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世界リセットなし。~死んだら別人生、それでも俺の歩いた道は残るVRMMO~  作者: ユミヒロ


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第163話 十一袋は、俺より先に北へ着いた



【本文】


十一袋の行方を、俺は知らなかった。


正確には、知らない時間があった。


潮倉を出たことは分かっている。


サラの川船へ載ったことも、荷札の写しで確認した。


その先は、東河港の受取人と北方の倉庫番に任せた。


任せた、という言い方をすると格好がいい。


実際には、俺がついていく船も荷車もなかっただけだ。


「朝から五回見てる」


宿の入口でロッタが煎り豆の袋を振った。


「何をですか」


「道」


俺が窓から港へ目をやった回数らしい。


「十一袋は道じゃないです」


「じゃあ六回目」


また見たところだった。


昼前、潮倉の受付に走り便が入った。


封を見て、俺より先に倉番の男が「ああ」と言う。


「東河港」


紙は二枚あった。


一枚目。


《麦津乾き大麦十一袋、東河港着。外装破れなし》


その下に一行。


《四番、結び紐ゆるみ。開封せず外紐のみ交換。交換記録添付》


俺はそこを二回読んだ。


「開けなかったんだ」


倉番の男が帳面をめくりながら、面倒そうに鼻を鳴らす。


「開ける権限ないんだろ。札に書いてある」


「紐は替えた」


「外装補修は可。中身確認は不可。お前らの札、字が増えたな」


「減らしてる途中です」


「増えてるぞ」


そこは否定できなかった。


二枚目は、夕方まで待つことになった。


東河港から北方へ上がった荷車の受取印だ。


待っている間、俺は七番袋の処理許可を確認した。


潮倉で止めている、外袋の濡れた一袋。


北方から返ってきた指示は、俺が考えていたより細かかった。


《立会二名で外装を外す》


《内袋乾燥・異臭なしなら詰替え継続》


《熱・酸臭・変色ありなら食用継続禁止》


《食用不可時は飼料売却可。売却額と重量を返送》


俺の名前はどこにもない。


「お前が決めないのか」


倉番の男が聞いた。


「買ったのは北の倉庫資金です。決めるのも向こうです」


「自分で走り回ってる割に、そこは細けえな」


「細かくしないと、俺が毎回走ることになるんで」


男は少し考えてから、帳面へ視線を戻した。


「それは嫌だな」


「俺もです」


昼を過ぎた頃、ロッタが煎り豆を買い足しに行った。


前の袋はまだ半分残っていた。


「それ、古い方どうするんですか」


「混ぜる」


「湿気ません?」


「豆にまで荷札つけ始めたら殴るよ」


やめておこう。


夕方までに、俺は朝届いた記録を何度も並べ直した。


十一袋には、一枚のきれいな旅程表が付いていたわけじゃない。


川船の端に短い札。


東河港の受取帳に一行。


荷車の控えに泥の付いた印。


ばらばらだ。


けれど順番に置くと、俺がいなかった二日が見えた。


《川一日目 低水位につき西岸係留》


《遅延一日 許容二日以内》


《翌朝再開》


止まっていた。


俺が知ったのは、もう動き出した後だ。


以前なら、走り便を出したかもしれない。


なぜ止まった。いつ動く。別の荷車を回せないか。


今回は誰も俺に聞かなかった。


札に「二日まで待つ」と書いてあったから、一日待った。


水位が戻ったから動いた。


それだけだった。


東河港では四番の紐が緩んだ。


中を開ける権限はない。外装補修はできる。


だから紐だけ替えた。


北へ出る荷車は、出発が半刻遅れた。


御者の片輪が鳴ったから、軸へ油を差したらしい。


そんなことまで、控えの端に書いてあった。


「これ、必要ですかね」


俺が油の記録を指すと、倉番は肩をすくめた。


「書きたかったんだろ」


「誰が」


「御者」


「何で」


「知らん」


たぶん、誰にも必要ない。


でも俺はその一行を消したくなかった。


油を差した人間がいて、半刻遅れて、それでも十一袋は進んだ。


道は条件だけで動くわけじゃない。


途中で誰かが面倒を見ている。


そこまで見えなくなるのは、少し違う気がした。


夕方。


北方から戻る荷車に、薄い木札が括られていた。


《受入 十一袋》


最初にそれだけ見えた。


俺は立ったまま読んだ。


《四番、東河港で外紐交換記録あり。封印一致》


《重量差、許容内》


《全袋、北倉へ受入》


《従来配合維持、半日強を追加可能》


最後の行だけ、マルクの字だった。


《一日とは書かん。昼飯を一回またげる分だ》


その下には、ゼンの細い字もあった。


《増配なし》


《パンの大きさ変更なし》


《配合変更開始を夕刻側へ後ろ倒し》


十一袋が着いたから、今日だけ大きいパンが出るわけじゃない。


それでいい。


一度だけ増やして、明日また減らす方が生活は荒れる。


粉屋も焼き場も、袋が着くたびに配合を変えられない。


俺が運んでいる時は「何袋届いたか」ばかり見ていた。


受け取る側は、その袋をいつ粉にして、何へ混ぜて、どの食事から変えるかまで決めている。


十一袋の旅は北へ着いて終わりじゃない。


そこから町の朝飯へ入るまで、もう一段ある。


思わず笑った。


十一袋。


