第205話 七袋足りない。でも七袋は海から来ない
【本文】
数字が入った紙は、朝飯より少し遅れて届いた。
俺が受取場へ入った時、マルクは卓の上の麦粒を片手で寄せていた。
昨日まで空白だった紙が、その麦粒の横に置かれている。
ティムは先に読んでいた。
「十八の予定。十一……ってことは、七?」
「引き算は合ってる」
マルクは麦粒を一つ摘まみ、歯で割った。
「喜ぶところじゃないけどな」
東河港から上がる次の穀物便。
予定は十八袋だった。
川の水位が下がり、浅いところで船底を擦る。荷を減らして通すなら十一袋まで。さらに下がれば、そこからまた減る。
紙にはそう書いてあった。
ゼンが少し遅れて入ってきた。腕に帳面を二冊抱えている。
「十一で確定?」
マルクが聞く。
「今朝の東河港では。出るまでに水が下がったら、また変わる」
ゼンは椅子に座らず、卓の端で帳面を開いた。
「こっちは十八来る前提で回してる。次の入荷までに七足りない」
ティムがすぐ俺を見る。
見たあと、口を閉じた。
たぶん『鴎泊』と言いかけた。
少し成長している。
「何」
俺が聞くと、ティムは肩をすくめた。
「いや。数字出たから、言っていいかなって」
「何を」
「海から七袋」
マルクが割った麦を指先で潰した。
「誰が七袋売る」
ティムが止まる。
「……そこから?」
「そこからだろ」
「船は?」
ゼンが帳面から顔を上げないまま入った。
「荷駄も」
マルクが続ける。
「赤崖も」
「一気に言わないで」
ティムは両手を上げた。
俺は紙の十一をもう一度見た。
七袋。
ゼンが別の帳面を開いた。
そこには、次の便が来るまでの払い出し予定が縦に並んでいる。
「七袋って、倉が空になるって意味じゃないですよね」
俺が聞くと、ゼンは指を止めた。
「空にはならない。でも予定どおり渡せない。残ってる袋には、もう行き先がある」
「じゃあ、今ある分を先に使えば」
ティムが言い、途中で自分から首を振った。
「次がもっと足りなくなるか」
「そういうこと」
ゼンは帳面を閉じた。
七という数字は、倉に七袋ないという話ではない。
約束していた流れの中で、七袋ぶん穴が開くという話だった。
前に六袋は運んだ。
だから七袋も似たようなもの――と考えるのは簡単だった。
でも、前の六袋は売れる麦がたまたま六袋あり、船が来て、荷駄を三頭使い、途中で雨にもぶつかった。
六という数字だけ残して、条件まで同じだと思うのは違う。
「麦津に、今売れる分が何袋あるか聞きます」
俺が言うと、マルクは頷かなかった。
「聞くのはいい」
「運ぶって決めるのは返事のあと」
ゼンが言った。
「はい」
ティムが俺より先に返事をした。
マルクがそっちを見る。
「お前が?」
「いや、雰囲気で」
「雰囲気で荷は動かすな」
今日は朝からよく刺される。
昼前、俺とティムは赤崖の北側へ下りた。
数字が来たからといって、紙の前に座っていても荷駄は増えない。
ネドは一頭の前脚を持ち上げ、蹄の裏へ詰まった泥を削っていた。
「七袋なら何頭です?」
俺が聞く。
ネドは削った泥を落としてから、ようやく答えた。
「乾いた麦なら、俺は一頭二袋。七なら四頭」
「三頭で、二・二・三は?」
ティムが言った。
ネドが荷駄の脚を下ろす。
「三を載せるやつが嫌がらなきゃな」
荷駄が鼻を鳴らした。
「今の返事?」
ティムが聞く。
「違うと思う」
俺は赤崖を見た。
四頭。
前に六袋を運んだ時より一頭増える。
それだけで待たせる場所が増えるわけじゃない。
俺たちは実際に上の待機場所まで歩いた。
一本目の杭の横。
ここなら一頭。
少し離れて、山側の木の手前。
もう一頭なら鼻先を道へ出さずに置ける。
三頭目は、その後ろだと荷の出し入れができない。
四頭目は、もう待機場所ではなく道の途中になる。
ティムが木から木まで歩数を数えた。
「詰めれば四頭――」
「詰めるな」
バースが即座に切った。
「獣は箱じゃない。後ろのが蹴ったら前も動く」
ティムが自分の数えた歩数を見失った顔をする。
「じゃあ二頭?」
「安全に待たせるならな。動かしながらなら別」
『なら別』の中身は、実際に荷が来ないと分からない。
バースは曲がりの上で、山側の土を靴先で崩していた。
「四頭、同じ時間に置けます?」
俺が聞くと、バースは土を見たまま言った。
