第127話 友達だから、戦う場所を一つにした
【本文】
朝、最初に届いたのは勝報じゃなかった。
「北方軍、本隊の移動を確認。崩落候補帯の外へ出ています」
夜明け前から北を見ていたシンが、会議所へ入るなり水差しを掴んだ。報告より先に飲み始めたので、ユリウスが一度待った。シンは三杯目でようやく息をつく。
「破砕台車も下がった。負傷者の荷車が先。その後に歩兵。戻ってきた数は、今のところゼロです。……俺、今日だけで坂何往復したと思います?」
「数えてない」と俺が言うと、シンは心底嫌そうな顔をした。「そういうところですよ」
北方軍は約束を守った。
だから次は、こっちが守る番だった。
会議所の壁には三つの札が並んでいる。
《町側》
《南側》
《北側》
町側の保護境界はユリウスとガラン。南側閉鎖点はオルザと南口の工兵二人。西細道にはエダンが避難係を連れて入り、ミオは各地点の地図と通告時刻を一本に揃える。
最後まで空いていた北側の欄へ、俺は自分の名前を書いた。
今度は誰も止めなかった。
代わりにエダンが、俺の名前の下へ自分の名前を書いた。
「いや、そっちは西細道だろ」
「最初だけ一緒に行く。北の状態見たら戻る」
「忙しくない?」
「お前に言われたくない」
ミオも横から炭筆を取ったが、名前は書かなかった。北側の欄の横へ小さく《地図・連絡》とだけ足す。
「私まで行ったら町側と南側の情報が切れるから、ここにいる。でも勝手に通信切らないで」
「切ったことあったっけ」
「三回」
「覚えてない」
「だから四回目になりそうで嫌なの」
ユリウスが机を指で叩いた。「出発前に、もう一度条件を確認します。北方軍は危険域外。南側にも同時刻で最終退避通告済み。西細道は晴天なら使用可能。町側の保護境界は未固定。北と南も未固定。どこか一つでも条件が崩れたら中止です」
「分かってる」
「レン。あなたの『分かってる』は行動確認になりません」
朝から管理が細かい。
でも、もう嫌じゃなかった。
北門を出た時、白嶺の道は妙に広く見えた。荷車がいない。商人がいない。兵も少ない。十一年かけて人で埋まった街道が、昔みたいに地面へ戻っている。
途中の崩落候補帯には白布が何本も立てられていた。ミオが昨夜のうちに作らせた退避標識だ。北方兵はその外側まで下がっている。
本当に、旧監視所だけだった。
石造りの小さな監視所。屋根は半分崩れ、昔なら誰も欲しがらなかった場所に、北方兵が六人いた。
その前にカイルが立っている。
「六人か」と俺が言う。
カイルは肩をすくめた。「教えないと言った」
「見れば分かる」
「来る人数まで隠すほど器用じゃない」
エダンが横で小さく笑った。こっちは俺、エダン、白嶺守備兵四人。人数まで同じだった。
ただし、誰も剣を抜いていない。
カイルが俺の後ろを見た。「ミオは?」
「町」
「来ると思っていた」
「地図が三か所同時だから無理。あと、俺の監視より仕事を選んだ」
「それは正しい」
友達同士の会話みたいだった。
実際、友達なんだと思う。
それでも、俺たちは同じ入口を挟んで立っていた。
旧監視所の床下に、北側閉鎖点がある。そこを固定できなければ、白嶺側が決めた防衛機構は動かせない。
カイルが先に口を開いた。「本隊は下げた。六時間前の通告も受けた。負傷者も出した。ここから先は、約束の外だ」
「うん」
「だから退かない」
「俺も取る」
しばらく風の音だけになった。
カイルの後ろにいた年配の工兵が、寒そうに鼻をすすった。エダンが俺の隣で足場を見ている。たぶん戦いになった時、誰がどこへ動くか数えてる。
俺も数えた。
六対六。
ここで全員がぶつかれば、たぶん勝てる。俺たちには地形を知るエダンがいる。白嶺守備兵も強くなった。
でも、勝ったあと何人立っているかは分からない。
カイルも同じことを考えたらしい。
「レン。一人でやるか」
「……決闘ってこと?」
「格好をつけたいわけじゃない。六人ずつで斬り合う意味がない」
北方兵の一人が何か言いかけた。カイルは振り返らず片手を上げる。「俺が負けたら監視所から下がれ。崩落候補帯へ戻るな。これは命令だ」
今度は俺の後ろがざわついた。
エダンが俺を見る。「勝手に受けるなよ」
「受けようとしてた」
「知ってる。だから言った」
俺は少し考えた。
決闘で町の未来を決めるのは違う。白嶺が使うと決めたことは、もう住民判断で決まっている。ここで決めるのは、その実行をどれだけ血を出さず進められるかだ。
「条件追加」と俺は言った。「俺が負けても、こっちは町へ戻る。今日は再突入しない。白嶺の決定自体は取り消さない」
カイルはすぐ頷いた。「それでいい。次に来るなら、また止める」
「面倒だな」
「お互い様だ」
エダンが深く息を吐いた。「二人とも、そこだけ息合うのやめてくれない?」
監視所の前を空けた。
剣を抜く。
カイルも抜く。
十一年前、北方で初めて一緒に戦った時は、横に立って同じ魔物を見ていた。
今は正面にいる。
「死ぬなよ」とカイルが言った。
「決闘前に言う?」
「殺す気はない」
「俺も」
「なら始めるぞ」
合図はなかった。
カイルが踏み込んだ。
最初の一撃で、昔より速いと分かった。
剣を合わせる。重い。俺は右へ流し、半歩入る。カイルはそこへ肘を置いていた。
読まれてる。
腹へ来た肘を避けたら、今度は足を払われた。石へ手をついて転がる。
「お前、それ昔やらなかっただろ」
「十一年あれば増える」
「こっちも増えてるよ」
立つ前に低く踏み込んだ。カイルが剣を下げる。その一瞬だけ刃の外へ出て肩を当てる。二人で崩れかけた壁へぶつかった。
石が一個落ちた。
後ろで年配工兵が「そこは壊すな!」と怒鳴る。
俺とカイルが同時に「ごめん」と言った。
エダンが頭を抱えていた。
そこからは喋る余裕がなくなった。
カイルは正面から強い。剣を受けるたび手が痺れる。昔みたいに力で押し切るだけじゃない。俺が地形を使うのを知っているから、壁際へ追い込まない。逆に広いところへ出そうとする。
俺は広い場所が嫌だった。
足元に古い排水溝がある。左側だけ石が三センチ低い。昨日なら気づかなかったかもしれない。でも今は、道を見る癖が抜けない。
一歩だけ誘う。
カイルが追う。
剣が来る。
受けずに下がる。
カイルの左足が低い石へ入った。
体がほんの少し沈む。
それだけだった。
でも、その少しで剣先がずれた。
俺は内側へ入って手首を打つ。
カイルの剣が石の上を滑った。
俺の剣先は、カイルの喉元で止まった。
息がうるさい。
俺も。カイルも。
しばらく動けなかった。
「……そこ見るか」とカイルが言った。
「道だからね」
「決闘で排水溝を見る奴、初めて見た」
「褒めてる?」
「嫌味だ」
カイルはゆっくり両手を上げた。
「負けだ」
北方兵たちはすぐ動かなかった。
悔しい顔をしている。泣きそうな若い兵もいた。でも年配工兵が最初に剣を収め、「命令だ」と低く言う。
一人ずつ下がった。
カイルは最後まで残った。
俺が剣を収めると、彼も地面の剣を拾ったが、鞘へ戻した。
「これで北が飢えたら、俺はお前を恨むかもしれない」
「うん」
「お前も、俺が白嶺を攻めたことを忘れなくていい」
「忘れない」
それ以上、綺麗な言葉は出なかった。
カイルが一歩下がる。
俺たちは旧監視所へ入った。
