第145話 返事が来ないまま、満潮になった
【本文】
北へ手紙を出したのは、その日のうちだった。
出した、と言っても大げさなものじゃない。
潮倉から東河港へ戻る小舟の船頭に、紙を一枚預けただけだ。
ゼン宛て。
《明後日、短距離の沿岸便へ荷役として乗る候補。契約なし。給金なし。穀物便ではない。俺個人の見学兼作業。北の名義で約束はしない》
そこまで書いて、一度止まった。
最後にもう一行足した。
《海が止まった場合、今の配給で何日耐えられるか知りたい》
倉番の女が、俺の肩越しに紙を見た。
「長い」
「読んでたんですか」
「見えた。船頭は字が細かいと嫌がるぞ」
「重要なんです」
「じゃあ裏に書け」
裏へ続きを書こうとしたら、本当に嫌そうな顔をされた。
結局、二枚目は使わなかった。
小舟は夕方の潮で出た。
東河港へ着くのは夜。
そこから北向きの荷車か早馬へ乗れば、明日のどこかでゼンには届く。
問題は、返事だった。
ダグの締切は明日の満潮。
北から返事が戻る方が、どう考えても遅い。
「……間に合わないな」
俺が言うと、サラは靴を裏返して泥を落としていた。
「何が」
「返事」
「そりゃそうだろ」
「送る前に言ってくださいよ」
「聞かなかった」
ひどい。
サラの船は明朝、上流へ戻る。
俺は潮倉に一人残るつもりだったが、倉番の女から「寝床まで倉庫扱いするな」と追い出され、隣の荷役宿へ入った。
一泊分を払ったら、財布が思ったより軽くなった。
海を見るだけでも金が減る。
夜、食堂で魚の煮込みを食べながら、俺は紙の切れ端へ線を引いた。
乗る。
乗らない。
北の返事を待つ。
待ったら、ダグの便は出る。
次に同じ条件の短距離便がいつあるかは分からない。
でも、だから勝手に北を背負っていいわけでもない。
煮込みの骨を一つ外した。
隣の卓で、荷役の男たちが明日の潮の話をしている。
「二刻早い」
「昨日の表だろ、それ」
「じゃあ一刻」
「お前ら毎日同じ喧嘩してんな」
誰も決着をつけないまま酒を飲んでいる。
俺は紙へ、もう一本線を引いた。
北の契約を決めるのと、俺が一日働きに行くのは同じじゃない。
前者は待つ。
後者は、俺の範囲だ。
そう考えると少し楽になった。
たぶん。
翌朝。
満潮まではまだ時間がある。
ダグは来ていなかった。
代わりに、昨日の渡し舟を直していた若い船員がいた。
二十代半ばくらい。
髪を後ろで雑に縛っている。
俺がダグを探していると、向こうから言った。
「北の夢、乗るの?」
「その呼び方、もう船全体に広がってるんですか」
「俺はティム。夢は知らん」
自己紹介の順番がおかしい。
「レンです」
「知ってる。昨日、泥に靴置いてった人」
「置いてません。回収しました」
ティムは笑いもしなかった。
本気で区別していないらしい。
「船酔いする?」
「分からない」
「じゃあする」
「決定なんですか」
「初めてで『しない』って言った奴、だいたい吐く」
嫌な統計だった。
ティムは舟底の板を外し、中を覗いた。
俺も横から見る。
少し水が溜まっている。
「これ、大丈夫?」
「昨日の雨」
「海の船も入る?」
「入るよ」
「沈まない?」
「量を見ろ」
また怒られた。
最近、知らないことを聞くたびに誰かから雑に返される。
でも、その雑さの中に必要な答えはある。
水があることと、沈む量は別。
俺は桶を借りて、舟底の水を掻き出した。
満潮が近づくと、潮倉の前が急に忙しくなった。
昨日まで地面だったところへ水が入り、渡し舟が浮く。
荷役たちが縄を運ぶ。
倉番の女が鍵を鳴らしながら怒鳴る。
「三番倉、先に開ける! 塩袋を表へ出すな、湿気る!」
俺はダグを探した。
いない。
締切だけ来て、本人が来ない。
「こういう人なんですか」
ティムに聞くと、縄を肩へ載せたまま言った。
「来る時に来る」
答えになっていない。
満潮の少し前。
小さな鐘が一度鳴った。
沖から渡し舟が近づいてきた。
ダグが乗っている。
岸へ着く前に、こっちを見た。
「返事は」
大声だった。
「まだです!」
「じゃあ乗らないのか!」
俺は一瞬だけ詰まった。
周りがうるさい。
荷役が樽を転がし、船頭が縄を投げ、倉番の女が誰かを怒鳴っている。
考えるには向いていない場所だった。
でも、締切は今だ。
「北の契約はしません!」
ダグが縄を取る。
「聞いてない!」
「北の名前で約束もしない! 荷も買わない! 俺個人が荷役で乗るだけなら、行きます!」
ダグは縄を杭へ回した。
返事がない。
聞こえなかったのかと思った。
ティムが横で小さく言う。
「それ、決まったって意味」
「本人が言ってくださいよ」
ダグがようやくこっちを見た。
「明日の鐘前。遅れたら置く」
「明日?」
「最初から明後日の便だ」
そうだった。
返事の締切と、出る日を頭の中で一緒にしていた。
ティムが横を向いた。肩が少し揺れている。
