第151話 北の荷は、北の物じゃなかった
【本文】
潮浜から戻る船の上で、オグはほとんど喋らなかった。
俺も、途中から紙を見るのをやめた。
大麦百二十袋。
小舟なら二十から三十袋。
北は十一日。
数字だけなら、何度見ても同じだった。
でも船が潮倉へ着く頃には、十一日はもう十一日じゃない。
一日使った。
「次、西へ出るのはいつです?」
着岸の縄をまとめながら聞くと、オグは船の底へ視線を落とした。
「風が普通なら二日後」
「潮浜?」
「寄る」
「大麦を二十――」
オグの目が上がった。
俺は言い直した。
「二十から三十袋を買う権限が取れたとして。潮浜からここまで運ぶなら、いくらです?」
「帰りが空なら高い」
やっぱりそこだった。
「帰り荷があれば?」
「物による。重さ。濡れるか。売る相手。降ろす場所」
「標準炉晶と毛織物」
「標準だけにしろ。赤札は嫌だ」
高純度炉晶のことだ。
前の戦争を思い出す。
俺も持ってくる気はない。
オグは指を二本立てた。
「炉晶なら箱二つまで。毛なら三束くらい。全部合わせても、麦二十四袋を積んだ帰りより軽くしろ」
「二十四?」
「俺の船なら、そのくらいから試す」
「二十五は?」
「二十四」
「二十三なら?」
「好きにしろ」
数字に情がない。
「いつまでに返事?」
「明日の夕方」
「北まで往復してたら、ぎりぎりです」
「じゃあ間に合った時だけ来い」
オグはそこで会話を切った。
船から降りる。
潮倉の地面が、まだ少しだけ揺れている気がした。
今度は陸酔いするほど長く乗っていないのに、体が勝手に海を残している。
倉番の女が俺の顔を見るなり、鼻をつまんだ。
「また魚粉?」
「今日は樽です」
「匂いは魚粉」
服に二日残るという話は、本当だったらしい。
潮倉から川船へ乗り、東河港まで戻る。
そこから北へ向かう荷車へ便乗した。
丸一日と少し。
前なら遅いと思ったかもしれない。
今は、道が繋がっているだけで少し安心する。
北の町へ入ったのは、翌日の夕方だった。
パン屋の前に行列がある。
板にはまだ《一人二個まで》と書いてあった。
一個にはなっていない。
それだけで、胸の奥が少し緩んだ。
「遅い!」
緩んだ直後、第三倉庫の前でマルクに怒鳴られた。
「すみません」
「荷役一人が海の匂い付けて帰ってくるまで何日かかる!」
「三日くらい?」
「聞いてねえ!」
横でゼンが片目を細めている。
笑っているのかと思ったら、俺の持っていた紙を奪った。
「潮浜、あったのか」
「大麦は。百二十袋くらい。今週外へ出せる分」
「船は」
「大船は最短六日後。小舟なら二十から三十袋。オグの船は二十四袋から試すって」
マルクが腕を組む。
「金は」
「それを聞きに帰りました」
「最初からそうしろ」
正しい。
倉庫の奥へ入る。
マルクは扉を閉める前に、外の若い荷役へ怒鳴った。
「その豆袋、壁から離せ! 湿気吸わせたらお前が食え!」
若い荷役が「豆嫌いです!」と返す。
「じゃあもっと離せ!」
何の会話だ。
卓上に、北方の今の配給表が広げられた。
ゼンが指で日付を追う。
「お前に返事を書いた日から二日使った。今の配給のままなら、残り九日で考える」
九日。
数字が二つ減っただけなのに、紙が狭く見えた。
マルクは倉庫資金の箱から帳面を出す。
「三十袋買う金はある。ただし、使わねえ」
「何で?」
「全部海へ突っ込んで霧で三日止まったら、町の中で買える豆を買えなくなる」
「じゃあ何袋」
「二十四」
オグと同じ数字だった。
偶然なのに、少しだけ気持ち悪い。
「麦二十四。運賃。倉庫。遅れ一日分。それ以上は別の金を削る」
マルクは俺を見た。
「試すなら試験の金でやれ。町全部の金を試験にするな」
俺は頷いた。
第一人生では、道を作る時に何度も「通れるか」を見た。
今は「払えるか」が同じくらい大事らしい。
ゼンが次の紙を引いた。
「帰り荷」
「標準炉晶と毛織物。潮浜では需要がある可能性。ただ、俺の物じゃない」
「やっと覚えたな」
「二回言われたんで」
マルクが鼻で笑った。
そこからが長かった。
最初の炉晶工房。
親方のヴァンは、俺の話を最後まで聞いてから、炉晶箱を一つ蹴った。
軽い音はしない。
「黄札なら二箱」
「売っていい?」
「俺が売る」
「一緒に来ます?」
「行くわけねえだろ」
「じゃあどうやって」
ヴァンは作業台の引き出しから小さな木札を出した。
そこへ最低価格と工房印を書く。
「これより下なら持って帰れ。割ったら運んだ奴が払え。赤札と混ぜたら二度と出さん」
「売れ残ったら?」
「帰せ」
条件がはっきりしている。
二つ目の工房は、もっと早かった。
「出さない」
それで終わりだった。
「理由だけ聞いていいです?」
工房主の女は炉の火を見たまま言った。
「冬前の修理分。南へ出なくなったから余って見えるだけで、全部余りじゃない」
俺は紙へ《ゼロ》と書いた。
一軒目が二箱出したからといって、北全体が出せるわけじゃない。
次は毛織物。
リナに店を聞くと、彼女は荷車の柄を握ったまま笑った。
「海まで売りに行くの?」
「俺のじゃないけど」
「そこ言えるようになったんだ」
「今日みんな同じこと言う」
「言われる顔してるんじゃない?」
また顔の話だ。
