第157話 止まった荷物は、失敗じゃなかった
【本文】
朝一番で、東河港から紙が来た。
俺は受け取る前から少し嫌な予感がした。
昨日送り出したのは、ヴァン工房の標準炉晶一箱と、エマの毛織物一束。
北方から東河港までは、俺なしで着いた。
今日はその先だ。
紙を持ってきた走り便の男は、俺ではなくゼンへ渡した。
昨日と同じだ。
たぶん、あれでいい。
ゼンは一行目を読んで、眉を寄せた。
「止まった」
「何が?」
「二つとも」
俺は椅子から半分立った。
マルクが帳面から目を上げる。
「座れ。紙は逃げん」
「荷は逃げるかもしれないでしょ」
「止まったんだろ」
正しいけど腹が立つ。
ゼンが紙を回した。
《東河港。川水位低下。サラ便、追加積載一口のみ可。炉晶一箱と毛織物一束を同一便扱いと解釈したが、分割可否の記載なし。勝手に分けず保留》
俺は二回読んだ。
荷札は読めている。
行き先も、受取人も、遅れた時の扱いも分かった。
でも、二つを別々に送っていいかは書いていなかった。
「そこか……」
昨日、九項目を六項目まで削った。
削った方が読まれる。
それは正しかった。
同時に、削ったところに穴もできた。
ゼンが机を指で叩く。
「で。どうする」
「俺が東河港へ――」
「行ったら試験終わり」
先に言われた。
マルクも筆を止めずに言う。
「持ち主に聞け」
「あ」
俺の荷じゃない。
止めた人間が勝手に決める話でもない。
俺はヴァンの工房へ走った。
工房では朝から炉の音がしていた。ヴァンは俺の顔を見るなり、まだ何も言っていないのに片手を上げる。
「売れた話なら昼にしろ。今、温度見てる」
「売れてない。分けて送っていい?」
「何を」
「昨日の炉晶と毛織物。川船が一口しか追加で積めない」
ヴァンは炉から視線を外さない。
「俺の箱だけ先なら構わん」
「潮倉で二日置くことになっても?」
「壊れない。水に沈めるなよ」
それだけだった。
次はエマ。
店の戸を開けると、床いっぱいに布が広がっていた。
エマは膝で布端を押さえながら、俺に針を向ける。
「踏んだら買い取り」
「踏まない。昨日の一束、川で止まってる」
「売れなかった?」
「まだ東河港。水位が低くて一口だけ。炉晶と分けていい?」
エマはすぐには答えなかった。
布の端を折り、縫い目を見てから顔を上げる。
「毛織物だけ後便?」
「たぶん一日。長ければ二日」
「屋根のある倉?」
「東河港の指定倉」
「湿気は」
「確認する」
「確認してないのに送ったの?」
「昨日は……」
言い訳を探した。
見つからない。
エマはため息をついた。
「戻して。今の一束は海へ出さない」
「戻す?」
「私の布でしょ」
「はい」
「次に屋根と床板を確認してから、もう一回」
決まった。
炉晶は先へ。
毛織物は戻す。
俺が正解を決めたわけではない。
持ち主が、それぞれ別の正解を選んだ。
倉へ戻ると、ゼンが新しい紙を一枚出した。
「六項目を七に戻すか?」
「戻したくない」
「じゃあどうする」
俺は昨日の売り札を見た。
最低価格や売れ残り期限は、共通札の横に細い札で足している。
「分けていい荷だけ、横に印を足す」
「印?」
「一緒に送る必要があるかどうか。分割可、不可。それだけ」
マルクが顔をしかめた。
「また字を増やすのか」
「字じゃなくて記号にする。丸なら分けていい。線なら一緒」
「誰が覚える」
「……そこですよね」
また止まった。
結局、記号だけにはしなかった。
《分けてよい》
《一緒に送る》
短い二種類の横札にした。
セトを呼んで読ませる。
「俺、また?」
「昨日読めたから」
「褒められてる気がしないな」
セトは札を見る。
「炉晶。分けてよい。毛織物……一緒に送る、じゃなくて戻すって書いてある」
「分かる?」
「分かる。でも俺なら毛織物の方を先に積む」
「何で」
「軽いから」
ゼンが横から言う。
「だからお前が決めるなって札だ」
