第139話 二台分の大麦は、川へ載せる前に減った
【本文】
サラへの返事は、思っていたより短くなった。
《大麦二台分まで。水位低下なら減らしてよい。無理に満載しない。濡れ・傷みは除く。上り運賃、荷役、東河港での積み替え費を別記してほしい》
俺が書いたわけではない。
ゼンが書いた。
俺なら最後に「お願いします」と付けたと思う。
ゼンは付けなかった。
「商売の手紙に気持ちはいらねえんですか」
俺が聞くと、第三倉庫の机で帳面を開いていたマルクが顔も上げずに言った。
「気持ちで荷が軽くなるなら、毎回泣いて頼む」
「じゃあ、いらないですね」
「いや、相手が人間だから礼儀は要る。ただ、条件の後ろに隠すな」
ゼンが封をしながら笑った。
「お前ら二人、たまに同じこと言ってるのに仲悪そうだな」
「同じじゃない」とマルク。
「同じじゃねえ」とゼン。
息は合っていた。
返事を早馬へ持たせて三日後。
俺たちはまた東河港へ向かった。
今回は荷車二台。
往路には北方の毛織物と、前回より少ない青札炉晶。さらに干し肉の燻製試作品が二箱。
燻製はリナの提案だった。
「魚を持って帰ってきたなら、逆に北の保存肉が港で売れるかもしれないでしょ」
「誰が作ったんです?」
「肉屋。私は食べただけ」
「おいしかった?」
ノアが横から割り込んだ。
「お前の分はないよ」
「なんで」
「試作品だから」
「試すなら食べる人が要る」
六歳くらいの顔で、商売の本質みたいなことを言う。
リナは無視した。
東河港までの道は、もう完全な未知ではない。
どの橋で荷を下ろすか。
どの坂で馬を休ませるか。
どの宿の井戸が浅いか。
どこで灰狼が出やすいか。
知っているだけで、体の疲れ方が違う。
ただし、知っていると油断する。
二日目の朝、俺は前に通った泥道で足を滑らせた。
荷は持っていなかった。
それでも尻から落ちた。
セトが馬の横から振り返る。
「Lv3、泥ではLv1ですね」
「船の次は泥か」
「属性が増えてます」
槍ロウが前から言う。
「笑ってる暇あるなら手ぇ貸せ。次はお前が落ちるぞ」
俺は自分で立った。
尻が冷たい。
前世でLv94だったことは、泥に何の意味もない。
東河港へ着いたのは夕方だった。
川沿いの杭に、見覚えのある平底船が繋がれている。
サラは船の上にいた。
俺たちを見るなり、手を上げるより先に言った。
「二台分は持ってきてない!」
ゼンの顔が少しだけ険しくなる。
「水位か」
「水位と、倉だ。先に見ろ」
船へ近づく。
荷台には大麦袋が積まれていた。
一見すると多い。
でも荷車二台分には見えない。
サラが船底を指した。
「下流倉では二台分用意してた。朝の時点で川尺が一段下がった。あのまま積んだら中州で腹擦る。七袋置いてきた」
「七袋で済んだなら悪くない」とゼン。
「まだある」
サラは一番端の袋を蹴った。
蹴ったと言っても軽く触れただけだ。
袋の下へ木板が一枚差し込まれている。
「こいつらは降ろす」
「何で?」とセト。
「底が湿ってる」
俺はしゃがんだ。
麻袋の下側が少し濃い色になっている。
匂いを嗅ごうとして、前に毛織物で怒られたのを思い出し、やめた。
サラが気づいた。
「嗅げよ。今回は意味あるから」
言われたので嗅いだ。
土と麦の匂い。
少しだけ、青い草みたいな湿気がある。
「腐ってる?」
「まだ。でも北まで持たせるなら混ぜたくない」
船員が四袋を別へ移した。
「雨?」とゼン。
「下流倉の床。古い板のところだけ湿気が上がってた。倉の親父は『乾かせば食える』って言う。私は買い手に黙って載せる気はない」
ゼンは何も言わず、湿った袋の口を少し開いた。
中を見て、また閉じる。
「四袋は外す」
サラが頷いた。
二台分だったはずの大麦は、川へ載る前に七袋減り、着いたあと四袋減った。
俺は荷車二台を見た。
空いている。
「思ったより減りますね」
「運ぶ前から減るんだよ」とサラ。
「道でも減る」とゼンが返す。「橋で落とす。袋破る。馬がへばる。宿で濡らす。違う減り方するだけだ」
川だから楽になるわけじゃない。
別の失敗が増える。
その夜、港の倉庫で数を数えた。
大麦は荷車一台半より少し多い程度。
サラの船はもっと積める。
でも今日の川には、これ以上を安全に載せられなかった。
上り運賃は、俺が想像していたほど安くない。
船員三人。
二日分の食事。
岸から引くための役畜代。
船着き場の使用料。
下流側の荷役。
東河港側の荷役。
さらに、湿った四袋は別計算になった。
倉の主人へ戻すのか。
安く買うのか。
乾かして港で売るのか。
ゼンとサラが話している横で、俺は紙へ数字を書いた。
途中で分からなくなった。
マルクの帳面を見て少し分かるようになったつもりだった。
知らない費用が増えると、すぐ迷子になる。
セトが俺の紙を覗く。
「これ何です?」
「たぶん運賃」
「たぶん?」
「途中までは」
サラが横から紙を取った。
十秒見て返す。
「役畜代、二回足してる」
「え」
「あと船員飯が一人分足りない」
「増えた」
「そういう顔すんな。人間は食う」
正しい。
ゼンが紙を受け取り、二本線を引いた。
「今回は安さを見る便じゃねえ」
「じゃあ何を見るんです?」