リナが教えてくれた織り店の奥で、織り手長のエマは糸を指に巻いたまま話を聞いた。
「灰、茶、濃紺。どれが欲しいって?」
「そこまで聞いてません」
「じゃあ売る話じゃないね」
「買い手候補を探すための試験です」
「なら三束。灰二、茶一」
意外と早い。
「最低価格は?」
エマが俺を見た。
「売値より先に聞く?」
「聞かないと勝手に売れないから」
「……まともになったね」
会ってまだ五分だった。
エマは三束の札へ価格を書いた。
ただし売れ残りは三日以内に返す。
濡らしたら買い取り。
倉庫料は一日いくらまで。
そこまで決める。
「面倒ですね」
俺が言うと、エマは糸を噛み切った。
「面倒だから、持ち主がいるの」
短い言葉だった。
でもたぶん、今日一日を全部まとめていた。
夕方、第三倉庫へ戻った。
卓上に並んだのは、北方の荷ではなかった。
ヴァン工房の標準炉晶二箱。
エマたちの毛織物三束。
マルクの管理する試験資金。
ゼンの組む輸送。
名前が全部違う。
俺は紙の一番上に書いていた《北の帰り荷》を消した。
代わりに、持ち主の名前を一つずつ書く。
マルクが覗き込む。
「今さらか」
「今さらです」
「で、間に合うのか」
俺はオグの締切を思い出した。
明日の夕方。
炉晶二箱。
毛織物三束。
まだここにある。
潮倉までは遠い。
「……運べば」
ゼンが立ち上がった。
「じゃあ明け方出る。寝ろ」
「今から積んだ方が」
「寝ろ」
「でも」
マルクとゼンが同時にこっちを見る。
「寝ろ」
また声が揃った。
俺は諦めた。
北の荷を集めるだけで、一日が終わった。
でも、今度の紙には誰の物かが書いてある。
それだけは、前より少し進んでいた。
第152話 船に載せる前に、荷車が傾いた
【本文】
明け方。
俺が第三倉庫へ着いた時、荷車はもう傾いていた。
嫌な始まりだった。
「誰が炉晶二箱を後ろへ並べた!」
灰帽子ロウが荷台の横で怒鳴っている。
昨日のうちにゼンが頼んでおいたらしい。
車輪を見る人は、朝から車輪しか見ていない。
「二箱だけですよ」
俺が言うと、灰帽子ロウが振り返った。
「箱の数で車軸が軽くなるなら、車輪屋いらねえんだよ」
荷台の後ろが、目で分かるくらい沈んでいる。
標準炉晶二箱。
毛織物三束。
数だけ見れば少ない。
でも炉晶は重い。
「前へずらせば?」
「前に寄せすぎたら馬が重い」
「二台に分ける?」
「最初からそうしろ」
ゼンが向こうから言った。
俺と荷役二人で、一箱を別の荷車へ移す。
持ち上げる時、前世の癖で腰を先に入れそうになった。
やめる。
膝を曲げる。
片側を板で浮かせる。
二人で持つ。
Lv3になっても、炉晶箱は普通に重い。
「一人で持とうとしなくなったな」
灰帽子ロウが言う。
「成長です」
「腰が壊れる前に覚えただけだ」
それも成長だと思いたい。
エマの毛織物を積む。
灰二束、茶一束。
一番上へ載せようとしたところで、エマ本人が来た。
朝から機嫌が悪そうだった。
「下ろして」
「まだ載せてないです」
「茶」
彼女は茶の束を指す。
外布の端が少し裂けていた。
中身は濡れていない。
でも裂け目はある。
「縫えば」
「海まで行くんでしょ」
「はい」
「じゃあ駄目」
エマは自分で茶の束を引っ張った。
「これ、今日は出さない。灰二つだけ」
「帰り荷、減ります」
「私の布が濡れるよりはいい」
正しい。
また正しい。
最近、正しい人が多い。
結局、帰り荷は炉晶二箱、毛織物二束になった。
オグに言われた上限より少ない。
安くなる運賃も、たぶん少ない。
「一束くらい別の店から――」
ゼンが首を振った。
「朝から新しい持ち主探すな。今日の便を落とす」
「でも空きが」
「空きは悪じゃねえ。勝手に埋めるのが悪だ」
俺は口を閉じた。
出発する。
東河港までの道は、もう三回目だった。
知っている坂。
知っている橋。
知っている曲がり角。
だから少し気が緩んだのかもしれない。
町を出て二時間。
荷車の後ろから、乾いた音がした。
カン。
一度だけ。
俺は振り返った。
何もない。
さらに十歩。
カン。
同じ音。
「ゼンさん、止めて」
先頭から声が返る。
「何だ!」
「二台目。音」
御者が馬を止める。
槍ロウが周囲を見る。
セトは林側へ寄った。
俺だけが車輪を見る。
灰帽子ロウなら何を見る。
分からない。
とりあえず触る。
車軸。
熱くはない。
車輪止め。
外れていない。
鉄の留め具。
少し浮いている。
「これ?」
ゼンがしゃがむ。
「ピンが上がってるな」
「何で」
「振動だろ。おい、槌」
御者が工具箱を出す。
叩いて戻す。
それで終わりかと思ったら、ゼンは炉晶箱を一つ指した。
「位置変える」
「もう分けましたよ」
「分けても揺れる。こっちの箱、車輪の真上へ寄せる」
荷物を全部最適化したつもりだった。
道へ出ると、また変わる。
セトが周りを警戒したまま言う。
「魔物じゃなくてよかったですね」
槍ロウが短槍の柄でセトの足を小さく突いた。
「お前、暇だと魔物欲しがるのやめろ」
「欲しがってませんよ」
「顔が欲しがってる」
俺も前に同じことを言われた気がする。
荷をずらす。
炉晶箱を車輪の真上近くへ。
毛織物は反対側。
縄を締め直す。
出発。
