹減ってない?」

「聞こえてるぞ」

男が言った。

ティムは黙った。

ハルドは鍋を裏返して置いた。

「少し持ってこい。今夜、一鍋だけ混ぜる。食えたら朝も使う」

「全部じゃなくて?」

「全部買ってから不味いって言うのか」

「言わないです」

「なら少し」

三往復目になった。

今度は空荷ではない。

試し袋は軽いが、軽いぶん肩の上で動く。俺は紐を短くして背中へ寄せた。

粉が漏れないよう二重にした袋は、表面が滑る。普通の麦袋みたいに腰へ引っ掛からない。

赤崖の曲がりでティムが後ろから言った。

「軽い荷の方が楽って、誰が決めたんだろ」

「誰も」

「じゃあ俺が今、取り消す」

「決めてもないのに?」

ティムは答えず、岩に手をついた。

空壺の時と同じだった。軽いものは、重いものとは別の面倒がある。

ティムは赤崖の下で立ち止まり、空を見た。

「俺、今日ずっと同じ道歩いてる」

「歩く人なんだろ」

「まだそれ残ってたの?」

残っていた。

挽き場では、男が小さな布袋へふるい落ちを入れた。

「試すならこれで足りる。銅貨は食ってからでいい」

「無料?」

ティムが言う。

「食えなかった物に値段つけるの面倒なだけだ」

それを無料とは呼ばない方がよさそうだった。

俺が袋を持つ。

普通の麦袋よりずっと軽い。

なのに細かな粉が縫い目から少し出る。

ティムが手で押さえた。

「漏れてる」

挽き手の男が古い粉袋を一枚投げてよこす。

「二重にしろ。返せよ、それは俺のだ」

「そっちは無料じゃないんだ」

「当たり前だ」

炭窯へ戻る頃には、日が傾いていた。

ハルドは試し袋を鍋へ全部入れなかった。

いつもの麦に、手のひら三杯ぶんだけ混ぜる。

水を足す。

火を弱める。

「水、多いんですね」

俺が言うと、ハルドは木杓子で鍋底をこすった。

「皮が吸う」

「知ってた?」

ティムが聞く。

「昔食った」

そこで話は終わった。

俺たちは鍋が煮えるまで待った。

誰も感想を言わない。

木運びの男が先に一口食べた。

噛んで、飲み込む。

「固い」

モーグが横から椀を取る。

「粥に固いってあるか」

「ある」

ハルドは自分でも食べた。

少しだけ眉を動かす。

「朝なら食える」

「昼も?」

俺が聞く。

「残りと混ぜる。朝食ってから決める」

「買う量は?」

「まだ買うな」

ハルドは椀を置き、鍋の底をもう一度こすった。

「皮が多いと腹は膨れる。でも仕事するやつに毎食これ食わせる気はない」

木運びの男が口を挟む。

「俺は別に」

「お前は黙って木運べ」

男は椀へ戻った。

それだけだった。

美味いとは言わなかった。

でも、明日の朝を越える道にはなった。

パンにならない麦だった。

今は、それで十分だった。

第213話 一袋足りないまま、朝を越えた

【本文】

翌朝、炭窯の鍋には粗い麦が混じっていた。

昨日より水が多い。

表面に皮が浮いている。

木運びの二人は、何も言わず食べていた。

モーグだけが二口目で言った。

「昨日より固くない」

ハルドは火の方を向いたまま返す。

「昨日より煮た」

「じゃあ明日はもっと」

「普通の麦が来ればやらん」

話はそこで切れた。

俺とティムも一口ずつもらった。

昨日の試しより柔らかい。

うまいかと聞かれたら、少し困る。

でも腹には入る。

ティムが椀を見た。

「これ、店で出したら怒られる?」

「金取ったらな」

モーグが答える。

「じゃあ無料なら」

「お前、まだ食う気か」

ティムは椀を返した。

炭窯の朝飯は終わった。

昨日の試し分より多く粗い麦を混ぜたが、全部を置き換えたわけではない。残っていた麦に足して、鍋の量を増やしただけだ。