最初の二十三袋より少ない。


町全部の食卓を変える量でもない。


市場価格も下げない。


それでも。


麦津で買って。


小舟で海を越えて。


潮倉で十一と一に分かれて。


川を上って。


東河港で荷車へ積み替えて。


北へ届いた。


その間、俺は一度も荷袋に触っていない。


「嬉しくない顔だね」


いつの間に戻ったのか、ロッタが隣で豆を噛んでいた。


「嬉しいですよ」


「じゃあ何」


俺は受取札を指で弾いた。


「ちょっと悔しい」


ロッタが吹き出した。


「自分で運びたかったんじゃん」


「違います」


「顔がそう」


否定しかけて、やめた。


たぶん少しは、その通りだ。


自分で見つけて、自分で運んで、自分で届かせる。


それは分かりやすく気持ちいい。


でも北に必要なのは、俺が気持ちよくなる道じゃない。


十一袋は、俺より先に北へ着いた。


その事実は。


悔しいくらい、ちゃんと嬉しかった。


第164話 炉晶一箱では、船賃全部は消えなかった


【本文】


翌朝、七番袋を開けた。


俺が開けたわけじゃない。


潮倉の倉番と、麦津側の預かり人。


二人が立ち会い、俺は少し離れて見ていた。


「近いと手ぇ出すだろ」


倉番に言われたからだ。


「出しません」


「昨日、紐触ってた」


「ほどけてないか見ただけです」


「触ってる」


三歩下がった。


外側の麻布は、下の角だけ色が濃くなっていた。


濡れた部分を切り離す。


内側の袋は乾いている。


倉番が鼻を近づけた。


「麦の匂い」


預かり人も嗅ぐ。


「麦だな」


俺にも嗅がせてくれた。


「麦ですね」


「三人目いらん」


戻された。


口を開けると、上の一握りだけ少ししっとりしていた。


熱はない。


酸っぱい匂いもない。


湿った分を分け、乾いた袋へ詰め直す。


減ったのは、両手ですくえば持てるくらいだった。


新しい札には、元の番号を消さずに書き足した。


《七番・詰替》


《外装濡れ》


《内袋確認済》


《湿り上層分のみ除去》


《食用継続可》


「名前、変えないんですね」


俺が言うと、倉番は筆を置いた。


「変えたら七番がどこ行ったか分からん」


当たり前だった。


その七番は、次の川船へ回すことになった。


今日すぐではない。


席が空いた便でいい。


一袋を急がせて別の荷を押し出す方が高くつく。


午前の仕事が終わる前、今度は炉晶一箱を東浜の塩場へ運んだ。


麦とは逆向きの荷だ。


北から来た標準炉晶。


潮倉まで本人不在で届き、売却権限がなかったから止まっていた箱。


試し買いの価格が届き、ヴァン工房からも返事が来た。


《一箱まで売却可》


《標準炉晶のみ》


《高純度品を混載しない》


《次回条件は別途》


荷車から降ろす時、箱は見た目より重かった。


「腰で持て」


塩場の女が言った。


「持ってます」


「顔で持ってる」


どういう意味だ。


女はオルサと名乗った。


腕まで白い粉が付いている。


髪にも塩が固まっていて、俺より年上に見えたが、年齢は聞かない方がよさそうだった。


炉の前へ箱を置く。


オルサはすぐ買わなかった。


一片だけ出させ、色を見る。


欠け方を見る。


別の炉晶と並べる。


「白すぎるの、入ってないね」


「標準だけです」


「前に南から来たのは混ざってた。火、上がりすぎるんだよ」


高純度炉晶。


前世で、その便利さが攻城装備にも使われた。


今、目の前の女が欲しいのは塩を煮る火だ。


「これで」


オルサは標準炉晶だけを炉へ入れた。


火が落ち着くまで待つ。


塩場は、待っている人間を暇にしてくれなかった。


「そっち持って」


オルサが顎で示したのは、塩水を移す浅い桶だった。


「試験見てなくていいんですか」


「見ても火は早くならない」


正しい。


桶の取っ手を持つ。


思ったより重い。


二歩目で、床の塩水に足が滑った。


前へ倒れそうになり、膝を落とす。


桶の縁から少しだけ塩水が跳ねた。


「危な」


横の作業員が避けた。


俺は両足を広げ直し、今度は歩幅を小さくする。


船で覚えたのと同じだった。


揺れる場所では、大きく踏まない。


床は揺れていないけど、滑る。


「冒険者?」


作業員が聞いた。


「一応」


「塩場Lvは低そうだな」


「そのレベルあるんですか」


「今作った」


どこかで聞いたような刻み方だった。


二回目はこぼさなかった。


【Lv 3】


表示は当然、変わらない。


でも新しい体は、海でも塩場でも、失敗した一歩を少しずつ覚えている。


試験炉の火は、その間も一定に燃えていた。


俺は何か聞こうとしたが、彼女が手を上げた。


「今しゃべると数え間違える」


何を数えているのか分からない。


黙って待った。


しばらくして、オルサが鍋の縁を見た。


「うん。これなら一箱買う」


あっさり決まった。


ただし、オルサは箱を閉じる前に三つ条件を書かせた。


標準炉晶だけ。


濡れ箱は受け取らない。


欠けが多い箱は、その場で重量を測り直す。


「工房の印があっても?」


「海は工房じゃない」


「途中で欠けたら」


「途中の責任を、こっちの炉で払う気はないよ」


それも正しい。


北では品質を保証できても、潮倉まで来た箱が同じ状態とは限らない。