「笑ってます?」
「別に」
腹が立つ。
ダグはもう倉番の女と別の荷の話をしていた。
俺の参加可否は、それで終わったらしい。
サラはその日の上げ潮で川へ戻った。
別れ際、俺の荷物を見て眉をひそめた。
「それだけ?」
「着替えと水と紙」
「紙は濡らすな。着替えは濡れても死なない」
「順番逆じゃないですか」
「地図好きには合ってるだろ」
言い返す前に、サラは船へ乗った。
残った午後は潮倉で荷役を手伝った。
宿代をもう一泊払うのが嫌だったのもある。
倉番の女は「働いたら寝ていいとは言ってない」と言いながら、夕方には裏の空き部屋を貸してくれた。
少しだけ安い。
優しいのか商売なのか分からない。
ティムに、海へ何を持っていけばいいか聞いた。
「吐く用の桶」
「船にあるでしょ」
「じゃあいらない」
「他は?」
「朝飯」
「食べていいんですか」
「食いすぎるな。空でも吐く」
役に立つのか立たないのか、ぎりぎりの情報だった。
夜、宿の婆さんが船酔いに効くという苦い根を一本売ってきた。
値段を聞いてやめた。
隣でティムが同じ根を噛んでいた。
「効かないんじゃないの」
「口が暇だから」
ますます買わなくてよかった。
翌朝。
ゼンからの返事は、まだない。
海へ行ってもいいか、という答えもない。
でも俺が決めた範囲は変わらなかった。
北の食料は約束しない。
船も契約しない。
俺は一日、働きに行く。
鐘が鳴る前に渡し舟へ乗った。
その先に、昨日まで岸から見ていた海船が浮いていた。
今度は見る側じゃない。
働く側で、初めて海へ出る。
第146話 海では、まっすぐ立つだけで一仕事だった
【本文】
船へ乗って最初にやったのは、海を見ることじゃなかった。
縄だった。
「そこ、手首に巻くな」
ダグが言う。
俺はちょうど巻きかけていた手を止めた。
「持ちやすいかと」
「持ってかれる」
「何に?」
ダグは答えず、沖を指した。
聞く相手を間違えた気がする。
ティムが後ろから俺の手を叩いた。
「船が引いたら腕ごと行く。握って、余ったら逃がせ。巻くのは杭」
「先にそれを言ってくれれば」
「今言った」
船の人は、たぶん全員こんな感じだ。
潮倉から沖の船までは渡し舟。
そこで初めて、ダグの沿岸船へ乗り移った。
川船よりずっと大きい。
でも、遠くから見た時ほど大きくは感じなかった。
甲板に立つと、置いてある物のせいで狭い。
縄。
水樽。
畳んだ帆布。
木箱。
棒。
何に使うか分からない道具が多い。
そして全部、動きそうに見えた。
「固定してあるから動かない」
俺が箱を見ていると、ティムが言った。
「動いたら?」
「固定が悪い」
「分かりやすい」
「動いた箱の前に立ってたら?」
「俺が悪い?」
「分かってるじゃん」
嬉しくない学習だった。
出航した。
岸が離れる。
山が小さくなる。
白嶺はここから見えない。
代わりに、水平線がある。
地図でしか見たことのない広さだった。
俺はしばらく黙って見ていた。
たぶん一分くらい。
「感動終わった?」
ティムが言った。
「もう少し」
「終わったらこれ畳んで」
濡れた縄の束を渡された。
夢の時間は短かった。
縄を畳んでいる途中、足元に丸い輪ができた。
俺は邪魔にならないよう、その中へ片足を入れた。
次の瞬間、ティムに肩を掴まれて外へ引かれた。
「そこ入るな」
「何で?」
返事より先に、別の船員が縄の先を引いた。
足元の輪が一気に小さくなった。
さっき俺の足首があった場所を、濡れた縄が走る。
ぞっとした。
「……これ、踏んでたら?」
ティムは自分の足首を指で二回叩いた。
その先は言わない。
俺は縄の輪から二歩離れた。
海はまだ穏やかだった。
怖かったのは波じゃなく、甲板の上だった。
最初の一刻は、平気だった。
船は揺れる。
でも川船でも揺れた。
膝を少し曲げれば立てる。
Lv3になった体も、前よりは言うことを聞く。
俺は少し得意になった。
ティムが見ている。
「大丈夫そうですね」
「まだ岸が見える」
「関係ある?」
「ある奴にはある」
嫌な言い方をする。
さらに沖へ出た。
波の向きが変わった。
船が前後だけじゃなく、斜めに持ち上がる。
一度上がって、下がる。
次は少し違う方向。
足が勝手に床を探す。
川にはなかった動きだ。
「……これ、一定じゃないんですね」
誰も答えなかった。
ダグは帆を見ている。
ティムは桶を固定している。
もう一人の船員は船尾で何か結び直している。
今は質問の時間じゃないらしい。
俺も黙った。
十分後。
胃が変だった。
二十分後。
口数が減った。
三十分後。
ティムが俺を見て、木桶を足元へ滑らせた。
「まだいらない」
「そう」
「本当に」
「そう」
その五分後に使った。
悔しかった。
吐いている間も船は進む。
世界は親切じゃない。
背中をさすってくれる人もいない。
ティムは水を一杯だけ置いていった。