ハルドは食べ終わった椀を重ねながら、指で小屋の袋を示した。

「これで昼まで。昼は残り見て決める」

「粗い方、もっと買ってくる?」

ティムが聞く。

「船の一袋が来るならいらん」

「来なかったら?」

「その時買え」

ティムが俺を見る。

俺は肩をすくめた。

昨日までなら、先に一袋分くらい押さえておこうと言ったかもしれない。

今日は言わなかった。

予定していた二袋は、まだ来ていない。

それでも、昨日決めた「朝まで」は越えた。

ハルドが小屋の袋を確認する。

「昼も粗いの混ぜりゃ持つ」

「夕方は?」

俺が聞く。

「船の一袋が来るなら考えなくていい」

「来なかったら?」

ハルドは木杓子を洗いながら言った。

「その時また来い」

完璧な答えではない。

でも、それでよかった。

受取場へ戻る途中、赤崖の下で荷駄とすれ違った。

ネドだった。

荷は一袋。

俺は思わず足を止める。

「東河港?」

「違う。塩」

「……ですよね」

ティムが笑う。

「顔が麦だった」

ネドは何も聞かず通り過ぎた。

昼を過ぎても、東河港の一袋は来なかった。

ゼンは帳面の《積増 一袋》の横を空欄にしたままにしている。

ティムは今度は入口を見に行かなかった。

「成長した?」

俺が聞く。

「見ても早くならないんでしょ」

「覚えてた」

「失礼だな」

夕方が近づいたころ、外から荷駄の鈴が鳴った。

二人とも立った。

ゼンは立たなかった。

「見に行け」

言われる前に行くところだった。

荷駄を引いてきたのは、東河港から何度か荷を上げてきた男だった。

背に、麦袋が一つ。

荷駄の脚には乾ききっていない泥が付いている。男の裾も同じだった。

「水、そんなに浅い?」

俺が聞くと、男は荷駄の首から縄を外しながら鼻で息を吐いた。

「浅いっていうか、川底が近い。船頭が棒差して、ここ嫌だ、あそこも嫌だって。荷より人の方が何回も降りた」

ティムが麦袋を見る。

「この一袋のために?」

「お前の一袋だけ運んでる船じゃない」

「ですよね」

最近、ティムの引き際が少し早くなった。

袋口の札をマルクが先に確認する。

《東河港》

《積増 一》

「一袋だけ?」

ティムが聞く。

男は汗を拭いた。

「一袋だけって書いてあるだろ。船、浅いところ二回降りたぞ」

「降りた?」

「人が。荷を軽くして押した。戻して、また乗った」

マルクが袋を押す。

「濡れは」

「ない。船底は濡れた」

誰も笑わなかった。

一袋を受取場へ入れる。

マルクは置いて終わりにしなかった。袋底を押し、湿りがないか触る。縄の結び目をほどいて上の麦だけ手ですくう。

「匂いは」

ティムが鼻を近づけようとすると、マルクが手で止めた。

「お前じゃなくて俺が見る」

「鼻なら俺もある」

「責任は俺にある」

ティムは一歩下がった。

マルクは麦を戻し、袋口を締め直す。

「濡れなし。これなら入れる」

そこで初めて帳面の現物へ足した。

これで、予定十八袋に対して現物は十七袋になった。

数字だけなら、まだ一袋足りない。

ティムが帳面を見る。

「あと一袋」

俺も見た。

前なら、ここから一袋を埋める方法を考え始めたと思う。

でも、マルクは先に聞いた。

「炭窯は」

「朝は越えました。粗い麦を混ぜた。昼もそれで持つって」

「粗い麦?」

ゼンの炭筆が止まる。

説明しようとしたところで、受取場の男が奥から言った。

「飯の話は飯食ったやつに聞け。数字だけ書け」

ゼンは少し考えてから二行書いた。

《東河港 追加一袋着》

《予定差 一袋》

その下に、別の行。

《炭窯 朝食代替成立》

その横へ、ゼンが小さく《試し》と足した。