売る札にも、受け取った時の状態を書く欄が必要になる。


また一行増えそうになって、俺は少し嫌な顔をしたらしい。


オルサが笑った。


「紙、嫌い?」


「増える紙が嫌いです」


「じゃあ箱を濡らさないことだね」


紙より難しい。


「次も?」


「次は雨なら二箱」


「晴れなら?」


「ゼロでも困らない」


もっとあっさりしていた。


塩場の需要は、北が売りたい量に合わせてくれない。


支払いは現金。


そこから潮倉の保管料、東浜までの運搬、試験手数料を引く。


残った金を見て、俺は帳面を開いた。


麦十二袋を小舟で運ぶ時の海上費。


荷役。


一晩保管。


並べてみる。


全部は消えない。


「顔、暗いね」


オルサが塩の塊を砕きながら言った。


「帰り荷にすれば船賃が全部安くなるかと思ってました」


「一箱で?」


「試す前は」


「欲張りだねえ」


笑われた。


でも、空の船よりはましだった。


何も積まずに海側へ出していた北の荷に、初めて値段がついた。


しかも、売れなければ持ち帰る条件で出したものが、実際に一箱売れた。


帰り道、荷車は空だった。


完全な往復にはなっていない。


それでも帳面の海上費の横に、初めて差し引ける数字を書けた。


「一箱じゃ、全部は消えない」


俺が独り言を言うと、御者が振り返った。


「何が」


「船賃です」


「箱一つで船買えると思ってたのか」


「そこまでは思ってません」


「顔がそうだった」


今日は顔で色々ばれている。


潮倉へ戻ると、七番袋はまだ同じ場所にあった。


急がない一袋。


売れた炉晶一箱。


北へ着いた十一袋。


どれも大成功には見えない。


でも、全部が別々に動いていた。


俺は帳面を閉じた。


次は、同じことを繰り返すのか。


それとも、もっと短い道を探すのか。


その答えは、まだ書かなかった。


第165話 荷札の「北方」を見て、知らない船頭が笑った


【本文】


答えを書かなかった翌日。


知らない男に笑われた。


潮倉の荷台で、北から届いた空箱を片づけていた時だった。


標準炉晶が入っていた箱。


オルサへ売った一箱の控え札が、側面にまだ残っている。


《出荷 北方》


《受取 潮倉》


《試売 東浜塩場》


男はその札を横から覗き込み、二度見した。


「これ、北から来たのか」


「はい」


「北って、山脈の北か」


「その北です」


男は箱を見た。


俺を見た。


もう一度、札を見た。


それから笑った。


かなり失礼な笑い方だった。


「何ですか」


「いや。遠足みたいな運び方してるなと思って」


「喧嘩なら荷役終わってからにしてください」


横で箱を運んでいたティムが言った。


「お前、誰だ」


「手伝いです」


「じゃあ黙って運べ」


ティムは素直に箱を持った。


俺は黙らなかった。


「どこが遠いんですか」


男は海側へ顎をしゃくった。


「麦をここで上げて、川で東河港まで持って、そっから荷車で北へ戻してるんだろ」


「そうです」


「海で北へ行けよ」


簡単に言う。


「港がないです」


「でかい港はな」


男は笑うのをやめた。


その一言で、俺の手が止まった。


「小さいのは?」


「鴎泊」


聞いたことがない。


ティムが箱を地面へ置きかけ、倉番に怒鳴られた。


「置くなら板の上!」


「今いい話してるんだけど!」


「箱が先!」


ティムは慌てて板へ載せた。


男はその様子を見ながら、腰の水筒を飲んだ。


「鴎泊って、どこです」


「ここから海沿いに北。灰岬を越えた先の小さい入り江だ。昔は塩を降ろしてた」


「昔?」


「今は定期で使う奴いない」


やっぱり、簡単ではない。


「なんで」


「浅い。砂が動く。桟橋が短い。倉もない。あと陸側の道が悪い」


一息で欠点が四つ出た。


「使えないじゃないですか」


「だから定期で使わん」


男は水筒の蓋を閉めた。


「でも浅い船なら入ったことはある。北へ荷を持つだけなら、東河港まで川上って戻るより近い」


近い。


それだけで聞きたくなる言葉だった。


「最後に入ったのは?」


「三年前」


「古いな」


「だから笑ったんだよ。お前の運び方も遠いが、俺の情報も古い」


自分で言うらしい。


男の名はグレン。


小型沿岸船の船頭で、今は船底の補修待ち。


俺は荷台の板へ、指で簡単な地図を描いた。


「鴎泊から北の町までは?」


「町ってどこだ」


場所を言う。


グレンの指が止まった。


「昔の塩道が残ってりゃ、二日くらい」


「残ってなかったら?」


「知らん」


「入り江には何袋入れます」


「知らん」


「船は」


「今の砂洲を測らんと知らん」


三連続だった。


「何なら知ってるんですか」


「三年前、俺が十五袋と塩樽二つで入った」


急に具体的になった。


「出る時、船底こすったけどな」


大事なところを後に言う。


俺は板の地図に丸を描いた。


潮倉。


東河港。


北方。


そして、海沿いに一つ。


鴎泊。


今の道は、潮倉から川を上り、東河港で陸へ上げ、北へ折り返す。


鴎泊が使えるなら、海をそのまま北へ伸ばせる。


使えるなら、だ。


砂洲。


浅瀬。


桟橋。


倉庫なし。


陸道不明。


三年前の情報。


