第175話 売れた一箱より、次の雨が先に来た
【本文】
東浜からの返事は、魚の匂いがした。
紙そのものに、だ。
朝一番で鴎泊へ入った小舟の船頭が、油紙を胸元から出したあと、なぜか干した小魚も二尾いっしょに落とした。
「一緒に入れたの?」
ティムが聞く。
「入った」
「意味が違うと思う」
船頭は拾った小魚を自分の口へ放り込んだ。
話はそこで終わった。
俺は油紙を開く。
東浜塩場の受取印。
《標準炉晶 一箱》
《外装破損なし》
《封印一致》
《規格確認 問題なし》
《試し買い 一箱成立》
その下に小さく、別の文字があった。
《運搬者に価格変更・転売権限なし。指定買主への引渡しのみ》
昨日の荷札にあった《売却権限なし》は、途中の誰かが勝手に値段を変えたり、別の相手へ売ったりしないためのものだった。
指定先へ届けば、事前条件どおり売買は成立する。
「売れた」
俺が言うと、ティムが紙を覗き込んだ。
「じゃあ帰り荷できたじゃん」
ハナが網を振って水を飛ばした。
「一箱ね」
「一箱でも帰り荷は帰り荷でしょ」
「魚一匹釣って漁師になったって言うなら、そうだね」
ティムが口を閉じた。
ヨルが舟底から笑った気配だけした。
紙には続きがあった。
《明日から雨見込み》
《雨が続く場合、標準炉晶 二箱まで追加試買希望》
《ただし到着が遅れた場合は数量再確認》
俺は空を見た。
雲はある。
まだ薄い。
「雨なら欲しいって、どういうこと?」
ティムが聞く。
ハナは網の端を持ったまま、俺ではなく船頭を見た。
船頭が肩をすくめる。
「東浜は雨の日も釜止めん。乾いた薪の減りが早い時だけ炉晶足すってよ」
「じゃあ雨が降ったら売れる」
「降りすぎたら船出ん」
ティムが眉を寄せた。
「難しくない?」
誰も答えなかった。
難しいから今ここにいる。
そこへ、北側からネドが下りてきた。
荷駄は連れていない。
代わりに、脇へ板を一枚抱えている。
「走り便」
「ネドさんが?」
「ついで」
何のついでか聞く前に、板を渡された。
北方倉から。
《標準炉晶 二箱 出荷可》
《ヴァン工房 東浜試買条件で了承》
《雨前に赤崖を下ろせるなら出す》
さらに裏。
《麦津 乾き大麦六袋 今日午後まで確保可》
俺は板と東浜の紙を左右に持った。
ティムが真ん中へ顔を出す。
「昨日と同じ問題、もう来た?」
「昨日は紙だけでした」
「今日は荷物になる?」
ネドが俺の手から板を取った。
「なるなら早く決めろ。午後から風変わる」
「雨、早まります?」
ネドは空を見た。
「俺に聞くな」
ハナが鼻を鳴らす。
「でも山の匂いは分かるんだろ」
「湿ってる」
「ほら」
「雨が何刻後かは知らん」
ティムが俺の耳元へ寄った。
「この人たち、答えてないのに情報増えるね」
「聞こえてる」
ネドは昨日もそれを言った。
俺たちは一度、旧塩倉跡まで上がった。
日中だけ二回まで候補。
現地二者の同意が必要。
ハナはまだ同意していない。
もう一人の権利者、セラは、倉跡の脇で塩を詰めていた。
会うのは初めてだった。
白髪を後ろで一つに束ねた、小柄な女だ。
俺たちが近づいても顔を上げない。
麻袋の口を二重に折り、紐を一周、二周。
三周目を結んでから、ようやく言った。
「どれ」
挨拶ではなかった。
「何がです?」
「置く物」
話が早い。
俺は説明した。
麦六袋が北行き候補。
炉晶二箱が南行き候補。
赤崖ではすれ違えない。
片方を一時的に待たせる必要があるかもしれない。
セラは途中で一度も頷かなかった。
最後まで聞き、倉跡の床へ入る。
俺たちも続こうとすると、手を上げた。
「待って」
一人で中へ入り、床板を踵で二度踏む。
奥で一枚だけ、鈍い音がした。
「ここ載せない」
「腐ってます?」
「知らない。嫌な音するだけ」
ティムが俺に小声で言った。
「すごい根拠」
セラが振り返る。
「踏む?」
「信じます」
早かった。
ハナが入口の柱へ肩を預けた。
「私は麦ならいい。乾いてるのを、昼だけ。網の方へはみ出さない」
セラが聞く。
「炉晶は?」
「箱が床削る」
「板敷けば」
「その板、誰の」
ハナが俺を見る。
質問がこっちへ来た。
「持ち込みます」
「終わったら持って帰る?」
「はい」
「釘は?」
「打ちません」
セラは塩袋へ戻った。
「じゃあ一回」
「二回までじゃ?」
ティムが言った。
セラの手が止まった。
「三軒目が二回まで文句言わないってだけ。私が二回いいとは言ってない」
ティムが俺を見る。
今度は何も言わなかった。
少し成長している。
セラは塩袋を一つ肩へ上げた。
俺が手を貸そうとすると、少し身体を引く。
「持てる」
「いや、重そうだったので」
「重いよ。持てるのと軽いのは別」
そのまま五歩進んで、やっぱり袋を下ろした。
ハナが笑う。
「ほら」
「うるさい」
俺とティムは、笑っていいのか判断がつかず黙った。
セラは息を整えてから、俺を指す。
「そういう顔するなら、次から最初に聞きな。『手伝う?』じゃなくて『どこまで運ぶ?』って」