セトは「はいはい」と槍の手入れへ戻った。
昼、東河港へ返事を出す。
俺は行かない。
待つ。
これが一番難しい。
夕方近く、もう一度走り便が来た。
今度の紙には、三つだけ書いてあった。
《炉晶一箱、サラ便へ積載》
《毛織物一束、北方返送》
《受取判断、荷主指示どおり》
俺の名前はない。
ゼンの名前もない。
サラの短い追記だけがあった。
《水が少ない。明日もっと減る》
それは全然うれしい情報じゃない。
でも、荷は俺がいなくても動いた。
動けないところでは、勝手に動かなかった。
俺は紙を折った。
「成功?」
セトが聞く。
「半分」
「炉晶だけだから?」
「いや」
少し考える。
「止まれたから」
セトは分かったような、分かってないような顔をした。
「物流って、止まって喜ぶんだな」
「俺も今知った」
その夜、マルクの帳面で北方の残り日数が一つ減った。
六日だった欄が、五日になる。
紙の上では、そっちの方がずっと大きかった。
第158話 麦津へ着いたら、麦は港にいなかった
【本文】
五日。
朝の帳場に書かれた数字を見てから、俺は麦津へ行くことを決めた。
潮浜で別の売り手を探す案も残っている。
でも、南行きが乾き麦を追加で押さえた今、同じ港で同じ袋を奪い合うだけでは次が細い。
ゼンへ言うと、返事は意外に早かった。
「行け」
「止めないんだ」
「止めたら、お前ここで何する」
「荷札を――」
「もう昨日やった」
「槍の訓練」
少し離れたところでセトが顔を上げた。
「俺はいいよ」
聞いていたらしい。
マルクは帳面から目を上げなかった。
「金は出さんぞ」
「分かってる」
「宿代も」
「……分かってる」
財布が痛い。
ゼンが紙を一枚くれた。
北方名義の契約権限ではない。
俺が調査中であることと、持ち帰るべき項目だけが書かれている。
売り手。
量。
値段。
積める日。
船。
遅延。
それに今回は二つ足した。
乾燥状態。
保管場所。
「増えてるじゃん」
セトが覗く。
「荷札じゃないからいいんだよ」
「自分が読む紙は長くていいの?」
痛いところを突く。
「……歩きながら減らす」
午前、北方を出た。
東向きの荷車へ途中まで乗せてもらう。
荷台には空樽と、割れた炉皿が積まれていた。
御者の老人は、俺が麦津へ行くと聞いて鼻を鳴らした。
「麦買いか」
「まだ見るだけです」
「見るだけの若いのが一番遠くまで行く」
「どういう意味です?」
「買う奴は値段聞いたら帰る」
それ以上は説明してくれなかった。
昼前、道が二つに分かれる。
荷車は東河港へ。
俺は南西へ下る旧堤道に乗り換えた。
小さな乗合荷車で、客は俺を入れて四人。
鶏が二羽。
鶏は客に数えるのか分からない。
隣の婆さんは、出発してからずっと籠の蓋を押さえていた。
「噛みます?」
「逃げる」
「どっちが困る?」
「私」
それで会話は終わった。
堤道は海岸から少し内側を走る。
右に湿地。
左に低い畑。
遠くで海が光る。
前世の俺なら地図を開いて、道の先を全部確認したと思う。
今は御者が曲がるたび、荷車の傾きの方が気になる。
一度、右車輪がぬかるみに沈んだ。
全員降ろされる。
「押すぞ」
御者が言い、俺は後ろへ回った。
婆さんも降りた。
鶏は籠の中で暴れている。
「持ち上げる?」
俺が聞くと、御者は首を振った。
「押せ。持ち上げると腰やる」
言われた通り、車体ではなく車輪の後ろへ板を差す。
一回目。
力を入れすぎて足が滑った。
泥へ片膝。
婆さんが笑う。
「海帰りかい」
「何で分かるんです」
「泥の入り方が下手」
どういう分類だ。
二回目は、板が噛んだ瞬間だけ押した。
車輪が上がる。
【Lv 3】
表示は変わらない。
でも前より、自分の力を全部使わない方が動く場面が増えた。
夕方前、麦津へ着いた。
港へ入って、最初に思った。
――麦がない。
潮浜では倉の前に大麦袋が積んであった。
麦津は違う。