「届くかだ」
簡単だった。
川から港へ大麦が届く。
港から北へ荷車で届く。
一便の最初から最後まで切れずに繋がるか。
安いかどうかは、そのあと。
翌朝。
大麦を船から降ろした。
ここでまた時間がかかった。
袋は勝手に荷車へ飛ばない。
船から桟橋。
桟橋から計量台。
計量台から荷車。
二回持ち替える袋もある。
俺は一袋を肩へ乗せた。
Lv3になった体は前より安定している。
ただ、船と桟橋の高さが違う。
一歩目で荷が揺れた。
サラがすぐ怒鳴る。
「肩で船追うな! 足止めてから上がれ!」
「今上がろうとしてました」
「だから言った!」
怒鳴られているのに、前より内容が分かる。
船上では揺れを受ける。
桟橋へ移ったら、まず足場を固定する。
荷を動かすのはそのあと。
二袋目は少しましだった。
三袋目で、セトが後ろから言う。
「レンさん、今日船ではLv2くらいありますね」
「評価が細かくなったな」
「俺はもうLv3です」
「君の基準だろ」
サラが笑った。
全部を積み替え終えたのは、昼前だった。
俺は空になった船と、重くなった荷車を交互に見る。
一便は、まだ半分。
大麦は川を上った。
次は陸を上る。
ゼンが御者台へ乗った。
「北まで着いて初めて成功だ。浮かれるな」
「浮かれてません」
「顔が次のこと考えてる」
「それは……ちょっと」
「だから浮かれてんだよ」
否定しきれなかった。
川は一本増えた道じゃない。
川と陸を繋いで、初めて道になる。
そして今のところ、その継ぎ目が一番面倒だった。
第140話 川で安くなったのは、運賃じゃなく道の数だった
【本文】
東河港を出て半日で、最初の袋が破れた。
大事故ではない。
荷車の端に出ていた木釘へ麻袋が引っかかっただけだ。
ただ、大麦は大事故かどうかを気にしてくれない。
小さな裂け目から、粒がぱらぱら落ちた。
「止めろ!」
ゼンの声で荷車が止まる。
俺とセトが袋を押さえた。
槍ロウは道の後ろへ回り、落ちた麦を見た。
「拾う?」とセト。
「土ごと食いたいならな」とロウ。
落ちたのはほんの一握りだった。
それでも俺は、妙に気になった。
二台分から七袋減った。
四袋外した。
ここでまた少し落ちた。
数字で見ると小さい。
でも、北では一粒でも食べ物だ。
ゼンは予備袋を出した。
破れた袋ごと中へ入れる。
「止まってる方が損する。行くぞ」
俺は道へ残った麦を一度だけ見てから、荷車を押した。
二日目。
狭い石橋で荷を下ろす。
前回より袋が多い。
干し魚や豆より、大麦は同じ形の袋が続く。
運びやすそうに見える。
実際は、単調だから腕が先に疲れた。
「麦って全部同じ顔してるのに重さ違いません?」
セトが言う。
「袋詰めした人が違うんじゃない」
俺は答えながら、少し軽い袋を選んでいる自分に気づいた。
槍ロウが笑う。
「Lv3がずる覚えたな」
「配分です」
「言い方だけ強くなった」
橋の老人は、またいた。
俺たちを見るなり、今日は何も言わずに橋板を一枚外した。
「何してるんです?」
「昨日、端が鳴った。お前ら重いの持って来る前に見る」
ゼンが荷車を止める。
老人は板の下へ手を入れ、支えを確認した。
十数分。
俺たちは待った。
急いでいる。
でも橋が壊れたらもっと遅れる。
老人は板を戻すと、俺たちではなく馬に言った。
「一台ずつだ。真ん中通れ」
「人には?」とセト。
「馬の方が話聞く」
ロウが吹き出した。
橋を越えたあと、ゼンが老人へ銅貨を一枚投げた。
老人は受け取り、何も言わなかった。
正式な橋代ではない。
たぶん補修代だ。
こういう金も、帳面には後から乗る。
北方の町へ着いたのは三日目の夕方だった。
第三倉庫の前に荷車を入れる。
マルクが出てきた。
荷台を見て、最初に数えた。
「二台ないな」
「川が浅かった」とゼン。
「濡れ四袋も除外。道で一袋破れ。中身はほぼ残した」
「ほぼは数字じゃない」
「あとで量れ」
相変わらずだ。
でも、マルクの口元は少し緩んでいた。
大麦を降ろす。
粉屋も呼ばれる。
一袋を開け、粒を見る。
乾いている。
虫もいない。
匂いも問題ない。
粉屋の主人が一粒噛んだ。
「悪くない」
「それ、毎回食べるんですね」と俺。
「お前は武器買う時、振らんのか」
「振ります」
「同じだ」
麦と剣が同じになった。
リナも来た。
後ろからノアが覗く。
ノアは大麦袋を見て露骨にがっかりした。
「魚じゃない」
「毎回魚運んでたら町が猫になる」
俺が言うと、ノアは少し考えた。
「猫の町でもいい」
「よくない」
「店主が猫なら強い」
前に魚市場で見た猫の話をしたのは失敗だった。
覚えている。
マルクは荷を降ろしている間に、別の紙を出した。
「前回の東便。今日の川便。比較するぞ」
俺は少し嫌な予感がした。
売上。
往路費。
東河港までの陸送。
下流倉の大麦価格。
川の上り運賃。
下流荷役。
東河港荷役。
橋補修。
宿。
馬。
護衛。
破袋の損失。
紙の上に並べる。
「どうです?」とセト。
マルクはすぐ答えなかった。
ゼンが先に言う。
「安くはなってねえ」
俺も見た。
一袋当たりの到着費用は、東河港で直接雑穀を買った前回と大きく変わらない。