「分かりました」
「今はそこまで」
結局、最後の三歩だけ俺が持った。
物流の話をしていたはずなのに、塩袋一つで会話の距離が少し変わる。
倉跡は使える。
ただし、一回。
昼だけ。
人付き。
床の悪い場所を避ける。
板を敷く。
固定物なし。
条件が増えた。
でも、ゼロではない。
俺は東浜の紙を見た。
雨が来る前なら、炉晶箱は赤崖を下ろしたい。
大麦は今日午後までに買わなければ別へ売られる。
どちらも待ってくれない。
「先にどっちを崖へ入れます?」
ティムが聞いた。
俺は今度も、すぐには答えなかった。
ハナが網針を口にくわえたまま言う。
「考えるのはいいけど、空は考えてくれないよ」
海側の風が少し冷たくなった。
売れた一箱より。
次の二箱より。
その前に、雨が来ようとしていた。
第176話 麦六袋と炉晶二箱は、赤崖ですれ違えない
【本文】
朝、赤崖の北側には炉晶箱が二つあった。
昼前、鴎泊には麦袋が六つ来た。
予定では、こんなにきれいに重ならないはずだった。
「追い風だった」
麦津から来た船頭は悪びれなかった。
「昨日は向かい風だったじゃん」
ティムが言う。
「昨日に言え」
「風に?」
「俺じゃない」
麦六袋は、売却期限ぎりぎりで押さえた。
乾燥状態は問題なし。
袋も新しい。
買値も前の十二袋と同水準。
そこまでは良かった。
早く着いたせいで、北から下りてくる炉晶二箱と本当に同じ時間帯になった。
俺は鴎泊の浜から赤崖側を見上げる。
見えない。
当然だ。
山がある。
「向こう、もう入ってるかな」
「入ってたらどうするの」
ハナが聞く。
「待ちます」
「どこで」
答える場所は、一つしかなかった。
旧塩倉跡。
セラがもう来ていた。
昨日と同じ場所で塩袋を縛っている。
俺が六袋を指すと、先に言われた。
「数えた。六」
「まだ何も言ってません」
「顔が言ってる」
ハナが後ろから笑った。
ティムが小声で俺へ言う。
「レン、最近顔で仕事してるらしいよ」
「してない」
「今の顔も言ってる」
無視した。
倉跡の床へ板を三枚敷く。
昨日セラが嫌な音を聞いた場所は避ける。
袋を直接壁へ付けない。
海側から湿気が回るので、指二本分ほど空ける。
ハナが袋と壁の隙間を覗いた。
「指二本って誰の指」
「俺の」
「ヨルの方が太い」
ヨルは外で縄を束ねていた。
呼ばれて顔だけ出す。
「何」
「指」
「嫌だ」
戻った。
説明しない自由がある。
六袋を入れ終えたところで、赤崖側から鈴が鳴った。
一回。
少し間があって、二回。
バースたちと決めた仮の合図だった。
一回なら人だけ。
二回なら荷あり。
「来た」
俺が立つ。
セラが腕を組んだ。
「麦置いたまま行く?」
「ティム、残れる?」
ティムが答える前に、ハナが言った。
「その子一人なら駄目」
「なんで?」
「暇になる」
「そこ?」
「暇な人間は余計なことする」
ティムは否定しなかった。
ヨルが縄を持ったまま倉跡へ入る。
「俺いる」
「ヨルも余計なことするよ」
「するけど、ここでやらない」
母親への返事としてどうなのか分からない。
結局、ティムとヨルが麦側へ残った。
俺はバースと合流するため赤崖へ向かう。
途中で、雨粒が一つだけ腕へ落ちた。
見上げる。
二つ目は来ない。
嫌な予告だった。
赤崖の入口には、炉晶箱を載せた荷駄が二頭。
バース。
ネド。
その後ろに、炭俵を背負った男が一人いた。
「なんで炭まで」
俺が聞くと、男が先に言った。
「俺も聞きたい」
バースが顎で後ろを示す。
「窯の戻り。途中まで一緒」
ネドは二頭目の腹帯を締め直している。
「麦、来た?」
「六袋。鴎泊で待たせてます」
「じゃあ箱先」
ネドは即答した。
俺は一瞬、引っかかった。
「理由は?」
ネドが手を止める。
「雨」
「麦も雨は困ります」
「袋は待たせる屋根ある。箱は今ここにある。下りで石濡れたら俺は行かん」
バースが赤崖の岩肌へ靴底を擦った。
「雨が入った後は、乾くまで南下なし」
炉晶の買い手は、雨なら欲しい。
でも、雨が降ると赤崖を下ろせない。
東浜の需要と山の安全が、逆向きに動いていた。
「麦の売却期限はもう終わってます。買ってあるから、待たせても売り手には戻らない」
俺が言うと、バースが頷いた。
「なら傷む方だけ見ろ」
麦は乾いた倉跡に人付きで置けている。
炉晶箱は雨の赤崖を下ろせない。
俺は麦の荷札を思い出した。
もう買ってある。
乾いた屋根の下で、人も付いている。
炉晶は今ここにいて、雨が入ればバースもネドも下ろさない。
「箱、先に下ろします」
決めると、炭俵の男が肩を回した。
「じゃあ俺は?」
「何時までにどこへ?」
「家」
それは物流条件ではない。
でも本人には一番大事だ。
バースが笑った。
「炭は腐らん。待て」
「嫁は腐る」
「知らん」
俺は笑いそうになったが、男の顔が真剣だったのでやめた。
炉晶箱二つを一頭ずつ。
前回より、縄を一本多く回してある。