床板を外す。第124話で推定した通り、下には半円形の石輪がある。北側閉鎖点。ガランが写した記号と一致する。
エダンが町へ向けて合図旗を上げた。
《北側確保》
遠く、白嶺側から旗が返る。
《町側準備》
さらに南の中継点から、《南側準備》。
三地点が初めて同じ時間に揃った。
俺は石輪へ手をかける。
「固定するぞ」
エダンが頷く。「一人でやるなよ」
「二人いるじゃん」
回した。
重い。
古い石の中で、何か大きなものが擦れる音がする。半分。もう半分。
最後まで回した瞬間、石輪の奥で低い音が鳴った。
北側の印が白く灯る。
成功。
そう思った。
次の音は、床の下じゃなかった。
監視所の背後。
山の中から。
ドン。
一度。
もう一度。
規則的に、重い何かが歩いてくる。
エダンの顔から笑いが消えた。「レン。これ、機械の音じゃないよな」
「たぶん機械だけど、歩いてる」
壁の奥で、十一年前から何度も見てきた古代刻印が赤く灯った。
石が割れる。
中から、四本脚の巨大な影が頭を出した。
岩に見えた装甲の隙間で、青白い光が走る。
視界の端に、一行だけ出た。
【防衛プロトコル:未認証存在を排除】
「今それ来る!?」
俺が叫んだ時、外から剣を抜く音がした。
下がったはずのカイルが戻っていた。
「昔から、お前といると予定通り終わらないな」
「戻ってこなくてよかったのに!」
「俺の監視所でもある」
「もう負けたでしょ!」
「それとこれは別だ」
古代守護個体が前脚を振り上げる。
俺とカイルは、ほとんど同時に左右へ散った。
十一年前と同じだった。
敵が違って。
守るものも違って。
さっきまで斬り合っていたことだけが、全然同じじゃなかった。
第128話 道を閉じたあとに、残ったもの
【本文】
古代守護個体の前脚が、旧監視所の壁を半分持っていった。
石と木片が飛ぶ。
「監視所守るんじゃなかったの!?」と俺が叫ぶと、カイルは転がりながら「装置に言え!」と返した。
正しい。
あれは北方軍でも白嶺でもない。たぶん、何百年も前に決められた命令だけを守っている。
未認証存在を排除。
対象は俺たち全員。
エダンが崩れた壁の外へ飛び出し、白嶺守備兵を下げる。「近づくな! 北の人も下がって! 巻き込まれる!」
北方の年配工兵も同じことを叫んでいる。
結局、前に残ったのは俺とカイルだった。
「共闘ってことでいい?」
「今さら確認するな」
古代守護個体が向きを変える。
四脚。高さは馬より少し上。頭らしい部分は低く、背中に半円形の装甲。刃を当てても表面が削れるだけだった。
カイルが正面を取る。「関節は?」
「前脚の内側。光ってるとこ」
「届くか」
「止めてくれたら」
「簡単に言う」
「昔、もっと無茶な頼みしたじゃん」
「覚えてるから嫌なんだ」
守護個体が突っ込む。
カイルは正面から受けなかった。ぎりぎりまで引きつけ、崩れた柱の横へ流す。俺は背後へ回り、前脚の内側へ剣を差し込んだ。
硬い。
でも装甲とは違う。
一度抜く。
二度目。
青い光が跳ねた。
守護個体が脚を振り、俺の体が壁まで飛ばされる。
息が抜けた。
「レン!」
「生きてる!」
言った直後、咳が出た。たぶん格好は悪い。
カイルが笑う余裕もなく、守護個体の注意を引いている。
俺は立つ。
昔なら、強い敵を見たら倒し方だけを考えた。
今は違う。
北側閉鎖点は固定済み。その石輪の周りを守護個体が避けている。踏まない。壊さない。
守ってる。
「カイル! 石輪の前!」
「何だ!」
「こいつ、装置は壊さない!」
カイルが一瞬だけ目を動かした。それで理解した。
二人で位置を変える。
俺が右。カイルが左。
守護個体を石輪の手前へ誘う。
突進。
カイルが最後の瞬間に横へ跳ぶ。
守護個体は止まった。
いや、止まらざるを得なかった。
前脚だけが急制動し、重い背中が前へ乗る。
装甲の継ぎ目が開く。
「今!」
俺とカイルの剣が同時に入った。
金属でも石でもない音がした。
守護個体が大きく傾く。
最後の前脚がカイルへ落ちた。
俺は肩からぶつかって押し出す。
代わりに剣が挟まれた。
嫌な音。
刃の中央に細いひびが入った。
「うわ、最悪」
カイルが地面から俺の顔を見た。「今、俺より剣を見たな」
「十一年使ってるんだぞ」
「俺より長いな」
「比較するところじゃない」
守護個体はまだ動いた。
後脚が地面を掻く。
カイルが落とした剣を拾い直し、俺はひびの入った剣を構える。
今度は言葉がいらなかった。
右へ行く癖も、カイルが踏み込む距離も知っている。
さっきの決闘では、それを読むために使った。
今は合わせるために使う。
カイルが前へ出る。
俺が遅れて入る。
守護個体の首元が開く。
二本の剣が交差した。
青白い光が消えた。
巨体が倒れる。
しばらく、誰も動かなかった。
カイルが最初に座り込んだ。「決闘のあとにこれは聞いてない」
「俺も」
「お前と友達やめたら減るか?」
「たぶん別の面倒が来る」
「じゃあいい」
息を整えながら、俺たちは笑った。
その笑いは長く続かなかった。
北側石輪の白い光が点滅している。
エダンが戻ってきて覗き込み、「これ、急かしてない?」と言った。
たぶんそうだった。
町側と南側の準備が揃ったという信号が、石輪の溝へ流れている。
カイルが立つ。「行け。ここはもう邪魔しない」
「北は?」
「俺が考える」
「一人で?」
「お前に言われたくない」
同じことを今日、エダンにも言われた。
俺は剣を鞘へ入れようとした。ひびが引っかかって、途中で止まる。
カイルがそれを見て眉を上げる。「折るなよ」
「縁起悪い」
「先に言ったのはお前だ」
俺たちはそこで別れた。
抱き合いもしなかった。
また会う約束もしなかった。
戦争が終わったわけじゃないから、その方が普通だった。
白嶺へ戻る途中、エダンが俺の隣を走った。「カイル、何て?」
「北は俺が考えるって」
「雑だな」
「俺もそう思った」
「レンと似てきたんじゃない?」
「それは本人に言って」
町へ入ると、空気が変わっていた。
人が少ない。
広場の露店は畳まれ、診療所の前には避難用の荷物だけが積んである。西細道へ向かう列はもう動き始めていた。
ミオが会議所前で待っていた。
俺を見るなり、剣のひびを見た。
「何したの」
「ちょっと挟まれた」
「何に」
「古代の四本脚」
「何それ」
「あとで説明する」
ミオは怒るかと思ったが、先に紙を渡してきた。
《町側 固定可能》
《南側 固定可能》
《北側 固定済》
三つ揃っている。
「北、固定したの?」
「した。あと、なんか起きた」
「それは見れば分かる」
北の方からまだ砂埃が上がっていた。
中央制御室へ入ったのは、俺、ミオ、エダン、ユリウス、ガランの五人。シンは西細道の連絡役。オルザは南側に残った。
町側境界を固定する。
ガランが古い環をゆっくり回した。市街を囲む刻印が一つずつ灯る。地図に引いた保護線と完全一致ではない。三か所だけ内側へずれた。
「止めますか」とユリウスが聞く。
ミオが地図を確認する。「住宅は入ってない。北倉庫の外壁だけ線上。中は空にしてある」
「条件一は?」
「満たす」
俺たちは続けた。
南側から合図。
《固定》
中央の石盤に、北と南の二本の白線がつながった。
最後に中央。
まだ動かせる。
まだやめられる。