倉は多い。
桟橋も三本ある。
荷車も出入りしている。
なのに、見えるのは空袋、木箱、魚籠、樽。
麦袋は十袋もない。
名前負けしている。
「何探してる」
声を掛けてきたのは、帳場の脇で煎り豆を食べていた女だった。
四十代くらい。腕まくりしたまま、俺を見ている。
「大麦」
「畑行けばある」
「ここ麦津ですよね」
「港に麦が生えると思った?」
言い方がオグに似ていて嫌な予感がする。
俺は北方から来たことと、売り手を探していることを話した。
女は最後まで聞いてから、煎り豆を一つ口へ放り込んだ。
「ロッタ。ここの集荷を半分見る」
「半分?」
「残り半分は私と仲悪い」
「情報として必要ですか、それ」
「大事だよ。そっちに聞きに行くなら私の名前出すな」
面倒な港だった。
俺は紙を見せる。
ロッタは項目を上から読んで、乾燥状態のところで指を止めた。
「これは誰に足された」
「俺です」
「やっと一個、役に立つの足したね」
まだ五分も話していないのに評価された。
「ここに麦がないのは、乾かしてるからですか」
「半分はね」
「半分は?」
「倉へ入れる前に売れてる」
港で袋になってから売るんじゃない。
内陸の共同倉で量が決まり、そのまま契約先の荷車へ乗るものもあるらしい。
だから港に山がない。
「今、自由に売れるのは?」
「ここには十二袋」
少ない。
俺の顔を見て、ロッタが笑った。
「がっかりするの早い。乾燥場にまだある」
「どれくらい」
「乾けば三十から四十。乾かなきゃゼロ」
「いつ乾く?」
「天気に聞いて」
また出た。
海の次は空だ。
「見に行けます?」
「明日の朝なら荷車が出る」
「今日じゃ駄目?」
ロッタは港の外を見た。
西の空に薄い雲が伸びている。
「行ってもいいけど、帰りの荷車ないよ」
「歩けば」
「好きにすれば」
その後で、俺の靴を見た。
「その泥で?」
俺は足元を見る。
朝、ぬかるみにはまった跡がまだ残っていた。
「明日にします」
「賢い」
褒められている感じはしなかった。
宿を探す前に、俺は港の船を数えた。
大きい船は一艘。
中くらいが三艘。
小舟が何艘か。
潮浜より選択肢は多そうに見える。
ただし、空いているかは別だ。
宿へ向かう途中、俺は紙の《量》の横に書いた。
《港在庫十二。乾燥場三十〜四十候補。未確定》
麦津には麦があった。
ただ、俺が思っていた場所にはなかった。
第159話 麦はあった。でも、まだ袋にできなかった
【本文】
翌朝、ロッタの荷車は日の出前に出た。
俺が乗り込むと、荷台の端に昨日の煎り豆が置いてあった。
「朝飯?」
「私の」
「一粒くらい」
「宿で食べてきたでしょ」
食べてきた。
でも聞いてみただけだ。
ロッタは御者台へ座り、俺には後ろを指した。
荷台には空袋が山になっている。
「それ、全部麦用?」
「乾いたらね」
また条件がついた。
麦津から内陸へ半刻ほど進むと、畑が増えた。
刈り取りは終わっている。
地面には短い茎が残り、道沿いの家の前で穂を叩いている人もいた。
共同乾燥場は、低い丘の上にあった。
屋根付きの長い棚が三列。
その下に大麦が広げられている。
袋じゃない。
山でもない。
薄く、広く。
俺は思わず足を止めた。
「これ全部?」
「全部じゃない。昨日入った分」
ロッタが荷車から空袋を降ろす。
乾燥場の男がこちらへ来た。
五十代くらいで、片腕だけ袖を肘までまくっている。
「北の買い手?」
「買う権限はないです。条件を見に来ました」
男は露骨に嫌な顔をした。
「また見るだけか」
ロッタが横から言う。
「見るだけでも、数える奴ならまし」
「数える?」
「昨日、紙八個も書いてた」
増えている。
「七です」
「細かいねえ」
男が笑った。
名前はバルド。
乾燥場を三家で共同管理しているらしい。
まず、今すぐ袋へ入れられる乾き麦。
十二袋。
昨日ロッタが言っていた分だ。