むしろ大麦の仕入れ価格まで入れると、少し高い。
「じゃあ失敗?」
俺が言うと、マルクが顔を上げた。
「何が」
「川運」
「一便で安くならなかっただけだ」
「違うんですか」
「お前らが前回港へ行った時、雑穀は一台半しかなかった」
紙の横へ別の線を引く。
「今日は、港に元からなかった大麦が届いた」
俺は黙った。
値段だけ見ていた。
マルクは続ける。
「安い道が一本より、高くても別の道がある方が死ににくい。もちろん高すぎりゃ続かん。だが今は値下げより、途切れた時に他から持って来られるかだ」
ゼンが鼻で笑う。
「お前、たまにいいこと言うな」
「帳面に書くぞ。発言料」
「やめろ」
俺は紙を見直した。
川で安くなったのは運賃じゃない。
道の数が増えた。
それも、まだ細い一本。
粉屋が大麦を持っていく。
小麦へ混ぜる割合を変えれば、次の配給でパンを少し重くできるらしい。
増量ではない。
前回減らした分を、少し戻せる程度。
リナが聞く。
「それ、何日もつ?」
粉屋は指で数えた。
「町全部なら短い。第三倉庫の担当分だけでも、次の便が遅れたらまた減らす」
具体的な日数は言わなかった。
在庫は毎日動いている。
軍も宿も工房も食べる。
マルクが俺を見る。
「で、次どうする」
俺はすぐ答えなかった。
前なら「もっと船で運ぶ」と言ったかもしれない。
でも川は浅くなる。
下流倉の在庫も無限じゃない。
サラの船も一隻。
船員も三人。
「もう一便、同じ条件で試す」
俺が言うと、ゼンが少しだけ眉を上げた。
「増やさないのか」
「増やしたいけど、増やせるか分からないです」
「まともになったな」
褒められている気がしない。
「あと、下流倉が何から大麦集めてるか知りたい」
マルクが頷く。
「そこだな」
一便通った。
でも、その一便の後ろが見えない。
下流倉に十便分あるのか。
三便で空になるのか。
来月も同じ量が入るのか。
道があっても、先に荷がなければ意味がない。
その夜。
第三倉庫の外で、セトと槍の素振りをした。
荷運びばかりで、戦闘らしいことをしていない。
だからこそ、体の確認をしておく。
Lv3になって、槍を止める位置が少し安定した。
前世の動きを再現しようとはしない。
短く突く。
戻す。
足を動かす。
セトが受けて言う。
「前より速い」
「ほんと?」
「ちょっと」
「ちょっとか」
「前世と比べて落ち込む顔するなら言いませんよ」
俺は笑った。
「しない。今はこれでいい」
本当にそう思えた。
強くなるのも、道を増やすのも、一回で完成しない。
翌朝、東河港から封書が届いた。
サラからではない。
下流倉の主人が、ゼン宛てに寄越したものだった。
内容は短い。
《次便、大麦は一台分なら確保可。二台分は未定。沿岸側から入る袋が遅れている》
俺はその一文で止まった。
「沿岸側?」
ゼンが手紙を覗き込む。
「下流の畑だけじゃねえのか」
マルクが別の帳面を閉じた。
「行って聞け」
「俺たちが?」
「誰が気にした」
俺だった。
セトが笑う。
「面倒増えて嬉しい顔してますよ」
最近、それを言われる回数が多い。
川の道を追っていたはずなのに。
その川の荷物の一部は、もっと先から来ているらしい。
第141話 川の先に、海から来た袋があった
【本文】
次の東河港行きで、俺たちは大麦を買わなかった。
正確には、買えなかったわけじゃない。
一台分なら用意できると言われていた。
でも今回は、荷車一台だけで来た。
目的が違う。
下流倉の在庫が、どこから来ているのかを見る。
ゼンは出発前に何度も言った。
「見るだけだぞ」
「分かってます」
「船買うなよ」
「買える金ないです」
「借金もするな」
「信用なさすぎません?」
横でセトが頷いた。
「ありますよ。面倒に対する信用」
いらない信用だった。
東河港でサラと合流した。
彼女は俺たちを見るなり、荷車が一台しかないことに気づいた。
「今日は食い物運ばないのか」
「下流倉見たいです」
「前に荷だけ行ったとこ?」
「沿岸側から入る袋があるって」
サラの表情が少し変わった。
「ああ、それか」
知っている顔だ。
「何です?」
「見た方が早い。明朝下る」
ゼンが聞く。
「今日じゃねえのか」
「水は時計じゃない」
「またそれか」
「まただよ」
翌朝、俺は二度目の平底船へ乗った。
今回は一時間ではない。
下流倉まで行く。
サラに言われ、最初から荷綱の確認を手伝った。
結び方は覚えていない。
前に見ただけだ。
俺が一本結ぶ。
サラが見る。
「ほどける」
やり直す。
「今度はほどけないけど、切るしかなくなる」
またやり直す。
三回目。
「遅いけど使える」
「褒めてます?」
「船ではかなり」
船では、という部分が気になる。
川を下る。
東河港の建物が小さくなる。
両岸の家が減る。
畑が増える。
途中で小さな船着き場を二つ通った。
一つでは薪を降ろしている。
もう一つでは空の籠を積んでいる。
俺が見るたびに、サラは説明しない。
聞けば答える。
聞かなければそのまま通る。
その距離感が、少しありがたかった。
昼前、川幅が広くなった。
風の匂いが変わる。
塩だ。
俺は顔を上げた。
まだ海は見えない。