今度は音がしない。
橋の手前では、一台ずつ渡った。
以前は三台続けて渡った場所だ。
炉晶二箱のためだけに、やることが増える。
でも落ちたら全部終わる。
昼前、雨が来た。
強くはない。
細かい雨。
俺は反射で毛織物の覆いを見る。
一枚、端がめくれている。
「止める?」
ゼンが空を見る。
「止めるほどじゃない。走りながら直せるか」
荷車の横へ回る。
セトが俺の腰帯を掴んだ。
「落ちるなよ」
「荷車から?」
「今の人生、海と荷車両方から落ちたら笑う」
「海は落ちてない」
「吐いた」
「関係ない」
言い合いながら、覆いを引き直す。
手が届かない。
一度降り、後ろから登り直す。
今度は届く。
縄を通す。
結ぶ。
海で覚えた結び方を使おうとして、途中でやめた。
船の結び方が荷車で正しいとは限らない。
御者に確認する。
「これでいい?」
「もう一回回せ。ほどく時面倒でもいい」
そうする。
少しだけ、自分で勝手に知識を移さなくなった。
東河港へ着いたのは午後だった。
サラの川船がいた。
運がいい、と思った瞬間、サラが俺を見て言った。
「その顔やめろ」
「まだ何も言ってません」
「船見て喜ぶ陸の奴、同じ顔する」
前にも言われた。
「潮倉まで。炉晶二箱、毛織物二束」
サラは荷を見て、炉晶箱を足で軽く叩いた。
「重いね」
「二箱だけです」
「お前も箱の数で言うのか」
今日二人目だった。
「すみません」
「何に謝ってんだ」
サラは水位を見る。
前回より、また少し下がっている。
「載せる。別料金」
「何で?」
「穀物じゃない。積み方変える」
ゼンが横から値段を聞き、二人で少し揉めた。
俺にはどちらが勝ったのか分からない。
最後にサラが「次から先に言え」と言い、ゼンが「次があればな」と返した。
たぶん半分ずつ負けた。
川船へ積む。
炉晶は船の中央、低い位置。
毛織物は高くして、布を二重にかける。
俺が縄を取ろうとすると、サラが顎で別の束を指した。
「そっち。海の結び持ち込むなよ」
ばれている。
「何で分かったんです?」
「手が迷ってる」
俺は川用の結びをやり直した。
下りは速かった。
途中で浅瀬に一度腹を擦ったが、止まりはしない。
夕方前、潮倉が見えた。
約束の締切まで、まだ少しある。
オグの船もいた。
俺は少し嬉しくなって、すぐ顔を戻した。
また同じことを言われそうだった。
オグは荷を見る。
炉晶二箱。
毛織物二束。
「少ない」
最初の一言がそれだった。
「一束、外布が裂けて持ち主が下ろしました」
「正しい」
「みんなそれ言う」
オグは炉晶箱の札を見る。
黄札。
工房印。
最低価格。
売れ残り条件。
「売る権限は」
俺はヴァンとエマの札を出した。
オグは読む。
「これより下は売らない。売れ残りは三日以内。倉庫料上限あり」
「はい」
「やっと荷主の真似になったな」
「荷主じゃないです」
「そこも分かってるならいい」
運賃を出す。
帰り荷がある分、空荷よりは安い。
でも思っていたほどは下がらない。
「これだけ?」
「これだけ」
「炉晶二箱あるのに」
「売れなかったら、帰りにまた積むかもしれん」
そうだった。
帰り荷は、売れた時だけ帰り荷になるわけじゃない。
売れ残ったら、往復で場所を取る。
マルクから預かった試験資金を数える。
大麦二十四袋。
売買手数料。
倉庫。
運賃。
遅延一日分。
ぎりぎりではない。
でも余裕も大きくない。
俺は紙を見た。
北の配給を維持できる残り日数。
八日。
ここで一日待てば七日。
「明日の朝、出る?」
オグが聞く。
「風が普通なら」
俺が返すと、オグが初めて少しだけ笑った。
「覚えたな」
「海に許可取れたら?」
「それはまだ馬鹿」
褒められたのか分からない。
その夜、潮倉の倉番の女が炉晶箱を見て言った。
「北の夢、とうとう石まで持ってきたね」
「夢じゃなくて、ヴァンさんの石です」
「面倒になったねえ」
「それが正しいらしいです」
女は鍵を回した。
「じゃあ面倒なまま明日行きな」
炉晶二箱。
毛織物二束。
まだ大麦は一袋もない。
でも今度は、船へ載せる前に持ち主の名前が全部分かっている。
明日の船は、麦を取りに行く。
その前に、北から売る物を海へ運ぶ。
道を逆から作るみたいで、少し面白かった。
第153話 二十四袋の船は、二十三袋で帰ってきた
【本文】
朝、海は普通だった。
最近、その言葉が一番信用できない。
オグは空を見て、潮を見て、船を見た。
「出る」
それだけ。
俺たちは炉晶二箱と毛織物二束を積んだ。
昨日、川船では中央へ置いた炉晶を、オグは少し前へ寄せた。
「そこなんですか」
「この船はここ」
「サラは中央って」
「サラの船に乗れ」
船ごとに正解が違う。
もう驚かない。
少しだけ悔しい。
俺は言われた位置へ箱を寄せ、縄を取る。
結び目を作る前にオグへ見せる。
「これ」
「一回増やせ」
言われた通りにする。
聞かずにやって直される回数が減ってきた。
たぶん、成長している。
【Lv 3】
表示は変わらない。
知ってる。
今日はそれでいい。
潮倉を離れる。
西へ。
潮浜へ。
今度は客でも荷役でもなく、荷の札を持っている。
責任が増えたのに、財布は軽いままだった。
「その紙、濡らすなよ」
オグが言う。