次に、今日中に乾く可能性がある分。
十六から十八袋。
さらに明日以降。
二十袋前後。
合計すれば、それなりに見える。
でもバルドはすぐ釘を刺した。
「全部売る話じゃないぞ」
「地元分?」
「冬越し、種、酒屋。残りが売り物」
まただ。
見えている麦全部が市場へ出るわけじゃない。
「今の十二は?」
「売っていい。今日の夕方までなら」
「明日は?」
「酒屋が返事待ち」
「予約は」
「金と名義」
俺にはどちらもない。
財布に自分の金はある。
でも十二袋を買えるほどではない。
買えたとしても、それを北方の荷にする権限はない。
「船は?」
俺が聞くと、ロッタが煎り豆を噛む。
「港に戻ってから」
「ここで分からない?」
「畑の人間に船の予定聞くな」
バルドが笑った。
「俺、船酔いするぞ」
役割がはっきりしている。
俺は麦を一握り取らせてもらった。
指の間で転がす。
乾いた粒は軽い音がする。
昨日、潮浜で湿り袋を外した感触を思い出す。
「こっちは?」
棚の端の一列を指す。
少し色が濃い。
バルドが首を振った。
「まだ」
「見た目は同じに近い」
「噛め」
一粒渡された。
「生で?」
「死なない」
噛んだ。
硬い。
でも中に少しだけ湿りがある。
「分かる?」
「……たぶん」
「たぶんで袋にするな」
前にも似たことを言われた気がする。
海でも、川でも、倉でも。
分からない時に進めないのは、遅いんじゃなくて仕事なのかもしれない。
――と考えていたら、乾燥棚の向こうで怒鳴り声がした。
「猪!」
麦の匂いに寄ったらしい。
柵の隙間から、小ぶりの角猪が一頭入ってきた。
【角猪 Lv4】
俺より一つ上。
バルドが棒を持つ。
「殺すな、棚壊す!」
難しい注文だった。
角猪は人ではなく、麦へ向かっている。
俺は荷車へ走り、積んであった短い追い棒を取った。
槍じゃない。
先も丸い。
前世なら、足を止めて横から入ったと思う。
今の体で同じ距離へ入ると遅い。
第156話のセトとの稽古が頭に戻る。
踏み込みを小さく。
一歩。
角猪の肩ではなく、鼻先の土を叩く。
猪が止まる。
二歩目。
横へ回る。
「そっちじゃない」
ロッタの声が飛んだ。
見ると、柵の開いている方向が逆だった。
「先に言って!」
「見れば分かる!」
海と同じことを言われた。
角猪が向きを変える。
今度は俺の方へ来た。
「うわ」
受けようとして、やめた。
力で止めたら負ける。
半歩ずらす。
追い棒を角の横へ当てて、向きだけ変える。
猪は俺の脇を抜け、開いた柵へ走った。
そのまま畑へ出る。
バルドがすぐ柵を閉じた。
俺は息を吐く。
【HP 96%】
いつ削れた。
腕を見ると、追い棒を弾かれた時に擦っていた。
ロッタが豆を食べながら言う。
「強いの?」
「今は普通です」
「前は?」
「もう少し」
「じゃあ普通のまま麦運んで」
興味がないらしい。
少しありがたい。
角猪騒ぎで、乾燥棚の一部が崩れた。
麦はこぼれていない。
でも棚板を直す間、その列は乾燥を止めることになった。
バルドが舌打ちする。
「今日中の十六、減るな」
「どれくらい」
「さあ。日が出れば戻る。曇れば戻らん」
また数字が動いた。
港へ戻ったのは昼過ぎだった。
ロッタは帳場へ入ると、船の札を三枚持ってきた。
「今日出せるのは小舟一つ。十二袋なら積める」
「潮倉まで?」
「途中の小港経由。順調なら明日の昼」
「遅れたら」
「風で一日。霧で二日。両方なら知らない」
「帰り荷は?」
「今はいらない」
俺は顔を上げた。
条件が良すぎる。
ロッタが続ける。
「その代わり船賃が高い。帰り荷なし前提だから」
やっぱりだった。
「大型船は?」
「四日後に一艘空くかも。南の契約次第」
北方は五日。
四日待ってからでは遅い可能性が高い。
目の前の十二袋。
高い小舟。
乾けば増える三十前後。
でも乾燥場は、さっきの猪一頭でも予定がずれる。
俺は紙へ全部書いた。
