第181話 銭を払えば、誰でも見張ってくれるわけじゃない
【本文】
翌朝、俺は荷物を持たずに鴎泊へ下りた。
ティムもいる。
ただし今日は測深竿も麦袋もない。
持っているのは紙と炭筆、それから昨日まで使った木片一本だけだった。
浜ではハナが網を広げていた。
声をかける前に、向こうから言われる。
「今日は何袋?」
「ゼロです」
ハナの手が止まった。
「帰っていいよ」
「話を聞きに来ました」
「もっと帰ってほしくなった」
ティムが笑う。
俺は笑わなかった。
たぶん、ここで笑うと話が遠くなる。
「昨日の見張りのことです。続けるなら、先にやる人へ聞こうと思って」
ハナは網針を口にくわえたまま、俺を見た。
それから糸を一本引き、結び目を締める。
「で?」
「何時ならできるか。どれくらいならできるか。いくらなら――」
「順番」
「はい?」
網針を置いて、ハナが指を一本立てた。
「まず、できるか聞きな。銭の話から入ると、暇なら何でもやる人みたいで腹立つ」
「ああ……はい」
ティムが紙に何か書いた。
「何書いた?」
「銭から聞かない」
「それは書かなくていいです」
「俺が忘れる」
それなら必要だった。
ハナは朝なら浜にいることが多い。
ただし、魚が上がった日は網より魚を優先する。
昼前には家へ戻る日もある。
夕方は「その日による」で終わった。
「じゃあ、朝の一刻くらいなら?」
「網をやりながらでいいならね」
「荷を動かす必要が出たら?」
「呼ぶ」
「誰を?」
「いる人」
「いなかったら?」
ハナは少し考えた。
「濡れそうなら油布を掛けるくらいはする。袋を三つ四つ持ち上げろって話なら、しない」
「盗られそうになったら?」
「叫ぶ」
「追いかけない?」
「なんで私が?」
その顔で、追いかける案は消えた。
ティムが横から聞く。
「山羊なら?」
「蹴る」
「人より対応厳しくない?」
「山羊は話通じないから」
そこへヨルが来た。
小さな桶を持っている。
中には貝殻と、何に使うのか分からない曲がった釘が三本。
ティムがすぐ手を上げた。
「ヨル、見張りの仕事するならいくら?」
ヨルは歩いたまま俺を見る。
「何を」
「荷物」
「何袋」
「まだない」
「じゃあ見れない」
そのまま通り過ぎた。
ティムが紙を見た。
「銭まで行かなかった」
「だから先に仕事の形を聞くんでしょう」
ハナが鼻で笑った。
「今のは仕事の形もなかったけどね」
少しして、ヨルが空になった桶を持って戻ってきた。
今度は自分から止まる。
「朝、水汲み終わった後なら半刻」
ティムが慌てて炭筆を持つ。
「いくら?」
「知らない」
「自分の仕事なのに?」
ヨルはハナを指した。
「母に聞く」
「そこは自分で決めなよ」
ハナが言う。
ヨルは少し考えてから、俺を見る。
「一銅貨」
ハナがすぐ言った。
「高い」
「今、自分で決めろって」
「決めるのと売れるのは別」
ヨルはまた考えた。
「じゃあやらない」
そのまま行った。
ティムが紙へ何か書く。
「何を」
「交渉決裂」
「大げさです」
「でも一番早かったよ」
それはそうだった。
昼前、ネドが荷駄を連れて下りてきた。
今日は空荷だった。
蹄を確かめに来ただけらしい。
俺たちが何をしているか話すと、ネドは一頭の前脚を持ち上げたまま言った。
「俺は見張らんぞ」
「まだ頼んでません」
「顔が頼む顔してる」
最近、みんな顔で先回りする。
「荷駄が遅れた時に、待ち時間の見張り代が出るとしたら」
「誰の荷駄が遅れた」
「例えばネドさんの」
「なら俺が払うって話か?」
「まだ決めてません」
ネドは蹄の裏を削る手を止めた。
「遅れた理由によるだろ。俺が寝坊したなら俺だ。道が崩れたなら知らん。船が二刻早く来たのに俺が遅い扱いされたら、もっと知らん」
「じゃあ船が早かったら船?」
ティムが聞く。
ネドは顔を上げた。
「船頭に聞け」
会話が投げ返された。
「ネドさん自身が荷を見て待つことは?」
俺が聞くと、ネドは削った蹄を地面へ下ろした。
荷駄が鼻を鳴らし、俺の袖を嗅ぐ。
「荷駄の仕事が終わってりゃな。終わってない時に荷まで見ろって言われたら、どっちか雑になる」
「二つ同時は無理?」
「できる時もある」
「じゃあ――」
「できる時がある、を予定に入れるな」
先に切られた。
ティムが炭筆を止めた。
「それ書く?」
「書いてください」
「長いな」
「そのままで」
その時、浜の端から女の声がした。
「うるさいから、見張りの話ならこっちでしな」
魚を干す棚の向こうに、細い女がいた。
年はハナより少し上に見える。
赤い布を頭へ巻き、干し魚を裏返している。
ハナが顎で示す。
「ロウナ。朝はだいたいそこにいる」
「だいたい、ね」
ロウナは俺たちへ来なかった。
手も止めない。
俺の方から近づく。
「荷を見てもらう仕事、興味あります?」
「荷だけ?」
「まずは」
「触る?」
「数を見る。濡れ、破れ、動物。何かあれば呼ぶ。勝手に開けない。値段も決めない」
「盗人は」
「呼ぶ」
「誰を」
またそこだった。