「飲みすぎるな」
それだけ。
俺は甲板へ座り込んだ。
Lv3。
前世では古代守護個体と戦った。
今世では海に負けた。
【HP 91%】
「減るんだ……」
思わず言うと、ティムが初めて声を出して笑った。
「何が?」
「こっちの話です」
転生院の女性と同じ返しをしてしまった。
昼の飯が配られた。
硬いパンと塩漬けの魚。
俺はパンを半分だけかじった。
胃が「今はやめろ」と言っている気がする。
ティムは隣で普通に食べていた。
「慣れたら食える?」
「人による」
「便利な答えですね」
「海で断言すると外れた時うるさいから」
言った直後、ティムのパンの端を鳥がさらった。
白い海鳥が一瞬だけ甲板すれすれを飛び、そのまま逃げる。
ティムは空を見た。
何も言わない。
俺も何も言わなかった。
笑ったらまた吐きそうだった。
少し休んでいると、ダグが近くへ来た。
「立てるか」
「たぶん」
「たぶんで立つな。膝から」
言われた通りにする。
体をまっすぐ固めるんじゃない。
船が上がる時に少し逃がす。
下がる時も、足で追いかけすぎない。
一回目は遅れた。
二回目はまし。
三回目で、さっきより景色が揺れなくなった。
ゲームの補助が勝手に全部やってくれる感じはない。
でも、何度か同じ動きをすると、体が少しだけ早く追いつく。
「これ、慣れたら技能補助つくのかな」
「喋れるなら働け」
ダグに聞く話ではなかった。
昼前、風が落ちた。
船の速度も落ちた。
俺はそこで初めて、船は水だけでなく風にも縛られていることを実感した。
ダグが空を見ている。
雲。
帆。
海面。
同じものを順番に見ているようで、何を読んでいるのか俺には分からない。
「遅れます?」
俺が聞くと、ダグは少し間を置いた。
「今のままなら」
「どれくらい」
「今聞いて何する」
「……待つ?」
「正解」
ティムが横から言った。
「船長、珍しく褒めた?」
「褒めてない」
「じゃあ普通か」
二人の会話は、たまに俺を置いていく。
午後。
風が戻った。
東の小湾が見えた。
予定より少し遅いだけで着けそうだった。
俺はもう一度、岸を見る。
今度は感動する余裕が少し戻っていた。
でも船が岸へ近づいた瞬間、ダグが怒鳴った。
「前、縄!」
俺は反射で動いた。
縄を取る。
手首には巻かない。
岸の杭へ届くよう、束を持つ。
投げる。
一回目。
短い。
縄が水へ落ちた。
「すみません!」
「謝る前に上げろ!」
引き上げる。
濡れて重い。
二回目。
今度は届いた。
岸の荷役が取る。
船が寄る。
俺は息を吐いた。
ティムが横で言う。
「海の縄Lv1」
「川はLv2だったのに」
「別技能」
そんな表示は出ていない。
でも妙に納得した。
船が完全に着いた。
俺は初めて海を渡った。
片道半日。
穀物は一袋も運んでいない。
契約もない。
成果らしい成果は、縄を二回投げたことくらいだった。
それでも、もう一度やれば一回で届く気がした。
そう思った時、少しだけ楽しくなった。
第147話 半日の航路で、帰れない夜ができた
【本文】
東の小湾は、港というより仕事場だった。
家が二十軒ほど。
魚を干す棚。
塩を積んだ低い倉。
浜に伏せた小舟が何艘もある。
匂いは強い。
潮と魚と煙。
それから、今日積む魚粉。
最後だけ別格だった。
「これ、服に残ります?」
俺が聞くと、ティムが空樽を転がしながら言った。
「三日」
「洗ったら?」
「二日」
「嘘ですよね」
ティムは答えなかった。
たぶん嘘じゃない。
俺たちの仕事は、空樽を十二本積み、塩袋を二十、魚粉袋を八つ載せることだった。
空樽は軽い。
軽いけど邪魔だ。
転がる。
塩は重い。
魚粉は、持つと粉が服へ付く。
一度むせたら、近くの女が「口閉じて運びな」と言った。
正論だけど難しい。
ダグは積載の順番を変えた。
「樽、奥二列。塩は下。魚粉は後」
ティムが一つの樽を止める。
「これ割れてる」
「外せ」
浜の男が言い返した。
「水なら漏れない」
「空気が漏れてる」
「空気は売ってない」
ダグはその樽を転がして返した。
交渉終了だった。
俺は笑いそうになったが、浜の男は本気で不満そうだった。
仕事の途中で、倉の奥に穀物袋が三つ見えた。
大麦。
俺は反射でそっちを見る。
ダグが気づいた。
「売り物じゃない」
「聞くだけでも」
「聞くのは勝手」
許可なのか放置なのか分からない。
倉の女に聞くと、三袋は漁の共同食だった。
売れない。
少し離れたところでは、大鍋で海水を煮ている。
火の下に積まれているのは木炭だった。
俺は炉晶のことを思い出した。
帰り荷。
「ここ、炉晶は使わないんですか」
鍋を見ていた男が、火掻き棒を止めた。
「高い」
一言だった。
「標準品でも?」
「雨続きで木炭が湿った時は欲しい。毎日は要らん」
「どれくらいなら」
「売る話なら親方に聞け。俺に聞くと全部一袋になる」