「どこに」
「上の待機場所」
「炭来なきゃ一頭。離せば二頭目。四頭は知らん」
「知らんって」
ティムが小さく言う。
バースは聞こえていた。
「置いたことないからな」
その方が信用できた。
夕方。
麦津からの走り板が鴎泊経由で届いた。
受取場の男が読んで、俺へ渡す。
《乾き大麦 五袋》
《明日昼まで売却可》
その下。
《追加二袋は先約あり。崩せず》
さらに小さく、売り手の印がある。
前に六袋を出してくれたところと同じ印だった。
売らないのではなく、もう別の相手へ売る約束をしている。
俺たちの不足が急にできたからといって、向こうの約束まで消えるわけではない。
ティムが横から読んだ。
「五」
「五ですね」
「七足りないのに」
マルクが入口から入ってきた。
「だからって、人の先約二袋を消すのか」
「消さない」
ティムの返事が早い。
「今のは分かる」
俺は板を卓へ置いた。
七袋不足。
麦津で今、約束を壊さず動かせるのは五袋。
残り二袋は、まだどこにもない。
ゼンが帳面に数字を書いた。
《従来便 予定十八》
《現時点上限 十一》
《不足 七》
一行空ける。
《鴎泊候補 五》
さらに一行。
《未解決 二》
「この二、嫌だな」
ティムが言った。
ゼンは炭筆の先を削った。
「嫌でも消えない」
「分かってる」
「なら明日、五を動かせるか見ろ」
俺は頷いた。
七袋を海から運ぶ話ではなくなった。
まず五袋。
それでも、今までの試験より少し重い。
数字が埋まった途端、道の方が狭く見えた。
第206話 五袋目だけ、海へ戻った
【本文】
麦津の五袋は、翌日の昼前に鴎泊へ来た。
一袋も濡れていない。
一袋も破れていない。
そして、五袋とも同じ場所に降ろせると思ったのが最初の間違いだった。
「三頭、来てない」
ティムが浜の上を見た。
ネドは一頭。
バースがもう一頭。
三頭目は赤崖の向こう側にいる。
朝のうちに北から下ろす予定だった。
でも、炭窯から荷駄が二頭出た。
赤崖上の荷締め場所を使っているため、こちらの三頭目は森側で止めてあるらしい。
船頭が舷側へ腰を掛けた。
「降ろすの」
「待ってください」
俺は麦袋より先に空を見た。
晴れている。
雨の問題はない。
次に浜を見る。
仮荷台は空いている。
五袋なら置ける。
でも、置いたあと三頭目がいつ来るか分からない。
「置けばいいじゃん」
ティムが言う。
ハナが網を巻きながら返した。
「誰が見るの」
「俺」
「北へ上がらないの?」
「……上がります」
「じゃあ誰」
ティムは俺を見る。
俺は見返さず、船の綱を取った。
「まず四袋だけ降ろします」
「五持ってきたぞ」
船頭が言う。
「分かってます」
「戻すなら今言え。荷の下に入れる前に」
話が早い。
ネドの一頭へ二袋。
バースの一頭は、浜で待たせる。
一頭二袋。
前にもやった載せ方だ。
俺はネド側の腹帯を引いた。
前より、どこを押せば袋が内側へ寄るか分かる。
力が増えたわけじゃない。
何度も同じ坂で失敗しかけた分だけ、手が迷わなくなった。
ネドが反対側の袋を軽く叩く。
「そこでいい」
ティムが嬉しそうに言った。
「今、褒められた?」
「レンに言った」
「聞かなきゃよかった」
一頭目が赤崖へ入る。
二袋を左右へ下げた荷駄は、空荷の時より首が低い。
最初の曲がりで外側の袋が岩へ寄りそうになり、俺は手のひらで押し戻した。
押しすぎると反対側が動く。
前はその加減が遅れた。
今日は一度で戻った。
表示は何も出ない。
でも身体の方には、少しだけ残っている。
バースが先に歩く。
俺は荷駄の山側。
ティムは少し後ろ。
二頭目はネドが浜で待たせた。
曲がりへ入る直前、上から鈴が鳴った。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
バースが止まる。
俺も止まった。
「炭?」
「たぶん」
たぶんのまま進まない。
バースが荷駄の鼻先を山側へ向け、曲がりの手前まで戻した。
上からモーグが下りてきた。
炭俵を二頭に積んでいる。
今日は首の鈴が泥で黒い。
「今から上げる?」
モーグが聞いた。
「二袋一頭。下にもう一頭。あと一頭待ち」
バースが答える。
モーグは後ろの炭荷を見た。
「こっち二頭。下りる」
それだけだった。
どちらが先か、決める必要がある。