売り手:バルド側三家共同。
今すぐ売却可:十二袋。
追加候補:今日十六前後、明日二十前後。ただし乾燥と地元契約次第。
価格:潮浜より少し高い。
積める日:十二袋は今日。
船:小舟一艘、十二袋。高運賃。大型候補は四日後、未確定。
遅延:風一日、霧二日以上候補。
乾燥:未乾燥分は袋詰め不可。
保管:共同乾燥場→港倉。
ロッタが横から紙を見る。
「予約しないの」
「できない」
「北が困ってるんでしょ」
「だから勝手に買えない」
「真面目だね」
「前の人生で、勝手に道を作って痛い目見たんで」
言ってから、少しだけまずかったかと思った。
ロッタは煎り豆を一つ噛んだ。
「前の人生?」
「長い話です」
「じゃあいい」
拾われなかった。
それで助かった。
俺は北方へ走り便を出した。
返事が来るまで、十二袋は俺のものじゃない。
バルドは今日の夕方までなら売ると言った。
それを過ぎれば、酒屋へ回るかもしれない。
走り便の背中が港の坂を上っていく。
俺は追わなかった。
追っても速くならない。
代わりに港の小舟へ行った。
買える返事が来た時、十二袋を本当に積めるのか。
空いている場所を自分の目で見るためだ。
麦は見つかった。
船も、一応ある。
でも今度は、返事が間に合うかどうかが道になった。
第160話 返事は間に合った。でも、満潮には間に合わなかった
【本文】
走り便が戻ったのは、日が山の向こうへ半分沈んだ頃だった。
港の坂を上がってきた男は、俺を見つけるなり片手を上げた。
もう片方の手には、丸めた紙がある。
「北から。急ぎ」
「ありがとうございます」
受け取って、封を切る。
最初に見えたのはマルクの印だった。
その下に、少し右上がりの字が並んでいる。
《麦津の乾き大麦、十二袋まで購入可》
《今回のみ倉庫資金から支出》
《売り手名、受取人、運賃、保管料を分けて記録》
《濡れ・破袋が出た場合、乾いた袋だけ先行可》
《北方名義での追加契約は不可。次便は別確認》
最後だけ、字が少し太かった。
その横に別の筆跡で短く書いてある。
《紙を増やしすぎるな ゼン》
遠くにいるのに、うるさい。
少し笑った。
でも、必要なものは揃っていた。
買っていい。
十二袋まで。
しかも今回は、途中で一袋だけ止まっても残りを進めていい。
第157話で足りなかった一文が、ちゃんと戻ってきた。
俺は紙を持ったまま乾燥場へ走った。
途中で一度、泥に足を取られた。
昨日ならそのまま踏ん張ったと思う。
今日は力を入れる前に足を抜いた。
少しだけ、今の体の癖が分かってきた気がする。
乾燥場では、バルドが棚板を打ち直していた。
「返事?」
「来ました。十二袋、買います」
「金は?」
「倉庫資金。ここに印があります」
バルドは紙を受け取り、最初の三行だけ読んだ。
そのあと俺へ返す。
「細かいな」
「俺もそう思います」
「買う方が言うな」
ロッタが横で煎り豆を噛んでいた。
今日はちゃんと一粒くれた。
昨日の話を覚えていたらしい。
「夕方までって言ったからね。十二、残してある」
バルドが顎で倉を示す。
木台の上に、大麦袋が十二。
昨日見たものと同じはずなのに、今日は急に重く見えた。
俺の荷じゃない。
北の金で買う、北へ送る荷だ。
一袋ずつ口と底を確認する。
八袋目で、麻紐が少し緩い。
「これ、締め直せます?」
バルドがしゃがみ、指を入れた。
「中は平気。紐だけだな」
「替えます」
「そのくらいなら船で締まるぞ」
「海で締めるの嫌なんで」
ロッタが吹き出した。
「一回乗った人みたいなこと言う」
「一回は乗りました」
「じゃあ海の達人だ」
全然違う。
紐を替え、十二袋全部に札を付けた。
売り手。
所有者。
行き先。
受取人。
濡れ・破袋時は分離可。
勝手な値引き・転売不可。
文字は増やしすぎない。
一枚に詰めるとまた誰も読まなくなる。
準備が終わる頃には、港の空が赤くなっていた。