「一袋?」
「運ぶの面倒だから」
商売の数字じゃなかった。
でも、ゼロではない。
俺は《塩場・炉晶は非常用なら可能性》とだけ書いた。
買い手、とはまだ書かない。
「この辺で大麦をまとめて売る人は?」
女は魚粉袋の口を縛りながら考えた。
「今は少ないね。西から来る船なら積んでる時がある」
「どこの船?」
「船は毎回違うよ」
「港は?」
「向こう二つ先。潮浜か、その先の麦津」
初めて聞く名前だった。
「定期で来ます?」
女は俺を見た。
「海に定期を聞く人、好きだねえ」
昨日ダグにも似たようなことを言われた。
「だいたいで」
「だいたい七日。来ない時は十日。もっと来ない時もある」
「量は?」
「知らない。うちは魚屋だよ」
そこで会話は終わった。
十分ではない。
でも、ゼロでもない。
潮浜。
麦津。
俺は紙へ名前だけ書いた。
地図へ線はまだ引かない。
来るかどうかも分からない船を、道にするのは早い。
昼を過ぎた頃、積み込みが終わった。
俺は魚粉の匂いを全身に付け、手も粉っぽい。
ティムが自分の袖を嗅いだ。
「今日はまし」
「これで?」
「風向きいいから」
海の基準が分からない。
ダグは空を見ていた。
さっきまで晴れていた。
沖はまだ明るい。
でも陸側から白いものが流れてきている。
雲じゃない。
低い。
「霧?」
俺が言うと、ティムが返事をしなかった。
笑いもない。
ダグが短く言った。
「降ろせ」
一瞬、意味が分からなかった。
「何を?」
「魚粉半分。塩も十。樽は残す」
「出ないんですか」
ダグは答えず、船尾へ向かった。
ティムはもう縄を外している。
俺だけ止まっていた。
「レン、袋!」
呼ばれて動く。
さっき積んだ魚粉を、また降ろす。
何で。
聞きたい。
でも全員が動いている。
今は質問の時間じゃない。
三袋目を担いだところで、海の向こうが消えた。
本当に消えた。
さっき見えていた岩場が白くなる。
船が一艘、その中へ入って、半分見えなくなった。
ダグがその船を見て舌打ちする。
「馬鹿が」
「これ、待てば晴れます?」
俺は袋を置いて聞いた。
「晴れるかもしれん」
「どれくらい」
「知らん」
「夕方には?」
「知らん」
「明日は?」
ダグがやっと俺を見た。
「だから海は止まるって言った」
昨日の言葉が、そのまま戻ってきた。
俺は黙った。
出港は中止になった。
欠航、というほど大げさな便じゃない。
ただ帰らない。
それだけで、予定が一日ずれる。
塩と魚粉の半分は倉へ戻された。
全部降ろさないのは、朝すぐ出られる可能性を残すためらしい。
でも湿気が来れば魚粉は下ろす。
夜中に風が変われば、縄を増やす。
船員は泊まる。
飯も食う。
倉も使う。
一日止まるだけで、金が少しずつ増える。
俺はダグの帳面を覗いた。
「これ、運賃に乗るんですか」
「乗る時もある」
「今回は?」
「俺持ち」
「何で?」
「俺が出ないと決めたから」
「安全のためなのに?」
ダグは帳面から顔を上げなかった。
「安全だから金が消えるわけじゃない」
それ以上は説明しなかった。
ティムが魚粉袋を高い棚へ移しながら口を挟む。
「船長が霧に突っ込んで船壊したら、もっと高い」
「それは分かる」
「じゃあ終わり」
海の採算は、動いた日だけ見ても駄目らしい。
ダグは浜の家と話して、船員三人分の寝床を確保した。
俺は数に入っていなかった。
「俺は?」
「荷役」
「荷役は寝ない?」
「自分で取れ」
厳しい。
ティムが横から言う。
「魚粉倉なら空いてる」
「絶対嫌だ」
今日一番速く答えた。
結局、浜の共同小屋の隅を借りた。
寝台はない。
毛布一枚。
床は固い。
でも魚粉倉よりはいい。
夕食は魚の焼いたのと、薄い豆スープ。
パンは小さい。
俺はそこで、北のことを思い出した。
返事は来ているだろうか。
今の俺には確認できない。
明日戻れるかも分からない。
ダグが聞いた「海が止まった時、北が何日耐えられるか」という問いが、昨日より重くなっていた。
昨日は紙の端へ書いただけだった。
今夜は俺自身が帰れない。
その違いだけで、十分だった。
目の前ではティムが焼き魚の骨を一本、きれいに抜けずに苦戦していた。
「海の人でも魚食べるの下手なんですね」
「黙れ」
少し笑った。
外へ出る。
霧はまだ濃い。
浜の灯りが十数歩先でぼやけている。
半日で来た道だ。
地図なら短い線で済む。
でも今夜、その線は使えない。
俺は潮浜と麦津と書いた紙を折り、濡れないよう袋へ入れた。
まだ道じゃない。
明日、帰れるかも分からない。
海へ出た最初の日に覚えたのは、遠くへ行く方法より、帰れない時の方だった。
第148話 霧が晴れても、潮は待ってくれなかった
【本文】
朝、目が覚めた時も、窓の外は白かった。
昨日よりは明るい。だから一瞬、帰れると思った。
共同小屋の戸を開けると、ティムが浜で片方の靴を逆さにしていた。砂がざらざら落ちる。