でも川の水面が、前より広く光っている。
セトが鼻を動かす。
「魚市場の匂いします」
「お前の海の基準それか」とサラ。
「港しか知らないんで」
「じゃあ今日少し増える」
下流倉は、想像していたより大きかった。
川沿いに三棟。
その裏に低い土手。
土手の向こうへ、さらに道が続いている。
倉の主人は前に手紙を寄越した男だった。
五十代くらい。
腹が出ていて、声は小さい。
サラと真逆だ。
「北の買い手か」
ゼンが頷く。
「前便の大麦、届いた」
「そうか」
それだけ。
俺は倉庫へ入った。
大麦袋が積まれている。
前より少ない。
袋には印がある。
丸。
三角。
二本線。
文字ではない。
俺が見ていると、倉の主人が言った。
「農家の集荷印だ」
「全部この辺のですか」
「違う」
主人は一番奥の袋を指した。
そこだけ印が違う。
波みたいな線の上に、小さな四角。
「それは潮倉」
「しおぐら?」
セトが先に聞いた。
「河口の向こう。潮が入る側の倉だ。沿岸船から降ろした穀物を置く」
俺は袋を見た。
「船って、川船じゃなくて?」
主人が俺を見る。
「海を走る方だ」
胸の奥が少し動いた。
海路。
という言葉が頭へ出た。
でも口にはしなかった。
まだ袋一つだ。
ゼンが先に聞く。
「この大麦、何割が潮倉から来る」
「時期で違う。今は三割ほど。多い月は半分近い」
「沿岸船が遅れてるから、ここも減ってる?」
「それもある」
主人は一度言葉を切った。
「畑の集荷も弱い。雨がずれた。あと南の港が高く買ってる。ここだけの原因じゃない」
やっぱり一つじゃなかった。
港の噂と同じだ。
船員不足。
荒天。
南への荷流出。
値上げ待ち。
全部少しずつ本当かもしれない。
俺は波印の袋へ近づいた。
麻袋は、他と変わらない。
中の大麦も、見ただけでは同じ。
ただ、ここへ来るまでの道が違う。
畑から荷車で来た袋。
川沿いの小さな船で来た袋。
海の船から潮倉へ入り、そこからまた川へ来た袋。
同じ大麦なのに、背中に別の道を背負っている。
「潮倉、見られます?」
俺が聞くと、ゼンがすぐ横を向いた。
言うと思っていた顔だ。
倉の主人は肩をすくめた。
「道で半日。船なら潮次第」
サラが言う。
「私の船はそこまで行く時もある。ただし河口を越えて湾へは出ない」
「出られない?」
「出ない」
言い方が違った。
サラは船着き場の方を顎で示す。
「この平底で湾の横波食らったら、積み荷より先に私が泣く。川船は川で稼ぐ。海は海の船に任せる」
「海の船って、東河港まで来ないんですか」
「小さいのは来る。大きいのは河口の水深で止まる。だから潮倉で積み替える」
また積み替えだ。
川で一回。
港で一回。
海と川の境目でもう一回。
道が増えるほど、継ぎ目も増える。
倉の主人が帳面を出した。
「北へ継続して欲しいなら、潮倉だけ見ても意味はない」
「何でです?」
「船が毎回来るとは限らん。沿岸のどこから買ってるか。何月まで出るか。冬の風で止まるか。南港が値を上げたらこっちへ回すか。そこまで見て、やっと次の約束ができる」
声は小さいのに、言っていることは重い。
「じゃあ、今の一台分は?」とゼン。
「売る。約束したからな」
「次は?」
「分からん」
はっきりしていた。
俺は少し笑ってしまった。
主人が不思議そうに見る。
「何だ」
「最近、分からないって言ってくれる人が好きになってきました」
「変な奴だな」
自分でもそう思う。
午後。
倉の裏手へ回った。
土手の向こうから、遠くに白い光が見えた。
海だった。
ほんの細い帯。
大きさも何も分からない。
でも川とは違う。
水の終わりが見えない。
セトが隣へ来た。
「行きたい顔してます」
「今回は見るだけ」
「ゼンさんに言います?」
「言わなくても分かってると思う」
そのゼンは、少し後ろでサラと話していた。
聞こえてきた。
「海の船頭、知ってるか」
「知ってるよ。仕事するかは別」
「北の食い物運ぶ話、聞くだけ聞ける奴」
「一人いる。偏屈。前金好き。人の夢嫌い」
「レンと相性悪そうだな」
「だからいいんじゃない?」
俺は振り返った。
「聞こえてますよ」
サラが笑う。
「じゃあ隠さなくて済んだ」
「会えるんです?」
ゼンが先に手を上げた。
「まだ会わねえ」
俺は口を閉じた。
「次の一台分を北へ持って帰る。川便をもう一回通す。下流倉の在庫がどう動くか見る。その間に、潮倉の荷量と運賃だけ聞く」
「海は?」
「そのあとだ」
少し残念だった。
でも、前みたいに無理に押したいとは思わなかった。
川船に乗って分かった。
知らない乗り物には、知らない失敗がある。
海なら、もっとある。
サラが土手へ腰を下ろした。
「安心しろ。海は逃げねえよ」
「穀物は逃げますけどね」とセト。
倉の主人が遠くから言った。
「値段が合えば南へ逃げるぞ」
全然安心できない。
夕方、東河港へ戻る船へ乗った。
今回は大麦一台分だけ。
俺は荷綱を一本任された。
三回結び直した前と違い、二回目で通った。
サラは結び目を引っ張る。
「まあ、切らずにほどける」
「評価上がった?」
「川ではLv2」
「まだ3じゃないんだ」
「数字好きだねえ、あんたら」
セトが笑った。
船が上流へ向く。