「体より先に?」
「お前は泳げるだろ」
「紙は?」
「泳がない」
正論だった。
札を油紙へ入れ直す。
海は前より怖くない。
でも慣れたと思うほど、足元を見る回数を増やした。
縄の輪。
箱の角。
帆が動く方向。
分からないものは、まだ多い。
潮浜へ着いたのは昼前だった。
帳場の女は俺を見るなり、棚の砂時計を返した。
「昨日より商人っぽい顔になった?」
「昨日も商人じゃないです」
「今日は荷がある」
「俺のじゃないです」
「面倒さだけは商人だね」
それは認める。
まず炉晶。
塩場の親方が来た。
前に話した男とは別で、手が真っ白だった。
粉か塩か分からない。
ヴァンの木札を見せる。
黄札。
標準品。
最低価格。
親方は箱を開け、小片を一つ取り出した。
火へ入れる。
待つ。
俺は砂時計を見る。
潮は待ってくれない。
でも急かして売れる物でもない。
親方が言った。
「一箱」
「二箱あります」
「一箱」
「値段は?」
出た額は、ヴァンの最低価格と同じだった。
ぴったり。
「もう一箱は?」
親方が首を振る。
「今月は要らん」
「来月なら」
「雨が降れば」
天気次第だった。
俺は一箱だけ売る。
二箱目を勝手に下げない。
帳場の女が横で受け取り票を書く。
「残り、倉に置く?」
ヴァンの条件を見る。
三日以内返送。
倉庫料上限。
「二日。上限はこれ」
「ぎりぎり嫌な額だね」
「持ち主が決めました」
「じゃあ持ち主に嫌われとく」
二箱目は潮浜の倉へ残す。
次に毛織物。
灰二束。
買い手は、港近くの衣料店だった。
一束目はすぐ決まった。
二束目で止まる。
「同じ灰でも、こっちは色が暗い」
店の女が言う。
「値段下げれば?」
俺は札を見る。
エマの最低価格より、提示額が少し低い。
「下げません」
「じゃあ一束だけ」
「はい」
言ったあと、少し惜しくなる。
船の帰りを空にしたい。
売れれば運賃が軽くなる。
でもそれは俺の都合だ。
エマの布を俺の都合で安くはできない。
「残りは預かる?」
帳場の女が聞く。
これも条件を見る。
倉庫料は許容内。
「一日だけ」
「明日売れなかったら?」
「戻します」
「海が止まったら?」
止まる。
その時は三日以内返送が危ない。
俺は少し考えた。
「今日の帰りに積みます」
衣料店の女が眉を上げる。
「売る気ないの?」
「あります。でも約束破ってまで売らない」
格好いいことを言ったつもりはなかった。
むしろ面倒だった。
船の場所を取る。
オグに嫌な顔をされる。
たぶん運賃も変わる。
帳場の女は何も言わず、預かり票を破った。
海へ戻る。
オグは残った毛織物一束を見て、本当に嫌な顔をした。
「売れなかった?」
「値段が下でした」
「置いてけば」
「返送期限が三日。海止まったら危ない」
「……なら積め」
怒られなかった。
それだけで少し安心する。
「炉晶は?」
「一箱売れた。もう一箱は二日だけ置く」
「そっちは置くのか」
「三日以内返送で、二日ならまだ戻せる。毛織物は一日預けても売れる保証が薄い」
オグは少し考えた。
「分けた理由があるならいい」
最近、それが一番嬉しい褒め方になってきた。
次は大麦。
倉の前に袋が積まれている。
昨日見たより、明らかに減っていた。
「売れた?」
帳場の女が頷く。
「朝、南行きが四十持ってった」
百二十袋あった。
今は、八十前後。
まだ二十四はある。
俺はマルクの資金札を出す。
ゼンの輸送確認。
買う量。
二十四。
値段。
昨日聞いた範囲内。
ここで初めて、売買の紙へ自分の名前を書いた。
北方代表、ではない。
運搬担当。
資金管理はマルク。
荷受けはゼン。
売り手は潮浜倉。
名前が並ぶ。
俺一人の紙じゃない。
「二十四、出すよ」
帳場の女が倉へ声をかけた。
荷役が袋を運び始める。
一袋目。
乾いている。
二袋目。
問題なし。
十袋。
十五袋。
二十袋。
二十三袋。
二十四袋目をオグが止めた。
「底」
袋の下が少し濃い。
触る。
湿っている。
「中まで?」
帳場の女が袋を開く。
底の麦が少し固まっていた。
「別のを」
俺が言う。
女が倉を見た。
「今すぐ自由に出せる乾きは、もうない」
「八十あるんじゃ」
「ある。予約分」
またそれだ。
見えている物が全部買えるわけじゃない。
「乾かせば?」
「半日」
俺は海を見る。
潮が変わり始めている。
オグは何も言わない。
でも出港の時間は近い。
二十四袋を揃えるために半日待つ。
それとも二十三で出る。
北は残り七日。
一袋は大事だ。
でも今日の船が止まれば、二十三袋全部が遅れる。
「二十三で出ます」
口にすると、思ったより悔しかった。
帳場の女が湿った袋へ札を戻す。
「次までに乾かす」
「取り置きは?」
「金を置くなら」
マルクの資金を勝手に使えない。
「しません」
「正解」
今日は正しいと言われても嬉しくない。
二十三袋を積む。
残った毛織物一束も積む。
麦の上には置かない。
オグが位置を決める。
帰りは船が重い。
行きより明らかに沈んでいる。
俺が船縁を見ると、オグが言った。
「見る場所は合ってる」
「沈みすぎ?」
「今は平気」
「今は」
「海ではそれしか言えん」
出港。
潮浜が離れる。
二十三袋。
たった二十三。