俺が詰まると、ロウナは干し魚を一枚裏返した。
「叫べば誰か来る。夜なら知らない。夜はやらない」
「何時までなら?」
「朝の魚干しが終わるまで。二刻くらい。船が来なかったら帰る」
「銭は」
ティムが言いかけて、自分で口を閉じた。
ロウナが初めてティムを見た。
「今、何飲み込んだ?」
「銭から聞くなって言われたのを思い出しました」
「誰に」
ハナが網から顔を上げない。
「私」
「珍しくいいこと言うね」
「珍しくは余計」
二人はそれで終わった。
ロウナは二刻までなら、魚を干しながら荷を見ることはできる。
ただし、その場を離れられない仕事なら別。
雨で油布を張り直す、袋を運ぶ、盗人を追う、荷駄へ積む――それは見張りではないと言った。
「じゃあ、見るだけならいくらです?」
俺が聞く。
ロウナは少し考えた。
「二刻で一銅貨」
ティムが炭筆を動かす。
「一刻でも?」
「一銅貨」
「同じ?」
「ここにいろって言われたら同じ。半刻で帰れる仕事を、その後も来るかもしれないって待つんでしょ」
なるほどと思ってしまった。
「途中で他の仕事が入ったら?」
「断るか、木片渡す」
「誰に?」
ロウナが肩をすくめた。
「その時いる人。いなけりゃ、荷主に返す」
「荷主がいなかったら?」
「知らないよ。だから先に決めるんじゃないの」
俺たちは仕事を作りに来たつもりだった。
でも実際にやっているのは、仕事にしない範囲を一つずつ聞くことだった。
帰り際、ティムが紙を見て言う。
「値段、一個しか決まってないね」
「一個決まったなら十分です」
「ハナさんは?」
後ろから本人の声が飛んだ。
「まだ頼まれてない」
ティムが振り向く。
「じゃあ今――」
「今日はもう網終わるから帰る」
本当に帰り始めた。
俺は紙を畳んだ。
銭を払えば、誰でも見張ってくれるわけじゃない。
その方が、たぶん続けられる形に近かった。
第182話 早く着いた船の待ち賃を、誰も払いたがらなかった
【本文】
試す機会は、翌日に来た。
来なくてもよかったくらい早かった。
「船!」
浜の方からティムの声がした時、俺は赤崖の手前でネドと荷駄の腹帯を見ていた。
ネドが空を見た。
「早くないか」
「一刻くらい」
「俺の時計が壊れた?」
「時計持ってるんですか」
「持ってない」
話している間にも、海側から二度目の声が飛んだ。
「三袋ー!」
ネドが俺を見る。
「聞こえた」
「行きます」
「俺は行かん。こいつの蹄まだ終わってない」
「荷駄、あとどれくらいです?」
「だから蹄見てる」
答えではない。
でも今はそれで足りた。
俺だけ浜へ下りる。
麦津からの大麦三袋。
予定では、正午前に鴎泊着。
荷駄もその少し前に来るはずだった。
実際は、まだ朝の潮が残っている。
小舟の横で、船頭が綱をまとめていた。
昨日まで見た顔ではない。
若い男で、耳の上だけ髪が跳ねている。
「早かったですね」
俺が言うと、男は一度だけこっちを見た。
「風が良かった」
「予定より一刻近く」
「遅いよりいいだろ」
すぐ後ろでロウナが笑った。
「待つ側がいなきゃ、早いのも遅いよ」
男が振り返る。
「誰だ」
「魚干してる人」
聞いたことのある答えだった。
ロウナはすでに魚棚の横へ桶を置いている。
今日、見張りの試しをする話は昨日のうちにしてあった。
朝から二刻。
一銅貨。
荷を見るだけ。
ただ、荷が来るのはもう少し後の予定だった。
「じゃあ、始めてもらえます?」
俺が聞くと、ロウナは三袋を数えた。
「今からならね。二刻後には帰るよ」
「荷駄はたぶんそれまでに」
船頭が綱を肩へ掛けた。
「じゃ、受取」
荷札を差し出される。
《大麦 三袋》
《外装異常なし》
《売買条件変更なし》
俺は数と袋を確認した。
受取を書く。
船頭はそれを見たあと、手を出した。
「待ち賃」
「え?」
「俺じゃないよな」
何を言っているのか、一瞬分からなかった。
ロウナが干し魚を裏返しながら言う。
「私の一銅貨の話」
「ああ」
船頭は肩をすくめた。
「早く着いただけだ。俺は払わんぞ」
「まだ請求してません」
「顔がする」
今日は顔を使っていない。
ティムが袋の横へ高床板を置きながら口を挟んだ。
「でも船が予定どおりなら、見張りいらなかったかも」
「風止めろってか?」
「そうは言ってない」
「じゃあ何」
ティムが板を持ったまま止まる。
「……何だろう」
俺も少し困った。
船が早い。
荷駄は遅い。
どちらも、今の時点では悪いとは言い切れない。
そこへネドが来た。
荷駄を一頭だけ連れている。
「まだ一頭?」
俺が聞く。
「蹄に石噛んでた。もう一頭はバースに頼んだ」
船頭がすぐ言う。
「遅れたのお前じゃん」
ネドが男を見る。
「何時の約束だ」
「正午前」
「まだ正午前だろ」
「俺はもう着いた」
「知らん」
「荷が待ってる」
「お前が待て」
「帰る潮がある」
「じゃあ帰れ」
会話が喧嘩に近づいた。
ハナは少し離れた場所で網を干している。
こっちを見ない。
昨日なら何か言ったかもしれない。
今日は言わない。
俺はロウナを見る。