ネドが下り口で一頭目の鼻先を撫でた。
「ゆっくり」
俺に言ったのか、荷駄に言ったのか分からない。
たぶん荷駄だ。
最初の細い場所。
二本目の杭。
箱が岩へ寄る。
俺が手を伸ばす。
バースが「まだ」と言う。
触らない。
次の一歩で箱が離れる。
「今」
今度は押す。
同じ道なのに、指示の一文字でやることが変わる。
【Lv 3】
表示は変わらない。
腕は、前より震えなくなっていた。
二頭目が真ん中まで来た時、上から水滴が落ちた。
雨じゃない。
岩の割れ目に溜まっていた水だ。
それでも全員、一瞬だけ止まった。
炭俵の男が後ろで言う。
「今の、雨に数える?」
バースが振り返らない。
「喋ると数えるぞ」
意味は分からないが、男は黙った。
二箱とも赤崖を抜けた。
外装異常なし。
縄擦れ一か所。
箱そのものは無傷。
鴎泊へ着くと、ティムが倉跡から飛び出してきた。
「遅い!」
「早いです」
「麦から見たら遅い」
「箱から見たら?」
ティムは二箱を見る。
「……間に合った?」
海を見る。
小舟が一艘、沖で待っていた。
潮はまだある。
今なら東浜方向へ出せる。
麦六袋は倉跡の中。
炉晶二箱はその前を通り過ぎる。
セラが箱を見て、床を指した。
「入れないよ」
「入れません。船へ直行です」
「ならいい」
ハナが笑う。
「使わせてもらってる側が、一番ほっとした顔してる」
していたと思う。
箱を小舟へ載せる。
札を確認。
指定先、東浜塩場。
途中売却不可。
破損時停止。
船頭が二枚の札を見て言った。
「同じ箱二つなら札一枚でよくない?」
「片方だけ濡れたら?」
「嫌なこと言うな」
「だから二枚です」
船頭は何か言いかけて、やめた。
小舟が離れる。
俺はそこで初めて息を吐いた。
ティムが隣へ来る。
「じゃあ次、麦?」
「麦」
「雨は?」
空を見る。
さっきより暗い。
俺は答えなかった。
山も答えなかった。
第177話 待たせる場所があるだけで、道は少し強くなる
【本文】
麦六袋を倉跡から出した時、最初の雨が降った。
三粒くらいだった。
ティムが手の甲を見た。
「これ、雨?」
ハナが空を見ないで言う。
「濡れたなら雨」
「じゃあ雨」
セラはもっと厳しかった。
「袋を出したなら戻さない」
「え」
「濡れた靴で床入るから」
俺は倉跡を見る。
床を見る。
自分の靴を見る。
さっきまで乾いていた土が、点々と黒くなり始めている。
「まだ濡れてないです」
「今から濡れる」
未来を見たみたいに言われた。
でも、たぶん正しい。
六袋は外へ出た。
ここから赤崖を上げる。
荷駄三頭。
一頭二袋。
北側ではネドが待つ予定だった。
予定。
その言葉を、最近あまり信用していない。
バースが岩を触った。
指先を鼻へ持っていく。
「まだ行ける」
「匂いで?」
ティムが聞く。
「触った」
「鼻にも持ってったよ」
「癖」
ティムが俺を見る。
「こういう癖、あとで絶対意味あるやつじゃん」
「何の意味です?」
「分かんない」
本当に分からないらしい。
一頭目。
麦二袋。
赤崖へ入る。
さっきまで炉晶箱が下った道を、今度は袋が上がる。
下りの箱は角を気にした。
上りの袋は外側へ膨らむ。
岩へ擦らないよう、縄を少し内へ寄せる。
一頭目は抜けた。
二頭目も入る。
雨粒が増えた。
まだ地面を流れるほどではない。
でも赤い岩の色が、ところどころ濃くなる。
バースが上を見る。
「次まで」
「三頭目も?」
「二頭目まで」
「六袋全部行かない?」
「今は四袋」
言い切った。
俺は三頭目を見る。
荷駄は何も知らず、草を噛んでいる。
ティムがその横で立っていた。
「この子、行く気ある?」
「お前よりある」
バースが返す。
「俺、さっきから働いてるけど」
「喋ってる」
「それも仕事に入れて」
入らない。
二頭目が抜ける。
四袋、北側へ。
ネドが受け取る。
そこから先は北方方面へ持っていける。
残り二袋。
雨は、もう三粒ではなかった。
「止める」
バースが言った。
俺は赤崖を見る。
まだ歩けそうに見える。
だから余計に迷う。
「今なら」
「今なら、で滑った奴を二人知ってる」
その一言で、口が閉じた。
ティムも何も言わなかった。
雨音が少しだけ大きくなる。
止める。
正しい。
問題は、残した二袋だった。
旧塩倉跡には戻せない。
日中一時利用でも、濡れた靴と濡れた袋を入れる条件にはしていない。
ハナの網場は今日も半分埋まっている。
浜へ戻すなら、小舟は炉晶二箱を積んで東浜へ出たばかり。
「麦津へ戻す船、次いつ?」
俺が聞く。
ヨルが海を見る。
「夕方前。たぶん」
「たぶん?」
「漁次第」
ハナが俺の顔を見た。
「また顔で仕事してる」
「してません」
「二袋どうしようって顔」
していた。
セラが倉跡の軒下からこちらを見ている。
俺は頼みかけて、やめた。
倉跡へ入れない条件は、さっき聞いた。
聞いた条件を、困った時だけ曲げるなら、条件を決めた意味がない。
セラの方から言った。