「晴れました?」
俺が聞くと、ティムは靴を振ったまま海を見た。
「霧ならな」
「なら?」
「潮が下がる」
その意味を理解する前に、ダグが船の横から声を飛ばした。
「魚粉、全部降ろせ。塩も見ろ。濡れてる袋は別」
昨日、半分だけ倉へ戻した荷を、今度は全部戻すらしい。俺は眠気ごと押し込めて魚粉袋を担いだ。
浜の霧は少しずつ薄くなっていた。でも船の下の水も、目に見えて遠ざかっていく。
「霧が晴れたら出るんじゃないんですか」
「霧が晴れて、潮が足りて、風が悪くなければ出る」
ダグは塩袋の口を押してから、俺を見もしないで言った。
「海は一個ずつ許可取ってくれん」
分かりやすいのに、嫌な仕組みだった。
塩袋を調べていると、一つだけ角が湿っていた。破れてはいない。けれど倉の女は、その袋だけ別の板へ載せた。
「これ、駄目ですか」
「今なら駄目じゃない。混ぜたら明日、全部面倒になる」
彼女は濡れたところを指でつまみ、乾いた布を巻いた。
「一袋を惜しんで十袋駄目にする人、毎年いるからね」
ティムが小声で「去年は船長」と言った。
ダグが振り返る。
「聞こえてる」
「じゃあ今年は言わない」
もう言っていた。
午前の仕事が片づく頃には、沖の岩場が見えるようになった。俺は期待して船を見たが、ダグは乗せる気配がない。
浜の杭を見ている。
いや、海面を見ていた。
水が遠い。
昨日なら船の腹近くまであった海が、今はぬれた砂を大きく見せている。
「出られない?」
「船を引きずれば出られる」
「じゃあ――」
「底を壊して帰れなくなる」
終わった。
霧は晴れた。
でも潮が足りなかった。
待つしかない時間ができたが、船の仕事は止まらなかった。ダグは昨日の積荷札を一枚ずつ外し、今日の分へ書き直している。魚粉八袋のうち何袋を戻すか。塩はどれを乾かすか。樽はそのまま積むか。
「昨日の札、使えないんですか」
「昨日の荷じゃない」
「同じ袋でも?」
「一晩倉に戻した」
それだけで扱いが変わるらしい。
浜の男が「魚粉は全部持ってけ」と言い、ダグが「潮見てから」と返す。二人とも声を荒げていないのに、話は一歩も進まない。
俺が横から「四袋残すなら値段も――」と言いかけると、二人同時にこっちを見た。
「今それじゃない」
声まで揃った。
俺は黙って札を束ねた。
昨日なら、止まっている時間に何か一つでも前へ進めたくなっていた。今日は、待っている間にも別の仕事が増えることの方が気になった。
それでも手が空いたところで、俺は昨日失敗した縄を借りた。岸の杭へ投げる練習くらいならできる。
一回目。
届いた。
「お」
喜んだ瞬間、縄が杭の横を滑って落ちた。
ティムが拍手を一回だけした。
「海の縄Lv1.2」
「刻み方が細かい」
二回目は杭にかかった。
今度こそ、と思ったら輪がねじれて外れた。
「下手なの、投げ方だけじゃないな」
「そこまで分解してくれなくていいです」
三回目の前に、倉の女から「仕事しないなら壁に投げな」と追い払われた。
俺は少し離れた壁で続けた。
昼を過ぎ、潮が戻り始める。船も少しずつ浮いた。
それでもダグはすぐには出なかった。
帆を見て、沖を見て、鼻で一度息を吐く。
「まだ?」
「西から風が来る」
「悪い?」
「今出ると帰りが遅い」
昨日から、俺は「出られる」と「出る」が別の意味だと何度も教えられていた。
一時間後、ダグがようやく手を上げた。
積み直す。
ただし昨日と同じ量ではなかった。魚粉四袋は浜へ残す。
売り手の男が不満そうに眉を寄せた。
「昨日積んだだろ」
「今日の船に載る量じゃない」
「四袋くらい」
「海に言え」
男は海を見た。
海は何も答えない。
俺も何も言わなかった。あれは交渉相手として強すぎる。
帰りの船は、昨日より少し軽かった。
浜に残した魚粉四袋が頭に残る。
「次の便で持っていくんですか」
俺が聞くと、ダグは帆綱を締めながら首を振った。
「次の荷次第」
「昨日積んだのに」
「昨日の約束で今日の船を沈める気か」
「そこまで言ってないです」
「なら聞くな」
ティムが横で「船長、今日ちょっと機嫌悪い」と教えてくれた。
ダグがすぐ返す。
「お前の分の宿代まで払ったからだ」
「俺、床でしたけど」
「床にも金はかかる」
海へ出る前は、運賃だけ見ればいいと思っていた。実際は、出なかった日にも金が増えるし、積まなかった荷にも次の都合が生まれる。
俺の胃も昨日よりましだった。
揺れが来る前に膝を緩める。帆の向きが変わる時は、邪魔にならない側へ寄る。輪になった縄の中へ足を入れない。
全部、昨日一回痛い目を見たことだった。
途中でティムが例の桶を俺の近くへ置いた。
「今日は使わないかもしれない」
「言うと使うぞ」
「じゃあ見なかったことにします」
桶は最後まで空だった。
夕方、潮倉の桟橋が見えた。
ダグが前を指す。
「レン、縄」