ユリウスが全員を見る。「住民決定は有効。退避条件、現時点で成立。北南双方へ通告済み。西細道運用中。異論があるなら今です」
誰も格好いいことは言わなかった。
ガランが「腹減った」と呟いた。
ミオが「私も」と返した。
エダンは「終わったら鍋残ってるかな」と言った。
俺はちょっと笑った。
「じゃあ、終わらせよう」
中央の把手を押す。
最初は、何も起きなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
山の奥で、低い音が走った。
地面が揺れる。
壁の古代刻印が一斉に白くなる。
中央石盤へ文字が浮かんだ。
【北端固定:成立】
【南端固定:成立】
【市街保護境界:成立】
【閉鎖工程:開始】
成功した。
そう思った直後、一番下に赤い文字が出た。
【北端保持圧:低下】
「何?」
ガランが石盤へ飛びつく。「待て、これ……戻り止めが死んでる」
「戻るの?」
「北端が戻ったら閉鎖線がずれる。どっちへずれるか分からん」
それは駄目だ。
市街へ入るかもしれない。西細道を食うかもしれない。
「止められる?」とミオ。
ガランは首を振った。「もう開始してる。中央を戻したら、途中でどこが止まるか分からん。北側の保持輪を手で押さえ続けるしかない」
「どれくらい」
「閉鎖が走り切るまで」
「何分」
「知らん!」
今度の揺れは大きかった。
天井から砂が落ちる。
北へ通じる内部通路で、石扉が半分下りた。
ガランが顔色を変える。「保持輪はその先だ」
俺が走った。
ミオが腕を掴む。「待って。戻れるの?」
見れば分かる。
通路の天井に、閉鎖進行を示す白い線が走っている。石扉は少しずつ下りている。中へ行けば、戻る前に閉まる可能性が高い。
「分かんない」
「じゃあ行かないで」
「行かなかったら北端が戻る」
「別の人でもできる」
それはそうだった。
俺じゃなきゃできない装置じゃない。
エダンが一歩出る。「俺が行く」
「西細道は?」
「補助員いる」
「地元の崩れ方分かるの、エダンだろ」
「だからって」
ユリウスも口を開く。「役割論で決める時間ではありません。誰が残っても同じです」
「同じじゃない」
自分でも、少しだけ驚くくらいすぐ言葉が出た。
俺が見つけた。
俺が開いた。
でも、だから俺のものだとはもう思っていない。
町が決めた。
みんなで逃げ道を残した。
だったら最後に必要な一人を、また町へ押し返すのは違う気がした。
「俺、行く」
ミオの手が強くなる。「それ、理由になってない」
「うん。たぶん半分しかなってない」
「じゃあやめて」
「でも、行きたい」
「そういうところ、本当に嫌い」
「知ってる」
「知らないでしょ」
揺れで言葉が途切れた。
石扉がまた少し下がる。
ガランが叫ぶ。「決めろ! あと十秒もない!」
俺はミオの手を外した。
無理やりじゃない。指を一本ずつ外した。
「地図、見てて」
「そんなの言われなくても見る」
「うん」
「戻ってきたら、今日の北側、全部描かせるから」
「量多くない?」
「嫌なら戻ってきて」
それには答えられなかった。
俺は通路へ滑り込む。
後ろでエダンが何か叫んだ。聞き取れない。
石扉が落ちた。
暗い。
白い線だけが床を走っている。
奥へ進むと、巨大な保持輪があった。北側で回したものより大きい。半分戻りかけている。
両手をかける。
重い。
押し戻す。
少し動く。
また戻る。
足を石の継ぎ目へかけて、体ごと押した。
白い線が一つ戻った。
【北端保持圧:回復】
よし。
でも、手を離すとまた落ちる。
「本当に手動じゃん」
誰もいないので独り言になった。
揺れが続く。
遠くで岩が割れる音がした。
白嶺街道が、落ち始めている。
保持輪の軸から火花が出た。
腕が痺れる。
何か支えが欲しい。
俺は腰の剣を見る。
やめた方がいい気はした。
カイルの「折るなよ」が、すごく嫌なタイミングで頭に浮かぶ。
「ごめん」
鞘から抜く。
ひびの入った刃を、保持輪と床の石溝へ噛ませる。
体重をかける。
一秒。
二秒。
刃が持つ。
手を離して位置を直す。
その瞬間。
パキン。
軽い音だった。
十一年使った剣は、思ったより簡単に折れた。
上半分が保持輪の奥へ入り、下半分だけが手に残る。
「……マジか」
悲しいより先に、カイルに何て言われるんだろうと思った。
そのあとで、もう言われない可能性に気づいた。
ちょっと遅い。
折れた刃の上半分は歯車の間に食い込み、奇跡みたいに保持輪を止めていた。
俺は下半分を握ったまま、もう一度両手を添える。
石盤は見えない。
でも床の白線が一本ずつ消えていく。
北。
南。
中央。
最後まで。
ものすごい音がした。
山全体が、息を吐いたみたいだった。
街道の下が抜ける。
遠くの振動が足裏へ届く。
一度、二度、三度。
そのたびに床が傾く。
白線が市街側で止まった。
西側の細い一本だけが、消えずに残った。
ミオの道だ。
「残った」
誰も聞いていない。
それでよかった。
保持輪の白い光が消える。
役目が終わった。
同時に、天井が落ちた。
避ける場所はなかった。
痛みは一瞬だった。
視界が暗くなり、音が遠くなる。
最後に見えたのは、折れた剣の先が古代の歯車に残っているところだった。
全部は持っていけない。
そういうゲームだった。
暗闇の中に、薄い表示が出た。
【魂留め】
【救命可能時間:短】
知っている表示だ。
昔、別のプレイヤーで見た。
待った。
誰か来てほしいとは思った。
でも、上では山が落ちている。
来るな、とも思った。
矛盾したまま時間が減る。
【救命経路:確認できません】
【完全死亡へ移行します】
白嶺の市長でも英雄でもない。
持っていた土地も装備も、もう俺のものじゃない。
レベルも消える。
十一年ちょっとの時間だけが、記憶に残る。
次の表示が出た。
【人生記録から魂印候補が生成されました】
【《先導》】
説明は短かった。
前に立つことじゃない。
全員が帰れる道を作り、進む人を支える記録。
俺は笑った。
「今さら名前つくんだ」
選ぶ。
【魂印《先導》を刻みます】
白い文字が消えた。
完全に、何もなくなった。
――次に最初に感じたのは、寒さだった。
石の床が背中に冷たい。
知らない天井。
知らない匂い。
誰かが近くで、「起きられるか」と言った。
目を開ける。
年配の女性が、毛布を持って立っていた。
服に見覚えのない紋章がある。
その後ろの壁に、《北方第三転生院》と書かれた木札。
俺はしばらく読めなかった。
読めたあと、もっと困った。
「……北?」
女性が笑う。「そうだよ。魂迎えは初めてかい」
初めてに決まってる。
いや。
この人生では、初めてだ。
俺は手を上げた。
知らない手だった。
若い。
力の入り方も、指の長さも、全部違う。
視界の端に、小さな表示が出る。
【Lv 1】
【魂印:《先導》】
白嶺を閉じた次の日。
俺は、その道の北側で十八歳の体になっていた。
第129話 閉じた道の北側で、またLv1から
【本文】
起き上がろうとして、失敗した。
腹に力を入れたつもりなのに、体が思った位置まで来ない。肘をついて、そこで止まる。
転生院の女性が呆れた顔をした。「急に立つなって言う前に立てない人は珍しいね」
「前はもうちょっと動けたんです」