俺は海の方を見る。
船は浜にいる。
でも潮は止まらない。
モーグの炭も、ここまで来ている。
「炭を先に下ろしてください」
俺が言った。
ティムが少し驚いた顔をした。
モーグは驚かなかった。
「いいの」
「船には、あとどれくらい待てるか聞きます」
「じゃ、下りる」
本当にそれだけで、炭荷は動き始めた。
俺たちは山側の少し広いところまで戻る。
二頭の炭荷が一頭ずつ下りていく。
一頭目の炭俵が俺たちの麦袋をかすめそうになり、モーグが縄を引いて山側へ寄せた。
「ここで待たせる数、増えた?」
モーグが通り過ぎながら聞く。
「今日は三頭の予定でした」
「三は邪魔だな」
悪意はない。
事実だけ置いて、モーグは二頭目へ戻った。
ティムが背中へ何か言いかけ、俺の方を見てやめる。
待っている間、ティムが俺の横で小声になった。
「麦、足りないんだよね」
「足りない」
「先でもよかった?」
「炭を止めたら、今度は向こうの仕事が止まる」
「……難しいな」
「うん」
きれいな答えはなかった。
浜へ戻った時、船頭は綱をもう外しかけていた。
「あと半刻は無理」
俺たちを見る前に言う。
ネドが二頭目の荷駄を指した。
「こいつは今出せる」
「三頭目は?」
「まだ上」
バースが答える。
五袋目。
船の中に一袋だけ残っている。
船頭は袋を足で押さえ、舟が波で離れないようにしている。
「置いてくなら、今降ろすぞ」
「置いたら誰が見ます?」
俺が聞く。
船頭は浜を見回した。
「俺は帰る」
ハナは網。ロウナは魚。ネドとバースは荷駄。
『誰かいる』と『誰かが見張れる』は違う。
四袋は二頭で上げられる。
五袋目のためには、三頭目を待つか、浜へ置くか、人で運ぶか。
ティムが袋を見た。
「二人なら持てる?」
ネドが即座に言った。
「赤崖でやるな」
「聞いただけ」
「やりそうな顔だった」
また顔だ。
俺も同じことを考えたので笑えなかった。
「五袋目、麦津へ戻してもらえますか」
船頭が眉を上げた。
「買ったやつだぞ」
「分かってます。売り手のところへ戻すだけで、売買を戻すわけじゃないです」
「それなら板つけろ。向こうでまた売られたら俺は知らん」
俺は炭筆を借りた。
《購入済み 一袋》
《鴎泊未荷卸し》
《次便待ち》
短く書いて袋口へ結ぶ。
「はい。次に鴎泊へ来る便がある時まで、麦津側で置けます?」
「売り手に聞く。今日戻すだけなら持つ」
「お願いします」
ティムが袋を見たまま言う。
「せっかく来たのに」
ハナが網を抱えて横を通った。
「袋に気持ち聞いた?」
「聞いてない」
「なら帰るって言ってない」
ティムは少し考えて、やめた。
二頭目へ二袋を載せる。
今度は炭荷とすれ違わない。
一頭ずつ、赤崖を上げた。
四袋は北へ動いた。
五袋目だけ、船と一緒に南へ戻った。
夕方、受取場でゼンが数字を書く。
《不足七》
《海路補完 四》
《麦津保留 一》
《未解決 二》
ティムが首を傾げた。
「保留一って、不足に戻すの?」
「買ってはある」
ゼンが言う。
「でも北にはない」
「じゃあどっち」
「どっちでもないから分けて書いてる」
ティムは帳面をしばらく見た。
「数字って面倒だな」
マルクが奥から返す。
「荷物も同じこと言ってる」
五袋を買えた。
四袋は運べた。
一袋は戻した。
昨日なら、五袋という数字だけで一つの便だと思っていた。
今日は、その一袋だけが妙に大きく見えた。
第207話 七袋の穴に、五袋だけ入った
【本文】
戻った一袋は、翌朝には来なかった。
それでよかった。
一袋のためだけに舟を出したら、昨日戻した意味が薄い。
麦津側で買ったまま預かってもらい、次に鴎泊へ来る便があれば載せる。
そう伝えてあった。
その日の昼、俺はネドと赤崖の北側で三頭目の荷駄を見ていた。
昨日、間に合わなかった一頭だ。
別に悪くない。
炭荷と場所が重なったから、森側で待っただけだ。
ティムが首を撫でようとして、荷駄に避けられる。
「昨日来てくれれば五袋いけたのに」
「こいつに言うな」
ネドが腹帯の穴を確かめる。
「俺にも言うな。待たせたのは俺だ」
「責めてないよ」
「なら言うな」
ティムは口を閉じた。
最近、閉じるのが早い。
俺は昨日の曲がりを歩いた。
炭の細かい粉が端に残っている。
雨はない。
今日は通せる。