「うちの塩小屋なら、一晩一袋銅二枚」
俺は振り返った。
「使えるんですか」
「私の小屋だから」
「二袋で四枚?」
「数はできるね」
ティムが小さく吹き出した。
セラは続ける。
「ただし、これは倉跡の条件じゃない。私の商売。明日の朝まで。破れたら中身は知らない。鼠に食われたら私の責任。その代わり、袋に最初から穴があったらそっちの責任」
俺は少し考える。
安くはない。
でも麦津へ戻す船を待ち、再び運ぶよりは安い可能性が高い。
何より雨の中、赤崖へ押し込むより安全だ。
「お願いします」
「誰の金」
止まった。
俺の金で勝手に払えば、北方向け輸送の正式費用にならない。
「北方倉へ確認します」
「じゃあ確認できるまで入れない」
当然だった。
ティムがぼそっと言う。
「世の中、決めた後に金の人出てくるよね」
「最初からいた」
セラが返した。
走り便を出す。
返事を待つ。
雨の中、二袋へ油布を掛け、人が付き続ける。
十分。
二十分。
ティムがしゃがみ込んだ。
「俺、この二袋と仲良くなってきた」
「名前つけるなよ」
ハナが言う。
「じゃあ右と左」
「もうついてるじゃない」
「右、左って名前だったの?」
誰も答えなかった。
返事は、思ったより早かった。
《二袋保管費 北方倉負担可》
《翌朝、赤崖安全確認後に再開》
マルクの字だった。
その下に別の字。
《銅四枚で済むなら安い。袋を濡らすな》
ゼンだと思う。
言い方で分かるようになってきた。
セラの塩小屋へ二袋を運ぶ。
旧塩倉跡ではない。
正式な待機場所でもない。
個人の小屋を、一晩だけ金を払って借りただけだ。
これを「鴎泊には泊められる場所がある」と数えるのは違う。
セラの小屋は、セラの商売だ。
その夜、雨は一刻ほどで弱くなった。
翌朝。
赤崖はまだ湿っていた。
バースは一度見て、首を振った。
さらに半刻待つ。
ティムが岩の前で腕を組む。
「昨日の俺なら、もう行けるって言ってた」
「今日のティムは?」
「バースさんがいいって言うまで黙る」
バースが振り返る。
「成長したな」
ティムが少し嬉しそうにした。
「でも黙ってない」
「戻ったな」
半刻後。
日が当たった場所から色が戻る。
バースが靴底で岩を擦る。
今度は頷いた。
残り二袋を上げる。
昨日の四袋より慎重に。
一頭だけ。
二袋。
赤崖を抜ける。
ネドが北側で待っていた。
「六?」
「昨日四、今日二」
「六だな」
「最初から六で届いたわけじゃないです」
ネドは荷札へ二日分の印を付けた。
「札見れば分かる」
その言い方が少しだけマルクに似ていて、嫌だった。
昼過ぎ、北方から到着確認が来た。
六袋すべて受入。
外装二袋に雨跡あり。
中身乾燥。
使用可。
同じ頃、海側からも紙が来た。
東浜塩場。
炉晶二箱、到着。
一箱目と同規格。
二箱とも試し買い成立。
ティムが二枚の紙を持って、しばらく黙った。
珍しい。
「何?」
俺が聞くと、紙を交互に見た。
「両方着いたのに、一日で両方は着いてないんだなって」
「そうですね」
「成功?」
俺は答える前に、セラの塩小屋を見た。
銅四枚。
一晩だけ。
個人の善意じゃない。
ちゃんと金を払った商売。
でも、毎回使える保証もない。
旧塩倉跡の日中利用も一回使った。
残りの候補は、あと一回。
赤崖は雨で止まった。
炉晶を先に通したから、麦は分割された。
「成功した便、かな」
俺が言う。
ティムが笑った。
「歯切れ悪」
「成功した道、ではない」
今度は笑わなかった。
少し考えてから、紙を俺へ返す。
「じゃあ次、道にする?」
俺は赤崖を見た。
待たせる場所が一つあるだけで、道は少し強くなる。
でも、その場所が人の生活を借りたままなら、まだ俺たちの道じゃない。
そして、荷物を待たせられるようになると。
次は、待たせている荷物を誰が見て、誰が責任を持つのかが問題になる。
近道の渋滞は、少しだけ解けた。
代わりに。
今度は「待つ仕事」が生まれていた。
第178話 見張り役が昼飯に行くと、荷物は無人になる
【本文】
「今日の荷、四袋だけ?」
ティムが舟の舳先から身を乗り出した。
麦津から来た小舟には、乾き大麦が四袋。前回の六袋より少ない。売り手が渋ったわけではなく、朝の時点で袋詰めまで終わっていた分だけを出したらしい。
船頭は縄を解きながら鼻を鳴らした。
「四袋“だけ”って言うなら、次から八袋ひとりで持て。俺は見てるから」
「そこまでだけって意味じゃなくて。いや、もういいや」
ティムは言い直す途中で諦めた。
こういう時、前なら最後まで説明していた気がする。
少しだけ賢くなったのか、面倒になっただけなのかは分からない。
俺は荷札を確認した。
北方倉向け。
四袋とも事前購入済み。
麦津出発時の外装確認あり。
鴎泊での受け取りは、移送の引継ぎだけ。価格変更権限なし。
そこまで読んだところで、ハナが網籠を抱えて横を通った。
「また待つの?」
「荷駄が半刻くらい遅れてるそうです」
「半刻ねえ」