第一人生の俺なら、少ないと思ったかもしれない。
今は一袋ずつ持ち主と金と船が繋がって、ここにある。
そう思うと重かった。
途中、風が少し落ちた。
止まりはしない。
速度が下がる。
オグは帆を調整する。
俺は言われる前に邪魔な側から離れた。
「そこじゃない」
すぐ直された。
まだだった。
夕方、潮倉が見えた。
着岸。
縄を持つ。
足元の輪を避ける。
岸の荷役を見る。
投げる。
一回。
届いた。
今度はティムはいない。
褒める人もいない。
岸の男が普通に受け取った。
それで終わりだった。
船が寄る。
麦袋を下ろす。
一、二、三。
二十三。
帳場の女が数える。
「北の?」
「まだ潮倉のです」
「買ったのに?」
「北まで届いてない」
女が笑った。
「面倒になったねえ」
同じことを何度言われただろう。
でも今日は、少しだけ嬉しかった。
大麦は海を越えた。
ただし、まだ川がある。
東河港がある。
最後に北までの陸路がある。
海路が開いた、とはまだ言えない。
俺は地図を開く。
潮浜から潮倉まで。
その短い線だけ、前より濃く見えた気がした。
気のせいかもしれない。
紙は何も変わっていない。
「明日の川船、あります?」
倉番の女へ聞く。
「サラなら昼」
「水位は?」
「昨日より低い」
やっぱり次がある。
俺は二十三袋の横へ座った。
腹が減っている。
財布も軽い。
Lv3のまま。
北には七日。
それでも、麦は二十三袋ここにある。
昨日までは、なかった。
今日はここまで。
明日は、川だ。
第154話 二十三袋は、川の手前で十八と五に分かれた
【本文】
昼前、サラの船が潮倉へ入ってきた。
俺は大麦二十三袋の横で待っていた。
昨日ここへ下ろした時より、袋が増えたわけでも減ったわけでもない。
だから、少なくとも今日は話が早いと思っていた。
サラは船から降りると、俺より先に川を見た。
次に船を見る。
最後に麦袋を数えた。
「十八」
「二十三あります」
「見れば分かる」
「じゃあ何が十八なんです?」
「今日、上へ持っていく数」
俺は川面を見た。
昨日より、さらに水が低い。
岸の泥に、古い水の跡が何本も残っている。
「五袋だけ置く?」
「置くか、別の道」
サラは一袋の端を足で押して重さを確かめた。
「二十三積むことはできる。でも、二十三積んだまま東河港まで行けるとは言ってない」
「昨日は二十三、海を来ました」
「海の船に乗れ」
これも、もう何度目か分からない。
船が違えば正解が違う。
潮倉の倉番の女が、帳場から顔だけ出した。
「五袋なら岸道の荷車が午後に出るよ。薬草運びの帰りが空く」
「東河港まで?」
「行く。遅いけどね」
サラが俺を見る。
「待つなら、雨待ち」
「いつ降る?」
「天気に聞け」
昨日までなら、全部船へ載せられる日を待ったかもしれない。
でも北は七日。
正確には、七日という数字も今日一日使えば六日に近づく。
俺はマルクから預かった資金札を出した。
大麦二十四袋分。
運賃。
倉庫。
遅延一日分。
岸道の五袋を追加しても、待って倉庫代と宿代を一日増やすより少し安い。
ただ、勝手に何でも払えるわけじゃない。
札の裏にある使用条件を、もう一度読む。
《輸送経路変更可。総額が遅延予備費内なら現場判断》
書いた時のマルクの顔を思い出した。
たぶん、俺がこういう所で止まると思っていた。
「十八は川。五は岸道でお願いします」
倉番の女がすぐ紙を二枚に分けた。
俺は慌てて言う。
「同じ受取人で」
「同じだから分けるんだよ。どっちが消えたか分からなくなるだろ」
また一つ増えた。
海から来た二十三袋は、川の前で二つの荷になった。
サラの船へ十八袋を積む。
前回より少ないのに、積み方は前回と同じではなかった。
水が低いから、船底を擦りにくいよう中央を少し軽くする。
俺が一袋を置くと、サラが指を鳴らした。
「そこ、半袋ぶん後ろ」
「半袋ぶんって、どのくらい」
「今置いた場所から、俺の靴一個」
「最初からそう言ってください」
「船に靴の目盛りはない」
言いながら直す。
岸道の五袋には、別の荷札を付けた。
受取人は東河港のゼン指定倉。
破れた場合は勝手に混ぜない。
遅れた場合は、先に着いた方だけで出発しない。
そこまで書いてから、俺は止まった。
「最後のやつ、必要です?」
倉番の女が読む。
「何で待つの」
「二十三揃えたいから」
「北は急いでるんだろ」
「……そうだった」
消す。
先に着いた荷は先に次へ送る。
一緒に来たからといって、一緒に動く必要はない。
サラが船から叫ぶ。
「考えるの終わったら乗れ。潮も下がる」
俺は飛び乗った。
「走るな!」
すぐ怒られた。
上りは、下りより遅い。
しかも今日は水が少ない。
帆だけでは進みにくい場所で、岸から綱を引く区間がある。
前に見た時は船員がやっていた。
今日は俺も綱を持った。
「手に巻くなよ」
サラが言う。
「海でも言われました」
「じゃあ何で持ち方が怖いんだ」
「川では初めてだから」
「そこだけ素直だな」
綱を肩へかける。
船がゆっくり前へ出る。
一歩。
二歩。
泥が滑る。
三歩目で、右足が膝まで入った。
「うわっ」
前へ倒れそうになって、綱を離す。
後ろの船員が受ける。
サラが船から怒鳴った。