でも運ぶ麦がここにはない。
昼を少し過ぎた頃、下からハナの声がした。
「一袋来てるよー」
バースが先に崖の下を見る。
「誰の」
「知らない。あんたらのじゃない?」
俺たちは下りた。
浜には昨日と同じ麦袋が一つ。
船頭は違った。
空の塩袋を二つ積んだ小舟で、鴎泊の塩を受け取りに来たらしい。
「麦津でこれ乗せろって言われた」
船頭は袋を指した。
「運賃は向こうでもらってる。俺はここまで」
それ以上の説明はなかった。
昨日戻した一袋が、別の用事の舟に乗って戻ってきた。
ネドが三頭目だった荷駄を浜へ下ろす。
一袋だけなら、片側が軽すぎる。
反対側へ水袋と工具を載せる。
「一袋なのに面倒だな」
ティムが言った。
ネドは水袋の紐を引いた。
「一袋だから面倒なんだよ」
前なら意味が分からなかった。
今は少し分かる。
量が少なければ、何も考えなくていいわけじゃない。
荷駄は赤崖を上がった。
昨日二頭で四袋。
今日一頭で一袋。
五袋目が北へ着いたのは、午後の早い時間だった。
受取場では、マルクが別の麦袋の口を開けていた。
見慣れない印が付いている。
「東河港?」
俺が聞くと、マルクは中の麦を手ですくった。
「十一。来た」
「本当に十一だったんだ」
ティムが言う。
「十二に増えると思ったか」
「一個くらい」
「川に頼め」
マルクは麦を戻した。
東河港からの従来便。
袋の側面には川泥の跡があった。
マルクは一袋ずつ口と底を確かめ、濡れが中まで入っていないことを見てから壁へ寄せる。
十一袋目を置いたところで、ゼンが数を読み上げた。
予定十八に対して、十一袋。
鴎泊から補えた五袋。
合計十六。
ゼンが帳面を開く。
昨日の行の下に、数字を足した。
《従来便 十一》
《鴎泊補完 五》
《計 十六》
《予定差 二》
ティムが指で追う。
「あと二」
「あと二」
ゼンが同じ言葉を返した。
俺は麦津の板を思い出した。
追加二袋は先約あり。
金を積めば動くかもしれない。
別の売り手を探せばあるかもしれない。
でも、それは今日ここにある二袋ではない。
「麦津に、もう一回聞く?」
ティムが今度は俺ではなくマルクへ聞いた。
マルクは十一袋のうち一つを肩で押し、壁へ寄せる。
「先約崩す気がないなら、同じ返事だ」
「別の店」
「探すのはいい。明日の朝までに来るか?」
ティムが黙る。
ゼンは帳面を閉じなかった。
別のページをめくる。
そこには受取先ごとの日付だけが並んでいた。
名前の横に、残り何日とは書いていない。
実際に聞かなければ分からないからだ。
「次の払い出し、二袋少ない前提で一回見直す」
俺が口を開きかける。
ゼンが先に言った。
「減らすって決めるんじゃない。どこが何日持つか見るだけ」
「はい」
「お前、最近返事だけ早いな」
ティムが俺を見た。
「今の俺じゃないよ」
「分かってる」
少し笑った。
受取場の男が奥から出てきた。
壁には、油壺の原預かり札がまだ掛かっている。
男は十六袋を数え、最後に俺たちを見る。
「海から五来たって?」
「はい」
「じゃあ海で七いけるな、とか言うなよ」
言われる前に釘を刺された。
ティムが小声で言う。
「みんな先回りするようになった」
男は聞こえないふりをした。
俺も帳面を見る。
七袋足りなかった。
海で五袋を埋めた。
二袋は埋まっていない。
それでも、川の水位が下がった時に、何もできず待つだけではなくなった。
そこは前と違う。
でも、鴎泊があれば全部足りるわけでもない。
そこも、昨日よりはっきりした。
「レン」
マルクが呼んだ。
「これ、明日の朝までに見とけ」
差し出されたのは、受取先ごとの古い払い出し記録だった。
「二袋分、削るんですか」
「だから先に見るんだよ」
マルクはもう次の袋を開けている。
「誰が何日待てるか。待てないやつがいるなら、そこで初めて次を考える」
「聞きに行く?」
ティムが言った。
「今日は数え終わってから」
マルクが答える。
「今行って『二袋足りない』だけ言ったら、全員が自分の分を先に欲しがる」
「……そりゃそうか」
「お前も欲しがるだろ」
「俺なら欲しい」
正直だった。
俺は記録を受け取った。
二袋。
道の上では小さく見えた数字が、町の中へ入ると別の形になる。
ティムが隣から紙を覗いた。
「今度は袋じゃなくて人?」
「たぶん」
「たぶんか」