ロウナは干し魚を一枚持ち上げ、光に透かしていた。
「俺が試験費から払います」
言うと、ネドと船頭が同時にこっちを見た。
ロウナだけ見なかった。
「今回は」
俺は続ける。
「今日、見張りを仕事として試すために呼んだのはこっちだから。一銅貨は調査費から出します。でも次も同じ、にはしません」
船頭がすぐ頷く。
「ならいい」
ネドは頷かなかった。
「それ、問題消してないか」
「消してません」
「銭出したら今は消えるだろ」
痛いところだった。
ティムが板の上へ三袋目を載せる。
「じゃあ、次から誰が払うの」
誰も答えない。
波の音だけ入った。
ロウナがやっと口を開く。
「原因の人が払えば?」
ネドが言う。
「原因が一人ならな」
「今日は?」
「風」
船頭が言った。
「蹄」
ネドが言った。
ティムが俺を見る。
「風と蹄から取る?」
誰も拾わなかった。
ロウナの見張りは始まった。
三袋は高床板の上。
木片はロウナの腰紐へ。
数、濡れ、破れ。
そこだけ。
俺はネドと二頭目の荷駄を迎えに赤崖側へ戻った。
半刻も経たないうちに、ティムが追いついてきた。
「ロウナさん、魚の買い手来た」
「荷は?」
「ハナさんに木片渡した」
俺は足を止めた。
「ハナさん、今日頼んでないですよね」
「うん。だからロウナさんが『半刻だけ頼める?』って聞いた。ハナさんが『半刻なら一銅貨の半分』って」
「半銅貨ってどう払うんです?」
「そこでもめてる」
急いで浜へ戻る。
本当にそこでもめていた。
「銅貨割る気?」
ハナが言う。
ロウナは魚の買い手を待たせたまま、腕を組んでいる。
「次の一回、半刻ただでやる」
「次やる前提にするな」
「じゃあ干し魚一枚」
「いらない」
「二枚」
「増やすな」
俺が口を挟む前に、ヨルが桶を持って通った。
「一銅貨、二人で使えば」
全員がヨルを見る。
ヨルは立ち止まらない。
「半分ずつ見たんでしょ」
「銭が割れないって話」
ティムが言う。
ヨルは振り返った。
「じゃあ次に回す」
それだけ言って行った。
結局、今回はロウナへ一銅貨。
ハナの半刻分は、次にハナへ見張りを頼む時に上乗せして払うことにした。
綺麗じゃない。
帳面にも書きづらい。
でもハナはそれで納得した。
「忘れたら二銅貨だからね」
「増えてません?」
「忘れ賃」
冗談か分からなかった。
昼前、二頭目の荷駄が来た。
大麦三袋は北へ動いた。
荷を載せ終えた後、若い船頭はもう沖へ戻りかけていた。
ネドがその背中へ声を投げる。
「次、早く出るなら一言残せ」
船頭が振り返る。
「誰に」
「麦津の荷扱いでも、次の舟でもいい」
「風見てから決める」
「だから決めた後だ」
男は少し考えた。
「覚えてたらな」
「忘れたら待ち賃お前な」
「勝手に決めんな」
言いながら、小舟を押した。
完全な約束にはならなかった。
でも次に何も言わず早着するよりは、少しだけましな気がした。
待ち時間は、一刻より短かった。
見張りは途切れなかった。
荷も無事だった。
ただ、誰が一銅貨を払うべきだったのかは、最後まで決まらなかった。
その日の記録に、俺は一行だけ足した。
《予定より早着しても、待ちは発生する》
ティムが横から覗く。
「遅刻だけが悪いんじゃないんだね」
「早すぎても、誰かの時間を使います」
「じゃあ時間って難しいな」
「今さらですか」
「今までは遅れる方しか怒られなかったから」
妙に実感のある言い方だった。
第183話 見張りは間に合った。屋根が足りなかった
【本文】
三度目の試しは、雨の降らない日にするつもりだった。
朝の空も、そのつもりに見えた。
「降らないな」
ダグが沖を見て言った。
俺も見た。
雲は高い。
風は弱い。
「降らないですね」
「俺はそう言ってない」
「今、降らないって」
「今は、だ」
隣でティムが小さく言う。
「船長の言葉、いつも逃げ道あるよね」
ダグは聞こえなかったふりをした。
その日、鴎泊で待つ予定だったのは大麦四袋。
荷駄は赤崖の北側から下りてくる。
差は半刻ほど。
見張りはロウナ。
二刻、一銅貨。
前回の条件と同じ。
ハナには頼まない。
前回の半刻分は、次に正式に頼む時へ繰り越したまま。
俺は午前のうちに赤崖へ上がった。
荷駄の一頭が、前回使った腹帯を嫌がっていたからだ。
「嫌がるって分かるんですか」
俺が聞くと、バースは帯を外しながら言った。
「噛む」
「腹帯を?」
「俺を」
「それは分かりやすい」
「昨日噛まれた」
袖をめくる。
薄い歯形があった。
ティムが覗き込んだ。
「痛そう」
「痛かった」
「怒った?」
「帯替えた」
それで話が終わった。
新しい帯を合わせている途中だった。
海側から、金属を三回叩く音がした。
カン。
カン。
カン。
俺は顔を上げた。
バースも上げる。
ティムだけ、一拍遅れた。
「何?」
「鴎泊」
俺が答えた直後、もう一度。
カン、カン、カン。
前にハナが鎖を動かした時と似た音。
でも一定の間隔で鳴っている。
「決めてた合図?」
ティムが聞く。
「決めてない」
そこが嫌だった。
俺は走り出した。