赤い線を引きたくなる条件ではない。


むしろ灰色だった。


「ダグは知ってます?」


俺が聞くと、グレンは鼻で笑った。


「知ってる。嫌いだけどな」


「何が」


「鴎泊が」


「なんで」


「一回、座礁したから」


また大事なところが後だった。


ちょうどそこへ、ダグ本人が倉の奥から出てきた。


グレンを見る。


「まだその話してんのか」


「北の札つけて東へ回してる奴がいたから」


ダグの視線が俺へ移った。


「聞いたのか」


「今、座礁したところまで」


「じゃあ半分聞いた」


「残り半分は?」


ダグは答えず、俺の描いた板地図を靴先で少しずらした。


「昼飯食ったか」


「まだです」


「先に食え」


「鴎泊は」


「腹減ってる奴に海の話すると、近く聞こえる」


それだけ言って行ってしまった。


グレンが笑う。


「そういう奴だ」


俺は笑えなかった。


近く聞こえる。


たぶん、あの言葉は正しい。


北では、通常配合の残り日数が減っている。


十一袋で半日強。


七番袋はこれから。


炉晶一箱は売れたが、船賃全部は消えない。


そんな時に「近道」が出てくれば、近く見たくなる。


だから板の丸の横へ、大きく書いた。


《未確認》


さらに下へ。


《砂洲》


《接岸》


《陸道》


《受取場所》


ティムが覗き込む。


「行くの?」


「まだ決めてない」


「最近そればっかだな」


「決める材料が増えてるんです」


「腹減ってる?」


「減ってます」


「じゃあ船長の言う通りだ」


昼飯は、硬いパンと魚の煮たやつだった。


魚の骨が一本、最後まで取れなかった。


食べ終わる頃、ダグが向かいへ座った。


さっきは答えなかったくせに、今度は自分から俺の板地図を引き寄せる。


「グレン、どこまで言った」


「三年前。十五袋と塩樽二つ。船底こすった」


「そこまで言ったなら、珍しく親切だな」


「残り半分は?」


ダグは指で鴎泊の丸を叩いた。


「入り口が毎年同じじゃない」


「砂洲?」


「風と大雨で動く。三年前の深さを信じて入る奴は、三年前の海に乗ってる」


言い方は嫌だが、分かる。


「じゃあ測ればいい」


「測る」


「入れる?」


「測ってから聞け」


また戻された。


ダグはパンをちぎりながら続けた。


「最初から麦積むな。空で外まで行く。竿入れる。底見る。流れ見る。岸に人が降りられるか見る。戻る」


「それだけ?」


「それだけできたら次だ」


「陸の道は」


「船頭に聞くな」


「誰に」


「現地にいる奴」


「いるんですか」


「それを見に行くんだろ」


一周した。


でも、嫌いじゃない。


グレンの話だけなら「近い入り江」だった。


ダグの話を足すと、「まず空船で入口を測る場所」に変わった。


やることが一段小さくなった。


その方が動ける。


「ダグは行くんですか」


「船が空いて、潮が合って、風がよくて、金が出るなら」


「条件多いな」


「海だからな」


ティムが横から魚の骨を皿に積みながら言う。


「あと船長の機嫌」


「お前は午後、網直し」


「ほら」


余計な条件が一つ増えた。


食べ終わってから、俺はもう一度板を見た。


鴎泊。


行くなら、まず荷を持たずに見る。


船が入れるか。


人が降りられるか。


道が残っているか。


三つとも駄目なら、丸を消す。


一つでも残っていたら。


その時、次を考える。


俺はグレンが残した古い方角だけ紙へ写した。


北への報告には、まだ「新航路」とは書かなかった。


《沿岸北上候補 一地点》


《現地未確認》


そこまで書いて、筆を置く。


久しぶりに。


荷物の到着を待つんじゃなく、自分で見に行きたい場所ができていた。


第166話 鴎泊は、地図にあった場所にはなかった


【本文】


北から返事が来たのは、鴎泊の丸を描いてから二日後だった。


《調査費、一便分のみ使用可》

《積荷なし》

《入り江内への進入は船頭判断》

《接岸不能なら無理をしない》


最後の一行だけ、ゼンの字だった。


《近道を見つけに行って、船をなくすな》


「信用ないな」

俺が紙を畳むと、ダグが横から奪って読んだ。


「あるから金出したんだろ。信用なきゃ、行くなで終わる」


「船をなくすなって書かれてます」


「それは普通だ」


ティムが船尾で水樽を積みながら振り返った。


「俺には何か書いてない?」


「ない」


「ひどいな」


「お前は北から金もらってない」


「じゃあ船長から」


「網、昨日の続き」


「やっぱりひどい」


朝の潮は悪くなかった。

風も、ダグが一度空を見てから「行く」と言える程度には穏やかだった。


荷は積まない。

麦も、炉晶も、毛織物もない。

積んだのは水樽、補修道具、短い錨、測深竿が二本。それから、グレンが木板へ描いた三年前の雑な入り口だけだった。


船が軽い。

初めて乗った時より、足元が落ち着かない気がした。


「軽い方が揺れるんですか」


俺が聞くと、ダグは帆綱を見たまま答えた。


「揺れ方が変わる」


「どっちが楽です?」


「慣れてる方」


答えになっているようで、俺にはまだ役に立たない答えだった。


灰岬までは、以前の短距離便より海が荒れなかった。

それでも俺は二度、足を置く場所を間違えた。

一度目は波に合わせて踏み込んだ瞬間、船が逆に戻って膝を打った。