言い方に引っかかった。
「何かあります?」
ハナは答えず、網籠の底を叩いた。小さな貝殻が三つ落ちた。
そのうち一つをヨルが拾う。
「これ食える?」
「食うな」
「聞いただけ」
「口開けてたじゃない」
親子の会話はそこで終わった。
俺の質問は戻ってこなかった。
旧塩倉跡の日中利用候補は、残り一回。
四袋を半刻待たせるために使うか。
俺は倉跡を見上げた。
セラは今日は来ていない。ハナも、使うなとは言わない代わりに、使っていいとも言っていない。
「仮荷台でいいんじゃない?」
ティムが言った。
「雨は?」
「降る?」
「俺に聞かないでください」
「じゃあ空に聞く」
ティムが本当に上を向いた。
三秒。
「返事なし」
ハナが遠くから言った。
「昼までは持つよ。たぶん」
「たぶんが増えた」
「海で絶対って言う人から先に沈むから」
それは冗談なのか経験談なのか、誰も聞かなかった。
倉跡は使わないことにした。
前に組んだ撤去式の高床を、もう一度浜の端へ作る。
丸太二本。
板三枚。
石で足を止める。
地面から拳一つ分ほど上げ、四袋を二段にしないで横へ並べた。
油布はすぐ掛けられる位置へ。
ここまでは慣れてきた。
慣れてきたから、別の穴が見える。
「で、誰が見るの?」
ハナが聞いた。
俺はティムを見る。
ティムが俺を見る。
「え、俺?」
「俺は赤崖まで荷駄の様子を見に行きます。バースさんが腹帯一本替えるって」
「いや、できるけど。できるけどさ……昼は?」
「食べてきてない?」
「朝と昼は別の生き物だよ」
ハナが笑った。
「腹の話だけ急に立派だね」
ティムは反論しようとして、浜の奥を見た。
「……あれ、誰?」
老人が一人、籠をひっくり返していた。
乾かした海藻が風に飛ばされ、砂の上を走っている。
ティムの身体が先に動いた。
「あ、ちょっと待って。あれ拾って――」
三歩行って、振り返る。
四袋。
俺。
ハナ。
「あ、見張り」
「行っていいですよ」
俺が言うと、ハナが眉を上げた。
「レンが見るの?」
「戻るまで」
「赤崖は?」
「少し遅らせます」
「それ、毎回やる?」
言われて止まった。
ティムはもう海藻を追いかけている。
老人は「そっちじゃない」と叫んでいるが、どれがそっちなのか分からない。
俺は荷の横へ残った。
五分もしないうちにティムは戻った。
手には海藻が二枚。
「これ違う家のだった」
「なんで持ってきたんです?」
「拾ったら、おじいちゃんに『それうちのじゃない』って言われて。捨てるのも悪いかなって」
「戻してきな」
ハナが言った。
「また見張りいなくなるじゃん」
今度は学習していた。
俺は笑いかけて、荷袋の端を見る。
縄が一本、緩んでいる。
「……誰か触った?」
ティムの顔から笑いが消えた。
四袋を確認する。
袋は破れていない。
中身も漏れていない。
ただ、一番端の袋の口縄だけが少し引かれていた。
足元に、小さな歯形のついた藁くず。
ハナが見て、浜の反対側を指した。
山羊が一頭、何も知らない顔で柱を舐めている。
「犯人あれ」
ティムが息を吐いた。
「人じゃなくて良かった……いや、良くないけど」
「見張りって、盗人だけ見る仕事じゃないからね」
ハナは袋の縄を結び直しながら言った。
「雨も、犬も、山羊も、子どもも見る。あと暇な大人」
「最後の誰?」
「そのうち分かるよ」
怖い言い方だった。
俺は赤崖へ行くのをいったんやめた。
荷駄の確認はバースに任せればいい。
でも、それでは俺がここにいる限り話が進まない。
「交代するとき、分かるものが要りますね」
俺が言うと、ハナは袋を結ぶ手を止めなかった。
「名前書く?」
「字、読めない人もいる」
ティムが言う。
「じゃあ棒」
「何の棒です?」
「持ってる人が見張り。簡単じゃん」
ハナがようやく手を止めた。
「なくすよ、その子」
「俺限定で信用低くない?」
「限定じゃない」
余計に悪かった。
ヨルが浜の端に積んであった端材を一本拾った。
手のひらより少し長い。
ナイフで片側に二本、反対側に一本傷を入れる。
「これなら?」
「何の印?」
俺が聞く。
ヨルは木片をティムへ渡した。
「持ってる人がいる」
「説明、減っただけじゃない?」
「分かるならいい」
ティムが木片を眺める。
ハナはため息をついた。
「それを渡す時に、荷の数と濡れと破れを口で言いな。棒だけ渡して逃げたら、私は知らないから」
それで十分だった。
完璧な制度じゃない。
名前もない。
ただ、誰かが離れるなら、次の誰かへ木片を手渡す。
その時に四袋あること、破れなし、端の一袋は縄を締め直したことを言う。
受け取る人がいなければ、離れない。
まずは、それだけ。
昼前。
荷駄二頭が来た。
半刻遅れではなく、一刻近く遅れていた。
ネドが先頭で降りてくる。
「腹帯じゃなかった」
「何だったんです?」
「蹄」
「大丈夫?」
ティムが聞くと、ネドは荷駄の脚を見た。
「本人に聞け」
ティムが本当に荷駄へ向き直ったので、俺は止めなかった。