振り返ると、海の光はもう土手の向こうに隠れていた。
海路はまだ始まっていない。
海へ出てもいない。
海の船頭にも会っていない。
潮倉すら見ていない。
ただ、大麦一袋の印を追ったら、川の先に海があった。
それだけで十分だった。
次に見たい場所が、一つ増えた。
第142話 二便目は、一便目より上手くいって、一袋も増えなかった
【本文】
東河港が見えたのは、予定より三時間遅かった。
でも、荷物は一袋も減っていない。
俺は船底に積まれた大麦を見て、少しだけ勝った気になった。
前の便では、濡れた袋を外し、浅瀬で荷を減らし、東河港へ着いた時には最初の予定よりずいぶん少なくなっていた。
今回は違う。
最初から一台分。
袋の間へ木片を挟み、擦れる場所へ古布を入れ、荷綱も二重にした。
俺が結んだ縄は、サラに一度しかやり直させられなかった。
一度は、やり直した。
「顔が得意そうなのが腹立つな」
舵を握ったまま、サラが言う。
「前は三回でした」
「回数で成長を測るな。ほどけなきゃいいんだよ」
「でも一回ですよ」
「はいはい。川の縄Lv2」
セトがすぐ横から口を出した。
「この前もLv2でしたよね。上がってないじゃないですか」
「うるさいな」
サラが笑った。
船はそのまま、ゆっくり岸へ寄った。
上手くいった。
少なくとも、荷物だけ見れば。
ただし、着くのは遅れた。
午前中、二度も竿で底を探りながら進んだ。
一度は船を岸寄りへ寄せ、船員二人と俺とセトまで川へ降りた。
膝より少し下まで水へ入り、太い曳き綱を引いた。
冷たかった。
そして川底の石は、見た目よりずっと滑る。
俺は二歩目で足を取られた。
転ばなかった。
前なら転んでいたかもしれない。
ちょっと嬉しくなった直後、セトが横で派手に尻まで浸かった。
「冷たっ!」
サラの船員が笑う。
俺も笑った。
セトはずぶ濡れのまま俺を睨んだ。
「笑いましたね」
「ごめん。先に笑った」
「絶対あとで言いますからね」
「誰に」
「北の人全員に」
そんな報告はいらない。
低水位の場所を抜けるまで四十分。
積み荷は守れた。
代わりに時間を使った。
東河港へ着いて、ゼンが最初に聞いたのもそこだった。
「何袋落とした」
「ゼロです」
俺が答えると、ゼンは少しだけ眉を上げた。
「破袋は」
「ゼロ」
「濡れ」
「なし」
「遅れ」
サラが答えた。
「三時間」
ゼンはすぐ真顔に戻った。
「じゃあ、上手くなっただけだな」
「それ大事じゃないですか」
「大事だ。だが水位は増えてねえ」
正しかった。
二便目は、一便目より上手くいった。
でも一袋も多く運べていない。
むしろ今日は最初から積載を減らしている。
俺たちが縄を覚えても、川底は深くならない。
船員が上達しても、水は増えない。
荷崩れを減らしても、低水位の日は低水位のままだ。
港の荷役が袋を降ろし始める。
ゼンは帳面を開いた。
俺は横から覗く。
「また見るのか」とゼン。
「最近、数字も少し好きになってきました」
「病気だな」
「マルクさんに言ったら喜びますよ」
「だから言うな」
帳面には、前便と今回が並んでいた。
積載量。
船員数。
川を下った時間。
上った時間。
岸引きした区間。
積み替えに使った人数。
東河港から北方までの荷車代。
俺が見ていると、一つ増えた項目に気づいた。
《北側荷受け人員》
「これ何です?」
ゼンは荷役を見ながら答えた。
「マルクから来た」
北方からの手紙だった。
第三倉庫で、東便の荷受けが増えている。
炉晶と毛織物を出す。
食料を受ける。
仕分ける。
配る。
今までは倉庫番と臨時人足で回していた。
でも便数を増やすなら、それだけ人が要る。
「倉庫が足りない?」
「人だ。倉庫はまだ詰めれば入る。人間は詰めても二人分働かねえ」
確かに。
「川だけ増やしても駄目なんですね」
「道は両端も道だ」
ゼンが言った。
その言い方は覚えておこうと思った。
たぶん格好いい。
本人はもう荷役へ怒鳴っていた。
「その袋、右だ! 豆の荷台へ置くな!」
格好いい時間は短かった。
港の荷役頭が、空になった船を見ながらゼンへ聞いた。
「次も明後日か?」
ゼンは首を振った。
「まだ決めねえ。北で受け取った後の人数を見てからだ」
「船は空くぞ」
「北が詰まったら、こっちが運べても同じだ」
荷役頭は少し不満そうだった。
仕事が増えると思っていたのかもしれない。
その横では、粉袋を運んでいた少年が「明後日空くなら漁網直し行ける?」と別の男へ聞いている。
物流の人間は、俺たちの便だけのために存在しているわけじゃない。
ここで船便を一つ増やせば、誰かの仕事が一つずれる。
北でも同じだ。
倉庫の人足を増やすなら、別の場所から人が減る。
俺は帳面の《北側荷受け人員》をもう一度見た。
「多く運べればいい、じゃないんですね」
ゼンは手を止めずに言った。
「多く運ぶのは簡単だ。続けるのが面倒なんだよ」
最近、面倒という言葉が褒め言葉みたいに聞こえてきた。
たぶんよくない。
大麦一台分は、今日中に北へ向かうことになった。
荷車二台。
一台は大麦。
もう一台は、東河港で買い足した干し魚と豆、それから戻りの飼料。
俺は当然、一緒に戻るつもりだった。