「魂迎えは大体それを言うよ」
毛布をもう一枚かけられた。
悔しい。
さっきまで、古代守護個体と戦っていた。カイルと決闘もした。山の装置を手で押さえていた。
今は、寝台から起きるだけで腕が震えている。
視界の端を呼ぶ。
【Lv 1】
何度見ても変わらない。
装備欄もほとんど空。技能補助も初期状態。前の人生で覚えた動きは頭にあるのに、体がその通り動かない。
「本当に全部戻るんだな」
「何が?」
女性が聞く。
「いや、こっちの話です」
「なら水飲む?」
差し出された木杯を受け取る。
手が違う。
剣だこがない。
古傷もない。
右肩を回しても、第六章で痛めた時の引っかかりがない。
それは少し嬉しい。でも、嬉しいと言うのも変な感じだった。
女性は机へ座り、厚い帳面を開いた。「動けるなら登録するよ。ここでは前の人生の身分は使えない。財産も役職も別。名前は同じものを使ってもいいし、変えてもいい。どうする」
俺は少し黙った。
柏木直人は現実の名前。
レンは、あの世界で十一年呼ばれた名前。
変えたら別の人になれるのかもしれない。
でも、今さら逃げるみたいで嫌だった。
「レンで」
「姓は?」
「ないです」
「じゃあレン。北方第三転生院で魂迎え。成人相当。身元保証は院が三十日。仕事か受入先が決まれば切り替え」
女性は淡々と書く。
英雄だったとか、白嶺を守ったとか、一行もない。
俺は少し安心した。
「前の身分、ほんとに何も付かないんですね」
「付けたいの?」
「いや」
「ならよかった。たまに前世の爵位を三時間説明する人いるから」
「いるんだ」
「いる。だいたい食堂の順番は早くならない」
ちょっと笑った。
そういうところは、転生しても普通なんだな。
登録が終わると、薄い服と靴、それから小さな革袋を渡された。中には数日分の食券と、転生院から町までの簡単な案内図。
地図を受け取った瞬間、反射で裏返した。
女性が不思議そうに見る。「何か足りない?」
「縮尺が書いてない」
「町まで一本道だからいらないよ」
「途中の水場は?」
「……魂迎え初日に地図へ文句言う人、初めて見た」
俺は謝った。
院の廊下へ出る。
窓の向こうは北方だった。
見覚えはある。
でも、俺が知っている北方の町から少し離れているらしい。低い石造りの家、乾いた風、倉庫へ続く広い道。南より木が少ない。
そして遠くに、白嶺が見えた。
白い峰は変わっていない。
違うのは、その麓だった。
いつも見えていた街道の線がない。
途中で、消えている。
胸が変なふうに詰まった。
俺がやった。
分かっていた。
白嶺側にいれば、町が残ったことを先に見るはずだった。西細道へ避難できた人を見て、たぶん正しかったと思えた。
こっちから見ると、最初に見えるのは消えた道だった。
廊下の向こうから大声がする。
「だから今日の便は来ないって言ってるだろ!」
「昨日まで通ってたんだぞ!」
「山が落ちたんだよ!」
三人くらいが受付で揉めていた。
一人は荷運び人らしく、空の荷札を握っている。もう一人は粉屋の前掛け。残りは院の職員。
俺は立ち止まった。
粉屋の男が机を叩く。「南麦が止まったら、来週の粉どうする。倉庫は軍へ回した分で減ってるんだ」
職員が困った顔で答える。「ここで言われても道は戻らないよ」
「戻せって言ってるんじゃない。どこから持ってくるか聞いてる!」
昨日まで、白嶺で聞いていた言葉と似ている。
でも向きが逆だった。
俺は何も言わず通り過ぎようとした。
今ここで「白嶺側にも事情があって」なんて言ったら、殴られても文句は言えない。
しかも、その事情を一番知っている人間が、今はLv1で薄い服を着ている。
玄関まで来たところで、膝が少し笑った。
女性職員に言われた通り、急に歩きすぎたらしい。
「弱っ」
口に出た。
横の長椅子にいた少年が俺を見た。十三、四歳くらい。片足に包帯を巻いている。
「兄ちゃん、魂迎え?」
「分かる?」
「その服」
なるほど。
少年は俺の革袋を指した。「食券、一枚でパン二つ。三つって言う店あるけど、昨日から二つになった」
「何で?」
「麦ないから」
もう来てる。
街道が閉じた影響が。
昨日、俺たちは人を残すために道を閉じた。
その判断は変えない。
でも、北側で困る人が出ることも、カイルはずっと言っていた。
正しさの裏側じゃない。
同じ出来事の、こっち側だ。
少年が立ち上がろうとして顔をしかめた。
俺は反射で手を出す。
「どこ行くの」
「外。迎え来る」
「足それで?」
「歩ける」
歩けると言う人ほど、だいたい歩けない。
十一年で何度も見た。
「荷物持つよ」
「兄ちゃんの方が弱そう」
「今それ気にしてるから言わないで」
少年は笑った。
荷物は小さな袋一つだった。持ち上げる。
軽い。
なのに、前の体と感覚が違って一瞬だけ持ち方を直す。
玄関を出た。
北方の風が顔へ当たる。
寒い。
昨日までよりずっと若い体なのに、寒さだけは同じだった。
少年は院の前の坂を指す。「下まで。母ちゃん来るから」
「分かった。ゆっくり行こう」
歩き始める。
十歩で気づいた。
俺の足幅が違う。
二十歩で、坂の下り方が違う。
三十歩で、前の癖のまま重心を置くと膝がぶれる。
面白い。
不便なのに、少し面白い。
知っている動きを、新しい体で一個ずつ作り直せる。
少年がこっちを見る。「何笑ってんの?」
「いや。歩くの下手になったなって」
「変な人」
そうかもしれない。
坂の下には、小さな荷車が止まっていた。
女の人が一人、車輪を持ち上げようとしている。片側が溝へ落ちたらしい。
少年が「あ、母ちゃん」と言った。
迎えに来た人が先に動けなくなっていた。
俺は袋を地面へ置く。
「押します」
女の人が俺を見る。「あんた転生院から? 無理しなくていいよ」
「俺もそう思うんですけど、三人ならたぶん」
少年が包帯の足を見せる。「俺数入ってる?」
「口だけ」
「ひど」
三人で笑った。
俺と女の人で荷車を持つ。
一回目、上がらない。
二回目、足を置く位置を変える。
前の体なら力でいけた。
今は無理。
溝の斜め前に石を置いて、車輪が上がる角度を作る。
「せーの」
今度は上がった。
荷車が道へ戻る。
たったそれだけで、腕が疲れた。
でも少し嬉しい。
女の人が礼を言い、少年を荷台へ座らせる。荷車には空の粉袋が何枚も積んであった。
「これ、粉屋?」
「そう。南から来る麦を取りに来る仕事だった。しばらく暇になるかもね」
笑って言ったけれど、目は白嶺の方へ向いていた。
俺も見る。
消えた街道。
その向こうに、ミオたちがいる。
エダンも、シンも、ユリウスも。
カイルはどこにいるんだろう。
生きているのは最後に見た。でも、その後は知らない。
今すぐ白嶺へ行きたい気持ちはあった。
西細道なら、場所も知っている。
前の俺ならたぶん行った。
でも今の足では、院の坂だけで膝が笑う。
少年の母親が荷車を引きながら聞いた。「兄ちゃん、この辺の人じゃないよね。これからどうするの」
「まだ決めてないです」
「仕事探すなら、今は荷運びが足りないよ。道が変わって、みんな別の運び方探してるから」
道がなくなって、荷運びが足りない。
ちょっと変な話だ。
俺は革袋から、転生院でもらった雑な地図を出した。
縮尺なし。
水場なし。
町まで一本道。
今朝は文句を言った。