バースが後ろから言う。
「帯!」
止まる。
自分が握っていた革帯を見た。
戻って渡す。
「すみません」
「全部持ってくな」
「はい」
今度こそ下りた。
途中でヨルとすれ違った。
息を切らしている。
「雨」
それだけ言う。
空を見る。
さっきまで高かった雲の下に、海側から灰色の筋が入っていた。
「荷は?」
「四。ロウナ見てる。ハナもいる。風」
「濡れた?」
ヨルは首を横に振る。
「まだ」
ティムが追いついた。
「何がまだ?」
ヨルはもう上へ走っている。
「濡れてないって」
「雨は?」
「来る」
「どっち」
会話するより走った方が早かった。
浜へ出た時、最初の大粒が落ちた。
ロウナが仮荷台の横に立っていた。
木片は腰紐。
油布は四袋の上へ掛かっている。
「遅い」
第一声だった。
「いつから?」
「空の色変わってから。三回叩いた」
「誰に教わったんです?」
「誰にも。音出せば誰か来るでしょ」
正しかった。
正式な合図ではないけど、俺は来た。
風が横から入る。
油布の端が跳ねた。
ハナが反対側を踏んでいる。
「これ、上からは守れる。横が無理」
「荷駄は?」
「まだ」
ロウナが言う。
「私は見る契約。運ぶ契約じゃないよ」
「分かってます」
「ならいい」
言い方は冷たいが、四袋はまだ乾いている。
俺とティムで油布を押さえる。
風が一段強くなった。
一袋が高床の端でずれた。
「レン!」
ティムの声。
俺は袋の下へ肩を入れる。
重い。
前なら腕だけで戻そうとしたと思う。
今日は一度、足を引いた。
腰を落とす。
袋を持ち上げず、高床の中央へ押し戻す。
【Lv 3】
何も増えない。
でも、滑った袋に身体ごと引かれなかった。
「今の、ちょっと上手かった」
ティムが言う。
「今それ言う?」
ハナが怒鳴る。
「後で言う!」
「忘れるだろ!」
「じゃあ今でよくない?」
「布持て!」
会話が終わる。
雨脚が強くなる。
仮荷台では持たない。
旧塩倉跡。
残り一回。
俺はハナを見る。
ハナも同じ方向を見た。
「使う?」
「使わないと濡れます」
「じゃ、使う。今日で二回目」
「セラさんの条件」
「分かってる。昼だけ、人付き。固定物なし。終わったら掃除」
ロウナが油布を押さえたまま言う。
「説明は歩きながらにして」
その通りだった。
四袋を一つずつ運ぶ。
ロウナは運ばない。
契約どおり、仮荷台に残った袋を見ている。
ハナは二袋目から手を貸した。
ティムは一袋目で足を滑らせ、二袋目から靴を脱いだ。
「裸足の方が滑らない!」
「石踏むよ!」
「もう踏んだ!」
「じゃあ履け!」
三袋目の途中で、バースが荷駄を連れて到着した。
「なんで倉へ入れてる」
「雨!」
ティムが答える。
バースは空を見た。
「見れば分かる」
誰かと同じだった。
「荷駄、今通せます?」
俺が聞く。
バースは赤崖側を振り返る。
「今は通すな。土が浮く」
「どれくらい」
「雨止んでから見る」
また待つことになった。
ただ、今度は屋根がある。
四袋を旧塩倉跡へ入れ終えた時、ロウナが腰から木片を外した。
俺へ渡す。
「四。濡れなし。破れなし。ここまで」
「ありがとうございます」
「一銅貨」
「はい」
ティムが倉の中から顔を出した。
「でも途中で倉に運んだから、見張り失敗じゃない?」
ロウナがティムを見る。
少し長い間があった。
「雨が来る前に呼んだ」
「うん」
「荷は濡れてない」
「うん」
「じゃあ何を失敗したの」
ティムは考えた。
「……屋根?」
「それ私?」
「違う」
「じゃあ銭」
ティムが俺を見る。
「払おう」
「払います」
ロウナは一銅貨を受け取ると、魚棚へ戻っていった。
雨なのに。
「魚、濡れません?」
俺が聞く。
「だから戻るんだよ」
本業だった。
雨は半刻で弱くなった。
でも赤崖はすぐには使えない。
バースが土を踏み、棒を刺し、首を横に振った。
その日の大麦四袋は、夕方まで旧塩倉跡で待った。
人は付けた。
無人にはしない。
セラも昼過ぎに来た。
倉の入口から四袋を見て、床の泥を見て、俺を見る。
「二回目」
「はい」
「これで終わり」
「はい」
「次に雨降ったら?」
「……まだ決めてません」
セラは少しだけ眉を上げた。
「珍しいね。先に作ってない」
誰から聞いたのか分からない。
ティムが倉の奥で咳払いした。
たぶんこいつだ。
夕方、赤崖が通れるとバースが判断した。
四袋は北へ動いた。
見張りの仕事は、初めて銭を払って一回成立した。
ロウナは決めた範囲だけ見て、危険を見つけ、呼んだ。
勝手に荷を開けなかった。
値段も決めなかった。
重い袋を運ばなかった。
それでよかった。
問題は別に残った。
雨が来た時、荷を見ている人がいても、屋根は増えない。
旧塩倉跡の残り一回は、今日使った。
倉を出る時、セラが扉代わりの板を戻した。
木が軋む。
「次は、ここ使える前提で荷を送らないで」
「分かりました」
「本当に?」
「……次に雨が来る前に、考えます」
セラは返事をしなかった。
板を押さえていた石を一つ、足で寄せただけだった。