俺たちは荷車で十二袋を運んだ。
小舟の船頭は、船の横で網を畳んでいた。
名前はネス。
四十代くらい。
日焼けした顔で、俺たちより先に荷車の車輪を見た。
「遅い」
「返事待ちでした」
「海は返事待たんぞ」
ダグと似たことを言う。
海の船頭は、みんな海の代弁者をするのかもしれない。
「今日、出られます?」
ネスは答えず、桟橋の杭を指した。
水面は、もう下がり始めていた。
俺も分かった。
「あ」
「その『あ』が答えだ」
満潮は終わっていた。
返事は間に合った。
売却期限にも間に合った。
でも、船には間に合わなかった。
「次は?」
「明け方。風が変わらなければ」
「倉へ戻します」
「戻すなら一晩分」
ロッタが俺を見る。
倉庫料だ。
もちろん無料ではない。
マルクの紙に、ちゃんと《保管料》と書いてあった。
先回りされている。
「払います」
十二袋を港倉へ入れる。
床へ直置きしようとしたら、倉番の女に足で木台を蹴られた。
「北へ持ってくんでしょ。上」
「はい」
「昨日の雨、床まだ冷たいから」
また一つ覚えた。
袋を木台へ積み替える。
三段にしようとして、ネスが止めた。
「二段」
「崩れる?」
「下が蒸れる」
海だけじゃない。
港へ来ると、麦は急に面倒になる。
全部積み終わったところで、ネスが俺を見た。
「明日、お前も乗るのか」
「そのつもりです」
「なら十一袋」
「え?」
「十二で俺と若いの一人。お前が乗るなら一袋降ろす」
俺は船を見た。
小さい。
潮浜で乗った船より、さらに小さい。
空いているように見える場所も、荷を積めばなくなる。
「俺一人で、一袋分?」
「水の上じゃ人間も荷物だ」
ロッタが横で言った。
「だって」
「聞こえてます」
一袋。
北では、その一袋を減らしたくない。
でも、俺が乗らなければ途中を見られない。
濡れた時。
遅れた時。
潮倉で受け取る時。
誰が何を判断するか、まだ全部試せていない。
俺は札を見た。
《濡れ・破袋時は分離可》
《受取人:潮倉荷役所》
《乾き袋は先行可》
俺が書いた。
いや。
北から返ってきた条件を、みんなが読める形にした。
それで動くかを試すんじゃなかったのか。
「十二でお願いします」
ネスが網を畳む手を止めた。
「お前は?」
「乗りません」
ロッタが豆の袋を振る。
「せっかく海の達人なのに」
「一回しか乗ってません」
「じゃあ元達人」
降格が早い。
俺は港倉の十二袋を見た。
初めてだった。
海へ出る荷を作って。
自分の場所を、その船に作らなかった。
第161話 俺が乗らない船は、朝焼けの中で出ていった
【本文】
明け方の港は、昨日より寒かった。
俺が着いた時には、ネスと若い船員がもう帆を触っていた。
ロッタは来ていない。
来ると言っていなかったから当然なんだけど、少しだけ置いていかれた気がした。
代わりに倉番の女が欠伸をしながら鍵を開けた。
「十二?」
「十二です」
「一個増えてないね」
「増えたら怖いです」
「減ってても怖いでしょ」
それはそうだ。
木台から袋を降ろす。
一袋ずつ、船へ。
俺も担いだ。
前世の体なら二袋まとめていけたと思う。
今やったら多分、腰から先に終わる。
一袋を肩へ載せる。
膝を使う。
船縁をまたぐ時だけ、ネスが手を上げた。
「そこで回るな。船ごと動く」
「昨日は人間も荷物って言ってましたよね」
「荷物が勝手に回るなって話だ」
理屈が雑なのに分かる。
三袋目。
五袋目。
八袋目。
九袋目で、袋の脇から短い糸が一本出ていた。
破れではない。
でも俺は止めた。
「これ、替えた方がいいですか」
ネスが指で引く。
糸だけ抜けた。
「これで沈むなら俺の船が先に沈む」
「じゃあ大丈夫?」
「大丈夫。でも聞いたのは正しい」
褒め方まで海っぽい。
十二袋が船底へ収まる。
左右の高さを揃え、板をかませ、上から網を掛ける。
俺が作った札は、袋ではなく一番上の荷札板へまとめた。