でも、地図の端には知らない線が何本もある。
東へ行く道。
北の集落へ伸びる細道。
さらに外へ続く、途中で紙から切れている道。
少年が荷台から身を乗り出す。「兄ちゃん、地図好きなの?」
「俺じゃなくて、友達が好きだった」
言ってから、過去形みたいで嫌だった。
「……今も好きだと思う」
少年はよく分からない顔をした。
それでいい。
俺は地図を畳む。
白嶺へ戻る方法を探すのは、今日じゃない。
まずこの体で、町まで歩けるようになる。
それから、北で何が足りなくなったのかを見る。
荷車の女の人が坂の下から振り返った。
「レン! 来るなら乗る?」
登録したばかりの名前を、初めてこの人生で呼ばれた。
俺は一瞬遅れて返事をした。
「行きます。……でも押す方で」
「何で?」
「Lv1なんで、鍛えたい」
女の人は意味が分からず首を傾げた。
少年だけが笑った。
俺は荷車の後ろへ回った。
白嶺を閉じた翌日。
北側で最初にやったことは、英雄らしいことじゃなかった。
溝から上げた荷車を、町まで押すことだった。
第130話 荷運びの仕事が増えたのに、荷物は来なかった
【本文】
荷車を町まで押し切った時には、腕が笑っていた。
膝じゃない。今度は腕だ。
昨日までの俺なら、この程度の坂で疲れるなんて考えもしなかった。新しい体は、こっちが覚えている「普通」を一個ずつ裏切ってくる。
「兄ちゃん、顔赤いよ」
荷台の少年が楽しそうに言った。
「寒いから」
「さっき暑いって言ってた」
「成長期なんだよ」
「十八くらいに見えるけど」
痛いところを突く。
少年の母親が笑いながら荷車の柄を下ろした。「あんたたち、道の真ん中で漫才しない。そういえば名乗ってなかったね。私はリナ。こっちはノア」
「レンです」
「それは知ってる。院の坂で三回呼んだからね」
そうだった。
町は、転生院から見た時よりずっと騒がしかった。
大通りの端に荷車が並び、倉庫の扉が開きっぱなしになっている。人は多いのに、妙に荷物が動いていない。
空の荷車だけがある。
逆に、道の反対側の倉庫には黒い炉晶箱や毛織物の束が積み上がっていた。
南へ出す物は余っている。
南から来るはずだった物がない。
リナは粉屋の裏へ荷車を入れながら、俺の視線に気づいた。「変でしょ。仕事がなくなった人もいるのに、荷運びを探してる店も増えてる」
「どういうことです?」
「白嶺を越す長距離便は止まった。でも町の中で、残ってる麦をどこへ回すとか、別の村から何袋持ってくるとか、そういう短い仕事が急に増えた。荷車は余ってるのに、人手が足りない場所もある」
「面倒な壊れ方したな」
「道って一本なくなるだけで、みんな同じ困り方するわけじゃないのよ」
リナはさらっと言った。
胸に刺さる言い方だったが、本人にそんなつもりはない。
それが少し助かった。
粉屋の入口には小さな板が掛かっていた。
《本日のパン券 一人二個まで》
ノアが荷台から指をさす。「昨日言ったでしょ。前は三つだった」
「明日は一個にならないといいな」
「兄ちゃん働いて麦持ってきてよ」
「責任重くない?」
「パン一個分」
軽いのか重いのか分からない。
リナが粉屋の中へ荷札を持っていく間、俺は通りの向かいにある掲示板を見た。
《臨時荷役 半日》
《東丘集落 乾豆回収》
《北倉庫 炉晶箱積み替え》
《近郊小麦 買付補助》
《護衛経験者求む》
仕事は、ある。
前の人生の俺なら、たぶん一番下を見た。
護衛。知らない道。外へ出る仕事。
今は腕が震えている。
まず半日だ。
「それ、やるの?」
戻ってきたリナが俺の指先を見た。
「荷役。転生院の保証が三十日しかないんで」
「ああ、それなら向こうの第三倉庫。マルクって人が仕切ってる。口悪いけど、給金はごまかさない」
「褒めてます?」
「半分くらい」
ノアが荷台から身を乗り出す。「母ちゃん、もう半分は?」
「口が悪い」
「全部じゃん」
第三倉庫は、大通りのいちばん端にあった。
入口で怒鳴っている男がいたので、誰がマルクか聞く必要はなかった。
「その炉晶箱、粉倉へ持っていくな! 腹が減って石を焼いて食う気か!」
四十代くらいの大男が、若い荷役二人を追い返している。
俺が近づくと、男はこっちを一度見て、首から下まで見直した。
「魂迎えか」
「今日です」
「帰れ」
早い。
「人手募集って」
「今日生えた足で二十キロ担いで倒れられる方が邪魔だ。院で寝てろ」
「二十キロ担がない仕事なら?」
マルクの眉が動いた。
倉庫前には、麦袋より小さい乾豆の袋が十数個、床に置かれていた。そばに一輪の手押し車がある。
俺はそれを指す。「あれ、運ぶだけならできます」
「担げないから車に逃げるのか」
「担ぐ必要がないなら」
「言うじゃねえか」
マルクは口の端を上げた。「一袋、奥の棚まで。落としたら帰れ」
袋を持ち上げる。
重い。
思っていたより重い。
見栄を張って肩へ上げようとして、一回やめた。
マルクが鼻で笑う。「ほら見ろ」
「今のは確認です」
「何を」
「無理な持ち方を」
手押し車を寄せ、袋の端だけを持ち上げて載せる。前の体の癖で腕だけ使わず、膝を曲げる。
それでも腰が危ない感じがしたので、さらに袋の下へ板切れを差し込んで梃子にした。
マルクが黙った。
一袋だけ載せ、ゆっくり押す。
倉庫の床には小さな段差がある。
前輪を正面から当てると止まる。斜めに切って片側ずつ上げる。
奥の棚まで運んだ。
戻ると、マルクは腕を組んでいた。
「誰に教わった」
「前の人生で、荷物を運ぶ仕事を少し」
嘘ではない。
街道を作って、荷馬車を何千台も見た。
自分が荷役だったわけじゃないけど。
「前の人生の自慢を始める奴は嫌いだ」
「俺も今日、転生院で聞きました」
「何を」
「爵位を三時間説明しても食堂の順番は早くならないって」
マルクが一拍置いて、声を出して笑った。
「院のババア、まだそれ言ってんのか」
知り合いらしい。
そのまま半日の仕事が決まった。
給金は銅貨で前払い半分、終わったら残り半分。転生院の食券がある俺には十分だった。
「安いって顔するなよ」とマルクが言う。
「まだ顔に出してません」
「魂迎え初日の奴は相場知らねえから、だいたい同じ顔する」
「じゃあ安いんですか」
「普通だ。だから文句があるなら相場覚えてから来い」
妙に納得した。
やったことは地味だった。
乾豆を棚へ移す。
空箱を畳む。
炉晶箱と毛織物を南向け倉庫から出し、長期保管側へ積み直す。
白嶺便の荷札を外し、行き先未定の札へ替える。
一時間で腕が痛くなった。
二時間で手のひらに赤い筋ができた。
三時間目、俺は袋の持ち方を変えた。
四時間目には、最初より少しだけ楽に動けた。
途中、同じ列で働いていた年配の男が俺の手を見て、布切れを投げてよこした。
「巻いとけ。初日の豆は手の皮まで食う」
「豆が?」
「袋がだよ。冗談まで説明させんな」
俺は礼を言って手のひらへ巻いた。
男は名前も言わず、次の箱を持っていった。
たぶん明日会わなくても困らない人だ。
でも、こういう人が倉庫を回している。
白嶺でもそうだった。町が大きくなるほど、名前を知らない誰かの仕事で一日がつながっていた。
今度は俺が、その名前を知られない側にいる。
少しだけ新鮮だった。
視界の端に小さな表示が出る。