返事はなかった。
四袋を荷駄へ移す。
その直前、ティムが木片を俺へ差し出した。
「四。破れなし。一個、山羊。中身は無事」
「山羊は状態じゃないです」
「でも言った方がよくない?」
少し考える。
「……言った方がいいかも」
ハナが笑った。
物流に必要な言葉と、いらない言葉の境目は、まだ決まっていなかった。
でも少なくとも。
見張り役が昼飯へ行けば、荷物は勝手に見張られてくれない。
その当たり前だけは、四袋と山羊一頭のおかげで、かなりよく分かった。
第179話 受取印を押せても、値段を決めていいわけじゃない
【本文】
次の日、鴎泊へ来たのは荷物より先に言い争いだった。
「だから、ここで一枚押してくれりゃ帰れるんだって」
「押せる。そこは押せる」
「じゃあ押してくれ」
「値引きは知らん」
「そこも一緒に書いてあるだろ!」
浜へ下りる前から、ネドの声と知らない男の声が重なっていた。
ティムが俺の横で足を速める。
「喧嘩?」
「たぶん仕事です」
「最近、仕事と喧嘩の距離近くない?」
否定できなかった。
小舟の横に、昨日と同じ麦津の大麦が四袋。
ただし一袋だけ、袋口の近くに濃い染みがある。
船頭とは別に、麦津側の荷扱いをしている男が腕を組んでいた。
ネドは荷札を持っている。
ハナは少し離れたところで魚箱を洗っていた。
まったく関係ない顔をしているが、耳はこっちを向いている。
「何がありました?」
俺が入ると、男が先に袋を指した。
「途中で水かぶった。中はたぶん平気だ。だから一枚引くって書いた。こっちも早く戻りたい」
ネドが荷札を俺へ渡す。
確かにある。
《四袋中一袋 外装濡れ》
《内容確認未》
《売主側提案 当該一袋 一銅貨減》
その下に空欄。
《受取》
《価格変更了承》
同じ紙の、すぐ隣だった。
ティムが覗き込んだ。
「近いね」
「何が」
男が聞く。
「押す場所。間違えそう」
「間違えんな」
「そういう話してるんだけど」
珍しくティムがまともだった。
ネドが俺を見る。
「俺は着いたって印なら押せる。北へ運ぶ荷を引き取った、まで」
「値段は?」
「知らん。俺が一銅貨安くしていいなら、次から全部安くしてやる」
男が舌打ちした。
「買う側が言うなよ」
「だから俺は買う側じゃねえ」
二人とも同じことを言っているのに、会話が噛み合っていなかった。
俺は濡れた袋へしゃがむ。
外側を触る。
冷たい。
染みは袋口から手のひら一つ分くらい。
「開ける?」
ティムが隣へ来る。
「勝手に開けたら封が変わります」
「ああ。じゃあ開けない」
男が苛立った声を出した。
「中見なきゃ決まらんだろ」
「誰が開けて、誰が閉じたか残せるなら見ます」
「俺が開ける」
「売主側ですね」
「そうだよ」
ネドが鼻を鳴らした。
「閉じるのもお前な」
「細けえな」
「後で俺のせいにされんの嫌なんだよ」
そこだけ急に本音だった。
ハナが魚箱をひっくり返した。
水が砂へ広がる。
「嫌なのは大事だよ。だいたい揉める前に出てくるから」
男がそちらを見る。
「誰だあんた」
「ここで魚洗ってる人」
「……そうか」
情報は増えなかった。
袋口を、売主側の男が自分で解く。
俺とネドが見る。
ティムも見る。
ハナは見ない。魚を洗っている。
上の麦を少し掬う。
表面は乾いていた。
その下も乾いている。
匂いも変じゃない。
男が一粒噛んだ。
「平気だろ」
ティムが言う。
「食べて分かるの?」
「俺は分からん」
「じゃあなんで食べたの」
「癖」
バースと同じ答えなのに、説得力が半分くらいだった。
ネドが俺へ顎を向ける。
「受け取る?」
俺はそこで、答えかけて止まった。
北方倉が買った四袋だ。
俺には荷を運ぶ手配をする余地はある。
でも、売買価格を変える権限はない。
「物としては、四袋着いた。外装一袋濡れ。中は今見た範囲で乾いてる。そこまでは書けます」
男が眉を寄せた。
「一銅貨は?」
「北方倉へ聞かないと決められません」
「返事待つのかよ」
「待てない?」
ティムが聞いた。
男は何か言いかけ、舟を見た。
「潮が引く」
それが答えだった。
昨日の木片が、ヨルの手から俺へ回ってきた。
今日は三本傷の方を上にしてある。
意味はまだ誰も正式には決めていない。
「使う?」
ヨルが聞く。
「何に?」
「待つ荷」
ティムが首を傾げた。
「昨日は見張る人の棒じゃなかった?」
ヨルも首を傾げた。
「そうだっけ」
危うい。
俺は木片を受け取らなかった。
「意味を増やすのはやめよう。昨日と同じ。持ってる人が見張り」
「じゃあ誰」
「俺が――」
言いかけると、ハナが魚箱を洗う手を止めた。
こっちを見ないまま言う。
「また?」
一言だけだった。
効いた。
俺が見張れば早い。
でも、それを続けたら何も変わらない。
ネドが荷駄を一頭、木陰へ寄せる。
「俺、返事来るまでいる。どうせ蹄見たい」
「見張りもできます?」
「四袋と荷駄、どっちも視界に入る場所なら」