「まだ見てないので」
どこかで聞いた返しだった。
ゼンが炭筆を置く音がした。
誰も続きを言わなかった。
明日の朝まで、二袋は空欄のままだ。
第208話 二袋足りないのに、今すぐ困っていたのは一袋だった
【本文】
翌朝、俺とティムは麦袋を持たずに受取場を出た。
代わりに、昨日マルクから渡された古い払い出し記録を持っている。
二袋足りない。
その数字だけなら、もう何度も見た。
「最初どこ?」
ティムが紙を覗く。
「石窯」
「二袋とも?」
「まだ決めない」
自分で言って、少し笑いそうになった。
昨日までなら、たぶん俺の方が先に二袋の行き先を決めたがっていた。
石窯は受取場から歩いて少し下ったところにあった。
朝の火はもう入っている。
入口を開ける前から、焦げた粉と薪の匂いがした。
中では、オルナが長い木べらで窯の灰を寄せていた。
四十を少し越えたくらいの女で、俺たちが入っても手を止めない。
「麦の話なら、そこ踏まないで」
挨拶より先に言われた。
ティムが足を引く。
床に粉を広げた布があった。
「踏んでないよ」
「今から踏む足だった」
「みんな顔とか足とかで先に決めるなあ」
オルナは灰を寄せ終えると、今度は窯脇の木鉢へ手を突っ込んだ。
昨日挽いた粉らしい。
底が見えている。
俺は払い出し記録を開いた。
「次の分、一袋減るかもしれません」
「一袋じゃない」
オルナは粉を指でつまんで、少しだけ舐めた。
「減るなら困るのは明日の朝。今日の昼と夕方は焼ける」
ティムが首を傾ける。
「同じ一袋じゃないの?」
「今日なくなる一袋と、明日なくなる一袋は違うよ」
オルナは木鉢の縁へ粉を払った。
「明日の朝一番を減らすなら、一袋なくても死にはしない。けど、荷駄屋が出る前に持たせる固焼きが減る。昼まで待てるなら話は別」
「明日の朝までには要る?」
俺が聞く。
「麦のままなら、今夜まで」
オルナは木鉢の底を指でなぞった。
粉は薄く残っているだけだ。
窯の横には、焼き上がった固焼きが十二枚ほど重ねてある。
まだ今日の分はある。
だから店の中だけ見れば、何も足りなく見えなかった。
「今夜?」
ティムが先に反応した。
オルナがようやくこっちを見た。
「焼く前に挽くだろ」
当たり前だった。
麦袋が石窯へ着けば、そのまま明日のパンになるわけじゃない。
町の挽き場へ回し、粉にして、戻して、こねて、寝かせる。
俺は紙の余白へ何か書きかけてやめた。
まだ次がある。
「じゃあ、明日の朝の分は待てない」
「待てるよ」
オルナはまた窯へ向き直った。
「減らせばね。困るって言ってるだけ。『絶対よこせ』とは言ってない」
「減らすと、誰の分が減るんです?」
聞いたあとで、少し説明くさい質問だったかと思った。
オルナは気にしなかった。
「朝いちの荷駄屋。遠くへ出るのから先に焼く。町の人は昼でも買える」
ティムが窯脇の固焼きを見た。
「じゃあ俺、町の人だから昼?」
「買うならね」
「くれる話じゃなかった」
「一度もしてないよ」
その言い方が、受取場の男に少し似ていた。
ティムが小声で言う。
「みんな、先に逃げ道つけるよね」
「聞こえてるよ」
ティムは窯の火を見た。
話題を変えたつもりらしい。
次は炭窯だった。
赤崖の曲がりを越え、いつもの煙が見えるところまで上がる。
今日はモーグが木を割り、ハルドが窯口の土を押さえていた。
「麦?」
モーグが斧を振り下ろしたあとで聞いた。
「まだ持ってません」
「ならいい」
「話だけです」
「それが長いんだよ」
悪口なのか、ただの感想なのか分からない。
ハルドは窯口の土を手の甲で均した。
「何袋来ない」
「全体で二袋足りません」
ティムが答える。
俺は横で口を閉じた。
もうそれくらいは任せてもいい。
ハルドは窯ではなく、少し離れた小屋を顎で示した。
「見ろ」
中には穀物袋が一つ、口を開けたまま置いてあった。
その横に、半分ほど残った木箱。
ティムが袋を持ち上げようとして、やめた。
「触るなよ」
モーグが外から言った。
「触ってない」
「今から触る手だった」
ティムが俺を見た。
「これ流行ってる?」
俺は答えなかった。
ハルドが箱の中を一度かき混ぜる。
乾いた麦に、昨日の炊き残しらしい細かな欠片が混じっている。
きれいな在庫表ではない。
食べた分だけ、ちゃんと減っている。