二度目は測深竿を運ぼうとして、先端を帆柱へぶつけた。


ティムが笑った。


「海Lv、まだ三?」


「そのレベルはない」


「塩場Lvはあったのに」


「それも作っただけです」


ダグが前を見たまま言う。


「しゃべってる暇あるなら岬見ろ。白い筋、見えるか」


笑っていたティムの顔がすぐ仕事の顔になった。


俺も前を見る。


灰色の岩壁の先、海面に薄い白い筋が伸びていた。

波が砕けている。

沖から見れば、ただの泡にも見える。


「砂洲?」


「たぶんな」


「三年前の板だと、もっと南です」


「三年前の海に乗るなって言った」


昨日と同じことを言われた。


船速を落とす。

ダグは俺に測深竿を渡さなかった。

ティムにも渡さない。

自分で長い竿を持ち、船首から海へ落とす。


底へ触れる。

上げる。

少し進む。

また落とす。


単純な動きなのに、見ているだけで船の速度が変わっていく。


「ここ、入れる?」


「聞くな」


「測ってから、ですよね」


「分かってきたじゃねえか」


褒められた気がしない。


俺はグレンの板を膝に置いた。

三年前は、岬から大きな岩を二つ見て、その間から南寄りへ入ると書いてある。


今、その場所には白波が立っていた。


「ここじゃない」


ティムが呟いた。


ダグは返事をしなかった。

船を北へ振る。


二十歩。

三十歩。

五十歩。


海の色が少し変わった。

俺には深く見えた。


「こっち、濃いです」


「藻だ」


即座に切られた。


「深さじゃない?」


「深いところにも生える。浅いところにも生える。色だけで船入れる奴は、そのうち底と友達になる」


ティムが小さく笑う。


「船長、一回友達になってるもんね」


「お前、網だけじゃ足りないらしいな」


「黙ります」


三年前の座礁は、まだ忘れていないらしい。


さらに北へ寄る。

今度はダグが竿を入れたあと、ティムへ渡した。


「次、お前」


「え、俺?」


「落とすなよ。竿の方が高い」


「俺より?」


「今朝ならな」


ティムがぶつぶつ言いながら竿を受け取る。

俺はその横で板を持った。


一度。

二度。

三度。


「船長、ここ」


ティムの声が変わった。


ダグが竿の濡れた位置を見る。

次に、海面の流れを見る。


「もう一回」


二度目も同じくらい。

少し先は、さらに深い。


白い筋が切れている場所があった。


砂洲そのものが消えたわけじゃない。

切れ目が北へ移っていた。


「入り口、動いた?」


俺が言うと、ダグはようやく頷いた。


「たぶん。だが『たぶん』で船腹は守れん」


それから半刻、俺たちは同じ場所を何度も往復した。

俺は測深竿を持たせてもらった。

最初の一回、竿を斜めに入れてしまい、ダグに「それじゃ海底じゃなく流れ測ってる」と言われた。


二回目は垂直に。

船が動く分を腕で追わず、竿が底へ触れた瞬間だけ見る。


三回目。


「あ」


手に、硬い感触が返ってきた。


砂じゃない。


「石?」


ダグが竿先の泥を指でこすった。


「昔の石積みか、自然の岩。ここでは寄せるな」


安全な線が一本見えたと思ったら、その横に危ない点が増える。


地図へ線を引く作業じゃなかった。

線を引かない場所を一つずつ増やす作業だった。


昼前。

ダグはようやく錨を落とした。

ただし、入り江の外だった。


「船は入れない?」


「今日は入れない」


「今日?」


「空船で、今の潮で、俺が見てるなら入れるかもしれん。でも帰りの潮まで保証できない」


「じゃあ」


「小舟」


船尾に括ってあった小さな舟を指した。


ティムが嫌そうな顔をした。


「誰が漕ぐの」


ダグが俺とティムを順番に見た。


「若い方二人」


「船長は?」


「船をなくさない仕事」


北からの紙と同じだった。


小舟へ移る時、俺は一度、足を滑らせかけた。

海へ落ちるほどではない。

でもティムの肩を掴んだ。


「痛い」


「悪い」


「落ちるなら海側にして」


「なんで」


「俺を巻き込まないから」


優しさではなかった。


砂洲の切れ目を、小舟なら十分通れた。

水は急に静かになった。

外の波が嘘みたいに、入り江の中は薄い皿のようだった。


岸が見える。


短い桟橋。

いや、桟橋だったもの。


海側の半分が崩れ、残った杭が斜めに立っている。

その奥に、小さな石積み。

草に埋もれた道らしいもの。


「誰もいない?」


ティムが声を落とした。


俺は返事をしなかった。


桟橋の残った柱に、縄が擦れた跡があった。

白く新しい。


さらに、その柱の下。

古い木片に、まだ乾ききっていない海藻が引っかかっている。


三年前の跡じゃない。


「使ってる」


俺が言うと、ティムも黙った。


その時。


入り江の奥から、金属を叩く音が一度した。


カン。


間を置いて、もう一度。


カン。


人がいる。


鴎泊は、地図にあった場所にはなかった。

でも。


消えてもいなかった。


第167話 壊れた桟橋には、新しい縄の跡があった


【本文】


金属音は三度目を鳴らさなかった。


俺とティムは小舟を、残った桟橋へ直接つけなかった。

杭がどこまで腐っているか分からない。

少し離れた砂浜へ船首を上げる。


「足、濡れるね」


ティムが言った。