「途中で動く時は?」
ネドが俺から木片を取った。
「誰かにこれ渡すんだろ」
昨日の話を聞いていたらしい。
ティムが少し驚いた顔をした。
「知ってたの?」
「お前が『山羊』って三回言ってた」
「そんな言った?」
「四回かも」
そこはどうでもよかった。
ネドが四袋を引き受ける。
受取欄だけに印を押す。
《四袋到着》
《一袋外装濡れ》
《売主開封・内容表面乾燥確認・再封》
価格変更了承欄は空けたまま。
男は不満そうだった。
「紙一枚なのに、半分だけ押すの気持ち悪いな」
「じゃあ欄を離せば?」
ティムが言った。
男が彼を見る。
「お前、誰だ」
「今日はけっこう正しいこと言ってる人」
「昨日は?」
「山羊」
男はそれ以上聞かなかった。
走り便を出す。
返事が来るまで、俺は赤崖側へ回った。
わざと、ではない。
北から下りる空箱二つの引継ぎがあった。
でも、鴎泊に戻るまでの一刻弱、麦四袋は俺の視界から完全に消えた。
戻った時、ネドは荷駄の蹄を削っていた。
木片は腰紐に挟んである。
四袋は同じ場所。
一袋の再封も変わっていない。
「返事?」
俺が聞く。
ネドは蹄から目を上げない。
「あそこ」
ティムが紙を持っていた。
「俺、まだ読んでないよ。勝手に読むとまた権限増えそうだから」
「読むだけなら増えません」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
紙を受け取る。
マルクの字。
《一銅貨減 了承》
《外装濡れ一袋は北方倉で再検品》
その下に、ゼンらしい字で。
《濡れた袋を安く買った自慢はするな》
何の心配をしているのか分からない。
男へ返事を渡すと、ようやく肩の力が抜けた。
「最初から誰か決めとけよ」
「決めてなかったから今日止まったんです」
「次は?」
聞かれて、すぐには答えなかった。
ネドが先に言う。
「俺は値段決めんぞ」
男が手を振った。
「分かったよ。二回言うな」
「三回言っとくか?」
「帰る」
舟へ向かう背中に、ティムが小声で言った。
「仲良くなってない?」
ネドは返事をしなかった。
受取印を押せる。
荷を見張れる。
赤崖へ運べる。
それでも、値段を決めていいわけじゃない。
同じ人が全部できないことは、不便だった。
でも、全部できる人が一人しかいないよりは、たぶん強い。
まだ“たぶん”だった。
第180話 俺がいない一刻で、荷物が一度も俺を呼ばなかった
【本文】
三日目。
俺は鴎泊にいなかった。
正確には、朝の一刻だけいなかった。
赤崖の北側で、荷駄の腹帯を替えていた。
「レン、そこ引くな。緩めろ」
バースに言われ、手を止める。
「緩めたら落ちません?」
「締めすぎると擦れる」
「前はもっと締めてませんでした?」
「前の荷と違う」
答えが短い。
でも今は、短い理由が少し分かるようになった。
荷は標準炉晶一箱。
北から鴎泊へ下ろし、東浜へ送る予定。
同じ頃、海側からは大麦二袋が来る。
小さな便を、わざと同じ朝に重ねたわけではない。
結果的にそうなった。
俺は昨日なら、鴎泊へ先に降りていたと思う。
今日は降りなかった。
「気になる?」
バースが聞く。
「かなり」
「じゃあ行け」
「行ったら、ずっと同じなので」
「知らん。腹帯持て」
励ましてくれたわけではなかった。
それで助かった。
鴎泊では、昨日の木片をティムが持っている。
朝の時点では。
大麦二袋が先に着けばティムが受ける。
外装と数を見る。
売買条件が変わっていなければ、到着だけ記録。
何か変わっていれば、勝手に決めず止める。
ティムが離れるなら、木片を次の人へ手渡す。
言葉にすると簡単だ。
実際にティムへ任せると、不安が増える。
「お前、顔うるさいぞ」
バースが言った。
「顔で仕事してません」
「誰が仕事って言った」
ハナと同じことを別方向から言われた。
腹帯を替え終える。
一頭目を下ろす。
赤崖は乾いている。
前回雨で止めた場所も、今日は靴底が滑らない。
俺は箱の後ろへ付く。
【Lv 3】
表示は変わらない。
腕の力も、急には増えない。
ただ、箱がどちらへ振れるかを少し早く読めるようになっていた。
前へ出すぎない。
触る前に一歩待つ。
「今」
バースの声で押す。
箱が岩から離れる。
赤崖を抜けたところで、ティムが上から走ってきた。
「レン!」
心臓が一回だけ強く鳴った。
「何があった?」
「何も」
「じゃあ走ってくるなよ!」
思わず声が出た。
ティムが膝へ手をついて息を整える。
「いや、何もなかったから言いに来た。あ、でも一個あった。いや荷物には何もない」
「順番」
バースが低く言った。
ティムは手を上げた。
「はい。大麦二袋、予定より二十分早く着いた。俺が受けた。破れなし、濡れなし。船頭が急いでたけど条件変更なし。木片は途中でハナさんに渡した。俺、腹減ったから」
「昼飯?」
「朝飯の続き」
意味が分からない。
「で、戻ったらハナさんいなくて、木片はヨルが持ってた」