だから荷車の縄を確認していたら、ゼンが後ろから言った。
「お前、残れ」
振り返った。
「俺?」
「他に潮倉見たがってる奴がいるか」
セトが手を上げかけて、俺と目が合うと下ろした。
「今ちょっと迷いました」
「上げていいよ」
「北帰る方が飯いいんで」
ひどい理由だ。
ゼンは続ける。
「俺は荷車で戻る。セトも戻す。サラの次の下りに、お前だけ乗れ」
「一人で?」
「サラと船員がいるだろ。潮倉見て、荷量と運賃と止まる条件だけ聞け。船を買うな。契約するな。英雄になるな」
最後だけ範囲が広い。
「海の船頭には?」
「会えたら話は聞け。ただし約束すんな」
「分かりました」
「ほんとか?」
「たぶん」
「そこは言い切れ」
サラが少し離れたところで笑った。
「安心しろ。海の連中は、こいつが約束したくても先に断るよ」
「そんなに?」
「川の人間より性格悪い」
「自分で川の人間って言ってるのに」
「だから分かる」
よく分からない理屈だった。
夕方。
北へ向かう荷車を見送った。
大麦一台分。
量だけなら小さい。
でも今までは、俺が全部について行っていた。
炭焼き道も。
東河港も。
下流倉も。
荷物が北へ行くなら、自分も行くものだと思っていた。
今日は違う。
荷物だけが行く。
俺は残る。
道が俺なしで一回動く。
それが少し不思議だった。
サラが横で言った。
「何見てんだ」
「ちゃんと着くかなって」
「お前が乗ってても橋は橋だし、狼は狼だ」
「そうなんですけど」
「じゃあ任せろ。道ってのは、作った奴が毎回歩かなくても使えるから道なんだろ」
今度こそ、格好いい言葉だった。
「それ、覚えていいです?」
「金取るぞ」
ロウさんと同じことを言う人が増えた。
翌朝。
俺は北ではなく、川下へ向かう船に乗った。
二便目の大麦は北へ。
俺は、その大麦が来たもっと先へ。
同じ日に、道が二つへ分かれた。
第143話 潮倉は、海が開けたり閉めたりする倉庫だった
【本文】
潮倉へ着いた時、俺は最初、どれが倉庫なのか分からなかった。
建物はある。
低い石造りが四棟。
屋根は潮風で白っぽくなっている。
でも一番目立つのは倉庫じゃない。
泥だった。
広い。
とにかく広い。
川の水が海へ開くところで、岸が何十歩も先まで黒く光っている。
その向こうに、船が一隻止まっていた。
いや、止まっているというより、少し傾いていた。
「座ってる?」
俺が言うと、サラが吹き出した。
「干潮だ。底ついてるだけ」
「船って底ついていいんですか」
「船による。あれは平気な造り。でかい船は沖で待つ」
俺が知っている港は、船が水に浮いている場所だった。
ここは違う。
海が引くと、船まで地面になる。
潮が来ると、また港になる。
「営業時間、海が決めてるみたいですね」
「だいたいそう」
サラは簡単に言った。
俺は簡単に飲み込めなかった。
潮倉の前では、荷役たちが休んでいた。
働いていない。
袋も動いていない。
俺が見ていると、倉番らしい女が「今運んでも船まで担げねえよ」と言った。
年は五十前後。
首に短い紐を巻き、そこへ鍵を七本ぶら下げている。
「潮待ちですか」
「潮と船待ち。今日は両方」
「沿岸船、遅れてるって聞きました」
「一隻来た。半分だけ」
女は沖を指す。
さらに遠く。
泥の向こうに、水が残っている。
その先に帆柱が見えた。
小さく見えるのに、サラの平底船よりずっと高い。
「半分って?」
「積む予定の半分。残りは向こうの港で取れなかった。南が高く買ったのもあるし、船員一人寝込んだのもあるし、昨日まで風が悪かったのもある」
また原因が一つじゃない。
俺は少し安心してしまった。
最近、理由が一個だと逆に疑うようになっている。
倉庫の中を見せてもらった。
波印の大麦袋。
豆。
塩。
干した海藻。
樽。
空箱。
それから、何も置いていない広い区画が二つ。
「ここ空いてますね」
「明日入る予定だった魚油が三日遅れた」
「空いてるなら穀物置ける?」
「荷が来ればな」
倉庫の空きと、荷物があるかは別だった。
倉番の女は帳面を開く。
潮倉へ入った大麦は、先月より四割近く少ない。
でも毎日同じように減っているわけではない。
船が来た日に一気に増え、何日か減り続け、また増える。
川沿いの倉庫とは動き方が違う。
「北へ定期で欲しいなら、月で見るな」と女が言った。
「何でです?」
「月の合計が同じでも、十五日何も来なくて十六日目に山ほど来ることがある。腹は十六日まで待つのか?」
待たない。
「じゃあ何で見るんです?」
「船ごと。季節ごと。あと倉の余裕。欲張るなら三つ全部」
俺は帳面を見た。
数字がまた増えた。
でも今回は少し面白い。
一日ごとじゃない。
船ごとに波がある。
ゲームなら、固定の店在庫じゃない。
天候と潮と船の動きで市場の在庫が変わる。
買いに来る日を間違えるだけで、同じ場所なのに何もない。
やっている側は大変だろうけど、遊ぶなら面白そうだ。
俺はその考えを口にしなかった。
たぶん倉番に怒られる。
昼過ぎ。
海が戻り始めた。
最初は泥の溝へ細い水が入る。
次に、それが繋がる。
さっき地面だったところへ、水面が伸びていく。