浜へ戻ると、ロウナの魚棚には新しい油布が掛かっていた。
自分の屋根は、自分で用意していた。
第184話 荷物を降ろさなければ、屋根はいらない
【本文】
旧塩倉跡を使えなくなった次の便は、大麦二袋だった。
少ない。
だから試すにはちょうどいい、と俺は思った。
「で、降ろさない」
浜でティムが俺の言葉を繰り返した。
「はい。荷駄が来るまで舟に置いたままにします」
「それ、すごい発見みたいに言う?」
「昨日まで降ろしてから困ってたので」
「まあ……そうか」
自分で言ってから納得したらしい。
ダグは小舟の綱を点検していた。話を聞いているのか分からない顔で、結び目を一つ締め直す。
「船長。半刻くらいなら待てます?」
「何が半刻だ」
「荷駄が来るまで」
「潮は待たん」
聞きたかった答えと違う。
ティムが口を挟む。
「でも舟の上なら屋根あるじゃん」
ダグが初めて顔を上げた。
「屋根はある」
「ほら」
「床が揺れる」
「そこ?」
「あと岸が遠くなる」
ダグは沖を顎で示した。
朝は小舟を桟橋跡の横まで寄せられる。
でも潮が引けば、同じ場所に留めるほど底が近くなる。
浅くなる前に沖へ出すか、船底を擦る覚悟で残すか。
「残す選択肢はない」
俺が確認すると、ダグはもう綱へ視線を戻していた。
「船を倉庫にしたいなら、倉庫みたいに地面へ置け」
「置いたら船じゃないです」
「分かるなら聞くな」
ティムが俺の肩を軽く叩いた。
「今日、船長ちょっと機嫌悪い?」
「朝飯の卵を落とした」
ダグが言った。
「聞こえてたんですか」
「全部聞こえてる」
それ以上は卵の話をしなかった。
荷駄側は、ネドが二頭連れてくる予定だった。
到着は朝の二刻目まで。
大麦を積んだ小舟が鴎泊へ入ったのは、その少し前だった。
俺は浜から赤崖側を見る。
荷駄はまだ見えない。
「降ろす?」
荷扱いの男が袋へ手を掛けた。
「今日はまだ」
「まだ?」
「荷駄が来るまで舟で待たせたいです」
男は袋から手を離した。次にダグを見る。
「聞いてないぞ」
「俺も今聞いた」
「船長には朝言いました」
「聞いた。受けたとは言ってない」
ややこしい。
俺は一度、言い方を変えた。
「この二袋を降ろさないで、どれくらい安全に待てます?」
ダグは海面を見る。
桟橋跡の杭を見る。
風を見る。
返事まで少し長かった。
「ここなら四半刻。長くても半刻。その先は沖へ出す」
「沖へ出したら?」
「荷駄が来てもすぐ積めん」
ティムが袋の横でしゃがんだ。
「つまり、半刻以内にロバ来たら勝ち?」
「勝ち負けにするな」
ダグが言う。
でも俺の頭の中では、かなり近かった。
降ろせば、雨と見張りと屋根が要る。
降ろさなければ、舟と船頭の時間、それから潮を使う。
無料で問題が消えたわけじゃない。
使うものが変わっただけだ。
ロウナが魚棚の向こうから声を投げた。
「今日は私はいらない?」
「今のところ」
「今のところで呼ばないでね」
「呼ぶなら先に頼みます」
「よし」
魚を一枚ひっくり返して、話は終わった。
十分ほどして、ティムが赤崖側へ首を伸ばした。
「来ないね」
「まだ十分です」
「十分も待ってる」
「半刻って言ったでしょ」
「待つ側の十分って長いよ」
船頭が横から言った。
さっきの荷扱いの男とは別で、今日は四十代くらいの男だった。右の頬に白い傷がある。
俺はそちらを見る。
「待ち賃、要ります?」
男が少し嫌な顔をした。
「今聞くのか」
「後で言われるより」
「半刻までなら便のうち。超えるなら話す」
「誰と?」
「払う奴と」
「誰が払うか、まだ決まってなくて」
男は俺を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「じゃあ超えるな」
その通りだった。
待っている間も、小舟はじっとしてくれなかった。
横から入った小さなうねりで船腹が杭へ寄り、船頭が舌打ちして綱を一度解く。ダグも黙って船尾側を押した。
「何かします?」
俺が近づくと、ダグは手のひらをこっちへ向けた。
「今は来るな」
「はい」
言われた場所で止まる。
ティムは一歩出て、一歩戻った。
「俺も?」
「お前は綱踏むな」
足元を見る。ティムの踵が本当に綱の上だった。
「……危なかった」
「今の一刻、見張りじゃなくて船番も要るな」
船頭がぼそっと言った。
荷物を舟に残すということは、舟だけ残せばいいわけじゃない。人も残る。
その人は、その間ほかの便へ行けない。
ティムが小声で言う。
「風と蹄から取る案、まだ――」
「ないです」
「最後まで言わせてよ」
言わせなくても同じだった。
四半刻を少し過ぎたところで、赤崖の上に荷駄の耳が二つ見えた。
「来た!」
ティムが叫ぶ。
ダグが振り向きもしない。
「一頭だぞ」
よく見れば一頭だった。
ネドが手綱を引いて下りてくる。
「もう一頭は?」
俺が聞くと、ネドは答える前に荷駄の首を撫でた。
「腹壊した」
「ロバが?」
ティムが心配そうに聞く。
「俺じゃない」
「そこは分かるよ」
二袋なら一頭でも運べる。