「ハナさんは?」
「お母さん呼びに行った。親戚来たって」
バースが箱の縄を確認しながら言う。
「荷は」
「ある。二袋。ヨルが見てる。あと別の子が魚持ってきた」
「それは?」
「知らない子」
「魚は荷じゃないです」
「分かってる。でも俺が戻った時いたから」
情報が混ざっている。
でも、必要なものは取れた。
二袋は着いた。
状態問題なし。
見張りはティムからハナへ、ハナからヨルへ渡った。
俺は一度も呼ばれていない。
「木片は?」
俺が聞くと、ティムは腰を探った。
「あれ?」
一瞬、全身が止まる。
「ヨルが持ってるって言っただろ」
バースが言う。
「あ、そうだった」
「お前は何を探した」
「安心」
バースは黙った。
俺も黙った。
ティムが自分で笑った。
「今のちょっと良くなかった?」
誰も拾わなかった。
鴎泊へ戻る。
大麦二袋は仮荷台の上。
ヨルが木片を持って、座って網針を研いでいた。
「二」
俺たちが来る前に言う。
「濡れなし。破れなし。ハナから受けた。俺は動いてない」
「魚の子は?」
ティムが聞く。
ヨルが浜を指した。
「帰った」
「何しに来たの?」
「魚」
「それは聞いた」
「じゃあ知ってる」
会話が閉じた。
その横を、ハナが早足で戻ってきた。
「ごめん、親戚じゃなかった」
ティムが目を丸くする。
「何だったの?」
「隣の家の親戚」
「なんで呼ばれたの」
「知らないよ。行ったら違った」
苛立っている。
たぶん本人が一番聞きたい。
俺は聞かないことにした。
ハナがヨルの手の木片を見る。
「ちゃんと渡った?」
「渡った」
「荷は?」
「二」
「それしか喋れないの?」
「今増えた」
ハナは何か言おうとして、やめた。
代わりに俺を見る。
「これ、毎回やるならさ」
声の調子が変わった。
怒っているわけじゃない。
でも、軽口でもない。
俺は待つ。
ハナは仮荷台を指した。
「今日みたいに一刻とか、二刻とか。誰かが見て、誰かが途中で代わって。たまにならいいよ。どうせ浜にいるし」
「はい」
「でも“どうせいる”で仕事にされたら嫌」
ティムが口を開きかけた。
閉じた。
俺も、すぐには返さなかった。
ハナは続ける。
「網やってる時に荷を見るのと、荷を見るために網を止めるのは別だから。そこ、同じにしないで」
「……そうですね」
「今の一回はいい。前のもいい。でも続けるなら、誰がやるか先に決めて。銭払うなら銭払う。別の人探すなら探す。私でもいいけど、私が毎日暇だと思うな」
最後だけ少し強かった。
その時、ヨルが母親へ木片を差し出した。
ハナは見た。
「何」
「交代」
「今?」
「俺、腹減った」
ハナが笑った。
「お前までか」
受け取った。
怒っていた空気が、少しだけほどける。
そこへ、赤崖を下りてきた炉晶一箱が着いた。
ネドが荷札を差し出す。
「東浜。一箱。条件前と同じ」
ハナは木片を持ったまま俺を見る。
「増えたよ」
「増えました」
「私、今二袋見てるんだけど」
「炉晶は船へ直行させます」
「なら見ない」
「はい」
即答すると、ハナが少しだけ口元を緩めた。
何でも預ければいいわけじゃない。
待たせなくていい荷は待たせない。
炉晶一箱は、そのまま小舟へ。
大麦二袋は荷駄が来るまであと半刻。
俺は荷札へ今日の引継ぎを書いた。
ティム。
ハナ。
ヨル。
またハナ。
四人。
俺の名前はなかった。
それを見て、少し変な感じがした。
嬉しい、とは違う。
置いていかれた感じでもない。
「何その顔」
ティムが聞く。
「何でもないです」
「顔で仕事してる?」
ハナが言う。
「今日はしてません」
「じゃあ顔で何してるの」
答えが浮かばなかった。
ネドが横から言う。
「腹減ってんだろ」
「違います」
「飯食え」
話は勝手に終わった。
夕方、北方から大麦二袋の到着確認。
東浜からも炉晶一箱の受取確認。
どちらも問題なし。
ただし、その紙より先に、俺の中で残ったのはハナの言葉だった。
“どうせいる”で仕事にされたら嫌。
道が続くなら。
待つ仕事も続く。
続く仕事なら、そのうち誰かの時間を食う。
そこを無料の親切で埋め続けることはできない。
その夜、ティムが木片を机の上で転がしながら言った。
「これ、仕事になるのかな」
「何が?」
「待つやつ」
俺は答える前に、木片を止めた。
二本の傷と、一本の傷。
意味はまだ“見張る人が持つ”だけ。
「なるかもしれない。でも、先に聞かないと」
「誰に?」
「やる人に」
ティムはしばらく木片を見た。
「レン、前より順番ちゃんとしてきたね」
「前は?」
「先に作ってから、みんなに『どう?』って顔してた」
言い返そうとして。
やめた。
少し心当たりがあった。
窓の外で、波の音がする。
鴎泊はまだ小さな入り江だ。
正式な航路でもない。
倉庫もない。
見張り役だって、木片一本で回しただけ。
それでも今日、一刻だけ。
俺がいない間に荷は着き、待ち、引き継がれた。
そして一度も、俺を呼ばなかった。