そこへ窯の奥から若い男が出てきた。
顔も腕も煤で黒い。
「飯、まだ?」
ハルドは箱を指した。
「自分で見ろ」
男は俺たちに気づき、少しだけ足を止めた。
「客?」
「麦の人」
モーグが言う。
「麦、人になったの?」
ティムが小声で聞いたが、誰も答えなかった。
若い男も腹が減っている方が大事らしく、小屋へ消えた。
ハルドが箱へ手を戻す。
「二袋来なくても、明日と明後日は食える」
「二袋とも?」
俺が聞く。
「今いる人数ならな」
「その先は?」
ハルドは窯の方を見た。
「知らん。火番増えたら減る。木が来なきゃ人も減る。三日後の飯を今ここで決めろって言うなら、窯止めて数えるぞ」
「止めなくていいです」
返事が速くなった。
モーグが斧を肩へ担ぐ。
「麦来なくても火は消えん。でも腹減ったやつから機嫌悪くなる」
「誰が最初?」
ティムが聞く。
「お前なら今」
「俺、ここの人じゃないけど」
モーグはもう次の木へ向かっていた。
拾われないまま終わった。
俺は古い払い出し記録を見る。
予定どおりなら、石窯にも炭窯にも麦が行く。
今は二袋足りない。
石窯は、一袋減れば明日の朝から影響が出る。
炭窯は、二袋遅れても今いる人数なら二日ほど持つ。
同じ不足二袋でも、同じ形ではなかった。
帰り道、ティムが紙を見ながら言った。
「じゃあ、炭窯を二袋減らして、石窯はそのまま?」
「候補」
「まだ決めないの?」
「ハルドさんは二日って言った。次の便がいつ来るかはまだ分からない」
ティムは少し考えた。
「前より面倒になってない?」
「見えるものが増えたんだと思う」
「それ、良くなってる?」
「たぶん」
「またたぶん」
赤崖の下で荷駄の鈴が一つ鳴った。
俺たちは道の端へ寄った。
二袋足りない。
でも、今すぐ二袋を探しに走る話ではなくなっていた。
第209話 麦を渡しても、明日のパンにはならない
【本文】
受取場へ戻ると、ゼンは俺たちの話を聞く前に帳面を開いた。
「石窯は?」
「明日の朝から困る。麦のままなら今夜までです」
俺が言う。
「炭窯」
「二袋遅れても、今の人数なら二日くらい。ただし三日目は未確認」
ゼンの炭筆が止まった。
「くらい、な」
「はい」
「二日後に絶対足りる、じゃない」
「言ってません」
横でティムが口を開く。
「俺も聞いてた」
ゼンはそっちを見なかった。
マルクが倉の奥から袋を一つ押してきた。
「なら、今日出す十六は石窯を先に満たす。炭窯は二袋後ろへ回す」
ティムがすぐ帳面を見る。
「二袋不足が消えた?」
「消えてない」
マルクが袋口の縄を締める。
「置き場所を変えただけだ」
その言い方が一番近かった。
足りない二袋は、数字から消えない。
ただ、明日の朝に困る場所から、二日ほど待てる場所へ寄せる。
「炭窯には話してあるんだな」
マルクが俺へ聞く。
「二袋遅れる可能性は伝えました。今の人数なら二日持つって」
「可能性じゃなくて、今から二袋遅らせる」
「……もう一回言いに行きます」
「それが先」
結局、袋はまだ動かなかった。
ティムが天井を見た。
「さっき行ったのに」
「さっきは聞きに行った。今度は決めたことを言いに行く」
「歩くゲームだなあ」
「嫌なら残ってていい」
「行く」
毎回そこだけ速い。
炭窯へ戻ると、モーグは今度は斧を研いでいた。
俺が「二袋、後ろへ回したい」と言うと、砥石を動かしたままハルドを呼んだ。
ハルドは窯口から顔だけ出す。
「いつまで」
「次の便がまだ未確定です。明日と明後日までは持つって聞いたので、その間だけ」
「明後日の朝までならいい」
「夕方は?」
ハルドは答えず、窯の奥を見た。
少ししてから言う。
「朝まで」
さっきより短くなった。
理由を聞こうとしたら、モーグが先に言った。
「明後日、木が来る。人増えるかもしれん」
それで十分だった。
「じゃあ、明後日の朝を限界にします」
ハルドは頷かなかった。
窯口の土をまた押さえ始めた。
反対もしていない。
帰りは少し急いだ。
石窯へ回す一袋を、今日のうちに動かさないといけない。
受取場へ戻ると、マルクが袋へ印を付けるところだった。
「話は」
「明後日の朝まで。夕方は駄目です」
ゼンが横から入る。
「書く」
炭筆が走る。
《炭窯 二袋後送》
その下。
《明後日朝 再確認》
完璧な予定表ではない。