荷役たちが一斉に立った。
さっきまで寝転んでいた男まで、急に早い。
「来るぞ!」
倉番の女が叫ぶ。
何が、とは誰も聞かない。
潮だった。
サラまで動き出す。
「レン、邪魔しない場所へ——いや、手空いてるならこっち来い」
「どっちです?」
「今決めた。こっち」
俺は走った。
沖で待っていた沿岸船から、小さな渡し舟が二艘来る。
大きい船は潮倉の浅い岸まで入れない。
渡し舟へ積み替え、そこから倉へ運ぶ。
また積み替えだ。
海から川まで一本の線を想像していた自分が恥ずかしくなる。
実際は継ぎ目だらけだ。
一艘目には大麦。
二艘目には塩樽。
渡し舟が岸へ触れる前から、荷役が位置を取る。
板を渡す。
袋を担ぐ。
縄を投げる。
俺も一袋持とうとした。
「二人持ち!」
倉番に怒鳴られた。
「持てます」
「お前が持てるかじゃない。板が揺れる!」
言われて、隣の荷役と二人で持つ。
一歩目。
板が沈む。
二歩目。
渡し舟が少し離れる。
足元が動く。
川船より小さい揺れなのに、怖い。
俺は袋じゃなく、先に足を見る。
前世なら力で運んでいたかもしれない。
今は一歩ずつ。
岸へ着く。
降ろす。
もう一袋。
三往復目で、荷役の男が俺に言った。
「海初めてか」
「まだ海に乗ってないです」
「じゃあ泥初級だな」
何の級だ。
その直後、俺は本当に泥へ片足を突っ込んだ。
くるぶしまで沈んだ。
抜こうとすると靴が残る。
男が笑う。
「泥初級」
腹が立つ。
でも反論できない。
潮は待ってくれない。
荷役たちは笑いながらも手を止めなかった。
俺も靴を救出して戻った。
途中、渡し舟の一艘で縄が絡んだ。
船頭が怒鳴る。
荷役が返す。
誰も俺に説明しない。
でも見ているうちに分かってくる。
潮が上がっている時間は長くない。
高くなりすぎる前に、大きい船は向きを変えたいらしい。
遅れれば次の潮まで待つ。
待てば船員の給金も、倉の場所も、次の予定もずれる。
一袋の遅れが、一袋で終わらない。
最後の大麦袋が倉へ入った時、倉番の女が砂時計を見た。
「四分余り」
サラが言う。
「今日は早い」
「寝込んでた奴が一人戻ったからな」
人が一人増えただけで四分。
俺は息を整えながら、倉の前に積まれた大麦を見る。
荷車なら一台半くらい。
海船はもっと持っている。
でも今日ここへ降りたのは、その一部だけ。
北へ欲しいのは、この先からだ。
「この大麦、北へ回せます?」
倉番の女は即答しなかった。
帳面を見る。
別の紙を見る。
「三分の一なら、今の値なら」
「残りは?」
「先約。東河港と南の商人」
「北が高く買ったら?」
「買えるかもしれん。でも毎回競り上げたら、お前ら自身が首締めるぞ」
それも正しい。
高く買えば一便は取れる。
でも次も高くなる。
食料の道を作りたいのに、価格を壊してどうする。
俺は大麦袋から目を離した。
さっきの沿岸船が、少しずつ沖へ向きを変えている。
帆が上がる。
甲板に一人、こっちを見ている男がいた。
サラが顎を上げた。
「あれ」
「何です?」
「昨日言った偏屈」
「海の船頭?」
「ダグ。前金好き。人の夢嫌い。あと他人の予定も嫌い」
「何が好きなんですか」
サラは少し考えた。
「予定どおり入る金」
分かりやすい。
「今日、話せます?」
「降りてくれば」
ダグはまだ船の上だった。
そして潮は、船を岸から離し始めている。
俺は海を見た。
会いたい相手が目の前にいるのに、水が間にある。
白嶺では山が道を決めた。
ここでは海が、会話の時間まで決めていた。
第144話 海の船頭は、俺の夢より空荷を気にした
【本文】
ダグが岸へ来たのは、日が傾いてからだった。
船ではない。
小さな渡し舟で一人だけ降りてきた。
サラの話から、もっと怖い顔を想像していた。
実際は普通だった。
五十くらい。
髪に白いものが混じっている。
背は俺より少し低い。
片手に帳面。
もう片手に、食べかけの硬いパン。
夢を嫌いそうには見えない。
俺がそう思った直後、ダグはサラに言った。
「そいつが北の夢か」
やっぱり嫌いそうだった。
「人を夢って呼ばないでください」
「じゃあ北の荷主か」
「まだ荷主でもないです」
「なら何だ」
困った。
サラが横で笑っている。
「面倒の入口」
「増やすな」
ダグは俺の顔より、背後の倉庫を見た。
「何台欲しい」
いきなりだった。
「食料ですか」
「他に何の話する」
「最初は二台か三台分くらいから——」
「一回か。十回か。毎月か」
止まる。
「まずは試験で」
「試験の次」
まだ決めていない。
ダグはパンを一口かじった。
俺の答えを待っているようで、急かさない。
それが逆に困る。
「北では今、白嶺街道が閉じて、南からの麦が止まってます。東河港から陸路、下流倉から川路までは試しました。海側から入る大麦があるなら、供給源を増やせるか知りたい」
「知りたい、じゃ船は動かん」
「はい」
「いくら払う」
「運賃を聞いてから——」
「何を帰りに積む」
「炉晶と毛織物」
「誰が買う」
「東河港では買い手があります。沿岸側はまだ」
「じゃあ空荷だ」
早い。
「売れるかもしれないです」
「海で『かもしれない』を積むと、帰りの船が倉庫になる」