【荷重移動の動作記録が更新されました】
レベルは上がらない。
技能名も増えない。
でも、足を置く位置にほんの少しだけ補助が入る。
この感じ、懐かしい。
最初の人生でも、うまくいった動きを繰り返して、少しずつ体の方が覚えていった。
「ニヤニヤすんな。気持ち悪いぞ」
隣で箱を畳んでいたマルクが言った。
「ちょっと楽しくなってきました」
「荷役で?」
「体が昨日より言うこと聞くんで」
「魂迎えってのは変なのが多いな」
休憩になった。
パンは本当に二個だった。
豆の煮汁と、固いチーズが少し。
マルクはパンを千切りながら、倉庫の壁に貼った大きな地図を見た。
白嶺へ向かう太い線には、赤い×が付いている。
「南麦が止まった。町の備蓄は軍へ回した分もあって薄い。かといって北の農村から全部吸ったら、冬を越せねえ」
「近い村から少しずつ?」
「みんなそれを考えてる。考えてるから道が足りねえ」
マルクはパンで地図を指した。「大荷車が通れるのはこことここ。どっちも遠回り。昔の炭焼き道なら東丘まで半日だが、荷車一台通すのがやっとだ」
「使ってないんですか」
「昨日、空で試した。途中の斜面で車輪が落ちた」
「壊れた?」
「車輪がな。人は無事。だから今日は誰も行きたがらん」
俺は地図へ近づいた。
一本道じゃない。
細い線が何本もある。
使えるか分からない道、昔使われた道、途中で消えた道。
第一人生の最初を思い出した。
地図の端を見ると、どうしても行きたくなる。
ただ今回は、その先にあるのが未知の遺跡じゃない。
豆と麦だ。
「明日、その炭焼き道を見に行く人います?」
マルクが俺を見る。「さっきまで腕震えてた奴が何言ってんだ」
「見るだけなら」
「荷車押すんだぞ」
「一台なら」
「お前、荷運びを舐めてるだろ」
「今日ちょっと尊敬しました」
マルクは嫌そうな顔をした。
でも完全には嫌じゃなさそうだった。
倉庫の外で、鐘が鳴った。
夕方の配給時刻らしい。
通りのパン屋に列ができる。
白嶺を閉じたことで困っている人たちが、今日の分を買うために並んでいた。
俺はその列を見てから、もう一度地図を見る。
前の人生では、道がないから作った。
今度は、道が一つ消えたあとから始まる。
マルクがため息をついた。
「明朝。東門。遅れたら置いてく」
「行けるんですか」
「俺じゃねえ。リナが行く。粉屋の便が止まって暇になったからな」
知っている名前が出た。
ちょっと安心する。
マルクは残りのパンを口へ放り込んだ。
「東丘で取れるのは乾豆と雑穀が少しだ。町一つ救う量じゃねえ。勘違いすんなよ」
「分かってます」
たぶん。
まだ一日目だ。
大きな答えを出すには早すぎる。
でも、パン一個分くらいなら動かせるかもしれない。
それで十分、明日行く理由になった。
第131話 近道は、荷車一台ぶんしかなかった
【本文】
翌朝、東門で待っていた荷車を見て、俺は少しだけ後悔した。
小さい。
昨日の粉屋の荷車より一回り小さい。
それなのに、車輪だけ妙に太い。
「何その顔」
御者台の横で縄を結んでいたリナが言った。
「もっと頼もしい荷車を想像してました」
「炭焼き道に大荷車入れたら、頼もしいまま谷へ落ちるよ」
「説得力あるな」
「昨日落とした人が言ってた」
それは聞きたくなかった。
ノアはいない。足を休ませるため親戚の家に置いてきたらしい。
代わりに荷車の後ろで、痩せた若い男が車輪を蹴っていた。灰色の帽子を深くかぶっている。
リナが顎で示す。「荷車屋のロウ。車輪が壊れた時の保険」
「人を保険って呼ぶなよ」
ロウは蹴るのをやめずに返した。「俺は車輪を見る。荷は持たない。魔物が出たらもっと持たない」
「何で来たんです?」
俺が聞くと、ロウは真顔で言った。「昨日壊れた車輪、俺が直したから。もう一回壊れたら腹立つだろ」
理由が職人だった。
三人で出発した。
門番が荷札を見て「帰りに食える物載せてきてくれよ」と冗談半分に言った。
リナは手を振りながら「期待すると薄い粥になるよ」と返す。
門番は「昨日より濃けりゃいい」と笑った。
町の空気は重いのに、誰も朝から悲壮な顔だけで生きているわけじゃない。
町を出てしばらくは平坦な道だった。
朝の霜が残り、荷車の跡が白くつく。
新しい体で長く歩くのは初めてだ。
昨日より足は軽い。
ただ、前の感覚で速度を上げると息が先に切れる。
リナが振り返った。「レン、最初から張り切ると帰り死ぬよ」
「死ぬって言葉、魂迎えの翌日に軽く使わないでください」
「あ、ごめん」
「いや、本気で謝られるともっと困る」
ロウが横で吹き出した。
炭焼き道へ入ると、景色が変わった。
道幅は荷車一台と人一人ぶん。
右は低い岩壁。左は斜面で、下に細い沢がある。
昔の車輪跡が二本、土へ浅く残っていた。
最近はほとんど使われていない。
百歩ほど進んだところで、リナが荷車を止めた。
「昨日落ちたの、ここ」
見ればすぐ分かる。
左側の轍だけ、土の色が違う。
崩れた跡に新しい砂利を入れてあるが、端が柔らかい。
俺はしゃがんで指を入れた。
中が湿っている。
「沢の水が下を通ってる?」
「たぶんね。昔の排水溝が詰まってるってロウが」
「たぶんじゃない。詰まってる」
ロウは岩壁の根元を指した。「ここから染みて、路肩の下へ抜けてる。上だけ固めてもまた沈む」
三人で黙った。
荷車一台ぶんしかない道で、片側が沈む。
嫌な問題だ。
「戻る?」とリナ。
聞き方が、戻りたい人の声じゃない。
俺は荷台を見る。
今は空だ。
帰りには雑穀を積む。
空で通れても意味がない。
「荷車だけ通さない方法は?」
ロウが眉をひそめる。「どうやって荷物運ぶんだよ」
「ここだけ人で運ぶ。荷車は軽くして、問題の場所を一台ずつ越す」
「帰りは袋を全部下ろすって?」
「面倒ですけど」
リナが笑った。「昨日のマルクに似てきたね。便利より先に面倒を数える顔」
「嫌だな、それ」
「褒めてる」
たぶん半分くらいだ。
路肩へ近づかないよう、荷車の右車輪を岩壁ぎりぎりへ寄せる。
そのままだと車軸が壁へ当たるので、ロウが小石をどけた。
俺は前から引き、リナが後ろから押す。
一度、左車輪が沈みかけた。
反射で荷車を持ち上げようとして、腕に痛みが走った。
「無理!」
思わず声が出る。
リナが笑いながら怒鳴った。「分かってる! 力でやるな!」
昨日までなら、たぶん持ち上げていた。
今は無理だ。
だから前輪の向きを切る。
岩壁側の車輪を先へ進め、荷車そのものを斜めにする。
ロウが後ろから木片を差し込む。
三人で少しずつ動かした。
抜けた。
たった十歩進むのに、十五分かかった。
「帰りもこれやるの?」
俺が聞くと、リナは即答した。「荷物あるからもっとかかる」
「聞かなきゃよかった」
その先は、逆に楽だった。
炭焼き小屋の跡が何度かあり、道も固い。
途中で鹿の群れを見た。
ロウが「肉」と呟き、リナが「今追ったら帰り置いてくよ」と返した。
俺は少しだけ追いたかった。
三時間ほどで、東丘の小さな集落へ着いた。
家は十数軒。
畑の大半は刈り取りが終わり、低い石垣の内側に藁が積まれている。
リナが顔見知りの家を回る。
戻ってきた時、表情は明るくなかった。
「雑穀、七袋なら出せるって」
「七袋だけ?」
「だけって言わないの。こっちも冬越すんだから」
言われて、口を閉じた。