「成立って、定期で使えるって意味じゃないぞ」

俺が言う。

ゼンは炭筆を置いた。

「書いてない」

「はい」

ティムが口元を押さえた。

たぶん笑っている。

午後、俺たちは挽き場へ古い粉袋を返しに行った。

試しで使った分の銅貨も払う。

挽き手の男は袋を開いて、残った粗い麦を見た。

「食えたか」

「食えました」

「なら次は買え」

「次があるかはまだ」

「それなら来るな」

ティムが外へ出てから言った。

「たぶん次も来るよね」

「決めるなよ」

「今のは予想」

赤崖へ戻る道で、東河港から来た走りとすれ違った。

新しい板を一枚持っている。

受取場へ届ける途中らしい。

俺たちは追いかけなかった。

どうせ戻れば読める。

夕方、板にはこう書かれていた。

《水位 低いまま》

《次回通常量 未定》

ティムが板を読んで、俺を見る。

俺は帳面を閉じた。

一袋足りない。

でも、今日の朝を越えるために、一袋を無理やり作る必要はなかった。

海から五袋。

川から一袋。

挽き場の粗い麦が、朝と昼の間をつないだ。

どれか一つが全部を解決したわけじゃない。

その方が、今は信用できる気がした。

「明日は?」

ティムが聞く。

「明日の在庫を見てから」

「先、決めないんだ」

「決められるところだけでいい」

外で荷駄の鈴が鳴った。

誰かが麦ではない荷を運んでいる。

俺たちはそっちを見なかった。

今度は、本当に待てた。


第214話 一袋足りない。でも今日はいらなかった

【本文】

十八袋のうち、一袋だけ足りない。

朝、受取場へ行くと、その一袋より先に昨日届いた袋がなくなっていた。

「盗まれた?」

ティムが壁際を見た。

マルクは麦粒を量る手を止めない。

「炭窯へ出した」

「あ、そっち」

「昨日、あと一袋着いただろ」

昨日、東河港から最後に上がってきた一袋。

予定差二袋のうち、一袋ぶんだ。

朝一番で炭窯へ回したらしい。

「じゃあ残り一袋」

ティムが言う。

ゼンは帳面へ書き足さなかった。

もう書いてあるからだ。

《予定差 一袋》

その一行だけ、昨日から残っている。

俺は倉の中を見た。

袋はある。

少なくとも、今日食べる麦が消えているようには見えない。

「次に困るの、いつです?」

マルクが手を止めた。

「それを見に行け」

「やっぱり?」

ティムが嫌そうな声を出す。

「一袋足りないから一袋買う、で済むならお前ら要らんだろ」

マルクは木升を麦袋へ戻した。

最近、受取場へ来るたび仕事を増やされている気がする。

たぶん気のせいじゃない。

最初に石窯へ行った。

オルナは朝の固焼きをもう並べ終えていた。

昨日までなら、その籠を見ただけで安心したかもしれない。

今日は粉桶の方を見る。

「あとどれくらいです?」

俺が聞くと、オルナは返事の代わりに木蓋を開けた。

底は見えていない。

「明日は焼ける。明後日の朝も減らせば焼ける」

「減らさなかったら?」

ティムが聞く。

「明日の夕方までに挽いた粉が欲しい」

「じゃあ明日の夕方」

「麦が来る時刻じゃないよ」

オルナは窯の奥へ手を伸ばした。

「粉になる時刻」

ティムが俺を見る。

「一回やったのに、また忘れそうだった」

「俺も」

挽き場が間に入る。

一袋の期限は、石窯へ届く時刻ではなく、その前だった。

石窯を出たあと、そのまま挽き場へ寄った。

挽き手の男は臼の上へ麦を足しているところだった。

「明日、一袋来るかもしれない」

「来てから言え」

「来た場合、何刻までなら挽けます?」

男は臼の回転を見たまま、指を二本立てた。

「昼より前なら、たぶん最後へ入る。昼過ぎたら次の日」