今度は考える前に取れた。
手首へ巻かない。足元の輪を避ける。岸の男がこちらを見てから投げる。
一回。
届いた。
岸の男が受ける。
「よし」
俺が小さく言うと、ティムが首を傾げた。
「取ってもらっただけだぞ」
「届いたでしょ」
「昨日も二回目は届いた」
「今日は一回」
「受け手が上手い」
揉めていると、ダグが船尾から言った。
「仕事になったならどうでもいい」
たぶん、それが一番正しかった。
岸へ降りた瞬間、地面が揺れた。
俺は反射で足を広げる。
揺れていない。
「何してる」
ティムが笑う。
「陸が動いた」
「動いてない」
頭では分かっているのに、体がまだ船にいる。
船酔いの次は、陸酔いらしい。
潮倉へ戻ると、昨日の倉番の女が紙を一枚ひらひら振った。
「北から。昨日来たよ」
胸が一瞬だけ速くなる。
ゼンへの手紙の返事だ。
俺は受け取って、すぐ封を切ろうとした。
その時、自分の手を見た。
魚粉。
まだ臭う。
「……先に洗います」
女が目を細めた。
「そこは成長したね」
何の成長かは聞かなかった。
水桶で手を洗い、袖で拭く。
海に出てから二日。
ようやく、北からの答えが俺の手元へ戻ってきた。
第149話 北は十一日待てる。でも、北は一人じゃなかった
【本文】
ゼンの手紙は、俺の手紙より細かい字で埋まっていた。
最初の一行だけは読みやすかった。
《勝手に船へ乗るな、と書こうと思ったが、もう乗ってそうだから省く》
読まれていた。
しかも正確に。
倉番の女が横から覗こうとするので、紙を少し折った。
「家族の手紙?」
「違います」
「恋人?」
「もっと違います」
「じゃあ見てもいいね」
「理屈がおかしい」
俺は壁際へ移動した。
二行目からが本題だった。
今の配給を維持できるのは、十一日。
干し豆、干し魚、診療所用の備蓄まで全部混ぜれば十四日近くまで伸ばせる。ただしゼンは、その数字の横へわざわざ線を引いていた。
《病人用を食った十四日は備蓄とは呼ばない》
さらに種籾も数えない。
春に撒く分を今食えば、来年が減る。
十一日。
俺はその数字を紙の端へもう一度書いた。
「十一日で食べ物がなくなる?」
いつの間にか戻ってきた倉番の女が聞いた。
「いや。今の配給を続けられるのが、十一日です」
「じゃあ十二日目から急に全員倒れるわけじゃない」
「はい。減らすか、別の備蓄を崩すか」
「そっちの方が嫌な数字だね」
言われて、俺もそう思った。
十一日後が崖じゃない。
十一日後から、毎日の食べ方を悪くする判断が始まる。
手紙には続きがあった。
《海を見るのは止めない。お前個人で見てこい。ただし北方の名義で売買を約束するな》
そこまでは想定していた。
その次が、俺には効いた。
《“北の荷物”という物はない》
第三倉庫の金はマルクが見る。
東行き便の荷はゼンの担当。
炉晶は工房ごとに持ち主が違う。
毛織物は店と織り手が違う。
町の名前を言えば全部が動くと思うな。
俺は二回読んだ。
第一人生の俺なら、たぶん「北方の炉晶を帰り荷にしよう」とまとめて考えただろう。
今はその炉晶一袋に、別の持ち主がいる。
しかも勝手に使えない。
最後に、ゼンが必要な情報を書いていた。
《買う話を持ち帰るなら、売り手、量、値段、積める日。船を使うなら、遅れた場合の日数も。そこまで分からない話は“可能性”として聞く》
その下に、小さく追記がある。
《あと帰ってこい。マルクが荷役一人消えたって怒ってる》
俺は少し笑った。
倉番の女がまた覗く。
「今度は何」
「帰れって」
「当たり前だよ。二泊目から宿代上がるし」
現実的な理由だった。
俺は紙へ必要な項目を書き直す。
売り手。
量。
値段。
積める日。
遅れた時の日数。
そこへ昨日ダグから言われたことを足した。
船。
六つ。
船がなければ、穀物があっても北へ来ない。
俺は十一日の横に、今まで通った道を書いた。
潮倉から川船。
川船から東河港。
東河港から北方までは荷車。
昨日みたいに海で一日止まれば、一日減る。川が低ければ、また減る。橋で荷車が止まれば、さらに減る。
数字を並べていると、倉番の女が紙の上へ指を置いた。
「全部最悪で足したら何もできないよ」
「でも起きるかもしれない」
「起きる。だから一個止まっても死なない組み方にするんだろ」
彼女はそう言って、乾かしていた塩袋を裏返しに行った。
説明のために言った感じではなかった。
たぶん、この倉では普通の話なんだ。
俺は《十一日で全部を完成させる》と書きかけた文字を消した。
まず一便。
それが止まっても、陸と川が残る形。
海だけを新しい白嶺街道にする気はなかった。
ダグは船の横で縄を乾かしていた。俺が十一日と伝えると、手を止めずに聞いた。
「延ばせる十一か」
「今の配給を保てる十一です。十四までは崩せる。でも病人用とか種籾を食う」
「じゃあ十一で考えろ」
即答だった。