ただし赤崖で荷を左右へ振り分けると幅が出る。
バースなら一袋ずつ二往復を選ぶかもしれない。
ネドは袋を見て、赤崖を見た。
「一個ずつ」
やっぱりだった。
一袋目を舟から直接背へ移す。
浜へ置かない。
俺とティムが袋を支え、ネドが腹帯を合わせる。
小舟が波で半歩ぶん動く。
「待って、今――」
俺が袋を引き寄せかけると、ダグの手が肩へ来た。
押される。
「船に合わせろ。止めようとすんな」
「あ」
次の波を待つ。
舟が寄る。
その瞬間に袋を渡す。
今度は力が要らなかった。
【Lv 3】
表示は変わらない。
でも、海で物を渡す時に地面のつもりで立ってはいけないことは、少し身体に入ってきた。
一袋目が赤崖へ向かう。
小舟には一袋残る。
「二往復なら、半刻超えるかも」
ティムが言う。
船頭が空を見た。
「戻りは待つ。上で遊ばなきゃ間に合う」
ネドが聞こえたらしく、振り返る。
「誰が遊ぶか!」
「お前じゃなくてロバに言った」
「もっと悪いわ」
誰も笑わなかった。
荷駄だけが耳を動かした。
二袋目を渡し終えた時、潮は最初より目に見えて下がっていた。
ダグが小舟を押す。
船頭も乗る。
「今日は間に合った」
俺が言うと、ダグは綱を解きながら鼻を鳴らした。
「今日はな」
成功した。
荷は一度も浜へ置かなかった。
見張りも屋根も使わなかった。
その代わり、小舟と船頭を四半刻以上ここへ縛った。
それに、荷駄がもう少し遅ければ失敗していた。
ティムが空になった高床板を見て言う。
「屋根、いらなかったね」
「今日は」
俺が言うと、ダグが沖から片手を上げた。
たぶん聞こえた。
その日の記録には、こう書いた。
《荷を降ろさなければ、雨待機は減る》
その下に、少し間を空けて。
《船を待たせる》
問題が消えたんじゃない。
待つ相手が変わっただけだった。
第185話 荷物を待たせなかったら、今度はロバが待った
【本文】
次は逆にした。
「荷駄を先に置く」
俺が言うと、ネドが露骨に嫌な顔をした。
「置くって言うな。生きてる」
「先に来てもらう」
「それなら聞く」
言葉一つで入口が変わった。
今日は東浜へ送る標準炉晶一箱。
北から赤崖を下ろし、鴎泊で小舟へ渡す。
海側の便は朝の三刻目までに来る予定だった。
前回は舟を待たせた。
今回は、荷駄と箱を先に下ろし、小舟が見えたらすぐ積む。
屋根がないなら、晴れている日に限ればこれでもいい。
「箱はどこへ?」
ネドが聞く。
「降ろさない。荷駄に載せたまま」
「それならまだまし」
「ロバは?」
ティムが聞く。
ネドが手綱を渡した。
「本人に聞け」
ティムは一瞬だけ本当に荷駄の顔を見た。
「今日は聞かない」
少し学習した。
朝の二刻目の終わりには、炉晶一箱が鴎泊まで下りていた。
海は穏やかだった。
ただ、帆が見えない。
「まだ時間前です」
俺が言う。
ネドは荷駄の鞍を少し緩めた。
「知ってる」
「怒ってます?」
「まだ」
ティムが俺へ小声で言う。
「“まだ”って怖いね」
「聞こえてるぞ」
ネドは荷駄の腹へ手を入れ、汗を確認している。
荷は安全だった。
人もいる。
雨もない。
でも、荷駄は立ったままだ。
十分。
二十分。
ハナが網籠を抱えて通った。
「今日は何待ち?」
「船です」
「へえ」
それだけで行きかける。
ティムが呼び止めた。
「ハナさん、海見て船来る時間分かる?」
「分かったら漁師みんな金持ちだよ」
「そっか」
「でもあの風なら遅れるかもね」
ハナは沖を一度見ただけで、また歩き始めた。
俺も見る。
浜では弱い風しか感じない。
沖では違うのかもしれない。
「どれくらい遅れそうです?」
俺が背中へ聞く。
「知らない」
返事だけ飛んできた。
ネドが鼻で笑う。
「いい答えだ」
「役に立ちません」
「嘘よりはな」
三刻目。
船は来なかった。
荷駄が一度、後ろ脚を踏み替えた。
もう一頭は、近くに干してあった網へ鼻を伸ばした。
「こら」
ハナの声が飛ぶ。
ネドより先に荷駄が顔を引いた。
ティムが感心する。
「名前呼んでないのに分かるんだ」
「毎年誰かの網食おうとするから」
「同じロバ?」
「違う」
「じゃあ伝統?」
ハナは答えず、網を一枚高い杭へ掛け直した。
ネドが手綱を短く持つ。
「待たせる場所も要るな」
「浜の端じゃ駄目です?」
「人には端でも、こいつらには飯場だ」
荷駄がまた網へ鼻を向けた。
今度はティムが手で隠す。
「俺、ロバの見張りになってない?」
「銭は出ないぞ」
「聞く前に断られた」
ロウナが魚棚の向こうで笑った。
「動物相手は高く取った方がいいよ」
「なんで?」
「文句言っても払わないから」
ネドが真顔で言う。
「人も似たようなもんだ」
その話は誰も広げなかった。
荷駄が一度、後ろ脚を踏み替えた。
もう一度。
ネドが腹帯をさらに緩める。
「箱、一回下ろします?」
「地面へ?」
「板を――」
「屋根ないんだろ」
止まった。
晴れている。
でも箱を下ろせば、今度は人が見張る必要がある。
載せたままなら、荷駄を待たせる。
ネドが俺を見た。
「な。何か待つだろ」
「はい」