「たぶん?」

ティムが聞く。

「石噛んだら止まる。前の袋が多けりゃ遅れる。臼に時刻聞け」

また相手が人じゃなくなった。

それでも、石窯の『明日の夕方』より前に、挽き場の『昼前』があることは分かった。

一袋の期限が、さらに半日近く手前へ動いた。

炭窯では、昨日届いた一袋の口がもう開いていた。

ハルドが粥を掬っている。

粗い麦は混じっていない。

「普通に戻った」

ティムが鍋を見て言った。

モーグが炭俵の縄を締めながら返す。

「昨日から普通だ」

「俺の中ではイベントだったんだよ」

「知らん」

木運びの二人は、まだいた。

一人増えていた。

昨日まで見なかった年上の男が、窯の横で薪を短く切っている。

俺がそっちを見たのを、ハルドが先に拾った。

「今日だけ」

「食べます?」

「人だからな」

ティムが吹きそうになった。

年上の男は薪を切ったまま言う。

「俺、昼で帰るぞ」

「じゃあ昼まで人」

モーグが言った。

誰も続けなかった。

俺は小屋の袋を確認した。

昨日の一袋が入ったぶん、前より余裕はある。

「次に足りなくなるのは?」

ハルドは鍋の蓋を置く。

「明日じゃない」

「明後日?」

「人が増えなきゃな」

「増えたら?」

「また来い」

前と同じ答えだった。

でも今回は、それで十分だった。

一袋足りない。

ただし、今日はいらない。

石窯も炭窯も、少なくとも今日のうちに新しい一袋がないと止まる状態ではなかった。

受取場へ戻る途中、東河港からの走りとすれ違った。

板を一枚持っている。

ティムが振り返る。

「追う?」

「向こうも受取場行くんだろ」

「先に読みたくない?」

「走りたくない」

今日は赤崖を二往復している。

それも理由だった。

受取場に着くと、板はもうゼンの前にあった。

《水位 低いまま》

《次便 通常量未定》

《明朝 再計測》

ティムが最後の行を読む。

「また待つ?」

俺はすぐ答えなかった。

石窯は明日の夕方までに粉が欲しい。

炭窯は、今の人数なら明日は越えられる。

東河港は明朝また水を見る。

「明日の朝まで待てます」

マルクがこっちを見る。

「その後は」

「水位と、次便で一袋載るかを見てから」

「海は?」

ゼンが聞いた。

「使うかもしれない。でも、先に麦津で一袋売れるかだけ聞きたいです」

ティムが少し笑った。

「道より麦が先?」

「前の五袋も、売る麦があったから動いた」

海路が通れることと、麦が買えることは別だ。

今まで道の方ばかり見ていた。

ゼンが板の横へ一行だけ足した。

《麦津 在庫確認のみ》

「買付じゃないぞ」

「はい」

「予約でもない」

「はい」

ティムが横から口を挟む。

「確認だけって三回書く?」

ゼンは炭筆を置いた。

「お前のためならな」

「一回で分かるよ」

たぶん分かっている。

夕方、鴎泊へ向かう小舟に問い合わせ板だけを預けた。

一袋足りない。

でも今日、船も荷駄も動かさなかった。

何もしなかったわけじゃない。

動かなくていい日だと分かった。

それだけでも、前より少し楽だった。


第215話 道は空いていた。売れる麦が空いていなかった

【本文】

麦津から返事が来たのは、翌朝の水位板より早かった。

受取場の男が入口で板をひっくり返した。

「短いぞ」

ティムが嬉しそうに寄る。

「いい返事?」

「短いだけだ」

板には三行。

《乾き大麦 空きなし》

《次入荷 二日後見込》

《一袋 湿りあり・値引可》

ティムが最後の行を二回読んだ。

「あるじゃん」

マルクが倉の奥から言う。

「乾いたのはないって書いてある」