「綱は離していい! 川に顔から入るな!」
「先に言って!」
「普通は入らない!」
泥から足を抜く。
靴が残った。
一秒、迷う。
船は進んでいる。
「靴!」
「後!」
結局、片足で岸を歩いた。
少し先で船を寄せ、戻って靴を掘り出す。
中まで泥だった。
船員の一人が笑う。
「北の麦、片足で運ぶのか」
「麦は船に乗ってる」
「じゃあお前だけ遅れてる」
言い返せなかった。
浅瀬は二か所あった。
二つ目では、十八袋のうち三袋だけを一度岸へ下ろした。
船を軽くして通し、また積む。
三袋を岸へ置く時、俺は一番上の袋を肩へ担ごうとした。
前世なら、それで済んだ重さだと思った。
今の体では、腰が先に逃げた。
『置け』
サラの声で、すぐ膝を曲げる。
『持てない?』
『持てる。持ったまま歩くのが下手』
『それを持てないって言うんだよ』
船員と二人で棒を通し、両側から運ぶ。
一人でできることを増やしたい気持ちはある。
でも一人でやって袋を落としたら、増えるのは経験じゃなく損失だ。
三袋を下ろし、船が浅瀬を越える。
今度は岸側から積み戻す。
その時、さっきの泥へまた右足が入りかけた。
俺は手前で止まった。
船員が笑う。
『二回目は学んだな』
『そこだけ切り取ると悲しい』
荷役。
綱。
泥。
また荷役。
海より距離は短いのに、仕事の回数が多い。
夕方、東河港が見えた時には腕が重かった。
俺は港へ着く前に岸道の方を探した。
荷車はまだ来ていない。
十八袋を倉へ入れる。
受取札に、サラが自分で印を付ける。
《十八・濡損なし》
俺も確認する。
「これで終わり?」
「俺はね」
「五袋は」
「川に聞くな」
正しい。
俺は倉の前で待った。
腹が減る。
さっき掘った靴の泥が乾いて、足首が妙に硬い。
日が落ちる少し前、薬草荷車が来た。
五袋。
全部ある。
俺は立ち上がった。
でも御者が手を上げた。
「一個、裂けた」
一番後ろの袋に、太い縫い跡がある。
棘のある倒木へ擦ったらしい。
途中で気づいて縫い直したが、少しこぼれた。
ゼン指定倉の男が秤へ載せる。
五袋のうち四袋は満量。
最後の一袋は、八割少し。
俺は紙に書く。
川、十八。
岸道、四。
補修一、八割強。
合計、二十二袋と八割くらい。
二十三袋ではなかった。
でも、十八袋だけでもなかった。
御者が俺の泥だらけの靴を見る。
「そっちも裂けた?」
「埋まりました」
「何に」
「川岸」
「ああ」
それで会話が終わった。
説明が要らないらしい。
俺は倉の壁へ背をつけた。
北まで、まだ陸路が残っている。
今日一日で、七日という数字は一つ減った。
六日。
大麦は二十二袋と八割。
俺の靴は一足。
両方、なんとか残っていた。
第155話 二十二袋と八割では、パン一個も増えなかった
【本文】
翌朝、東河港の倉で最初にやったのは、大麦をもう一度数えることだった。
十八。
四。
補修一。
昨日と同じ。
一晩で増えるはずはない。
でも、数えた。
「それ、寝てる間に子ども産む麦か?」
御者が聞いた。
「減ることはある」
「じゃあ数えとけ」
馬へ水をやりながら、すぐ興味を失った。
北へ上げる荷車は二台になった。
一台目に十一袋。
二台目に十一袋と、補修した一袋。
補修袋は上へ置かない。
荷重の中心も見る。
車輪の留め具も見る。
前ならゼンか灰帽子ロウが先に見ていたところを、自分から確認する。
それでも御者に「右が重い」と言われて一袋を動かした。
まだ完璧ではない。
たぶん、完璧になる前に別の荷が来る。
出発した。
東河港を離れ、見慣れた陸路へ入る。
海でも川でもない。
地面が動かないだけで、少し安心する。
「顔が緩んでるぞ」
後ろの御者が言った。
「陸なんで」
「陸で荷車ひっくり返した奴、毎月いるけどな」
安心が少し減った。
午前中は順調だった。
橋も通れた。
留め具も外れない。
途中で一度だけ止まり、補修袋を確認する。
縫い目は持っている。
俺が手で押すと、中の麦が少し片寄った。
「触りすぎると破れるぞ」
御者に言われ、手を離す。
壊れていない物を心配して壊すところだった。
昼、街道脇で食事を取った。
硬いパン。
豆。
干し肉が少し。
俺はパンを見た。
「何」
御者が聞く。
「いや、これ二十二袋で増えるかなって」
「俺の昼が?」
「北のパンが」
御者はパンを一口食べた。
「増えないだろ」
即答だった。
「そんな少ない?」
「町だぞ」
そう言われればそうだ。
二十二袋と八割は、目の前では多い。
船へ積む時も多かった。
荷車二台へ載せても多い。
でも町が毎日食べる量の前では、小さい。
分かっていたつもりだった。
午後、北方の町が見えた。
倉庫前にゼンがいた。
俺を見て手を上げる。
笑ってはいない。
まず荷車を見る。
「いくつ」
「二十二袋と八割くらい」
「くらいを秤に乗せろ」
再会の言葉がそれだった。
マルクも帳場から出てくる。
「金は」
「残ってます」
「いくら」
「数えます」
「先に数えろ!」
こっちも変わっていない。
荷を下ろす。
一袋ずつ。
乾いている。
補修袋だけ別にする。
ゼンが中を確認する。
泥も入っていない。
麦も臭わない。
「配給へ混ぜる。今日中に」
「一袋減った分は?」
「減ったまま」