「道ってのは、待たないように作るんじゃなくて、誰を待たせるか決める仕事なのかもな」
ティムが炭筆を出した。
「今の書く?」
「書くな」
「いいこと言ったのに」
「俺が恥ずかしい」
そこは記録しないことにした。
半刻ほど過ぎた頃、荷駄が急に首を振った。
手綱が俺の腕へ当たる。
「おっと」
俺が押さえようとすると、ネドが先に手を出した。
「前立つな」
荷駄は腹を気にしている。
炉晶箱の重さそのものより、止まったままの姿勢が嫌らしい。
ネドが箱を少しずらす。
「歩かせる」
「どこへ?」
「その辺一周」
「船来たら?」
「呼べ」
ネドは荷駄を連れて浜の奥へ歩いていった。
箱も一緒に行く。
ティムがその背中を見送る。
「荷物が散歩してる」
「炉晶は散歩してません」
「ロバが運んでるから、してるようなもんじゃない?」
ロウナが魚棚から言った。
「暇ならこっち手伝う?」
ティムがすぐ首を横に振る。
「今、重要な待機試験中です」
「立ってるだけに名前つけるの上手いね」
俺にも少し刺さった。
さらに半刻。
ようやく岬の外に帆が見えた。
ティムが叫ぶ。
「来た!」
ネドは浜の奥にいる。
「呼んで!」
「俺?」
「俺は舟の準備見ます!」
「今だけ俺の方が足速いってこと?」
返事を待たず走った。
その直後、ダグの声が小舟から飛んだ。
「それ違うぞ!」
俺は止まる。
ティムも遠くで止まった。
「違う?」
「北の漁舟だ。荷の舟はその後ろ」
よく見る。
最初の帆は白い。
その後ろ、岬から少しだけ出た帆は茶色がかっていた。
俺には、言われるまで同じに見えた。
ハナがいつの間にか戻っていた。
「前のはミグ爺の舟。帆の右下、縫い目が斜め」
「見えるんですか」
「毎日見てるから」
ティムが戻ってきた。
息を切らしている。
「俺、半分まで走った」
「戻ってきたんですね」
「ダグさんの声聞こえた」
「ネドさんは?」
「あっちでロバと散歩してる」
話しているうちに、本当の荷の舟が岬を回った。
今度こそネドを呼ぶ。
炉晶箱を載せた荷駄が戻った時、小舟はまだ桟橋跡へ寄せている途中だった。
ほぼ同時。
積替えは早かった。
荷駄から箱を下ろす。
二人で小舟へ。
俺は船の動きに合わせる。
前回より一度少なく持ち直した。
箱が載る。
船頭が荷札を確認する。
「待ちなし?」
俺が聞くと、ネドがすぐ言った。
「俺は二刻近く待った」
船頭が眉を上げる。
「俺は待ってない」
「知ってる」
「じゃあ何」
「何でもない。帰れ」
喧嘩になりそうで、ならなかった。
小舟が離れる。
ネドは荷駄の腹帯を全部外し、水を飲ませた。
「次もこんなに早く呼ぶなら、待ち賃取るぞ」
「いくら?」
俺が聞くと、ネドは答えなかった。
荷駄の口元を見ている。
「……次、実際に待ったら決める」
前より少し慎重な答えだった。
ティムが岬を見る。
「でもさ」
「何です?」
「船、見えてから呼んだらよくない?」
俺も岬を見る。
さっき、間違えた白い帆。
その後ろから来た、本当の荷の舟。
見える場所はある。
見分けられる人もいる。
ただ、浜から見えた時には、かなり近かった。
「もっと先で見えれば」
俺が言うと、ハナが網籠を抱え直した。
「岬の肩まで上がれば、灰岬の向こう少し見えるよ」
ティムが俺を見る。
俺もティムを見る。
ハナが一歩下がった。
「その顔やめて。私は登らないからね」
まだ何も頼んでいなかった。
でも次に試すことは、たぶん同じだった。
第186話 白い帆を見てから、ロバを呼ぶ
【本文】
岬の肩まで上がる道は、道と呼ぶには細かった。
「ハナさん、ここ普通に登るって言ってました?」
ティムが後ろで息を切らす。
「“上がれば見える”とは言ってました」
「“簡単に”は?」
「言ってないです」
「大事な言葉だな、それ」
ティムはそう言いながら、腰の袋から干し果実を一切れ出した。
「今食べるんですか」
「登る前に食べるべきだった」
「今もう登ってます」
「だから反省してる」
一口かじった直後、足を滑らせて果実を落とした。
二人で下を見る。
岩の隙間へ消えた。
「反省、短かったですね」
「今のは山が悪い」
「岬です」
「拾いに戻る?」
「戻りません」
「即答」
「食べ物一切れのために二人で落ちたら怒られます」
「誰に?」
少し考えた。
「たぶん全員に」
どうでもいい言い合いをしているうちに、息が少し戻った。
朝露で岩が濡れている。
海側へ落ちるほど険しくはないが、両手を空けておいた方がいい。
俺は一度、足を置いた石ごと滑った。
膝をつく。
痛い。
ティムが笑いかけて、やめた。
「大丈夫?」
「笑ってから聞くのやめて」
「まだ笑ってない」
「顔が笑ってた」
最近、俺も顔を見るようになった。
岬の肩は、鴎泊の浜より二十数歩高いだけだった。
でも見える海はまるで違った。
灰岬の外側。
南へ続く海面。
遠くに小さな帆が二つ。
鴎泊の入口は足元に隠れる。
「これなら早く見える」
ティムが言った。
俺もそう思った。
ただし、どれが荷の舟なのかは分からない。