そうだ。
町が困っているからといって、近くの村の食料が急に余るわけじゃない。
家の前にいた老人が、こちらを見ながら言った。「町の連中は倉があると思っとる。畑は倉じゃないぞ」
リナが「分かってるよ」と返す。
「分かってる顔じゃない」
「昔からこの顔」
「なら仕方ない」
会話が雑だ。
たぶん昔からの知り合いだ。
結局、七袋のうち四袋だけ買うことになった。
三袋は集落側の予備に残す。
代わりに町から塩と灯油を次便で持ってくる約束をした。
荷物を積む前、俺は袋を一つ持ってみた。
昨日の乾豆より重い。
「一人でやる?」とリナ。
「今、過去の俺が一人でいけるって言いました」
「今のレンは?」
「二人でお願いします」
素直になった。
二人で持てば普通に載る。
それだけのことだった。
帰路、例の沈み込みで全部の袋を下ろした。
四袋を道の安全側へ運び、空荷で荷車を通し、もう一度積む。
一袋目で面倒だと思った。
二袋目で腕が痛くなった。
三袋目でロウが「俺は荷を持たない」と言いながら端を持った。
四袋目で全員黙った。
荷車が無事に通ったあと、リナが地面へ座り込んだ。
「これ、毎日やる仕事じゃないね」
「ですね」
ロウも隣に座る。「排水直す方が先だ。二日くれれば木樋入れられる」
「じゃあ道直せる?」
俺が聞くと、ロウは首を振った。「一台ならな。広げるなら斜面削る。斜面削ったら上が崩れる。大荷車は無理」
一台なら通る。
でも、一台しか通らない。
町を食わせる量には足りない。
それでも、ゼロよりはいい。
帰り道の途中、灰色の小型獣が二匹、沢の向こうを走った。
俺は反射で腰へ手をやった。
剣はない。
リナがそれを見た。「何してるの」
「昔の癖」
「今持ってるの、縄だけだよ」
「縄で戦えるかな」
「やめて。麦より先に魂迎え直されたら寝覚め悪い」
冗談に聞こえたので、今度は笑えた。
町へ戻った頃には日が傾いていた。
門を通った時、通りの子供が荷台を見て「麦?」と聞いた。
リナが「雑穀。しかも四袋だけ」と答える。
子供は少し残念そうな顔をしたあと、「粥になる?」と聞き直した。
「なるよ。薄いかもしれないけどね」
それで満足したらしく、子供は走っていった。
四袋の雑穀を見たマルクは、喜ぶより先に数を数えた。
「四か」
「四です」
「少ねえな」
「行く前に町一つ救わないって言ったの、マルクさんです」
「覚えてやがったか」
マルクは一袋の口を開け、中を確認した。
「でも今日の粥にはなる」
夕方の配給所へ一袋だけ回すことになった。残りは粉屋と病人向けの備蓄。
列の最後にいた男が「四袋しかないのか」と文句を言い、そのすぐ後ろの女が「四袋も持ってきたんだろ」と言い返していた。
どっちも間違っていない。
俺たちは聞こえないふりをして荷車を片づけた。
それくらいの成果だった。
ロウが排水修理の話を始める。
リナは次便の塩と灯油を帳面へ書く。
俺は壁の大地図へ、炭焼き道の危険箇所を細く書き込んだ。
地図はミオほど綺麗には描けない。
線が少し曲がった。
「お前、地図下手だな」
マルクが言う。
「友達が上手すぎたんです」
「なら任せりゃよかったのに」
「今ここにいないんで」
一瞬、言葉が止まった。
でも今日は昨日ほど苦しくなかった。
マルクはそれ以上聞かず、別の紙を俺の前へ置いた。
《東河港・試験便》
町から東へ二日。
小荷車三台。
目的は穀物商との買付交渉と帰路確認。
護衛付き。
報酬は普通の荷役より高い。
その下に赤字で、《街道不安定・魔物報告あり》とある。
「明日出る。今の道だけじゃ足りんから、東の川筋を当たるらしい」
マルクが言った。
「川筋」
「水運だ。北の川を下って東の港まで繋がってる。穀物があるかは知らん。あっても値段が合うか分からん」
俺は紙を見た。
また知らない場所だ。
前の人生なら、それだけで行った。
今は理由がもう一つある。
今日運んだ四袋は、町一つには全然足りなかった。
「護衛経験、必要ですよね」
「募集にはそう書いてある」
「前の人生ならあります」
「証明できるか?」
「できません」
「じゃあ荷役枠だ」
即決だった。
「護衛もできますよ」
「Lvいくつだ」
「一です」
マルクは紙を取り上げようとした。
俺は押さえた。
「荷役で行きます」
「最初からそう言え」
ちょっと悔しい。
でも、その方がたぶん正しい。
荷車一台ぶんしかない近道を通した日。
俺は次の大きな道ではなく、川へ向かう小さな試験便へ名前を書いた。
第132話 Lv2になったのは、麦袋の後ろだった
【本文】
東河港行きの試験便は、想像していたより小さかった。
荷車三台。
御者三人。
護衛二人。
荷役が俺を入れて二人。
合計七人。
「これで買い付け?」
集合場所で思わず聞くと、先頭の御者が振り返った。
「買えるかどうかを見る便だ。いきなり二十台連れてって、帰りの橋が落ちてたら笑えないだろ」
確かに。
御者の男はゼンと名乗った。四十前後、細身で、喋る時に片目だけ細くなる。
護衛二人のうち、年上の方は荷車の横で短槍を点検している。もう一人は俺と同じくらいの見た目だが、装備はずっと良い。
俺にも武器が渡された。
短い槍だった。
「剣じゃないんだ」
呟くと、年上の護衛が聞きつけた。「荷役に剣渡す商会があったら名前教えてくれ。うちも転職する」
「前は剣だったんで」
「前の人生か?」
「はい」
「何年?」
「十一年ちょっと」
護衛は俺の薄い革鎧を見たあと、槍を見た。「じゃあ今日の人生は?」
「三日目です」
「そっちを基準にしろ」
正論だった。
ゼンが笑う。「ロウって呼べ。護衛のロウだ」
俺は一瞬、昨日の荷車屋を思い出した。
「同じ名前の人、昨日会いました」
「北じゃ珍しくない。向こうが偽物だ」
「会ったことあるんです?」
「ない」
適当だ。
もう一人の若い護衛が呆れた顔をする。「朝から新入りいじるのやめてくださいよ、ロウさん。俺はセト。先月Lv7になったばっかだから、化け物出たら一緒に逃げよう」
「護衛が言っていいんですか、それ」
「逃がすのも仕事」
こっちはたぶん本気だ。
出発した。
東へ向かう道は、白嶺街道ほど整っていない。
石畳は町を出て一時間で途切れ、そこからは固い土道になる。
荷車が三台しかない理由がすぐ分かった。
橋が狭い。
坂が急だ。
曲がり角で対向車が来ると、どちらかがかなり戻らないとすれ違えない。
でも道はある。
白嶺が消えても、世界の全部が止まったわけじゃない。
最初の半日は何も起きなかった。
俺は三台目の荷車を押したり、坂だけ前へ回って縄を引いたりした。
昨日より動ける。
一昨日よりは、はっきり動ける。
前の人生の感覚をそのまま使うと疲れるけど、今の足幅に合わせれば少し長く歩ける。
昼休み、セトが俺の座り方を見て笑った。
「年寄りみたい」
「中身はちょっと年上なんだよ」
「どれくらい?」
現実の三十九歳を言うべきか、前の肉体の二十九歳くらいを言うべきか迷う。
「説明が面倒なくらい」
「魂迎えの人、それ便利だな」
「便利じゃないよ」
「じゃあ前の人生で何してた?」
今度はもっと困った。
街道を作った。
町ができた。
戦争になった。
最後は山を落とした。
三日目の荷役が言うには重すぎる。
「道を歩く仕事」
「何それ」