「潮浜と麦津。先に見るならどっちです?」
「潮浜」
「近いから?」
「小さいから」
俺が黙ると、ダグが縄を裏返した。
「駄目なら早く駄目と分かる」
それは、第一人生ではあまり持っていなかった考え方だった。
大きい可能性を探すより、小さく失敗して次へ行く。
いや、意味を綺麗にまとめるのは後でいい。
今は十一日しかない。
「潮浜へ行く船、あります?」
「明日の朝、小舟が一つ西へ出る」
「乗せてもらえます?」
「船頭次第」
「知り合い?」
「顔は知ってる」
「それ、知り合いですか」
「海じゃ十分」
ダグはそこで初めてこっちを見た。
「オグ。口悪い。荷が多いともっと悪い」
「紹介してもらえます?」
「借り一つ」
「いくらです?」
「金じゃない」
一番嫌な種類だった。
「何を返すんです」
「まだ決めてない」
「もっと嫌だ」
ティムが近くで吹き出した。
ダグは気にせず縄を巻く。
「嫌なら歩け」
潮浜まで海岸沿いに歩けば何日かかるか聞こうとして、やめた。
たぶん明日の船の方が早い。
ゼンは帰ってこいと書いている。
本来なら、ここで東河港へ戻るべきだ。
でも潮浜の船は明日の朝。今日戻れば、次に同じ便がある保証はない。
俺はダグに聞いた。
「潮浜を見てから北へ戻るの、遅いですか」
「北に聞け」
「今聞いたら返事が来る頃には船が出てます」
「じゃあ自分で決めろ。北の契約をしない範囲は許されてるんだろ」
突き放したようで、答えはあった。
俺は少し迷ってから、潮浜までを個人調査の範囲に入れた。マルクにはたぶん怒られる。でも、怒られる内容を一日分増やす代わりに、売り手の有無を持って帰る。
そこで初めて、夕方、北へ短い返事を書いた。
《十一日で計算する。潮浜を確認してから戻る。北方名義の契約はしない。売り手・量・値段・積める日・船・遅延日数を持ち帰る》
書き終わると、倉番の女が紙を見た。
「短い」
「前は長いって言ったじゃないですか」
「これはつまらない」
「報告書に面白さ要ります?」
「私は読むから」
俺は紙を折った。
魚粉の匂いの話も、陸が揺れた話も書かなかった。
その夜の宿代で、財布がまた軽くなった。
海路を調べる前に、俺の所持金の方が閉じそうだった。
翌朝。
潮倉の端へ、小さな帆船が入ってきた。
ダグの船より一回り小さい。船首に古い青布が巻いてある。
船から降りてきた男は、俺より先にダグを見た。
「何だ」
「一人、潮浜まで」
ダグが俺を指す。
男――オグは、俺を上から下まで見た。
「荷は?」
「俺だけです」
「役に立つ?」
「たぶん」
オグの顔が露骨に嫌そうになった。
「ダグの借りってお前?」
「たぶん」
「たぶんの奴は乗せたくねえな」
昨日までの海より、出航前の方が難しい気がしてきた。
第150話 大麦はあった。空いている船がなかった
【本文】
オグは三回、俺を乗せない理由を言った。
一回目。
「荷役なら足りてる」
二回目。
「客なら金を払え」
三回目。
「見学なら邪魔」
全部もっともだった。
俺は一度口を閉じた。
昨日までなら「北の食料が」と説明し始めていた気がする。でも、それでオグの船が広くなるわけじゃない。
「客で。潮浜まで片道。着いたら自分で降ります」
オグが眉を上げた。
「帰りは」
「未定です」
「それは知ってる。金」
「いくら?」
「銅貨二枚」
思ったより普通だった。
俺が財布を出すと、ダグが横から言った。
「借りは残す」
「え」
「紹介はした」
「乗るのは俺が払うのに?」
「そう」
本当に一番嫌な種類の借りだった。
オグはもう興味を失って、船へ戻っている。
俺も乗った。
同じ海でも、船が違うと勝手が違った。
縄の置き場所が違う。甲板が狭い。帆柱の位置も違う。
昨日覚えたつもりで、端に寄せてあった縄を動かそうとしたら、オグに手を叩かれた。
「触るな」
「邪魔かと」
「俺にはそこが邪魔じゃない」
船ごとに正解が違う。
海の縄Lv1どころか、船別設定が必要らしい。
【HP 100%】
今日は酔っていない。
それだけで少し嬉しい。
オグの船は沿岸を西へ進んだ。
昨日の東便より波は小さい。代わりに岸が近く、浅い岩場を何度も避ける。
途中、オグが舵を少し切るたび、俺には何を見ているのか分からなかった。
「そこ、岩あります?」
「ある」
「見えない」
「俺は見える」
「どうやって」
「色」
海面を見た。
青と緑と、光。
全然分からない。
「今覚えようとするな。落ちるぞ」
オグはそう言って、俺の足元を顎で指した。
危うく縄を踏むところだった。
知識が増えるほど、足元がおろそかになる。
午前のうちに潮浜へ着いた。
名前から大きな港を想像していたけれど、東の小湾より少し大きい程度だった。
倉が四つ。
桟橋が二本。
船は七、八艘。
そのうち大きいのは二艘だけ。
そして、あった。
大麦袋。
倉の前に何十袋も積まれている。