「昨日のやつ、俺たち間違えましたよね」
「うん」
「見えるだけじゃ駄目ですね」
ティムはしばらく黙った。
「ハナさん連れてくる?」
「登らないって言ってたでしょ」
「じゃあダグさん」
「船長を丘に置いたら船どうするんです」
「あ」
そこから考え直した。
今日の便は大麦三袋。
船側の予定は朝三刻目から四刻目の間。
正確な時刻は決めない。
荷駄はバースとネドが赤崖北側で待つ。
こっちから合図が来てから下り始める。
白い布を一本持ってきた。
振れば、赤崖手前の開けた場所から見える。
「見えなかったら?」
ティムが聞く。
「走る」
「結局?」
「はい」
まだ仕組みと呼べるほどじゃなかった。
最初の帆が大きくなる。
白。
右下は――ここからだと分からない。
「昨日の漁舟?」
「たぶん」
「たぶんでロバ呼ぶ?」
「呼ばない」
ティムが安心したように座り込んだ。
その時、後ろから声がした。
「ミグのじゃないよ」
二人で振り向く。
ヨルがいた。
息も切らしていない。
「なんでここに?」
ティムが聞く。
「母に紐持ってけって」
手に細い麻紐がある。
「それ、俺たちに?」
「違う。罠」
「じゃあ何でここへ」
ヨルは海を指した。
「近道」
会話が一度閉じた。
俺は帆を指す。
「ミグさんのじゃないって分かる?」
ヨルは目を細めた。
「ミグ爺は左へ傾く」
「舟が?」
「帆」
「なんで?」
「知らない」
ここに住んでいる人の知識は、理由より先に身体へ入っていることがある。
白い帆はまっすぐだった。
でも、荷の舟とも限らない。
もう少し待つ。
二つ目の帆が岬の先へ出た。
茶色い。
上の方に、小さな黒い継ぎ当て。
ティムが立つ。
「昨日の!」
「たぶん」
「またたぶん」
ヨルが言った。
「それ荷の舟」
「分かる?」
「昨日見た」
それだけだった。
俺は白布を振る。
一回。
間を置いて二回。
合図は今日だけの約束だ。
赤崖手前にいたネドかバースが見れば、荷駄を下ろす。
ティムが横で布を見ている。
「一回と二回、何が違うの?」
「一回は気づかせる。二回で荷の舟」
「今決めた?」
「朝決めたでしょう」
「あ、そうだっけ」
ヨルが下り始めた。
「どこ行くの」
「罠」
本来の用事を思い出したらしい。
誰も止めなかった。
荷の舟は順調に近づいてくる。
俺たちも浜へ下りる。
途中、海が一度見えなくなる。
再び見えた時、帆が小さくなっていた。
「え?」
ティムが止まる。
風が落ちたらしい。
帆が張っていない。
舟は岬の外でほとんど進んでいない。
「呼ぶの早かった?」
「……かも」
走る。
浜へ着くと、まだ小舟はいない。
その代わり、赤崖側から荷駄二頭が下りてきていた。
ネドが俺を見る。
「舟は」
「風が落ちました」
「見りゃ分かる」
「すみません」
ネドは怒鳴らなかった。
ただ荷駄を浜の端へ寄せ、荷を載せていない二頭を歩かせる。
「どれくらい」
「分かりません」
「それも分かる」
返事が重い。
バースは少し遅れて下りてきた。
「早かったか」
「はい」
「じゃあ次は遅く振れ」
ティムが横で首を傾げる。
「遅く振ったら、今度は船待たない?」
バースが手綱を持ち替えた。
「待つだろうな」
「難しいな」
「だから試してんだろ」
誰も正解を出してくれない。
半刻までは待たなかった。
風が戻り、小舟が岬を回る。
荷駄二頭はすでに浜にいる。
大麦三袋を降ろす。
今回は高床へ置かない。
一袋目を一頭目へ。
二袋目を二頭目へ。
三袋目だけ、最初の荷駄へ追加するか迷った。
バースが首を横に振る。
「二往復」
「時間かかります」
「赤崖で落とすより短い」
反論しなかった。
一袋を載せた荷駄が上がる。
戻る間、小舟側が少し待つ。
船頭は文句を言わなかった。
ダグが乗っていたからかもしれない。
三袋目を渡した時、ダグが俺へ言った。
「上で見えたか」
「見えました。でも呼んだ後に風が落ちました」
「海だな」
それで終わりだった。
「次はどうする?」
ティムが聞く。
俺は答えず、荷駄が赤崖へ消えるのを見た。
今日は、荷が浜で待った時間はほとんどない。
見張りも屋根も使わなかった。
船も、前回ほどは待たせていない。
荷駄は少し待った。
でも二刻ではない。
かなり減った。
成功と言っていい。
ただし、晴れていて、帆が見えて、見分けられる人がいて、白布の合図が届いたからだ。
海に霧が出たら。
横雨で岬が見えなくなったら。
夜なら。
全部使えない。
ティムが足元の白布を拾った。
「これ、名前つける?」
「まだ」
「絶対そう言うと思った」
「一回うまくいっただけです」
「一回半じゃない? 最初ちょっと早かったし」
「じゃあ半分失敗です」
「そういう数え方する?」
ロウナが魚棚から声を飛ばした。
「名前より、その布あとで返して。洗濯物干すから」
ティムが白布を見る。
「借り物だったの?」
「言ってませんでした?」
「聞いてない」
俺も言った覚えがなかった。
白布は仕組みじゃない。
洗濯物だった。
そのくらいで、今はちょうどよかった。