「俺も今、雑に言ったと思う」
ロウが干し肉を噛みながら口を挟んだ。「旅人って言っとけ。大体合う」
「大体でいいんですか」
「名前とLv以外、大体で生きてる」
ゼンが遠くから怒鳴った。「お前は給金の計算も大体だから駄目なんだ!」
ロウが聞こえないふりをした。
午後、道が林へ入った。
地面に古い爪痕がある。
セトが先に気づき、手を上げた。
全員の会話が止まる。
護衛二人が左右へ分かれた。
俺も槍を持つ。
持った瞬間、違和感がすごい。
剣なら手の中で重さの位置が分かった。
槍は先が遠い。
体も違う。
なのに頭だけは、昔の距離で動こうとする。
林の奥で枝が鳴った。
灰狼が三匹出てきた。
大きくはない。
第一人生なら、たぶん一人で終わった。
今はLv1。
ロウが低い声を出す。「レン、荷車の内側。出るな。刺すなら俺らが止めたやつだけ」
「分かりました」
言った直後、一匹が横へ回った。
体が勝手に前へ出る。
剣の時の踏み込み。
槍を斜めに振る。
先端が遅れる。
空振りした。
足も滑った。
「うわ」
灰狼の顔が近い。
セトの槍が横から入り、狼を弾いた。
「三日目!」
「ごめん!」
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
前の人生の記憶がある分、失敗が初心者より恥ずかしい。
でも落ち込んでいる暇はない。
灰狼は荷車の馬を狙っている。
二匹をロウとセトが抑え、さっきの一匹が林側へ回る。
俺はもう前へ出ない。
荷車を見る。
坂道。
右に浅い溝。
左は木の根が多い。
三台目の車輪止めがぶら下がっている。
縄もある。
「ゼンさん、三台目だけ斜めにできます?」
「何する!」
「馬を壁側へ。荷車で幅を潰します!」
ゼンは一秒だけ見て、すぐ御者台へ飛び乗った。
説明が短くて助かる人だ。
俺ともう一人の荷役で後輪を押す。
荷車を道へ斜めに入れる。
通れる幅が、人二人ぶんまで狭くなった。
灰狼が回り込めない。
林側へ行けば木の根。
溝側へ行けば足を取られる。
セトが笑った。「これなら逃がさない方も楽!」
「逃がすの仕事じゃなかった?」
「今は逃がさない仕事!」
会話しながら、セトが一匹を刺す。
ロウが二匹目を追い払う。
残った一匹が狭い隙間へ飛び込んだ。
今度は俺も待った。
前へ出ない。
槍の先を低く置く。
狼がロウを避けてこちらへ寄る。
来る。
近い。
まだ。
前の体ならもう踏み込んでいた。
今は一歩を小さくする。
突く。
槍先が肩へ入った。
深くない。
でも狼の向きが変わる。
そこへロウが追撃した。
終わった。
息が切れていた。
腕も震えている。
倒したのは俺じゃない。
でも一回、当てた。
ロウが槍を拭きながら言う。「今の一発は悪くなかった。最初のは最悪だった」
「最初のだけ忘れてくれません?」
「無理。面白かった」
セトまで笑っている。
ゼンが馬を落ち着かせながら怒鳴った。「笑う前に荷車戻せ! 道塞いだのお前らだぞ!」
そうだった。
戦闘が終わってからの方が仕事が長かった。
斜めにした荷車を戻し、緩んだ荷紐を締め直し、驚いた馬を歩かせる。
魔物を倒した達成感より、荷車がまた動いた時の方が全員ほっとした顔をした。
夕方、小さな宿場へ着いた。
食事の前に視界の端を開く。
【Lv 1】
上がっていない。
「そんな簡単じゃないか」
独り言をセトに聞かれた。
「今日一日で上がると思ってた?」
「第一人生の序盤、もう少し早かった気がする」
「それ、何年前の記憶?」
「十一年以上前」
「美化してるんじゃない?」
あり得る。
ゲームでも、昔の苦労は勝手に短くなる。
翌日。
朝から雨だった。
道はぬかるみ、荷車の速度が落ちる。
狼は出なかったが、坂で一台が滑った。
昨日の俺なら力で止めようとしたかもしれない。
今日は最初から車輪の下へ石を噛ませ、縄を木へ回した。
セトがそれを見て「昨日より三日目じゃない」と言う。
「四日目だからね」
「成長早っ」
昼過ぎ、森が切れた。
先に水が見えた。
川だった。
白嶺の沢とは違う。
広い。
対岸までかなりある。
流れの上を、平たい船がゆっくり進んでいる。
荷を積んだ船だ。
東河港は、川沿いに倉庫が並ぶ小さな町だった。
岸には樽、塩袋、干し魚、木材。
そして、数は少ないが穀物袋もあった。
ゼンが息を吐く。「あるじゃねえか」
「全部買える量じゃないですよ」
商談を担当する男がすぐ現実へ戻した。
港の穀物商は、俺たちの話を聞いて渋い顔をした。
「北へ回せる雑穀は今なら十二台分。小麦は五台分。だが毎週は無理だ。上流側の契約が先にある」
マルクが言っていた通りだ。
ここも倉じゃない。
あるもの全部を北へ持っていけば、別の町が困る。
ゼンが値段を聞き、顔をしかめる。
白嶺経由だった頃より高い。
輸送日数も長い。
護衛代もかかる。
「それでもゼロよりはましだな」とゼン。
穀物商は肩をすくめた。「ゼロを一にするのは簡単だ。一を百にするのが金かかるんだよ」
その言い方は好きだった。
すぐ答えが出ない感じがする。
試験便は、帰りに雑穀を三台へ積めるだけ買った。
町を救う量ではない。
でも、炭焼き道の四袋よりは多い。
俺は積み込みを手伝う。
一袋。
二袋。
三袋。
新しい体はまだ弱い。
それでも持ち上げる位置が分かってきた。
足を置く。
腰を落とす。
二人で持つ時は相手の動きを待つ。
最後の袋を荷台へ押し込んだ時、視界に音もなく表示が出た。
【Lv 2】
「あ」
思わず声が出た。
隣で袋を押していたセトが見る。「何」
「上がった」
「何が?」
「Lv」
「いくつ」
「二」
セトは数秒黙ってから、真面目な顔で手を差し出した。「先輩、おめでとうございます」
「Lv7に言われると腹立つな」
二人で笑った。
戦闘の直後じゃなかった。
大物を倒した時でもない。
麦袋を積み終えたところでLv2になった。
俺はそれが少し気に入った。
帰りの準備中、川辺へ水を汲みに行った。
地図を広げる。
この川は東へ続いている。
港の先でさらに太い流れと合流し、その先は紙の端で切れていた。
近くで船頭たちが話している。
「東湾便、また一隻遅れたってよ」
「海荒れてんのか」
「いや、人が足りねえ。北向けの荷なんか今までほとんどなかったからな」
俺は顔を上げた。
ゼンが横へ来る。「気になるか」
「この川、海まで行くんですか」
「行く。だから何だ」
「いや、聞いただけです」
「今の北に海便なんか組んでも採算合うか分からんぞ。船は荷車より積めるが、港が要る。倉庫が要る。船主が要る。季節もある。海賊までいる」
次々出てくる。
答えというより問題の列だ。
ちょっと嬉しくなった。
ゼンが怪訝な顔をする。「何で笑う」
「面倒そうだなって」
「普通そこで笑わねえよ」
前にも似たことを言われた気がする。
俺は地図を畳んだ。
海へ行くと決めたわけじゃない。
まずはこの三台を北の町へ戻す。
途中の道をもう一回通る。
狼がいた場所も、滑った坂もある。
パンが二個から一個にならないうちに、今日買えた分を運ぶ。
その先で、また考えればいい。
ただ一つだけ、昨日までなかった線が頭に増えた。
白嶺ではない方向へ伸びる、水の道。
俺はLv2になったばかりの腕で、雑穀袋の縄をもう一度締め直した。