俺は思わず足を速めた。
「走るな」
後ろからオグが言う。
「逃げねえよ、麦は」
少し恥ずかしい。
倉の帳場には、髪を後ろでまとめた中年の女がいた。俺が北方から来たと言うと、まず服を見られた。
「商人?」
「違います」
「船主?」
「違います」
「買い付け?」
「候補を調べに」
女は手元の帳面を閉じなかった。
「一番面倒なのが来たね」
反論できない。
俺はゼンの手紙から写した六項目を見せた。
売り手。
量。
値段。
積める日。
船。
遅れた場合の日数。
女はそこまで読んで、少しだけ態度を変えた。
「予約は?」
「まだしません」
「正解。金も権限もない人の予約は、こっちも困る」
「仮押さえも?」
「それを皆がやったら、倉が紙だけで空になる」
俺は頷いた。
大麦が見えているだけで、もう自分の荷みたいに考えかけていた。
「誰に教わった」
「北の倉庫の人と、海の船頭です」
「じゃあ最低限は話せる」
まず、売り物はある。
今週、外へ出せる大麦は百二十袋前後。
値段は平年より高い。でも東河港で不足した時の値よりは少し安い。
積み込み自体は、早ければ明日からできる。
そこまで聞いた時、俺は一瞬だけ「いける」と思った。
でも五つ目で止まった。
船。
「大きい二艘は?」
俺が桟橋を指すと、女は即答した。
「南行き。片方は塩、片方は木材。契約済み」
「他に穀物を運べる船は」
「小舟ならあるよ」
「どれくらい」
「二十から三十袋。海が良ければ。潮倉までならね」
百二十袋ある。
でも一度に運べるのは、その一部。
「大きい船が空くのは?」
「早くて六日後」
「六日」
「予定通りなら」
「六日後の分、今押さえられます?」
「持ち主と船主と金を揃えてから。明日までなら話を聞く。六日後まで袋を眺めて待つ約束はしない」
売る側にも予定がある。
北が困っているからといって、潮浜が待ってくれる理由はなかった。
最後の一言が重い。
北は十一日。
ここで六日。
そこから潮倉。
川船。
東河港。
最後は陸路。
途中で霧が出るかもしれない。潮が合わないかもしれない。川の水位が落ちるかもしれない。橋で止まるかもしれない。
十一日は、急に短くなった。
「小舟を複数使えば?」
女は俺を見た。
「使えるよ。金があれば」
「高い?」
「帰りが空なら」
またそこだった。
帰り荷。
「北から炉晶と毛織物は出せます」
口にしてから、すぐ言い直す。
「いや。出せる物はある。ただ、持ち主が別です。俺の荷じゃない」
女は初めて少し笑った。
「そこを分けて言えるなら、昨日よりは商売に近いね」
「昨日会ってませんけど」
「昨日来たみたいな顔してる」
どういう顔だ。
女によると、標準炉晶は塩場や燻製場で非常用燃料として需要がある。ただし毎日大量に使う物ではない。
毛織物は潮浜でも売れるが、さらに西の方が値がいい時がある。
「買い手を紹介してもらえます?」
「今は無理」
「何で?」
「あなた、買い手でも売り手でもないから」
正しい。
今日はそればかりだ。
「北の持ち主を連れてくるか、売っていい量と値段を持ってきな。それなら話す」
俺は紙へ書いた。
《大麦:最大百二十袋前後。明日積載可。ただし大型船は最短六日後。小舟二十〜三十袋。空荷帰りは高い》
海路が開いた、とは書けない。
でも一つだけ分かった。
穀物がないから無理なんじゃない。
穀物はある。
今足りないのは、空いている船と、帰りに積む荷だ。
昼を過ぎると、オグが俺を探しに来た。
「帰るぞ」
「もう?」
「客は船の時間に合わせる」
「帰りも銅貨二枚?」
オグは鼻で笑った。
「帰りは樽運べ」
「それで安くなる?」
「もう安くしてる」
どこがだろうと思ったが、船へ戻ると本当に樽が多かった。
十二本。
俺は一本持つ。
オグが言った。
「銅貨二枚の客は半分荷役」
「最初に言ってください」
「今言った」
ティムと同じ種類が海に何人いるんだ。
船を出す前、オグが俺の縄の持ち方を見た。
「誰に教わった」
「ダグとティム」
「ティム?」
少し考えてから、嫌そうな顔をした。
「海の縄Lv1とか言ってた奴か」
話が広がっている。
「それ、どこまで行ってます?」
「知らん。昨日聞いた」
昨日。
早い。
帰りの船で、俺は海を見ながら紙を出した。
北へ戻る必要がある。
炉晶を誰が何袋出せるのか。
毛織物を誰が売っていいのか。
最初の試験なら、大船を待つより小舟二十袋の方が早いかもしれない。
でも、それも俺一人では決められない。
紙へ一行だけ書く。
《次:北へ戻る。帰り荷の持ち主を探す》
大麦百二十袋を見つけた日だった。
なのに俺が持ち帰るのは、一袋の麦でも契約書でもない。
誰に話を聞けば、二十袋を往復させられるか。
その順番だけだった。
海の道は、まだ開いていない。
でも「麦がないから開けない」ではなくなった。
次に詰まる場所が、やっと見えた。