「さっき海に落ちろって言った人が何を」


「それと靴が濡れるのは別」


妙に納得できた。


膝下まで水へ入り、小舟を砂へ押し上げる。

足元は柔らかいが、沈み込むほどではない。


俺はまず、海側を振り返った。

ダグの船は入り江の外に小さく見えている。

帆は畳まれていた。


戻る場所が見える。

それだけで少し安心する。


桟橋へ近づく。


木は黒くなっていた。

釘の頭には錆。

でも、一本だけ新しい縄が巻かれている。


新しいと言っても新品じゃない。

潮で硬くなっている。

ただ、三年前から放置された色ではなかった。


「昨日くらい?」


ティムが触ろうとした。


「分からないなら触らない方が」


「さっきから急に慎重だね」


「荷札がないから」


言ってから、自分でも少し笑った。


桟橋の奥には、壊れた小屋が二つあった。

屋根が半分落ちたもの。

壁だけ残ったもの。


そのさらに奥。

煙が上がっていた。


細い。

焚き火というより、煮炊きの煙だ。


「人いるじゃん」


ティムが言った。


「さっきから音してたでしょう」


「いや、音だけだと幽霊かもしれないし」


「幽霊が鍋叩きます?」


「海の幽霊は暇なんじゃない」


返す言葉を探している間に、草むらが揺れた。


出てきたのは幽霊じゃなかった。


女だった。


四十くらいにも、五十くらいにも見える。

袖を肘までまくり、片手に鉄の鉤、もう片手に小さな籠を持っている。


俺たちを見る。


足元の小舟を見る。


沖の船を見る。


最後に、ティムの濡れた靴を見た。


「何売り?」


最初の質問がそれだった。


「今日は売りません」


俺が答えると、女は少し眉を上げた。


「じゃあ何しに来た」


「鴎泊を見に」


「見たろ」


会話が終わりかけた。


ティムが横から口を挟む。


「桟橋、壊れてるね」


女の視線がティムへ移った。


「見れば分かる」


終わった。


俺は言い方を変えた。


「北へ行く古い塩道が残ってるって聞きました」


その言葉で、女の表情が少し変わった。


「誰に」


「グレンって船頭に」


「あの口軽いの、まだ船乗ってんのか」


知り合いらしい。


女は籠を地面へ置いた。

中には貝と、錆びた釘が混ざっている。


「ハナ」


「え?」


「名前。聞く顔したから」


「レンです。こっちはティム」


「聞いてない」


ティムが俺を見る。


「俺だけ損してない?」


「たぶん」


ハナは壊れた桟橋の板を鉤で持ち上げた。

下から短い鎖が出る。


さっきの金属音はこれだったらしい。


「ここ、今も船が入るんですか」


俺が聞く。


ハナは鎖を外しながら答えなかった。

代わりに、沖を指した。


「その船で入る気?」


「今日は小舟だけです」


「なら賢い」


「大きい船は?」


「大きいって、どれくらい」


質問が戻ってきた。


ダグの船の大きさを言う。


ハナは鼻で息を吐いた。


「潮選べば入る。出られるとは言ってない」


ダグと同じ言い方だった。


「砂洲、変わりました?」


「春の雨で北へ寄った。去年の杭、二本埋まった」


「去年?」


俺が聞き返すと、ハナはやっとこちらを見た。


「誰も使ってないって聞いた?」


「定期では、って」


「定期はない。漁の小舟と、塩運ぶ家がたまに来る。冬前は増える」


壊れた港じゃない。

港として数えられていないだけで、生活ではまだ使われている。


「縄の跡、ハナさん?」


ティムが柱を指した。


「息子」


「いるんですか」


「今日は山」


「何しに」


「炭」


そこでハナは話を切った。

鎖を持ち上げて、俺たちへ顎をしゃくる。


「話すならこれ持って」


「これ?」


「一人じゃ重い」


観光客ではなくなった。


俺とティムで鎖を持つ。

海水を吸った鉄は重かった。

三人で小屋の横まで運ぶ。


ティムが途中で手を滑らせた。


「待って待って、指!」


「離すな」


ハナが言う。


「挟む!」


「だから離すな。下ろすって言うまで」


「先に言ってよ!」


「今言った」


やっと地面へ下ろした時、ティムは両手を振った。


「鴎泊、厳しい」


「まだ鎖しか運んでないです」


「十分だよ」


ハナは笑わなかった。

でも、少しだけ話しやすくなった。


古い塩道は、桟橋の奥から始まっていた。


道と言っても、最初の百歩は草に埋もれている。

その先に、石を並べた痕跡があるらしい。


「荷車は?」


「無理」


即答だった。


「昔は通ったって」


「昔の荷車は細かった。道も広かった。赤崖が落ちてから終わり」


「赤崖?」


「ここから上がって、森を抜けた先。道の半分が海へ落ちた」


「人は通れる?」


「通れる」


「駄獣は?」


「一頭ずつなら」


「麦袋は?」


「載せ方次第」


一気に希望が戻りかけた。


ハナが続ける。


「雨の後はやめな」


戻った。


「北の町までどれくらいです」


「町のどこ」


また戻された。


場所を説明する。

ハナは地面に鉤の先で線を引いた。


入り江。

森。

赤崖。

高い道。

そして北東へ曲がる線。


「私は町まで行かない。上の分かれ道まで半日。そこから塩売りなら、一日ちょいって言ってた」


「三年前?」


「去年」


今までで一番新しい情報だった。