「湿ってるって、どれくらい?」

「板に鼻は付いてない」

結局、見ることになった。

東河港の再計測は昼前になるらしい。

それまでに麦津へ行って戻るのは無理だが、鴎泊まで下りれば朝の小舟が一艘、麦津へ戻るという。

俺とティムはそれに乗った。

一袋を買うとは決めていない。

見に行くだけだ。

「最近、見に行くだけが多いね」

小舟の端でティムが言った。

「買ってから困るよりいいだろ」

「それは分かる。分かるけど、前より財布が開かない」

「お前の財布じゃない」

「気分の話」

船頭は会話へ入らなかった。

潮の向きを見て、櫂を一度入れ直しただけだ。

麦津の売り手は、前に五袋を出してくれた男だった。

店の前へ着くと、乾き大麦の棚が本当に空いている。

縄だけが残っていた。

「五袋買ったやつが、なんで一袋ないって言うんだ」

男は俺を見るなり言った。

「北で全部足りる予定だったんです」

「予定は食えん」

ティムが小声で言う。

「ここも強い人だ」

売り手は聞こえていたが拾わなかった。

俺は空の棚を見る。

「次は二日後?」

「荷車が来ればな」

「来なかったら?」

「空の棚が一日伸びる」

当たり前だった。

「湿ってる一袋は?」

売り手は店の奥を顎で示した。

裏へ回ると、壁際に一袋だけ離して置かれていた。

袋底の色が少し濃い。

ティムが近づく。

「触っていい?」

「底だけ」

男が先に言った。

俺も手の甲で袋底へ触れた。

冷たい。

濡れているほどではない。

でも乾いた袋とは明らかに違う。

売り手が口をほどく。

上は普通の大麦だった。

底に近いところを手で掘ると、粒同士が少しだけまとまっている。

「屋根から一回落ちた」

「雨?」

「樋が外れた。すぐ動かしたが底が吸った」

ティムが粒を一つ摘まむ。

「食べられる?」

「今ならな。置くなら広げて乾かせ」

「どれくらい?」

俺が聞くと、男は店の裏の板場を指した。

「晴れて風あれば半日。底まで戻すなら一日見たい」

今日は晴れている。

でも、今から広げて、夕方に袋へ戻し、船へ載せ、鴎泊から赤崖を上げる。

そこまで急ぐなら、乾いたかどうかを最後に誰が見るのかも決めないといけない。

「船で運ぶのは?」

男は俺ではなく袋を見た。

「俺なら乾かしてから売る。安いからって湿りまで買うな」

ティムが袋底から手を離した。

「売る人が止めるんだ」

「後で腐ったって戻される方が面倒だ」

それで十分だった。

安い。

一袋ある。

道も通れる。

でも、今欲しいのは『一袋という数字』じゃない。

石窯か炭窯へ渡して、また何日か持たせられる麦だ。

湿ったまま北へ運び、赤崖で待ち、倉でさらに蒸れたら意味がない。

「今日は買いません」

俺が言うと、売り手は袋口を締めた。

「そうしろ。値引きは捨て値じゃない」

ティムが棚を見る。

「乾かしたら売る?」

「乾けばな」

「俺たちに?」

「先に金持って来たやつに」

予約にはならなかった。

それもよかった。

店を出ようとしたところで、隣の油屋から声を掛けられた。

「北の壺返したやつ」

俺は足を止める。

店先の小皿に銅貨が載っている。

二壺目の預かり銭だ。

「札は?」

油屋が聞く。

「北にあります」

「じゃあまだ」

「分かってます」

ティムが銅貨を見た。

「近いのにね」

油屋は皿を奥へ引いた。

「近くても人の銭だ」

それで終わった。

板も札も持ってきていない。

麦を見に来ただけだ。

帰りの小舟で、ティムはしばらく黙っていた。

海は穏やかだった。

前に五袋を運んだ時より、よほど楽に見える。

「海、空いてるのに」

ティムが言う。

「うん」