個別の袋番号は残す。
ネスが読み上げた。
「一から十二。濡れたら分ける。乾いたのは進める。勝手に売るな。潮倉で受け取らせる」
「はい」
「お前がいなくても?」
「そのためです」
ネスは俺を見た。
何か言うかと思ったが、言わなかった。
代わりに若い船員へ顎をしゃくる。
「綱」
船員が綱を外す。
俺も岸側の綱を持った。
潮が動き始めている。
海面がゆっくり船を押す。
一瞬、乗りたくなった。
荷がどう扱われるか。
どこで揺れるか。
潮倉で誰が何を言うか。
全部見たい。
見れば、その場で直せる。
でも、それを毎回やったら。
結局、俺がいないと動かない。
「離すぞ」
ネスが言った。
俺は綱を緩めた。
船が桟橋から離れる。
十二袋。
俺なし。
朝焼けの中へ、小舟が出ていった。
ロッタが来たのは、その少し後だった。
「間に合わなかった」
「何に?」
「見送り」
「見送りする気あったんですか」
「半分くらい」
手には煎り豆がある。
今日はくれなかった。
俺たちは乾燥場へ戻った。
昨日、角猪に崩された棚は直っていた。
ただし、乾き麦は思ったほど増えていない。
バルドが朝の麦を手で掻きながら言う。
「七袋」
「昨日、十六くらいって」
「棚止まった。夜に湿った。酒屋が四持ってく」
「じゃあ自由なのは三?」
「今のところ」
数字が小さくなった。
三袋。
買おうと思えば、自分の金でも買えるかもしれない。
でも、俺は手を出さなかった。
昨日の許可は十二袋まで。
もう十二袋買った。
「次の返事、取る?」
ロッタが聞く。
「まだ」
「北、急いでるんでしょ」
「急いでるから、何でも買うのは違う」
バルドが鼻で笑った。
「買い手がそれ言うと助かるような困るような」
「酒屋に売れば?」
「酒屋は酒屋で値切る」
麦は人を選ばない。
人が麦を取り合っているだけだ。
昼前、港の宿へ戻ると、俺宛の紙が一枚届いていた。
麦津の紙じゃない。
東河港から回ってきた、サラの字だ。
短い。
《炉晶一箱 潮倉到着》
《外箱破損なし》
《売却指示なしのため保管》
《保管三日まで同条件。その後は延長確認》
《毛織物は北へ返送済み》
俺は二回読んだ。
炉晶は、着いた。
俺は乗っていない。
東河港にも、川船にも、潮倉にも付き添っていない。
それでも着いた。
そして、勝手に売られていない。
ちゃんと止まった。
紙の一番下に、サラの追記があった。
《あんたがいない方が静か》
余計だ。
その下に、もっと小さい字がある。
《でも札は読めた》
俺はその一行だけ、もう一度見た。
動く。
止まる。
返す。
持ち主へ聞く。
その全部が、俺抜きで一回ずつ起きた。
完璧じゃない。
炉晶はまだ潮倉で止まっている。
売り先も決まっていない。
でも、道の途中に俺が立っていなくても、荷物は途中まで来た。
宿の外で、誰かが鍋を落とした。
大きな音がして、店の犬が吠える。
俺が顔を出した時には、もう宿の親父が拾っていた。
俺の仕事じゃなかった。
なんとなく、少しだけ似ている気がした。
北へ送る紙に、炉晶到着の報告を書く。
その横に、麦津の追加自由在庫三袋。
大型船はまだ未確定。
十二袋の小舟は、今朝出た。
そこまで書いて、筆を止める。
自分が乗っていない船の結果は、まだ知らない。
今までなら、それが一番落ち着かなかった。
今も落ち着かない。
ただ。
追いかけて泳ぐほどではなくなった。
第162話 十一袋は先へ行って、一袋だけ止まった
【本文】
小舟の結果が来たのは、翌日の夕方だった。
港の坂を上がってきたのは、ネスではない。
潮倉から来た荷役人で、肩に細い筒を下げている。
俺を見るなり、その筒から紙を抜いた。
「レン?」
「はい」
「麦津十二。潮倉受け」
心臓が少し速くなる。
「十二、着きました?」
男は紙を見た。
「船からは十二降りた」
言い方が引っかかった。
「船からは?」