ダグは帳面へ何か書いた。
俺には見せない。
「穀物はどこから買う」
「そこもこれから」
「量は」
「これから」
「出港日は」
「これから」
「荷役は誰が」
「……これから」
ダグが初めて俺を見た。
「で、何が決まってる」
「北で食べ物が足りない」
自分で言って、弱い答えだと思った。
でもダグは笑わなかった。
帳面を閉じる。
「それは決まってるな」
「はい」
「なら次」
話を終わらせられなかった。
意外だった。
サラが倉壁へ寄りかかる。
「珍しい。三問で帰ると思った」
「今日は潮待ちだ」
「暇だから?」
「暇は仕事だ」
海の人は、待つことを仕事にするらしい。
ダグは地面へしゃがみ、指で簡単な線を引いた。
潮倉。
沿岸の小港。
さらに南の大きな港。
「今、こっちの大麦が高い」
南の港を指す。
「だから売り手はそっちへ持っていきたがる。北へ回したいなら、値段で勝つか、別の物を戻すか、船の空きに入るかだ」
「船の空き?」
「全船が毎回満載じゃない。帰り荷が薄い便はある。そこへ乗せれば運賃は下げられる。ただし、お前らの都合のいい日に空くとは限らん」
川と同じだ。
空いている場所を探す。
荷車でも。
川船でも。
海船でも。
「じゃあ、空く便を教えてもらえれば」
「誰に」
「俺たちに」
「毎回?」
「できれば」
ダグが嫌そうな顔をした。
「連絡代払え」
「そこも金なんですね」
「船より先に人が動く」
また正しい。
俺は少し考える。
「帰り荷の買い手が沿岸側にいれば?」
「話は早くなる」
「炉晶は?」
「使う町はある。だが俺は買い手じゃない。毛織物も同じ。積んでから売り先探すなら、その倉賃は誰が払う」
「俺たち」
「じゃあ値崩れしても?」
「俺たち」
「濡れたら?」
「保管の仕方次第?」
「答えを質問で返すな」
怒られた。
サラが声を出して笑う。
「川でも同じことやってたぞ、こいつ」
「海まで持ってくるな」
二人ともひどい。
でも、話は続いた。
ダグが出した条件は、契約じゃなかった。
契約の前に調べてこい、だった。
沿岸側で大麦を継続して売れる場所。
そこが出せる最低量と、出せない季節。
北から返せる貨物の買い手。
潮倉までの荷役費。
海が止まった時、北が何日耐えられるか。
最後だけ物流の話に見えなかった。
「何日耐えられるかって?」
「海は止まる」
ダグは普通に言った。
「嵐じゃなくても止まる。向かい風、霧、船員の病気、帆の破れ、港の混雑。定期便って名前つけても、海は名前読めない」
「じゃあ定期便は無理?」
「無理じゃない。止まる前提で作れ」
その言葉に、少しだけ胸が動いた。
一つの完璧な道を作るんじゃない。
止まる道を、止まる前提で繋ぐ。
炭焼き道。
東河港陸路。
川運。
海。
全部が細くても、同時に全部止まらなければいい。
そう考えると、海だけを大きくする必要もない。
「北へ、海一本で食わせる必要はないのか」
思わず口に出た。
ダグが眉を上げる。
「一本にする気だったのか」
「ちょっとだけ」
「山で懲りてないな」
俺は黙った。
白嶺街道。
一本の便利な道が、町を作り、国を繋ぎ、最後には弱点にもなった。
海路を見つけた途端、また一本にしたら同じだ。
前世の自分に怒られそうだ。
いや、前世も俺だけど。
サラが俺の顔を覗く。
「何か思い出した顔」
「ちょっとだけ」
「話す?」
「今はいいです」
「じゃあ聞かない」
その返しがありがたかった。
ダグは立ち上がった。
「話は終わりだ」
「え、もう?」
「夢の話は嫌いなんだろ、俺」
「自分で言うんですか」
「サラが言いふらすからな」
サラは悪びれない。
俺は焦って聞いた。
「海の船、乗せてもらえませんか」
ダグの足が止まる。
「荷主でもないのに?」
「見るだけでも」
「客は乗せん」
即答だった。
やっぱり駄目か。
「荷役なら乗せる」
顔を上げた。
ダグは続ける。
「明後日、潮が合えば東の小湾まで空樽を取りに行く。片道半日。戻りは魚粉と塩。穀物便じゃない」
「乗れる?」
「働くなら。給金なし。飯は出す。吐いても掃除は自分」
サラが笑う。
「最初の海としてはちょうどいいじゃないか」
俺はすぐ頷きかけた。
その瞬間、ゼンの顔が頭に浮かぶ。
契約するな。
約束するな。
英雄になるな。
乗るな、とは言っていない。
でも、勝手に決めていいかは別だ。
「返事、明日でもいいですか」
ダグが少しだけ笑った。
ほんの少し。
「聞けるようになったんだな」
初対面なのに、サラと同じことを言われた。
「成長したらしいです」
「じゃあ明日の満潮まで。返事なければ別の手を使う」
ダグは渡し舟の方へ歩いていった。
俺はその背中を見送る。
海路は、まだない。
穀物を運ぶ契約もない。
買い手も足りない。
売り手も決まっていない。
明後日の船だって、食料船じゃない。
ただ。
海へ出る入口だけは、目の前に置かれた。
しかも客としてじゃない。
荷役として。
俺は手のひらを見る。
川の縄で硬くなり始めたところがある。
次は海の縄かもしれない。
その前に、北へ聞くことが一つ増えた。
――海へ行ってもいいか。
前の人生なら、たぶん聞く前に乗っていた。
今の俺は、少しだけ違った。