「船もある」

「うん」

「荷駄も一袋ならどうにかなる」

「水袋と工具で釣り合わせたこともある」

「なのに麦がない」

「そういう日もあるんだろ」

道を作れば物が湧くわけじゃない。

分かっていたはずなのに、実物の空棚を見るまで、俺は少しだけ忘れていた。

鴎泊へ戻ると、ハナが網を干していた。

俺たちの手が空なのを見て聞く。

「買わなかった?」

「湿ってた」

「じゃあいらないね」

説明はそれで終わった。

受取場まで戻る頃、東河港からの板が届いていた。

ゼンが持ち上げる。

《水位 昨日よりわずかに上》

《明朝 再計測》

《積増 一袋の可能性あり》

ティムが「お」と言った。

俺は言わなかった。

可能性だ。

麦津の湿った一袋も、買おうと思えば買えた。

東河港の一袋も、来るかもしれない。

今あるのは、どちらもまだ『使える一袋』ではない。

「石窯と炭窯、今日もう一回見ます」

俺が言うと、受取場の男が奥から返した。

「また歩くのか」

ティムが先に答える。

「歩く人なので」

俺は訂正しなかった。


第216話 十八袋そろった。でも海路は完成しなかった

【本文】

次の朝、東河港の板は来なかった。

昼前にも来なかった。

ティムは入口を見たが、一回だけだった。

「成長したな」

受取場の男が言う。

「見ても早くならないんでしょ」

「覚えてたのか」

「みんな失礼だな」

俺たちは板を待つ間に、先に石窯へ行った。

オルナは粉桶の底を木べらで寄せていた。

「今日の夕方までに粉が欲しいって言ってましたよね」

「言った」

「今の残りは?」

「今日焼く分はある。明日の朝は減らせばいける」

昨日より、少し厳しくなっている。

でも今すぐ止まるわけではない。

炭窯では、人が一人減っていた。

昨日だけと言っていた年上の男がいない。

モーグが俺たちを見るなり言う。

「今日は減ったぞ」

「何が?」

ティムが聞く。

「人」

「麦じゃなくて?」

「人が減れば麦も減る」

ハルドは小屋の袋を見てから言った。

「明日の昼までは持つ」

昨日の『明日じゃない』より少し具体的になった。

それでも期限はある。

受取場へ戻ると、マルクが入口の外にいた。

東河港の走りがちょうど板を渡している。

ティムが走りかけ、俺の横で止まった。

「歩く?」

「もう着いてる」

二人で普通に行った。

板には四行。

《水位 昨朝より上》

《本日便 出発》

《積増 一袋》

《夕刻見込》

ティムが一息で読んだ。

「来る」

ゼンが板を受け取りながら言う。

「見込だ」

「はい」

返事が早い。

俺も同じだった。

一袋は来るかもしれない。

でも来るまでは、一袋足りない。

「麦津の湿ったやつは?」

マルクが聞いた。

「買ってません。売り手も乾かしてから売るって」

「ならそのまま」

「海の方、もう一袋探さない?」

ティムが言った。

マルクは板を畳む。

「夕方まで石窯も炭窯も持つんだろ」

「持つ」

「じゃあ、同じ一袋を二つ買うな」

少し変な言い方だったが、意味は分かった。

焦って海側でもう一袋買えば、東河港の一袋が着いた時に今度は余る。

余った麦が悪いわけじゃない。

でも、余らせるために高い運賃と人手を使う話でもない。

俺たちは待った。

ただ、昨日までの待ち方とは少し違った。

石窯の挽き場が閉じる前に一袋が着かなければ、明朝の固焼きを減らす。

炭窯は明日の昼まで。

どこまで待てるかはもう分かっている。

夕方より少し前、荷駄の鈴が鳴った。

一頭。

ネドが引いている。

背には左右へ別の荷が下がっていた。

右に麦袋。

左には塩袋と工具箱。

ティムが笑う。