今回だけの線だ。
「石窯へ一袋、今」
マルクが言った。
俺とティムは担ぎ棒を使った。
一袋を二人で運ぶ。
前なら、Lv3なら一人で持てるか試したかもしれない。
今はしない。
持てるかどうかと、落とさず運ぶかは別だった。
石窯へ着くと、オルナは俺たちの袋を見て眉を寄せた。
「ここに置くの?」
「明日の分です」
「だから、ここじゃない」
ティムが担ぎ棒の下で顔をしかめる。
「また何かある?」
オルナは窯から焼けた固焼きを一枚出した。
「挽き場」
俺も止まった。
朝、聞いた。
聞いたのに、袋が届いたことで終わった気になっていた。
「今から間に合います?」
「歩いてる暇に持ってきな。最後の回し、日が落ちる前」
「最後の回し?」
ティムが聞く。
「臼はお前だけのために回ってない」
オルナは固焼きを裏返した。
俺たちはまた袋を持ち上げた。
町の挽き場は、石窯からさらに坂を一つ下ったところにある。
大きな臼が二つ。
片方は止まり、もう片方だけが低い音を立てていた。
挽き手の男は、俺たちを見るなり手を振った。
「一袋ならそこ」
説明より先に置き場所を指された。
「今日中に全部いけます?」
俺が聞く。
「前のが終われば」
「何刻くらい?」
「知らん。石噛んだら止まる」
ティムが袋を見た。
「石、入ってる?」
「麦に聞け」
今日も誰かが説明をやめた。
俺たちは袋を開けずに置いた。
順番を抜かしてくれとは言わない。
ここまで来て、挽き場の都合を押しのけたら意味がない。
しばらくして、前の袋が空いた。
挽き手の男が俺たちの袋口をほどく。
麦をひとすくいして、木皿へ広げた。
「石、拾うぞ」
「入ってる?」
ティムが聞く。
「入ってない袋だけ来るなら楽だな」
男は指先で小さな黒い粒を一つ弾いた。
麦粒より少し大きい。
俺とティムも木皿の前へしゃがんだ。
頼まれてはいない。
でも、見ているだけより早い。
「これ?」
ティムが黒いものを一つ摘む。
「それ麦」
「黒いけど」
「焦げてるだけ」
「焦げた麦、挽いていいの?」
「一粒で臼は止まらん」
男は次の石を弾いた。
俺は黙って見分ける。
三つ目くらいから、麦と石の重さの違いが指先で分かってきた。
見た目より、爪で押した時の硬さが違う。
前の人生なら、こんな作業を知識として片付けていたかもしれない。
今は、一粒ずつ触らないと身体に入らない。
選別が終わると、麦が臼へ落ちた。
低い音が少し重くなる。
俺たちはそこで初めて息を吐いた。
日が傾いたころ、オルナが自分で取りに来た。
俺たちはまだ受取場へ戻らず、少し離れたところで待っていた。
「何でいるの」
「結果見たくて」
「暇だね」
「今日はそうかも」
オルナは粉になった麦の袋を持ち上げる前に、口を開いて中を指で触った。
「これなら明日焼ける」
それだけだった。
粉を指へつけ、舌先で確かめる。
挽き手の男はもう次の袋を持ってきていた。
俺たちの成功を祝う人はいない。
順番が一つ終わっただけだ。
ティムが小さく息を吐く。
「一袋、間に合った」
俺は頷いた。
でも、間に合ったのは海でも赤崖でもなかった。
最後に詰まったのは、町の中の挽き場だった。
麦を運ぶ道が一本できても、食べ物になるまでにはまだ別の道があった。
第210話 待てる二日にも、終わりがあった
【本文】
次の朝、石窯から固焼きの匂いがした。
俺とティムが前を通ると、オルナは窯から板を引き出していた。
昨日の粉が、もう焼けている。
「間に合った?」
ティムが聞く。
「見て分からない?」
「聞きたい時もあるじゃん」
「じゃあ間に合った」
オルナは固焼きを籠へ落とした。
俺たちに一枚くれる気配はない。
ティムが籠を見た。
「売るやつ?」
「売るやつ」
「聞いただけ」
俺は先に歩いた。
石窯は今日を越えた。
でも、二袋の不足が消えたわけではない。
炭窯へ送る分を二袋、後ろへずらしただけだ。
赤崖を上がる途中、昨日より足が軽かった。
身体が強くなったというより、どこで呼吸を戻せばいいか分かってきた。
急なところの手前で一度歩幅を狭める。
曲がりでは外側を踏まない。
表示は出ない。
Lv3のまま。
それでいい。
炭窯では、モーグが炭俵の縄を替えていた。
ハルドは朝飯らしい薄い粥を木椀で食べている。
ティムが椀を見る。