「ですよね」
ゼンは俺の顔を見る。
「何を期待した」
「いや……着いたら、もう少し何かあるかと」
「鐘でも鳴らす?」
「それは嫌です」
「じゃあ下ろせ」
結局、全部下ろした。
誰も拍手しない。
倉庫の荷役が一人、「海の麦って塩味するのか」と聞いた。
別の男が「するわけないだろ」と答えた。
そのまま二人は次の袋を運んだ。
町のパン屋へ回す分を決める時、マルクが帳面を開いた。
「昨日の時点で、今の配給を続けられる目安は五日」
俺は顔を上げた。
「七日だったのに」
「お前が運んでる間も食う」
分かっている。
でも数字になると速い。
マルクは麦量と今の配給表を見比べる。
「今回ので、明日予定してた減量は一日延ばせる」
「一日」
「一日」
二十二袋と八割。
海。
川。
岸道。
荷車。
何人も動いた。
それで一日。
俺が黙っていると、マルクが帳面の端を指で叩いた。
「小さいと思うなら、お前が一日食うのやめろ。俺は嫌だ」
「俺も嫌です」
「なら一日は一日だ」
変に納得した。
価格も確認する。
潮浜の買値を十とした時、海運、潮倉、川と岸道への分割、東河港、最後の陸送まで足すと、北へ着いた原価は十三と半分を少し超えた。
約一・三六倍。
帰り荷の炉晶と毛織物が売れていなければ、もっと高かった。
俺は数字を見てため息をつく。
「安くない」
「白嶺が安すぎたんだ」
ゼンが言った。
「一本の道で、ずっと大量に運べた。危ない時ほど、その便利さに慣れてた」
マルクがすぐ横から口を挟む。
「説教はいい。値段は下がらん」
「下がらない?」
「この量じゃ市場価格を動かすほどじゃない。配給の減らし方を一日遅らせるだけ」
町の値段札は、そのまま。
パンが一個増えるわけでもない。
診療所向けの袋も増やさない。
ゼンはそちらを先に確保したまま、今回の麦を一般配給側へ回した。
『病人分を戻せるほどじゃない?』
俺が聞くと、ゼンは首を振る。
『戻すんじゃない。最初から触ってない』
十一日を十四日に伸ばす時に崩す候補だった分だ。
今回の二十二袋と八割は、その線を一日だけ遠ざけた。
夕方、倉から麦粉を受け取りに来たパン屋の女が、新しい価格札を一枚持っていた。
俺は何となく見ていた。
女は札を表へ出さず、帳場の端へ置く。
「上げないんですか」
「明日から上げるつもりだった。でも一日だけ待てって」
「一日」
「嫌なら、もっと持ってきて」
笑っていない。
俺も笑えない。
でも女は古い値札をそのまま持って帰った。
外へ出ると、子どもが荷車の跡を踏んで遊んでいた。
一人が俺に聞く。
「海の麦、しょっぱい?」
「今日二人目だぞ、それ」
「しょっぱい?」
「普通」
「じゃあいらない」
走っていった。
少しだけ腹が立つ。
その夜、倉の食堂で出たのは大麦入りの薄い粥だった。
今日届いた麦かは分からない。
聞こうとしたら、ゼンが先に言った。
「それ昨日の」
「まだ何も」
「顔が聞いてる」
俺は黙って食べた。
味は普通だった。
海の味もしない。
でも、明日すぐ配給を減らさなくていい。
それだけは本当だった。
五日まで減っていた数字が、今回の麦で一日ぶん戻る。
六日。
昨日より道は長くなったのに、北の時間は一日だけ増えた。
一日しか、じゃない。
一日ある。
食べ終わったところで、マルクが紙束を俺の前へ置いた。
「次」
「休ませる気ないでしょ」
「ある。寝ながら考えろ」
無茶を言う。
紙の一番上には、俺がこれまで使った荷札が並んでいた。
海。
川。
荷車。
全部、書き方が違う。
マルクが言う。
「次もお前が全部乗るのか?」
俺は紙を見た。
その質問は、前から頭にあった。
道ができても、俺一人が毎回そこに必要なら、道じゃない。
たぶん次に試すのは、麦の量じゃない。
第156話 俺が乗っていない荷が、先に出発した
【本文】
翌朝、俺は荷札を九項目に増やした。
一時間後、六項目に減った。
「最初のやつ、誰が読むんだ」
ゼンが九項目版を持って言った。
「全員」
「荷役が港でこれ読むの?」
「必要な情報だから」
「必要な情報と、一枚に全部書く情報は別」
昨日までの俺なら反論したかもしれない。
今日は、一度黙った。
机には今までの札がある。
潮浜の売買札。
オグの積荷札。
サラの川札。
北方倉の受取札。
同じ荷なのに、同じ紙では回っていない。
だから共通にしたかった。
でも共通にしすぎると、今度は誰も読まない。
マルクが横から九項目版を取り上げた。
「字が小さい」
「そこ?」
「読めない紙は紙じゃない」
二人とも現場から殴ってくる。
結局、共通札は六つになった。
持ち主。
品名と数。
行き先。
受取人。
破損した時に誰へ戻すか。
遅れた時にどこまで待つか。
売る荷だけ、横に細い札を追加する。
最低価格。
売れ残り期限。
勝手に値下げしない印。
「これなら?」
ゼンが読んだ。
「俺は読む」
「荷役は」
「書いた本人じゃない奴に読ませろ」
そこで、近くを通ったセトが捕まった。
「何で俺」
「暇そうだから」
「槍磨いてました」
「読める?」
俺が札を渡すと、セトは最初の三行を見た。
「ヴァン工房、標準炉晶一箱。東河港のゼン指定倉……受け取るの誰?」
「そこ、裏」
「裏見るの?」
失敗。