「一袋だから面倒なやつ」

ネドは汗を拭いた。

「覚えてるなら手ぇ出せ」

俺とティムで麦袋側を押さえる。

赤崖を上がる途中で荷が少し外へ寄ったらしい。

結び直した跡がある。

「今日は炭と当たらなかった?」

俺が聞く。

「当たらん。代わりに塩が遅れた」

「何で」

「向こうの積み込みが遅れた」

それ以上は説明しなかった。

一袋が来た日に、別の荷は別の理由で遅れる。

全部が俺たちの麦に合わせて動くわけじゃない。

マルクが受取場で袋口を確認する。

札。

乾き。

底。

縄。

一通り見て、壁へ寄せた。

「これ、石窯の次だ」

マルクが言った。

ティムが袋を見た。

「じゃあ挽き場?」

「今からなら最後へ入るか聞け」

朝、挽き手の男が言った『昼より前なら、たぶん最後』はもう過ぎている。

俺たちは袋を担いで挽き場へ向かった。

走っても臼は速くならないが、遅れていい理由にもならない。

挽き手の男は俺たちと袋を交互に見た。

「来たのか」

「来ました」

「遅い」

「今日は無理?」

男は臼の下へ溜まった粉を掻き、前の袋を指した。

「これ終わったら一袋だけ。石噛んだら明日」

オルナへ伝えるため、そこまで聞いて袋を置いた。

今日の十八袋が揃ったことと、明日の朝に食べられることは、やっぱり同じじゃない。

でも今回は、食べ物になる道の入口までは間に合った。

受取場へ戻ると、ゼンが帳面を開く。

《東河港 十一》

《鴎泊 五》

《東河港追加 一》

その下へ、新しい一行。

《東河港追加 一》

ティムが指で足す。

「十八」

ゼンが数字を書く。

《計 十八》

ようやく予定の数になった。

俺は帳面を見た。

七袋足りなかったところから始まった。

海で五袋を補った。

受取先を見て順番を変えた。

粗い麦で朝をつないだ。

川から一袋、もう一袋。

結果だけ見れば十八袋だ。

「海路、成功?」

ティムが聞いた。

俺は少し考えた。

「五袋は成功」

「じゃあ今回も海で一袋――」

「買えなかった」

ティムが口を閉じた。

麦津の棚は空だった。

湿った一袋はあった。

道は空いていた。

船も動いた。

でも、売れる乾いた麦がなかった。

海路が通れることと、必要な時に麦を買えることは同じじゃない。

マルクが帳面を閉じる。

「十八そろったなら、今日はそれでいい」

「次の便は?」

ティムが聞く。

ゼンが先に答えた。

「まだ書かない」

「水位戻ったじゃん」

「一日上がっただけだ」

その通りだった。

東河港の水が戻ったのか、一時的に上がっただけなのかは分からない。

麦津へ次の乾き大麦が本当に二日後来るのかも分からない。

今日の十八袋は揃った。

次の十八袋が揃う保証ではない。

俺は壁を見る。

油壺の原預かり札はまだそこにある。

細釘も残っている。

急がないものは、まだ急がなくていい。

今度は、一袋足りないという数字も消えた。

ティムが外へ出ながら言った。

「じゃあ明日は何する?」

「朝になってから」

「最近、それ多いね」

「先に決めない方が面白いこともある」

言ってから、自分でも少し笑った。

受取場の外では、東河港から来た荷駄が空の水袋を外されていた。

川の水位も、麦津の在庫も、炭窯の人数も、俺たちの都合では動かない。

だから道一本で全部を解くのは無理なんだと思う。

でも、道が一つ増えたから、待てる時間は増えた。

今回は、それで十八まで戻れた。

海路はまだ完成していない。

その方が、次に見るものがちゃんと残っていた。


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