ティムが地面へしゃがんだ。


「じゃあ道、生きてるじゃん」


「道はね」


ハナが言った。


「ここに麦百袋置いたら、どこ置く?」


ティムが立った。


俺は周りを見る。


壊れた小屋。

砂浜。

草地。


海に近い低地。


「小屋を直せば」


「大雨の満潮で、あそこまで水来る」


ハナは小屋の壁の半分ほどの高さを指した。


「上は?」


俺が聞く。


「人の土地」


「誰の」


「それ、今から道見に行く奴が最初に聞くこと?」


たしかに順番が違った。


俺は地面の線を写した。


「赤崖まで見に行きたいです」


「勝手に行けば」


「危ないところは」


「赤崖」


「その前は」


「蜂」


ティムが顔を上げた。


「蜂?」


「今日いるかは知らん」


「そういう情報、先に――」


「聞かれなかった」


グレンと同じ種類だった。


俺は笑いそうになった。


ハナは籠を拾い、壊れた小屋へ戻りかけた。


その背中へ、俺はもう一つだけ聞いた。


「さっき、人の土地って言いましたよね。高い場所」


ハナは立ち止まった。


「うちのじゃない」


「誰のです」


「道見て戻ってきたら教える」


「なんで」


「戻ってこない奴に、土地の話しても仕方ない」


それだけ言って行ってしまった。


ティムが小声で言う。


「この辺の人、説明を小分けで売ってる?」


「無料だからじゃないですか」


「金払えば全部教えてくれるかな」


「たぶん余計に分けると思う」


俺たちは測深竿を一本だけ杖代わりに持った。


海を振り返る。


ダグの船はまだ外にいる。


次は陸だ。


壊れた桟橋には新しい縄の跡があった。


そして古い道には、去年まで人が歩いた話が残っていた。


鴎泊は死んでいない。


ただ、使えるものと使えないものが、きれいに分かれていなかった。


第168話 道は生きていた。荷物を置く場所だけがなかった


【本文】


塩道は、最初の十分だけなら道に見えなかった。


草。

石。

また草。


ハナが教えた「倒れた松を右」がなければ、俺は二度目の曲がりで外していたと思う。


「これ、荷札つけられないね」


前を歩くティムが言った。


「道に?」


「右へ行け、左へ行くなって」


「看板は欲しいかも」


「字読めない駄獣だったら?」


「人が連れてください」


「そこ自動じゃないんだ」


自動で歩くロバがいたら、それはそれで怖い。


森へ入ると、潮の匂いが薄くなった。

代わりに湿った土と落ち葉の匂いが強くなる。


道の両側に、昔積んだらしい石が残っていた。

全部ではない。

十歩続いて消え、また二十歩先に出る。


人が通らなくなった道じゃない。

人が直さなくなった道だった。


途中、ティムが急に止まった。


「蜂」


俺も止まる。


前の低い枝に、小さな蜂が何匹か集まっている。

巣は見えない。


「戻る?」


「大回り」


道を外れ、斜面側へ回る。

足元が柔らかい。


俺は一歩目で滑った。

手をつく。

泥が掌についた。


「海より陸の方が下手になってない?」


ティムが言う。


「海の足で歩いたからです」


「海の足って何」


「歩幅、小さくしてた」


「それ陸でも正解じゃない?」


言われてみればそうだった。


【Lv 3】


当然、何も変わらない。


新しい身体は、都合よく経験を共有してくれない。

海で覚えたことも、塩場で覚えたことも、似ているようで少し違う。


蜂を避け、道へ戻る。


半刻ほど進むと、地面に黒いものが落ちていた。


馬糞。


いや、ロバかもしれない。


ティムがしゃがみ込む。


「新しい?」


「触らないでください」


「見てるだけ」


「顔が触ろうとしてる」


最近、顔で何でも分かるらしい。


糞は乾ききっていない。


道は去年どころか、もっと最近使われている。


その先で、俺たちは鈴の音を聞いた。


一つ。

二つ。


木々の向こうから、小さな荷駄が二頭出てきた。

炭俵を左右へ下げている。


先頭を歩く男が、俺たちを見て足を止めた。


俺も止まる。


ティムだけ一歩進み、慌てて戻った。


「海から?」


男が聞いた。


「鴎泊からです」


「珍しいな」


男は五十前後に見えた。

片方の袖だけ肘まで上げ、首に細い鈴を一つ下げている。

荷駄の鈴と同じ音だ。


「北へ抜けられますか」


俺が聞くと、男は炭俵の紐を直した。


「抜けられるから俺がいる」


一番分かりやすい答えだった。


「荷車は?」


「赤崖見てから同じこと聞け」


またその名前。


男はバースと名乗った。

ハナの息子ではなかった。

炭を鴎泊へ下ろし、海側の漁師と塩や干し魚を交換することがあるらしい。


「北の町まで行きます?」


「町の手前まで。そこから別の荷駄屋」


「何日」


「晴れなら一日半。雨なら二日。荷が重いともっと」


「大麦十二袋なら」


バースは俺を見る。


「全部一頭に載せる気か?」


「まさか」


「顔がそうだった」


今日は顔に出していないと思ったのに。


「一頭二袋。道が乾いてりゃ三。俺なら二」


「六頭必要」


「十二袋ならな。駄賃も六頭分」


海が短くなっても、陸が無料になるわけじゃない。


「赤崖、どれくらい悪いです」


バースは答えず、俺たちの後ろを見た。


「見に行くんだろ」


「みんなそれ言うな」