受取人を表へ戻す。
次。
「破損したらヴァン工房へ返す。遅れ二日まで。三日目は戻す」
「分かる?」
「分かる。でもこれ、俺が運ぶの?」
「運ばない」
「じゃあ返して」
本当に読むだけだった。
でも役に立った。
ヴァンの工房へ行く。
前回一箱売れた報告と代金を渡す。
潮浜に残した一箱は、二日保管の期限内に売れなければ返送になる。
ヴァンは代金を数えたあと、俺より先に聞いた。
「次は」
「試験で一箱。俺は乗りません」
「誰が見る」
「ゼンが陸、サラが川。潮倉でオグかダグへ渡せる時だけ海。売る条件は前と同じ」
ヴァンは新しい共通札を見る。
「壊れたら」
「勝手に売らず戻す」
「遅れたら」
「二日まで置く。三日目は返す」
「お前がいなかったら」
「この札で同じ判断をしてもらう」
ヴァンは少し考えてから、一箱を指した。
「それ」
許可が出た。
エマの所では、もっと長かった。
毛織物を一束出すまでに、二回やめると言われた。
一回目は天気。
二回目は「前回売れ残ったのに、また持っていくのか」という本人の気分。
「売れた一束は条件通りでした」
「売れなかった一束も条件通り戻ってきた」
「だから次も一束だけ」
「だから嫌なのよ。戻ってくると場所取るの」
理屈が少し違った。
結局、倉庫で二日置かないことを条件に、一束だけ出た。
「売れなかったら当日持ち帰る」
「海が止まったら?」
エマが聞く。
「潮倉で止める前に戻す。海へ渡すかは、その日の船側判断」
「じゃあいい」
許可。
昼前。
炉晶一箱。
毛織物一束。
荷車一台。
前より少ない。
でも今日は、俺が乗らない。
ゼンが御者と札を確認する。
「東河港で受取人に読ませる。読めなきゃ戻す」
「戻すほど?」
俺が聞く。
「読めない札で先へやったら、次でも読めない」
「そこまで厳しくする?」
「お前がいない試験だろ」
そうだった。
俺が横から説明したら、試験にならない。
荷車が動く。
思わず一歩ついていった。
マルクに襟を掴まれた。
「どこ行く」
「いや、出るところだけ」
「もう出た」
荷車は門を曲がった。
見えなくなる。
変な感じだった。
俺が作ったわけではない。
俺の荷でもない。
俺の金でもない。
それでも気になる。
「暇になった?」
後ろからセトが言う。
「全然」
「じゃあ訓練しよう」
嫌な流れだった。
広場へ連れていかれる。
久しぶりに槍を握った。
第二人生で何度か使っている短槍。
前世の感覚は頭にある。
新しい体は、まだ完全にはついてこない。
セトが木槍を構える。
「三本」
「少ないな」
「今のレンなら三本で疲れる」
「言ったな」
一合目。
受ける。
遅い。
二合目。
流す。
少し間に合う。
三合目。
踏み込む。
足が前へ出すぎた。
セトの木槍が肩を叩く。
「物流の人、弱くなった?」
「元から今の体は強くない」
「前の体は?」
一瞬だけ止まる。
「もっと動いた」
「じゃあ今の体で勝って」
セトは深く聞かなかった。
もう一本。
今度は踏み込みを小さくする。
受ける。
流す。
柄で押す。
セトが半歩下がった。
「お」
俺も少し嬉しくなる。
【Lv 3】
表示は変わらない。
でも、前より一手だけ間に合った。
それでいい。
午後、倉で昨日の大麦配給記録を手伝う。
新しい麦が入ったからといって、帳面は勝手に簡単にならない。
古い袋から出す。
湿気のある倉側を先に使う。
診療所分は触らない。
何度も同じことを確認する。
「荷車、今どこかな」
俺が言うと、マルクが筆を止めた。
「知らん」
「気にならない?」
「気になる。でも今ここで見えるか?」
「見えない」
「なら麦数えろ」
正しい。
夕方。
東河港から走り便が戻った。
俺は帳場から飛び出した。
マルクが後ろで「走るな、紙が飛ぶ!」と怒鳴った。
走り便の男は、俺ではなくゼンへ紙を渡す。
ゼンが読む。
俺は横から見ないようにした。
三秒で我慢できなくなった。
「どう?」
「着いた」
「二つとも?」
「炉晶一箱、毛織物一束。破損なし」
「札は?」
ゼンが紙を俺へ渡した。
共通札の写し。
東河港の受取人が、六項目全部に印を付けている。
裏には一行。
《川船は明朝。水位低。積載再確認》
俺の名前は、どこにもなかった。
少し寂しい。
かなり嬉しい。
「明日、見に行く?」
セトが聞いた。
俺は一瞬だけ迷った。
「行かない」
自分で言ってから、もう一度紙を見る。
「東河港から先も、俺なしで一回やる」
ゼンが頷く。
「サラには送ってある」
「いつの間に」
「お前が槍で負けてる間」
見られていたらしい。
その日の夜、もう一通、潮倉から紙が来た。
倉番の女の字だった。
《潮浜の乾き麦、南行きが追加で押さえた。次に同じ量が買えるとは思うな》
下に、余計な一行。
《あと、泥靴まだ臭い》
そっちは忘れてほしかった。
俺は紙を裏返す。
潮浜で同じことを繰り返せばいい、とはもう言えない。
北には、今回の一日がある。
でも次の麦は、別に探さないと減るかもしれない。
地図を見る。
潮浜の西。
まだ名前しか聞いていない港がある。
麦津。
俺は丸を付けなかった。
候補のまま、指だけ置いた。
その横で、俺が乗っていない荷は、もう東河港を越えようとしていた。