「麦、あるじゃん」
ハルドが一口飲み込む。
「昨日も言った」
「確認」
「なら見るだけにしろ」
ティムは口を閉じた。
俺は小屋の穀物袋を見た。
昨日より減っている。
当たり前だ。
「明後日の朝まで、変わらないですか」
ハルドはすぐに答えなかった。
粥をもう一口。
窯の方から、誰かが木を落とす音がした。
「今の人数なら」
「木が来たら?」
「増えるかも」
モーグが縄を噛んで引きながら入る。
「二人来るかもしれん。来ないかもしれん」
「じゃあ、明後日の朝までっていうのも」
ティムが言いかける。
ハルドが椀を置いた。
「だから朝までって言った」
声は大きくない。
でも、そこから先を聞く必要はなかった。
待てる時間には端がある。
俺は小屋の袋口をもう一度見る。
二袋ぶん遅らせても今朝は困らない。
でも、それは昨日聞いた時点の人数と仕事量での話だ。
「もし明日、木運びの人が増えたら?」
俺が聞くと、モーグは縄を足で押さえた。
「飯減るの早くなる」
「減ったら連絡――」
言いかけてやめた。
炭窯側へ無料の連絡仕事を増やす話になりかけた。
モーグがこっちを見る。
「何」
「いや。俺たちが明日もう一回来ます」
「好きだな、ここ」
「道の途中なので」
「そういうことにしとく」
ハルドは笑わなかった。
椀の底を指ですくっている。
炭窯を出る前、ティムが若い火番に何か聞かれていた。
「昨日の麦の人?」
「今日は麦持ってないけどね」
「じゃあ何の人?」
ティムは少し考えた。
「……歩く人?」
俺は先に坂を下りた。
答えは誰も直さなかった。
受取場へ戻ると、ゼンの帳面の横に新しい走り板が置かれていた。
東河港からだ。
俺が手を伸ばす前に、マルクが言う。
「喜ぶな。次便の話じゃない」
「まだ決まってない?」
「水、戻ってない」
板には短く書かれている。
《次便 出発日未定》
《水位 今朝も低》
ティムが板と帳面を交互に見る。
「じゃあ炭窯、二袋どうする?」
誰もすぐ答えなかった。
昨日なら、別の売り手を探すか、鴎泊へ走るか、何かを始めたかもしれない。
でも、まだ今日の朝だ。
炭窯は明後日の朝までは持つと言っている。
俺はゼンの帳面を見る。
「明日の昼まで、東河港の次便が決まるか待つ」
マルクが袋を開ける手を止めた。
「明日の昼?」
「炭窯の限界が明後日の朝。明日の夕方から探し始めたら、間に合わないかもしれない」
ゼンが炭筆を持つ。
「昼で切る理由は」
「麦津か別の売り手へ聞くなら、明るいうちに動きたい。鴎泊を使うにしても船があるとは限らない」
「それなら書ける」
ゼンは一行だけ足した。
《明日昼 次便未定なら代替確認》
マルクがその行を覗く。
「明日の昼に水が戻るわけじゃないぞ」
「分かってます。そこで次に動くか決めるだけです」
「ならいい」
マルクはそれ以上口を出さず、袋の底を叩いて麦粒を寄せた。
決めたのは解決策じゃない。
待つのをやめる時刻だけだ。
ティムがその字を見る。
「代替って何?」
「まだ決めてない」
俺が言う。
「別の売り手かもしれないし、別の穀物かもしれないし、海かもしれない」
「全部書かないの?」
ゼンが先に返した。
「決まってないものを並べても増えるのは字だけだ」
ティムが少し考える。
「俺、前ならいっぱい書いた方が安心したかも」
マルクが麦袋へ手を入れた。
「今もする顔してる」
「また顔」
誰も続けなかった。
俺は壁を見た。
油壺の原預かり札が、まだ釘に掛かっている。
返金は止まったまま。
細い釘も二十六本残っている。
そっちは今、急がない。
今見るのは、二袋だ。
ティムが壁の札を見てから、俺の方へ半歩寄った。
「壺の銭、忘れてない?」
「忘れてない」
「釘も?」
「二十六本」
「数えた?」
「エルナさんが数えてる」
奥から受取場の男が声だけ飛ばした。
「お前ら、急がんものまで急がせるな」
ティムが肩をすくめた。
「確認しただけ」
誰も返さなかった。
七袋の穴は、海で五袋埋めた。
残った二袋は、受取先を見て、渡す順番を変えて、今日の食事と明日のパンからはいったん外れた。
でも、なくなったわけじゃない。
二袋は、今度は「明日の昼」という時間になった。
袋の数だけ見ていた時より、少しだけ扱いやすい。
その代わり、時計の針が前より重く見えた。