ティムがぼやいた。


バースは少し笑った。


「見た方が早いからな」


すれ違う前、男は一つだけ教えてくれた。


「崖で海側歩くな。山側の杭、三本ある。二本目までは荷駄で行ける。三本目の先は一頭ずつ」


「三本目?」


「一本なくなってたら知らん」


それだけ言って行った。


鈴の音が森の中へ消える。


「情報、全部最後に一個怖いの足す決まりある?」


ティムが言った。


「この辺の文化かもしれない」


「嫌な文化だな」


赤崖は、名前の通り赤かった。


森が切れた先。

赤土の斜面が海へ落ちている。


昔の道は途中まで石で固められていた。

その半分が崩れ、残った幅は、人二人が並べるかどうか。


杭はあった。


一本。

二本。


三本目は。


「ない」


ティムが言った。


少し先の斜面下に、折れた木が転がっていた。

たぶん、それだ。


「でも通ってる」


俺は地面を見た。


蹄の跡がある。

片側へ寄せて、一頭ずつ通している。


人も通れる。

駄獣も通れる。

荷車は無理だ。


ここで十二袋なら六頭。

二十四袋なら十二頭。

四十袋なら。


数えかけてやめた。


道がつながっていることと、大量輸送できることは同じじゃない。


俺たちは荷を持っていない。

それでも赤崖を越えるのに時間がかかった。

ティムが先に行き、俺が後ろから足場を見る。


途中で小石が落ちた。

海まで音がしなかった。


「ここ、怖いね」


ティムの声が小さくなる。


「さっきまで文化とか言ってたのに」


「怖いものは怖い」


その言い方が、少し良かった。


向こう側へ出る。


そこから道は急に広くなった。

二頭が並べる。

古い車輪跡まで残っている。


「逆じゃん」


ティムが振り返った。


「何が」


「港からここまでが細くて、ここから北が広い」


確かに。


問題は長い道全部じゃなかった。

鴎泊から赤崖までの一部。


さらに四半刻ほど進むと、道が二つに分かれた。

木の柱が立っている。

字は半分消えていた。


《北――》


残った文字だけで十分だった。


俺は板へ書く。


《鴎泊→北方面 接続あり》


その下に。


《荷車不可》

《駄獣 一頭ずつ区間あり》

《雨天危険》


「新航路?」


ティムが覗く。


「まだ」


「またそれ」


「海から船が入れないかもしれない。入れても荷を置けない。置けても駄獣が足りない」


「条件、増えたね」


「減ったのもあります」


道があるか。


これは消えた。


全部が分からない状態より、一つ消えた方がいい。


帰りは少し早かった。

蜂の場所を知っていたから避けられた。

赤崖も、行きより足を置く場所が分かった。


それでも鴎泊へ戻る頃には、足が重かった。


ハナは壊れた小屋の前で網を広げていた。

俺たちを見るなり、網から目を離さず言う。


「戻ったね」


「戻りました」


「三本目、なかったろ」


ティムが止まった。


「知ってたの?」


「先月折れた」


「先に言ってよ!」


「聞かれなかった」


やっぱり文化かもしれない。


俺はハナの前へしゃがんだ。


「道は使えます。荷車は無理。駄獣なら」


「知ってる」


「じゃあ、さっきの高い場所。誰の土地です」


ハナの手が止まった。


今度は答えた。


「昔の塩倉の跡。土地は三軒で持ってる」


「三軒?」


「うち。山の炭焼き。あと、南へ出た家」


「倉を作るなら」


「三軒に聞く」


「借りるなら」


「三軒に聞く」


「一晩だけ袋を置くなら」


「雨降らなきゃ、外でも置ける」


現実的な答えだった。


「雨が降ったら?」


ハナは壊れた小屋を指した。


「だから倉がなくなってから、大きい荷は来なくなった」


そこだった。


道は残っている。

小舟も入る。

人もいる。


でも、海から荷を上げた瞬間、それを安全に置く場所がない。

満潮。

雨。

次の駄獣が来る時間。


全部が同時に合わなければ、麦袋は砂浜で待つことになる。


「昔の塩倉、どこです」


ハナが網の向こうを指した。


草の多い斜面の上。

石の四角い基礎だけが残っている。


俺は登ってみた。


海より少し高い。

桟橋が壊れても見える。

赤崖へ向かう道の入口も見える。


石の間に草が生えている。

倉庫はない。

屋根もない。


でも、場所はあった。


ティムが後ろから言う。


「これ直したら、港になる?」


俺はすぐ答えなかった。


船が入れる時間。

砂洲。

小舟への積み替え。

駄獣六頭。

赤崖。

土地三軒。

倉。


条件は多い。


「港にはならない」


「じゃあ何」


「分からない。でも、今より荷物が待てる場所にはなる」


それで十分かもしれない。


十分じゃないかもしれない。


俺は板の鴎泊の横へ、まだ赤線を引かなかった。


代わりに書いた。


《道 生存》

《港 小舟のみ候補》

《最大欠落 荷置場》

《土地権利 三者》


最後の一行だけ、少し大きくなった。


また権利だ。


麦を見つけても、船がない。

船を見つけても、帰り荷がない。

近い入り江を見つけても、倉がない。


一個ずつ、次の壁が出てくる。


でも今回は。


壁の向こう側が、少しだけ見えていた。

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