「十一、乾きで受け。一本、外袋濡れ」
やっぱり来た。
俺は紙を取った。
袋番号七。
波を一度かぶったらしい。
麻袋の外側に塩気。
中まで入ったかは未確認。
その下。
《分離可の指示により十一袋は乾き荷として次工程へ》
《七番は潮倉で隔離。開封・詰替えは所有者指示待ち》
俺は息を吐いた。
失敗。
ではない。
成功。
だけでもない。
十一袋は進む。
一袋は止まる。
前に、炉晶と毛織物を分けていいか分からず、全部止まった。
今度は分けていいと書いてある。
だから止めるべき一袋だけ止まった。
「十一袋、もう川へ?」
「今朝のサラ便に載った」
「俺の確認なしで?」
男が怪訝な顔をした。
「そう書いてあったぞ」
そうだった。
俺が書いた。
北が許可した。
「……ですよね」
男はまだ俺を見ている。
「止めた方がよかったか?」
「いや。進めてください。そのための札です」
言いながら、自分に言っているみたいだった。
紙には、続きがあった。
炉晶一箱。
潮倉保管中。
それから、見慣れない一行。
《東浜塩場 標準炉晶一箱の試し買い希望》
《価格提示待ち》
《契約なし》
俺は顔を上げた。
「これ、誰が聞いたんです?」
「塩場の荷役。箱見てな。雨の日用の炉に欲しいって」
前に、似た話を聞いた。
東の小湾。
塩。
雨天時の炉。
でも、あの時は候補だった。
今も候補だ。
買いたいと言っているだけ。
値段も、頻度も、品質保証も決まっていない。
それでも。
麦を運んだ先に、北から出せる荷の話が一つ増えた。
「売ってないですよね」
「売ってない。札に書いてない」
それを聞いて、少し笑った。
「何だ」
「いえ。ちゃんと止まるなと思って」
「止まると怒る奴の方が多いぞ」
「最近、止まって喜ぶようになりました」
男は本気で分からない顔をした。
セトと同じだ。
宿へ戻ると、ロッタが入口の段差に座っていた。
珍しく煎り豆を食べていない。
「なくなった?」
「何が」
「豆」
「歯に挟まったから休み」
理由が小さい。
俺は紙を渡した。
ロッタは一番上だけ読む。
「十一、進んだんだ」
「一袋は濡れで止まりました」
「中は?」
「まだ。開ける権限確認中」
「面倒だねえ」
「面倒だから、一袋で済んでます」
ロッタが紙から目を上げた。
「それ、誰の言い方?」
「今考えました」
「じゃあまだ信用しない」
ひどい。
俺は北への報告を書き始めた。
麦津十二袋。
海上輸送完了。
乾き十一袋は潮倉から川運へ先行。
七番一袋は外袋濡れで隔離。
炉晶一箱は潮倉到着済み、未売却。
東浜塩場から試し買い問い合わせ一件。
麦津追加自由在庫は現時点三袋。
大型船候補はまだ未確定。
書き終わる頃、ロッタが覗き込んだ。
「北、あと何日?」
返事の紙を開く。
昨日の時点。
《従来配合の通常配給、四日相当》
《それ以降は配合変更で延ばす》
《病人用・種籾は別》
今日で一日は進んでいる。
だから、数字だけ見れば減っている。
でも十一袋も、こっちへ向かっている。
一袋は止まった。
そして炉晶には、初めて海側から買いたいと言う人が出た。
全部足りない。
全部途中。
それでも、前より選べるものが増えた。
「戻るの?」
ロッタが聞いた。
北へ。
それとも、ここでもう一便探すのか。
俺は紙の三つの行を見た。
追加三袋。
未確定の大型船。
塩場の炉晶問い合わせ。
「まだ決めません」
「また候補?」
「候補です」
ロッタが立ち上がる。
「じゃあ豆買ってくる」
「そこは即決なんだ」
「豆は世界を救わないから」
そう言って、本当に豆を買いに行った。
俺は笑ってから、もう一度港を見た。
十一袋は、俺がいない川を上っている。
一袋は、俺がいない倉で止まっている。
炉晶一箱は、俺がいない場所で買い手候補を見つけた。
道が少しずつ、俺の手から離れ始めていた。
悪い感じはしなかった。
問題は。
離れた道を、次にどこへつなぐかだ。




